2006年01月
2006年01月31日
地球は狭くなりました。
「翼があれば、鳥のように飛べる〜」そんな歌を、20年以上前に小田和正が歌っていた。タイトルは「地球は狭くなりました」
小田和正が歌った頃は想像もつかなかった、「翼」の発達。今週からジョディフォスターの映画「フライトプラン」で使われている2階建ての飛行機や、超高速飛行機、長距離飛行機、そしてリニア新幹線など、最新技術の発達で地球が比例的に小さくなってきている。
そしてIT技術。インターネットはあっという間に地球を覆い、オークランドに住む娘さんが、5分前に日本の田舎のお婆ちゃんが撮った写真を見ることが出来て、何かあればすぐにメールを送り、TV電話で顔を見ながら話が出来て、必要であれば翌朝の飛行機に乗れば、夕方には東京に着いている。
こんな時代に新しいビジネスとして出てくるのが、2カ国暮らしだろう。フレックス勤務が社会的に導入されれば、その最終形はNZに住みながら日本の企業で働くという事になる。現実にITビジネスや漫画業界では実現しているのだから。
NZでは多くの日本人が、インターネットを使って日本で商品を販売し、月一で日本出張して雑務の処理、終わればまたNZの我が家に帰るという形を取っている。シドニーではかりやてつさんが漫画の原作を書き、それを日本にファックスしたり、メールしたりで日常業務を処理している。そのような風景が普通になっていくのだ。
勿論、建設業等、日本を離れては物理的に不可能なビジネスもあるが、医者の簡単な手術程度であれば、遠隔操作が可能になっていく。
こんな時には、全く新しい社会が構築される可能性がある。労働者としての社会参加と、地域住民としての社会参加に全く関連性がなくなってくるのだ。
つまり、労働サービスの提供は実質的に日本で行い、日本で報酬を受取るが、その振込先はNZの口座という事になる。こうなると、所得税はどちらで納税するのか?市民税は?遺産相続は?と、様々な問題が出てくる。
実はこれが、これからの国際化で国家が抱える一番の問題になるのだ。税は国家の基本だが、納税の根拠である「住居」が国際移動をした場合、世界中の国家同士が納得出来る納税の仕組が必要になるのだ。つまり、どこの国家も税金が欲しいから、住民に対して良いサービスを提供する事で、自分の国家に住んでもらうような「営業行為」が発生するのだ。
これって、ホテルと同じだ。自分のホテルに泊ってもらいたいから、ホテルはそれなりのランクで営業行為を行う。その料金とサービス内容に納得した顧客だけが、そのホテルを選ぶのだ。
納得というのがポイントで、何故なら人々は、納得出来ない国に住む必要はなく、自分が納税して、納得出来るサービスを受ける国に移り住む事が可能になるからだ。日本国憲法でも、国民の移動の自由は保障されているのだ。
現実的に今、NZではその動きが出ている。日本で仕事をしていたけど、税金の無駄使い、役人の横領、官製談合など、あまりに腹立たしくて、もう日本では納税しない、納税の基礎となる住居をNZに移すという事だ。
彼らは日本を嫌いなのではない。いや、むしろ人一倍日本に強い関心を持っている。だからこそ「今の政府」に対して怒りを持っているのだ。無関心であれば、そのまま日本に住み続ける。日本を脱出する彼らが好きなのは日本の海や川や山なのであり、税金収奪国家としての日本政府ではないのだ。この点を政府が履き違えると、大変な事になるだろう。
このような活動的な日本人が日本を離れていくと、どうなるか?当然税収は減る。その時になって国民サービスを考えても、もう遅い。一度信用を失った企業の復活が難しいように、一度信頼を失った国家に戻る人は、少ないからだ。
NZのような国家でこれから伸びるビジネスは、現地に居住する日本人向けサービスだろう。車の修理、医療、日本語教育、旅行会社、住宅関連ビジネスなど、長期的に見れば確実に伸びてくる。何故なら、日本人が日本で受けてきたソフト面でのサービスは、現時点では世界でトップであり、そのサービスだけは他の国民には実現不可能だからだ。
今NZにやって来てそのようなビジネスに取り組み始めれば、先行利益を得る事が出来るだろう。但し注意点が一つ。既存でも同じようなビジネスを日本人が取り組んでいるが、彼らに不足しているものを埋める努力をしない限り、店を作るだけでは無意味である。
