2016年02月03日

東京ばな奈

ガラスの東京での仕事終了。甘木さんが閣僚辞任、勿体ないことだ。テレビや新聞では現金授受や利権関与は政治家にあってはならないと綺麗事を言うが現実問題として贈与がなくならないのは彼ら政治家が一般市民の価値観を代表しているからだ。

 

日本では何かを期待して贈与するという文化が律令期からある。畑を作り米を耕す農耕生活においては天候が重要で、そこで村長は季節ごとに祭壇に魚や米を捧げて神様から「晴れ」というキックバックをもらってきた。

 

今も天皇陛下の大事な行事として新嘗祭があるが、あれなど「今年も豊作でありがとうございました」と神様にキックバックを渡しているのだ。立派な贈与である。

 

天皇自ら神様相手に贈収賄やっててそれが国家行事なんだから天皇の認証を受けて国民を代表する内閣閣僚政治家が贈与を受けて頼みごとをする事に対してメディアが綺麗事を言うようではどうしようもない。

 

国民もずるい。甘木さんのニュースを見つつ「あらまあ、甘利さんってこんな事してたの〜?」みたいな話。

 

自分たちだって住んでる町の隣近所に何かあればお菓子を持って行ったりするし旅行に行けば必ず地域住民用のお土産を買って帰る。これは「自分だけ旅行に行ったけど仲間外れにしないでね、ほらお菓子買ってきたよ」である。

 

その後も地域社会、所属社会ごとに「村」の中で贈与の歴史は続く。お中元、お歳暮、付け届け、様々な機会に人々は自発的に誰かに何かを贈りその見返りを期待した。

 

それは現代でも同様であり「お世話になったあのひとに」贈与をするのだ。だから三越は儲かったのだ。送る相手が上司の場合、部下である自分だけ何も送らないという「村八分」になるわけにはいかない。

 

「ねえあなた、今年は佐藤部長に何送るの?同期の方は何送ってるのかな?」これなどマイナスにならないための贈賄である。

 

贈与を受け取った上司は当然の事と受け取る。何せ日頃面倒を観ているのだ、当然だろう。そこで目立つのはお中元やお歳暮等の贈与がなかった部下である。「こいつだけ、何で何も持ってこないんだ?」

 

政治の仕事は国民の利害関係の「調整」である。日本という村社会ではそれが摩天楼のビルを作る時も田舎の田んぼの利用方法も「調整」が大きな影響を与えているのだ。

 

だから地域代表である村長=政治家が「調整」をすればそこに贈収賄が出てくるのは当然だ。ある会社が甘利さんにお願いごとをしたら贈与は発生する。贈与がない?お願いだけして贈与がないなんて、そんな失礼な話があるかってことだから当然贈与が発生する。

 

そしてそれは甘利さんが口利きをしたからである。

 

建設利権などはもっと酷い。古賀誠など叩けばどこまでも真っ黒である。

 

それを現金で受け取ろうがどうだろうが問題はそこではない。問題は日本の歴史と文化と風習の中に贈与が大切な位置を占めているという事だ。

 

てか、天皇から一国民まで贈与の歴史を持つ日本人が新聞記事の時だけメディアは自分だけいい子ちゃんするのか?

 

贈収賄。犯罪である。しかしその根本を理解もせずに表面だけで誰かを叩くような事は止めたほうが良い。

 

それよりも贈収賄が起こる原因が日本人自らが社会性として持っていることなのだからそれを根本的に治すのかそれとも現実的に贈収賄にもっと幅をもたせるのかを考えたほうがよい。

 

東京ばな奈。今日も羽田空港ではずらっと並んだおみやげ屋さんとお土産を買う人々で溢れている。

 



tom_eastwind at 12:18│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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