2010年03月
2010年03月31日
マセラッティ
マセラッティはニュージーランドで新車で買うと大体30万ドル+くらい。中古車でも20万ドルだ。
日本の新車価格からすれば安いとか東京のお金持ちからすれば安いとかあるかもしれないけれど、ニュージーランド国内で考えてみれば田舎の郊外の一軒家かオークランドのシティ内のアパート一軒分の価値があるんだから、こんなのに乗ってればスーパーリッチである。
今朝は出勤途中のハーバーブリッジの上で偶然にも立て続けに3台の高級車を見かけて、おうおう、どこの国が不況じゃいってな感じ。
たかが3台くらいで威張るな!と言われそうだけど、基本的にお金を遣わなくて渋ちんでどんな古いものでも修理して長い間使う気質のキーウィが、新築アパートを買えるようなお金があれば確実にアパートを買って投資にまわすだろうキーウィがこうやって高級車に乗ってるって事は、彼はすでに投資用アパートもありノースショア郊外に(多分かなり立派な)自宅もあり生活が安定しているからだと推測出来る。
キーウィのお金の使い方は、ある程度お金がたまるとまずは自宅購入から始まる。でもって次はフォードかトヨタのクルマ、これで調子こいて海辺の高級レストランで家族のディナーとなる。
でもって更に余裕が出てくると海外旅行や国内でちっちゃい別荘を買ったりするんだけど、これくらいに生活に余裕が出てきて初めて高級車が視野に入ってくる。
けどクルマくらい直接投資効率の悪いものはない。なにせ買ってから次に売ろうと思えば大体30%くらい価格が下がるし第一スーパーカーなんて燃費も悪いわけで、プリウスの4倍くらいガソリンが必要だ。
それに乗っててぶつければ一回2千ドルくらいの修理費がかかるし部品だって毎回欧州からお取り寄せになるので最低でも1週間くらいは使えない。
それでも乗りたいってのは、勿論クルマdaisukiって事もあるんだろうけど、何よりそれだけ生活に余裕がある証拠だ。
最初に見かけたのは黄色のランボルギーニで、そのすぐ後ろを走ってたのがかろうじて姿を捉えたマセラッティ。でもって左側の車線を見るとピカピカ新型のポルシェがぶんぶん唸ってた。
そうやってふと周囲を見ると、確かにノースショアからシティに向っている車は欧州クルマが多い。
ベンツならSLKだしBMWなら7シリーズなどはごく普通で、最近は車種よりも年式を見て「お、新車じゃん、この国でいつから皆さんは新車に乗るようになったのでしょう??」とびっくりする。
実際にこの国での人口は約400万人、クルマの普及率は二人に一台、つまり200万台のクルマがあるわけで、通常の四人家族ならクルマが二台あるわけで、ところが新車販売台数ってのは総販売台数の10%以下なんだから殆どのクルマが中古車として売買されているのが分かる。
それでもノースショアからシティに行くクルマの流れを見ると、高級車が目立つのは事実である。アジア人でもどこかの奥様だろう、立派なレクサスとか普通に乗ってるしベンツは香港人や大陸中国人奥様がdaisukiである。
ところがこれが国道16号線、つまりオークランドの西を走る高速道路に乗ると、大体のクルマは10年前のシビックだとか20年前のカローラだとか、おお、懐かしい日産サニー2ドアが普通に走ってる。
これはまさに地域格差であり、ノースショア市に住んでいる人々の方がオークランド西部、行政で言えばワイタケレ市あたりに住んでいる人よりもお金持ちであるってことが推測出来る。
これはあくまで推測であり地域別収入比較なんて見たことないから個人的主観でしかないけど、ほんっと、肌感覚では確実にノースショアがリッチであると感じる。
北高南低、東高西低ってのがオークランドの一般的な不動産市場であるが、オークランドを東西南北に分ければ北と東に高級住宅が集中しているし、それには理由がある。
お金持ちはお金が増えるってのは一つに親と子供両方の教育程度の問題があり二つにこの国では資産継承が無税であるって事がいえる。
学校教育を重視する家庭は子供を優秀な学校に入れたいと思う。親からの寄付金と優秀な子供を欲しい学校は授業に力を入れて学校設備を常に整備する。
するとこれがうまく回り始めて、良い学校には自然と寄付金を払える家庭が集まり、その学校は設備が整っているから自然と子供の勉強もはかどり大学に進む子供が増える。
すると自分の子供を大学に通わせたい親はそういう学校のある地域に住むようになる。ある程度の資産がある家庭は自然と優秀な学校に引越しするし、周囲に資産のある家庭の多い学校はさらに設備が整い生徒が優秀になると言う良い循環が生まれる。
でもってその地域が高級住宅街になると自然と治安も良くなるから、安全な地域に住みたいし引越し出来るだけの資産的余裕がある人は自然とその地域に集まってくる。
するっとそういう地域の家庭を狙った高級スーパーマーケットや専門店が集まってモールが出来て中には映画館からレストランまで揃ってて便利になり、今度はその便利さが買われてますます「良い家庭」が集まってくると言うことになる。