早い者勝ち。いつの時代も同じだが、混沌とした中で最初の一歩を踏み出した者に、神様は勝利を与えてくれるのだ。
2006年01月29日
冬晴れの渋谷にて
冬晴れの東京。珍しく空が青い。渋谷の道路脇の日陰にはまだ残り雪があり、中年の奥様が運転する銀色のベンツはガード下に違法駐車している。
首に巻いた金色のチェーンを、まるで犬のようにじゃらじゃら鳴らしながら、年端のいかぬガキどもが横断歩道を無機質な顔で宮益坂に向けて渡っている。
チンピラが出てくるにはまだ早く、歩道に止めている違法駐輪の自転車を区役所の年老いた職員が、これも無機質に黙々と没収用トラックに積み込んでいる。
歩道から少し奥に入ったところに、青いビニールシート群が見えた。丁度線路と飲み屋街の間に挟まれた狭い道路沿い。ホームレスの人々の住処である。畳一枚分もないような狭いシートの中に小さく汚れた布団を敷いている。
電気も無いので小型ガスコンロを置いてる住処もある。くたびれた、でもゆるい顔をしたおじさんが隣のビルとの境にあるフェンスに布団を干していた。晴れた日の太陽よ、ありがとさん。
中年というには年老いており、ただ一日を暖かく、何も考えずに生きている人たち。
俺はもう、人生のレースは降りたんだ。もういいさ、これから後は、とにかく毎日食えるだけの仕事をして、明日の事は考えない。
他人に危害を加えようとは思わない。ただ、俺に関心を持ってくれなければ、それで良い。俺は透明人間だ。ベンツやガキと同じ空間にいるが、その場所を彼らとシェアしている訳ではない。透明人間なのだ。
だから、僕らにガソリンをかけないで欲しい、殴らないでほしい。放っておいてくれれば、それだけで良い。
昔は浮浪者という言葉があり、本当に服装も汚く、風呂にも入らず、レストランの残飯を漁って生活をしていた、精神的にもイッてる人だった。
今のホームレスは、少なくとも浮浪者ではない。中には定期収入を得ている人もいる。人生、ひょんな所で道を間違って、たまたま住む所がなくなっただけの、それだけの人だ。ゲームを降りただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。ただ、降りただけだ。
誰にもある、人生のちょっとした落とし穴。昨日までは幸せな家庭を持っていたのだろう。バブル時期に、まだまだいけると思って株を買った人、家族と、少々の自分の見栄の為に、これからもボーナスが毎年6ヶ月あるだろうと思って家を買った人たちだ。
歩道で自転車を回収しているおじさんと、フェンスで布団を干しているおじさんの距離は、たった10メートル。いつでも、ひとっ飛びで、反対側にいける距離。
渋谷の朝が異常なのか?それとも日本全体が異常なのか?
2006年01月28日
スターバックス
ある朝、六本木ヒルズのスターバックスでコーヒーを飲みながら、周囲に英語が飛び交う中で、空を見上げながらふと思った。
米国が日本に持ち込んだものはたくさんある。そりゃそうだ、戦勝国なんだから、負けた国に何をやっても、文句は言わせない。下手に逆らえば、「じゃ、もういっぺんやるか!」となるだけだ。
まだ勝てない。もうちょっとだ。もうちょっと、日本が独自技術を開発し、昔の梗概を取り戻し、精神論ではなく物量や理論で考える癖がつくまで、もうすぐだ。
スターバックスの前日に秋葉原を回って、そんな感じを受けた。政府は、ここを次の時代の日本の繁栄の拠点としようとしているのではないか。筑波エキスプレスを走らせて、電気街の反対側に高層ビル群を建てて、技術を集積させ、これからの50年を創ろうとしているのではないか。
唐津一と言う政府に助言をしている技術者は、事あるごとに秋葉原を取り上げている。石原慎太郎もそのようだ。
日本政府。全く怖い存在である。彼らの判断一つで、国の行く先が決まってしまう。60年前、彼らの判断ミスで手酷い失敗をしたこの国は、15年前にも再度大きな失敗をした。その原因はどちらも、失敗の恐怖を知らない、危機感の無い、親に甘やかされた二代目連中だった。
しかしその後、失敗を知った連中は強くなる。今回も、何とか立ち直って国の行く先を決めようとしている。技術立国、知識の国創りである。
