2008年02月
2008年02月29日
重なる季節
オークランドの朝晩が、急にひんやりしてきた。
一年に二回、オークランドと東京の季節が重なることがある。去年は10月、今年はこの様子だと、3月だな。
日本に行く時は雨予報よりも気温の予報を見てる。日本国内の移動はドアからドアなので、雨が降ったとしてもあまり問題にはならない。オークランドでも傘をささないので、出張にも傘は持っていかない。
だから、カバンに入れる服をどうするかはいつも考えるけど、雨は考慮の外である。
丁度季節が逆なので、例えば2月の出張だと、オークランドを出るときはTシャツ一枚だが、機内預けにする大きな袋には、分厚いコートが入ってるという事になる。
8月上旬の出張だと、家を出る前に車の暖房をガンガン入れて暖めておき、薄いセーターで車に乗り込む。オークランド空港に到着したら、後は時間との勝負。冷え込むからだがギシギシ言うのが先か、空港ターミナルに滑り込むのが先かってことになる。一つ間違えば、あはは、笑うしかない。
だから当然、僕の洋服棚には、真冬の北海道でも耐えられる分厚いコートから、真夏のカンカンゴールドコーストでお遊び出来そうな奇天烈オレンジ短パンまで、いつでもすぐ出せるように置いてある。ある意味、箪笥はいつも四季なのだ。
でも、3月から4月の出張は、オークランドの服装でそのまま東京に行けるので、これは何となく楽である。
一番荷物が少なくて済むってかな、毎日着てる服装でそのまま飛行機に乗れるし、ガラガラスーツケース一個で旅行出来るので気楽だ。
で、そんな時の感覚ってのは、自分の家を出て、そのまま東京のホテルにチェックインする感覚だ。なんか、違う国に来たって感覚がなくなるのだ。
東京の定宿も、今年は更に頻繁に利用することになる。有難いことに、最近のホテルは顧客管理がしっかりしているので、ワンクリックで予約を入れれば、好きな新聞、禁煙部屋、ラウンジ利用、バーのキープボトルの準備、そして「お帰りなさい」と言ってくれるサービスがあるから、ほんっと、ドアからドアへって感じがするのだ。
重なる季節、サービスが向上するホテル、居心地の良い自宅、なんか、そんなのが一つになって、楽しい気持ちにさせてくれる、それが3月、かな。
2008年02月28日
明日の広告
「明日の広告」佐藤尚之
君が人を好きになった時にとるべき最善の方法は、その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすますことだ。そうすると、君はその人が自分の思っていたよりも単純ではない事に気づく。極端なことを言えば、君はその人の事を実は何も知っていなかったのを思い知る。
「映画篇」金城一紀著/集英社 (勝手コピーです)
1993年~95年のインターネット台頭初期からインターネットの未来性を見抜き、大手広告代理店のディレクターとして20年以上勤務しながら、既存の広告形態に警鐘を鳴らしてきた現役のクリエーターの最新作。
彼は食い物好きでも有名で、自分で「さとなお.com」というコラムでも日本各地の味を楽しく案内してくれる。
実は去年、ある他のブロガーの書き込みが原因で、さとなおさんと2回くらいメールのやり取りをしたことがある。
その時の文象(文章から感じる印象)が非常に人当たりが良く、それ以前にもまして彼のブログを拝読して、東京に行くときのレストラン選びの参考にさせて頂いてる。
その彼が本業である現役広告クリエーターとして、広告は今後どうなるのか?という点を、危機感を持ちながら、だからと言って「やめちまえ!」というのでもなく、現実的に問題点を提起しながら、じゃあここからやっていこうよと提言する本。
内容自体は彼も言うように、危機感を持つ先行者が指摘した件と重複するし新しい内容もない。ただ、基本に戻ろうよってよびかけが、実に良い。
華やかさに浮かれるのではなく、お客が何を望んでるのか、そこさえ掴めば広告はこれからもやっていけるよ、そういう呼びかけだ。う〜ん、広告業界だけじゃないよね。
ただ、現在の広告業界の構造を知らない人には意味不明な本である。つまり、業界で働いてるけど危機感がない人、その辺に読者層を絞り込んでいるのだ。
そりゃそうだ、元々が業界向けの講演の記事を起こして本にしたのだから、そういう意味では読者層が思いっきり狭まる。
ただ、彼もびっくりするように、1月の発売以来、すでに第4刷が出ている。
彼が本書の中で指摘する「広告やTV業界批判の煽りすぎもどうなのか?」と指摘する本が、これがまた日頃僕がよく拝読する「池田信夫ブログ」で有名な池田氏が執筆する本である。
NHK元ダイレクターと、電通の現役ダイレクター。両方の著書を読み比べて見ると、実に面白い。
結局、ギョーカイを出てしまい利害関係もなくなり、客観的というよりも、後輩に対して「お前らもう終わってんだよ、何やってんだ、やめちまえ!」と、ちょい主観的自虐的にギョーカイそのものを否定して本を出すNHK元ダイレクターと、「先輩、何言うんっすか、俺たちまだこのギョーカイでメシ食ってるんすよ、そんなに否定されて、じゃあ俺たち、どうしろって言うんっすか?」ていう現役ダイレクターの声を代表して本を出す現役ダイレクター。
ただ、この業界が他の業界と同様にインターネットの出現で100年に1度の大津波に巻き込まれ、さあ、これからどうするのか?と真剣に考えて右に舵を切る連中と左に舵を切る連中と、船の中で酒を飲みながら外の事を見ようとしない連中に分かれているのが、良く分かる。
これって、江戸末期の日本だよね。尊皇攘夷と開国派、地方の百姓は政府が変わった事も知らないまま、今年も米の取れ具合だけ気にしてるって絵柄だ。
君が人を好きになった時にとるべき最善の方法は、その人のことをきちんと知ろうと目を凝らし、耳をすますことだ。そうすると、君はその人が自分の思っていたよりも単純ではない事に気づく。極端なことを言えば、君はその人の事を実は何も知っていなかったのを思い知る。
「映画篇」金城一紀著/集英社
上記の文章は、「明日の広告」の巻頭に書かれている。さとなおさんは、これを広告の世界に持ってきて「ラブレター」を比喩として、広告がいかにして愛すべき消費者にラブレターを送り接触すべきかを本の中で説明してた。
本の後半では、彼が実際に関わった星野仙一の個人広告や、スラムダンク1億冊感謝キャンペーンを通じて、広告はどうあるべきかを語っている。
読了して気づいたのだが、結局元NHKダイレクターも現役電通ダイレクターも、言ってることは同じ。
「時代は変化しているのだ。君も変化しろ。変化のない動物は、遂には時代に取り残されて博物館行きだぞ」
・・・・・・・・・・・これって。
客を見る。見抜く、そして、彼らの語ることではなく、彼らの語りたいことを聞き取る能力。それが僕らに要求されている。
スラムダンクキャンペーン。誰にでも無節操に商品を売るのではなく、納得してくれた人にだけ提供したい。それがうちの商品。その代わり、一度買ってくれれば、最後までお付き合いします、絶対後悔させません、そんなビジネスが、これからのあるべきサービスになるのではないか。
明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045) (アスキー新書 45)
2008年02月27日
法には法を 3 そして実力行使
何?海外勢力が来るったって、今の日本では簡単にM&Aが出来ないように法律を修正しているじゃないかって?