それが今のノースショアの流れである。(ちなみに東部は昔からの白人中心で旧家が多い)
この反対に位置づけるのが南部と西部である。
ニュージーランドは学校教育は無料であるが、それでも最低の教育もまともに受けずに卒業してしまう子供たちの親は大体共通点がある。
それは親が教育に無関心てことだ。大学なんて自分が行ったこともないのだけど勝手に「そんなの時間とお金のムダだよ!」と決め付けて15歳になった時点で学校をやめて働きに出される。
または(てか本当の狙い?)子供が失業している間に政府から受け取る補助金を家計に入れさせてそれで終わり。
実際にこの地域では何世代も政府の失業保険で生活している家庭が多い。親が貰ってる失業保険なんだからぼくも貰わなくっちゃってことになる。
けどこの15歳の子供は何の教育もない状態で毎日ぼけ〜っと玄関のポーチに腰掛けて走りすぎるクルマを見てるか、ショッピンセンターで昼間からごろごろして万引きしてみたり(捕まっても殆どの場合は無罪である)、仲間と酒やタバコやマリファナにふけって夜になると空き巣に入ったり(殆どの場合警察は動かないし捕まってもほぼ無罪である)、そうやって社会の底辺を死ぬまで行き続けるしかない。
けどそれでも何とか食っていけるのだからそんな家庭で育った子供は、やっぱり親父のように社会保障で生きていこうとなる。けどそのお金は働いて稼ぐお金に比べたら少ないので、いつまで経っても良い家には住めないし良いクルマにも乗れないし将来の見通しもない。これはまさに負の連鎖である。
大学の卒業式パレードはぼくのオフィスの真下を通るのでいつも見かけるのだけど、やっぱり卒業生の顔は知的だしその子供を誇らしげに見ている両親もしっかりした顔つきをして高級なビデオでパレードを撮ってる。
つまり頑張って大学を卒業することに価値があることを知っている若者が大学に行き、何とか頑張って卒業して高い収入を得るようになり地元でビジネスをやって成功し、結婚して生まれた子供は必然的に親を見ているから自分も頑張って親のように成功したいと思って大学に行き高い収入が取れるという「正の連鎖=良いサイクル」が出来上がる。
これに更に環をかけて良いのが相続制度である。この国ではある程度資産が出来ると家族信託を設立して、家族の財産をすべてそこに移す。こうしておけば資産を一番たくさん入れたお父さんが亡くなったあとも残ったかぞくがその資産を運用して利益を取れる。
つまり相続税が実質ゼロなので、お金があるところには世代をまたげばまたぐだけ資産が増えて行くと言う現象が発生する。
日本では土地もちのお金持ちでも三代続くと財産がなくなる仕組みだけど、ニュージーランドでは三代続くとローン無しの自宅が3軒なんてのも普通にある。
制度そのものが日本と違って、家庭をいかに豊かにさせるか、社会をどうやって安定させるかと言う視点を持っているからこのような現象が現れるのだが、多くの人は現在のオークランドの「現象」がそれなりに安定していると考えている。
頑張ればどんどん上に行ける、何もしなければいつまでも下のまま、けど誰にも平等にこの社会に挑戦する機会は与えられてるし、誰もがこの社会で挑戦して失敗したとしても充分な生活が出来るだけのセーフティネットが構築されている。
その社会構築にかかる費用は人々が働いて得た収入の19.5%のPAYEと12.5%のGST(一般消費税)が中心となっている(この二つで政府税収の約60%を占める)。
消費税は最初から内税なので殆ど認識されることはないしPAYEも19.5%で自分の子供が学校に行けて医療が無料で治安が(他国よりはかなり)守られているのなら安いものだ、多くのまじめな労働者はそう考える。
一生一度も働かなくても無料学校で英語を教えてくれて医療は無料でそれに失業保険で65歳までメシが食えて65歳からは老齢年金がもらえて、まるでオレの生まれ故郷のパシフィックアイランドみたいに毎日ぶらぶらのんびり出来て、これならわざわざ銀行強盗することもないよな、あ、マリファナもOKだもんねと多くの低層者は考える。
そうやって二つの層がなんとか折り合いをつけながら運営されているのがニュージーランド、特にオークランドと言う街だ。
来年からオークランドは市政変更で東西南北の「シティカウンシル」が合併するようになる。これが今後どのようにグレートオークランド全体の変化をもたらすかは今だ誰も不明である。
いずれにしても方向性としては、マセラッティまでは要らないけど30年前の床に穴の空いたシビックプロトタイプには乗りたくないなってのが一般的な人の気持ちなので、あまり格差が広がって治安が悪くならないように、けど働いている人がバカらしく感じて働かなくならないように調整をするのが市役所であり政府である。
