2015年06月27日

家族への説明

東京の仕事が今日で終了、明朝の飛行機で大阪に移動する。今回は何故か大阪の方が個人面談数が多い。日本では毎回20名程度とお会いして話すのだが、大阪で面談する方は一般的にオーナー企業の社長でありその分今の日本のきな臭さに危険を感じているのかもしれない。

 

安保、実質徴兵、原発、増税、報道圧力、「まさにいつか来た道」である。こういう問題は以前からわかっていた事であり目の前にあったのだが多くの日本人は「そ、そんな事あるわけないじゃーん!」と言ってた。

 

戦争放棄(無防備都市)を訴えるけど自衛隊を認め、原発神話を信じてるふりをしながら自分の土地に作らせず、増税にはひたすらNOだけで対案もなく政府の選択肢を狭め、報道圧力に至っては「おれに関係あるの?」である。平和ボケで無責任とはこういう状態を言うのだろう、少なくとも国家運営を直に担っている官僚の方がよほど責任感がある。

 

9条だって原発だっていつの時代も学ぶ機会はあった。機会があったのに学ばずいざ目の前に来てわーわー脳みそ停止で騒いでるだけではどうしようもない。

 

何だか最近ニュージーランドの話が巷に出回っているようだ。今までは南太平洋の「コジマ!」で終わりだったのが立て続けのテレビ特集やその国家観が取り上げられるようになって皆が興味を見せるようになった。

 

徴兵はないけど国民が国家を守る意識は明確で国連軍として参加するNZ陸軍は毎年外国で戦死者を出しているが国民はそれを当然の義務として理解して盛大な葬式をやってくれる、原発の危険さをよくわかってるから原発は作らず使わず持ち込まず非核三原則を徹底的に貫いている。

 

増税は大嫌いだが理論的に説明されれば受け入れる。消費税は15%である。マスコミは強い。政治と常に距離を置いて政治家を呼び出したインタビュー番組がよくあるけど、司会者がジョン・キーと同等のレベルで議論をしている。日本の国会のような猿の引掻きあいではない(笑)。ジャーナリストとしての勉強の素地が全く違う。要するにすべてが現実的なのだ。

 

僕の奥さんは香港で生まれ育ち奥さんの母親は中国の戦乱から逃げてきた「難民」であるから国家に対する危機感が全然違う。奥さんはぺこちゃん人形のような可愛らしい顔なんだけどその脳みそは僕の100倍以上の危機管理能力を持っている。

 

ちなみに奥さんの母親が亡くなるまで約10年同居したが彼女は僕には必要最低限の話を苦虫を噛み潰したような顔ででしか話さなかった。日本軍による被害を直接体験したからだ。孫(つまり僕の子供)にはベタベタと甘く笑顔で接してるのを比較すると疎外感あったけど「何だかなー、ま、いっか」であった。人は憎しみを覚えると一生忘れないのだろう。

 

子どもたちはニュージーランドで生まれて学校で自己責任を徹底的に叩き込まれ自分で判断する能力を身につけた。

 

彼らからすれば安保は国民の義務であり原発はその地域の主体的判断であり無意味な増税は「払わん!」であり(苦笑)マスコミ弾圧は(特に奥さんは)中国政府の暴力的圧力を理解しているから「逃げる!」となる。実際に彼女は1980年代後半にすでに中国大陸政府を意識しており「こりゃ勝ち目ないな」とNZ移住を決意した。20代前半、女性一人であった。

 

彼女は永住権取得後に母親を呼び寄せて(勿論生活は僕が支える)母親の言うことをよく聴き(そのとばっちりは僕に来る)子供を育て(ぼくは彼らの教育方針には一切関与出来ない)常に頭のアンテナを立てて1991年にはいきなり「ね、香港に行くよ」と宣言された。僕に拒否権はない(苦笑)。

 

知り合いもおらず住んだこともなく言葉も出来ない街にいきなり落下傘降下である。せっかくクイーンズタウンで割の良い仕事を得て自宅も買ったのにこれかいって感じだ(笑うしかない)。

 

香港ではゼロから生活を立ち上げた。言葉も出来ず友達もいない街ではとにかく仕事を探してあちこちに飛び込んで履歴書を出すしかない。それでも何とか仕事を見つけて約6年間家族の生活を支えることが出来たのだが、香港で得た仕事も結果的には僕にとっては割の良い仕事だった。

 

日通の旅行部では広東語が出来る(何とか半年で職場で学んだ)日本人スタッフが僕しかおらずオーシャンやエアの仕事にも駆り出された分、自由度が高かった。

 

日本から来た駐在員からしても僕は「日本語が出来る使いやすい現地人」であり僕が日本の日通に戻る事はないから日本国内での人事を考える必要はないので結構現場での仕事を任された(苦笑)。

 

例えば中国で突然死した出張者の死体処理。ありゃ大変だ。中国と香港(当時はまだ英国領)と日本と3つの国の法律と保険手続きをクリアーしないといけない。まず死因証明書を中国の医師に作らせるがこのフォームが当時の中国ではいい加減。後日の保険手続きに問題ないように書類作らせた。

 

中国で死んだ場合香港に送る棺は木製は使えなかった。燻蒸問題があったからだ。なので急遽ジュラルミンの棺を作ってもらい香港まで送ったが今度はご遺体を香港で焼いて骨壷にして日本に運ぶか座席3つ潰して棺を乗せるかである。

 

ご遺族が香港に来るとこの会社のオーナー社長は最高の敬意を払って受け入れた。当時のRegent Hotelと呼ばれた高級ホテルのスイートルームを貸しきって英語も中国語も出来ないご遺族の為にぼくらが張り付いたのだ。

 

当時の雰囲気では企業戦士がほんとに戦闘の場で戦死(客死)したわけで最高の礼を持って迎え入れるのは当然だったが、あの会社の社長さん、ぼくから見てもそこがものすごくきちっとしてたな。これがオーナー社長なんだろうな。

 

後日現地法人の一番偉い人に慰労会を開いてもらったが、考えてみればあの頃から「現場仕事」をやってたなー。

 

最近では子どもたちも大きくなりお父さんが何やってるのか次第に興味を持つようになってる。「いつの時代も現場仕事だよ」と言うと変な顔をされるが実際にそうなのだから他に説明のしようがない。家族が集ってレストランで夕食食べながらゆっくり話出来る機会を使って僕がどんな仕事をして来たか、今どんな仕事をしているかを説明する。

 

けどこれって彼らからすれば何故そんな仕事が存在するのか意味が分からない。だって肝心の日本の深部を知らないのだから、二つの国をまたいだビジネスとか現場の細部に染み込んだビジネス習慣は理解出来ない。だからゆっくりと話が出来る時に話すしかない。

 

「お父さん、それって合法?」などと聴かれるから笑うしかないが、まず国をまたいだ合法の認識、主体、結節点、実行者、様々な立場から観る必要がある。ましてや国がまたぐわけだから幾何学的に難しくなる(僕は幾何学は知らないが言い回しとして使ってみる・笑)。

 

その結果として両国ともに依頼人にとって合法であると僕が判断した場合にのみそういう仕事を受けることもある。

 

世の中ってそれほど複雑ではない。ほとんどの人は真面目に生きている。僕の仕事は、そうやって真面目に生きてる人のお手伝いをすることだろうな、東京の面談を終わった感じたこと。けど、家族に分からせるのはまだまだ時間がかかりそうだ(苦笑)。



tom_eastwind at 22:15│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