その通り、そうやって法律を自分の都合だけで勝手に変更するから日本は法治国家ではなく、中国以下の人治国家になり、そんな無法な地域には外国人が投資しなくなる。
その結果株式市場の50%以上を占める外国のカネが中国やインドに逃げて、株価は13000円台にまで下がり続け、企業は利益が出ているのに株価が低いから、決算上の書類も利益が減少してしまう。
そして企業が本当に苦しくなった数年後に、外国人勢力が一段と安い価格で日本の企業買収をするのだ。その頃になればどこの企業も金詰りになり、買い叩かれても良いから外国人に株を売らねばならない状況になる。つまり、今の痛みを先送りすることで、もっと大きな、決定的な痛みをこれからの日本が食らおうとしているのだ。
そんなのは今から100年以上前に、東南アジアのいたるところで発生した。植民地と言う形で欧米からの搾取を受けた人々は、国家として独立するまでにどれほど苦労したか?
日本が日本の国内だけで動いてる時代は終わった。これからはいかに世界と立ち向かうか、である。そんな時に一人日本だけが鎖国できるわけがないのは自明の理だ。
明治維新も、そういう危機感を持つ少数の人々によって起こされた。どんなに苦しくても開国しか生き残る道はないのだ。相手側のルールに従ってゲームを行い、とにかく今は勝ち点を増やしていく。これが弱い国の生き残る道なのだ。
そんな事を思ってた時に新幹線の中で偶然目にした記事が、「公益とは何か?」そして「法には法、暴には暴を」である。
そう、特に最近の判例では、法律を守って行動しても、政府に逆らったら潰されるという判例が次々と出ている。武富士事件、医療過誤問題、古くは沖縄で殺された野口さん事件、とにかく政府が法律を無視し始めているのだ。
相手が法律を持ち出して戦ってきた時は、こちらも法律を持ち出して戦う。しかし、遂に政府側が法律無視して公権力やマスコミ、そして警察を使って国民の取り締まりに乗り出したのだ。
こうなれば僕らに残された方法は何があるか?
暴力には暴力を、である。
この場合の暴力とは二つの意味がある。一つは、本当の意味での暴力、つまり武力革命だ。ここに一枚の三島由紀夫の写真がある。
今の日本であれば、自衛隊の一部制服組と国会議員が組んで、NHKと国会議事堂を少人数の自衛隊で一気に掌握して、在日米軍が動き出す前に独立宣言を行い、近日中に国民総選挙を行う事を世界に約束してから世界中のマスコミを呼び込んで、事態が闇に隠されないようにする事だ。
もっとも、NHKはそういう反乱が起こる事も想定して、簡単に乱入出来ないようしているらしい。国会議事堂も同じだろう。
もっと言えば、それで国民が付いていくようになるほど、民間に不満が充満しないといけない。そのためには、多くの人が自分の命を賭けて政府と戦い、敗れて散らなければいけない。そうして命を賭けて国民に訴えない限り、国民が事実に気づくことはないからだ。
しかし、そうやってまで救いたい国民はどれだけいるのか?無責任で無勉強で自分勝手でわがままで、改革を恐れて何もしないような人々は、果たして救うに値するのか?
自分を動物として扱う物体を、人間と呼ぶ必要はあるのか?これが問題である。
ならば、もう一つの暴力、つまり国家を捨てるという実力行使をするしかないのではないか?それが暴力国家からの脱出だ。これは今まで僕らが言ってたような移住とは、少し違う。
移住とは、今よりも良い国に移って、もっと楽しい暮らしをしようとする事だ。脱出とは、心はいつも日本に置いたまま、それでも今の日本では自分の財産も生命も保証されないから、一時的に安全な国へ避難するという事だ。
ビザの問題もあるが、永住権でなければ、例えばワークビザの延長、学生ビザの取得など、数年なら合法的に滞在する方法はたくさんある。
日本を出て他の国に行けば、少なくとも日本の法律が直接適用されることはないし、日本国家とかなり対等に近く戦える。
そうして数年後、日本が焼け野原になるか、被占領地になった時に日本に戻り、国づくりに協力すればよい。それこそが、公に益するのではないかと思う。
公とは、お上でない。大衆である。公益とは、お上の利益ではないのだ、あくまでも、一生懸命働く人々と、その周りにいる人々の利益なのだ。
日本が焼け野原になったその時にはこの世を謳歌したバカ官僚も変化を嫌った国民もいなくなってるだろう。
このような実力行使が、「暴には暴を」ではないだろうか。
写真は水俣病の患者である。水俣に進出した工場が廃棄物を流したが、その廃棄物に付着した水銀が魚に移り、その魚を食った人々が病気になった、戦後最大の公害事件である。
事件に関わった加害者は、ある意味幸運である。おとなしい被害者を相手に話が出来たのだから。
もし僕の子供がこうなったら、おそらく僕は関係者全員に水銀を飲ませて、ついでに関係の経産省の水道にも水銀を流して、同じ苦しみを味わってもらうだろう。
暴力には暴力で返すよ。
当時、通産省の役人は、日本が国家として発展する為には仕方のない犠牲だと言ってた。「公益の為には私益を我慢してくれ」と言うことだろう。
だったら、その水銀を何で皇居のお堀に流さないのだ?何故、その腐った魚を天皇に食わせないのだ?何でお前らがその「公益」の為に、水銀の入った水を飲まないのだ?公益の為に誰かが死ななくてはいけないなら、教えてくれ、何故それが水俣であって、東京湾じゃないのか?
所詮、地方の、自分に関係のない地域の苦しみである。だったら、いっぺんくらい、地方の苦しみってか、今まで国民が「公益」の名の下に、どれだけ苦しみを味わったか、ゲーマーの役人に教えてあげようか?
とにかく、時代がここまで来てしまったら、もう後戻り出来ない。多くの人が指摘するが、2005年までの日本なら、まだ「ここが底」と思って、外国人も含めて何となく日本の将来が見えてた。
ところが2006年以降、日本は完全に破滅の道を歩き始めた。これはもう、取り返しのつかない道だろう。ここまで逝ってしまえば、もう後戻り出来ない。何故なら、失敗を食い物にする外国勢がいるからだ。
今回の敗北の責任を、またも国民に取らせるのか、官僚よ?君たちは、一体いつになったら自分で責任を取るのだ?
ただ、今回はもう、お前らバカに付き合わないぞ。ほっておく、勝手にやれ。俺はもう、行く。
最後まで駄文を読んで頂いた皆様、今回は趣旨が「公益とは?」と「野口さん殺人事件」などの問題と「クーデターとその後」、挙句に「水俣病」の四本立てになってしまい、申し訳ないです。話が飛びすぎました。
ネタを3日に分けて書きましたが、なんか、この四つは今の僕の頭の中で一つになってしまってる。物書きの本職でもないので、ま、いいか、てな気分で書きました。ご気分を悪くされたら、ご寛容の程、です。
写真は「栄光への脱出」です。
2008年02月26日
法には法を 2
最近のマスコミ、特にテレビや日刊紙の政治寄りには、戦前の統制経済の恐ろしささえ感じる。
結局マスコミに誘導される国民がバカなのだと言えばそれまでだが、今回の
ところがそのマスコミは、同じ番組内で、民意ではないような特ダネを、一般市民の後を付回して「僕らは一般市民に事実を知っていただく為にこの番組を作りました」と言う。
一般市民の知らない、一般市民にとって不利になる事件を見つけ出して、それを社会に知らしめて、社会行動の喚起を促すのがマスコミの役目だ。
ところがマスコミが持ち込んでくるのは、市民の利益に全く関係のない醜聞ネタであったり、市民の不利益になるような脅迫のようなネタである。鶏インフルエンザの時に自殺した老夫婦を覚えているだろうか?