その政府の来年の税制改革ではPAYE、つまり働いた人が払う税金を安くする代わりにGST、つまり誰でも生活している限り払わないといけない税金を上げていこうと計画されている。つまり、皆もっと働けって方向ですね。ちなみに今のニュージーランドは国民党政権2年目です。
写真はかろうじてマセラッティの後姿。それにしてもIphone、使い勝手が良いです。最近はデジカメ持ち歩く事もなくなりました。
日本の新車価格からすれば安いとか東京のお金持ちからすれば安いとかあるかもしれないけれど、ニュージーランド国内で考えてみれば田舎の郊外の一軒家かオークランドのシティ内のアパート一軒分の価値があるんだから、こんなのに乗ってればスーパーリッチである。
今朝は出勤途中のハーバーブリッジの上で偶然にも立て続けに3台の高級車を見かけて、おうおう、どこの国が不況じゃいってな感じ。
たかが3台くらいで威張るな!と言われそうだけど、基本的にお金を遣わなくて渋ちんでどんな古いものでも修理して長い間使う気質のキーウィが、新築アパートを買えるようなお金があれば確実にアパートを買って投資にまわすだろうキーウィがこうやって高級車に乗ってるって事は、彼はすでに投資用アパートもありノースショア郊外に(多分かなり立派な)自宅もあり生活が安定しているからだと推測出来る。
キーウィのお金の使い方は、ある程度お金がたまるとまずは自宅購入から始まる。でもって次はフォードかトヨタのクルマ、これで調子こいて海辺の高級レストランで家族のディナーとなる。
でもって更に余裕が出てくると海外旅行や国内でちっちゃい別荘を買ったりするんだけど、これくらいに生活に余裕が出てきて初めて高級車が視野に入ってくる。
けどクルマくらい直接投資効率の悪いものはない。なにせ買ってから次に売ろうと思えば大体30%くらい価格が下がるし第一スーパーカーなんて燃費も悪いわけで、プリウスの4倍くらいガソリンが必要だ。
それに乗っててぶつければ一回2千ドルくらいの修理費がかかるし部品だって毎回欧州からお取り寄せになるので最低でも1週間くらいは使えない。
それでも乗りたいってのは、勿論クルマdaisukiって事もあるんだろうけど、何よりそれだけ生活に余裕がある証拠だ。
最初に見かけたのは黄色のランボルギーニで、そのすぐ後ろを走ってたのがかろうじて姿を捉えたマセラッティ。でもって左側の車線を見るとピカピカ新型のポルシェがぶんぶん唸ってた。
そうやってふと周囲を見ると、確かにノースショアからシティに向っている車は欧州クルマが多い。
ベンツならSLKだしBMWなら7シリーズなどはごく普通で、最近は車種よりも年式を見て「お、新車じゃん、この国でいつから皆さんは新車に乗るようになったのでしょう??」とびっくりする。
実際にこの国での人口は約400万人、クルマの普及率は二人に一台、つまり200万台のクルマがあるわけで、通常の四人家族ならクルマが二台あるわけで、ところが新車販売台数ってのは総販売台数の10%以下なんだから殆どのクルマが中古車として売買されているのが分かる。
それでもノースショアからシティに行くクルマの流れを見ると、高級車が目立つのは事実である。アジア人でもどこかの奥様だろう、立派なレクサスとか普通に乗ってるしベンツは香港人や大陸中国人奥様がdaisukiである。
ところがこれが国道16号線、つまりオークランドの西を走る高速道路に乗ると、大体のクルマは10年前のシビックだとか20年前のカローラだとか、おお、懐かしい日産サニー2ドアが普通に走ってる。
これはまさに地域格差であり、ノースショア市に住んでいる人々の方がオークランド西部、行政で言えばワイタケレ市あたりに住んでいる人よりもお金持ちであるってことが推測出来る。
これはあくまで推測であり地域別収入比較なんて見たことないから個人的主観でしかないけど、ほんっと、肌感覚では確実にノースショアがリッチであると感じる。
北高南低、東高西低ってのがオークランドの一般的な不動産市場であるが、オークランドを東西南北に分ければ北と東に高級住宅が集中しているし、それには理由がある。
お金持ちはお金が増えるってのは一つに親と子供両方の教育程度の問題があり二つにこの国では資産継承が無税であるって事がいえる。
学校教育を重視する家庭は子供を優秀な学校に入れたいと思う。親からの寄付金と優秀な子供を欲しい学校は授業に力を入れて学校設備を常に整備する。
するとこれがうまく回り始めて、良い学校には自然と寄付金を払える家庭が集まり、その学校は設備が整っているから自然と子供の勉強もはかどり大学に進む子供が増える。
すると自分の子供を大学に通わせたい親はそういう学校のある地域に住むようになる。ある程度の資産がある家庭は自然と優秀な学校に引越しするし、周囲に資産のある家庭の多い学校はさらに設備が整い生徒が優秀になると言う良い循環が生まれる。
でもってその地域が高級住宅街になると自然と治安も良くなるから、安全な地域に住みたいし引越し出来るだけの資産的余裕がある人は自然とその地域に集まってくる。