東京と地方は全く違う存在である。しかし、間違いなく日本は、東京から変わる。東京は東京なりに、日本全体を考えている。基本的に日本政府を嫌いな僕であるが、政府の一部の人たちの努力は、積極的に認めて評価したい。
日本、頑張れ。
2006年01月27日
男たちの大和
実は僕は大の映画好きで、高校生の頃から休みの日は4本くらい「はしご観」していた。監督、俳優、撮影、舞台装置など別に5点評価を作成していた。
最近はすっかり忙しくて、映画を観るのは飛行機の中限定だったが、今日はたまたま東京で時間が空いたので、観たかった日本映画を2本「はしご観」した。
最初の一本は「男たちの大和」。以前から観たいと思ってた映画だ。
渋谷東映7階で10:00から観る。平日だし、朝早いのでがら空きからと思ったら、これが思ったより入ってて、通路側の席はほぼ全部埋まっていた。
さて映画。久々の日本映画だが、スケールの大きさだけでなく、今の日本人に対するメッセージ性の強い作品だった。結果的には「超二重丸」、日本人なら是非とも今観てもらいたい出来上がりになっていた。
渡哲也、林隆三、仲代達也等の実力俳優も映画を引き締めているが、それよりもこの映画は中村獅童の眼力が、この作品に更に凄みを与えているのだ。
映画の出来上がりの8割は監督の腕だという。監督の佐藤純爾は今までも名作を作って来た日本の誇りとする監督の一人だが、今回は何よりもタイミングが良い。
日本と言う国が「第二の終戦=バブルの崩壊」で米国に負けたが、「失われた10年」を過ぎて、やっと自信を持ち直し始め、これからは、日本人は日本人らしく生きていこう、間違った精神論じゃなく、技術と団結力で日本を良くしていこう、そう言うメッセージが伝わってきた。
人は誰の為に死ねるか?戦争で特攻をした人々の死は、無意味ではなかった。これから来る素晴らしい未来の為に自分の命を捧げ、この戦争にけりをつけて、早く次の時代にバトンを渡そうとしたのだ。
そして第二次世界大戦に対して全面的に無思考的に「日本が悪かった」と思っている政治的幼稚園児にも、それなりのメッセージを送っている。
何故日本は戦ったのか?何故日本は負けたのか?これから日本はどうするべきか?戦後60周年を記念して作られた、現在の日本人に対するメッセージ。「起きろ、目を覚ませ、日本人を思い出せ」と言ってる映画と言っても過言ではないだろう。
それにしても中村獅童の眼力は凄い。かなり惚れた。
2006年01月26日
素朴が行く。
日本人は、素朴である。特に福岡のお客様に会って話をすると、それを実感する。
「どこからいらしたとですか?」
彼らは真面目だ。中国人のような厚かましさもなく、韓国人のような他人への嫉妬深さもなく、彼らのように着飾ることもない。一生懸命生活をして、質素で真面目が一番という事をよく知っている。
ところが、海外に出ると、このような謙譲の美徳が理解されないケースが多い。特にニュージーランドを含む西洋社会では、どれだけ自己主張が出来るかが、個人の判断基準になってしまう。
例えば就職の際の履歴書でも、俺はこれだけ出来ます、こんな事も出来ます!自分の、今出来る事を50%くらい膨らませて書いたり話をしたりするのだ。
勿論聞くほうも、ちゃんと話半分で聞いてるから、これはこれでお互いに意思疎通が成立しているのだが、そこに「謙譲の美徳」が出てくると、話が変わる。
「粗品ですが」と立派なお土産を用意する日本人からすれば、自分を膨らませるなど考えもつかない。ところが、例えば採用試験で履歴書を受取る西洋人からすれば、いつもの如く履歴の半分くらいしか信用しないから、「あれ、この日本人、能力ないな〜」と判断してしまう。
それが良いかどうかは別にして、西洋社会はそうやって成立している。だからこの社会で履歴書を出す時は、自分の実力の130%くらいに書かないと、お互いの意思疎通が成立しないのだ。
しかし、同時に日本人に考えて欲しいのが、履歴書に書くのが事実だとしても、じゃあそこからちょっと頑張れば、実力の30%増し程度なら、やれないか?やってみれば出来るんじゃないかと思う点だ。
