2006年03月
2006年03月31日
見返り美人
見返してないじゃん!と文句を言われそうな写真。
見返り美人と言う言葉を最初に聞いたのは、小学校で切手収集の話になった時だ。そう言えば、シャレードという素敵な映画でも、キーワードは切手だった。
閑話休題。
世界最初のバブルがいつかは知らないが、1600年代に起こったオランダのチューリップバブルが最初ではないかという説がある。
チューリップの球根をネタに巨額の金が動き、来年咲く予定の新種チューリップの購入権を購入し、そのチューリップが咲く前に他の人に高額で売却してしまうという、まさにバブルだったのだ。
でもま、写真の娘はバブルではなく、現実に存在している20歳台女性である。
NZで新しい事を学ぶ積りでやってきて、金にならないけど学べる、ボランティアみたいな事をやっている。その傍ら、生活費を稼ぐ為にもアルバイトもする。
そんな彼女も、そろそろ自分の次の道を捜さねばならない。このままNZに残って仕事をするか、日本に帰って今までの経験を活かして何かするか?どっちにしてもはっきりしているのは、彼女は自分で生活しようとしている事だ。
それが何だって?一体何なのさ?
実は、僕の仕事でいろんな人に触れ合って生きていると、他人の金や他人のふんどしで商売しようとしている輩が実に多いので、たま〜に、まともに働いている人と話をするのは、結構快感なのだ。
実際に、月刊ニュージーランドの広告を見ると「そりゃ〜ないでしょう!」と、声を大にして言いたい広告がある。そろそろ広告規制をかけた方が良いんではないの、月刊さん。
お隣のシドニーでは、日本の日刊紙と提携した新聞に大きく「社告」が出ている。その内容はAさんが悪い、Bさんは正しいという内容だ。
どっちが正しいのか、分らない。ただ、言える事は、真実は「藪の中」かもしれないが、この世の中で物質的に生きていこうと思えば、間違いなく「ずるさ」が必要だという事。そしてそんなものは、本当に精神的に正しく生きていこうとする時には不要だという事。
必要なのに不要?困ったものです。でも、不要なまま生きていければ、そんな幸せはないと思う。
見返り美人、ばぶらずに生きていこうぜ!
2006年03月29日
立花ビクトリア店
立花と書いてRikkaと読む。勿論有名店。
顧客の8割が地元キーウィであり、彼らはよく飲みよく食べるから、客単価も高い。だから、商売としても割が良い。
日本人が自分に関係ない事を語る時、特に日本食等がテーマになると、皆さん言いたい事を言う。とにかくもう、「その言葉、そのままあなたに返しますよ」という事が多すぎである。
「ここのシェフも、もう一歩だね」とか、おいおい、タバコの火を消してから言えよ、ニコチンやろう。
「この寿司にこのワインが合うんだよね、最高!」とか、おいおい、生の魚介類に合うワインを知ってるのか?余程よくワインやお酒の事知ってるんだろうな、知ったかぶりの他人舌やろう。
「すし屋で最初の一杯はやっぱりアサヒだね!」とか、おいおい、お前さ、目隠しでビール飲み比べて、ちゃんと自分が何飲んでるのか、分かるんだろうな?あの、舌に載せた瞬間に苦い鉄分の味のするビールを、「おいしい!」と言ってるんだろうな?
最も酷いのは、インターネットで無記名で書き込む連中の罵詈雑言である。もう、便所の落書きもあそこまで無責任かつ出鱈目ではないよな、思わずそう言いたくなる内容だ。
でもって、何でRikkaがテーマかというと、実はここの味は、キーウィに合わせているからだ。つまり、普通の日本人が「おいしい」と感じるよりも、少し味付けを濃い目にしたり、揚げ物を多用したり、盛り付けにボリューム感を出したりと手間をかけているので、普通に日本人が行くと、ちょっとしつこいと思うからなのだ。
でも、キーウィに合わせたからこそ利益が出て、日本人を雇用して、NZ経済に貢献しているのだ。日本人にあわせたら、店なんてすぐ倒産するよ。オークランドに住む1万人程度の日本人でも、和食を普通に食べにいける家庭なんて限られていて、市場としての存在感は、ほぼゼロである。
だから商売を維持するとするなら、地元中国人、キーウィを狙った味付けにして顧客を獲得するのが、成功の道である。
そのような経営、料理の考えを全く無視し、日本ではくるくる寿司にしか行けなかったプータロウが、それも自分のブログでなく無記名の書き込みで「あそこね〜、まあまあって噂だよ」とか「良くないって評判」とか、結局自分で食べてもなくて、発言に責任も取らずにその場の余興で他人のシリアスなビジネスの部分を無視して勝手な書き込みをする。
自分で食ってから言うならまだしも、・・・・食ってから言え!そして、いっぺん食ったからって言って、百年も食ってるような、料理の専門家みたいな御託を言うな!くそぼけ!
