2016年06月08日

出張終了

今日で東京の仕事はすべて終了、羽田に向かう。恵比寿から羽田まで30分なのだから本当に楽である。

 

10年前は時代遅れの過激派向けゲートがある成田空港に飛んでそこからリムジンバスでラブホテル街道を下って東京に入ってた。

 

途中では白人の子供がお父さんに「ね、お父さん、何でこんな山の中にホテルがいっぱいあるの〜?」と素直に聴いていたものだ。

 

羽田は最新の設備と動線が出来ており有り難い。飯も美味い。成田のラーメン屋のように湯気の上がる店もない。ついでに言えば成田到着ターミナルの千葉産野菜売り場もない。そう言えばあの野菜売り場、今でも到着ターミナルにあるのかな。

 

別に羽田を手放しでべた褒めにしているわけではない、今までの成田がひどすぎたから何でもよく見えるだけだ。

 

元々羽田拡張でいけば良かったものを技術的問題とかで無理やり千葉の山の中に空港を作ることを決めてそこに住む農民から土地を取り上げた。ここからボタンの掛け違いが始まる。

 

国家が個人の財産を取り上げる場合はよほどの理由が必要であるが、利権以外のたいした理由もないのに自民党の偉いのがここに空港作ると言って話が固定化したところからこの空港は様々な問題を抱えることになったのだ。

 

地元との話し合いもまとまらないまま「空港を作ることありき」で現地住民と土地争いが始まった。そこに安保に負けた過激派がやって来て共同戦線を張った。

 

成田空港の開港経緯の杜撰さはウィキでもAmazonでもすぐ見つかる。興味のある方は是非ご覧頂きたい。

 

僕はテレビで成田闘争を観ながら「なんちゅーこっちゃ」と思った。インターネットのない時代でも普通に考えればどっちが悪いか分かる。

 

土地の強制収用が行われ空港工事が開始され、それでもいつ過激派に攻撃されるか分からないので警官と警備員で空港を守った。

 

それが開港後も車で入る時の検査ゲートであり、地元千葉の人々を失業対策として雇用しているのか真夏も真冬も外に立って仕事していたが、これなどは空港建設の最初のボタンの掛け違いが30年間も全く無駄な作業に費やされたというわけだ。

 

当時一番危険なのは航空機用燃料を成田空港まで運ぶパイプラインであった。長いラインのどこを狙われても効果は同じであり、どっかーん!パイプライン沿いの千葉の街は大変な騒ぎになると言われていた。

 

テロ対策がある為に利用する側からは利用しづらくテロ対策というにはお粗末な状況が長く続いた。テロ対策をしなくても良いように最初の準備をしておけばこのような問題は起こらなかったのだ。

 

「北ウィング」という歌も流行ったがそのウイングの店はすでに昭和の歴史館である。

 

さあ、これから約24時間で香港経由Auckland到着。成田のようなムリをせず羽田のように変化をしつつ確実にやっていこう。



tom_eastwind at 14:01│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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