1999年 来る前に知ろう、常識の嘘!

2005年07月13日

1999年8月 英語学校の非常識

英語学校の非常識

ワーキングホリデイでニュージーランドに来る人がびっくりすることが多々ある。特に目立つのが、日本の常識をそのまま持ち込んで自分の思いこみを前提として他人と話をする。そして何ヶ月もたってからその間違いに気付くなどだ。

自分の常識その1=英語学校に行けば英語が上手くなる。

これがワーホリ、いや彼らに限らず日本人に共通する、大きな非常識だ。大学に行けば頭が良くなるか?ならない。塾に行けば賢くなるか?ならない。結局はどこに行こうが自分の努力なしではエスカレーター式には上がれないのに、NZで英語学校に行くだけを目的にして、英語学校に行きさえすれば英語がうまくなると思っている人が多いのだ。

実は、英会話を一番安く効率的に上達させる方法は、ヘラルド朝刊の翻訳とテレビニュース、そしてラジオの聞き取りである。 何故かというと、この3種類のメディアは、同じ記事を違った形で報道しているから、耳の勉強にも、文法の勉強にもなるからだ。

一日に3時間で良いから実践してみれば分る。ここまで言い切るのは申し訳ない気がするが、実際に英語学校に行かなくても、お金を使わずに学べる場所はたくさんあるのだ。

まず朝刊を読む。最初は気に入った記事だけを取って、日本語に訳してみる。この、日本語に翻訳するという事が大事だ。それから慣れてくれば、新聞全体の記事を要約して見る。

ラジオとテレビは、基本的に朝刊に掲載された記事と関連してるので、最初は分からなくても筋が見えてくる。最初の3ヶ月これをみっちりやれば、誰でも英語の中級クラスには十分行ける実力がつく。

発音?これは日本人に生まれて日本で英語教育を受けた人には、殆どの場合どう矯正しようもない。 ネイティブの発音をしたければ、遅くとも13歳程度から英語圏で生活する必要がある。

だから20歳過ぎて出来もしない発音で苦しむよりも、語彙を増やして文章力で相手に理解させる事の方がよほど効果があると言える。そのための新聞とテレビだ。新聞とテレビは状況に応じた適切な単語の使い方を学ぶのに最高だ。 文章と単語が正しければ、発音が悪くても大人の相手は分かってくれる(但し、8歳以下の子供に理解させるのは無理です。彼らは文章でなく発音で理解するようですから)。

但しこれにはかなりの忍耐を要求されるのも事実。誰もいない部屋で、毎日一人でやるのだから、かなり強烈な目的意識を持たないとやって行けない。

で、ここに登場するのが英会話学校。自分一人ではどうしても忍耐力が持続できない、一人で部屋に籠もるのは寂しくて、勉強なんか手につかない。そんな人向けに存在するのが英語学校なのである。英語学校はそういう意味で実に貴重な存在であり、もちろん学生は高いお金を払っているのだけれども、先生達は本当に親身になって教えてくれようとしている。 分からない所を繰り返しながら、みんなのレベルが上達するように知恵を絞っている。

しかし、学校の先生と言えども神様ではない。ただ座って待っているだけの学生に英語知識を詰め込むことは出来ない。馬を泉に連れていくことは出来るが、水を飲ませることは出来ないのと同じです。それがなぜか、自分で籠もっての勉強もせず、英語学校で自分から質問しようともしないのに、ただ英語学校に行きさえすれば上達すると信じている人がいるのは不思議なものである。

 ニュージーランドに着いたらすぐに学校に行けばよいと言うモノではない。学校に行って効果のある人は「自分でやる気はあるのだけれど、やはり周囲に友達が欲しい。」とか、「質問はしたいんだけど、道端の人々に声をかける勇気が無い。」であり、「よし、学校に払った授業料分は絶対取り戻してやる!」くらいの気持ちを持てる人だ。

それ以上に強い気持ちをもてる人には英語学校は不要だし、それ以下の、全く受け身で自分が何をしていいか分からない人には、英語学校はお金と時間の無駄でさえある。

だから新たにニュージーランドに来た皆さん、自分の貴重なお金を使うのだから、「とりあえず学校に行けば英語が出来る。」とは、くれぐれも思いこまないようにお願いしたい。 「とりあえず」なら、まず南島などを旅行してみることだろうそこで自分の英語の弱点を認識して、後で目的意識をはっきりさせて英語学校に行く方がよほど有意義なお金の使い方ではないだろうか。

自分で何をやりたいのか明確な目的をもってから英語を学ぶ方が、よほど上達が早いのも事実だ。 英語学校のランチタイム

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tom_eastwind at 22:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

1999年9月 ホームステイの非常識!

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ホームステイの非常識!

 

非常識第2弾、英語学校に続いて今回はホームステイ。自分が真実と思ってるホームステイの実態は如何に?

 

  

あこがれのホームステイ、親切なニュージーランド人家庭の中でホストファザーやホストマザーが優しく接してくれて、小さな子供たちと英語の勉強をする、そして私の英会話能力はどんどん上達していく。これは桃色の夢!そう考えている人は多いだろう。

 

しかし現実はそんなに甘くない。仕事に忙しいご主人とは話す機会もなく、子供の育児に忙しいおかあさんは相手にもしてくれない。

 

仕方ないから生意気なまでに英語の上手な子供に話し掛けても、彼らは発音の違いを理由に一切反応してくれない。夜は8時に寝かされてしまい、テレビも見られない。

 

朝起きてみると、食パン1枚だけが朝ご飯代りにテーブルにのってる。食パンは君に話し掛けてはこない。

 

週末は家族みんなでどこかに遊びに行ってしまい、私はついに鍵っ子ホームステイ。あげくの果てには当初の条件と違って、土曜の昼ご飯が付いてないとか、フラット代金を受取ってないからもう一度払えとか、「これがあこがれのホームステイかー!」とびっくりして飛び出すワーホリのみなさんもいる程だ。

 

勿論そんな家庭は少数であり、自分自身の経験から言っても、そういう人たちを一般的なニュージーランド人とは言いがたい。しかし少数であれ、存在することは事実なのである。これも結局、オークランドなど都会の場合はお金目当てのホストファミリーが存在するからだ。田舎は良い。人の性格が違う。

 

しかしオークランドは家の値段が高く他の街の2倍はかかる。子供を抱えている若いカップルが何とか家を買っても、ホームローンはたっぷり残ってる。でも、せっかく新しい家を買ったのに今更小うるさいキーウィのフラットメイトを入れるのはいやだ。それよりも文句を言えない何も知らない学生を相手に「国際親善」の旗のもと、見かけのいいホームステイをやった方がよほど収入もよい。

 

何せこの金は税務署への申告が不要で、何も知らない日本人学生からもらう現金170ドルの収入は、旦那さんの給料の30%増と同じ価値がある。これは年収4万ドル家族の場合。4万ドル以上もらっている家庭は、ホームステイなど請け負わない。何せ金があるのだ、どうしてそれ以上に面倒のかかる事をする必要があるか。(1999年9月時点のデータです)

 

是非と言ってやりたがるホームステイファミリーがあるのだが、彼らの特徴はいったんお金をもらうと、それまでの親善の旗を捨てて、「あんた達、自分の事は自分でしなさいね、あたしは忙しいんだから!」みたいに学生を扱うことだ。

 

だからホームステイをする人たちが知るべきことは「ホームステイはお客か家族か?」の質問を自分で解く事である。もしお金を払っているならお客だけど、食後に皿を洗ったりベッドの片付けとかをするのなら客ではない。

 

もし家族と思えば風呂洗いまで手伝わされるのも納得できるが、家族でない証拠に子供は好きなものを冷蔵庫から出して食べてるのに、自分は勝手に食べる事はできない。

 