誰しも失敗したくないから大法螺を吹かないのは理解出来る。しかし、そんな事を言ってたら、いつまでたっても大きくならないではないか?他人に広言する事で、逆に自分の励ましのバネにして、よし、履歴書を30%増しにしたんだから、実際に30%増しの力を出してみよう、これを機会に頑張ってみよう、そう考えてみたらどうだろう。
謙譲の美徳は日本に置いておけばよいし、その気持ちを忘れない事は大切だ。しかし、それもTPO,時と場所と機会によって変化するという事を理解する。これも一つの国際化ではないだろうか。
2006年01月25日
5万人移住計画
僕の最終目標は、日本人5万人がニュージーランドに移住してもらう事だ。5万人いれば、そこには自然と日本人社会が出来上がる。ニューヨークに住む日本人が約6万人、バンクーバーや南米に住む日系人も同じくらいいる。
経験的に、一つの民族が5万人いれば、その民族特性を持ったまま海外でも生活出来る。例えば食料品店、レストラン、不動産、建設業者、美容室等など、一つの完結した社会が出来上がるのだ。
民族性の問題だろうが、中国人や韓国人は、すぐにコリアンタウンや中華街と言った具合に、物理的に一箇所に固まって住む習慣がある。しかし、日本人は地域に溶け込み、特に2世や3世になると、母国語を完全に忘れてその国の人間になってしまうという、大変興味深い民族特性を持っている。
以前のコラムでも書いたが、ハワイに移住した日本人の二世は、その母国であるアメリカと家族の為にヨーロッパ戦線でアメリカ人として勇敢に戦った歴史があるのだ。
日本人は義理を大事にする民族である。いくら合法的に海外で生活する権利を得たとはいえ、その国の「軒を借りる」という気持ちは、常に忘れていない。その気持ちが相手への尊重に繋がり、それがキーウィと日本人という相互信頼関係に醸成されていくのだ。
僕の仕事は、日本人移民を増やす事。移住コンサルティングを通じて、日本と、御世話になっているニュージーランドの橋渡しをする事だ。
移民のルールは頻繁に変化するし、いつまでこの仕事をやっていけるか、誰も分らない。でも、どのような結果になろうと、出来るところまで続けていきたいと思う。明日の事は誰も分らない。分りもしない事に一喜一憂するのではなく、今日という一日をこなしながら、一人でも多くの日本人をニュージーランドに移住させたい。
今回の説明会では33名のお客様にお見え頂いた。このうち何名の家族が移住に成功するか、まだ分らない。でも、出来る限りの事をやっていこうと思う。それが、僕に課せられた社会的使命だ。
今週日曜日は、お客様主催の移住説明会。70名のお申込を頂いている。実現に向かって、進むのみ。
2006年01月21日
弁当泥棒
一年ほど前の話だが、竜馬という居酒屋が、お昼時間帯にお弁当を販売していた。日本でもよく見かける、店頭に並べたお弁当をお客が選び、店内のレジでお金を払う方式だ。
ある夏の、よく晴れた日の昼下がりだった。いつものように女性店長(日本人)が何気なく外を眺めていると、一見して浮浪者と分る中年男性が、通り際に弁当を一つ小脇に抱えて持っていこうとしたのだ。
NZは社会福祉が進んでおり、日本のような本当の意味での宿無しはいない。政府に言えば無職でも住む場所は与えられるし、政府の補助で普通に食事も出来る。彼ら浮浪者は、精神的な問題やマリファナ等で少し心が病んだ人たちなのだ。
だがしかし、弁当を勝手に持っていけば、これは泥棒である。店長はすぐに店を飛び出して男の腕を掴んで大声で言った。
「こら、金払わんかい!」
これもいたって当然の事である。むしろ、精神的に眼の飛んでいる浮浪者を相手に、よく言えたものだと感心する。
泥棒さん、最初はどうのこうの言ってたが、最後には「じゃあ良いよ、弁当返すよ」と言い出したその時だった。
偶然その現場を通りかかった、身なりのちゃんとした、ごく普通のキーウィ中年男性が立ち止まって、どう見ても浮浪者の知合いに見えないのに彼は店長に優しく、本当に謝るようにこう言ったのだ。
「君、ごめんね、この人は僕の知合いなんだ。たまたま今ちょっとお金がないだけなんだ。悪いけど弁当のお金は僕が払うから、彼に弁当を与えてやってくれないか」
夏の日差しが眩しい中、どう見てもランチボックスを買う為にオフィスをふらっと出たとしか思えない人が、通りすがりの人を助けてあげて、代わりにお弁当を買ってあげたのだ。
