2016年05月19日

観光

僕は18歳で観光産業の中の旅行業に身を投じこの仕事一筋でもうすぐ40年になる。こう書くと「え?移住が旅行?」と思う方もいらっしゃるだろうが実は移住とは「長い旅」であり完璧に旅行なのだ。

 

移住とは言いつつ誰しもニュージーランドにやって来て長期生活を楽しむけど死ぬ時は日本に戻って日本のお墓に入る。つまり日本を出て海外に行きまた日本に帰る、これは長い旅なのである。

 

日本で最近流行りのインバウンド、そしてアウトバウンド、それからMICE、そういう言葉が流行る前から僕は下積み現場はすべて経験して来たのでやっとこの分野が陽に当たるのは有り難いものである。

 

そして今年は伊勢志摩サミット。是非成功に終わらせて欲しいのは観光産業に身を置くものとしては当然の気持ちである。

 

40年前の旅行業といえば旅館との連絡手段は急ぎでなければ往復はがきである。北海道の旅館に往復はがきを送って「x月x日30名、4名一部屋でお願いします」と送る。

 

一週間ほどすると返信はがきに「有難うございます、お待ちしております」と旅館からの返答。ほんとにのんびりした時代であった。ある意味旅行業が一番成功していた時代でもあった。

 

海外のホテル予約は当時はテレックスである。FAXがなかった時代である。分厚い海外ホテルタリフを取り出してホテルの外観写真などを見つつ予約を入れたものだ。

 

時代は移り変わり現代では個人なら国際線航空券もネットで予約出来るわけで旅の情報もトリップアドバイザー観ればある程度様子が分かる。

 

ただ、旅の要素として絶対に変わらないものがある。それは為す者と観る者の違いである。

 

観光の語源は「国の光を観る」である。自分が国の中にいて毎日の生活を「為して」いる時には見えないものがたくさんある。

 

だから一旦国を出て外から観る、すると為す者の姿が観える。それは正しい方向なのか、どうすればもっと良くなるのか、外から観て初めて分かることは多い。

 

また観光が他の国に行けばその土地で働く「為す人」を「観る」ことで自国や為す者の立場では分からなかったことの学びになる。それが本来の観光である。

 

旅は自分たちの常識を打ち破ってくれる。1980年代のインドでは朝のガンジス川に死体が流れててその横で沐浴をしている人がいた。

 

旅は為す者を観つつ自分の中に学びを与える。それが本来の観光である。



tom_eastwind at 13:36│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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