僕がブログでお店の評価をしていながらこんな事を書くのもおかしいと思われるかもしれないが、評価はそれなりに自己責任が必要だと思う。他人を評価や批判をする際に、逃げてはいけないと思う。きちんと主張をするなら、まず「名を名乗れ」でしょ。
僕はおいしい食べ物がDaisukiだし、その為には少しくらい余分にお金を払っても良いと思うくらいだ。実際に、300円のラーメンを食う為に3000円のタクシー代を使っていた時代もある。
Rikkaをおいしいと思うかどうか?今のNZで成功して、毎日お客が入ってて、僕自身が食べても、それなりに食える料理であるという総合評価をすれば、こういうレストランがあって日本食の裾野を広げてくれるのは、良い事だと思う。
但し、日本食の中では、正直に言って「焼き鳥KEN」には、負けているだろう。というか、今のオークランドでけんさんが焼く「焼き鳥」を越えるものを出せる店は、山水も含めて、ない。
写真はRikkaから眺めるビクトリアの煙突。なんか支離滅裂になってしまったので、煙のように消えてしまおう。しゅわわ〜。
2006年03月28日
白夜行 3
やっと終了。いやま、大作お疲れ様でした。しかしですね、何でハサミなの?全体的にも、最後に説明があるだろうと思って保留にしておいたとこ、殆ど答えてもらってないし。
何故質屋が殺されたか?何故母親が死んだか?その後も、何故が多いまま続く。話の筋書きがうまいから、ついつい読んでしまうけど、最後にアレでは、高村薫的だよ。
僕にとっての「高村薫」とは、都会育ちで理屈が先行して、筋書きはうまいのだが、結局筋書きだけに力が入り、全体的にバランスが取れてない状態の本を指す。
つまり、本当の体験=主体験が無いままに、インターネットやほにゃららや何やらで情報収集して、その場その場はOKなんだけど、全体を繋げてみると、結局何が言いたいのか、何故この本を書いたのか、意味が分からなくなる。一言で言えば、部分無謬全体誤謬作品。
だから、力強さや自分の主張、俺はこれが言いたいんだ!というのが感じられないから、福井晴敏などと比較すると、3クラスくらい下の位置付けになってしまう。
思うに、作家が本を書く目的は二つだと僕は考える。例えば野坂昭如等は自分を「売文家」と呼び、戦後一時、血液を売って生計を立てていた学生売血家(青春の門の伊吹さんですな)のように、自分の体の一部を切り取って売り、それで生計を立てるという考え方。
だから、「所詮売文よ」と開き直って、銀座で遊んでもあふぉ〜な事ばかりするけど、「売文」で出来上がった作品(例えば蛍の墓)は恐ろしいほどに研ぎ澄まされており、文章力だけで言えば三島由紀夫より上ではないかと思うくらいの実力だ。それでいながら人生を斜に見て「け、俺なんか所詮」と卑下するのが売文家。
または山本周五郎や司馬遼太郎のように、作品を通じて「どうだい、こんな人生、楽しくないかい?」という作家の声が、読者を優しく包み込むように、時には励ましながら語ってくれる、そういう本は作者の実体験に基づいた、主張のある、実によく書き込まれた風格がある。「裏の木戸は開いている」等は、これ以上の明確な主張を持った文学的傑作が存在するのかと思うくらいだ。
でも、その両方がない作家、つまり白夜を歩く若者をテーマにして本にした作家は、その目的が意味不明である。売文行為にしては文章が下手だし、主張をするにしては内容ゼロだし。
一時期は音楽でも、人の好きな音を集めてコンピューターで編集してじゃりタレに歌わせて、ジャリをはしゃがせる行為が発生していたが、どの歌も全く同じにしか聴こえなかったものだ。(どうせやるなら、松浦あややみたいに個性で勝負せい!)
昨今の作家も、子供の頃の実体験がないままに子供の気持ちを書き、人を殺した事もないまま人殺しの話を書き、本当の苦しみを知らないままに苦しさを書いているのではないか?
僕は本屋が好きである。忙しい中、すべての本に目を通すヒマがないからこそ、本屋には専門家として良い本を紹介して欲しい。その為に本屋を信用して、平積みを中心に購入するのだ。
その本屋が「売らんかな」的に商売に走り、本屋に対して本を提供する編集者が、良い作品よりも売れる作品を優先するようになったら、自分で商売の芽を摘むようなものだ。
じゃりがブームで買う本ばかり作っていたら、良質な客を失いますよ。作家、出版社、本屋、皆が本当に本を好きで、日本の文学を高めていこうとしない限り、時代に取り残されますよ。
そうそう、最近のお気に入りの本屋はじゅんくどう。それから本屋の店員が平積みの本に手書きで感想を書き込んで勧めてくれるのも、嬉しい心遣いですな。
たかが本の事で長くなったけど、正直、作家には誇りを持って欲しいと思う。
2006年03月27日
白夜行 2
「あなたっていいわね。毎日毎日お酒を飲んで同じ話をして、プロ野球スポーツを見て。それがいけないって言うんじゃなくて、気軽でいいわねと言ってるだけ」
「あなたには夢ってモノがないのかしらと思ったのよ。野心だとか、向上心だとかいったものがね。自分を磨く努力を一切しないで、毎日毎日同じ事を繰り返しながら年を取っていく積りなのね」
白夜行の中の女性主人公が、見下げたように旦那に向かって言うセリフである。(本文を少し変えている)
くわ〜!きついな。男がここまで言われたら、普通怒る罠。でも、恥かしいと思うから怒るのであり、当たっていると感じるから怒るのだし、日頃からきちんとやる事をやってればこんな事も言われないだろうし、ましてや自分のやっている事に自信があれば、こんな事を言われても怒るわけがない。
昔の話だし実話かどうか知らないが、西郷隆盛が明治維新に向けてまっしぐらの頃、たまたま自宅に帰った時に、妻に言われた事があるらしい。
「この家も雨漏りがひどくて、どうにかなりませんかね」
ぼやく妻の気持ちの半分は、亭主に向かって、家の修理くらいしてよと言いたいのだろう。
それに対して西郷隆盛は、
「今は日本中が雨漏りじゃ、まずはそいつを治してからじゃ」と答えたと言う。かっこいいな!
