2018年01月07日

慈雨 その4 カツアゲ

戦後日本を復興させたのは戦争を知ってた官僚と政治家である。自分たちが苦しんで仲間も死にそして日本がどうあるべきかを考えた人々が日本を作り変えた。そしてそれは成功した、彼ら優秀な人々が退職するまでは。

 

ところがその後官僚として入省した人々は1964年の東京オリンピックとその後の大阪万博の成功しか知らずオリンピックと同年の昭和39年に開業した東京と大阪をつなぐ新幹線で大阪の優秀な人材を次々と東京に送り込む仕組みを作り一極集中を作り上げた。こういう「こすいこと」だけは得意なのが「戦争を知らない官僚たち」である。

 

沖縄海洋博では現地企業を食い物にして全ての利益を東京に持ち帰り、まるでインカ帝国を侵略したスペインのようなもので、後に残されたものは58号線沿いの廃墟となったプレハブ旅館やレストランだけであった。沖縄はまさに何度も日本から侵略されたのである。

 

それでも沖縄は自前で優秀な国会議員を東京に送り込んだ。それも東京を中央として観ずにあくまでも占領国の本拠地として理解して國場、下地など優秀な連中を送り込み植民地の権利回復の為に戦った、自民党本部の中で。面白いのはそういう人々でさえ受け入れる自民党の器の広さである。

 

米国独立戦争の時、植民地である米国は宗主国である英国に対して”No Seat, No Tax”と訴えた。税金を要求するなら議席をよこせ!そして独立戦争が始まった。ところが日本では沖縄に対して議席を与えたのだ、そして税金の減免措置を。

 

地元では東京と戦える知事、例えば沖縄戦で鉄血勤皇隊としてまさしく若き身をバカ帝国陸軍が起こした全滅戦の馬鹿さ加減のど真ん中に放り込まれ125人中37人しか生き残らなかった大田昌秀が知事となりまさに沖縄の為の政治を行った。

 

その後も大田を選挙で破った稲嶺恵一など優秀な人物が沖縄を一枚岩で支えている。

とにかく沖縄では与党も野党もない、どちらもそのときの情勢に合わせて「良い刑事と悪い刑事」を使い分けてるだけである。

 

例えばどこそこ県民が日本人であり公共事業などで不当な事をされても「いや〜、お上がそう云うんだからね〜」となるのとは彼らどこそこ県民が長いものに巻かれる思考があるからだ。その分必ず後で何か返ってくる、それが分かっているからだ。

 

けれど琉球民族は取られっぱなし、植民地である。だったら「日本人になる」なんて発想を止めて宗主国である日本からたっぷりカネを貰おうぜって発想が出て来た。

 

その結果として基地と米軍を使った「カツアゲ」は大成功して今の沖縄は大発展している。結局戦争を知らない甘えん坊官僚と戦争を体験した人々の違いである。

 

僕が1970年代後半に初めて沖縄に行った頃はまだ戦争の傷跡があちこちにあった。那覇市の南にある豊見城では古い一軒家があり表札もあり沖縄独特のシーサーもあったが誰も住まず放置されていた。そこに住んでいた家族は全員大日本帝国陸軍の指示で避難、近くの洞窟で自決して家だけが当時も残っていたのだ。

 

沖縄には日本の多くの矛盾が凝縮している。大正から昭和にかけて大磯あたりで女中を連れた若い女性も沖縄の植民地から得たカネで立派な服を着ていたわけである。恥ずかしいとは思わないだろう、それが当然だろうと思うだろう、何故ならそれが当時の文化だったから。

 

しかし暑い夏の日に沖縄では島全体が艦砲射撃を受け焦土と化し更に米軍上陸後に避難していた壕に火炎放射器で炎を送り込まれ多くの民間人が命を失った。

 

戦後は長い間米軍占領下に置かれて日本領土でありながらパスポートがなければ行けない場所になった。

 

ベトナム戦争時代は米軍のベトナム攻撃最前線基地として活動して嘉手納基地に核爆弾が配備された。

 

念願の日本復帰後も沖縄はあいも変わらず二級国民として扱われ大阪に集団就職した沖縄の子どもたちが寮の朝ごはんの味噌汁の味が薄くてバターを溶かして飲んでいたら賄い婦はせせら笑いながら「また沖縄がこんなことするんやねー」。

 

僕から観れば今の沖縄は上手いことカツアゲをやっていると思う。英国に対する復讐と言う形でIRAのような独立運動をやって爆弾を吹き飛ばすよりは余程生産的である。

 

今回のカツアゲは「もっとやれー!」である。長年の不平等を知恵を使って沖縄の未来の為に日本政府から投資させた。そして観光客が急増して今後は1000年前の琉球のように物流の拠点となっていけば良い。



tom_eastwind at 19:07│Comments(0)諸行無常のビジネス日誌 

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