2006年12月
2006年12月31日
今年も終わり
フセインが殺された。どう見ても殺人なのだが、戦時中の殺人なので、一応法律上はOKなんだろな。
法治国家とか民主主義とか言いながら、やっているのはローマ時代の「敗者は奴隷に、さもなくば死を」と、何も変わっていない。
最初からはっきり言えばいいのだ、米国はイラクのフセインが不要になったので殺しましたって。米国としてもイラクの統治にいい加減うざくなってるのだろう、自分が火を点けた事をすっかり無視してね。
来年からこの国、内乱に陥るだろう。それを更に利用する連中が出てくるだろう。
日本が米国に追従するのは仕方ないにしても、日本はその特殊な地勢を利用して、自国の軍事力を高めながら中国と米国を天秤にかけて、何時の間にかどちらの国からも「キーパーソン」と思われるような外交を展開するのが、来年の課題だろう。それによって、世界を少しでも統一の道に近づく事が出来ればと思う。
国内では今年、失われた10年が終わり、遂に明治時代の日本に戻ると言う、歴史的転換点だった。民敗れて政府あり、国家の威信を再度取り戻す為に、国民に苦労を強いるのだ。増税、情報規制、警察国家、これら、明治時代に展開された項目が、再度展開される。
今年は、規制緩和と規制強化の法律が、政府自身でさえ管理出来ない、まるで渦潮のようにぐるぐると巻きあった状態だった。
情報公開の方針で公務員の経費の使用に調査が入り、そこで次々と不正使用が発覚、その反面、個人情報保護法の元に、次々と「情報隠し」が発生している。まさに一つの状況に対して全く違う二つの法律が存在したのが今年だ。
来年になれば、法律がもっと整理されて、警察官僚国家が完成するだろう。そうなったら、もう今までの「社会をぶっ壊すような連中」の出現はあり得ない。
戦後の日本も、雨後の筍のように様々な企業が出てきた。その中で生き残ったのは、政府の方針を受け入れて追従した企業のみだった。
ソフトバンクの孫さんと楽天のみきたにさんはセーフ。ほりえもんと村上さんはアウト。その違いは、どこまで政府に追従したか、ただそれだけだ。
ともあれ、今年も後2時間で終わる。今年も何とか生き残ったな、本当にそう実感する今日だ。
僕の友達夫婦だが、旦那はとても貧しい家庭の出身で、公園で半年くらい暮らしていた事もある。奥さんはごく普通の家庭育ちで、公園で寝るなんて想像も出来ない人だ。
そんな奥さんがある時、ちょっとしたしょうもない事(最近体調が優れないとか、その程度の事)で悩みが出来た。そこで旦那に「ねえ、どうすればいいかな?」って聞くと、旦那は一言、「地獄を見て来な」
地獄って言うか、普通の日本人が経験してない事を経験した人間からすれば、まだまだ日本は甘いと思う。所詮島国かと思う。
生きるって事を突き詰めてみれば、そこには常に死を見つめながら生きている武士道に繋がる。武士道とは、すなわち死ぬ事だ。
いつでも命以上に大事なものの為に死ねる、そんな気持で、来年も健全な危機感を持って生きていこうと思う。
皆さん、良いお年を。
写真は、日本の為に若き命を落とした坂本竜馬の銅像。長崎の丘の上にて。
それにしても、京都、長崎と、偶然ながら竜馬の跡を辿ってるな。どこに行っても「この子、竜馬君って言うんだ!」と、皆にビックリされてる竜馬君が、何も分らずに、にこにこして写真に写ってる。
2006年12月30日
小さな恋の物語
この、可愛い可愛い小さな恋の物語は、クリスマスイブの夜、東京ウエスティンホテル1階の、天井が高く欧州風のイメージでまとめたお洒落な落ち着きのある静かなバーで始まりました。
物語の主人公は、40歳半ばで紺のスーツを着込んでいる中肉中背オーラ無しの、普通のオヤジ(人のことを言っておられんちゅうに)。
ウヰスキーをロックで飲む中肉中背で、カラスのようにべた〜っとした黒髪の、昼間に会ったら3分で忘れるタイプ。お相手は20代半ばの、白い服が良く似合う細身の女性。さすが東京人、随分可愛いね。おまけに声が鈴のようにころころと笑って、実に可愛い。
実はこれ、そんな素敵なバーで、あいも変わらず一人で飲んでた僕の横で始まった、小さな恋の物語。今晩は、それを話しておきましょう。
これはちょっと説明がいる。と言うのも、このようなバーでは、毎晩色んな恋が語られているけど、ここまで詳しく話が聞けるのも珍しいからだ。
大体の場合は、立派なスーツを身にまとった酔払い男が、ヴィトンあたりのセカンドバッグを振り回しながらだみ声で威張り腐って、漆喰のような厚化粧をしたギンギラ女がその横で男を騙しにかかってというのが一般的だし、話の内容も具体的でない。
でもこのケースだけは、僕の右に座っている男が、多分とても真面目な人なのだろう、その場で結構本ッ気で喋っているから、ほぼすべて聞き取れたのだ。
男「最初に言わなくてごめんね」なるほど、さっき、別のお店で告ったんだ〜、奥さん子供系ですね!
女「いいのよ・・・・でも・・・」言葉に少し詰まりながら、とまどう女性。ある程度は読んでても、ちょっと引いてる。空気が段々硬くなる。何だか素人女性さん?
男「でもさ、俺、信じるに値する男だよ」何言ってんだか?それって、言った時点で嘘でしょ〜。
女「そうよね・・・」おいおい、語尾が点点じゃんか。まだ引っ張られてるの〜?やめとけよ〜、本気になりそうなら、今やめとけって〜。
何となく空気が、お互いに「よっしゃ、今日かたを付けよう!」って雰囲気、みえみえちゃんだ。どっちに片付けるんだ?それにしてもクリスマス!
男「来年はうちの会社も上場するからさ」・・・お、君は社長か?それにしては格好ださいぞ、おっさん。オーラ、出てないし。でもまあ、立派な殺し文句だね、さすがに金満大国ニッポン!
女「あ、そうなの・・・、え?!それってすごい?!だよね〜、最近テレビなんかでやってるあれ〜?素敵!やっぱりあなた、凄い人よね!」
急にはしゃぎ出した彼女の声。“あれ”が彼女の場合何を示しているか分らんが、金が入ると言う事だけは知ってるようだ。
それにしても金があれば愛の差なんて関係無いもんね。上場してしまえば、どっか〜んと金が入る。そうやって見事に一秒復活して、鈴の声で笑う可愛い子。この鈴は間違いなく18金ですな。
男は大きな壁を乗越えた喜びで、静かなバーの中で急にステップダンスを踊りだすかと言うような声で「本当は銀座で飲もうと思ってたんだ〜!でもさ〜、今日は気味と二人でゆっくり話したくってさ!」
あれ、声が弾んでますね〜、釣れたと思ってるんだこいつ!くわいい!釣られたのは君ですよ、しゃっちょさん。
そいでもって、このあたりから段々、男の呂律が回らなくなり始めている。今まで告白の緊張で気を張ってたのが、こうなると緊張が解けて血管が膨れ上がり、アルコールの回りが良くなったんだな。
男「今日は部屋取ってるからね、へへへ、紺屋は飲もうぜ!NGなんてナシだよ〜」
だんだん調子に乗って酔う男。ちなみにNGとは、話の流れからするとNO GOODです。どこの業界だろうな?
女「何言ってるんだか〜、だってあなたって、嘘つきジャンか〜」楽しそうに、金の鈴を鳴らす女。素人みたいだけど、やっぱ本職さんでしょうな。
男の右側に座る女は、バーカウンターの背の高いスツールで高級そうな白いスーツの短いスカートの膝を組替えて、右手のシャンパングラスを軽く振る。その仕草、色っぽいですね〜、おいオヤジ、席替われよって、思わず言い出しそうになった。
男「今もさ、あれなんだけどさ、2〜3千万円くらいのマンションなら買ってあげるよ、いくらのが良い?」酔った男は、段々話が大きくなる。
女「ほんとに〜?奥さんにばれらた、やばいんじゃないの?書類残るでしょ、ローンなんてするとさ」おお、女は本気モードで、現金で買わせるつもりか?
男「大丈夫、現金で用意させるからさ、付き合いのあるところに頼めば、それくらいどうにでもなるさ」強気なつよしくんですな。それにしてもさすが東京、話がでかいね。って、ニュージーランドのビジネスのスケールがちっちゃいのか。
女「やった〜!」亀田もびっくりの可愛らしいガッツポーズで、体半分を彼に預けて喜ぶ彼女。「やられた!」僕なら大声でそう叫ぶ場面ですが、男はにやにやと嬉しそうな顔で、「よかったね」だってさ。
男は酔った体を振り動かしながらバーテンダーに向かって「すみません、お勘定」と、両方の人差し指を胸の前で交差させた。いつの時代の仕草だよ、全く。
そして二人は、仲良く手を握ってバーを出てった。
こういう場面に慣れているのだろう、バーテンダーは一人で飲んでる僕の方を見て、軽い笑顔でお洒落な会釈をしてくれた。
時計を見ると、もうすぐ馬車がかぼちゃに変わる時間だ。それにしてもさすがに東京、楽しい話が満載ですね。じゃあ無名のカップルさん、楽しいクリスマスプレゼント、ありがとさんでした。
写真は日本のケータイで撮った、お客のひけた後のバーカウンターの写真。ドアの向こうには高さ3メートルくらいのクリスマスツリーがちらっと見えてます。
2006年12月28日
京都、そして竜馬へ
考えて見れば、京都に前回きたのは10月なのに、京都をまともに観光したのは、多分20年ぶりだろう。
京都訪問は、幸雪(みゆき)に古寺を見せて、竜馬君に寺田屋とか坂本竜馬関連の場所を見せる為だ。何でお父さんが君に竜馬という名前を付けたか、分ってもらうとうれしいのだが、君は寺田屋で「お父さん!鉄砲があるよ!使っていい?」とか、すっかり馬鹿をかましている。
やっぱ、まだまだ特殊学級が必要な奴だな。大体さ、「お父さん、何でこの人、僕と同じ名前なの?」って、君の方が後なんだけどね。
京都は2日過ごしたが、書く事満載の、実に楽しい街だった。ホテル、観光地、タクシー、コンビニ、レストラン、とにかくどこも、突込みどころ満載であり、でもそれ全体を京都が包んでいて、結局それが、何とも言えない思い出を作ってしまった。
清水坂のアイスクリームや八橋、書く事満載。明日以降に、まとめて書こうっと。
え〜い、旅先で一番不自由するのが、ブログの更新だな。
写真は、竜馬の定宿だった寺田屋。現在も刀傷や弾傷が残っている。
2006年12月27日
浅草博徒一代 〜アウトローが見た日本の闇〜
「戦争前までは一般の日本人の生活は、朝まだ暗いうちに起き出して仕事に出かけ、一日精一杯働いて夕方にはうちに帰って飯を食べて寝てしまう、と言う具合で、普通の家では夜9時ごろにはみんな寝てしまったものです」
1906年生まれの浅草博徒が見た東京は、実は闇だけではなく、当時の東京を見事に再現していた。それがこの本の売れた理由だろう。