たった一食だけだ。これから一生その浮浪者の面倒を見るわけではなかろう。たまたまそこにいた。只それだけの理由で、彼は浮浪者を助けた。次回同じ状況で、彼にお金がなかったら、果たして自分のランチボックスを買わずに、浮浪者の為に弁当を買ってあげはしないだろう。
そう考えだせば、IFばかり並べだして理論的に考え出せば、いろんな答があるだろう。彼の答が正解かどうかなんて分からない。でも彼は、とりあえず彼がその場で出来る事をした。
店長はびっくりした顔で、でもちゃんと彼から現金を受取り、二人に向かって「有難う御座いました」と言いつつ店に戻り「けったいなやっちゃらな〜」と呟いていた。
けったいな事だろうし、誰も見ていないし、明日には誰も忘れているだろうし、何の見返りもない、そんなちっちゃな事だろう。
NZは正直で親切な国だが、このような状況にしょっちゅう巡り会うわけではない。ましてや大都会のオークランドでは、人と人の触れ合いが益々薄くなっているのだ。
暑い夏の日差しの中、生きるだけでも一生懸命な中で、誰もが少しだけ「心」が暖かくなったと思う。オークランドの、ほんとうに、ちょっとした一こまだった。
2006年01月19日
無料留学エージェント
去年辺りから留学雑誌を賑わせているのが「学校手配無料の留学エージェント」だ。
当社も手配無料であり、大体海外の留学手配会社はどこも無料である。勿論空港出迎え等のサポートが必要な場合は別途料金が発生するが、手配自体は無料が基本である。
しかし日本では、あれだけインターネットで留学情報が氾濫しているにも拘わらず、多くの若者は有料エージェントを利用する。その利用率は50%を越えているのではないだろうか。
もっと面白いのは、そんな彼らが現地に到着してクレームを起こすのが「日本でぼったくられた!」だ。そんなもん、最初から分っている事だ。ちょっと自分で調べれば分かる事を手抜きして、現地に着いてから文句を言うのは、どう見ても筋が通らない。
例えて言えば、レストラン街で一杯5千円のうどんを注文して食べた後に、他の店では500円で(勿論味は違うだろう・・違う筈だ・・)食える事を知って、5千円の店に戻って文句を言うようなものだ。
そのようなクレームの増加を背景に、東京都消費者委員会等も動き出し、厚生労働省も実態調査を行い、そのクレームの多さと留学業界の商習慣に、今後メスを入れる動きが盛んになった。
しかし多くの手配業者は、留学、特に学校手配の多くの部分は無料でやれる事を知っており、そういうビジネスモデルが日本でも去年から出回り始めたというのが現状だ。
今年から、有料(約20万円)で手配をする会社は、そのビジネスモデル変更を迫られるかもしれない。いつか来るだろうと言われていた「無料手配」の時代が、いよいよ今年本格化するのではないだろうか。
2006年01月16日
戦いの方法
ライブドアに司法の手が入った。青天の霹靂。最初はまさかと思ったが、ちょうどその時に読んでいた本が西郷隆盛の本だった。
人は社会的動物であり、お互いに一定のルールの中で戦っているのだ。だから、そのルールを全く無視した戦い方は卑怯であり、本来はルールの中で戦うべきだ。そうでなければいつかは潰されると言ってた。
まさにその事実が、今目の前のTVの中で起こっている。
勿論西郷も、明治維新を起こす際には策謀を使った。しかしその時代においては政治的根回しは戦いの一つであり、それを持って西郷を後の歴史で卑怯者と攻める者はいなかった。むしろその手腕に人としての凄さを感じ、多くの西郷門下を作ったのが事実である。敵にも愛された首領は、死して名を残した。今、大久保利通と言っても何人が知っているだろう。
ほりえもんからすれば、彼なりに正攻法と考えて戦ったのだし、僕自身は時間外取引や今回の事件が、どれほど事件性があるか、素人だから分からない。しかし、世の中のビジネスがお互いのある程度の合意を前提にしている限り、戦う相手の納得出来る限度を破ってしまったのだろう。
例えば僕がTVのビジネスをしたいと思う。そして株を時間外に買う事がOKというのは、法律的な規制である。もし僕がもう少しオカシナ頭をしていれば、おそらくライバル会社の社長を殺すなり,法律を無視した行動に出るだろう。