男は狩に出て猟をする。女は家で采配を振るう。一番自然な姿だ。しかし、狩をせずに社畜に成り下がり、日々の努力を怠ってしまった男に、女は何を感じるだろうか?
男性諸君、気をつけよう。女を作った瞬間に、それまでの努力を忘れて成長を止めて、それまで格好つけて読んでた幻燈社の文庫本が少年マガジンに戻り、日頃の話題が映画から野球に成り下がり、夢を語っていた口が愚痴ばかりこぼすようになり、腹の回りの肉がたるんできて、そして自分の価値を下げていないか?
移住したからと言って、男の責任が終了したわけではない。移住した先で、またも手抜きの生活をすれば、女に捨てられるだけだ。社畜の言い訳はいくらでも出来る。でも個人生活の手抜きに言い訳は出来ない。いくら男の数が少ないから「ただ乗り」しやすいと言っても、女はいつまでも騙されてはいない。
ある日、女は男に対して「乗り越しの精算」を求める。そうだ。君は精算されるのだ。地下鉄の乗り越し精算窓口で精算され、改札口に吸い込まれて、君は終わりだ。彼女は改札口の向こう、広い、新しい世界に向かって駆け出していく。君は改札口の機械の中で、肥満した体と使えない脳みそを抱えて、動けないまま焼却処分を待つのみだ。
焼却されたいか?生き残りたいか?まだ遅くない・・・かもしれない。
2006年03月26日
白夜行
白夜行。
今日で2日目。850ページの文庫本は、さすがに分厚い。ちょっとした文庫本なら、すぐ上下に分けるだろうな。
何か理由があって一冊にまとめたのだろうが、昨日の夜から読み始めて、今576ページ目。出来れば今日中に読み終わりたいな。
内容は、まるでテレビドラマ仕立ての書き方で、一章ごとに筋書きが作られている。テレビ化されてるという事が本の帯にも書いてあるが、これはプロデューサーからすれば垂涎の本であろう。
東野圭吾の本は、これが初めてである。この本、今現在は自分の中で決して悪くない。ただ、特別によくもない。そういう時に細切れにこういう長編を読むと、途中で棚に戻して、読まなくなってしまう癖がある。
それでは作者に失礼なので、一気に読んでしまおうと言う考えで、昨晩と今晩 なのだ。
実はそれほどひまではない。昨日は朝5時起きで、結局19時まで仕事、それから自宅に戻り、食事してからの読書。夜中の2時まで読んで就寝。
今日は朝7時に起きて仕事開始。17時過ぎに終了後、真っ直ぐ家に帰って、読書と夕食。
明日も大事な面談が3件入っているから、頭を鈍らせるわけにはいかない。
白夜行、それだけの価値のある本でいてくれよ。最後でこけるなよ。いまんとこ何とか続いてるが、最後次第でどうでも変わる筋立てだ。ちょっと怖いな〜。
そういや、一週間ほど前に読んだ本が、大きくこかされた。小泉政治批判を書いた米国人の本だが、いや、見事に見識不足の知識不足、洞察力に至ってはほぼ白痴。あれで大学出て政治記者を長年「勤めてた」と言うんだから、うらやましいやら腹が立つやらですな。
小泉批判をするならそれでもよし、誰にも発言の権利はあるし、健全な批判なら、すべきだろう。
しかし。
誰かの提灯担ぎで書くなら筆力大幅不足、自分で本気で思ってるなら脳みそ大幅不足。
2006年03月25日
大増税への露払い
政府資産を112兆円圧縮=売却に「市場化テスト」導入−自民チーム
老朽化した国家公務員宿舎・庁舎の売却や、政府が保有する金融資産の圧縮、国有財産の命名権売却が柱で、財政再建に向け、政府に徹底した資産・負債の管理を求めている。
* ****
昨日の時事通信記事。いよいよ政府も本格的な大増税を始めるとの宣言である。「政府の資産圧縮でしょ、良い事では?」とお思いの方、世の中はそんなに甘くありませんよ。
今回の各種(医療、一般所得、消費税、年金など)大増税については、自民党は最初から「まず削減出来るところをきちっとやって、それから国民に信を問う」という姿勢で臨んできており、実際にそうやってきた。
自民党内部のお話・
「税金を取る道をある程度決めたら、次はマスコミと国民対策だ」
「よし、じゃあ自民党が自ら政府試算を圧縮すると言う<自分の痛み>を国民に見せよう、そしたら今年中に増税をやっても、国民からの反発は<圧縮>出来る」
こういう会話が自民党内で行われたのだろう。しかし
1・資産圧縮は<自分の痛み>ではなく、あくまでも官僚や役人の痛みである事は黙っているべ。結局政治家個人の腹は痛まないべさ。
2・選挙対策として「改革する自民党」のイメージを強調出来るから、票に繋がるだべさ。