彼らを自殺に追いやったのは誰だ?そのような反省もないまま、一部の社会的弱者を引っ張り出してはマスコミで叩き、最近では特にその方向が、政府に迎合するような形で行われているのが、一番怖い点である。
中国産食品の安全問題を語るなら、何故日本の食料政策を語らないのか?
それを語れば結局今までの日本の食料政策の長期展望の甘さ、つまり国策の失敗に辿り着くからだ。八郎潟の減反政策を知っている人は、今どれだけいるのだろうか?
ただ、戦前になくて戦後の今にあるもの。それがインターネットによる民衆の情報の共有化である。
1959年と言えば、まだ情報伝達はテレビと新聞しかなかった。だから国民は官製情報に従って判断するしかなく、最初に与えられた情報自体が間違っていれば、もうこりゃどうしようもないわけだ。
ところがマスコミ以外の情報伝達手段としてインターネットが発達してくると、政治のわがままな本音があちこちで噴出してくるのが見える。
特に最近創設を検討中の「消費者庁」問題でも、本来は消費者を守るべき庁が、単なる役人の権利の強化と政府の規制の強化にしか過ぎず、消費者は単純に騙されたとに過ぎないと言うことが良く分かる。
これこそまさに、公益のふりをして官庁の私益を増やそうとする「からくり」に過ぎない。
すべての場面で、マスコミが一部企業を偽装建築とか偽装食品とか偽装なんちゃらとか叩き、それを機会に関係省庁が「国民の為に」と新しい組織をつくり、そこを退職した役人の新たな受け皿として、同時に関係企業の規制と集金の窓口となる。
姉歯事件では実刑が確定したが、その背景は誰も問題にしないのか?役所が手抜きを認めた、その公権力機関は有罪ではないのか?一人だけ贖罪羊を出せば良いのか?
食料偽装でも、赤福などは厳密に言えば「製造日の解釈」の問題であり、それを問題視したのはテレビと役人だけだ。現に再開した時には多くの行列が出来た。赤福の食い物を食って、一人でも食中毒が出たのか?雪印とは根本的に違うぞ。国民の方が余程現実的である。
沖縄で殺された野口さんの事件など、まさに、国家による無法である。ところがそれを、マスコミも警察も報道しようとしない。
しかし、このような事がすべて、「公益」の名目の元に、政府が、「自分が正しい事をしている」という観点から実行されたのだから、もうどうしようもない。
野口さんの場合は役人が殺したのではないから、作為の責任ではなく、不作為の責任である。つまり、殺されるだろうと分かっていて放置していた件だ。本来ならこれは、「未必の故意」とも認識出来る事件だと思うが、司法はどう判断するのか?10年くらい経ってから、「あれは殺人事件でした〜」なんて、ふざけた事だけは言うなよ。
実は、政府にとって情報操作や国民操作においては、相手を殺すってのは結構効果的である。
米国で1950年代からCIAが、外国で随分たくさんの人々を殺したのは周知の事実である。でも、それは米国の国益であるからOKなのだ。
政府の頭の中は、今だ持って戦時中の統制経済なのだろう。国家が決めて、国民が従う。そこに消費者と言う考え方はないし、国民主権と言う考え方もない。
今だもって、東大を出た役人だけが世間を知ってて、道端をうじゃうじゃと歩いてるのは、世間知らずのバカばかり、なのだと思い込んでいるのである。そんなバカに選挙で国をかき回されては困る。だから、選挙の仕組みは作っても行く気にさせないようにしたりするのである。
在外選挙の面倒くささを一度見れば、良く分かる。お願いだから、一度でよいからNZにおける選挙参加方法と日本の選挙参加方法を比較してもらいたいものだ。
しかし、ここまで政府が「公益」という名目の元に統制経済を復活させようとしているのも、表立った場所(テレビや日刊新聞)では絶対に分からない。
そして、そのような媒体を情報収集方法としている人からすれば、あいも変わらず日本は「日ノ本の国」であり「お上は正しい」のだから、長いものには巻かれろ、困った時はなるようになるさ、お上は徳政令を出してくれるさと言うことになる。
しかし、戦前や江戸時代に統治をした人は、その根幹に論語や荘子、君子などの「治世者の学問」を身に付けていた。つまり道徳心、公共心である。
経世在民、人の上にたつ者は義務があり、時にはその為に自分の命をさらけ出す勇気を持たねばならない。そうやって学んだ人々の時代には、確かに国民の幸せがあった。いざとなったら、国家が腹を括って国民の為に働く、その為に自分が潰れても良い、そういう気持ちがあった。
ところが戦後、東大を出ても論語を読んでも論語を知らず、マークシート式のテストでたくさんの点を取った者が国家の舵取りをするようになると、まるでテレビゲームのようにフィルターを通じて世の中を見て、国民が苦しむことを自分の痛みとして理解出来なくなった連中が、次々と愚策を打ち出して、その責任を取ろうともしない。
「あ、この画面、クリヤーしそこなっちゃった、ごめんね、参加者の皆さん、全員いっぺん死んでください」。政府からすれば、打ち出した政策が間違ってても自分の腹は痛まない。テレビゲームで負けたようなものだ。
しかし、情報収集をインターネットで行い、世界の動きを見ていけば、おのずと今、日本が「火の元の国」であり、いつ燃え出してもおかしくないと言う事実に気づく。
真っ先に焼け死ぬのは国民だ。すでに毎年3万人の自殺者が出て、去年は法の改悪で企業倒産が17%も増えた。これでどうやって幸せな生活を送れというのか?