このような事を突き詰めて考えれば、結局ホームステイとは、相手の家庭に入り込んだ「特殊かつ期間限定」の、お客と家族の中間にある存在であり、この「存在」がお金を払って家族らしく扱ってもらおうと、かなり下手に出なければいけない制度なのだと言う事が分る。

 

その証拠に、この存在は常に子供として扱われ、主体的な意見を発するようになった瞬間から嫌われはじめる。つい先週まであれだけ好意的だった人たちが、今週から急に冷たくなった、こういった経験をした人も多いだろう。

 

そりゃそうだ。君が素直で可愛いペットでいるうちはよいけれど、ファミリーの言う事を聞かずに食文化を語りはじめると(鯨や犬を食べる話)、「今までの恩を忘れやがって!」と、相手は突然怒りにかられる。

 

相手の家に住まわせてもらってるのだ。これをきっちりと理解しないとだめ。食文化の話は、フラットで東南アジア人同士でやるぶんにはokだけど、ホームステイの期間中は御法度である。つまり、言いたい事を何でも言ってはいけないのがホームステイなのだ。その代わりに外国の生活習慣や言葉を学ばさせてもらっているのだから、相手が聞きたくない事は言わないでおこう。

 

楽しくホームステイをするには、まずお金を払っているという事実を忘れる事。これで客感覚を捨てる。そして親しくない友達の家に居候してると思う事。

 

親しくない友達の家なら勝手に冷蔵庫を開けて食べる事は(普通は・地域によって違うようだが)しないし、一緒に食事をするものの礼儀として、相手が作れば自分が洗うと言う同等の意識を持てるはずだ。そしてとにかく、うまくできなくてもいいから自分から話をする事。

 

今日は何をしたとか、びっくりした事とか、とにかく相手の気をひく事だ。相手も最初から君を嫌っている訳ではないし、邪魔物あつかいにしている訳ではない。一生懸命やってれば「こいつ、何か言いたそうだぞ。」と相手も好意を持ってくれる。

 

自分が何を伝えたいかを具体的に説明する事ができれば、この「ひっかけ作戦」も成功率が高くなる。例えば夜遅く(9時以降)テレビを見る時は、見たい番組を示して、「これ見たいけど、夜遅くなるけど、いいか」と聞く事。

 

この話のポイントは、

 

「見る番組は自分で決めている、問題は夜遅くなるけどいいかどうか。」

 

である。もしこの話を、

 

「Can I watch this TV program tonight?」

 

とやってしまうと、相手は

 

「その番組はつまらないからこれを見ろ」

 

などと、全然見たくない番組を押し付けられた挙げ句、見るはめになってしまう。

 

問題は、見る番組は自分で決めた、しかし夜が遅くなるのでよいかどうかを聞いているという事を相手に理解させられるかどうかだ。これが意志疎通である。

 

意思疎通がうまくいくようになったら、ホームステイもかなり楽しくなっていくはずだ。勿論本当に過ごし易いファミリーがたくさんあるのも事実だが、ホームステイを突き詰めるとやはり自分自身が相手よりも相手の立場を理解してあげて、相手の立場を立てながら共同生活をさせてもらうと言う事になる。

 

簡単に言えば、金を払っている居候と思う事がお互いにハッピーにいけるという事だ。

 

 

 

 

 

 

 

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tom_eastwind at 21:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

1999年12月 仕事ありますか?能力ありますか?

仕事ありますか?能力ありますか?

 

簡単な引き算だ。300ドルを投資して500ドル儲かるのと、500ドル投資して1000ドル儲かるのと、どっちが得かは誰でも分る。

 

分らないのは、商品として自分が投資される方に回った人に限って、英語の出来ない、長期で働けない、低い商品価値しかない自分を、英語がネイティブで、長く働ける地元の大卒キーウィと同じくらいに商品価値が「高い」と思い込む事である。

 

人を雇うとは一番金のかかる投資であり、能力がない人への投資は、経営者にとっては一番儲からない投資なのだ。

 

「ねえ、ここ募集してるよ、履歴書送ってみようか?」

「やっだー、こんなに給料安いのー、」。

 

これも、日本の給料をもらっている人からみたら当然でしょう。日本で月給25万円もらってたら、年間ボーナスゼロでも時給25ドルです。それがここではたった6ドル。(1999年当時のレートです)

 

三分の一以下です。やってけないよね。でも、ちょっと考えてみて下さい。日本にいる頃に日本語や日本の文化が分らない白人を見て「かっこいい」と思う以外にどう思った?

 

日本語が出来なくて文化が分らずに、駅の切符の買い方が分からずにボーゼンと立ち尽くしている彼らに対して何を感じましたか?優越感?フラストレーション?

 

でも、NZに来たばかりの我々はその頃の彼らと同じではないでしょうか。英語が出来ずに、英語の文化が分らずに、上手な受け答えも出来ない。おまけに仕事を教えてもすぐにやめてしまう。そんな人に経営者がお金を払いたいと思いますか?あなたが経営者だったら、雇いますか?

 

仕事が欲しいと言いながら、その仕事は「英語できないんですけどー」「給料もうちょっともらえませんかー」「来月は南島に行くんで、準備があるんで今日でやめますーす。」なんていちいち条件をつけられたら、雇う方でも嫌気がさします。

 

雇う方は教えるために時間を使い、やっと使い物になると思ったらもう辞めると言う。「日本人は、人はいいんだけどすぐ辞めるから。」と、最低労働期間を3ヶ月以上などと決めるお店もあるほどです。

 

そんな中で仕事を獲得するにはどうすればいいのか?答はとても簡単、真剣にやることです。

 

例えばまず自分の実力を見てもらうために、1週間でもただばたらきをする。売れと言われた物は何とか知恵を絞って売る。やれと言われた事は何よりも真っ先にやる。そして実力を認めてもらってから給料をもらうくらいの気持ちが必要なのです。

 

勿論最初の給料は安い。それも覚悟の上。その代り日本と違って、力があればどんどん上に行けます。少なくとも3年程度はどんどん昇格出来ます。勿論、自分に自信があるならば、能力があるならばの話です。

 

ワーホリで来て短期なのでそこまで真剣にはどうも…と思うのであれば、最初からよい条件を期待してはいけません。むしろ、仕事も経験のうち、能力をつけるための海外体験、金ではなく楽しむためのボランティアと割り切った方がよほど正解です。

 

本当に努力して仕事が欲しい、例えばワークビザとか永住権を視野に入れた中で仕事をしたい人たちの場合、特に日本で営業してた人なら分るだろうけど、仕事を獲得するコツを憶える事が必要です。

 

コツとは簡単、「相手が求める物をすばやく判断して、すぐに見せ、与える事」です。つまり自分で自分を売れる能力を持つ事です。

 

能力には様々なものがありますが、すくなくともこの社会でその範疇に入らないのは「社内の根回し」と「お人好し」ですね。

 

だから本当に仕事が欲しければ、それなりに相手が満足する能力と、「まず試しに無料で使って下さい、よかったらご購入下さい。」と言う、まるでデパートの地下食料品売り場で試食をすすめているお姉さん方なみの自己営業が必要なのです(ちなみに、履歴書を書く時はとにかく能力を大きく書けと言うのも、自分で自分を売りこむ以外には誰も評価してくれないと言う意味があるからです)。

 

自分が商品である、労働力は商品であるという事を、日本ではあまり教えていません。しかし西洋社会ではごく当然の事であり、だからその反動として労働組合が強くなるのです。

 

日本のような家族主義も、決して間違ってはいません。しかし冷厳な事実としてこの国で「労働者は商品である」と言う事を認識して、この社会の一番底辺で生きてみて、それを経験として日本に持ち帰れば、仕事ありますかと聞く前に自問自答できるはずです。

 

「わたし、能力ありますか?」。

 

 

 

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tom_eastwind at 20:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2000年2月 生活サポートって何だろう?

