2017年02月21日

復活! 親不孝通り。

この記事は夜の福岡の屋台や中洲や西通り等におつきあいのない人には全く縁がなくて面白くない記事だと思うので飛ばして下さい。

 

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地元の町内会や福岡市中央区役所、福岡県警中央署などでつくる協議会が19日、発表した。住民アンケートの結果を踏まえた措置で、今後、標識やパンフレットの表記は「親富孝おやふこう通り」から変更される見通し。

 

 「親不孝通り」の呼び名は、周辺の予備校に通う若者たちの姿が目立った1970年代頃から使われ始めた。しかし、97年、中央署が「愛称につられて集まる若者の非行を助長する恐れがある」として、市に「親不孝」を使わないように要請。「よろず町通り」を経て、2000年から「親富孝通り」に改名された。

 

 アンケートは「慣れ親しんだ以前の愛称が良い」との住民の声も踏まえ、「天神・舞鶴 親ふこう通り協議会」が、住民や商店主らを対象に1月上旬から約1か月間、実施。

http://www.yomiuri.co.jp/national/20170220-OYT1T50000.html

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おおそうかー、長い時間がかかったけど、やっとやったなーフクオカン!んって感じだ。

 

「フクオカ」という土地を九州の賑やかな地域と認識して地図の上で理解している人は多く、また「食べ物の美味しい街ですよねー」と認識している人は多いが、福岡市の一つの交通の中心であるJR九州の駅が「ハカタ」駅でありそこから徒歩でも30分の範囲内にあるもう一つのビジネスの中心街である天神発の私鉄は西鉄「フクオカ」駅であることを疑問に感じる人は少ない。

 

この歴史は「福岡」と言う名称が江戸時代の外様から来た名前であり本来は中国等外国と二千年の貿易の歴史を持つ「博多」が本名であることに由来する。

 

福岡市のうちの東半分は現在の山笠が飾られている櫛田神社(平安時代末期の平清盛が日中貿易の為に勧進された(作った)と言われている)を含む博多区やそこから更に東に行けば元寇で有名な敵国退散の大きな紋章のかかる筥崎宮があり、そして南に行けば勿論菅原道真の大宰府などが広がる歴史のある地域であり1600年代になってやっと街として作られた湿地だらけの江戸とは全く違う(ここまで書くと泉下の太田道灌に「僻むんじゃねーよ〜」と言われそうだが、ははは)歴史のある街であり、ましてやその江戸時代になってようやくやって来た外様は所詮外国人、君らは福岡という街を作ってお城を作って福岡市の西部で生きてくれ、僕ら地元人は博多で生活するからって感じだった。

 

だから今回の快挙は博多っ子ではなく外様であるフクオカンの領土内で起こった事件であり、そこがまた面白い点だ。つまり外様も長い時間をかけて自分たちのフクオカ文化を築き上げたと言うことだろう。

 

東京から派遣されたキャリア組が本部長である福岡県警の意見をひっくり返して自分たちの主張を通したのは江戸時代に領地を貰った人々にしてはお上に逆らう行為であり大したものだと思う。

 

さて本文。

 

この記事にあるように1980年代の親不孝通りはその通りの入り口の反対側(海側)の端っこにまさに当時水城学園などがドーンと真正面にある学生で賑やかな通りであった。

 

九州で一番大きなビジネス街である天神から西へ歩いて約5分、親不孝通りの入り口には当時珍しいインドカレー屋がありそこから右に曲がるとまさにビジネス街のすぐ近くなのに通りの雰囲気が思い切り変わって、ビートルズのタイトルをもじった畳バーとか何とも薄暗くて入り口のちっちゃな店ではいつもレゲエがかかってたりとか、とにかく異色な店が多かった。

 

当時は店のマッチも結構人気で通り沿いのお店ではどこも喫煙可能だったからお店の個性のあるマッチを集めるのも面白かったりしてたものだ。

 

そして勿論記事にもあるように「それだけ」ではなかった。福岡+九州のあちこちから集まった学生が大学受験の為に予備校に通いつつ、夜になると自分のお気に入りのバーやレストランに溜まり夜中から朝まで下らん理想論や意味不明の夢を語り、ビートルズを熱く語るやつがいればふざけんなクラプトンが最高だ!とか、何をバカどもが、最高はローリングストーンズだよ!とか誰もが熱くなってわいわい騒いでたものだ。

 

中洲で飲むのが大人のサラリーマンであり親不孝通りの通りを反対側に入ったところの西通りがゲイバーなどお洒落で時代の最先端をいってる芸能人が大好きな店であるのに対して親不孝通りでは学生たちの一種自由な自治区の雰囲気があり、解放区な時代であったのも事実である。

 

僕は博多っ子でもなければフクオカンでもなく1977年から始まり自分の18歳から28歳までの10年間を過ごした街であるがある意味距離を開けて観る事が出来たし(山笠に何度も誘われたがお断りした)僕も1980年代はこの通りを昼も夜もよく通ったものだ。何故なら当時の水城学園は僕の仕事上のお客様でもあったからだ。

 

そんな時代を親不孝通りで過ごした自分としてはお上による名称変更?何じゃそりゃ、知った事かと思っていたが、それは江戸時代にやってきた人々も何時の間にか地元民になりフクオカンとしてのアイデンティティを持つようになったという事だろうか。

 

中洲の川沿いに並ぶ観光客向け屋台、明治通りの地元民向け屋台、天神の皿い〜パーソン向けの屋台、ほんとそれぞれに特徴がある。

 

信じられないかもしれないが1980年代の天神の屋台は僕の知っていた当時であり出会い系でもあった。若くて可愛い女の子が一人で来たりは普通で、屋台の「お母さん」とお喋りを楽しみつつビールにおでんとか食べてる。

 

そこに現れる仕事帰りの若いサラリーマン兄ちゃん、屋台の暖簾をくぐるまでは横着そうな顔をしててもふとカウンターの反対側に可愛い子が座っていると背筋を伸ばし直してしゃきっとした顔で「すみません、ビールを一杯」とか言ってる。

 

屋台のおばちゃん、つまりお母さんもよく分かってて「この子にこの子は合わんねー」と思ったら話題をどっちにも振らない。それで男は撃沈された事に気づくし女の子はくすっと笑う、男は自己反省する「もっと磨かんといかんね〜」そんな時代だった。

 

フクオカの面白いところは誰もが結構バカになって格好つけるよりも素直にバカな方が生きやすい街だという事だろうかな。

 

親不孝通り復活、うれしい話である。次回フクオカに行ったら寄ってみよう。



tom_eastwind at 17:46│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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