するっとそういう地域の家庭を狙った高級スーパーマーケットや専門店が集まってモールが出来て中には映画館からレストランまで揃ってて便利になり、今度はその便利さが買われてますます「良い家庭」が集まってくると言うことになる。
それが今のノースショアの流れである。(ちなみに東部は昔からの白人中心で旧家が多い)
この反対に位置づけるのが南部と西部である。
ニュージーランドは学校教育は無料であるが、それでも最低の教育もまともに受けずに卒業してしまう子供たちの親は大体共通点がある。
それは親が教育に無関心てことだ。大学なんて自分が行ったこともないのだけど勝手に「そんなの時間とお金のムダだよ!」と決め付けて15歳になった時点で学校をやめて働きに出される。
または(てか本当の狙い?)子供が失業している間に政府から受け取る補助金を家計に入れさせてそれで終わり。
実際にこの地域では何世代も政府の失業保険で生活している家庭が多い。親が貰ってる失業保険なんだからぼくも貰わなくっちゃってことになる。
けどこの15歳の子供は何の教育もない状態で毎日ぼけ〜っと玄関のポーチに腰掛けて走りすぎるクルマを見てるか、ショッピンセンターで昼間からごろごろして万引きしてみたり(捕まっても殆どの場合は無罪である)、仲間と酒やタバコやマリファナにふけって夜になると空き巣に入ったり(殆どの場合警察は動かないし捕まってもほぼ無罪である)、そうやって社会の底辺を死ぬまで行き続けるしかない。
けどそれでも何とか食っていけるのだからそんな家庭で育った子供は、やっぱり親父のように社会保障で生きていこうとなる。けどそのお金は働いて稼ぐお金に比べたら少ないので、いつまで経っても良い家には住めないし良いクルマにも乗れないし将来の見通しもない。これはまさに負の連鎖である。
大学の卒業式パレードはぼくのオフィスの真下を通るのでいつも見かけるのだけど、やっぱり卒業生の顔は知的だしその子供を誇らしげに見ている両親もしっかりした顔つきをして高級なビデオでパレードを撮ってる。
つまり頑張って大学を卒業することに価値があることを知っている若者が大学に行き、何とか頑張って卒業して高い収入を得るようになり地元でビジネスをやって成功し、結婚して生まれた子供は必然的に親を見ているから自分も頑張って親のように成功したいと思って大学に行き高い収入が取れるという「正の連鎖=良いサイクル」が出来上がる。
これに更に環をかけて良いのが相続制度である。この国ではある程度資産が出来ると家族信託を設立して、家族の財産をすべてそこに移す。こうしておけば資産を一番たくさん入れたお父さんが亡くなったあとも残ったかぞくがその資産を運用して利益を取れる。
つまり相続税が実質ゼロなので、お金があるところには世代をまたげばまたぐだけ資産が増えて行くと言う現象が発生する。
日本では土地もちのお金持ちでも三代続くと財産がなくなる仕組みだけど、ニュージーランドでは三代続くとローン無しの自宅が3軒なんてのも普通にある。
制度そのものが日本と違って、家庭をいかに豊かにさせるか、社会をどうやって安定させるかと言う視点を持っているからこのような現象が現れるのだが、多くの人は現在のオークランドの「現象」がそれなりに安定していると考えている。
頑張ればどんどん上に行ける、何もしなければいつまでも下のまま、けど誰にも平等にこの社会に挑戦する機会は与えられてるし、誰もがこの社会で挑戦して失敗したとしても充分な生活が出来るだけのセーフティネットが構築されている。
その社会構築にかかる費用は人々が働いて得た収入の19.5%のPAYEと12.5%のGST(一般消費税)が中心となっている(この二つで政府税収の約60%を占める)。
消費税は最初から内税なので殆ど認識されることはないしPAYEも19.5%で自分の子供が学校に行けて医療が無料で治安が(他国よりはかなり)守られているのなら安いものだ、多くのまじめな労働者はそう考える。
一生一度も働かなくても無料学校で英語を教えてくれて医療は無料でそれに失業保険で65歳までメシが食えて65歳からは老齢年金がもらえて、まるでオレの生まれ故郷のパシフィックアイランドみたいに毎日ぶらぶらのんびり出来て、これならわざわざ銀行強盗することもないよな、あ、マリファナもOKだもんねと多くの低層者は考える。
そうやって二つの層がなんとか折り合いをつけながら運営されているのがニュージーランド、特にオークランドと言う街だ。
来年からオークランドは市政変更で東西南北の「シティカウンシル」が合併するようになる。これが今後どのようにグレートオークランド全体の変化をもたらすかは今だ誰も不明である。
いずれにしても方向性としては、マセラッティまでは要らないけど30年前の床に穴の空いたシビックプロトタイプには乗りたくないなってのが一般的な人の気持ちなので、あまり格差が広がって治安が悪くならないように、けど働いている人がバカらしく感じて働かなくならないように調整をするのが市役所であり政府である。