3・増税して財政再建すれば、国家収入が安定して、今後も長期政権が続けられるべさ。
という「裏」がすけすけな話なのだべさである。
マスコミは何故それを書かないか?おいおい、何を言ってる。マスコミとは政府の宣伝機関であることをお忘れないように。
戦前は朝日新聞を代表に国民を戦争に駆り立て、戦後は物凄い勢いで突っ走る日本経済機関車に巻き込まれて殺された被害者団体(公害、成田、エイズ等)へのガス抜き装置として利用された大手商業新聞などのマスコミは、常に政府と時代に迎合しているのだ。
しかし、何より問題なのは、政府のこの手段に間違いはないという事だ。だから政治家が少々個人の腹を太らせても、国家全体を考えれば、政治家が少々くすねても「仕方ないか」となるのだから困ったちゃんなのだ。
今の日本、増税なき財政再建はあり得ないし(勿論究極の方法=バンクホリデーやスーパーインフレ等はあるが、それを取ると将来に禍根を残す伝家の宝刀だから容易に使えない)、かといって世論を全く無視して国民が万が一でもクーデターを起こしたら、これはまたやばい。
まあ、クーデターまではいかなくても、すでに国民は、国民年金などの納税拒否という手段で実質的に政府に反抗しているのだが。
政府が一番怖いのは納税拒否である。これをやるだけで国家は破綻する。考えてもみよう、納税だけの為に警察が全国すべての個人住宅に上がりこんで強制執行を物理的に執行出来るか?不可能だし、それをやれば本当に国民が武力で抵抗するだろう。
しかし国家に金がなければ、すぐに政府経済は破綻するし、そうなると一時的に日本銀行券を増刷するしかなく、そうなるとインフレを起こしてしまうのは自明の理だ。その後に来るのは無政府状態である。
だから政府としては、何としても財政再建をするしかなく、その為には露払いとして政府の襟を正さねばならず、その意味において今回の判断は当然である。
え、じゃあ結局何が言いたいの?と思う方もいるだろう。僕が言いたい事は、これから日本は明治以来の大増税をやるよ、でもそれを招いたのは、総論賛成各論反対、おらが村だけ儲ける為に政治家を選んだ国民の、当然支払わなければいけない自己責任的罰金であるということだ。
それでも隣国である中国に比較すれば、まだまだ日本の方が罰金が軽くてよい。あちらの国では罰金ではなく罰則であり、その最高刑は死刑である。多くの中国民が何故海外で生活をするか?それは彼らが自国の不透明さを、四千年の歴史の中で身に染みて理解しているからだ。
「まあ、いつまでも悪いわけじゃない、10年もすればまた良い世の中が来るさ」そう思う人が日本国民の大半だろうし、だから日本はいつの時代も最終的に一等国民(変な表現だが、他の言葉を思いつかない)でいられた。国民がいつも全体の事を考えていたからだ。
ただ気になるのは、最近の日本の若者の知識低下や感情不足による「切れやすさ」が、今回の大増税を引き金に犯罪を誘発するのではないかという点である。折角大増税をやるのだ、その代わり国民に対する「飴」として、少なくとも治安確保の為の警察予算だけは増やして欲しいと思う。
2006年03月24日
裁判所へ呼び出しされた!
今日本では、裁判員制度について議論が進んでいる。
ニュージーランドにも陪審員制度がある。昨日高等裁判所から僕宛に召喚状が届いた。内容は「4月に行われるオークランド高等裁判所にあなたが陪審員として召喚されました。正当な理由が無い限り召喚に応じない場合は罰則が発生します」との事。
最初はSummonやFine、High Courtなどの文字がちりばめられていたので、てっきり「やられたか?!」と思ったら、よくよく読むと陪審員になりなさいとの内容。
とりあえず胸を撫で下ろして(?笑?)再度内容を確認してみると、本当に外国人の僕宛に来ているのだ。
期間は一週間、その間の交通費、保育所など追加で発生した実費は裁判所で負担しますとの事。駐車場の料金やガソリン代まで裁判所負担である。会社は出勤扱いになるので賃金カットもない。面倒見の良い事でありがたいが、その時期に一週間も休めたかなと思わず考える。
しかしまあ、永住権を持っているだけの外国人でも、普通に選挙人名簿に掲載されて陪審員にも登録されていて、「来ないと罰金よ」と言うくらい、この国に住むからには生まれがどこであろうと、ちゃんと市民としての責任を果たすのよ、民主主義は皆で守るのよという思想が見え隠れするように感じたのは、僕だけだろうか?