この本は、博徒から聞いた話を書き取った医師が、彼の死後それを一冊の本にまとめて1988年に出版され、日本だけでなく、遂には1991年には英語版まで出版されて、2003年にはウォールストリートジャーナル誌でボブディランの盗作問題まで引き起こした程の名作である。むしろ、日本での評価の方が低いのではないかと、今回読了して感じた。
当時の東京は、利根川から江戸の名残りが薫る深川などまで、すべて小船で移動するのが当たり前の街であった。ちなみに江戸と言えば浅草、深川、溜池、精々西の端は目黒くらいまでの、江戸城を中心とした東側と南側が中心で、その当時は新宿などは江戸の端っこであり、淀橋と呼ばれていた田舎であった。
この掘割を利用した水運は、お屋敷に石炭を運ぶのも、田舎の野菜を東京に届けるのも、そして尾篭な話ではあるが、東京で「おわい」を貰い受けて自分の村の畑に肥料として撒くにも船を使っていた程に利用されていた。
お上の眼を盗んで、違法な物資や博打帰りの旦那衆を送る「あいまい船」なんてのもあった。真っ暗な川や掘割を、小さな灯り一つで小船を操り、商品やお客を目的地まで届ける。最近の映画で言うならトランスポーターかな。実はこの博徒も、一時期はあいまい船の仕事をしていたから、実に詳しい。
違法と言ってもあくまで役人がそう決めてるわけだけで、夜9時に人々が寝る時間を過ぎて家に帰ろうとすれば、それだけで「怪しい事をしている」という事になる。そこで警察に捕まると、この前書いたミランダ判決以前の世界の風潮ではないが、即効で警察に放り込まれて拷問を受ける事になる。
とにかく人権無視の時代だったから、やってる方からすれば犯罪の意識はないのだが、お上に捕まると何かとうざい。だからこのような商売が発生するのだ。
今の時代では考えられないが、夜9時に街を歩くと言う事は、それだけで怪しまれるわけで、例えばパチンコで夜10時まで遊んで、勝った玉を現金に替えて家に帰る時に、道端に立っている警察に「お前博打やったろ、逮捕だよ」と言われて、そのまま警察に連行、拷問を受けるようなものだ。
まあ警察は別にしても、当時はそんな具合で、移動については、道路の代わりに水路が普通に使われていた時代の話から、この物語は始まる。
「ヤクザは、今流行りの暴力団ではございません。私らは今度の戦争の前から、博打一つで身代を立てたもんです。麻薬や女の稼ぎなど、私らヤクザから見れば本筋じゃあありません。街でたまに会っても、そんな連中には目もくれませんでしたよ」
明治の終わりから大正、昭和と生き抜き、東京大空襲も経験して戦争に負けて、そこから立ち上がった日本というものを、博打場の親分として生き残って見つめてきた彼の視点は、実に淡々としていながら明察なジャーナリストの眼を持っている。
当時の人々が、狭い長屋の軒先でメザシを焼きながら世間話に戯れて、仕事帰りのオヤジはどぶ板を下駄で駈けながら自宅に戻り、子供を連れて近くの風呂屋で汗を流す。
熊蔵という殺人囚は元々風呂屋の三助だ。風呂屋で男女関係なく背中を流すのが仕事で、そこで知合った若い女に惚れてしまい、女の為に風呂屋の奥さんと子供を殴り殺した罪で収監されていた。
浅草の博徒は、博打場に取締りをかけた警察の面子を立てる為に刑務所に入るが、そこで知合ったのが上記の熊蔵だ。日本の闇を見たというよりも、当時の風呂屋の様子がよく分かる風景の方が興味深い。
刑務所の中では、犯罪受刑者は金は持てないが、看守は金がない。だから看守の生活の苦しさを知っているヤクザは、自分の立場を良くする為にも看守に金や現物を渡す。まさに、上に政策あれば下に対策ありだ。その時の生々しい現場の雰囲気も書き上げている。
明治、大正から昭和の後期までを生き抜いた博徒は、その後も刑務所に入る。殺人が一回、麻薬販売幇助が一回である。博打しかしないヤクザが、何で麻薬販売幇助で捕まったか、そこが浮世の渡世の義理と言う奴で、この下りがまた面白い。
今の時代、モノは豊かになった。
ただ、命を張って生き抜いたヤクザが、義理と人情を大事にして刑務所に3回入り、60歳過ぎて、自分の責任でもないのに、一時でも愛した人を守る為に薬指を落としたという体験、そして何よりも、「まあこんな事は、人様にお話できるようなこっちゃありません、みっともねえ話だ」と言わせる謙虚さが、僕らの心の空虚さを際立たせる。
彼は本の中で、他人の為に網走刑務所に入った経験を話している。零下30度の網走で山深く入り、直径1メートルくらいある大木を切る作業をするが、それって高倉健の網走番外地だよね。
その中でも特に、戦時中の中国や満州国にいた受刑者の話が面白い。仲間の腕を切り落として荼毘に付した男は、絞首刑では死ぬまでに12分30秒かかるという事を執拗なまでに博徒に話をして、その背景がとにかく面白く、ネタに不自由しない。
結局この博徒の一番面白い部分は、本人も気付かないままに、真実に忠実なジャーナリストとして、時代の背景を見事に抉り出したという事ではないだろうか。
その後彼が出所後に乗る予定だったけど結局遅刻してしまい乗れなかった、北海道の函館から青森に戻る洞爺丸が沈没した事件も出てくる。
歴史を上から見て描いているのが司馬遼太郎だとすれば、この博徒は、歴史を下支えした人々と共に生きてきた視点から、日本という国を、当時を切り取るように見つめていた。
日本人の歴史を知りたいなら、是非読むべき一冊だと思う。
2006年12月26日
本間、佐田と飛ばされ
いよいよ、あべさんが飛ぶか?佐田さんの件も含めて、がんがんやられてる。
やっぱり麻生さんが裏ですか。日本にいると、毎日こんな政治問題に目を通すが、でも何より怖いのは、そんな発言さえ、今の日本では出来ないって事。
とにかくお上が、また自信を持ってきた。その過程で国民本位の民主主義が進めば良いのだが、結果的に、官僚が作った国造りに戻った。
だから、情報開示法は、誰がどのような情報を「出さないか」と言う意味で変化して、こりゃ〜やばいなって思う。
まあいいや、自己責任という言葉=政策を、政府が変えたんだ。親分が変更したものを子分が文句言う権利はない。
来年僕は、戦いを始める。日本政府にとってはガス抜きかもしれないけどね。
写真はウエスティンホテルのバーです。綺麗に取れましたね。
2006年12月25日
クリスマスを記念して
いつも飲んだ帰りに送ってくれるキースと言うタクシードライバーがいる。現在72歳だっけな、現役でタクシーの運転手を楽しんでやっている。
とっくに年金で食える年だが、そんなものに頼る気はないようで、実際彼はタクシー会社に所属はしているけど、客は殆ど常連で、電話で彼を呼び出しては、酔った体を自宅まで運んでもらう。
そんな彼は、素面の時はいろんなニュージーランドの歴史を教えてくれる、大事な先生だ。
先日も運良く僕は素面で、最近の話題を話していた。そうすると彼が突然、「最近の治安はなっとらん。若者が平気で悪さをする、昔のようにガキには厳罰を持って望むべきだ。あいつらはガキで何も分ってないから、大人の怖さや法律を破る事の罪の重さを知るべきだ」と話し始めた。
「オークランドも1960年代までは刑罰が厳しく、死刑も存在した。その為治安は良く、オークランドでも家に鍵をかけなくても良かった。ところが70年代に入ると急に{犯罪者の人権}なんて訳のわからん理屈が出てきて、勘違い野郎が犯罪者を守るようになり、犯罪者が増加した」
「犯罪を起こしたのは社会が悪いなんて、本気で言ってる連中が、結局犯罪者の増加を招いたんだよ。見てくれよ最近のガキ、車上荒しやこそ泥など、捕まっても犯罪にならない事を知ってて悪さしてるんだ」
彼は14歳で学校を卒業後、戦前のオークランドでそれこそどんな仕事でもやった。農場の手伝い、牛乳配達、大工、工場労働、とにかく金になる事なら何でもやり、一生懸命働き、そして十分に人生を楽しんでいる。今もだ。
その頃の若者は、一生懸命働く事が当然と思っていた。それ以外の、働かずに金だけもらうとか、人の物を盗る等という事は、考えつきもしなかった。それがかつてのキーウィだった。
そんな彼からすれば、働きたくない、働きもしないような若者の存在自体が理解出来ず、ましてやそれが同国人であるから恥かしいとも思って、普段よりも強い口調になって若者の批判をするのだろう。
勿論ニュージーランドでも真面目な若者はたくさんいるし、そういう若者が次世代に担っていくのだが、悪い奴というのは少数だけど、どうしても目立つ。てゆ〜かガキだから、人に見てもらわない所で悪さをやっても面白くないのだ。だから人数で言えばほんの一握りなのだが、そういう連中がシティでごちゃごちゃやっているのが、不愉快でたまらないのだ。
1970年代と言えば、ベトナム戦争に失敗した米国は、かつての自信を失い、ヒッピーが街に溢れ、人々が自由と平和を世界に向けて訴えた時代だ。
1950年代の警察は、被告の権利を一切無視して、次々に刑務所に放り込むような状態だったから、そのような権力による不法をなくす為に、裁判所も様々な判例を出すようになった。
最も有名なのがミランダ判決、ミランダ警告とも呼ばれているもので、警察ドラマなどで犯人を逮捕した時に、相手の権利を読み上げる、あれだ。
この法律は米国で1966年に最高裁に於いて出された判決であったが、その後世界中に広がり、勿論日本でもニュージーランドでも同じ考え方が導入されている。
ただ、振り子の針と同じで、今まで右に思いっきり傾いてた針が、社会の反動によって左側にふれてしまうと、それがどミランダ判決こまでも左側に行ってしまい、結局犯罪者の権利のみを強調するようになり、政府も権力を失い、事故の被害者も訴える場所がなくなり、犯罪者のみが権利を持つようになった。
このような時代に死刑廃止と言う流れが出て来て、人を殺しても少年法では無罪とか、殺人時に精神障害があれば無罪とか、犯罪者の権利が次々と主張されるようになった。
ニュージーランドでも死刑が廃止され、それどころか、軽犯罪、つまり車上荒しや空き巣狙いなどは、殆ど犯罪と認識されなくなり、そこにつけこんだガキどもが今オークランドの街を走り回っているという事だ。
だから犯罪被害者からすれば大変な話だし、警察としても取り締まりが出来ないのだから問題なのだが、犯罪に遭った事もない、人権と言うものを口にしている自分にうっとりしている平和な連中が世界の主流を占めている為、この状況は暫く変化しそうにない。