その政府の来年の税制改革ではPAYE、つまり働いた人が払う税金を安くする代わりにGST、つまり誰でも生活している限り払わないといけない税金を上げていこうと計画されている。つまり、皆もっと働けって方向ですね。ちなみに今のニュージーランドは国民党政権2年目です。
写真はかろうじてマセラッティの後姿。それにしてもIphone、使い勝手が良いです。最近はデジカメ持ち歩く事もなくなりました。
2010年03月30日
中国ネタ2件
口臭予防へニンニク禁止 上海万博の警官に研修
2010.3.27 01:14
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100327/chn1003270114001-n1.htm
同じ事を韓国でやったら、「そんなの民族自律に反する!」とかなるだろな。オリンピックの時に犬料理屋が閉鎖されたのと同じ理屈。
同じ事を日本でやったら、「そんなの政府に言われてするようなことじゃない、当然の礼儀だろ!」となるだろな。
つまり韓国も日本も“犬”や“鯨”や“口臭”を問題にして民族の個性を問題にしたり「こうあるべきだ」とか「こうなるはずだ」の議論をする。
けど中国だとこれが上位下達、「政府が決めて政府が指示する」から一般市民は文句のいいようもないし議論にもならない。
その代わりにこの国ではどうあるべきかなんて「べき論」や「はず論」なんて“食えないネタ”よりも「上に政策あれば下に対策あり」で、目端の利く奴が効果のある口臭予防スプレーを日本のメーカーから緊急輸入し上海市政府にコネをつけて売りつけるだろう。
そしてそれを見た地元の会社は同じようなデザインのスプレーを緊急製造して日本製品の半額くらいで売るだろう、もちろんスプレーの中身はただの化学合成剤で作られたレモン味の水だ。
でもって日本のメーカーが「恐れながら、それってうちのコピーくない?」って文句を言う頃には万博も終了して、作ってたメーカーも「そんなもんうちが作ったんじゃないもんね」と知らんふりだし販売業者も「あ、それ、おれに関係ないもんね」で終わり。
もちろんこれにはオチがあり、レモン味の水と言いながらも実は農薬が使われたりして、万博終了後に「あのスプレーを使ったら舌が痺れて唇がはれ上がった!」とか新聞に取り上げられて日本のメーカーが最初に攻撃対象となる。
でもって日本のメーカーが事実関係を調べもせずに「当社の製品につきましてお客様に多大なご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」なんてドメスティック危機管理方式で最初に謝るもんだからそこで日本のメーカーの「犯罪」が確定して「日本製品不買運動」が起こる。
賠償請求を食らって不買運動を起こされて、それが日本国内でも反響を呼びメーカーの売上は激減、さあ大変だ。でもって半年くらいしてやっと真実が判明する頃は世間の誰もがそんな事件を忘れている。
けどそんな時でも中国の会社はけろっとしたもので、またもせっせと世界で売れてる商品を見つけては中国でコピー製品を作ってお金儲けしているって絵図である。
あげくにお金が儲かったらそのまま海外に飛んで、例えばニュージーランドの永住権申請とかしちゃったりして、なんてのが現実である。結局一人取り残されてバカを見るのが日本企業であるのがいつもの絵柄であることも事実だ。
問題点は明確であり、日本人の気質として「最初はなめてかかり最後には脅えてしまい」と言う、いずれにしても誰が相手か何が問題かを理解も把握もしようとせずにドメスティックに構築された自分の感情だけで判断するから、初動捜査も間違うし事後処理も間違ってしまい、結局は自分に直接関係ない事でも自分が一番被害を蒙るという点である。
それを美徳とするならばそれでも良い。「騙されるほうが騙すより素晴らしい」と思うのはよいが、ならば外国でビジネスをすると言うのも考えないほうが良い。
日本の森と水、むさぼる外資 埼玉や山梨でも山林買収を打診
2010.3.29 01:07
先週のニュースでもニュージーランドの土地や牧場を中国資本が買収し始めている問題で、ジョン・キー首相が「大丈夫、あいつらにもニュージーランドのルールは守らせる」と言ってた。
野党はこれに対して「中国にニュージーランドの農作物生産基準をどれだけ守らせる事が出来るのか?」と非常に不満げである。
どこの国もよく分かってる、一旦中国が乗り出してきたらその資本と行動力であっと言う間に市場を占拠してしまうだろうって事を。
僕はよく日本でもこの話をする。資源が限られた国が出来る事は、今のうちに海外の土地や畑を購入して実質的に自分の食料を確保する事だって。
けど、この話をすると誰もが「いや〜、そりゃこんな問題が〜」とか「いやいや、実際にはこうで〜」と言って必ずNOとなる。
