2015年07月24日

パンツを履いたエロ本。



純文学という意味不明な存在。

 

A

今日の話は文学に関する個人的内省であり本に興味がない人には面白くも何とも、ましてや全く意味不明だと思うので飛ばして下さい。多分読んでて不愉快になります。18禁。

B

 

 

純文学ってのはパンツを履いたエロ本だ。誰に対してエロを働きかけているかは別として、エロ本である。脱がない、見せない、けど買って欲しい?

 

例えば銀座や恵比寿を歩く美しい女性が履くミニスカートは男性に見てもらいたいからであるが、それは君という靴のくたびれたおっさん男性にではない。彼女たちが清楚で上品に着飾っているのは夏の太陽に灼かれて背広の裾が汗でよれた若い君らのためではない。

 

彼女たちが待ち望んでいるのは彼女たちの夢を叶えてくれる男性であり、それは愛ばかりで世の中どうにかなると思ってる君ではないのだ。この世の中に恋愛対象として尾崎豊が存在しても結婚対象ではない。銀座を歩く美しい女性が一生の伴侶として望むのは君ではないのだ。

 

いきなりスタートダッシュで駆け抜けたマクラであるが、この言葉は今年の文学大賞が数日前に決定しそこに何故か違和感があり、ふーんと思いつつ「どんな筋書きかな」ってアマゾンでちら見した時に思わず頭にひらめいたセリフである。

 

日本だけで限定していくと僕が好きな作家は山本周五郎が今も一番だ。それから司馬遼、同時に「人間の条件」の五味川純平、他にもたくさんいるが、彼らは売文家でもある。

 

つまり自分の「文字を書く能力」を切り売りしてお金を稼いでいたわけだ。だからまず「面白く読めること」を優先した。けれど彼らは皆文字の再生産能力があるからいつまでも面白い。つまりいつまでも男が振り向く美人である。

 

そして愛読者がいる。愛読者とは読者を愛する作家ではない。作家は読者を惹きつける美人としての能力である。(このくだり、筒井康隆をばかにして未読な方には全く意味不明な文章である、もっとすごいのもある、18禁・笑)

 

ところが純文学作家は何故か形から入り自己満足的な文章を書くが、全然美人ではない。つまり面白く無いのである。自分を磨こうともせずに油の抜けた乱れた髪に化粧気のない顔で洗濯で縒れた服を着ているようなものだ。

 

頭の中で理屈だけ並べて売れない自分を慰めて自分を理解出来ない世間を批判して毎日神田の本屋で本を出荷するアルバイトをしている。

 

文字を書けば誰でも作家になれるのであれば幼稚園生でも純文学作家だ。「きょうはあめがふってとなりのみかちゃんにあえませんでした、まる」

 

最初のところに戻れば分かりやすい。神田や神保町を昼間に仕事で歩く女性を銀座や恵比寿の女性と比べて「輜重行李が兵隊ならば蝶もトンボも鳥である」ようなものだ。表現的に汚いかもしれないが今回の件はどうも嫌だ。

 

古くから続く老舗の文芸大賞がいつの間にか廃れてきて仕方ないから話題性のある作家とその本を選んだ、まるで野合である。だったら文芸大賞なんてやめればいい、誰も困らない。僕ら本好きは本屋大賞で十分なのだ。面白い、それが本に期待するすべてなのだ。

 

じゃあ作家とはどうやって定義付けるか。僕はこの一点において作家とは自分のやってる行為を理解しているのか、売文家であることを理解しているのか、読者とは何かを理解しているのか、だと思う。そして殆どの作家の場合は自分しか見えていない「売文家でありたい純文学作家」つまり勘違いした売れない「ただの人」である。

 

現在の東京都知事である舛添さんは本をたくさん出版しているがあれは分かりやすい売文だ。自分が持つ知識を切り売りして読者に分かりやすく提供しているだけだ。じゃあその前の猪瀬さんは作家なのか?残念ながら僕は彼の作品を読んでないので評価出来ない。何故か彼の作品からは「食べたくなる匂い」がしない。

 

その前の石原慎太郎氏は間違いなくすごい。ぎらぎら光る太陽、欲望の塊である若者、あの時代の彼はすごかったな、年齢に関係なく彼がそれまでに読了した本の数の違いだろう。そこに肌を晒す女学生がいて彼女たちの横に座る日に焼けたハンサムな学生がいた。彼は売文と立身出世の両方が理解出来ていた。

 

もう少し歴史を遡ると野坂昭如が出てくる。彼等は明確に自分を「売文家」と位置づけている。戦争中に空襲で家族を亡くし食うものもなく彷徨った彼からすれば、食うことが最大の命題である。食えなければ死ぬのだ。

 

そんな野坂昭如からすれば玉川上水に飛び込んだカップルなんて「勿体無い、もう一回やっとけば?」とか平気で言えただろう。だって人の命だぜ!笑うしかない。

 

野坂昭如の「火垂るの墓」は小説もテレビも映画も含めて二度と見たくない作品である。初めて小説で読みボロ泣きしてテレビや映画を少し観たが最初の10分でOUTだ。もう観たくない。これ以上泣きたくない。

 

あんなに人の心を動かす作品…あれを売文と言いつつ、それでもあの品質を維持出来る技術の裏には、空襲を体験してその経験を売った、つまり家族の苦しみを売って得たカネ、野坂昭如からすれば死んだ家族に食わせてもらってるのだから、売文と言って自分を辱めること、それが彼の唯一の家族に対しての贖罪なのかもしれない。

 

最初の話に戻るが「純文学=パンツを履いたエロ本」ってのは、ほんとに昨晩のニュースを観てた時に頭に突然飛び出した言葉だ。僕が大好きな本の世界、そんな世界にまで既得権益とか老害とか持ちだしてほしくない。



tom_eastwind at 17:33│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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