つまりほりえもんと僕の違いは、彼は法律のメ一杯の解釈の中で、周囲から卑怯と言われる事をした。僕は最初から法律など無視して、周囲から暴力団と言われることをした。
しかし結果はどっちも同じ、社会的に容認されないのだ。その場合は、政府によって潰されるのだ。
僕は、彼が孫さん御木谷さんみたいに、去年辺りから起業の広告塔として、てっきり政府側に付いたのだと思っていた。
実際に、去年の総選挙の時は自民党に付いていた。問題は落選後の、自民党に対する対応だったのかという気がする。
あの野郎、やっぱり生意気だから潰してしまえ、そういう指令が自民党の奥から出たのだろう。そして小泉もそれにNOとは言えなかったのかと、ついつい穿った見方をしてしまう。小泉からすれば選挙に落ちたほりえもんなど、たいぞー以下の普通の人だもんな。
全く、生きるというのは怖い。明日以降どのような展開になるか不明だが、その答はそれこそホリエモン自身が作るのであろう。
まだ利用価値があると思っている連中は、彼を助ける代わりに政府側につけと言うだろう。30台の若い彼が、それを受け入れるか?彼は理屈を使って株を操った。今回政府に逆らうのは、感情である。理屈でここまで来た人間が、今初めて自分の面子という、感情とぶつかっている。
答は誰も分らない。だって、まだ答が出てないのだから。
2006年01月13日
お客様の平等とは?海外納税のすすめ
またまた最近の、個人的に気になるネタだが、「顧客の平等」とは何だろう?
当社が取引している日本の東京三菱銀行が、今年1月から支店名など大幅な変更を行った。
例えばNZの銀行では、顧客を明確に差別化している。儲かる顧客は専任担当者を置き、徹底的に手厚く保護する。ファイナンシャルプランを作り、投資先を選定し、時には金も貸す(勿論担保は分厚く取る)。
しかし、お金がない顧客からは口座維持費(月5〜10ドル)をしっかり取り、金は貸さず、窓口での対応もおざなりだ。
No Money , No talk という言葉があるが、まさに顧客差別の代表例である。
でも、よく考えてみれば、銀行は商売をしている訳で、銀行の理屈から言えば、儲かるお客とそうでないお客に、同じ時間と手間をかける事が平等なのだろうか?それは決して平等ではない。自社の利益に貢献してくれた割合に応じてサービスを提供するという視点から見れば、間違いなくNZの銀行は、平等である。
レストランでも同じだ。毎日食べに来るお客は「常客」だから、良い席を用意するとか、余分に一言挨拶するとか、一見客との差別化を図るのは、商売の常道だろう。
しかし今の日本では、銀行は市民サービスを行う場所であるという雰囲気があり、国民もそれを納得しているから、銀行はすべての顧客に同質のサービスを提供する必要があると、新聞や世間では一般的に言われている。
政府も、国家が護送船団方式で銀行を保護しているのだから、その代わりにしっかりと貧乏人も守れと言っている。これって、実は共産主義的発想なのだが、日本は元々社会主義国家だったので、それはそれで筋は通っている。
問題は最近の銀行の動向である。自由化という錦の御旗の元、戦後50年続けた社会主義国策を、正反対の方向に変更するのだ。
つまり、金持ちには手厚いサービスを、そうでない人には、それなりのサービスを、というわけだ。
今の日本では、新旧二つの流れが渦巻いている。でも、そこにはもっと大きな流れがある。
銀行は国際化する人々に追いつくのか?双頭の龍は、その片方を国内の金持ちに向け、反対側を国内の一般人に向けて、その体内で活動する銀行員という肉体をすり減らしながら活動しているが、肝心の日本人の一部は、すでに国家の壁を越えて世界の壁に向かっている。
「海外納税のすすめ」を読みながら、サービスと国際化について考えた。
2006年01月11日
お好み焼千房千日前本店に行く
これもまた古い話だが、年末の大坂での出来事、というか食いログ。
年末の大阪の出来事でもう一つ。関西で有名なお好み焼の千房(ちぼう)に行った。
千日前の本店で食事をしたのだが、さすが大阪の名門お好み焼、実にうまい。特にキャベツを使わず、山芋だけでつなげたお好み焼は美味い。一年ほど前に一人で食った時はそれほどうまいと感じなかったが、体調の問題か?