ところが同じ連中が場所を変えて飲み屋なんかで政治ネタを話していると、「日本はもっと国際化しなきゃ」とか「食料自給率が低いのは問題だ!」なんて言ってる。
要するに誰も危機感を持たないし他人任せであり、自分では何も考えようとしないし行動しようともしない。けど飲み屋で文句だけは一人前にしゃべって自己満足に浸っているのだ。
けど中国は常に危機意識を持って国家運営をやっているから、アフリカの土地も買うしニュージーランドの土地も買う、トンガでは衛星を飛ばしているし、とにかく自国内の開発だけでなく世界を視野に入れてどんどん「領土拡大」を行っている。
このあたり、国民性の違いと言うよりも危機感の違いである。
日本にいると日本語が通じるし居心地いいもんね、ましてや1億人の国内消費があるんだから海外なんて見る必要もないってのが殆どの日本人の考える事だろう。
「べき論」とか「はず論」に拘り現実を見ようともせずに日本の携帯電話はガラパゴス化して世界で全く見向きされなくなったのだが、個人ならまだ間に合う。海外に農地を一つくらい買うとか永住権取るとかで自分の生き残る場所や食料を自分で確保すべきだろう。
2010.3.27 01:14
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100327/chn1003270114001-n1.htm
同じ事を韓国でやったら、「そんなの民族自律に反する!」とかなるだろな。オリンピックの時に犬料理屋が閉鎖されたのと同じ理屈。
同じ事を日本でやったら、「そんなの政府に言われてするようなことじゃない、当然の礼儀だろ!」となるだろな。
つまり韓国も日本も“犬”や“鯨”や“口臭”を問題にして民族の個性を問題にしたり「こうあるべきだ」とか「こうなるはずだ」の議論をする。
けど中国だとこれが上位下達、「政府が決めて政府が指示する」から一般市民は文句のいいようもないし議論にもならない。
その代わりにこの国ではどうあるべきかなんて「べき論」や「はず論」なんて“食えないネタ”よりも「上に政策あれば下に対策あり」で、目端の利く奴が効果のある口臭予防スプレーを日本のメーカーから緊急輸入し上海市政府にコネをつけて売りつけるだろう。
そしてそれを見た地元の会社は同じようなデザインのスプレーを緊急製造して日本製品の半額くらいで売るだろう、もちろんスプレーの中身はただの化学合成剤で作られたレモン味の水だ。
でもって日本のメーカーが「恐れながら、それってうちのコピーくない?」って文句を言う頃には万博も終了して、作ってたメーカーも「そんなもんうちが作ったんじゃないもんね」と知らんふりだし販売業者も「あ、それ、おれに関係ないもんね」で終わり。
もちろんこれにはオチがあり、レモン味の水と言いながらも実は農薬が使われたりして、万博終了後に「あのスプレーを使ったら舌が痺れて唇がはれ上がった!」とか新聞に取り上げられて日本のメーカーが最初に攻撃対象となる。
でもって日本のメーカーが事実関係を調べもせずに「当社の製品につきましてお客様に多大なご迷惑をおかけして誠に申し訳ございません」なんてドメスティック危機管理方式で最初に謝るもんだからそこで日本のメーカーの「犯罪」が確定して「日本製品不買運動」が起こる。
賠償請求を食らって不買運動を起こされて、それが日本国内でも反響を呼びメーカーの売上は激減、さあ大変だ。でもって半年くらいしてやっと真実が判明する頃は世間の誰もがそんな事件を忘れている。
けどそんな時でも中国の会社はけろっとしたもので、またもせっせと世界で売れてる商品を見つけては中国でコピー製品を作ってお金儲けしているって絵図である。
あげくにお金が儲かったらそのまま海外に飛んで、例えばニュージーランドの永住権申請とかしちゃったりして、なんてのが現実である。結局一人取り残されてバカを見るのが日本企業であるのがいつもの絵柄であることも事実だ。
問題点は明確であり、日本人の気質として「最初はなめてかかり最後には脅えてしまい」と言う、いずれにしても誰が相手か何が問題かを理解も把握もしようとせずにドメスティックに構築された自分の感情だけで判断するから、初動捜査も間違うし事後処理も間違ってしまい、結局は自分に直接関係ない事でも自分が一番被害を蒙るという点である。
それを美徳とするならばそれでも良い。「騙されるほうが騙すより素晴らしい」と思うのはよいが、ならば外国でビジネスをすると言うのも考えないほうが良い。
日本の森と水、むさぼる外資 埼玉や山梨でも山林買収を打診
2010.3.29 01:07
先週のニュースでもニュージーランドの土地や牧場を中国資本が買収し始めている問題で、ジョン・キー首相が「大丈夫、あいつらにもニュージーランドのルールは守らせる」と言ってた。
野党はこれに対して「中国にニュージーランドの農作物生産基準をどれだけ守らせる事が出来るのか?」と非常に不満げである。