実際に、政府と一体として活動している企業や、海外に道を求めた企業は何とか生き残って国際水準に近づいている。技術だけでいえば、日本は今も世界のトップなのだ。
しかし問題は、国内をベースとしたサービス産業、例えば流通、運輸、金融など、国内に住む人を相手にしたビジネスを展開している産業では、どこも価格破壊の結果としてまともに企業が利潤を出せず、結果的に偽装が出回り、タクシー運転手の給料が下がり、貸し渋りが発生し、誰もが苦しみを味わっている。
まあ、中には価格破壊を喜びと思って、東海道新幹線で夕方の帰路、ネクタイ姿のビジネスマンが、自分が今日仕入れ業者を強引に叩いてから、自分の会社がいくら儲かるのかを計算しながらビールを飲んでる人もいるだろう。
でも、その影では、叩かれた業者が、社員の給料を実質値下げしてサービス残業させたり、派遣ばかりに社員を切り替えたりする事さえ行われているのだ。
それが結局は全員の首を絞めるとも考えずに、自分の企業だけが生き残ろうとする世の中では、結局全員が、世界から見た落伍者となってしまう。今は少なくとも、日本全体の利益を考えながら行動しなければ、結局すべての企業が叩き潰されてしまうのだと言う現実を知ることだ。
何故なら世界には、「自分の企業」よりも大きな企業がたくさん存在して、彼らは彼らの利益の為に、あなたの大事な企業とその収益をM&Aによって簒奪するからだ。
結果的に国内にしか目が行かず、いずれ海外勢力に食われてしまい、全員が海外勢力の奴隷となってしまえば、全員の首を絞めてしまうことになるのだ。
2008年02月25日
法には法を、暴には暴を 1
室原知幸という一人の熊本人がいた。
熊本県の山の中のちっちゃな町(
1959年のある日、国家が彼の土地をろくに説明もせずに強制土地収用しようとした時に、徹底的に反対して戦い続けた男の話である。
国家側にも言い分はある。昭和20年代に続けて起こった台風で、多くの人命が失われた。国家としては、治水は大事な事業であるし、それによる電力の確保も必要である。
その為に、ちっちゃな町に住む人に、「悪いけど、あっち行ってくれる?ここでダム作らないと、これからも多くの人が死んでしまうのよ」とやったのだ。ある意味、当然な理屈である。人が死ぬのだ。生きてる人に、引っ越してもらうってのも解決策の一つだ。
室原も、最初は良い話だと思ってたようだ。公益を考えれば当然である、そう考えていたようだ。ただ、その説明の方法が悪かった。そしてたまたま、相手にした人間が悪かった。
国家が相手にしたのは、法律ロンギも出来ないし難しい理屈も分からないけど、本当の意味での民主主義というのを肌で理解して、それを追及する為には自分の全人生を賭けてでも戦えると言う、まるでブルースウィリスみたいな男だったのだ。
「土地を持っていきます。金はこれだけ払います、新しい土地はここです」そんな、木で鼻をくくったような、何が公益かを理解しない対応に、彼は切れたようだ。
そして彼は、人跡未踏のような山奥に「蜂の巣城」を作り、国と戦った。彼を主人公にした「砦に拠る」と言う本が出版されてる。土地収用は1959年の事だから随分昔である。最後には喧嘩に負けたものの、彼の業績は今でもインターネットで知ることが出来る。
この人物の事を知ったのは、実は前回の日本出張での新幹線の車内で読んだ、週間サンデー毎日の「佐高信の政経外科」と言うコラムからである。
同じ九州の、それも熊本の山の中のダム建設であるから、同じ時期を同じ地域でダブって生活してたはずだが、こっちが子供だったせいもあるだろう、全く記憶にない。
「公益」とは何か?
佐高信は「週間金曜日」の発行人としても有名だが、ダムを作る公益と岩国基地の公益を取り上げて、「一体本来の公益とは何なのか?」と、軽く問題提起している。週刊誌では、長い文章での問題提起は出来ないだもんね。
今から50年近く前に、政府を相手に蜂の巣城を構築して戦った男の語った言葉がある。
「法に叶い、理に叶い、情に叶う」
それなら我慢する。これが公益ではないか?
つまり、その場で不利益を被る人でさえも、河川の下流に住んでいるおばさんに「次の台風では、私の子供が死んでしまうんです!」と言われれば、自分の土地を手放すだろう。それが情に叶う、だ。
だったらおばさん、あんたが引越しすればいいじゃないか。でも、おばさんが次の台風で放棄してしまわねばならない海の近くの土地の、海外に輸出できる港が作れるという経済的効果、そしておじさんが失う森林の損失を考えれば、きちんと政府が他の土地を準備して、新しい生活を保障する。それが理に叶う、だ。
そしてそのような土地の交換や、その為に準備をするべき各種調査を公正にする為の仕組みが、法である。その土地が本当に最適なのか?誰か、どっかの国会議員が儲ける為にやってるんじゃないか?、そういう恣意を排除するのが、法律の役目である。
誰か一人にすべての責任を押しかぶせて、他の人間は知らないふりをして、その私益だけを享受するというのでは、到底公益とは呼べない。そう彼は訴えている。
ところが日本では、昭和の期間、随分長い間、公共工事という名目の元に、公益が無視されて私益が優先され、成田空港問題でも多くの人々が戦ってきたが、結局公権力に叩き潰されてしまったのだ。
2008年02月24日
松任谷由美
ゆーみん
苗場の小さな舞台。ユーミンを知ってる人たちばかり。
観客と彼女の、お互いが分かり合っている一体感。なんてか、歌うほうもプロで、聴くほうもプロ、てかな。乗るところ、しっとりするところ、ライブが終わって立ち上がって会場を立ち去るところ、お互いが完璧に一体。どこまでも予定調和の素晴らしさだ。
毎日移住希望のお客様と話をしてると随分色んな人生を見てくるし、場慣れをしてきて世間の大体の事にびっくりとか感激とかしなくなった僕だが、このライブにはもう、思わず涙が出た。
何でかな?
結局、本物だけが持つパワーに触れることが出来たから、だろう、な。
ユーミンの歌が綺麗とかうまいなんて思ったことは一度もない。うまさで言えばウエスティンラの方が余程旋律に乗って素晴らしい声を出す。
でもそれは、例えばビートルズがデビュー当時たいこの音をしょっちゅう外してたとか、クラプトンがクリーム時代に歌ってた声が最低だったのと同じことで、大事なことじゃない。
うまいとか下手を超越したとこで生きてる彼らは、技術ではなく存在で勝負をしている。
今も「生きている伝説」だと言うことと同じで、ユーミンも歌の上手い下手ではなく、そこにいるだけで輝く存在感なんだ。
ゆーみんは、そこにいて歌ってるだけで凄い。
オリジナリティってのをそのまま日本語にすれば、やっぱり独創性とか創造力と存在感になるのかな、とにかくすごい。ましてやそれを、ちっちゃな箱の中、たった数百人でライブやるんだから、ゆーみんの表情全てが見えるから、もろに迫力が伝わってくる。本当にライブだ。これが泣けずに、何に泣くのか?って感じ。
次々と繰り出してくる歌、それを支えるバックバンド、皆が一体となって会場を盛り上げていく雰囲気は、全ての参加者を感情の渦に巻き込んでいく。あの場の「気」は、物差しで計りようがないけど、とにかくあの場にいなければ分からない、独特のユーミン教の世界を繰り広げていく。
2回目のアンコールも終わり、もうこれで最後かなと思ってたら、「ブリザードが聴けてない!」と不満の声。そんな手拍子と足踏みの最高のタイミングを読むかのように、暗い舞台にベース、ドラムが戻ってくる。そしてユーミン再登場!