留学エージェント、生活サポートって何だろう?

 

毎年4,000人のワーホリがこの国を訪れる。そのうち何割かは、日本の留学会社や旅行会社を経由している。事前の出発準備から空港出迎え、ホームステイ、学校手配を代行してくれる等、初めての海外生活の不安を解消する会社の存在は大変心強いものがある。でも、どうもよく分らないのが「現地での生活サポート」である。これって一体何なんだろう?

 

留学雑誌を開いてみると、様々な留学エージェントが広告を掲載している。料金は千差万別であるが、どこのコースを開いても必ずついているのが現地サポートだ。しかし何をサポートするのかと言うと、その実態は各社抽象的である。

 

「あなたの生活を年間サポ-ト!」とは言っても、具体的に何なのか伝わってこない。最近はサービス内容を「現地でのトラブルに即対応。現地での諸手続き、全てサポートします。現地であなたに合った滞在先をご紹介。現地で希望に沿ったアルバイトをご紹介」等とabroadに宣伝している会社もある。

 

しかしアルバイトご紹介と言っても、現地オフィスでする事は、近くの情報センターの求人広告張り紙を見て手紙を送る程度だ。「あなたに合った滞在先」が、あなたに「合わない」時は、「それはあなたが悪いのよ、もうちょっと我慢しなさい。」となる。

 

「現地での諸手続き」は銀行口座開設のみ。それも最近はシティバンクがあるから不要と言う。お腹が痛くなって24時間現地サポートと言われて電話すると、「もうちょっと我慢して、朝まで痛かったら病院に行きなさい。」となる。これってサポートかい?旅行業界ならとっくに業法違反で免許取り消しだ。

 

しかし、留学エージェントはまだ社会的地位が確定していない為に旅行業のような運輸省による法律的規制がない。なので、商品内容やサービス内容が各社ばらばらであり、消費者からしても文句を言う先がないのが実情である。

 

先日もこんな事があった。「現地で体験仕事コース!プログラムに申しこんだら現地で仕事が出来ます!」とのふれ込み。ところが現地体験に限らず、世間で仕事をするには最低条件と言うものがある。少なくとも言葉遣いや服装、髪型等最低限守るべきルールがある。

 

しかし日本では面倒くさい事を嫌った為だろう、参加できる資格を明確にしていなかった。そのために現地で仕事が出来ないと言うトラブル発生。結局現地担当者の努力で何とか事無きを得たが、これも日本で販売する際のサービス内容が明確でないために発生したトラブルだ。

 

本来は日本で事前に「遊びに行くんじゃないんだから、社会人の常識として着る物や服装、言葉遣いは自分で考えてね。」程度は言うべきであろう。これを日本で説明しない理由は何なのか?一言で言えば「黙って売りたい」のである。余計な事を言って「お客」をなくしたくない気持ちなのであろう。

 

パックツアーであればまだ理解出来る。パックツアーの場合、現地担当者が何とか処理して「遊びに来たお客様」を満足させる事が出来る。しかしプログラムは違う。現地担当者の努力で解決してしまったら、ワーキングホリデイ本来の意味がなくなるのだ。

 

現地担当者のアドバイスを受けて自分が努力して解決し、自主性や主体性を身に付けるのがワーホリの本来の目的なのだ。それを日本側が「黙って」売ってしまえば、通常のパックツアーと同じではないか?

 

しかし、プログラムを購入する側にも誤解があるのは事実である。本来ワーキングホリデイとは自分で勉強する事である(筈だ)。通常のツアーでは現地係員が手足となってお客様を苦労させずに楽しませてくれる。ツアーと違うのは、ワーホリの場合は現地係員のアドバイスを受けながら自立した生活を送る事にある。

 

だから当然自分で苦しむ事も出てくる。それが勉強となるのだ。それを日本では「売るために」良い事ばかり説明する。いつのまにか旅行会社的な売りこみをやっている。イヤな事、辛そうな事は言わないまま現地に送り出す。「後は現地でやってくれるから。」。

 

しかし、ちょっと考えてみれば良い事だ。自分が何のために海外生活するのか、目的がわかっていればする事も自ずと結論は出るはずだ。「後は現地でやってくれる」のでは、楽な生活はできても本当の生活は身に付かない。折角のワーホリ体験なのに、自分でパックツアーに格下げするようなものだ。

 

ある現地担当者が話してくれた。先週の例だ。到着した学生からいきなり「あの、おいしいレストランを予約して、メニューも一緒に頼んで下さい。ノースモーキングで。」と言われた。おいしいレストラン紹介とメニューまでは分る。来たばかりでまずいレストランやメニューに当たると時間の無駄だから、紹介しよう。電話のかけ方も、当然最初の頃は分らないだろうから教える。

 

しかし、予約自体は自分でやらねばならない。それが勉強である。その為に来ているのだ。この線引きがツアーデスクと生活サポートの違いであろう。

 

学生が限られた時間を有効に使えるようにアドバイスし、交通事故や怪我、法律問題等で本人が処理できないトラブルが発生した時に援助するのがサポートであって、レストラン予約の代行ではないのだ。その事を教えると、「えー、そーなんですかあ!」と、本人はびっくりしたそうだ。

 

しかしカウンセラー自身にも質の低いのがいる。ニュージーランドの事を殆ど何も知らず、医療・保険・法律・警察問題など、各種の質問に明確に答える事が出来ないカウンセラーが多いのも事実である。

 

カウンセラーは免許不要であるから誰でもなれるのが問題でもあるが。NZ滞在何年と言っても、日本で使い物にならなくてただ単にここに住んでいるだけの「住みっぱなし」もいる。知っている事はローカル日本人村のどろっとした人間関係だけという奴だ。

 

日本で日本の社会に対して無知だった人間が、NZに来たからと言って急にNZの社会が分る訳がないし勉強するはずもない。日本にいた時も、こちらに来てからも親の金で生活してるから本当の生活を知らない。

 

「すごいですねー、長く海外生活してて!」と到着したばかりの若者に言われて単純に喜んでる永住者もいる。そんな「住みっぱなしカウンセラー」に当たったら不運としか言い様がない。

 

 

結局この問題は、留学エージェントと言う仕事や海外生活サポートと言う業務が社会的認知を得ていない上に、歴史が浅い為に発生している問題だろう。

 

お客がツアーと勘違いするケースもある。販売する方がツアーと考えてる事もある。現地がボケてるケースもある。どれひとつが間違っても、歯車はうまく回らない。一番よいパターンは、申しこむ方も「自分が勉強するのだ」としっかり認識し、販売する方も「あなたの人生の問題なのだ、自己努力が必要だ。」と説明し、現地スタッフが「ツアーデスク」ではなく「アドバイス」が出来る程に現地の事をしっかり把握している事だろう。

 

はっきり言って今はあちこちに問題がある留学システムだ。しかし、今の留学システムが悪いからと言って留学プログラムそのものが悪いというようでは、自由民主党が悪いから民主主義が悪いと言うのと同じである。

 

留学プログラムそのものは間違いなく必要である。それほどに今の日本は過保護である。昔の中島みゆきの歌ではないが、今の日本で自分を狼であると言いきれる人間がどれだけいるか。留学プログラムなしで来るのは、羊やキーウィを目隠しさせたまま狼の群れに放りこむようなものだ。だから今後も留学プログラムは増えるであろう。

 

結局ワーホリとは自分で勉強するものである。これを効率化する為に留学エージェントがある。だから正しい留学エージェントの選び方は、まず出発前のカウンセリングによって自分が不慣れな事を、よい事も悪い事も含めてちゃんと調べてくれるか。(これによって自分で調べる無駄な時間を省く事や、正しい情報を得て自分のやりたい事を明確に出来る)。

 

そして到着後のカウンセリングでソフトランディングがうまくいくようにアドバイスが貰えるか。(つまり現地での受入は担当者がしっかりしているか、ちゃんと現地事務所があるのか等である)。

 

最後は滞在中に病気、事故、警察沙汰等のトラブルが発生した場合のサポートと処理が明確であるか(現地での緊急対応策があるか。個人的努力でなく、会社としてちゃんとシステムを持っているのか)。

 

これがきちんと説明できる会社と上手く付き合っていくのが最も正しい留学エージェントの活用方法と言えるだろう。今後皆さんの後にニュージーランドに来る後輩には是非伝えて欲しい。いい事ばかり言う会社は信用するな!と

 

 

 

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tom_eastwind at 19:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2000年3月 過労死

過労死 KAROSHI, そしてDIGNITY、何と翻訳しますか?そしてその意味。日本人は本当に分っているのでしょうか?

