2017年05月25日

孤高であれ、自分であれ。

最近は財津和夫やフォーク・クルセダーズの古い歌を聴く中年層が増えている。それは当然であろう、彼らの青春時代の歌なのだから。

 

12弦ギター、バンドは手を振って観客を鼓舞するが、最近の若者と違いノリが悪い。それでもおじさんおばさん達が立ち上がって拍手をしている。

 

彼らコンサートに来た人にとって財津の歌は今の和製ロックバンドのような今をはしゃぐ歌ではなくおじさんおばさんが過去を思い出して懐かしむ歌なのだ。

 

ただそのコンサートのビデオを観ながらすごく思ったのは、こいつら浮かれ顔で遠くを見ているような顔つきの逃げ切り世代はずるいって事である。

 

若い頃に反政府とか言いたい事やりたいことをやって卒業したら長い髪を切ってサラリーマンになり企業戦士として日本政府体制に尽くして政府が作った一億総中流の中で自分たちだけは医療、退職金、企業年金、死ぬまで食っていける立場を維持した上で偉そうに「俺達の頃はなー」なんて、誰がそんな話聞くか。

 

そんな古ぼけがコンサートに来て若い頃の気持ちを思い出すのは良いがその気持のまま会場を出て若い頃の雰囲気に浸って「おれたちの頃はなー」なんて言ってると今の若者が怒り出すのも当然である。

 

「ふざけんな!生まれた時代が違うだけで何を威張っているんだ?お前の能力と今の俺の能力を比べてみろ、俺は絶対負けてないぞ!」

 

なのに生まれた時代だけで差別される?おかしくないか???

 

「無能で政府の終身雇用年功序列に乗っかっただけの逃げ切り世代が偉そうに若い頃の反政府の自慢話をするんじゃねー!」そんな現代の若者の批難が聴こえてきそうである。

 

今の逃げ切り世代がやってること、それは当時の彼ら若者が一番嫌っていた体制への寄りかかりではないか?

 

なんかずるい。立派なこと言ってて結局やってることは当時の体制側と同じじゃないか、長いものに巻かれ友達と妥協して気持ちのよいことだけして・・・。

 

その場その場で立派な事を言うけど結局その場の空気に流されて自分を持たず、北朝鮮帰国運動が起これば善意で人々を送り込みその後の悲惨な事態には知らん振り、拉致問題が起こればなかった事にして社会党や民進党を応援して最後は「俺の人生は良かった」とでも言うのなら、少なくとも世間の公儀を実行したなどと言って欲しくない。

 

生き残るため1960年代のゲバ棒時代と総括で殺されないために生き残りの手段を選んだ人々なのだ、または「いちご白書をもう一度」のように長い髪を切って就職したように自分が戦線を離脱したのだ、そのくせ「イムジン河」や「悲しくてやりきれない」だけは今も口ずさむ、まるで今の民進党の古狸のように。

 

つまり本当の「主義者」のような信念もなく目先の空気に流されて、つまり今の 日本の女子中学生と同じ程度の空気を読む認識能力だけがあったと言う事だけは自己認識する必要がある。

 

そんな連中が過去を懐かしんで音楽会に来るのならそれは彼らが否定していた演歌を聴いていた人々と全く同じ行動である。もっと孤高であれ、自分であれと言いたい。



tom_eastwind at 21:44│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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