どうすれば、そんな、「犯罪者は悪くない、社会が悪いのだ」なんて発想になれるか、どうしても意味不明だが、現在の法律の下では、ドライバーのキースがどれだけ怒っても主流派ではないから、どうしようもないのだ。
犯罪をどう見るかというのは、極端な話、社会の合意を得られる方法、つまり選挙や裁判を通じてしか決められない。最近はニュージーランドでも警察を増員したり、町のみ周りを増やしているが、キースの眼から見れば、まだまだ全然不足している。
ただ、キースの見ているオークランドは、彼は過去のオークランドと現在のオークランドを比較しての意見であり、僕のような外国から来た外国人からすれば、当然東京とオークランドの治安を比較する。同じように、中国から来た人間は、中国の都会とオークランドを比較するだろう。
そうやって比較して見れば、体感温度として、オークランドの方がずっと治安が良いと感じる。香港から来たうちの奥さんも同じ事を言ってる。
比較の物差しを、同じ場所の過去にするのか、それとも同じ時代の違う場所にするのか、それだけで答が変わるのも事実だ。
ただ、それとは違った事が今の日本で進行中なのは、毎回の日本出張とインターネットからの情報で感じられる。
守れない法律を作り、真面目に守った者が損をする。そして違反した者でも、その時の法律政策担当者、つまり政府や役人に近ければ免除される。交通違反のもみ消しが良い例だ。
そして、法の不備を指摘して体制側と対決すると、突如体制側はその持てる権力を使って個人情報を入手して、全然関係ない点から指摘した者を告訴して排除する。去年から今年にかけてたくさんの事件が起こったから、皆さんも理解出来るだろう。
沖縄の野口さんだけではない、藤田偽装隠蔽問題、ライブドア、村上事件、教科書履修問題、官製談合など、どれもマスコミが問題の真実まで踏み込んで描いたとは思えない、まるで最初に筋書きありきの出来レースだ。
ニュージーランドでは、こうやって個人による犯罪をどうしようかという議論がされている。でも日本では、国家による行為を犯罪と呼ぶべきか、また国家による明確な犯罪をどうすべきか、来年はそういう議論が急増するだろうね。てゆ〜か、しないと、野党じゃないよ。出来ないかな。
第二次世界大戦前の日本には、他国に関する情報がない為、また一所懸命という文化があったために、国民には選択の余地はなかった。しかし今の時代は、海外の情報が出回っている。一箇所に留まらないという発想も、一部の人ではあるが、現れてきている。
日本という国家が国民を愚弄して「今回も大丈夫さ、ちょろってマスコミ使って誤魔化せば、今までと同じように、あふぉ〜な国民は騙されるさ」と思っているのだろうが、今回はそうはいかないのではないか。少なくとも相討ちくらいには持ち込まれるかもしれないぞ。そうなった時に、政府は失った信用をどう取り戻すつもりなのか。
写真は、クイーンストリート沿いの、元BNZが入居していたビルの取り壊し工事です。
2006年12月24日
麻布十番 カシータ
「新一之橋の交差点を左にお願いします」
11月最終日の夕方は、5時頃にはすでに薄暗くなり、汐留のロイヤルパーク汐留タワーホテル(長い名前だし同じような名前のホテルが他に2軒あるのだからめんどい)からタクシーを拾った頃には、すでにヘッドライトを点けた車列が、そろそろ師走に入ろうかという銀座の街並みを照らしていた。
東京が江戸と呼ばれていた頃の古地図が手元にある。1600年代だから、江戸幕府が何とか始まった時代のものだ。古地図によると、江戸城の南側にあたる汐留は、その当時、松平政千代のお屋敷があったところだ。
お屋敷の隣の海側には濱御殿、今で言う浜離宮がある。今回泊ったホテルから、浜離宮がちらりと見える。浜離宮から先は今も埋め立てされてないのは、さすがに天皇への遠慮か。
高層ビルからは、浜離宮に出入りする車が見えるが、当時はまさかこんな建物が出来て、浜離宮を見下ろすような不届きな平民がいるとは、さすがの天皇も徳川幕府も思いつかなかっただろう。
そう言えば皇居近くの高層ビルは、高さ規制をした方が良い、でないと、天皇や皇太子の家が丸見えじゃんという議論も出ている。たしかに、夫婦喧嘩の真っ最中をフライデーされたらまずいよね。
そして汐留。ホテルの窓からは左手に見える築地市場だが、地図の上では浜離宮の隣にある築地が見つからない。
もう少し地図を眺めていると、どうも1600年代は築地という地名が存在しなかったようで、その地域は掘割に囲まれた大名のお屋敷になっている。築地の向かいにある西本願寺は地図に存在するが、このお寺もその築地側ともう一辺が掘割になっている。
つまり築地西本願寺の前の掘割を埋め立てて大きな道路にして現在の築地が出来上がっているのだ。そいでもって、築地に市場が出来たのは昭和10年、それから現在の築地の歴史が始まっているのだ。
なるほどなるほどと九州出身の山猿は東京の発展に妙に感心しながら、でもまあ天皇と言っても邪馬壱国の亜流でしょくらいの気持ちでホテルを出た。
冒頭に戻るが、タクシーで向かった先は麻布十番。江戸時代には狸の住んでる場所=狸穴と呼ばれていた地域だが、商店街は昭和のイメージを残し、有名なそば屋とか芸能人行きつけの焼肉屋などが軒を並べている。
地下鉄大江戸線の麻布十番駅が出来たので、陸の孤島ではなくなったが、新宿や汐留の機械的なイメージからはかけ離れた、とても静かな一画だ。
さて、本日の目的地は麻布十番にあるカシータだ。東京に行くと、大体一回は食事に行く。東京に良いレストランは沢山あるが、特に個人向けのサービスをシステムとして導入しているこの店では、様々な新しいホスピタリティが学べるので、仕事の上でもとても役立つ。
そして今はイーディというオーストラリア出身の関西弁を話すマネージャーがおり、オセアニアの話で盛り上がることも出来るので、個人的にも楽しみにしている。
数日前のブログでも書いたが、今回の東京出張はとにかく男性お一人様飯が多く、カシータも男性お一人様だ。
このカシータ、それほど宣伝していないにも関わらず、殆ど常連の予約で毎晩満席になる店だ。まずタクシーが止まると、ビル前の歩道にお店から出てきたウエイター君が、きちんと待っている。雨の日は傘を持って待ってくれてる。
お店自体はビルの8階にあるのだが、予約の時間を見計らって、その日の担当者がビル入口で当日の予約リストを持って待っているのだから、最初から心地よい気持になれる。
「いらっしゃいませ、tomさん!」明るく声をかけてくれる。慇懃無礼でもカジュアルでもない、丁度良い声のトーンは、個人の名前を呼ぶというちょいテクで更にお客を喜ばせてくれる。
彼らはお店が顧客管理をしているので、僕がどこから来たか、何の為に食事をするのか、どんなお酒が好きか、前回の来店時に問題はなかったかなどを、スタッフ全員がデータ共有している。
だからエレベーターの中でも、初めて会った新人さんとでも話が弾む。「ニュージーランドは今夏なんですよね、どんな感じですか、夏のクリスマスって?」「サンタがサーフィンボードに乗ってきますよ〜」等と言う他愛のない会話をしながら8階へ上がる。
この店はちょっと変わった造りになっており、レストランのダイニングスペースとは別に3メートルほどのちっちゃな池?プール?があり、これが真っ青な色にライトアップされていて「癒し」のイメージを提供している。
待ち合わせ用のバーで、いつものジントニックを貰う。タンカレーベースの奴だ。今日はどうせお一人様なので、とっとと一杯だけ飲んで、後はそのままダイニングルームに上がる。そうそう、ここはバールーム、ダイニングルーム、デザートルームと分れているのだ。特に窓際のテーブルだと、東京タワーが丁度肩の高さに見えて、とても綺麗。
ここのシェフは、いつも新しいメニューにトライしていて、新しい食材発見にいとまがない。その日のお勧めを聞くと、「シェフが自信を持った一品です!」と持ってくる料理は、大当たり3、普通4、外れが3くらい。
最高を狙い過ぎて、いつも「前よりよい料理」と考えるから失敗も当然あるが、それは前向きな結果だし、普通のレストランであれが出たら、どの一品も看板メニューになるだろうなって感じ。
おいしい料理は、本当に人を、あっと言う間に笑顔にさせてくれる。
さて、この日は男性お一人様なので、ウエイターの皆さんも特別気を使ってくれてる。いやいや、決して同情ではなく(思いたい)、プロとしてお一人様で来たお客様を楽しませようとする気持だ・・・?
まあまあ、早速喫煙席から最も離れて隔離されているような禁煙テーブルに案内してもらうと、メニューを開いて説明を聞く。前回と比べて三分の一くらい変わっているな。季節の素材を使う店だから、年中同じメニューはどうしても限られてくる。
1000円で食わせてくれる1スプーン料理ってのも楽しい。元々胃袋が鳩並に小さいので、小皿をつつくのが大好きな僕としては、こういう前菜が、同じ値段で吉野家の牛丼が3杯食えるとは知っていても、牛丼3杯並みの満足感を与えてくれるなら、十分納得だ。
食事は、食べる事としての体の栄養補給と、ご馳走という意味での心の栄養補給と言う二面があると思ってる。カシータは僕にとっては心の栄養補給なので、この量で十分。
勿論吉野家はdaisukiだし、日本で必ず行く店の一つであるが、カシータと吉野家を、値段のみを取り上げて比較する事は、そうしたい人はそうすれば良いが、やはりお店とは味だけではなく、造り、雰囲気、サービス、そういう全体的なバランスを考えた満足度の勝負であると思っているので、どちらも素晴らしい店だと思う。ただ、概念が違うだけなのだ。
ワインはいつもニュージーランドワインを注文する。少しでもNZ産のワインがこういう店で売れてくれて、一人でも多くのお客がニュージーランドに興味を持ってもらいたいという気持ちが半分、後の半分は、本当にニュージーランドの白がすっきりとして飲みやすいからだ。
お一人様で色んな事を考えながら、ゆっくりと料理を楽しむ。途中、マネージャーのイーディもわざわざテーブルに座って一緒にワインを飲んでもらったりしながら、約2時間の食事を楽しむ。今晩も、どれも力の入った美味しい料理とワインを楽しませてもらった。
東京では今だもってまともなレストランでも禁煙席を持っていない店が多い。それより前に、客のマナーが全くなってないから、お店も禁煙と言いづらいのだろうが、すし屋のカウンターで煙草を吹かしている親父を見ると、政府の批判よりも国民批判をしたくなるのは僕だけか?