 

日本の過労死が最近地元新聞に取り上げられた。日本政府が過労死防止の為に無料で健康診断を行うと言う記事だ。仕事のストレス、異常残業による体不全、高血圧、糖尿、そして満員電車での通勤。命を縮めるには十分な要素が揃った日本。今回は自分の常識と言うよりも日本の常識とNZの常識を比較してみた。そしてその中でDIGNITYとは何かを考えてみた。

 

過労死=KAROSHIと英語で直訳される日本の社会現象。OVER WORKで自分の肉体を滅ぼす日本人。キーウィから見たら信じられない現象である。日本人とは、本当に同じ時間に同じ地球に生きる文明人なのか?キーウィからすれば疑問であろう。

 

世界に先駆けた素晴らしい技術を持ち、アメリカと対等に戦う島国。それだけ頭が良くてよく組織化された国なのに、なぜ自分の身体を滅ぼすような事をするのか?何故、何の為に自分の身体をすり減らして命を捨ててしまうのか?

 

今のニュージーランドでは理解不能な現象である過労死。しかしここに、キーウィも日本人も互いに見落としているお互いの常識の違いがある。

 

日本の常識は、平日は残業する事で週末は休日出勤や接待ゴルフをする事。NZの常識は平日は一切残業をせずまっすぐに家に帰って家族と食事をし、週末は家族と一緒に海や山に行ってのんびり過ごす事だ。

 

平日の彼らは、本当に夕方の5時になると手に持った鉛筆を放り出しても家に帰る。夕方5時前になると、ワイヘキなどの離島の自宅に帰ろうと駆け足でクイーンストリートを下ってゆくサラリーマンを見かける筈だ。

 

彼らにとっては目の前に溜まった仕事よりも、自宅で料理を作って待っている家族の方が大事なのだ。勿論日本人は言うだろう。「俺だってたまには早く帰りたいよ、でも仕事が終わらないんだ。」キーウィは言うだろう。「明日やれば?今日は出来ないんでしょ。大体あんた、残業手当てもらってるの?」日本人は言うだろう。「そんな事出来る訳ないだろー、会社も大変だし、第一仕事なんだから!」。

 

仕事と言えばすべてが正当化されて美化される日本がそこにある。

 

会社に金がないから残業手当てを請求しない事が正しいとされる日本。もしキーウィが彼らに何故と質問したら、多分日本人はこう答えるだろう。「本当は正しくないと思ってるよ。でも仕方ないでしょ、みんなそうやってるんだから」。

 

そして日本人は自分の仲間に向ってぺロッと舌を出して言う。「今日さ、キーウィにこんな事言われたよ、全く何も分ってないんだから、あいつらは。仕事も手が遅いしさ。」。 ぺろっと舌を出す事が仲間意識の確認であり、もしその時にキーウィの見解を認めると日本人社会においては「国賊」になるのだ。残業手当が出ない?!それではNO MONEY, NO WORKとはっきり残業を断るキーウィは、村社会においては「困った存在」になる。

 

村社会においては自己犠牲が最も素晴らしい「美徳」であり、個人が自分の権利主張をする事は「自分勝手で他人の事を考えない」とっても悪い事なのだ。

 

社会の在り方や方向性は村長が決める。皆はそれに従っていればいいのだ。文句を言うな。そうして日本は成長してきた。

 

今のNZを見てみろ、何かいい事があるか?みんながわがままを言うばかりで、全然国として成長してないじゃないか! 失業率は7%もある(1999年のデータ)。(勿論政府の高福祉政策の為失業率が落ちないとか、大卒の就職率が100%に近いと言う事は、村長には関係ない)。国民数が370万人程度と日本に比べて圧倒的に人口が少ない事や、南半球と言う地理的な問題で国際市場社会への参入が遅れている事は、言い訳にはならないのだ。

 

国民が少なければ沢山生めばよいのだ。育児をしながら個人の文化生活レベルが保持出来る子供数が2名など、国が成長するためには後回しにすべき問題なのだ。子供を何人生むかは本人の自由?違うよ、国が決めるんだよ。

 

地理的に不利?だから早く軍備を強力にして他の国に戦争しかければいいじゃないか!見てみろ日本を。戦争では1回負けたけど、東はハワイから南はシドニーまで、西は中国の山奥まで一時期は支配していたんだ。

 

大東亜共栄圏はすごいんだよ!そんな一級国の国民やれてるんだから、過労死とか生活苦とか、少々の事は我慢すべきでしょう。ね、日本はいいでしょう!そのおかげでみんなワーホリ生活楽しんでいるんだから。 国破れて山河あり、民倒れて国家ありだよ。おっと、村長が本音を言うとまずい。建前を大事にしなきゃ。

 

日本ではごく普通の挨拶。「OO社の佐藤栄作ですが。」これがNZだと「栄作です、今はOO社で働いてます。」となる。なぜならキーウィにとっては、仕事先が帰属先ではないからだ。自分の帰属先は自分であり家族だ。

 

しかし日本人にとっては常に頼るべき組織が帰属先となる。その代わり帰属先に対しては忠誠を尽くす。元々村社会で成長した意識体にとって、帰属すべき組織とその中での自分の位置確認というのが、まず動物が脱糞する前に安全を確認するような自然な作業なのだ。

 

この作業が無事にいかないと、自分の生活に不安を感じる。安定を失ってしまう。だから居酒屋で隣り合った相手の年齢と会社名およびその地位が分らないと、どうも居心地の悪さを感じてしまう。日本人がまずこのあたりを明確にするために行う活動には名刺交換がある。

 

そして「失礼ですがお年は?」となる。村社会では村長制度を取っているため、年齢が増えれば猿でも尊敬される。これでお互いの地位確認は終わり、後は安心して心置きなく酒が飲めるようになる。今どこで働いているのか?年はいくつなのか?

 

キーウィの場合、バーで隣り合った人達の話はラグビーとヨット、そして家と庭の手入れの話だけである。彼らにとって話のねたは「趣味の話」であり、話している相手が(社会地位的に)誰なのか、それは肝要ではないのだ。ましてや仕事の話などが初対面で出る事は、まず有り得ない。

 

元々絶対的な神を持たず、社会の中で常に他人との比較においてすべてが決まってしまう日本人と、自分の人生は神のみが見ており、常に神との対話の中だけに自分の存在価値を見出すキーウィ。

 

だからキーウィにとっては他人がどう思うかと言うのは全く問題にならない。大事なのは神様だ。誰が見てなくても神様は見ている。だから誰も見てないからと言って悪い事は出来ない。

 

しかし日本人にとっては自分が生きる社会(村)がすべてであり、村のルールが個人のルールに優先する。人が残業をすれば、それが良い事かどうかを別にして、一緒にやらねばならない。良い事かどうかを議論するのは兵隊の役目ではない。議論はお上(政府)がやるものだ。そしてまた周囲が見つめる中、過労死が発生する。

 

しかし、怖いのはこの表面的な過労死ではない。実は過労死予備軍はこのニュージーランドにも大量に移動してきているのだ。日本に矛盾を感じて出てきたワーホリにも、実は過労死予備軍が多く含まれているのだ。どこが?と思うかも知れない。

 

それではまず村社会テストをしてみよう。あなたは名前も年齢も出身も知らない日本人と、名前も年齢も出身も聞かずにどれだけ長く話が出来ますか?他人の間違った認識や意見に、相手との摩擦を避けるために適当にあいずちしてませんか?相手の生き方に矛盾を感じた時にその場で指摘出来ますか?