風を受けながらスキー場を滑走するかのように歌うユーミン。両手を大きく振りながら、「ブリザード、ブリザード!」と歌いきるその姿に、観衆も総立ちで、髪の薄いでぶ親父も、皺の隠せなくなったおばさんも、皆がまるでユーミン教のように両手を振り、一緒にブリザードを大合唱する。
昨日客先でクレームをつけられたり、理不尽な値引きを要求されて嫌な気持ちになったり、そんな仕事で抱えたストレスも嫌な気持ちも、今日の男子大回転コースをうまく滑れなかった気持ちも、能力はあるのに思いっきり仕事をさせてくれない会社への不満な気持ちも、誰もが持ついろんな嫌な気持ちも、全部この歌で忘れられる。
「よし!明日は自分をリセットして、また頑張るぞ」そんな気持ちにさせてくれる。その意味でみんなユーミン教の信者だ。
ライブの途中に彼女が「シャングリラ」という「一方通行な大コンサート」の話をする。「おっきく舞台を作り、外国から人を呼び、最高の舞台を作った。これ以上はないと思ったのよね」
「でもさ、その後、思わず燃え尽きてしまったんだ。まさか自分がそんな気持ちになるなんて事、あるとは思わなかったのにね・・・」
「もう、これ以上はないのかな・・・・・私って、本当に燃え尽きたの?・・・」
そんな時に彼女が思い出したこと。それが28年も歌ってきた苗場。
彼女の原点である苗場があるじゃないか。客と一体になって歌ってきた苗場があるじゃんか!
「こんな小さな箱(会場)だけど、大コンサートよりもずっと客と近くて、喜びも悲しみも共感してくれる、この苗場があるじゃんか!」
バブル前から歌い、「私をスキーに連れてって」のスキーブーム、バブルが弾けてからも、どんな時代をも乗り越えて、お客は毎年苗場に来て、ユーミンを聴いていく。
舞台の上で彼女は少し声を詰まらせながら、「本当のおばあちゃんになるまで、ここで歌い続けていきたいと思います!」
そういいきった彼女は、一生美しい女性だった。思わず、両手で思いっきり拍手をしてこちらの気持ちを彼女に伝えようとした僕には、僕自身がびっくりした。
28年もの間この苗場でライブを続けて、本当の意味で彼女と同じ時代を歩み、彼女の歌に心を支えられてきた人と、そんな人に支えられて生きてきた彼女。これが、「コンサート」と呼ばれる一方的な放送ではない、「ライブ」と呼ばれる双方向通信なんだな。
インタラクティブなんて難しい英語を使わなかった時代から、みんなの気持ちは一つ!
手拍子も、拍手も、とにかく苗場!ユーミン!かっこいい!日常を忘れさせてくれる瞬間!自分が自分でいられる瞬間!皆が最高の自分を感じることが出来る、そんな瞬間!
ユーミンからのメッセージ。いくつになっても輝いていようね!
ほんと久しぶりに、素晴らしい興奮の渦に巻き込んでくれたライブだった。
結局ライブが終了して部屋に戻ったのは、真夜中過ぎだった。それから友達と飲みながら、なんてか、ユーミン楽しかったよね、よりも、お互いこれからも頑張ろうね、生きていくのは大変だけど、毎年ここに来て、お正月を迎えようね、一緒にユーミンを聴こうねなんて話になった。
ホテルを出発する当日の朝。チェックアウトするときに明細を見ながら、思わず昨夜のライブを思い出して、ふとまた、目頭が熱くなった。
さあ、明日も頑張るぞ!
2008年02月23日
知らなければ・・・
“今日でお別れね、もう会えない〜”菅原洋一の歌だったと思う。
実に悲しいけれど、本当の人生の一部分をそのまま切り取って歌にしてしまい、目の前にぽんと差し出されたような歌詞だ。
人生が悲しいなんて、実は誰でも知ってるってわけではない。知らなければ幸せなのだ。それが今回の日本出張の総括って気がする。
毎朝通勤電車に乗り、毎日同じ道を歩き、毎日同じ仕事をして、毎日同じ家に帰り、明日も今日と同じ日が来ると無条件に信じている多くの人々。
「人生」を知らない、まるで動物のような人々にとっては、生きるって事は毎日同じことが繰り返す、なんてことはない生活の一部だと思ってるようだ。動物に進化はないんだから当然だろう。
ハエや虫に、「生きてくうえで苦労ってありますか〜?」って聞いてみれば面白いと思う。
ただ、こちらからすれば、生きていくって作業は、柔らかなわき腹の肉を尖った細いヤスリで上下に削るような作業であり、それだけで生きていくのが辛いって気持ちになる。
それでも生きていこうとするのは、哲学でも理屈でもなく、とにかく生きようとする気持ちの塊が自分を動かしていくんだって凄く感じる。
とにかく、今日よりも明日を良くしていこう、例えばスキーなら今日滑れなかった斜面を明日は滑れるようになろう、例えば料理なら今日失敗して甘くなったカレーを明日は辛めに作ろう、例えば歌なら今日歌えなかったXジャパンのエンドレスレインを見事に歌いきってみよう、そんな、しょうもないけど成長したい気持ちだ。
「そんなめんどくさい人生なんてやめちまえ、とっとと死ねよ」そんな気持ちになることも時々ある。それは誰にでもあるだろう。ただその時に、「やっぱ死なねーよ、バカ野郎、ふざけんじゃねーよ」って気持ちにさせるのは、自分の体内にある「何か」だと思う。
そしてその「何か」は、いつも覚醒している。世の中の事を理解してて、悲しいんだけど、それをそのままの状態でこちらに見せてくれる。
民主党の議員が女性問題で問題を起こしたけど、今は二人とも頑張って元の場所に戻ろうとしている。一人は国会で発言をしてるし、一人はバラエティに出て、一生懸命頑張ってる。人のプライバシーを覗き見するような腐れ連中が、偉そうに何を暴露して喜んでるんだ?!一体誰が、どんな理由で叩いたのだ?何でそんな個人的な事をあばいて、誰が楽しいんだ?