それにしてもNZの司法や選挙制度は、すべての人に開かれた仕組だなと思う。悪人に対して甘いとも言える法制度だが、それで全体の調和が取れているのだから、法律よりも秩序を優先する政策が成功していると言える。
2006年03月21日
青出於藍
香港のホームドラマは、日本と違って毎週月曜から金曜まで、同じ時間に5夜続けて放映される。最初はコミック風、途中はアクションに変わり、最後は涙で落とすというパターンが一般的だが、本当に泣かせる番組が多い。
昨日も「青出於藍」を見た。
夫に病気で先立たれた学校の女性教師(これが知的な美人で、どう見ても30歳前)は、亡き夫の連れ子(16歳の男の子)と同居しているが、偶然二人の学校が同じ。学校で起こる様々な日常を、香港市民の視点で描いている。毎日の学校生活はコミカルに、でもテーマは結構シリアスで、「親子」や「家庭間格差」を取り上げている。
今晩はたまたま、女性教師の夫の前妻が、浮気をした相手と逃げたオーストラリアから戻ってきて、「私の浮気相手には捨てられた、自分も病気なのだ。一度捨てた子供ではあるが、是非ともお前ともう一度、一緒に余生を過ごしたい(つまり、16歳の男の子とよりを戻したいのだ)」というテーマだった。あなたならどうします?
「青は藍より出でて藍より青し」という日本語が現在どのような意味で使われているか分らないが、中国と日本、使われている言葉は違っても、情緒という面では、本当に同じだなと思う。
2006年03月19日
香港吉野屋
福岡での仕事を終わらせて香港に到着。最近はスルーする事が多かった香港だが、今回はしっかりと仕事。
昼過ぎに香港に到着すると、霧霞みの空であった。夜景の香港も綺麗だけど、実は香港は霧霞みの時もなかなか風情がある。
恒例の「吉野家牛丼」。国内では食べられない牛丼の味を楽しむ。(地下のお店でケータイカメラからなので写り悪し・昼霞み)周囲は香港人ばかりで、すっかり吉野家が香港で「普通」になっているのが分る。
道を歩く人々の顔や、常に道路は工事をして毎日新しい店が出来る香港を見ていると、日本の地方都市で見て来た「シャッター街」が、まるで嘘のようである。
香港は激しく変化する。常に変化し続けている。1800年代の阿片戦争以来、只の一度も安定した事のない地域である。アヘン戦争、英国統治、清朝の崩壊、第二次世界大戦による日本軍の侵入、共産党国家成立による難民の流入と暴動、そしてベトナム戦争から中国返還交渉と、とにかく目まぐるしく動いている。
中国の特別区となり、一国二制度を取り入れてからも、共産党中国の輸出入の窓口として活動し、特に香港の港湾規模は世界でトップクラスである。その間、永遠に続くと思われた横浜港と神戸港の反映は過去のものとなり、今ではシンセン、シンガポール、香港に大きく水を開けられている。
それと同じように目まぐるしく活動しているのが吉野家ではないだろうか。食後にお客から現金を受け取るという社員に対する信頼性、倒産の危機に遭っても生き残る根性、豪州産の牛肉に妥協しない精神。
どれを取っても、頭の下がる想いである。企業人としてこうありたいという生き方だ。
その活力は、絶え間ない緊張と危機感、今日と同じ明日は来ないという事をDNAにまで浸透させているところにあるのだろう。
2006年03月17日
やった者勝ち
最近のNZ事情で一番感じる事。
それは、この国では「やった者勝ち」だという事。控えめに大人しく、言う事を聞いてルールを守って・・・いると、確実に潰される。
あくまでも自己主張を行い、相手の言う事に疑問点がないかを確認し、守るべきルールかどうかを判断する。つまり、すべては自分の目で判断しないといけないという事だ。
横断歩道を渡る時、車がなければ赤信号でも無視する、そういう生き方もある。
日本のようにすべてがPrefixされた人生や社会を経験していると、なかなか「自分の眼」で判断する機会がないのは事実だ。(だって、その方が楽だもん。自分で考えなくて良いからね)
しかし、事実だからと言って放置して良いものではない。何故ならこの「事実」は、個人の力を弱めるからだ。
日本では問題なく、生暖かく生きていけるが、一旦海外に出ると、少なくともNZや香港や西洋諸国では通用しない。確実に、踏み潰されていく。その事実を知りながら移住しようとしているのか?