 

自分のニュージー生活を見て欲しい。貴方は自分の生活を自分で見つけていますか?やりたい事、行きたい所、友達に頼っていませんか?友達も実はあなたに頼っているのです。そしてお互いに自分で生きられない二人が集団になり、村を構成していくのです。そしていつのまにか日本と同じ生活を繰り返している。

 

自分探しの旅に来たのに、いつのまにか日本と同じ生活を繰り返している。過労死予備軍の兆候は、ここにあります。結局過労死とは、「自分を持てないまま歯車になる」病気なのです。

 

自分を持つとは何か?それは自分をまず歯車ではなく人間として認識して、自分を大事にする、尊厳を持てる、自立した、自分で判断出来る人間になる事です。そうすれば他人の尊厳も理解出来ます。そして本当の人間らしい社会が出来るのはないでしょうか。

 

「友達」という美辞の元にNZでも流されやすい歯車環境を作っていませんか?友達を作る事は大事ですが、それは慰め合うものでなく、自分の意見をぶつけて励ましたりお互いに学んだりするためのものです。お互いの議論の中で自分が反省する点を見つけていく事です。助け合うのが友達と言うものでしょう。

 

いつのまにか尊厳を失った人達は、他人に対する思いやりを忘れてしまう。そしてヒステリックなまでに他人に対する攻撃を始める。

 

大雨と落雷による停電で止まった電車の駅で、駅員に詰め寄る乗客。異常である。常識で考えれば分る。雷は誰の責任でもない。そして雷が落ちても壊れない送電線を作る事は、出来ない。

 

只でさえ電車が動かずに大変な時に、自分の怒りをぶつけるためだけに駅員に詰め寄る神経とは一体何であろう。仕事の約束や抑圧で擦り切れた人間性が他人を巻きこんでしまうのだろうか。

 

相手も人間である事を忘れている。当然かもしれない、怒っている本人もすでに自分が人間である事を忘れているからだ。自分が機械の歯車であり、自分の部分はちゃんと回っているのに、他の歯車がきちんと回ってないからと怒る。

 

機械が機械を怒っているようなものだ。そこにすでに人間性は存在しない。そして他人が一個の尊厳を持った人間として存在する事を忘れている。

 

中国に駐在していた日本人マネージャーが、現地のレストランで間違ったサービスをしたウエイトレスを土下座させた事件があった。「客の前で恥をかかせられた、それもたかが現地のウエイトレス風情に!」。

 

マネージャーの給料はおそらくウエイトレスの100倍以上だろう。社会的地位も違うだろう。それであれば間違った方が土下座するのは当然だ。無礼打ちにされないだけありがたく思え!そう思ったのだろう。

 

これも人間が尊厳を失った事件だ。一体間違ったスープを運んだ事がそんなに怒る事だろうか?仕事を間違ったからと言って、その人格を否定するような土下座が必要だろうか?

 

この事件はその後大きな問題になり、くだんのマネージャーは日本へ帰った。「機会があったらまた行ってみたい。」と取材陣に語ったそうだが、それが本当だとすればまだ彼の頭には人間の尊厳というものが理解できていないのだろう。

 

雷も土下座も、ニュージーランドでは考えられない。事件と人格は別である、事件をもってその人の人格や尊厳を否定する事は出来ないと言う事をこの国の人々は理解しているからなのだ。

 

NZでは刑務所の中でも人々の尊厳は守られる。例え犯罪者でも、尊厳は守られる。日本では、刑務所の中でも外でも、人の尊厳は守られない。すべては仕事のため村のため、組織のため、人の尊厳は踏みにじられていく。

 

「おまえが正しい、でも世の中はそれだけじゃないんだよ」。そう言ってますます人は人である事を忘れてくる。それに慣れてだんだん感覚が麻痺してくる。彼らを見て育った子供達はおやじ狩りや浮浪者狩りに走る。そして友達を殺す。そうなってしまった世の中のどこが間違っているのか、今の日本にいると分らない。

 

小さな例を取り上げる。憶えている人も多いだろうが、数年前にオークランドで大停電が起きた。市内中心部の電気が、約1ヶ月にわたって殆ど通じなくなったのだ。そのため多くのビルは閉鎖、街の信号もすべて光を失った。

 

勿論ビルを追い出された会社は後日電気会社に移転費用請求を行い、レストランやショップも休業補償を受けた。しかしそんな中でも大通りの交差点を走る車には全く渋滞が発生しなかった。電気会社の社長はすぐに全面的に非を認めて謝罪したが、土下座はしなかったし、誰もそのような非生産的な要求はしなかった。

 

皆さんが自分の住んでいた街の駅前の交差点を思い出して欲しい。もし交差点の信号が壊れたら次に何が起るか?渋滞である。そして電気会社の土下座であろう。誰もが道を急ごうとしてかえって道を塞いでしまう日本。

 

何故オークランドのような大都会で、警察の誘導なしで渋滞が発生しなかったのか?それは、お互いに道を譲るからだ。何故道を譲るのか?キーウィに聞いても、彼らもすぐには答えられないだろう。彼らにとって助け合いとか譲り合いと言うのは意識外の反射的行動である。だから何故と聞かれても彼らも困るだろう。

 

「何故って、何故?当たり前の事でしょう」。そうしか答が出ないだろう。しかし実はこのような意識外の反射的行動に、その国民性が現れる。自分の事は自分で判断する。他人とその人格を認める。そうする事によって自分の人格も認められる事が、日常生活の中で理解できているのだ。

 

大変長い話になってしまったが、キーウィは(読者には色々と反論をお持ちの方もあるだろうが、)敢えて一言で言えば高い社会的道徳性を日常生活の中で後天的に身につけていると僕の経験で感じる。

 

勿論レベルの低い輩も、中にはいる。特にNZがすべてと思いこんでいる、日本の江戸鎖国時代の攘夷主義者みたいな輩もいる。僕もNZのすべてがいいと言っている訳ではない。

 

仕事の要領も悪い。ミスも多い。街中のペンキ塗りたてで汚れた手、看板くらい置いとけ!個人生活の観点からすれば文句もある。しかし国民性と言う統計で判断すれば、彼らの自立した社会的道徳性は、我々日本人から比較して非常に高い事がさまざまな日常生活から伺える。

 

病気に喩えれば過労死は症状・結果である。そしてその原因は(野菜が不足して脚気が発生するように)、人間性と尊厳の不足によって発生する。尊厳とは自分が人間である事を理解し、他人も人間である事を理解し、人間である限り当然必要な社会ルールを大事にしていく事。

 

この尊厳と言うビタミンこそが我々日本人が今一番不足しており、そして今一番身につけるものではないだろうか。それがこの国で学ぶ事が出来る最高のものだと思う。

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tom_eastwind at 18:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2000年4月 女が人になる時代

21世紀・女が人になる時・国境のない時代

 

オークランドの日本料理店でロサンジェルス生まれの日本人と韓国人と中国人が英語で会話していた。内容はIT産業に関する事だ。オークランドの新規クライアントに対して提供する無料ホームページシステムらしい。

 