元々農林水産省のミスなのに偽装って言われたお餅やの苦しみは、誰が責任取るんだ?再生した時は、昔からの馴染みが行列を作った。
結局、まともに人生を考えずにだらだらと、まるで動物のように何の成長もせずにそのままの生まれっぱなしの状態で人生を過ごす人々が、まともに新聞も読まずにインターネットもせずに、テレビでみのもんたが話した事だけがすべてと思ってる人々が、他人の努力や苦しみをテレビの上であざ笑うだけの世界。
世の中は、何も変わって欲しくない役人と、何も変えたくない多くの人々によって構築されている。
でも、本当に自分が生きたいように生きる人にとっては、苦しみの中に「自分の価値観や自分の人生」が見えてくる。
知ってしまう。
そうすると、もうそんなだらしない、まるで動物のような、何の進歩もない生活が嫌でたまらなくなる。
「何で?誰でも苦労もするし失敗もするでしょ?嫌なことがあっても生きてるでしょ?そんな人間をあざ笑いながら、でも何も変わろうとしない貴方って、一体ナンなの?てか、会った時から、貴方成長してないよね?成長しない貴方って、一体ナンなの?動物?」
上記の文章は僕がよく使う言い回しだ。お互いに何も知らない時は楽しかったんだけど、こっちが成長しているってのに相手が止まってしまったら、そのうちお互いの落差に気づく。
価値観の共有。知らなければ済んだことなんだけど、一旦人生の真実に気づいてしまうと、もう後戻りが出来ない。
自分だけが毎日の生活の中で色んな事を学び変化して成長していくのに、相手は何も変わらない。もどかしさだけが体に慢性疲労のように溜まってくる。
でもそれが当たり前と思ってる人には、こちらの言葉は伝わらない。まるで、大きくて暗い空洞に向かって叫んでるようなもので、声は相手に届かない。
知らなければよかったのにね。人生の真実なんて、知らないほうが幸せなんだよね。多くの日本人は、知らないままに生きて知らないままに死んでいくんだろうな。
でも、知ってしまうと、後戻り出来ない。悲しいな。けど、生きていくしかない。一人でも多くの人間に僕の声が届くように、また明日からがんばろっと。
2008年02月22日
2008年02月13日
違和感と親和感
ずいぶんブログの間が空いてしまった。
日本に出張すると、特に後半は頭の中に色んなモノが詰まってて、文章が書けなくなる。
しょうもない事をだらだらと書いてるのだから、何を偉そうに「書けない」なんてって感じもするが、だって本当に書けないんだからしょうがない。
犬がどうした、猫がどうしたって、他の人が書くような話を書いても、あまり楽しくないからな。
今は東北地方の巡業中。僕の頭の中の日本地図には、東京の次は札幌となり、精々が仙台があったくらいで、それ以外の北関東、東北、信越などは、武田信玄とか上杉謙信とか、要するにいまだ戦国時代の印象しか残ってない。
僕の頭の中が、今回の出張で随分大きく変わった。
同じ日本人なんだな〜って感じる親和感と、でも、全然文化も習慣も違うなって違和感。その両方を味わえる、ある意味贅沢な時間を過ごしている。
でも面白いのが、彼らに九州の地図を書かせて、それぞれの県の名前を入れろって言うと、やっぱり分からない。
だから、今回たくさんの東北の人と会って話をすると、「こりゃ違うな〜」と言うしかない。
東北では、何かあればすぐ親戚や近所の人が集まって酒盛りになるそうだ。
ましてや、ニュージーランドに住んでいる日本人が青森あたりに行けば、それだけで大宴会のネタになるようだ。
う〜ん、九州じゃ、それはないな〜。「おう、来たのかい、まあゆっくりしてけや、俺は今から友達と飲みに出るから」となる。
外国が近いのだ。九州にとっては外国は普通の隣人であり、周囲の人が集まって酒を飲むようなことはない。
でも、優しい東北の人に色んな話を聞くと、実に楽しい。間違いなく違う文化を持っている。
そんなこんな、親和感と違和感を感じながら、でも日本って、こんなちっちゃい国なのにこれだけ地域ごとに文化が違うんだな〜って、しみじみ感じた。
写真は、一緒に旅行している竜馬君がhotel roomでカレーを食べてるとこ。
2008年02月08日
餃子
餃子
日本では、朝から晩まで餃子の話だ。
中国産の冷凍輸入餃子に殺虫剤が付着して、十数人が健康被害、つまり入院したり吐き気などの症状を訴えたという事だ。
民放では派手に、絵を使いコンテを使い、今回の事件を、一つの餃子を裏から説明、表から説明、一生懸命報道している。NHKでも遠慮がちに餃子事件をやっている。
しかし、朝のニュースでは、殆どの時間を中国の管理体制がどうのこうのとか、どこで殺虫剤が付着したかとかにさいているが、日本の食料政策を問題にしているテレビは少ない。
中国の食糧管理が悪いなんてのは分かりきった話で、実際に中国に住んでいれば、食い物に毒が付いて死ぬなんて、それほど珍しいことではない。10億人もいるのだ、数千人死んだってたいした事はない。
毎年生まれてくる子供の数は、ニュージーランドの総人口よりも多いわけで、日本並みの管理なんてやってたら、それだけで競争力の減少になるのだから、余程の事がない限り、安全は一番後回しだ。
じゃあ「そんな中国からは食料を買わない!」ってなった場合、日本は食糧をどう調達するのか?戦後食料自給率が落ちてきた時、国策として農業をどうするのかときちんとした議論や政策を実行してこなかったツケが、今の時代に回ってきたと言える。
勿論戦後すぐは、国家を加工貿易による工業国家として改造することで国力を高めると言う第一義の国策があったから、農業と両立が出来ないのは、ある意味仕方がなかったと思う。
しかしその後、農業が変化出来る機会はたくさんあった。1980年代における農業政策には、様々な未来があった。ところが、農村を選挙の票としか見なかった政治家と、その利権にぶら下がった農協が、結局その未来を潰した。
(考えて見れば、日本はいつも同じことの繰り返しだ。民間が努力して開発して、国が潰してしまう)
最近オークランドに来たお客様が水産関連の仕事をしており、地元の水産会社を案内した時のことだ。
具体的に魚の仕入れ価格などを話したらしいが、後で聞いて見ると「いや〜、高くてとても値段が合いません」との事。
水産会社に聞いてみると「あんな値段では売れない。最近は欧州でも魚が売れるし中国でもこちらの言い値で買ってくれる。何で日本にそんな安売りをしないといけないのか?」
これも結局、何でも安ければ良い、原価等は全く無視してとにかく安ければよいという、間違った風潮の日本に問題があるのだ。
モノにはすべて原価がある。労働者は、給料を貰わないと生活出来ない。安売りは回りまわって自分の首を絞めるのだ。
勿論技術革新による原価削減は良いことだが、いたずらに「高い高い、もっと安くしろ〜!」なんてやってしまうと、企業としてはどうしても単純に人件費を削ったり安全対策費用を削ったり、安くて悪い原材料を使うしかなくなる。
そうこうしているうちに世界では西洋人や中国人が魚を食べるようになり、彼らは原価を理解しているからきちんと正当な価格を支払い、魚を買っていく。
日本は円の価値が下がり、消費者向け販売価格も下がり、結局魚が買えなくなる。
これから世界と対抗していき食料を輸入していくなら、一般消費者が原価と言うものをしっかり意識して、払うものはちゃんと払う、そういう教育をしていくべきであろう。
ところがマスコミは目先の視聴率に追われて、何の貞操観念も哲学もないバカガキプロデューサーが、実にろくでもない番組を作って消費者に追従する。
現在の日本の食料自給率は、すでに40%を下回っている。今の日本の一般消費者のわがままと、それを焚きつけるマスコミが、結果的に自分の首を締め付けていると言う現実に、誰も気づこうとしない。
ちなみにオーストラリアの食料自給率は100%以上と言われているが、ニュージーランドの自給率は300%以上。
21世紀は資源の時代と言われているが、食料と言う視点で見れば、今のニュージーランドは間違いなく資源大国と言える。
水資源も豊富で、水力発電は国家の電気の80%を賄っており、原子力発電は全く必要がない。
つまり、とても安全なエネルギーと豊富な食料を抱えているから、少々為替が動いても国民生活に、日本のような強烈な打撃を与えることはない。
まあ、ニュージーランド人がその事実に気づいているとは思えないが、僕のような立場の人間から見ると、実に恵まれたものだと思う。
今の飽食の時代には思いもつかないだろうが、食料が買えなくなる、または価格が狂乱した場合、誰が一番困るのか?そのためには消費者としてもっと責任を持った判断をして欲しい。
ただ、そういう啓発をすべき人々が、真っ先に頬かむりをしているのが、今の日本の実情である。
2008年02月07日
尾張名古屋