この店の最後の〆は、最上階にあるデザートテーブルで頂くポートワインだ。テイラー10年ものをニイップグラスでもらい、ビターの効いたチョコレート系のデザートと合わせて、夜空にくっきりと見える東京タワーを眺めながら、一杯やる。僕とほぼ同じ時代に出来たタワーを見ながら、日本を離れた頃の事や、それからの生活を思い出す。
いや〜、それにしても人生って、楽しいな〜。もう一回生まれ変わっても、同じような人生を歩きたいな。
海外で起業、今までにないビジネスをどんどん作り出して、うまくいったものもあれば失敗作もあるけど、どれ一つとして、だらだらと流されてやったものはない。
毎日毎日が勉強と肝試しのような生活はそりゃ〜どきどきするけど、それが人生じゃないかなと思ったカシータの晩。
お一人様だから持てる、ゆったりした時間。
この美味しい空間を次回も楽しめるように、明日もまた頑張ろう。
2006年12月23日
智恵こそが
アングロサクソンでも日本人でも、きちんとおばあちゃんや親に家庭内教育を受けてない人には、その智恵というか、後先を考えて、全体を俯瞰して判断する能力の薄さをいつも感じる。
例えば身近な話で言えば、中華レストランの回転するテーブルを見ると、20歳台のキーウィは、まず間違いなく、見かけた瞬間にテーブルの端に手をかけて、そのまま勢い良く回す。うれしそうな顔をして回す。するとテーブルの上に乗ってる醤油や爪楊枝が、見事に吹き飛ぶ。そして自分のやった事に気付いて、Sorryなんて済まなそうな顔をする。
基督の時代から欧州では戦争ばかりやっているが、その原因を突き詰めれば、部分の無謬全体の誤謬が理解出来てないからだと思う。簡単に言えば、目先の現象しか見えずに、細かい「知識」はあるけど全体を把握する智恵がないのだ。
今の米国等は、まさにその典型である。政府のやっていることが、5歳の子供が中華のテーブルを振り回して、後になって「あ〜あ、やっちゃった」となってるようなものだ。アフガニスタン、イラク、何度も同じような事をやってる。戦争だ!って景気つけて兵隊送り込んで、兵隊が地元民に殺されて初めて「撤退しよ〜よ」なんて、戦争したら人が死ぬのなんて判ってることでしょ。
囲碁を学べば、どこかを押せばどこかが引っ込む、碁盤が地球という限定された広さの土地であれば、どこか一箇所でごり押しすれば、他の部分が引っ込んでしまうという事が理解出来る。
しかし囲碁の文化を持たない欧州人は、目先の問題でしか理解出来ないようである。世の中をオセロみたいに、ゼロか100かの論理で考えているようだ。
人は叩いて従わせるよりも納得させて一緒に仕事をする方が利益が大きいという事を気付こうとしない。
「戦争は下の下、やらずにすんだらこれほど良いことはない」そう言ったのは豊臣秀吉だったかな、たぶん他の大将たちも、ちょっと賢ければそれは理解していただろう。
戦争には金もかかるし人も死ぬ。結果的に得られる物は少ないし、特に相手の領土での戦争は、いずれ土地を取り返そうとするジモティとの戦いを引き起こしてしまう時限爆弾を抱えるようなものだ。
18世紀の英国は、その植民地を広げていったが、結果的に今英国の土地は、元々のちっちゃな島に収縮されている。
戦争して相手の土地を取るなら、その土地に住んでいるすべての人々を殲滅させねばならない。すべての人々を殲滅した後に、自国の人々を送り込むしかない。
しかし現代の世界では、侵略して殲滅等と言う方法を取れば、国際社会から追放されるし、国家の存在そのものが危うくなる。
そのような時に要求されるのは、実は智恵である。東洋人全体、特に日本人と中国人に言える事だが、智恵は、唯一知識を有効活用出来る支配主である。
生きる智恵があれば、他人と自分が共生している事がわかるから、「人殺しは知識としては知ってるし、実行出来るけど、実際にはやらないよ」と言う自己抑制も出来る。「人は、金儲けの為に何をやっても良いわけではない」という発想は、実はこの自己抑制から来る。自分がやってしまえば、いつか自分の子供の時代に仕返しが来る。だから、出来るけどやらないのだ。
だって、例えば錠前屋が他人の家をどんどん開錠していったら大変だし、銀行員が入社した瞬間に強盗になってしまえば、こりゃあんた、世の中相互信頼が崩壊で、世界も崩壊、ほうかい、じゃ原始時代に帰りましょ、でしょ。
要するに、バスで隣に乗り合わせた人がナイフで襲ってこないという信頼を元に、僕らの世界は回っている。その信頼とは、暗黙の決め事。それをぶち壊すような事をすれば「治安や秩序の破壊者」という事になる。
大体こんな暗黙の了解は法律に書いていないし、書き始めたら法律に人間が縛られてしまうから、良識のある大人はそんな法律を作らない。
だから、小学校の頃から他人との付き合いを持たず、お受験一本で人を蹴落とす事ばかり考えて、大学で一生懸命勉強して「知識」を身に付けた「ばかもの」は、社会に出てから「大人の為の善意の穴」を見つけ出して、「法律に書いてないからやっても良いでしょ?」となる。
おいおい、やっちゃいかんのよ。法律で書いてないからって、法律の前段には道徳があるし、その更に前段には良識というものがあるんだ。法律は最後の砦であり、本来なら法律なしで世の中が運営されるのが正しいのだ。
そんな事も気付かないのは、学校の偏差値や詰め込み教育の結果で知識偏重になり、智恵を理解出来ないからだ。
これは別にホリエモンや村上ファンドの事を言ってるのではない。彼らの場合は政府によるいじめ、叩きだ。同じ事を政府がやっても何も言われないのに、個人が政府に逆らってやれば叩かれる。ここで取り上げているのは、あくまでも、社会を支える筈の、普通の社会人のことだ。
人は一人では生きていけないし、今の分業社会も、他人の存在なしに維持は不可能である。だから、他人が納得しない形で自分だけが利益を得ようとすれば、周囲に嫌われて村八分になってしまい、結果的に全員が利益を失ってしまう。
じゃあ社会の常識、暗黙の了解を理解する為にはどうすれば良いか?それは、他人に対する優しさや思い遣りをもち、人にされたら嫌な事は、人にしないという、簡単な常識を身に付けることだ。
でもって、痛みを感じるとか優しさってのは、これ結局感情や感覚の問題。だから感情の薄い人や感覚が鈍い人には理解出来ない。それって誰?それって、子供の頃から親の愛を受けてない人。他人と社会生活の上でつながりを持たない人。
つまり鍵っ子で子供時代を過ごし、父親は週一回くらいしか顔を見なくて、母親はいつも「勉強勉強」と口煩い事を言うばかりの家庭で育った子供だ。
そう言えば最近の日本人のサラリーマン、スーツを着てバッグパックを背負ってる連中をよく見かけるけど、あれって何かね。完璧に人間としてのセンスが欠けているのか、笑いを取りたいのか?特に学校の先生や役人に、そういうのが目立つ。
日本にしても西洋にしても、基本的な智恵不足が急増しているのではないかと思う今日この頃。
写真はシンガポールのリー・シェンロン、建国の父であるリー・クワンユーの後を継いだ、大変優秀な2代目独裁者。でも、良い意味の独裁者ね。
2006年12月22日
最近、春ですね〜。
最近、春ですね〜
僕の周りは最近春みたい。皆さん、恋に愛に目覚めているようです、はは。何だか自分の周りが賑やかなので、こちらも楽しくなって良いのですが、しかし面白いな、こういう状況って。あっちこっちで楽しい事件が、数えてみると、5連発!
2006年という年がもうすぐ終わる訳で、国際結婚の離婚率が80%と言われてる中で、誰にも死と言う肉体的な限界から逃れられず、それでも「時」という相手に果敢に戦いを挑む皆さん、「永遠に愛してる」なんて言ってますが、まあ時に限界がある以上、永遠ってのは、どういう意味なのか、まあいいや、頑張って下さいねとしか言えない。
それからその言葉、何人もの人に、同時に使わないでね。馬鹿にされますよ。ちゃんと優先順位を明確にしてね。
からかってるわけでもないし、見ていて楽しいのだが、う〜ん、どうなんだろな、早く止めた方がいいよ〜ってケースも散見する。
恋愛だけなら良いのだが、結婚となると、「彼は今無職だけど、夢があるのよ〜。私が叶えさせてあげる」なんて思ってても、その人の夢が口先だけなのか、前回も同じパターンで他の女性に話をしていないのか?もちょっとれーせいになればと思ったりする。
お互いに傷の舐めあいのような擬似恋愛やってても、そこから学ぶものはない。だってお互いに成長しないから、毎日同じ事を繰り返して問題を避けてるだけで、それを恋愛と勘違いしている。他人に嫌な事を言われるのを避けてるだけでしょ。
どうせならさ、お互いに成長するような事しませんか?1+1=3になるような、そういう楽しい恋愛なら、恋の要素と愛の要素の両方があるから、これは結果的にどういう関係になろうと、別れた後もお互いに人間として尊敬出来るから、楽しいと思うんだけどね。
良く見るのが、付き合い始めると突然、男性が女性を縛り付けるケース。いや、本当に縛り付けたら変態ですし、それじゃあ犯罪だけど、「女友達とでも飲みに行くな」とか、女性の行動に束縛をつける男性。みっともないからやめなって。
だって、そのオンナが外に行くのは、彼女の自由意志だ。君に魅力がないから彼女は外に出るのに、「何でおれのいう事聞かないんだ!」って怒ったって、迫力ないって。本気で好きなら、まずは自分が毎日成長する事でしょ。
そいでもって、女性が「あなたと一緒じゃなきゃ、どこにも行かない!」って言わせるほどの男になればよいだけの事。
自分の責任を女性に転嫁させちゃ卑怯でっせ、おやじさん。
まあこんな事書くと「お前こそなんじゃ!」と言われそうだが、僕のポリシーとして、自己責任を他人に転嫁する事だけはやってない。いつも家の奥さんに言ってる言葉が「生まれ変わっても結婚したいよ」です、はは。
キーウィの離婚率は50%との事。これは一般的に「女性が自立している」という事だけでなく、愛のない生活に意味はないという価値観だろう。外面がどうのとか、体面がどうとか、キーウィはそう言うことは気にしない。それよりも、一緒にいて楽しくないのに、何故体裁だけ考えて我慢する必要があるか?だろう。
まあ、春ってのは、それはそれで悪くないので、皆さん、頑張ってくださいな。壊れる事を恐れていては成長出来ませんよ〜。
さて皆さん、今年のイブは、誰と過ごすのかな。僕はイブの夜は家族で東京の中華料理食ってます。ルームサービスではありません。
写真は山水のデザート。元パティシエで今は和食やってるシェフなので、デザートがお洒落です。
2006年12月21日
ルールは人の為にある。
先週末に不動産取引を2件まとめて契約に結びつける。日本で不動産を扱っている人からすると、こちらの不動産の動きの速さにはびっくりするようだ。
この取引は結構時間がかかり、最後の話し合いは先週の金曜の昼から土曜日の夜までかかったが、何とかお客様に納得してもらった。それにしても、不動産は大変だ。
書類は、その多さだけでなく、日本にいたら見る事ないようなLIMリポート、ビルディングリポート、リソース、そしてNZだけでなく日本での税務面での問題、自宅の管理補修、英語の契約書、NZの法律、どれをとっても中途半端な知識ではやってけない。
そう考えると、いきなりニュージーランドにやってきてぽ〜んと家を買う人って、凄い度胸だなと思う。
午前中は、移住会員の移住日程表を2件作成、何とか午前中に片付けてメールする。年末でもあり、ある程度皆さんの移住の方向性を明確にしておく為に、出張の最中から膝詰でどんどん話を詰めていき、オークランドに戻り次第図面化して、それを送る作業だ。内容が重いので、ほかの事をぶらぶらやりながらという訳にはいかない。
午後一番の会議では、山水の運営で今後の話をする。
おかげで忙しい。やらなくちゃいけない事は山積みで、どれも他の人に「ちょっとやっといて」と言えない仕事ばかり。そんな中で次は飛び込みで移住の相談。
31歳独身男性、都内の一流大学卒業、SEを7年経験したという、立派な経歴だ。さっと点数計算をして、2年後に永住権が取得出来る事を説明した。初対面から30分の聞き込みで2年分の計画を作ったのだから、相手からすればびっくりするのだろう。
「さあ、どうです?出来ますよ、あなたの移住」と言ったら「え、え、え、暫く考えて見ます」当然だろう、自分では色んな事を考えて道をどうすれば良いのか分らないのに、糸の絡まりが飛んでもない状態なのに、こちらからすれば「男性お一人様」だから簡単なケース。この落差が、普通の日本人をして「このやろう、本当に真剣に考えてんのか?」と思わせるようだ。
大体最初の面談でビックリするのは男の方だ。今まで自分が生きてきた社会のビジネス常識や発想では、僕のような異端児の発想が理解出来ないからだ。
女性のほうが脳が柔らかいのか、比較的理解度が高い気がする。いずれにしてもこの男性は、来年になって再度検討要だな。かなりメモを取っていたが、僕の話を噛み砕いて理解するのに、2〜3日はかかるだろう。何せ自分の今までの判断方法が根底から壊されるのだから。
まあ、それも当然か。生まれて初めて移住の具体案なんて突きつけらたら、ひえ〜っという気持かもしれない。でも可能性があるだけ良いよ。中国では全く可能性がないまま、一生共産党の下で生きていくしかない人もいる。
それから先週移住で問合せのあったお客様への回答2件。その両人に強調したのは、ルールよりも申請者本人の資質が大事だってこと。これは日本人には理解しずらいが、NZではルールよりも実態が優先される。
ルールは人の為にある。ルールが優先して、法律が精神ではなく条文で判断されるようになれば、それが問題であるって事は、日本ではあまり教えられてない。
有難い事にNZでは、法律の上に個別判断がある。だから真面目な日本人は、実はビザは取り易いのだ。つまり、点数上では不足していても、弁護士などを通じて移民大臣に申請すれば、個別判断で永住権が発行されるのだ。ただしこれは、日本にいる人には理解が難しいだろうな。
なんて事をやりながら、一日が終わる。正直、後半は息切れがする感じだ。全く内容の違う話を5個くらい同時進行でやりながら、その合間に来週からの日本行きの面談予定を押し込んでいく。あ、飛行機やホテルの確認もしなくっちゃ。
2006年12月20日
げんたで一人飯
別にふてくされてる訳ではないが、ここんとこ一人飯が多いな〜。昨日もげんたで男性お一人様だった。
もともとシティで夕食の予定だったが、こういう時に限って、友達に電話をかけても捕まらない。まさかそんなことないよね〜って思い、スペアも用意してない。ありゃりゃと思ってるうちに、仕事の連続なので、気付いた時は夜6時・・・。
今週は山水レストランの様子を色々見なくちゃいけなくて、でも一晩中張り付くのも大変なので、夜9時過ぎまで時間潰すところを探してほっつき歩く。
6時過ぎに普通のレストランに行くと、会いたくないような連中に会う可能性高しという事で、クリスマスの前に知合いが来ないようなげんたをあえて選ぶ。
げんたはお好み焼とか焼きそばとかを、お客の目の前で焼いてくれる、気軽なお店だ。小鉢もしっかり充実しており、男性お一人様がほうれんそうのおひたしや牛肉ともやし炒めをつまみにKIRINビールを飲むには手頃。
でも、ここでもそんな僕に気を使ってか、ウエイトレスの可愛いお姉ちゃんが「お味大丈夫ですか〜?」とか「ビールもう一本いかがですか?」と話し掛けてくれる。
あくまでもこれはお店の営業だと思いたいのだが、何となく「可哀想がられてる」かと思ったりするのは、これはひがみの気持か?