メンバーの中の日本人がシェフに刺身を注文していた。勿論日本人が日本人シェフと話す時は日本語である。周囲に断ってから日本語に切りかえる。韓国レストランに行けば、同じ事が韓国人と韓国シェフの間に起こる。中国人の場合、まず相手が話すのが広東語か英語かを確認してから母国語に切り換えるようだ。

 

21世紀にはこのような風景が当たり前の時代になる。住む場所の言葉と自分の母国語を、何の違和感もなく同時に使う。バイリンガルが当然で、それプラス専門特化された自分の知識を持つ事が当たり前の時代になる。

 

実は中国人社会ではすでに100年前からバイリンガルが常識になっている。今でも南島に住む多くの中国人は、家庭では広東語、大学では英語を当然のように使っている。彼らが特別に言語の才能があるのではない。単に民族特性の違いである。

 

現在のロサンジェルスではこんなジョークがある。「おい、ここはアメリカなんだ、だからちゃんとスペイン語で話せ!」である。それほどにアメリカ南西部ではヒスパニック民族が増加している。一般の役所でも英語とスペイン語の両方を表示しているのが当たり前である。そして多くの中国人移民が合法、違法を問わず年間数十万人単位で米国西部に流れ込んできている。

 

エリン・ブロコビッチ

 

そしてもうひとつの21世紀。これからは結婚が目標でなく一つの過程として扱われるようになる。いい女はいつまでも恋をする時代になる。

 

結婚などは「してもしなくても」大きな影響はない。結婚は元々一緒に住む二人の所有権に対する社会的権利を保障するために発生したシステムであり、同性間の結婚や性転換後の結婚、デファクト関係が社会で認知され始めた現在では、すでに時代遅れの感がある。

 

21世紀は女性がその才能を活かして自分で技術を身に付け、一人でも一生生活できるだけの資金的余裕を持つようになる。勿論本人次第だが。少なくとも結婚と花嫁姿に涙を流して、公園デビューとか子供の洋服の専門雑誌を読んでいる時代はあっと言う間に過ぎ去ってしまう。

 

そんな新時代を迎える今、4月から新しくニュージーランドで生活を始めた皆さんは、自分のこれからの半生をどのように過ごす計画をお持ちだろうか?おそらく多くの方はいずれ日本に戻る予定であろう。だから海外生活を楽しんで英語を少し勉強して、日本に帰ってから正しい就職と正しい結婚を目指すのだろうか。

 

勿論今の日本は鎖国化されており、海外の人間と力量を直接比較される事はない。

 

しかしこれからは日本を含めて国境のない時代に突入する。今の米国や西洋諸国がすでにボーダーレス時代に突入している。これは間違いのない事実である。そんな時代に僕らはどうやって生きていくのだろうか?

 

日本にいて普通に生活していても、国境のない時代は向こうからやってくる。結婚して家庭を作っても、夫はいつリストラされるか分からない。また、いつ会社が外資に買収されるか分からない。そんな時に英語まあまあ、日本語も普通、特別な能力なしでは、到底日本での普通な生活はおぼつかない。

 

すでに日本語の上手な中国人や米国人がその特殊な立場を利用して日本社会に参入し始めている。外国人弁護士や外国人医師が日本で開業するのも間もない。そんな時代にみんなが生きていくのに最低必要なものは、少なくとも日常生活で全く不自由しない程度の英語、コンピュータースキル、そして一芸、例えば陶芸、園芸、ヨット、飛行機操縦免許、等である。

 

これから1年間ニュージーランドにワーキングホリデイで住む皆さんに言っておきたい。ニュージーランドでできるだけたくさんの事を学んでいってほしいと。遊んでしまえば日本に帰って必ず後悔する。

 

勿論あなたの親が田舎の金持ちであれば、毎日のんべんだらりと生活しても問題ない。金があるのだ。努力する必要などない。毎日夢みたいな事ばかり言って、やる気もない、出来もしないことばかり言ってればよい。

 

しかし、本当に自分の人生を自分でコントロールしたいなら、努力して自分を高めることしかない。ちょうど今ジュリア・ロバーツが演じる「エリン・ブロコビッチ」と言う映画が上演されている。これを見ると今の米国人女性がどれだけ強く生きているか分かる。

 

何をするにしても、後悔しない人生を送る事のキーは、あなた自身です。

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tom_eastwind at 17:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2000年5月 マニュアル人間

マニュアル人間に生き残る道はない。

 

規格大量生産と言う大目標に向かって驀進する機関車のように戦後を進んできた日本は、未曾有の発展を成し遂げた。この間における殆どすべての日本人がその恩恵をこうむったのは間違いなく、同じ時代を中国で文化大革命の嵐の中で無為に死んでいった中国人と比較すれば、国家の発展と言う点から全体的に判断すれば日本の勝利であろう。

 

日本と言うよりも、こう言ったシステムを構築した日本官僚の「俺が国家を支えているんだ!」と言う凄まじいまでの自負を持った努力の賜物である事は疑い得ない。もちろんその中で三池三井炭坑労働争議、水俣病、四日市公害、成田空港、自然破壊と多くの社会的事件を生んだのは事実である。

 

今も諫早湾埋め立てや苫東開発等に過去の負の遺産を抱えてもいるが、そう言った過去の問題が厚生省によるお詫び、あるいは建設省による歴史的和解、開発中止等である程度処理できた時に必要なのが、これからの日本がどこに向かうかと言う指標である。

 

坂の上に雲は見える。でも、どちらの坂を登るべきか?

 

国際化と言う言葉が出始めたのはいつからか分らないが、少なくとも官僚組織がこの問題に対して約10年前から全力で取り組んで来たのは事実である。そしてその結果が今実現し始めている。

 

最初の兆候は外国人が日本に増え始めた頃である。最初は労働力不足と言う名目の元、外国人が増えた。そして法律変更による在日外国人の日本国籍取得、株式上場基準見なおし、金融ビッグバンの誕生と、一つ一つ小出しにされていた時は気づかなかったが、時間軸を当てはめて見るとその取り組みは一目瞭然である。

 

官僚は国家レベルで十年かけて「国際化」を確実に一歩づつ作り上げてきたのである。ではなぜそこまでして国際化が必要なのか?そして官僚の考える国際化とは何なのか?

 

日本は加工貿易立国である。自国で原材料を持たない国は、人か技術を持つしかない。そこで日本は小学校教育から模範的国民の「鋳型」を作る事によって全国民が同じ形になるようにして労働力と技術を確保して、海外に出かけて車と電気製品を売りまくった。

 

しかし相手国での販売の自由を獲得するためには、相手国の日本における販売の自由も認めねばならない。特に日本の商品がどんどん売れる時にはなおさらそうである。その時に相手国と日本の販売に関する規則や方法が違っていたら、これは不公平である。

 

外国で日本の商品が自由に売れるのに、外国人が日本で売ろうとすると様々な規制があるのは不公平と言われても仕方ない。そんな時に「日本固有の商習慣」と言っても通らない。何せ相手の国ではこちらは自由に売っているのだから。

 

勿論自分に資源があれば、どんな無理でも通る。サウジアラビア等が良い例だ。しかし日本には、悲しい事に資源がない。余っているのは人だけだ。そしてこれだけ拡大した日本のビジネスは、輸出しなければ成り立たないサイズになっている。

 

従って海外で物を売る為に世界共通のビジネスルールを採用せねばならない。日本だけが違うとは言っておられないのである。その為には国内における大手企業を守る行政主導の日本株式会社方式や銀行・証券・企業の株取得・生命保険・損害保険などを守る護送船団形式を世界標準に変更せねばならないのである。

 

ではなぜ今経済開国をせねばならないのか?とりあえずもうちょっと時間をかけて軟着陸する場所を探せばとも言えるだろう。しかしバブルの崩壊と言うとんでもない爆弾を抱えてしまった日本は、今開国せねば巨額の国債と大赤字の銀行を抱えて倒産してしまう可能性があるのだ。

 

信じられないかもしれないが、実に今の日本は倒産の危機に瀕しているのだ!