名古屋にてお客様と昼食の後、「まだお時間はありますか?」と聞かれた。この日は余裕があったのでお付き合いしますと答えると、最近改築された徳川美術館(正式名は違うのか?)にお連れして頂いた。
このお客様は非常に白皙(はくせき)で、名古屋でずっと社長業を務め、今はもう引退して、のんびりと余生を過ごしている方だ。いろんなお客様を見てきたが、人間として一流と言うのは、こういう人の事を言うんだなって思わせる。
計算上手や利口やお人よしはいくらでもいるが、全部をバランスよく持ち備えて、尚且つ自分の信念や哲学は、自分で勉強して体得したものをしっかり持っている人は少ない。「天下最も多きは人なり、最も少なきも人なり」とは明治時代の政治家の言葉だが、まさにそのような人である。
だから、他人の受け売りのような薄っぺらさは全くない。そして何より感服するのが、知らない事は知らないと、はっきりと言えることだろう。
人間、妙に学問や知識が付くと、知らないと言えなくなる事がある。きちんと「知らない」って言えるってのは、それは自分に自信を持っている証拠だし、「知らないことは恥ではなく、知ろうとしない事が恥だ」とちゃんと理解している証拠だ。自戒を込めて考えてしまった。
そんな彼に案内されて、徳川美術館でいろんな話を聞く。
僕が興味があったのは、床のタイルを使って広げられた、江戸時代の尾張三河の地図である。
畳一枚分くらいのタイルを使って当時の河川の様子を描いているのだが、とにかくゼロメートル地帯ばかりの平野に、細い糸のような川が交錯している様子がよく分かる。
薩摩藩による治水工事は江戸時代の有名な話だが、実際にこうやって見ると、「こりゃあ、雨が降ると氾濫もするよな」ってのを、実感として納得出来る。
同じ地図を使って、お客様が織田信長の桶狭間の話をしてくれる。優れた情報は優れた武芸者よりも重要である、国を守るものは武芸ではなく経済である。
名古屋の人に地図を見せられながら歴史の話を聞くと、当時の織田信長は、異端児を飛び越して宇宙人のような発想だったのだろうと言う事も納得出来る。
その後、江戸時代の尾張徳川藩の古文書を見る。300年以上も前の文字だが、その自体は実に風格があり、今読んでも鮮明である。特に藩の資料等は文字の体裁よりも見易さを重視していたようで、細文字で文字の間隔をきちんと空けているので、今でも普通に読める。
中には流し文字のような文書もあるが、一個一個文字を拾っていくと、これも何とか読める。
そして圧巻は、源氏物語だ。ひらがなを多用しており、その文字の一つ一つに感情がこもっているから、一枚の文章にした時に、これが一枚の絵として感じることが出来る。
漢字や平仮名は、それ自体が一つの意味を持つ絵であるから、例えばキーウィが大学で日本語を専攻して日本語を書けるようになったと言っても、肝心の文字の美しさを理解出来てないから、どうしてもかな釘文字にさえならない。
紫式部の時代の人々の心の豊かさや感情表現の素晴らしさを実感出来る最高の機会だった。実際に源氏物語の原本は国宝指定されているが、時々は特別に展示されるらしい。時間があれば、是非とも見て見たいものだ。
それにしても、この美術館に収められている資料、明治維新の戦災にも散逸せず、先の大戦でも焼失せず、時を超えて日本の素晴らしさを教えてくれる。
こういう美術館こそ、中学校や航行の授業で是非とも参観してもらいたいものだ。まともな文字も書けない、大人になってもガキみたいな字しか書けないガキオトナも、日本語の美しさを知るという意味でも観てもらいたい。
美術館には庭も併設されており、とても綺麗な冬の花が咲いている。写真がそれである。花の名前、覚えてない。やばし。でも、日本訪問初日から日本の歴史や美しさを見せてもらい、今回の旅がいきなり楽しいものになったのは、言う事もない。
2008年02月05日
香港新年
オークランドを朝9時前に出て、香港には15時過ぎに到着。時差があるので、実質的には11時間かかっている。
今回は観てない新作が多かったので、結局11時間のうち10時間くらいは映画を観た。これでまた、当分ビデオショップに行かなくても良い。
航空会社のビデオ放映に関する著作権はどのようになってるのか知らないが、これだけ無料で映画が観れれば、かなり得をした気がする。
香港に到着すると、周囲はもうすっかりお正月気分だ。香港の正月は2月7日なので、日本で言えば師走と大晦日に向けてまっしぐら、ビルはオーナーの威信をかけて金襴豪華なイルミネーションを身にまとい、夜になるとレーザー光線が空を飛び、その勢いはとどまるところを知らない。
何せオーナー同士の意地の張り合いだ。カネはいくらかかってもよい、よそより良いものを用意せよ!って感じで、まあ観ている僕ら庶民からすれば、お正月の花火よりも余程楽しい。
街には人が溢れ、新聞ではお正月を無事に迎えることが出来ない大陸中国人の記事をどんどん出してる。
ああ、あっちにいなくて良かった、香港に渡ってきた多くの大陸中国人が安堵する瞬間でもある。
それでも彼らにとって今年はまた過ぎていく。来年になれば良くなるさ、必ずどうにかなるさ、そう思ってる誰の心にも、新年おめでとうと言いたい。
戦えよ、戦っている間は、負けることはないんだ、負けなんてのは、それを認めた時が負けであって、認めなければまだ戦闘中、だったら負けてない。
要するに気持ちの持ち方だ。今年も一年、何とか生きてきたんだ、来年もう一年、生きられないわけがない。
そんな気持ちが伝わる香港の夜だった。
2008年02月04日
日本到着
「何で戻ってきたの?」
かなりマジに、奥さんに聞かれた。そりゃそうだ、12日間日本に出張してて、4日オークランドで過ごしただけで、また日本に2週間だ。
「だったら、4日だけ温泉かどこかで過ごして、また仕事に戻ればいいじゃん、そのほうが飛行機代もうくし、効率的よ」
そういった彼女の言葉を、素直に信じたい僕。
でも、オークランドに戻ると、かなり落ち着くのも事実だ。
かなり忙しかった4日だったけど、みんなとしっかり打ち合わせが出来た。
会社の今後の方針、皆がやるべきこと、一人一人と話が出来たのは良かった。
同時に、家族と一緒に食事が出来て、子供と遊べて、これは楽しかった〜。
でもまあ、今日から日本。仕事があるってのは、有難いことだ。さて、働くぞ。
2008年02月03日
2008年02月02日
岩国基地移転
******抜粋開始*******
2008年01月31日
大阪府の次期知事の橋下徹氏(38)は31日、米軍空母艦載機の岩国基地への移転をめぐり、
橋下氏はこの日、府庁の自民党談話室で、福田氏を応援するビデオ撮影に応じた。党本部の菅義偉・選対副委員長から電話で依頼されたという。
その後、報道陣に応援の経緯を説明し、過去のテレビ番組で「岩国の人たちが住民投票をやることには反対」と発言していたことを明かし、「この考えは今も変わらない」と述べた。橋下氏は「直接民主制の住民投票の対象の範囲は、間接代表制をとる日本の法制度上、制限があると思う」と持論を展開した。
同市長選では在日米軍再編に伴う艦載機移転の是非が争点。「反対」派の井原勝介・前市長は2年前、住民投票で圧倒的な「移転反対」の民意を引き出し、直後の市長選でも当選した。しかし、容認派が多数を占める議会と対立して昨年12月に辞職、出直し市長選に再び立候補している。
朝日新聞より
*******抜粋終り********
この問題、いくつかの層に分かれている。
一番下の層は、
次に来るのは、「じゃあ自分だけが助かったら良いのか?他の街に米軍を押し付けてよいのか?」である。
その上に来るのは、「じゃあ米軍が日本に駐留することが、日本の国策として正解なのか?」である。
だから、岩国問題を考えるときは、米軍駐留が日本にとって国益なのかどうか?と言う点から考える必要がある。実は沖縄も同じなのだが、何故か多くの日本人は、本土から遠く離れた島のことを、観光地か外国くらいにしか思ってない。
この問題を考えるときは、国防と言う観点から見れば分かりやすい。2千年前のギリシアの時代から、国防は国家の問題であり、択ばれた者は民主主義を守る為の義務として、時には命を捧げる義務があると言う考え方だった。
だから、徴兵制度がある国においては、国家の命令に逆らう事は許されないのである。勿論ベトナム戦争で発生した徴兵拒否は別問題。あくまでも国防の原則としては、択ばれた国民にNOと言う権利はない。てか、NOって言うなら民主主義を守る原価を払わないのだから、この国から出てけと言うことになる。
その意味で、もし米軍駐留が日本の国防にとって必要なら、徴兵と同じ事で国家が決めたことなので
この点で次期大阪知事のいう事はあってる。
問題はここからで、果たして日本は国家として国民の納得を得た上で国防上の問題として米軍駐留を認めているのか?