でもまあ、この店の客筋は学生や韓国のサラリーマンとかで顔見知りいないので、ちょいと安心して、片手に本を持ってゆっくり食事を楽しむ。この店、値段が安くて庶民的なはっきりとした味付けなので、結構楽しいのだ。
ところが、左側に二つ離れたところに座っている男性のお客が、ちらちらとこちらを見てる。う〜ん、誰かいな?お店のマネージャーと少し話していると、その男性、僕の名前を聞いて確信したようで、「tomさん、こんばんは」と話し掛けてきた。
う〜ん、誰かいな?やっぱり分らない。むこうも、こっちが理解してない状況を理解していたようで「先週面談してもらったxxですよ、移住の件で相談した〜」
あ〜!思い出した。そうそう、先週来たばかりで、これから英語の勉強しながら永住権取得を目指し、その後は起業したいといってた40歳半ばの方だ。
彼はバブル時代の後半に社会参加した人で、イトマンに入社するかもしれなかった人で、昔の安宅産業の話も出た。そしてバブル後の日本の変化の激しさと、その中で自由主義の旗手として既存社会を破壊にかかったほりえもんや村上ファンドの味方だった。
でも結局日本の法律で戦っている限り、法律の決定権と司法権を持っている政府や役人には敵わないという現実を目の前にして、やはり海外に出て海外の法律で日本と戦うしかないと、強く感じて今回ニュージーランドにやってきたのだ。
そんな話をしながら9時になる。それにしてもげんたも満席で繁盛しているなと思いながら写楽に顔を出す。おっと!ここも夜9時なのに食事しているお客様で満席!なんじゃこりゃって思いながらキープしてるジョニ黒で水割りを作ってもらう。
9時30分過ぎに山水に顔を出すと、シェフと今後のメニューの打ち合わせ。馴染みのお客様もぼちぼちきて店が回りだしたので、何かあったら電話するようにとスタッフに伝えて、近くのバーに移動。
結局朝2時までそこで過ごし、はい、今日も何とか一日終わりました。
てゆ〜か、結局今日も男性お一人様で過ごした一日ジャンか!なんちゅうこっちゃ。
写真はげんたの一人飯の光景です。それにしても、まったくも〜!
2006年12月19日
ワインをじょうろで
実に無駄な人生を生きている人たちがいる。
毎日何の努力もせず、学ぼうともせず、そのくせ自分のそんな生き方を、シニカルで格好良いと他人に自慢している。それが服装や髪型にまで表れている。とにかくだらしない。
ところがそんな奴に限って、いざ自分の実力を発揮する場になったら、何も出来ない。そりゃそうだ、日頃何もやってないのに偉そうな事を言ってるだけで、実際には発揮出来る実力さえないのだから、何が出来るわけでもない。
でも、そう言うのに限って「会社が教えてくれない」とか「自分で選んだ仕事じゃない」等と言い訳をする。こうなるともう末期症状で、そこから先は何があっても「私は悪くない」「聞いてない」「知らない」と逃げるのみ。
人生、そんなに甘くはないのだが、甘い場所で育ってしまうと、そういう事さえ分らない。要するに、自分が言ってる事の責任が取れない。
ワインをグラスに注ぐのも、どれだけ入れたらよいか分りませんとなる。グラスに目分量で入れれば良いものを、または水で練習すればよいものを、そう言うことはせずに、お客様の目の前でワインをプラスチック製のじょうろみたいのに入れて、秤の目盛りを見ながら継ぎ足していく。計り終ったら、そのじょうろの口をグラスの中に突っ込んで、流し込む。
おいおい、君はレストランで働く事に同意したんだろ?奴隷として店に運ばれてきたのではないだろう。「今までワイン注いだ事ありません」って、それでも客の目の前でそんな事したら、客がどう思うか考えないのか?
結局自分が今まで世の中をしっかりと関心を持って生きてないから、客の気持という常識さえ分らない。そこで余分に注ぎすぎて上司に怒られるのを避ける言い訳として「私、ワイン注いだ事ありません」となる。
でも、こういうのに限って自分が客になったら「むかつく」とか「気分悪い」なんて文句言うんだろうな。最近は素人のクレームの方が性質が悪いってメーカーのクレーム処理担当者も言ってた。
でもってじょうろ。何も出来ない部下に対して上司は面倒臭いから「じゃあじょうろにでも入れて量れ」となる。その行為をお客の前でする事の恥かしさという事は、上司も部下も全く視野に入ってない。
それでいて「私は頑張って外国で働いてます」って、田舎の地元の友達には自慢するんだろうな。お店やお客の不愉快はそっちのけで。
日本人が働く店では、最近本当にこういう場面によくぶつかる。グラスに酒を注ぐ等と言う簡単な動作が出来ない連中。食事代のつり銭がない時に「次はちゃんと小銭持ってきて下さい」とふて腐れたようにお客に言う連中。食事しているお客を見て、スタッフ同士でくすくす笑う連中。社会常識が見事に欠落している連中。
こういう連中は、昼間になるとすぐに日本人同士で群れて、クイーンストリート沿いのオフィスビルの前でうんこ坐りして、仲間と一緒に汚い巻き煙草を吹かしながら、上目遣いでビルに入る人々をどろんとした虚ろな目で見ている。
てゆ〜か、楽しくないなら日本にいればいいじゃんか。日本にいても楽しくないなら、死ねばよい。面倒臭いんでしょ、生きてる事が。生きる為の自分を磨く事って、したくないんでしょ。だったら、生きなくても良いじゃんか。
ほかの事は何もしたくなくて、死ぬ事さえ面倒臭いってのかな。それだったら、目の前に猛犬を放してやろうか。それでも面倒臭くて逃げないなら立派なものだ。そのまま、それこそ犬に食われて死んじまえだ。
勿論ちゃんと社会常識を教えてこなかった親が悪いし社会が悪いのは事実だが、それを今更言ってどうになる。人の責任を責める事で自分が幸せになれるのか?なれるわけがないよ、そんな後ろ向きの人生じゃ。
勿論、ワーホリで来て起業して頑張っている若者もいるが、その両者の格差が、それこそ格差社会を作っている。社会全体だけでなく、若者の間でも明確な格差が出始めている。
勿論レストランにも格差が出始めている。やはりレストランのビジネスモデル自体が、そろそろ変化すべき時だろう。スシ〜、テンプ〜ラ〜で通った時代では、もうない。
ファッショナブル、ヘルシー、プロフェッショナルサービス、エンターテイメント、そういうものが造れないお店は、自然淘汰されるのみだ。
そうそう、じょうろワインの現場写真もあるが、顔が鮮明に映っているので、さすがにup出来ないな。
2006年12月18日
清酒白鹿
最近、日本から来たセールスマンと山水で偶然会う。清酒白鹿を売っている「辰馬本家酒造」という会社の、国際営業担当者だ。
いや〜、日本から南半球の小島までお酒を売りに来ると言う「やる気」、うれっしいですね。
ただ今回は、僕は山水の仕入れには直接関与していないので、昼間に僕のところに「お酒買ってください」と来るわけではなく、たまたま山水に飲みに行った時に偶然同席したという程度。
彼とは今年になって2〜3回会った筈だが、毎回酔っているので、記憶が明確でない。かなり失礼な事をしているようで、昼間に一度会ってきちんとこちらの非礼はお詫びしなければと思っている。
ところで日本酒。
日本酒は元々米と米麹で作られたものだが、戦時中に兵隊さんに飲ませるお酒が不足した為、その時の技術を使って業務用アルコールを作り、普通のお酒に業務用アルコールをたっぷり混ぜて、三倍醸造酒という現在の日本酒が出来た。この酒の事を普通酒と言う。本来なら米と米麹だけで作るのが日本酒だから、普通でない酒というべきだろう。
白鹿も例外ではなく、製造量だけ増えたけど、味は戦前の日本酒と全く違っていた。そして政府は税収が欲しいので、このような業務用アルコールで薄めた日本酒を、一級酒という名目にした。
税金を沢山払うお酒を一級として、地方の、本当にお米だけで出来たお酒を二級酒としたのだ。そんな税務署と造り酒屋のからくりを知らない一般国民は、一級と書かれた、工業用アルコールをたっぷり混ぜた酒を美味しそうに日本酒として飲んでたのだ。
だから昔は、地方の二級酒のほうが美味いと言われていた。何故なら彼らはその当時から米と米麹だけで酒を作っていたからだが、税金を高く払うだけで誰も幸せにならない(あ、違う、役人が幸せになる)一級酒よりも、地元の人に安くて美味しい酒を飲んでもらおうと、地方の造り酒屋は二級酒のまま、その地方で純米のお酒を売っていたのだ。
今もそうだ。煙草で歯の裏真っ黒にしたような連中が、金粉が入ってるとか一級とか、酒のラベルと値段だけ見て、美味いとか不味いとか。何を言ってるのかという気持になる。
現在は一級二級という区別もなくなったが、他の名称で「おいしそうに見える」お酒については、ラベルで選ばないようにと言いたい。いずれにしても、今の日本で本当に美味しい日本酒を作ろうと思ったら大変な覚悟がいるのも事実だ。
ここで言っておくが、アル添酒(業務用アルコールを添加した日本酒)すべてを否定している訳ではない。アル添でも美味しい酒もある。業務用アルコールで、味がまろやかになる事も認める。ただ、日本人として、原点となる米と米麹だけで作った日本酒も大事にしたいと思うだけだ。
何せ、製造量で言えば、日本酒の90%以上はアル添酒なのだから、もう少し純米の日本酒の味を日本人自体が大事にしてもらいたいと思った白鹿さんの訪問でした。てゆ〜か、純米も売ってるんじゃないのかな?今度来た時に聞いてみよう。
2006年12月17日
幸せになりたい人へ
幸せになりたい人へ
幸せになりたいと思う人がいる。でも、毎日忙しくて、でも退屈で、なかなか思った事が実現出来ない。
そんな貴方に朗報!(キャッチじゃないよ)
実は簡単に幸せになれる方法があります!(麻薬じゃないよ)
本当なんです!(宗教でもないっちゅうに)
それはそれはとても簡単で、今身の回りにあるすべてのものに感謝する事。これだけで、人生が逆転して見えます。
例えばお金がないって悩む人。あなた、今日飢え死にしますか?しませんよね。それでお金がないって悩んでたら、本当にお金がなくて食べるものも買えずに飢え死にした人や、戦場で食べるものがなくて飢え死にした人から笑われますよ。
戦時中、福岡県からビルマに送られた兵隊は、インド東部のインパール目指して、食料もないまま滝のような大雨の中で行軍を行い、途中でイギリス軍と戦いながら、最後は食料も武器もなくなって退却、アラカン山脈の中で飢え死にした。
死んだ仲間の肉を食って生き残った者もいるようだが、それほどの苦労を、あなた、してませんよね。高木俊朗の本に描かれているインパール作戦を読んでみるとよく分る。
例えば恋愛がうまくいかない貴方。相手に彼氏がいて、自分の存在が2番目だって事の不安。そりゃ分るけど、でも、貴方も「数に入ってる」んでしょ、それで文句ないじゃん。
世の中には、一度も恋愛出来ずに、病気になって死んだ子供がどれだけいるか、そう考えれば、好きな人に巡り会えて、それだけで十分に幸せじゃんか。
今、健康である事。今、笑える事。今、ご飯が食べられる事。今、雨に濡れずに生活出来ること。今、他人に殺されずに生きている事。
どれもすべて、幸せポイント、高くない?その上、もしかして家族でもいて、彼らが皆元気なら、それ以上、何を望む事がある?