 

国が倒産すると言うのは感覚的に分りにくいが、簡単に言うと日本が外国から信用をなくして通貨が暴落する事である。そして今発行されている国債を誰も買わなくなるので償還が来た時に返す金がなくなる。

 

金がない政府に対して、外国企業や政府は国有財産を売って返せとなるだろう。例えばタバコの占有販売権を米国に10兆円で売るとか、成田空港の運用権を1兆円でヨーロッパの会社に委譲するとか、そうやって金を返さねばならないのである。

 

また、今まで100円で買ってたアメリカ製の原材料が1000円払っても買えなくなるのである。そうなると日本では外国製品はすべて値上がりする。そして日本は原油、食料などを輸入に頼っているから諸物価が高騰するが、それに合わせて給料を増やす事がインフレーションにつながる。その結果は社会不安と失業、そして国民の暴動であり、政府の崩壊につながるのである。

 

インフレの結果は明治、大正の日本や欧州で十分過ぎるほど経験している日本政府は、だから世間の批判を食いながらでも銀行を潰さないために公的資金を注入し、公定歩合をゼロにして何とか延命措置を取っているのだが、その延命装置も税金や国債の発行で賄っている。

 

利益で賄っているのではないのであるから借金にも限度がある。今の日本に必要なのは世界の資金である。弱い日本に対して投資してくれる外国資本が、のどから手が出るほど欲しいのだ。だから日産を外国の企業が買うし、長期信用銀行を外国の銀行が買うのである。

 

どちらも日本の超一流伝統企業である。15年前ならば絶対に売らない相手に伝統企業を売ったのは、如何に日本が金を欲しいかと言う表れである。日本は純血主義だけではもう生きていけない貧乏華族なのである。

 

そして外国にお嫁さんに出すには、それなりに外国人に綺麗に見えるように化粧もせねばならない。それが護送船団の取り止めと国内法律の国債標準に向けた整備である。

 

経済開国するとは、肉を切らせて骨を断つ荒療治である。国内整備をする事によって多くの国民が痛みを感じる。そして切られる部分の肉にしてみれば痛みどころか、死活問題である。今まで正しいと思ってやっていた事がある日突然間違いに変わるのである。

 

明治維新がよい例だ。それまでちょんまげをつけて刀を持って町人を無礼討ちに出来ていた侍が、ちょんまげを切って刀を捨てさせられて四民平等になり、おまけに廃藩置県で給料も出なくなった。

 

おかしい、俺たちを救うための明治維新じゃなかったのか?農民もびっくりした。、明治政府になってから徳川時代より税金が増えて取り立てが厳しくなり、あげくの果てにそれまでは侍だけが兵隊だったのに、富国強兵国民皆兵により、一般農家からも兵隊が徴られ始めたのである。それが明治維新である。つまり明治維新は、その当初において誠に一般市民に受け入れ難い、大変な苦労を強いるシステムだったのである。

 

政府も、分っていてそれをやった。やらねば日本と言う国が沈没するからである。日本を守ると言う大義の元、今までのシステムにしがみ付いていた人々は切り捨てられたのだ。これと同じ事が今起きている。まさに平成維新である。

 

そんな明治時代に立身出世した人たちもいた。岩崎弥太郎・渋沢栄一・井上馨・山県有朋など、いずれも貧乏な家庭の生まれである彼らに共通するのはマニュアル型ではない、縦横無尽の知恵で時代を生き抜いたという点だ。

 

今までがこうだからとか、こうだから出来ないと言う世間の常識を引っくり返して、どうやったら出来るのかと言う一点のみに神経を集中し、そして常識と呼ばれる殻を次々に打ち破ったのだ。

 

他にも多くの人材が輩出したのが明治である。なぜこの時代に多くの人間が下層階級から出たか?それは、この時代は既存の秩序が崩壊しているが新しい秩序が生まれていない、法律における全く自由地帯であったからだ。そして過去に縛られる事の多い金持ちよりも貧乏人の方が判断の自由があったからだ。

 

皮肉な自由であるが、それをどう生かすかは本人次第だった。そしてそのチャンスを生かした人間だけが生き残ったのだ。そしてそう言った人物を起業家と呼んだのだ。戦後にも多くの起業家が輩出した。松下・本田・盛田、皆起業家だ。戦後と言う混乱時期が生んだスーパースターである。

 

現在米国における起業率は15%、日本のそれは3%以下に過ぎない。

 

官僚は今日本に一番不足しているものを知っている。それは起業家だ。既存の大手企業は世界標準と戦う事が能力的にも精神的にも出来ない。彼らはマニュアルなしで動けないからだ。道標のない時代にマニュアルなしで自分の判断で生きていける起業家は、結局国を動かす事が出来る。だから官僚は今は外貨獲得をしながら同時に日本の起業精神を切実に求めているのだ。

 

その表れが東京証券取引所によるベンチャー支援のMOTHERSだ。赤字でも上場出来る。そして通産省によるベンチャービジネス支援だ。起業家には担保なしで金を貸そうと言うのだ。今自分がこの国でマニュアルなしで動く事を覚えれば君の将来は保証される。もし日本に帰ってもマニュアルどおりに生きて行けば、君は間違いなく化石になる。

 

平成維新はすでに始まっている。明治維新の主役は武士であり、平成維新の主役は官僚なのだ。

 

今日本で起こっている現象は、血の流れない革命である事を認識しているだろうか?維持しながら刷新していく作業では、人の血が流される事はないが、今まであった多くのものが抹殺されて「過去の遺物」となって博物館に飾られていく。

 

「昔はサラリーマン企業戦士という階級があって、日本人の80%はそう言う人だったのよ。見て、この疲れた顔でよれたネクタイして、居酒屋では上司の悪口言いながら昼間は部下いじめをしてた人たち。」そう入館客に指差される日も遠くないであろう。

 

明治維新では45年の間に多くの既存階級(武士・公家)が時のかなたに流されていった。平成維新では昭和にすがり付いて終身雇用と年功序列を信じていた企業戦士階級(サラリーマン)が流されていくのである。

 

そんな時に君はマニュアルなしで生きていける自分を、この国で見つける事が出来るだろうか?それは君次第だ。

 

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tom_eastwind at 16:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2005年07月09日

2000年6月 カッコ-の巣の上で

怒らない人々 カッコーの巣の上で

今から四分の一世紀前に「カッコーの巣の上で」と言う映画が上演された。後にアマデウスで監督賞を獲得したミロス・フォアマン監督、69年代最高の映画イージーライダーで脚光を浴びたジャック・ニコルスン主演、プロデューサーは今は俳優として有名なマイケル・ダグラス。今考えれば超豪華キャストで1975年に上演されたこの映画は、その年のアカデミー賞で主要5部門を獲得した。

自分が今生きている世界が、実は嘘で塗り固められた世界であると気づいたら貴方はどうするだろうか?そんな事ないよ、目の前に見えてることが嘘な訳ないよ!誰もそう思うだろう。しかし、映画「マトリックス」ではないが、今から55年前に日本である事件が起こった。

事件と言うよりは、その期間の長さを考えれば“時代があった”と言うべきである。それは1938年頃から始まり、1945年まで7年間も続いたのだが、その時代に生きていた日本人の殆どすべてが騙されて、国民の見るもの聞くものの殆どすべてが嘘で塗り固められていたと言う事件だ。あなた方の祖父祖母の時代である。決して大昔ではない。

