2017年02月26日

本当に背筋の凍る読書

僕は子供の頃から本を読むのが大好きで小学校低学年の頃から文庫本を読んでいた。

 

勿論習ってない漢字も多いわけで最初に読んでたのは小学生向けに書かれたSF
とかだったけど面白いものだからどんどん読み進み時には難しい漢字もあてずっぽで前後の意味ではめてみたりして読み進んだものだ。

 

あの頃一番印象に残ったのがハインラインの「夏の扉」である。あれくらい夢と浪漫とぶっ飛ぶ発想と科学想像力を駆り立ててくれた本はなかった。

 

もちろんその後に読んだ「月を売った男」とか他の作品も「あり得ん!」と思うくらい素晴らしくて常に変化し続ける未来と絶対に変わらない人間の心をよく書いてた。SFはサイエンス・フィクションと呼ばれた時代からスペキュレーション・ファンタジーに変化した時代でもあった。

 

漫画に至っては当時の貸本屋全盛時代に少年漫画から少女漫画、でもってガロ、とにかく活字と絵を描いていればどんなものにも最新版に飛びついていた。

 

少年ジャンプは発刊以来ずっと読んでた。「男一匹ガキ大将」とか「ハレンチ学園」とか分野に拘らず色んな作品が掲載されていた。

 

なので今の30代の人々が電車の中でジャンプやマガジン読んでるって話を聴いて、良い悪いかは別にして理解出来る素地は今もある。

 

当時は永井豪のハレンチ学園が上品なPTAのご主婦の方たちに吊し上げにされたりしたものだ。しかし彼女たちは同じ作家である永井豪が描いた恐怖のSFを知ることはなかった。

 

親子の情愛が突然生理的に崩壊した町で夕方自宅に元気よく帰ってきた子供を母親がにこっと笑って野菜を切ってるその包丁で、まるでゴキブリを叩きつけるように斬り殺す。

 

そんな内容はもう小説さえ超えてたものだ。永井豪のデビルマンなども一般世間の文字や絵に対するバカで白痴で進歩のない認識を完璧に越えるものであった。

 

もっと言えばジョージ秋山の「阿修羅」。これは神奈川県の女性団体から発禁を求められて実際に発禁になった漫画であるが、僕は当時最初からずっと読んでて背筋が凍る思いをしながら親に捨てられた子供が大人を殺してその肉を食いながら生き延びると言う平安時代の日本と言う舞台を通じて描いた人生の怖さを感じたものだ。

 

学校の図書館にある本も楽しくていつも色んな本を借りては読んでた。以前も書いたけど当時南米の山脈に墜落した飛行機の生き残った人々が死んだ仲間の肉を食って救助された話でキリスト教徒の間で大きな話題になった本とかも読んだ。

 

そんな当時の読書はまさに「コペルニクス的転回」であり、読書が追体験と言いながら「そんな視点から人生を観ることもあるんだ」と怖くなった記憶がある。

 

そんな本の中でも図書館で一番びっくりしたのは山ほどあるけど一つまず書くとすればスウェーデンボルグである。

 

勿論他にも山本周五郎とか絶対日本人に読んでもらいたい本はあるけど、やはり日本人に馴染みのないキリストの原点の「天国と地獄と輪廻転生」を理解するのに役立つ本であった。あれ以来夢を見るのが好きになったのも事実である。

 

そして自分の人生の試金石となったのが五味川純平の「人間の条件」である。この本は10年単位で僕の試金石を磨いて新しく持たせてくれる。

 

これはやはり戦前の日本と敗戦後の日本と、そこに関わった中国や韓国の人々の生々しい歴史、同時に戦後に共産主義がいかに日本に浸透するためによく書かれた本であるかというのが後日わかりながらも、それでも作品的価値を全く落とさないと言う、ある意味ナイアガラの滝を棒も安全紐もなしに歩くピエロの格好をした壮絶的なハラハラ感を小説家として感じさせてくれる内容である。