だから大事なのは、今すでに幸せって事に気付く事。そこから始めれば、どんなことでも楽しく思える。間違いなし。
くよくよさん、あなたの気持はよく分るけど、でもね、今自分が持ってるものがどれだけ素晴らしいか、その事をまず理解して欲しい。
人間は病気になれば体が弱くなる。それは仕方ない、病気だもん。でもさ、そのために心まで暗くなる必要はないでしょ。病気は、体の問題。心は、自分の問題。だから、体が病気になっても心まで病気にしちゃいけないよ。
お金とか恋愛とかって、生きているから悩んだり出来たりする事。生きている事を、まず感謝してみれば、世の中、どんな事でも幸せに見えるって。
あなたが羨ましく思っている隣の金持ち夫婦でも、実は破産状態で夫婦が不仲で、しょっちゅう喧嘩しているかもしれない。あなたが愛している格好良い彼氏も、実は仕事を失う不安を抱えているかもしれない。
だからさ、幸せになるってのは、心の中で、今あるものにまず感謝する事。
勿論、それだけでは駄目で、そこから先、どう頑張ってもっと幸せになるかって考える必要はある。もっと幸せになる為にお金が欲しい。だからもう一回大学に行って勉強して、更に高い給料を目指す事も良いだろう。
自分が好きな趣味、例えば歌を歌ってお金を貰うために、もっと自分に合ったギターを買うのも良いだろう。
世の中、何が楽かって、在庫のない商売くらい楽なものはない。例えば、歌って金になれば、こりゃ最高だ。「でもそんな生活は不安定・・・」
そう悩む気持は分るけど、実は普通にサラリーマンだって、すんごい不安定な中で生活をしているのだ。大企業に入っても使い物にならず窓際に追いやられて、そいつらはギターさえ弾けないから、一度首になったら、それこそ生きていけない。ただ、殆どのサラリーマンは、その事に気付いてないだけ。
だから大事なのは、今の自分を好きになって、今あるものに感謝して、ありがとう!って思える気持を持つ事。他人と比較しない事。
実はこれって大変な事で、なかなか出来ないって事も分っている。でもさ、やんなきゃ。まず始めなきゃ。どんなに遠い道かもしれないけど、まず一歩を踏み出すしかないじゃんか。
自分が人間として生きていく為には、時には辛い事があるかもしれないけど、それを踏み台にして、次の段にあがっていく事。それ以外、幸せになる方法なんてないよ。
幸せは金では買えない。でも、幸せになる為にお金があれば、もっと良い。勿論、お金がなくても幸せになれる道はいくらでもある。大事な事は、他人と比較をして自分の持っている物が多いとか少ないとか考えて、それを幸せの基準にするんじゃなくて、今の自分を単純に幸せって思う事。そしたら、いつでも幸せになれるさ。
これって、かなり個人的メッセージ。私かな?そう思った人、そう、あなた向けのメッセージです。頑張ろうぜ!
2006年12月15日
もうすぐ真夜中、かぼちゃの馬車
備考 =
現在38歳、働いている会社を退職してNZへ渡航、仕事を探して数年後に永住権取得を目指したいのですが、かなり難しいでしょうか。英語にはあまり自信がありません。妻と5歳の子供が1人です。
このような家族構成の方、多いですね。今いる会社にこれと言って不満はない、でも将来を考えると、いつまでこのまま体力が続くのか?子供が学校に行くようになればお金もかかるし、日本の学校の教育方針はどうも理解出来ない。税金は上がるし医療保険も高くなる、おまけに年金は貰えない。
最近このような問合せが、本当に増えてます。以前はワーキングホリデイでニュージーランドに行きたいという問合せが殆どでしたが、最近は移住の問合せの方が数的に増えてるんですね。
今の日本に行くと、彼ら働き盛りの人の気持が分る。そりゃ東京の丸の内で仕事をしてれば見掛けは格好良いし、おまけに年収1200万円もあれば、社会的体面も守れる。
でも、でもですよ、毎日満員電車に揺られて1時間かけて痛勤、神経がピリピリしている周囲に囲まれて、仕事に完璧を求められて、休むひまもなく、嫌になるほど叩き込まれたマニュアル通りの動きをして、でもそのマニュアルは他の会社では全く使い物にならないし、ましてや自分の人生には何のプラスにもならない。
そんな機械のような生活を、これからもずっと続けていくのか?おまけに、政府のちょっとした作為によって会社など簡単に潰されて、ほんの一握りの政治家や顔役や役人だけが甘い汁を吸って、一般国民は完璧に奴隷状態のような日本で。
ところが多くの国民は、自分の生活を他国と比較せず、過去の日本と比較するから「昔より便利になった」とか「日本は金持ちになって一等国」という、政府及び電通によって操作された情報を鵜呑みにしている。
日本は応用技術はすごいけど、その技術の元は米国から来ている。インターネット、電話、石油製品、どれを取っても日本独自という技術は少ない。
要するに、米国が作ったルールの上で日本人がせっせと朝から晩まで働き、最終電車でウサギ小屋に帰宅する頃には子供が寝ていて、翌朝も子供より早く会社に行って、休日も出勤して、それで一生懸命稼いだお金は、税金と言う名目で日本政府が徴収。
日本政府はその金でせっせと米国債を購入して、米国は国債を売った金で、一日8時間労働をきちっと守り、週末は家族とバーベキューを楽しみ、砂漠のど真ん中の人工都市でカジノを楽しむ。そりゃ戦争で負けたんだから仕方ないっちゃそうだけど。
でも、これが格差でなくて何だろう。国内の格差を語るよりも、日本では働きに応じた収入がない、ニュージーランドや米国やオーストラリアでは、働いた分がきっちりと労働者に還元されて、個人の生活を支えているという国際的格差を、もっとしっかりと理解すべきではないだろうか。
その辺に気付き始めた30代後半が、これからの移住の主力になるのではないかと、そう思った。彼らは、ニュージーランドにとっても有り難い労働力であり、同時に消費者でもある。優秀で、嘘をつかず、一生懸命働き、政府や法律に忠実な人々の存在は、何よりも国家の安定に必須である。
逆に言えば、そのような「普通の人々」が離れたくなるような国家、そこには構造的な問題が横たわっており、少子化だけではなく、自発的な流出移民が発生する事で、更なる人口減少という問題が発生するだろうと言う・・・言っても無駄かな。
今年もあと一週間で終わり。写真は、福岡のキャナルシティに飾っているかぼちゃの馬車。さあ、もうすぐ真夜中の12時になりますよ。
2006年12月14日
子供への、夢と安全の相続は無税です
総務省で発表している家計調査があります。
世帯主が60歳以上の世帯の平均貯蓄額は24,360,000円(負債は196,000円)です。
さらに60歳以上の高齢無職世帯の家計は毎月36,000円の赤字です。12ヶ月で言うと年間432,000円です。
これが20年続くと8,640,000円です。
差し引き15,720,000円をどう使るかが意見が分かれるところです。
*********
上記は最近のある方のブログから転用している文章だ。統計は、切り口によって見せ方が変わるけど、肌感覚として上記の統計は納得出来る。
自分で趣味を始めるか?旅行に行くか?色んな使い方があると思う。でも、その使い方の中に、子供の為という選択はあるか?
一つの国とは、同じ価値観を持って生きる者同士が分かち合うものだ。価値観が多様化すれば、自分の価値観に合った場所に住めば良い。僕はいつもそう思ってる。
やはり香港人の妻を持ちニュージーランド生まれの子供がいる日本人だし、非常なレアケースだから感じるのだろうが、いずれにしても自分の視点から見ると、核家族化が始まった頃から、日本は家庭が崩壊し始めている気がする。
でも、政治家などを目指す普通から上流の人々にはそれが見えないから、老人介護は家庭の責任などと言ってるが、その結果介護疲れで親子の自殺が発生する。
そりゃあ政治家の家庭は3世代一緒に住んでいるから分らないだろうが、核家族化によって、すでに個人が個人を介護する事など、構造的に不可能になっているにも拘わらず、根本的な社会制度の改革に踏み切ろうとしていない日本がある。
「子供の責任は親が」とか言ってても、親はおばあちゃんのいない鍵っ子世代だから、社会の常識を誰も教えてない。常識を知らないまま体だけ大人になって、それが子供を産んでるんだから、3世代家庭の崩壊の悪影響が出ているだけの事。
そんな事、賢い官僚たちは分っていたろうに、下々の生活はどうでも良いとばかりに普通の家庭を切り裂いて、日本経済を優先させた結果が、老人介護と教育問題の根本にあると思う。
ガキがガキ育てられるわきゃないし、介護の素人がたった一人で知識もなく、自分の痴呆症の親の面倒を見られるわけがない。結果、会社を辞めて介護に専念して、貯金を食い潰して二人で首くくるしかなくなるのだ。
じゃあ振り返って香港人はどうしているか。実は世界中に散らばって住んでいる香港人の場合、兄弟姉妹が交代で親を預かっている。僕も妻のお母さんと、お母さんが70歳で往生するまで同居していた。
その代わり子供の面倒はお婆ちゃんが見てくれた。皆が家庭の中で出来る事を持ち寄り、楽しく生活してた。子供はお婆ちゃんがちゃんと常識を教えて、まともな子供になった。
他の香港人の友達も、親は子供が持ち回りで見ると言うのが常識として存在しており、道徳としても存在している。
子供が世界中に住んでれば、お婆ちゃんは季節ごとに子供のいる暖かい国を巡って、マイレッジを貯めるのだ。そう言えばマイレッジは、相続税の対象かいな?
1千5百万円の預貯金を持つ世代。彼らが何にお金を使うのかは、まだこれから流行が出てくるのだろう。しかし、今の日本では1千5百万円など、ちょっとした事でなくなってしまう。
でもそのお金を,日本以外で生活を始める為の手段として使えば?特に、子供や孫が、これからの日本人の選択肢の一つとして海外に住める為のお金にすれば?