いずれにしても今回の焼き加減は見事で、火が通っていながらとろみを感じさせる作りには脱帽ものだ。値段も手頃で、一枚1000円ちょっとで食える。手間隙を考えれば十分であろう。
お好み焼は、素人が自分達で焼くよりもお店の人に焼いてもらう方が正解だと思いお願いしたが、正解であった。豚キムチはうまくて安いが、もちっと豚肉欲しいかも。値段は680円だっけ、豚肉は箸でかかる肉が5切れで終わり。大阪では豚肉は高いのか?
ちょっとびっくりしたのは、適当に薄汚い店内で、もっと薄汚いぺらぺらの背広を羽織った中年オヤジグループの一人が、カウンター席に座っている二人組みの若者相手に、店内が壊れるような大声で怒鳴り上げていた事だ。
酔っ払っているのか、元々思考回路が明快でない為か、何を話しているのかよく分らない。表に出て勝負するか、こら!と言う部分だけは聞こえるが、話している内容の、ほぼ90%は理解不能だった。周囲のお客も同じ感じを受けていたのだろう、誰も相手にせず黙々とお好み焼を食べていた。
客同士の喧嘩(とは言っても一方的にオヤジが怒鳴っているだけなのだが)に店員は何も言わない。怒鳴られている若者も、酒飲みながら適当に下を向いたり無視したりしている。一切返事無し。
しかし、酔っ払ったオヤジがどれだけやくざっぽかろうと、他の素人客に絡んでたら、それは店側が止めるべきでしょ。それともこれって、やらせ?実は大阪特有の「ネタ」で、怒鳴っているのも怒鳴られているのも全部店員がやっているのか?
それとも千日前辺りではこのような風景は日常で、誰もいちいち相手にしないのか?一体どっちなのか、今だもって大阪の土地柄と冗談が理解出来ない僕でした。
2006年01月10日
大阪のタクシー
「大阪は、日本一運転のマナーが悪いとこですねん、すみませんな〜」
昨年末、もうすぐ70歳に手が届きそうなおじさんが運転しているタクシーに乗った。
ほうほう、確かに、御堂筋から南に下る片道5車線(3+2側道)?のうち、2車線は違法駐車の列で埋まっている。
そして信号が変わった瞬間に左側車線からバイクが突っ込んでくる。バスなどは、殆ど後ろを見てないのかというくらい、車線変更を繰り返す。
日曜日の夕方、新大阪駅から御堂筋を南に、難波まで向かう途中の出来事だった。
確かにマナーが悪いなという感じはする。だがどうも違和感がある。マナーが悪いと思うなら、何故マナーを直そうとしないのか?勿論自分一人がどうやっても、大阪中の人々のマナーが変わるわけはないという理屈はわかる。
しかし、本当にそうなのか?何か話に夢がない気がする。現状を否定しておきながら、しかしそれを直そうとしないのは、最初から諦めがあるのだろう。
言い訳をするくらいなら、最初から開き直って「大阪はこうなんです。これがこの街の常識ですから、よその地域から来る時は気を付けて下さいね」で良いと思う。
そうでなければ、悪いと思うなら、少なくとも自分が長年タクシードライバーをやっているのだから、街のマナーを変える為の第一歩があるのではないか?
市役所に何を言っても動かないだろう。それは去年の市長選挙でよく分った。でも、自分だけはルールを守るとか、自分の会社のタクシードライバーだけは運転マナーを守るとか、町全体等と大きな事は言わないが、まずは自分が何か出来る、何かの一歩があるのではないだろうか?
誰にでも、最初の一歩があるのではないだろうか?出来ないと思えば出来ないし、出来ると思えば出来るものだ。そんな気持ちを持たなければ、世の中も変わらないだろうし、生きてて面白くないのではないか?
楽しく生きていくとは、積極的に生きる事だと思う。働く事は苦労ではなく勉強であり、それは試練である。試練を乗越えればもっと成長出来る。スポーツで、どんどんうまくなっていくのと同じ事だ。
そんな事を思いながら大阪タクシー協会のホームページを見た。びっくりした。僕の話なんて、可愛いものだと思った。おそるべし、大阪。
2006年01月09日
万年東一
万年東一
年末年始で沢山の本を読んだ。是非とも皆さんにも読んで貰いたいと思う。その最初の一冊が「万年東一」である。
人間が何故生きているのか?その理由は中村天風の欄で話をするとして、じゃあ男は何故生きているのか?その答を、とても乱暴に、でも明確に答えきっているのが、彼の人生ではないだろうか?