どこの国もよく分かってる、一旦中国が乗り出してきたらその資本と行動力であっと言う間に市場を占拠してしまうだろうって事を。
僕はよく日本でもこの話をする。資源が限られた国が出来る事は、今のうちに海外の土地や畑を購入して実質的に自分の食料を確保する事だって。
けど、この話をすると誰もが「いや〜、そりゃこんな問題が〜」とか「いやいや、実際にはこうで〜」と言って必ずNOとなる。
ところが同じ連中が場所を変えて飲み屋なんかで政治ネタを話していると、「日本はもっと国際化しなきゃ」とか「食料自給率が低いのは問題だ!」なんて言ってる。
要するに誰も危機感を持たないし他人任せであり、自分では何も考えようとしないし行動しようともしない。けど飲み屋で文句だけは一人前にしゃべって自己満足に浸っているのだ。
けど中国は常に危機意識を持って国家運営をやっているから、アフリカの土地も買うしニュージーランドの土地も買う、トンガでは衛星を飛ばしているし、とにかく自国内の開発だけでなく世界を視野に入れてどんどん「領土拡大」を行っている。
このあたり、国民性の違いと言うよりも危機感の違いである。
日本にいると日本語が通じるし居心地いいもんね、ましてや1億人の国内消費があるんだから海外なんて見る必要もないってのが殆どの日本人の考える事だろう。
「べき論」とか「はず論」に拘り現実を見ようともせずに日本の携帯電話はガラパゴス化して世界で全く見向きされなくなったのだが、個人ならまだ間に合う。海外に農地を一つくらい買うとか永住権取るとかで自分の生き残る場所や食料を自分で確保すべきだろう。
2010年03月29日
企業内特殊技能
池田信夫の新作「使える経済書100冊」の序文より抜粋。
「日本航空でさえ破綻する時代に、あなたの勤務している会社が定年まで存在する保証はどこにもない。いくら会社に忠誠を尽くしても、「企業特殊的技能」は会社がなくなったら何の価値もない。最後に頼れるのは、自分の専門知識だけである。」
まさにそのとおりなのだけど、そのとおりと思ってない、つまり企業内特殊技能が世界の何処でも通用すると思っている人の多い事にはびっくりする。とくにそれを実感するのは東京で行う説明会や個人面談の時である。
とくにこういう思い込みの強い人々をぼくの経験であげてみると、まずは超大手企業で働く超一流大学卒業の人々である。
社員数万人の会社ってのは使用する稟議書から契約書から社内ネット環境、ビジネススタイルまですべて自前で作るから「その企業だけのやり方」ってのがあって、学生からいきなりそういう企業に入ってしまうと純粋培養で成長してしまうから、世の中にはもっと違う現実も存在すると言うことが理解出来なくなる。
彼らは子供の頃から優秀な親に毎日のように「隣のxxちゃんに負けちゃだめよ、いいわね、人生で失敗したら渋谷駅でござの上に寝てるおじさんみたいになるのよ」と教え込まれ、とにかく試験に通る為だけの勉強をしてきてる。
親に言われる事をそのまま真実と思い込んでそれ以外に一切の疑問を持たないまま大人になるから、何かを疑うと言うことがない。
自分が歩いてきた道が、実は世界標準からすれば異常であり日本国内の、それも今と言う時代でしか通用しない特殊技能だということを理解出来ないままに社会に参加して社内結婚しているもんだからますます世間の常識から外れていく。
まあ常識はずれと言うよりもある意味むちゃくちゃ純粋で自分の生きてる世界だけが世の中のすべてと思っているから、当社の説明会に来た人で「何でそんなに言われなくちゃいけないんだ、プライド捨てるとか収入激減とか、おれがそうなるわけないだろう!」と内心怒って帰る人もいるのも事実。
何故なら説明会では参加者が聞きたくない「移住失敗話」もするんだけど、その時には当然「何で失敗するの?」と言う質問が出てくる。
大体において移住してもうまくいかない原因は、日本企業にいた時のような「卒業した大学や以前の企業の看板、肩書きが通用して誰も尊敬してくれるし褒めてもくれる」ことを期待して地元の人々と接しても誰もそんなのを聞きもしないし、知ったところで「あ、そ、ところでちゃんとごみ出ししてる?」である。ここでプライドが傷付けられてしまい、今までの人生でそんなことなんて一度もなかったから挫折してしまうのだ。
また日本向けには「ぼくの会社なんて日本の誰も知らないし、収入が激減して日本の友達や家族に恥ずかしくて言えない」のもある。
日本の会社の元同僚からは「大企業に残れば地位と収入が保証されていたのにそんな聞いた事もないちっちゃな会社で働いてるって言うし、聞いたら給料も半分以下じゃないか、あいつ、やっぱりルーザーだよ」と思われることを知っているからだ。
ここで本人の忍耐力が大事となるのだけど、説明会でこの点を細かく説明して「それでもあなたは移住しますか?我慢出来ますか?」と聞くのだ。果たしてあなたは今までの社会的地位と収入を捨ててでもニュージーランドの生活が出来ますか?