その当時の国民は7年の間、日本政府によって騙されていた。国民は時の政府の言われるままに挙国一致で‘鬼畜米英’と戦った。勿論一部の人間は「日本が侵略戦争をしている」事実を知っていた。政治家と反対派、そしてマスコミである。

政治家は自分の野望をかなえる為に軍人と結託して国民を煽った。反対派は自分の意見を公開する場所がないままに南方の戦地に送り込まれ、そのまま帰らぬ人となった。マスコミは保身の為に偽情報を流しつづけた。その為に人々が死ぬ事があっても自分が死ぬことはないからだ。

そしてすべての国民は挙国一致で戦地に送り込まれた。

この時に政府が行った宣伝政策がマインドコントロールである。政府に比較すればオウムのマインドコントロールなどはかわいいものである。サリンで被害を蒙った方は数百人、しかしこの時代に被害を蒙った人々の数は、数百万人である。

政府がマインドコントロールをする際は、通常マスメディアを利用する。特に当時はラジオや新聞が効果的だった。日本人は紙に書いた事やラジオから流れる言葉をそのまま信用する癖があるからだ。それに“天皇”とか“御国のため”とかのオマジナイを少しかけてやれば、当時の殆どすべての人間は舞い上がって、涙を流して死んでくれた。

そして敗戦。日本の統括者として乗り込んできた連合軍のマッカーサー陸軍元帥は「日本人の思考は12才の幼児と同じ」と公言してはばからなかった。なぜか?それは国民のが独自の思考をもたない事に気づいたからだ。ではどうやって気づいたのか?

マッカーサーが最も恐れていたのは、例え政府を降伏させても、狂信的な国民すべてがゲリラになるのではないか?と言う不安であった。日本兵の戦いの凄まじさを肌で体験していた彼は、その恐怖から逃れる事が出来なかった。ところが実際に厚木に乗り込んでみると、実態は全く違っていた。そこに待ち受けていたのは、信じられない程従順で異国の客を迎える人々だったのだ。

日本人の頭脳にインプットされた“鬼畜”は、1945年8月15日にデータを再処理されて“メリケンさん”となり、米兵が乗るジープの後を子供が追いかけてお菓子をねだるようになったのだ。

個人の判断を至上とする西洋の常識では考えられない事が次から次へと発生した。米軍相手の商売、闇酒、闇タバコ、オンリーさん、PXで生き生きと働く若者たち。彼らはつい昨日までの敵だったのだ。一体これは何なのか?昨日まで、例え歯で食いちぎってでも敵を倒す事のみを追求していた人々が、たった一夜で“歓迎の旗”を振る。それも心から嬉しそうに。

そしてマッカーサーは遂に理解した。国民の思考を奪い、マインドコントロールをする。その結果、昨日の敵が今日のお客様になる。これが実は日本政府が古代から行ってきた民衆マインドコントロールであり、長い歴史の中でたった一度だけ外国人にその正体を見せた時だったのだ。

個人の思考回路をマインドコントロールによって遮断、個人の思考能力を無くす。.これは反乱や一揆を恐れる為政者にとって最高の政策であり、日本は綿々とした長い歴史の中で(江戸時代はおろか明治以降も同じで「考える国民→政治に疑問を感じる」は不要)国民から思考能力を奪い続けた。

実は戦後も同じ方法が踏襲された。当然だ。戦争に負けて多くの一般人は死んだが、戦前の政治家は「終戦と言う緊急事態をソフトランディングさせる為に」そのままぬくぬくと新政府に残って、佐藤栄作や池田勇人のような人々が政治をやってきたのだから。(このあたり、今のバブル処理と同じ「ソフトランディング」の言い訳である。もっともその結果がどうなったのかは、そごう問題等で国民が一番よく理解している)。

そしてこの稀代の政治家達が作ってきた「日本」は、高度成長によるテレビの出現と民間への普及によって戦前よりも強力なマインドコントロールを行う事が可能になった。

戦後の日本ではテレビ世代と言われる人たちが一つの社会を構成する前に「思考を訓練した世代」が一時的に日本を動かそうとした時代がある。60年代の学生運動華やかかりし時代である。彼等は暗中模索の中でも将来を考え、その結論を行動で表した(結果の善し悪しは別にして)。

しかしその結果は「思考し行動する事によって逆に社会から疎外される」と言う結論を得たに過ぎない。この「思考する世代」もこれを切っ掛けにして思考する事を止めてしまった。

池田勇人が総理大臣になり「貧乏人は麦を喰え」と経済政策第一の日本が動き出し、高度成長時代(経済の/この時期から日本の自然は破壊されていった)を迎え、どの家庭にもTVが普及し、テレビ世代が生まれた。

この世代以降、日本人はテレビによってものを知り、テレビによって共通の話題を得るようになった。方言が使われなくなり始めた時代でもある。そして政府のテレビによるマインドコントロールが始まったのである。

そのテレビ番組の中身と言えば、バラエティと称する、芸の出来ない芸人が集まっての時間潰しや野次馬根性丸出しでプライベートを暴くノゾキ番組、学芸会のような歌番組等々がズラリ。思考能力を必要としない番組ばかりが肩を並べている。

テレビ電波は郵政省によって割り当てられている「公共の電波」である。「公共の電波で伝えるべきこと/日本の現実や国際的状況など」は探すのが大変な程少ない。その結果街頭インタビューで『自自連合とは』と質問された20才前後の女性は「ジジーの集まり」(ジョークではない)と愚にもつかない答えを発し、恥じるでもない。

日本人の頭の中は55年前と少しも変わっていないのである。公共の電波→政府が認可→無思考番組という構図から見ると、政府がテレビ局を利用して国民のマインドコントロール(無思考)を完成させた......と言っても過言ではないだろう。

思考能力を持たない自分。その事実を外国人に指摘されてもまだ気づかない日本人。

自分たちが「思考能力を持たない特殊な国民」であると言うことを、「特殊な思考文化を持つ国民」と言い換える事によってその場で納得しようとする。又は指摘を受けた外国人の持つ文化と自分の文化を、(殆ど客観的な比較の要素なしに)純粋に主観と他人の受け売りのみによって比較して、「だからあの国は駄目なんだよ!」と切り捨ててしまう日本人。

読者は既にご存知であろう、日本人の読書量の多さ(特に週刊誌や批評)を。何故なら日本人は批評家を必要としているからだ。自分で判断出来ないから、批評家(又は大勢の他人)の言う事を聞かなければ不安なのである。

自分で食べているもの、観ているものが本当に良いかどうか、批評家の答が出るまで答えられない。なぜなら自分の意見がないからだ。批評家なしでは料理の味も映画の良さも分からなくなった国民。裸の王様を笑っていられない状況である。

「カッコーの巣の上で」と言う映画が上演されたのは、実に25年も前である。ジャック・ニコルスン演じる主人公マクマーフィーは、刑務所の強制労働を抜け出す方法としてオレゴンの州立精神病院に入った。そこで見たものは、個性を全く殺してしまう洗脳教育であった。

病院に入った男が、無気力に管理される患者たちを生き返らせようとする。人間の尊厳をテーマにひとりの男の行動と悲劇を描く。しかし、何より怖いのは、実はその病院に入っている多くの病人は、実は自分で選んで入院していたのだ。コントロールされる事を望んでいたのだ。

自分で考えて自分で動くことを貫いた挙句、遂に病院によって前頭葉手術を施されロボトミー(無思考状態)にされたマクマーフィ。そんな彼の遺志を受け継ぐように、その晩一人の患者が病院から抜け出した。

貴方は人に感想を質問されて答えられずに困った事はないだろうか?何が一番かと聞かれて不安を感じた事はないだろうか?裸の王様を読んだ後に、自分が踊らされていないと自信を持って言えるだろうか?君の前頭葉はマインドコントロールされていないと答える自信はあるだろうか?

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tom_eastwind at 07:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)