男は女を幸せにする為に生まれた。
これだけである。だから男は自分の稼いだ金は女に渡し、男は女を守り、男は絶対に女に手を上げない。女に騙されたら、それは男の問題。騙されたからと言って怒るのは恥。そして弱いものいじめはせず、常に毅然として生きる。そんな姿勢を貫いた男の一人が、万年東一であろう。
戦前の東京に生まれた万年東一は子供の頃から喧嘩三昧の毎日を送っており、大人になっても定職につかず、やくざ相手のカツアゲや賭場の用心棒、金を稼ぐ為のエセ右翼等もやった。
しかしやくざではない。やくざとは上下の明確な、一度入ったらそのルールから逃げられない、ミニ日本人サラリーマン社会である。やくざは団体行動を得意として、一人一人が弱くても組織で動く事で力を発揮した。
万年東一はその道を選ばず、誰でも自由に出入り出来る、横の平等を持ったゆるやかな組織体(愚連隊)を構築したのである。しかし日本は戦争に突入、彼はそのまま中国戦線に送られたが、そこでも強きをくじき弱気を助ける義侠心を発揮した。勝新太郎の映画で有名な「兵隊やくざ」は、万年東一がモデルだったと言われている。
戦後はまた愚連隊に戻り、新宿の焼け跡に出来た闇市を舞台に、その当時の三国人やMPを相手に暴れまわり、時には暴力装置を持たない警察を守りながら、焼け跡を縦横無尽に暴れまくった。
酒を飲めない彼はタバコをよく吸ったが、とにかく男にも女にももてた。当時の仲間で有名なのは、捨てゴロで有名な安藤組の安藤昇、加納等である。
彼は一生金に執着せず、とことん一匹狼を貫いた。
この本を書いたのは宮崎という京都のやくざの息子として生まれた、元左翼、前右翼、現在は小説家、そして後期の万年に直接師事した男の一人である。
女性ではなく、男性に読んで貰いたい。本自体は小説仕立てなので、事実と少し違うとは思うが、その精神はしっかり貫いていると思う。
2006年01月08日
2006年、今年も会社が始まります。
年頭の言葉というものがある。当然、当社でも、ある。
本来は外向けに出す言葉ではないかもしれないが、このブログは社員がいつでもアクセス出来るものだし、一年仕事をする中で、仕事で迷った時や、会社の方針を再確認したい時に読めるように、敢えて掲載する。
社員の皆さんへ
2006年が始まりました。「今を生きる」「積極的に生きる」が、
僕の今年の目標です。
年末年始にかけて随分沢山の本を読みました。その中でも特に
感銘を受けたのは、「中村天風」の人生哲学です。
人は何故生きるのか?何故毎日生活するのか?何故仕事を
するのか?
やっぱり根源的なところで、自分って一体何だろうと考える事を
大事にしたいと考えさせられました。
僕らは仕事を通じて知合いになっています。明日はどんな人生が
待ち受けているか、誰も分りません。安定していると思ったら壊れ、
壊れると思ったらうまくいき、そんな人生の明日の事など誰にも
分りません。
だから大事なのは、今日一日、出来る限り一生懸命に生きていこうと
する姿勢です。
でも、どの方向を向いて生きるか?その答は、「人のため」です。
自分の仕事は一体誰の為にやっているのか?それでお客様は幸せに
なれるのか?
仕事をする限りは、仕事を通じて社会貢献をしましょう。同時にプロと
して、しっかり利益を作り、それで自分の給料を増やし、結婚して子供を
作ったり、自分の好きな事をやりましょう。
世の中は一度限り。楽しむ為に生まれてきたのですから、他人の迷惑に
ならない限り、一生懸命楽しみましょう。その為にも、
一生懸命プロとして仕事をして、顧客満足に徹していきましょう。
やっつけ仕事はいけません。苦しいとかきついなどは、絶対に口にしては
いけません。口にした瞬間に、本当に苦しくなりますから。
時間内だけの仕事と思わないで下さい。仕事を通じて人を幸せにして、
その結果お客様の笑顔が私たちを幸せにする、そう思ってください。
僕も手抜き仕事はしません。厳しい事を言うかもしれません。でも
その目的は、仕事を通じた社会貢献です。その結果としての利益を
みんなで享受しましょう。
今年もよろしくお願いします。
tom