2016年08月15日

私が一番きれいだった時

***

わたしが一番きれいだったとき


街々はがらがらと崩れていって


とんでもないところから


青空なんかが見えたりした

 

わたしが一番きれいだったとき

まわりの人達が沢山死んだ

工場で 海で 名もない島で

わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 

わたしが一番きれいだったとき

誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった

男たちは挙手の礼しか知らなくて

きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの頭はからっぽで

わたしの心はかたくなで

手足ばかりが栗色に光った

 

わたしが一番きれいだったとき

わたしの国は戦争で負けた

そんな馬鹿なことってあるものか

ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

=茨木のり子

***

 

戦争が終わった時、どれだけの大人が現実から目をそらしていた事に気付いただろうか?

 

昨日まで鬼畜米英と叫び同胞を痛めつけたばかもの共はどれだけ自分の馬鹿さ加減に気付いただろうか。

 

それともそんな事さえも何も考えずに「今日からお上が代わったよ」と言われればひたすら「へへー、何でもお申し付け下さい米国様」となったのが殆どだろうか。

 

どこまでも矜持のない大人の話である。品格のないバカの話である。大人は小娘に笑われてバカにされたわけだ。

 

そして大人の多くが過去を反省せず戦争などなかったかのように態度を豹変させて真っ先に驚いたのが感受性のある子供たちだっただろう。

 

戦時中ニューギニアでは派遣時期で違うけど大体12万人くらいが送り込まれて戦後生きて日本の土を踏んだのは5千人、5%である。ほぼ奇跡的に生還した父親は戦争のことは殆ど語らなかった。

 

父親が遺した当時の覚書の中に日本軍が逃亡する最中に大きな川を渡る場面がある。「おおい!一人鰐に引き込まれたぞ!」

 

オーウェンスタンレー山脈は4mの高さでこの山脈に登り反対側に降りるのは夏装備の兵隊では寒さでやられる。多くの兵隊は山を渡りきれずに凍死した。

 

さらにどこまで行っても食料がなく飢餓地獄に陥り道端には飢え死にした兵隊が屍を晒した。

 

すべては当時の大日本帝国大本営のとんでもない戦争指導が起こした悲劇であった。

 

ニューギニアの脱出を実際に体験した父親から僕が生まれたわけだがもし終戦が71年前の今日でなくあと1年続いてたら父親は南方で戦死していたかもしれない。そうなれば僕は生まれてなかった。

 

今日は日本敗戦の日である。



tom_eastwind at 13:39│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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