2006年03月15日
とげぬき地蔵
粉雪だった。昨日の東京は、もうすぐ桜が咲く頃なのに、夕方4時頃から巣鴨の駅前を歩いていると、突然の粉雪に見舞われたのだ。
この日はとげぬき地蔵の近くで商売をしているお客様を訪問。繁盛しているお店を畳んでの移住計画である。
移住の話は、最初に面談しての聞き込みと、実際の目的が違う場合がよくある。しかし、このご家族の場合、話にぶれがない。
最初から明確な考えがあり、それが簡単かつ明快だから良い。
準備を請け負うこちらとしても、一番困るのは目的が明確でないままに、下請けに出すように「ちょっと、移住したいから見積もりだしてよ」といわれるケースだ。
そういうケースは、実際にお断りする事がある。移住とは結局人生設計の基本作りであり、その時点でこちらを信用してくれない人には、いくら金を詰まれても設計をする事は出来ない。僕の目的はNZに5万人の「良質な」日本人を住まわせる事であり、誰でも良いというわけではない。
そこをポリシーとして持っている限り、意味不明なお客様に対して何かを提案する事はあり得ない。
とげぬき地蔵とは、心の中に刺さった「悪いもの」、例えば病気などの「とげ」を抜くというご利益があるらしい。巣鴨のお客様が教えてくれた。
粉雪の舞う巣鴨の駅前を歩きながら思った。僕の仕事はもとげぬき地蔵のような、マイナスから原状復帰に戻す作業ではなく、現状からどれだけプラスを創っていくか、いくらかでも人の夢作りを手伝う作業だ。
思った。いつかはNZにも、とげぬき地蔵に人が集まるように、良質な日本人に集まって欲しいと。
2006年03月13日
ザ・ウエスティンホテル
実は東京の定宿である。何より部屋が広いのと、バーが好きだ。好きと言うのは、6泊して合計の飲み代が10万円で、それでもサービスを気に入って思わず追加でチップを払ってしまうというくらいの、好きなのだ。
お酒を飲まない人(つまりうちの奥さん等)からすれば、「ばっかじゃないの〜?」とよう言われるが、僕という存在には、このような逃げ場所が必要なようだ。
一日走り回り、移住に関する重たい相談を受け、お客様ごとにどのような解決策があるかを智恵を絞って考え、一回の面談約2時間が終了する頃には、随分と頭が混乱する事もある。そのようなケースを一日で3〜4件こなすと、夕方には自分の頭がパニックになっている。
そんな時に、木目調の家具に囲まれた、物凄く天井の高い、下手な音楽など一切かからない静かなバーで水割りを飲むと、頭の中がやっと整理出来るのだ。
19世紀の英国調の絵画を壁にかけて荘重さを強調し、余計な物音から隔離されて、余計なリップサービスもなく、でも水割りが空になる氷の音を聞くと、すかさず次の一杯を作ってくれる、スタッフ全員が男性で、みんなおいしいカクテルを作れる場所だ。
移住するお客様からすれば、自分のケースに一生懸命であり、喋りたい事を思いっきり喋ってくる。それはそうだろう、移住というのは「あらまあ、このお野菜高いわね、テレビのニュースで野菜が高騰しているって、本当ですわね〜、ほほほ」なんてスーパーで店員相手に話を出来る事ではない。
お客様の話をしっかりと受け止めて回答を出来るのは、それほど多くはないだろうから、出来るだけ面談の機会に多くの話を聞きだして、相手の心を軽くしてあげる。
だから2時間も話をすると、相手はすっきりするのだが、受けたこちらは凄く思い気分になる。どうすればこのお客様の希望通りの計画が作れるのだろう?そう考えながら、相手の人生に深く食い込む自分を感じる。実際、相手と痛みを共有する事もある。
そういう時に、夕食抜きでバーに入り、シーザースサラダと生ハムを摘みにしながら飲む酒が、自分にとっての一番の健康療法だ。
そう言えば、昔の住宅には「書斎」という、お父さん専用の部屋があったらしい。「らしい」というのは、家は子供の頃から貧乏で、書斎等と言う場所は、例えば「風とともに去りぬ」のようなクラシック洋画の中でしか見る事がなかったし、生活に追われている頃は、そのような部屋の使い方さえ見当がつかなかったからだ。
最近の日本の住宅で書斎が一般的かどうか分らないし、今もNZの僕の家には書斎はない。奥さんが料理を作っているキッチンの横で、子供は宿題、お父さんは会社で遣り残した仕事を広げているだけだ。
東京の仕事が終わった夜、ウエスティンホテルのバーに腰掛けるその時が、僕にとっての、唯一の書斎なんだろうなと思う。
2006年03月11日
だ〜から、下請けじゃないっつってるのに!
世の中にはいろんな仕事があるし、楽しい事も嫌な事もある。でも、人生の三分の一を占めている時間だから、有意義に使いたい。出来れば、世の中の発展や人の為になる仕事をしたい。
そう思うと、仕事ってお金だけのタメじゃないなって思う。勿論お金は大事だけど、それだけじゃないと思う。
これはもう哲学の問題で、お金だけが人生だって思う人は、それはそれでよいと思う。他人を否定する事は自分を否定する事と同様だから、どちらが正しいかという事を突き詰める必要はないと思う。
ただ、自分の人生の中で、お金より大事なものがあるとか、お金だけで買えないものがあると気付いた瞬間から、これはもう人生の視点が変ってしまう。理論的に突き詰めた答えとして良いとか悪いとかではない、とにかく感覚的に視点が変わるのだから、今見えているモノを否定のしようがなくなるのである。
自分の仕事が人の人生設計に大きく関わっていると思った瞬間に、「この人からいくらお金をもらえるか」ではなく「この人の夢をかなえるためにどうすべきか」という視点が重要視されていく。奇麗事を言う積りはない。飯を食う為には金儲けが必要だ。でも、そこに道徳を持つか持たないか、そこが人間と動物の違いだろうと思う。
生き残る為に、人肉を食うかどうか。人によって、状況によって答えは違うと思う。どちらの答えにしても、そこには哲学があると思う。
だから言いたい。俺は下請けじゃないっつ〜の!人に仕事を頼む時は、礼儀を持ってくれ。人と話をする時は、相手が人だという事を理解して欲しい。
仕事は、信頼関係の上でやりたいものだ。
2006年03月09日
2006年03月06日
いつか来る関東大震災