夢と安全の相続に、相続税はかからない。ちょっと考えて見ても良いのではないだろうか。
2006年12月13日
M
「男の人って、この歌好きなんだよね」呆れたようにそう言いながら、リクエストした僕の為に彼女が歌ってくれた、80年代の名曲プリンセスプリンセスの「M」
いつも一緒にいたかった
となりで笑ってたかった
季節はまた変わるのに
心だけ立ち止まったまま
中洲の夜はもうすぐ明日になり、すっかり時の感覚を忘れた僕は、座っているスナックの椅子から、そのまま17年前の中洲に記憶がタイムスリップして、あの頃に戻った。
「そう、好きなんです、この歌の切なさがね。何だか殆どの女性は、男性は「がさつ」であると思っている。確かにそれは認める。合計得点で観れば男性は「がさつ」であろう」
「女性の中に、部屋を片付けず仕事もまともに出来ず、料理も下手で掃除も丸くしか出来ない人がいるのも事実だが、でも男女別の総得点で比較すれば、男性の方が「負け」だろうな。それは認める」
「でも、だからと言って僕が、「M」を好きになってはいけない理由はないと思うし、ましてや中洲で歌っていけない事はないだろ」
あなたのいない右側に
少しは慣れたつもりでいたのに
どうしてこんなに涙が出るの
もう叶わない思いなら
あなたを忘れる勇気だけ欲しいよ
という事で、日本出張の最後の目的地、福岡の中州で、久し振りに会った古い友達と飲む。この街は今から20年前頃、バブルの真っ盛りに青春を過ごした街だ。当時は、ボトルを13本くらい常時色んな店に入れてたな。「哀しい色やね」とか「大阪で生まれた女」とか、あの頃は大阪、まだ景気良かったな。
とにかくよく働き、陽が沈むと行きつけの屋台に顔を出して、保健所に「お客様への提供は衛生上問題」として禁止されている生料理「馬刺」を生姜醤油で食いながら、夏は焼酎のロック、冬はお湯割を楽しんでた。
〆にラーメンを食う奴も多かった。前の人が食べた丼を、床に置いてる洗剤入りのバケツでちょいちょいと洗い、隣の濯ぎようのバケツにひょいっと流し込んで、それで次のお客が食べるわけだから、普通に口紅がべた〜っとついている。
当時は焼酎なんて安酒は九州でしか飲まれていない「田舎の飲物」で、豚骨ラーメン等は、東京人を連れて行っても店に入る事さえ、そのにおいの為に拒否された時代だ。あの頃を知っている人間から見れば、今の全国的焼酎ブームや豚骨ラーメンブームには、少し隔世の感がある。
夏のプロ野球ナイターが始まる時間は、泥川だった中洲を挟む川辺に、残光が光っていた。当時はどこの屋台もテレビかラジオを置いてて、野球一色の時代だったな。
川の残光が段々ネオンサインに変わっていくと、夜の怪しい輝きが増していく。そんな街で、屋台で軽く食事をしてからバーに行き、大体午前2時頃まで飲み、それからは朝までやっているバーへ、飲み友達と繰り出す。ネオンの光をバーの窓から眺めながら、チャゲ&アスカの「男と女」を歌い、日が昇るまで飲んでたものだ。
You are only in my Fantasy
今でも憶えているあなたの言葉
肩の向こうに見えた景色さえも
So once again
Leaving for the place without love
当時仲良くしていた連中で、東京に出て交通事故で死んだKくん。彼女だったMちゃんはあの時、どんな気持だったんだろうな。そんな懐かしい思い出が、次々と出てくる。一緒に飲んでた連中も、家庭を持ち子供を作り、今では親父連中ばかりだ。
当時、誰が今の生活を予想しただろう。
バブルがはじける前、
高いローンでも家を買いさえすれば生活が豊かになると信じ、
給料は毎年上がると信じ、
ボーナスは年6ヶ月出ると予定してローンを組み、
60歳まで本社で働けると信じ、
年金がもらえると信じ、
病気になったら国が面倒見てくれると信じ、
それを基盤として生活を構築していった連中。
You are only in my Fantasy
星が森へ帰るように
自然に消えて小さな仕草も
はしゃいだあの時のわたしも
1980年。これからの時代は英語が出来なきゃ、そう思って一人で英語の個人教室に通った。友達は、「馬鹿じゃないか、営業なんて根性とやる気だよ」と本気で言ってた。当時、社会人になって英語を学ぶのは、10人に1人もいなかった。
パソコンが出始めた時代。見積書をパソコンで作るのが流行ったが、当時の入力は漢字一文字づつ入力するタイプで、A4一枚作るのに1時間以上かかる。「そんなもん使っても、仕事は取れん!」そう言う先輩をよそに、高校時代に学んだ英語タイプが偶然役に立ち、何とかキーボードを使って仕事が出来た。
今では当たり前の技術も、当時は「そんなもん、無用」という意見が殆どだった事を、当時生きていた人間として証言出来る。
出会った秋の写真には
はにかんだ笑顔ただうれしくて
こんな日が来るとは思わなかった
瞬きもしないで
あなたを胸に焼き付けてた
恋しくて
そう、誰もこんな日が来るとは思わなかった80年代。今日と同じ明日が来ると思い、中州に繰り出して遊んだ仲間達。そんな彼らの顔は、僕の記憶の中で今もあの当時のままだ。
今、隣にいる友達は、普通の子と「ちょっと違う」人生を歩んだ。今、その「違い」が、他の人との「大きな違い」になっている。本人はあまり気付いてないようだが。
誰も、人生のどこに曲がり角があるか分らない。行動する事の危険よりも、行動しない事の危険の方が大きい。変化する事を忘れた者に、明日はない。それを肌で経験したのが、もしかしたら僕らの時代なのかもしれない。
You are only in my Fantasy
あなたの声聞きたくて
消せないアドレスMのページを
指でたどっているだけ
「M」の歌詞については、元々富田が交際していたM君との恋愛と思い出、別れの悲しみ、寂しさを詩に表したもの」だそうだ。
良い歌は、時代を超えて人の心を打つ。特にその時代に生きた人間にとっては、甘くて痛くて苦しい、そんな、走馬灯のような思い出の引き金になる。
So once again
Leaving for the place without love
夢見て目が覚めた
黒いジャケット後姿が
誰かと見えなくなっていく
So once again
You are only in my Fantasy
星が森へ帰るように
自然に消えて小さな仕草も
はしゃいだあの時のわたしも
よし、これからも変わりつづけよう。戦い続けて生き残る為に。
そう思った中州の夜だった。
写真は中洲の夕暮れ。大昔に利用していた川向のホテルなら東向きなので、夜明けが綺麗に見えるんですがね。知ってる人、笑ってやってください。
2006年12月12日
新橋を歩く
新橋を歩く
個人面談の間に時間があったので、戦後すぐの闇市時代を残すような新橋の裏側を歩く。いつも銀座側しか知らなかったので、今回は山手線の内側、SLを飾っている側の奥にある雑居街を歩く。いやいや、このあたりはまさに昭和だな。
線路下の麻雀や、電車が通るたびに入口がどどどっと震える焼き鳥や、たたみ一畳しかないような一杯飲み屋。いや〜、時代を感じさせる。
終戦後すぐに作られたような薄暗いガード下を見ると、昭和の時代から貼られている麻雀荘の案内板があった。写真では見づらいが、びっくりな事にそこに乗っているお店の電話番号は、東京の局番が3桁!おまけに住所案内が「三菱銀行横」。三菱銀行がなくなったのはいつですか?って感じ。
新橋と言えば最初に僕が思い出すのは、戦後すぐの闇市時代に、警察に殴り込みをかけた三国人グループを、ヤクザが機関銃を持ち出して大喧嘩になった事件だ。日本のやくざは、戦後の一時期警察のお手伝いをしていた事がある。今でこそ信じられないかもしれないが、ヤクザは非合法な暴力装置として警察や時の権力によってうまく利用されていたという歴史的事実は隠しようがない。
雑然とする新橋駅の銀座側に出ると、再開発の汐留地区があり、その機械的なまでの美しさは、ほんの数百メートル離れた場所にあるとは思えないほどだ。
まさに今から20年前、このあたりの土地をネタにしてヤクザや政治家、魑魅魍魎らが三つ巴になり、日本の土地バブルで大儲けをしたり大損したり、命を無くしたりフィリピンあたりに高飛びして現地で殺されたのだ。
そう思うと、昭和からバブル、そして平成不況まで見つめていたこの新橋という場所に、すんごい歴史を感じる。
ニュージーランドの歴史は1840年に英国の植民地として始まる。その特徴として、社会的地位のある、移住出来るだけの資金を持った人たちが集団で移住してきたという点だ。だから最初からオーストラリアのような「柄の悪い」犯罪人が入植していない。
その上植民地設立当時から「労働者の天国」と「機会と結果の平等」を目指していたから、お金に困ったり人種差別などの結果として犯罪に走るという日本の方程式が当てはまらないのだ。
おまけに国民が真面目な連中ばかりだったから、競馬をやれば上品なレースの社交場になり、カードゲームをやれば、男性たちの政治談義の場所になる。結果的にニュージーランドではやくざは発生せず、今でも時々少数のギャングみたいなのはいるが、日本のように「暴力団」が発言力を持つという図式がないのが特徴だ。
つまり、レストランやバーをやってても、警察がしっかり守ってくれるから、暴力団へのみかじめ料も、おしぼりやスナックの購入も必要なし。
日本がその社会構造の中で必然的に非合法組織である「やくざ」という組織を是認して、なおかつそれを利用してきたという歴史的事実は否定しようがない。
しかし、最初からヤクザや暴力団を社会的に必要とせず、すべてを法の力及び地域社会の合意と実行で問題を処理してきたニュージーランド、やっぱりなかなかやるなと思った新橋の散歩だった。
2006年12月11日
男性お一人様 銀座「ラ・ソース古賀」
男性お一人様 銀座「ラ・ソース古賀」
高級なカレー屋なのか、気軽なフレンチなのか?色んな評価がある銀座6丁目のちっちゃなレストランに行った。
てゆ〜か、話は大きく変わるが、男性お一人様で、ディナータイムにちょいと美味しいものを食える店は、寿司屋のカウンターを除けば、少ない。
丁度先日も、行きつけの麻布のレストランで、哀しいかな男性お一人様の食事を楽しむはめになったが、そこはたまたま行きつけなので少しは安心して食事も喉を通る。(この事はまたそのうちに書こう)
でも飛び込みでそんな気楽に入れる店は少ないし、この日に限っては昼間からカレー料理番組なんかも見てたので、胃袋は寿司よりもカレー気分。そこで夕食場所は「ラ・ソース古賀」にと、自分の心の中で決定した。
勿論伏線はある。その前日のお昼に「ラ・ソース古賀」でカレーを食べたのが大きなポイントだ。ソースキュリー(カレー)1250円+酵素豚肉トッピング500円である。
もっと言えば、その店で美味しいカレーを一人で食いながら、あ、ちなみにこの日の午後はお客様とのアポがなかったのでウヰスキーの水割りを注文して、カレーと合わせた。
そして何となく水割りを楽しみながら夕食のメニューを見てみると、数は少ないが、それぞれがなかなかの逸品のような表記。自信あるんだろうなと思い、カレーでここまでいけるなら、松屋で牛丼とカレーを一緒に出すような真似はせんだろうし、それなりに期待出来るのではという予感がしてたのだ。これが第二次伏線。
11月最後の日の夕方18:30。街が暗くなり、銀座8丁目のイルミネーションが光り始める頃、僕は汐留のホテルを出た。
くっそ〜、折角の東京なのに、何で男性様お一人でディナーかよって思いながら、高速道路の下を抜ける。博品堂を左手に見て、てんくに(てんぷら屋)を右手にしながら、そこから3本目くらいの路地を右に曲がる。場所の目印としては、銀座東武ホテルの向かいという感じ。割かし分りにくいので、東武ホテルの手前路地を左折してゆっくりと歩き、お店を一軒一軒のぞく感じで歩く事がお勧め。
さてカレータイム。19:00に近くなりそろそろ食事の込み合う時間だろうと思って、人通りのまばらな店の前を通ると、あれれ?10席程度あるカウンター席はお客様ゼロ、20席程度のテーブルは1組のみ入っており、やばいっすか?さてさてどうする?と一瞬悩む。がやがやしているところに飛び込んで、カウンターで前菜や美味しい物を食い、最後に〆のカレーと言う絵図を描いてたのに、最初から絵図崩壊。これじゃ一人で入ってもじろじろと見られるではないか。
お店の人に同情の眼でじろじろ見られるのも嫌だし、かと言って彼らが明るい振りで「いらっしゃいませ〜」と聞くのも、恥かしいや。「いやいや、違うんですよ、連れがいないんじゃなくて、捨てられてしまった訳でもなく、元々最初から一人で食事の予定だったんですよ」言うだけ惨めになりそう。
