2018年03月14日
自由の国
米国にこんなジョークがある。
うちの10代の息子はよくこう言う。
「自由の国だからね、したくないと思えばしなくてもいい」
したくないことには宿題、学校、掃除、ゴミ出しなど・・・。
↑理屈的に彼は正しい。その結果が待っているだけで。
表現の自由が何を言ってもいいと思っていること。
↑表現の自由は言った事に対する結果に縛られるので自由ではない。
・したくない事はしないけどその結果は自己責任。
・表現の自由はあるけど言った事に縛られる。
上記はどちらもそれなりに納得出来る話である。
「したくない事をしない」けどそれは、
1・先生の言う事に盲従したくない。
2・周囲と同じ行動をすることを求められたくない。
3・自分の頭でものを考えたい。
4・自分のことは自分で決めたい。
とかだった場合は危機の多い生活ではあるがそれなりに納得出来る生き方である。そう、自分が取る自由に対する自己責任さえ理解していれば「やりたくないことはやらない」も有りだと思う。
表現の自由。これは最近どうなんだろうと考えることが多い。と言うのも例えば作家が表現の自由として小説を書く分には縛りは少ない。
人の口から発せられる言葉は言霊である。一度口から出ればもう戻せない。そして政治家が発言すると大体の場合記録に残る。
だもんで政治家が今日ある政治課題についてAと発言したら独特な思想を持つある種の人々が政治目的で「お前、10年前に言ってた事と違うじゃないか!嘘つき!辞めろ!」となる。
でも政治家だって政治知識を身につける中で政治的に変化しつつ自分の主張を変えるのは人間としてある意味当然である。だって人は成長して変化するものなのだ。変化しない人間など面白くもなんともない。
英国のチャーチル首相が言ったことわざと言われているが「25歳で貴方がリベラルでなければ情熱がない。30歳過ぎて貴方が保守でなければ脳みそがない」
16世紀の哲学者が使った言葉だとも言われているが人間の信条とはこんなものである。時代と共に変化していき、また変化して成長すべきが人間なのだ。
だから政治家の長期的な思想変更を持って政治家を攻める輩は自分が100年1日も変わらない「退屈で成長しないボケだ」と言ってるようなものだ。
大事なのは今日の彼の語ることが今の時代と人々の気持ちに合っていて正しいかであり、60年代安保の亡霊が出て来て70年前の思想と同じだと、その方が敗退的であり廃退的である。
その意味で日本は自由の国だろうか?たぶん多くの人々にとっては違うだろう。他人に盲従して自分の意見を持たず自分の頭で考えずにいるから自由は不要であるからだ。
それに自由を実行するためには自己責任を理解する必要があるが今の日本に実行者としての自己責任、生活者としての自己責任を理解している人がどれだけいるだろうか?
自由は権利であるが権利とは常に義務が付帯する双務契約である。自分の都合の良い点だけ自由を主張して何かあれば「それは、私は知りません、私の責任ではありません」と逃げることは出来ない。