統計と科学により、地震の発生はある程度見当がつくらしい。「らしい」と言うのは、僕が科学者ではないからどの程度の見当なのか断言出来ない、そう言う意味の「らしい」であり、関東大震災が来る「らしい」ではない。
関東大震災は来る。遅かれ早かれ、来る。その為に今、政府は一生懸命地震の予知と発生後の対策を研究している。
じゃあ、地震が起きたらどうなる?政府の予想では、4万人程度は死ぬそうだ。夕食時間とか津波が来れば、ゼロメートル地帯もあるから、多分もっと死ぬだろう。もちろん財産は、一瞬で消滅する。このあたり、石黒耀の小説によく書かれている。
地震保険に入ってても、東京直撃で発生する損害を、民間保険会社がカバー出来るとは思えない。
じゃあ、今のうちから安全な場所に引っ越せばよいではないか?それが出来ない一番の理由。自分は巻き込まれないと思ってるから。そして、生活の基盤が東京なので、出来れば移りたくないからだ。そしてその気持ちが次第に「本当に起こるかどうか分らないような事を真剣に考えてもしようがない」という事になる。
危機って、いつも忘れた時にやってくる。でも今回の関東大震災は違う。誰も忘れていない。政府は今、必死で「いつ、どこで起こるか」を調査している。東京で生活をする個人は、考えても仕方ない、忘れようとしているだけだ。
僕が初めて大震災を学んだのは、小松左京の「日本沈没」だった。SF好きな僕には、その話が事実としか思えなかった。だから、いつか来る地震の対策は大事な問題なんだと思っていた。ところが、政府はその地震帯の真上に原発や首都を持ってきた。
そのツケが今回ってきてるのだが、当時の経済成長の中では「いつか起こる大惨事」よりも、目先の経済成長を優先したのは、時代の要請だったのだろう。この場合、過去の事を批判しても仕方ない。
それよりも地震で原発が破壊された場合や、首都機能が麻痺した場合の対策を考えるべきだろう。これは今、政府がやっている。個人レベルで言えば、個人の安全、資産の保全、生活の速やかな復旧という3点が大事だろう。
勿論、地震よりも交通事故に遭うほうが怖いし、そんな事真剣に考えても仕方ないという意見もあるだろう。でも、出来る限りリスクを避けるという意味では、今東京に住んでても出来る事があるのではないだろうか?
2006年03月05日
税理士
日本で数十年、電機関連の会社を運営しているお客様が、NZ移住を目指して新たな取引を開始、受け皿として当社でお手伝いしてNZに現地法人を作った。
彼としては、次の10年を見据えた行動である。大胆かつ勇気ある行動に拍手したい。
ところがそれを聞いた日本の顧問税理士の先生が「社長、あなたどんな大変な事したか、わかってるんですか!」と怒り出した。
「いいですか、会社を作ったら商法上の責任が発生するんですよ。もしあなたの知らない間に会社に何かあっても、あなたが責任を取らなくちゃいけないし、会社を運営するだけで毎年どれだけ税金がかかるか知ってますか!」とのたまわったのである。
なるほど、くだんの税理士さんからすれば当然そうなるだろう。彼の生涯をかけて学んだ日本の税法からすれば、その通りだからだ。
でも待て。ちょっと考えて欲しい。彼の発想は日本国内法で停止していないか?国が変わればルールが変わると言う、本当に基本的な大原則を、もう忘れてしまったのか?
NZでは株式会社は有限責任であり、設立も運営も、世界で最低レベルのコストで済むという世界的な常識を知らないのか?ちょっとでも世界の状況を見ている人からすれば、周知の事実である。
ルールは、その地域や国家ごとの成立背景を元に、その時に生活をしている国民の総意によって決定する。だから宗教や民族の違いでルールが変わるのは当然だ。
ならばその税理士が本来発言すべきは何であったか?
恥も外聞もない方法
「お客様、どうやってその会社を知ったのですか?お客様がすでに海外に視野を広げているのに、私が海外の事を知らなければ時代に取り残されます。是非とも教えて下さい」
格好つけたい方法
「なるほど、面白い点に目をつけましたね。私もちょっと調べて見ましょう」
どちらにしても大事なのは、お客様の変化に合わせた対応をする事だけが、ビジネスの生き残る道だという事だ。しかし多くの日本の税理士は、古い世代の人たちは「俺たちの時代にそこまで世の中は変化しないよ」という逃げ切り派か、若い世代で「そんな事まで勉強してられませんよ」という諦め派か、どちらかに所属する。
格好つけたり手抜きをしたりして、それで生き残れるほど、今の世の中は甘くない。何故なら今は、50〜100年に一度の大変動時代であり、この先5年を努力して生き残った者は、それから先約50年の生活が保証されるが、努力して成長しない者には、それなりの残りかすしか用意されていないからだ。
尚、写真はクイーンズタウンの友達のレストランで食べた鍋の具である。友達も料理も、残りかすではない事を、友人の名誉の為に記す。
2006年03月03日
移民数が1月も引き続き減少
統計局は2日、1月の長期滞在者、また永住目的の移民は季節調整後550人の純増であったと発表。12月の1,180人を大きく下回った。
1月末までの1年間では、永住目的の入国者は出国者を6,690人上回ったが、前年からは46%減少している。移民の増加は国内経済を盛り上げた主な要因であったが、03年3月の42,500人を境に下降。厳しくなった入国監理規制、海外からの学生の減少、より少ないNZ人の帰国、より多いNZ人の海外への移住が影響している。
2006年1月の英国からの入国は1,600人。日本からは300人。オーストラリアへの出国は1,200人であった。
**NZDaisukiより抜粋**
以前も書いたが、僕は「自由参加型社会」という考え方を持っている。「人は、どこの国で生まれ育っても、自分の好きな社会に参加出来る権利がある。但し自発的に参加したからには、その国のルールを守らねばならない」という事だ。
こういうと、普通の日本人は「親の恩」とか「教育を受けた義務」というが、それと住む場所を混同してはいけないと思う。例えば東京で生まれて福岡で商売をした場合、東京都教育委員会が「金返せ」と文句を言うのか?