そして岩国が米軍にとって最適の選択なのか?他にもっと国防にとって利益のある地域があるのではないか?
何で東京じゃなくて、何で大阪じゃなくて、何で岩国なのだ?
このあたりの説明責任がなされていないのが、今回の問題であろう。日本政府のいつものやり方、「まず答ありき」で、そのための筋書きだけが要領よく官僚の手で作られる。
でも、そんなもんは作文であり、市民が納得しない。だから
じゃあ僕
まずは国家が現在米国の支配下にあるのかどうかを、政府に聞きたい。そして、米国が駐留を求めており、日本としては「戦争に負けた側」だからNOと言えないというなら、僕としてはNOと言うだろう。
何故ならそれは、国防の観点ではなく、征服者の指示だからだ。
だったら逆らう。
今のイラクのように、戦争には負けても国民は戦い続けると言う図式だ。第二次大戦ではフランスでレジスタンス運動が起こったように、岩国が抵抗をすればよい。今の時代、ナチスみたいにレジスタンスを殺すことは出来ない。
問題はその時に、他の地域の国民がどう動くかと言うことだ。果たして岩国の味方をするのか、米国の味方をするのか、俺には関係ね〜よと逃げるのか?
2008年02月01日
河野太郎
以前もちょいと触れたが、うちの子供は国籍を3つ持っている。
その関係で、重国籍(二重ではない、重なるの重だ)問題に日本政府がどう取り組むかってのは他人事ではないので、自民党の「ごまめのはぎしりブログ」を書く衆議院議員「河野太郎」のブログは時々目を通している。
基本的に自民党の中では反主流派なのだと思うが、彼の行動は親父さんと同じで、よく読めない。まあ政治の世界は一寸先は闇なので、ここまで生き残ってきただけで立派な親子と言うべきか。
特に親父さんの発言は右翼にとって最高の槍玉であり、時の流れに関係なく批判されている。
親父さん中国談話が今の日本の中国に対する弱腰を招いたと言う批判をそのまま「お〜、そうだ!」と単純に同調するほどの度胸はないし、政治の世界にそんな簡単な事がないのは今までの読書量の中である程度理解しているつもりだ。
自民党の中のガス抜き派なのか、本当に左翼なのか、実は愛国主義者なのか、とにかく鵺(ぬえ、意味が分からなければ続く文章を参照)のような「読めない存在」とは言いながら、親父が病気になった時に自分の臓器を一つ取って「親父、使えよ」とやったのは、勿論背景は分からないが、結構腹の据わった話だと思う。その一点で個人的に好きである。
その彼の、2008年1月25日のブログから抜粋する。
***********
国籍PT(tom:プロジェクトチーム、つまり企画委員会、ですな)
太田誠一代議士(tom:福岡出身議員です)から、特別永住者に対して届け出で国籍を与える法律案についての趣旨説明。
この法案については、PTで引き続き、各方面からヒアリング(tom:聞き取りとは言わない)していく。
法務省から、昨年一年間の国籍選択の状況報告。
二十二歳になった二重国籍者のうち、国籍選択を行ったのはサンプル調査によれば、わずか一割強しかいない(tom:お、そうか〜)。
国籍選択を求める法律の規定が、政府の不作為で、死文化している。厳密に国籍選択の催告をしていくのか、あるいは二重国籍を容認していくのか、PTで答えを出すべき時がきた。
しかし、相手国がこちら側からの照会、たとえばだれだれはおたくの国籍を離脱しましたかとたずねても、個人情報ということで回答はほとんど来ない。
パスポートにしても同じだ。
つまり、重国籍の場合、こちらの国籍をどうするかということはできても、相手の国籍をどうしろとはなかなか言えない。
* *********抜粋終了***********
相手が国会議員であり、ブログに書く文章であり、批判をするわけではないので、無許可で掲載しても大きな法律問題にはならないだろうと思って掲載するが、掲載責任は僕に100%あるので、万が一訴えられたら、「ごめ〜ん、もう、しないね、たろちゃん」と謝る予定。
しっかしまあ、今まで僕が見てきた立場とは随分違う立場で、法務省の方、対応されてたんですね〜。要するに、実態知ってて放置してたんだ。
法律だけ残して、いつでも取り締まり(とは言っても罰則はない)出来る状態で、要するに法律で白黒つけずに、政府が「伝家の宝刀」を持てる状態で、国民を泳がせてたってわけだな。
法律で明快に「重国籍OK」としてしまえば、それで政府も何も考えなくても良いのに、それでは何かあった時に法務省の発言権が弱まる、それでは弱い政府になるので、足がかりは常に残しておこうって、ずる〜い魂胆だ。このやろう。
そうかそうか、二重国籍なんて、本人が言わない限り分からないし、元々他の国ではOKなところもあるし、犯罪性に全く繋がらないのに、「駄目!」っつのが、そもそも意味不明なんだよね。
それにしても「二重国籍」ではなく「重国籍」としたのは、うちみたいに二重以上の国籍があるってのを事前に予想した言葉選びか?
以前彼のブログで国籍問題を取り上げたとき、僕も外国に住み三重国籍を持つ子供の親として書き込みをしたことがある。勿論、たろちゃんに賛成の立場だ。
国民がどのような選択をするか?それを決めるのは政府ではなくて国民だ。どうしてもやっちゃいけない事だけを政府が規制して、それ以外はOKってのが、本来の国家のあり方だ。
彼の言動には、政治的に右翼か左翼かは分からないが、国民をあふぉ政府のくびきから放てという印象を感じるのは、僕だけだろうか。