2017年02月27日
今隣にいる他人はあなたの試金石ではない。
昨日の読書の話の続きになるが吉田兼好がその書の中で「見ぬ世の人を友とするぞ、こよのう慰むわざある」と書いている。
「書物を通して古人を友とするのは、最高に心を慰めるものである」とも訳されるが僕はこれを自分なりに「今この世に生きているだけの生まれっぱなしの隣人の話を聴いたりその人のやる事をいちいち気にして自分がバカに巻き込まれるよりも、一人静かに過去の時代に生きていた賢人の書物を読んで学ぶほうが遥かに正解であり利口である」と訳している。
つまり、今同じ時代に生きている他人の事などどうでも良い、それより自分が自分の眼で物事を判断出来るようになる為に会った事もない過去の人の「古書から学び試金石を取り出して座右の銘にすることでよりよい人生を送ることが出来る」と言う事だ。
本を読みながらそこに学びを感じて同時に何かしらの「人生の普遍の真実」を読み取ることでそれを自分の試金石とすることが出来ればそれが読書と言う追体験を通じて得られる人生最大の果実だと思っている。
誰もが人生を生きて行く中でいろんな判断を求められる機会があるが、その時の判断基準に「隣の人が今何しているか」なんてのは本来ない筈だ。
歴史を振り返り今のあなたと同じような状況にいながら正しい判断をしてその結果としてそのような事柄が本になり後世の人々に文字として残された事を考えてみよう。
つまり僕らが学ぶべきなのは過去でありそこに正しい答えが常に用意されている。何故なら文化や文明がどれだけ進歩しても人間が生まれてから死ぬまでの間に起こる人間の感情の移ろいには何の変化もないからだ。
2千年前の人も人と戦い恋に悩み何故生きるのかを考え家族を作りそして死を迎えた。その時の心の持ちようはいつの時代も同様である。
なのに何故か多くの人は今目の前にいる他人や周囲の意見ばかり気にして周りにどう観られているかを気にして常に他人との比較でしか物事を考えられない。
だから常に他人を気にして他人の噂話を面白おかしく聴きつつ自分が相手より上にいると思った瞬間に「勝った気がして」歓喜にあふれるのだがそんな薄っぺらな気持ちは自分より少しでも上の人間を見た瞬間に嫉妬心と怒りで体が燃え上がりその他人の全てを否定してしまわなければ嫉妬心も怒りも消すことが出来なくなる。
本来人間は一人で生まれて一人で死ぬ。その人生に今の他人が影響を及ぼす事など殆どない。だから他人がどうしたこうしたなんてのはまさに人生の瑣末事でしかない。
自分はどうなのか?自分はどう考えるのか?自分はどう生きるべきか?その為にこそ古人の本を読み学び自分の生活の実践に役立てるべきなのだ。
そうやって自分の内面を見つめる勉強をしていれば自然と他人は視界に入らなくなる。他人に何か良いことがあれば自分の事のように喜んであげる事が出来る。他人が自分より賢いと思えば素直に「学ぼう」とする気持ちが出て来る。また他人がいつもネガティブで周囲に負の空気をばら撒くようであれば「君子淡交」で近寄らない事だ。
なのに試金石のない人はとにかく他人の視線ばかり気にして他人と話をする時も「自分は社会的にどうこうで学校はどこそこでカネはしかじか持ってて」と、自分の内面とは全く関係ない話で相手より優位に立とうとして「立てれば歓喜負ければ嫉妬、歩く姿は疑心暗鬼」となる。
情けない話であるが多くの人間が意味もなく今いる他人と繋がろうとするのは内面の試金石を持っていない証拠である。
恋をしよう「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに焼くや藻塩の身も焦がれつつ」
戦おう「己を知り相手を知れば百戦また危うからず」
そして周囲の反発をかってでも「君死にたもうなかれ」と言ってみよう。
試金石、それは自分で探して見つけて時間を掛けて磨くものであり今あなたの隣にいる人が与えてくれるものではない。
吉田兼好はその書の中で「何事も先達のあらま欲しき事なり」と書いている。
学びは一生の友、学ばずつるむは一生の恥である。