同じ国内だからいいじゃないか、海外は違うという意見があるかもしれないが、それに対しても「地球単位で考えれば、地球全体に貢献しているのだから、同じ事じゃないか」と言いたい。
僕の意見はいつも極端と言われるが、極端なまでに煮詰めて考えるのが本来の道理ではないのか?道理に対して情という視点を持ってこられても、それは困るとしか言いようがない。
そしてキーウィは、NZの大学で教育を受けて、もっと活躍の場を求めて海外に渡る。だから移民が毎年5万人来ても、なかなか人口増に繋がらないのだ。
ここで考えるべきは、国家とは何かという事だ。国家とは、同じような考え方や価値観を共有出来る人が作る集団社会であり、その社会が「社会資本主義」を目指しているこの国では、例えこの国で生まれ育ったキーウィでも、自分がもっと挑戦出来る、他の社会を選んで旅立てば良いと思う。
だって、例え彼らは今の政治形態を嫌いでも、この土地、海や川や山は、故郷として愛しているのだから。
同じ事は日本人にも言える。日本で生まれ育っても、今の日本政府の方針や教育環境、治安などを考えると、住むのが不安と思えば、自分と同じ価値観を持った人たちの国へ移動すべきだろう。移動の自由は日本国憲法で保証されているのだから。
しかし、3年ほど前から、NZに戻るキーウィが増えてきているのも事実だ。その多くは、海外で都会生活を楽しみ、十分に働いてしっかり貯金をして、後はNZで人生を楽しもうと考えている中年世代だ。
都会生活を楽しんで、そして田舎暮らしを求める人たち、人種は違っても、望むものは同じだ。
2006年03月01日
日はまた昇る
「あきれるほど長い時間がかってしまった。だがようやく、本当にようあく、1989年から90年にかけて「日はまた沈む」を書いた私が、今度は本書「日はまた昇る」を書く事が出来るようになった」
ビル・エモット作 「日はまた昇る」冒頭より
ビル・エモットはロンドンの経済雑誌エコノミストだが、日本駐在経験も長く、日本を好意的に評価してくれる英国人でもある。
その彼が、日本がバブルに浮かれている時に書いた本が「日はまた沈む」で、彼の予言どおり、日本はその後15年間、沈んだ。
2005年になり、やっと日本に明るさが見えてきた。15年の長くて暗いトンネルを潜り抜け、暗闇の向こうにやっと光が見えた状態である。
文中のデータや各種資料の評価については一概に「そうだ!」と言い難く、学者としての分析よりも資料に対する自分の判断を表明しているという感じだ。しかし、英国人という立場から今の日中、日韓、日米関係を欧州のそれと比較考量している分は、データとして学ぶものがあった。
日本の最近15年をさらっと読み流してデータ確認や大きな潮流という視点から見ると、面白いかもしれない。但し靖国問題、南京事件など個別のケースに関しては、中途半端な意見を書くのはいかがだろう?本文に大きな影響はないのだし、もうちょっとさらりと流して欲しかったな。
しかし最近は、日本の復権をテーマにした本に、よくぶつかるな。世の中の流れが「復権」に向かっている証拠だろう。
しかしそれと同時に、格差社会も広がっている。ほんとうに、国境の長いトンネルを抜けると、そこは別の国だったという事になってしまった。これこそ、日本に出張に行って一番肌で感じる部分だ。そして世の中の8割の日本人が理解していない部分だろう。
小泉政権が誕生する一年前、2000年5月のコラムで「経済開国」「平成維新」という平成維新を扱った。その時に周囲に「あと5年で維新は成立する、だからこそ今を頑張ろう」と言っていたのを思い出す。
**2000年5月のコラムより抜粋**********
平成維新はすでに始まっている。明治維新の主役は武士であり、平成維新の主役は官僚なのだ。
今日本で起こっている現象は、血の流れない革命である事を認識しているだろうか?維持しながら刷新していく作業では、人の血が流される事はないが、今まであった多くのものが抹殺されて「過去の遺物」となって博物館に飾られていく。
「昔はサラリーマン企業戦士という階級があって、日本人の80%はそう言う人だったのよ。見て、この疲れた顔でよれたネクタイして、居酒屋では上司の悪口言いながら昼間は部下いじめをしてた人たち。」そう入館客に指差される日も遠くないであろう。
明治維新では45年の間に多くの既存階級(武士・公家)が時のかなたに流されていった。平成維新では昭和にすがり付いて終身雇用と年功序列を信じていた企業戦士階級(サラリーマン)が流されていくのである。
そんな時に君はマニュアルなしで生きていける自分を、この国で見つける事が出来るだろうか?それは君次第だ。
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