そこでドアの前を一旦通り過ぎて、銀座5丁目あたりまで歩いて見る。威力偵察だ。(あ、ちなみにこれは戦争用語。興味があれば検索して見てください)良い店があれば、速攻入りますよって気分で銀座を流すと、さすがにクリスマス、どこのお店も頑張ってネオンサインや、街路樹にイルミネーションを付けて着飾っている。銀座ライオンもあるな〜。
う〜ん、でもな、今日は僕の脳波からカレー命令と出ているので、これに逆らう事は出来ないな〜。
等としょうもない事を考えながら、あっと言う間に30分を路上で過ごす。そう、実は僕はとても優柔不断な人間なのです。仕事であればどんどん決断判断していくのですが、こと食い物となると、もう、あ〜でもないこ〜でもないと、お店の前で立ちすくんでしまうのです。
さて、色んな悩みがあった「古賀」ですが、カレー腹には叶わず、結局一組しかお客のいないお店に入ってみました。
まずはメニューを拝見。それぞれパワーがアリそうなので、早速ウエイターの方に「お勧め」を聞いて見る。そして少量だが楽しめそうなメニューを選んで見る。後は白ワインを飲みながら料理が来るまでテーブルでゆっくりと座って、スタッフの働き具合を見つめる。
本日のメニュー:
エスカルゴと粒貝
ハモン・イベリコ生ハム
野菜たっぷりポトフ ジャガイモ、人参、キャベツ、大根、ネギの根本
生チーズとオリーブ
白ワイン
サービスは良い。しかし入口のカウンターは何故存在するのか?1250円と言う値段のカレーを食べるのは一般的ではない。普通ならココ一番だろう。そんな値段を払ってまでカレーを食う人種がカウンターでカレー食うか?フレンチをカウンターで食うか?それならバールみたいにしないと無理でしょ。
そしてスタッフが甘えてる。これでよい、味が分からないのはお客の問題と、変な自信をもってるような感じがした。いや、確かに美味しいのだが、商売である限り、何かこの集客に役立つ事はないのだろうか。スタッフ同士の内輪の会話が目立ち、お客への視線が不足している。
でもって料理が来るまで昨日食べたこの店のカレーのことを考える。
あのソース、たぶんフレンチで使った材料のハギレ?を寄せ集めて、例えばブイヤベースのスープの残りとか、ステーキの焼き汁の残りとか、新鮮なトマトとか、とにかくその日に余った「捨てるには勿体無い材料」を掻き集めて、それを煮込んでしまったら、どいつも個性が強い。
仕方ないから最も味が強いクミンなどカレーのベースとなる調味料を入れて色を整え、あの味にしてしまったのではないかと思わせる。フレンチの、要するに煮込みだ。欧州(英国?)風のカレーなら御馴染みの、ご飯の上にどろっとかかる感じがない。
むしろ、インドなどで食されているソ−スに近い。ありゃ、スープだ。だから最近の「ラ・ソース古賀」に対する評価ブログを見ると「札幌名物スープカレー」と比較して評価する人がいるが、これは僕から見ると的外れな気がする。
札幌のスープカレーは、一般的な欧州カレーとは違う味を狙って作った、最初からその概念があったのに対して、「古賀」のソースカレーは、何となく推測ではあるが、賄いから偶然に出来上がった高級品なのだ。だから、宣伝するにしても、高級カレーなのか、それとも手頃なフレンチなのか、店自体が基本概念を作り上げられてないし、だからお客様の「入り」もイマイチなのではないか。
ほらさ、例えば自宅で材料費をケチらずに新鮮な魚や肉、野菜で作った鍋に、最後にご飯を入れると、えもいわれぬ美食になる、あれが、古賀のカレーじゃないかなと思う。
最初から原価計算して作るんなら、銀座でカウンターで1250円のカレーを食わせるような内装にするだろう。本店であるフレンチが儲かっているので、ついでに「のり」で出店しちゃいましたって事か。
さて、そうこう考えているうちに料理が出てきた。
エスカルゴと粒貝は、エスカルゴ小さすぎやしないか?粒貝の味が強いせいか、エスカルゴの存在価値が理解出来なかった。
ハモン・イベリコ生ハムは、当然の如く美味い。ちゃんと太もも一本をカウンターの上の専用台に載せていて、それを綺麗に薄く切ってくれる。これは問題なし。
野菜たっぷりポトフは、ジャガイモ、人参、キャベツ、大根、ネギの太いところが入っており、肉は一切なし。確かに野菜たっぷりだわな。ハーフサイズにしてもらったが、ポトフの言いながらスープは少なく、野菜のうまみを食わせてしまえという魂胆がみえちゃん。でも、皮付きのジャガイモなどしっかりぎりぎりの線まで火を通してて、こりゃうまい。
生チーズとオリーブは、これは良かった。チーズと言えば固いというイメージがあるが、ここの生チーズは、本当にとろりとしてて、ワインが進む。
白ワインは、フランスからの輸入品だ。ふくいくたる味わいというか、ニュージーランドワインの若さと一直線さがない分、大人の味わいを感じる。
お一人様は、これも結構よいカモと思ってしまった今晩でした。いつもなら、一緒に食べる相手の気を使い、話のネタを考える分だけ料理に対して集中力が薄れる事があるけど、お一人様だと、話し相手が目の前の料理なので、素材との会話が楽しめる。
男性お一人様の食事、とっても楽しかったです。またやってみよっと。
2006年12月08日
ブログ未更新の最新記録?
東京の説明会を最後に、全然ブログUP出来てない。説明会終了後、個人面談を連続で行い、翌日は名古屋で3組面談。夜は錦3で午前様。
翌日は午前中に面談1件、お昼は京都で面談、合間を縫って簡単なものを食べるが、まともに消化出来ない。
福岡に17:30に到着、18:00から面談、21:00から次のアポこなす。
こうなると、ほぼ胃袋が全壊状態で、まともなものが食べられなくなる。
昨日ですべて終了するが、今回も遣り残した仕事がある。連絡がきちんと取れていないお客様、済みません。機内でメール処理して、戻り次第連絡しますね。
写真は関東限定のペヤング焼きそば。多くの関東の方は、これが地域限定という事を知らないようだ。こんなもん食ってると、体も壊すわな。
2006年12月03日
吉野家
12月01日、吉野家の牛丼復活。午前11時から午後3時までの時間限定だが、一昨日の新聞広告で見つけた「牛丼復活」の広告が、早速今日の僕を牛丼に運ぶ。
そう言えば「牛丼やさんなんて行った事ない」って女性をたくさん知っている.何故だろう、あんなに美味しいのにな。
今日は汐留のホテルから新橋駅前の吉野家に行く。勿論11時丁度だ。地球を半周して来たのに、お店に入って「売り切れです!」は寂しいからね。香港、シドニー、ニューヨーク、フィリピンでも食った。吉野家は僕にとっての基本食。
新橋駅前の銀座側の吉野家は、本来は2階部分も使っているのだが、今は2階部分はお休みのようだ。
1階部分は蹄鉄型のカウンターに座れるのが13人。僕がお店に入った11:01の時点で、空席は二つのみ。残りの11人全員が、勿論牛丼を注文してた。
並牛丼380円に生卵をつけてもらい、お茶を飲みながら丼を待つ。この値段だが、豚丼や朝定食に比べて高い。吉野家の社長は「自分一人の決断です」と言ってた。
それにしても、客は全員男。おまけにそのうちの5人は、茶髪頭にタオルを巻いて、たった今工事現場から来ましたって感じ。これじゃあ女性は入りにくいな。
それ以外のお客も、まともに日本語を発音出来ない状態のおっちゃんとか、焦った口調で店員さんを「すみませんすみません」と呼びながら、目の前に店員が来ると「え〜と、え〜と」って口の中で呟いている高校生、それに、丼を食いながらも口を閉じる事が出来ないままぶつぶつと呟くおやじ。
日本語が怪しいおっちゃんなんか、カウンターの反対側の兄ちゃんが注文したメニューを見て、眼だけ飛ばして「がれにしてあ」って、そんな注文じゃアルバイトの中国人お姉ちゃんは分らんぞ。
案の定、並牛丼生卵と味噌汁付きだった「兄ちゃん」の注文を求めている事を理解出来ないアルバイトお嬢さんは、「な〜みいっちょう!」とやった。
舌の回らない(酔ってるみたい)オヤジは、「おいおいねえじゃゃん、づゆがね〜よ〜」と、アルバイトのお姉ちゃんに言ってる。僕が隣にいて聞いてても、君?理解難しい。づゆって、何よ?と思う。
中島みゆきの「狼になりたい」という歌「夜明け前の吉野家では化粧の薄れ掛けた〜」と言う、何となく悲哀の漂う歌詞を思い出しながら、でも吉野家の復活を喜ぶ。
まあ、そんな久しさの吉野家ストーリーを楽しみながら、薄切りにされた牛肉に生卵を絡めて牛丼を口一杯にほうばり、数年ぶりの感激・・・・あれ、味は変わらない・・・そっか、期待し過ぎてもっとおいしいものと思ってしまったのか。
12時過ぎた頃には、新橋周辺の吉野家は、長くはないけど全部行列が出来てた。吉野家には、頑張って欲しいな。協力しまっせ!
2006年12月02日
バブルを知らない子供たち
東京に着くと、もうすぐ冬の筈なのに結構暖かい。昼間は15度くらいなので、シャツにパーカー姿で街を歩ける。今年は暖冬なのか、関東のスキー場では雪が降らずに人工降雪機で雪つくりをしているくらいだ。
「Always・3丁目の夕陽」が金曜ロードショーでやってる。金曜ロードショーは洋画専門かと思っていたら、最近は邦画もやってるんだ。
で、Always。電気冷蔵庫、白黒テレビ。パソコンもインターネットも携帯電話もない昭和の時代だが、若者は、貧しくても生き生きとしていたな。戦争を知っている世代だから、話の端々で第二次世界大戦の話題が出てくる。暗くて苦しい時代を乗越えてきた人々だ。
今日の読売新聞では、平成の若者たちが作ったライブドアという会社の記事が出てる。去年まで買収を重ねて子会社を増やしたが、政府による取り締まり以降、次々と子会社を売却、平松社長を残して他の役員全員が交代して、もはや普通のおじさんの会社になった。
時代は変わった。もう若者が社会に対して戦う事は許されなくなってしまった。老人達は、今まで思いっきり悪い事をしてきて、それでも政府に守ってもらってるのに、同じ事を背伸びした若者がやろうとすると犯罪になる。
貧しくても明るかった昭和と、食べていくには何の苦労もない、でも生きる力を持たせてくれない平成の違いか。思わず「戦争を知らない子供たち」という歌を思い出した。
バブルが終わって 僕等は生まれた
バブルを知らずに 僕等は育った
大学出たら 就職氷河期
年金、医療費 僕らはもらえない
僕等の名前を 覚えてほしい
バブルを知らない 子供たちさ
背伸びをするのが 許されないなら
ITバブルが 許されないなら
不況の時代に 残っているのは
涙をこらえて サービス残業
セクハラパワハラ 毎晩終電
夢を知らない 子供たちさ
バブルの時代に バブルで稼いで
退職金満額 もらった世代は
僕ら子供に 借金押し付け
君らだけが 逃げ切ってしまった
君らの子供の 時代は悲惨さ
借金だらけの 日本経済
お先が真っ暗 日本社会
今日の東京は、晴れているけど星が見えない。どこまで行けば星が見えるのだろうか。
写真は、自宅の庭の花の間に飾った風車。
今日は何故か青い文字。変換の方法がよく分らない。
2006年12月01日
リップクリームとリップスティック
これ、ヒマねたです。真面目ねたを期待している人、すみません。
うちの娘みゆき(16歳)が、寝る前にリップクリーム貸してくれと言ってきた。僕の引き出しにいつも2本程度入ってるのを知ってるから。
最近の夜は空気が乾燥しているようで、どうも唇が乾燥しているようだ。
みゆきがリップクリームを使いながら僕に聞いた。
「お父さん、リップクリームとリップスティックは何が違うの?」
「リップクリームは防御手段、つまり唇を守るもの、リップスティックは攻撃手段、つまり男をたぶらかすもの」
みゆきには少し刺激的だったかもしれないが、けらけらと笑ってた。うちの奥さんは、横で苦笑いしてた。だって、事実だもんね。
人生を楽しく生きようと思えば、やっぱり笑いが大事。何でもかんでも真面目に考えてたら、こりゃ疲れるわ。適度に馬鹿な事を言いながら、人生を前向きに楽しめば、色んな道が見えてくると思う。
奥さんの友達の子供(9歳)を預かって5日。可愛い子だけど、笑いが少ない。折角の人生、一度しかないし、もっと笑おうぜ。
写真は、最近女性問題で野党党首を辞任したドンブラッシュ。彼なりに楽しんで選んだ人生だ。どんな人生が良いのか、パックツアーじゃあるまいし、誰にも適用出来るOKな人生なんてないと思う。だからフリーツアー、自分に合った人生を楽しむ事、かな。
最近読んでる本は、新渡戸稲造の「武士道」、西郷隆盛の「遺訓」、それに中村天風。みんな面白い。人生を堂々と生きる事。物じゃなくて、心で生きる事。気持がどんどん明るくなる。日本人、daisuki。