 

どっかで落ちるんじゃないか、どっかで妥協するんではないか、そう思いつつ読み終わってみると自分の内包するもの、その言葉さえもが極無虚に感じさせるほどの妥協のない強烈な小説であった。

 

その後もとにかく何か字や絵を書いている(描いている)ものは何でも遠慮なく飛びついた。友達に「お前少女漫画読んでるのか!」と言われても透明感のある萩尾望都等は「この宇宙空間、すっげー!」と感激しながら読んだものだ。

 

同時に掲載された内容には「いじめ」もあった。

 

学校に通う女の子がいつもみすぼらしくて金持ちの女の子に虐められた。けどその子供は何の気持ちも示さず学校が終わるとすぐにうちに帰ってた。

 

そんな彼女を不思議に思った同級生が後をつけて彼女の住む薄暗い小さなアパとにたどり着き、割れた窓の隙間から覗き込む。

 

すると母子家庭で母親が病気がちで布団に寝ていて子供のためにティッシュボックスどころかちり紙も買えない。寒い冬でお母さんを看病しながら鼻水を垂らしていた女の子をそっと抱きしめて鼻水をなめてすくいあげて飲み込む母親。生きているだけで一生懸命だった二人。

 

驚いた覗き魔の女の子は学校に戻り、それから暫くして貧しい女の子が学校に来なくなりある日先生から「あの子とお母さんは自殺しました」と聴く。

 

これを追体験と呼ぶべきか。そうだなー、追体験としか表現のしようがないな、そうやって「本を読む」と言う行為を長く続けてきた。そんな作品も当時の少女漫画に掲載されてたのだ。

 

自分の経験の中で「本読みの本知らず」と言う人々も随分観てきた。

 

もちろん僕もその一人である。読みながらも理解せずましてや追体験すらせず挙句の果てに本のタイトルだけを狩猟と言う名前の下に一方的に殺した動物の首のように偉そうに振り回している理屈ばかり言ってる。

 

一知半解どころか一読無理解、勲章大好きだけど努力は嫌い、立派な事は言いたいけど学ぶのは面倒だから他人の書いた書評を自分のものにすること大得意、まるで大学受験のあんちょこみたいな読まない嘘体験を語る。

 

そうはならないようにしよう、自分の為の読書でありたい、そしてそれが行動に繋がるべきだ、そう思いながらどうしても逃げたり嘘言ったり誤魔化したりする自分を感じて自己嫌悪に陥りつつも、それでも追体験をすることで学べるものがあると考えていた。どんなバカでも機会だけはある、それが読書かなと。

 

ところが今日読んだあるブログの書評で、ほんとに体が凍りついた。何の気無しにいつものように調べ事しててたまたま劇薬小説とタイトルにあり「何だろ?」とクリックしたのが運の尽き。

 

やられた。

 

完璧に心を殺された。

 

この感覚は生まれつき本を読む人でないと理解するのがきついと思う。ある人にとっては何の影響もない周波数でもある人にとっては致命的な周波数となり心を完璧に砕くのだ、それもボロボロの粉ではなく粘り気のあるドロドロとした状態にされて元に戻れないのだ。

 

読書における追体験とは結局は脳内で実体験をすることでありそれが肉体に影響を与えることは否めないがその読書の怖さがここまで来ると・・・思わず読書は止めましょうと言う気持ちになる。

 

少なくとも子供にこのような読書をさせたくない。作品の善し悪しではなく悪魔の黙示録を読ませることだけはさせたくない。

 

それにしてもよくもここまで人間の心理の深奥まで書いたものだ、こいつらは生まれつきの人殺しなのか。背筋の凍りつくような読書論であり、これはリンクしないでおく。

 

読書は素晴らしいものであるが時には注意しないと、とんでもない作品にぶつかって心をボロボロにされる事がある。



tom_eastwind at 10:33│Comments(0)TrackBack(0)諸行無常のビジネス日誌 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