ニュージーランドにおいては誰も会社の肩書きで付き合いはしないし、転職が当然の社会では肩書きよりも本人の専門能力が評価される。会社にいるだけでは誰も評価してくれないのだ。
その専門能力というのもほんとの意味で専門であり例えば金融と言えば稟議書を書くことではなくいかにして資金を有効活用するか、その為に自分が学校で学んだファンドの作り方やファイナンス理論に合わせた投資や様々なパーティに顔を出して人脈を作ることなど、様々な能力が要求される。
つまり本人は稟議書の書き方を知っているから金融ビジネスをしているつもりでも、それは専門知識とは言われない。会社が換われば全く無意味になる知識は金融知識とは呼ばない。
優秀な小学校を卒業して立派な中学校に入って素晴らしい高校を卒業して最高の大学に入学してまるで人生がばら色みたいな、親からすれば自分の期待をすべて背負ってくれたような子供はとかく人のいう事を良く聞く。
何も疑問を持たずに会社に入社すると、その会社の形式で作られた稟議書とか企画書とか説明書だとか、とにかくその会社でしか通用しない書類を山ほど見せられて、「これが金融だ!これが社会だ!」と教え込まれる。
とにかくその形式ですべてをやらんといかんから、他に方法があるんじゃないかなんて考える事もせずに、ひたすら「その会社でしか通用しない書類とルール」で行動する。
そして10年もすれば立派なビルの中の立派なオフィスの中の立派な机に坐って素晴らしい肩書きの名刺を持ち周囲は「いよ!課長補佐!」と褒めてくれて、サラ金に行けば無条件で100万円くらい借りられて合コンに行けば無条件で女が顔色を変えて迫ってくれる。
しかしそんなばら色の人生はニュージーランドでは通用しないと言う現実があることが説明会で語られる。
「あなたが知っている技能は海外では全く役に立ちません」
「銀行で何年働いたとしても、しょせんは自転車で中小企業の親父さんの自宅で今日の売上を回収したり、上司に言われた意味不明の商品を意味不明な中小企業の親父さんに売り込むか、精々は大企業のオフィスで経理担当者とお互いに相手を褒めあって上司に言われた事を伝えて書類を企画どおりに揃えてお互いの上司に出して頭をなでられて“良い子良い子”してもらってるわけでしょ」
「けどそれは海外の金融機関ではあり得ない話であり、取引関係者と実務的に英語が出来て相手と同等の金融知識を持ち相手に利益が出るような提案が出来てそれでいて最後には“にこっ”って笑顔でいられる能力が要求されるんですよ」と言われる。
そんな金融知識なんてもん、見たことも聞いたこともない金融関係者は、自分が入社したばかりの頃に自転車でお得意様を回って集金したお金をカバンに入れて無事に銀行に持って帰るのが仕事だったし、ちょいと偉くなってからは大企業の経理部門に行って同じ年くらいの担当者とお互いに“いかにもおれたちエリートだよね、クーラーの効いた立派なオフィスの中でこうやって大きなお金の話をしているんだもんね”とタバコをぷかぷかしながらやってた自分の生活を否定されたわけだから、こりゃもうびっくりである。
そこで当然金融関係者はぼくに対して「君は一体ぼくの何を知っているというのだ、なぜ僕が考える事が成功しないなんていえるんだ、だいたい君は何様だ!」となる。
しかし現実は現実なのだ。移住一世の一番大事な問題点は理不尽な人種差別ではなく自分の心に棲んでいる「エリート感覚」なのだ。
こういう場合いろんな説明方法がある。けれど彼に対して懇切丁寧に「世界のあり方から始まって日本社会の(世界と比較した場合の)不合理さ、そしてそれがある時点では日本の強みになってたけれど時代が変ったら弱さになってしまい、合理的に行うべきビジネスが不合理と言うOSの上に乗っかっているからあちこちでバグを起こしているんだけど誰もそれを止める事が出来ないまま21世紀に突入している」ことを教えるのは移住説明会の趣旨ではない。それは池田信夫の本を買って読んでもらうしかない。
ぼくはあくまでも有料で開催された説明会の趣旨として、参加者の皆さんに良い面も悪い面も合わせて事実を説明するのが仕事だと思っている。
その悪い面を伝えると言うのがさきほども書いたけど「耐えられないほどの社会的地位の低下」と「恥ずかしいほどの収入の激減」である。これに耐えられますか?
だから僕は個人的に思うのは、企業内特殊技能を持ち、それに何の疑問も抱かずに生きていける能力を持っている人はそのまま日本で生活をすべきだし、間違って海外に行く場合でもそれは駐在員と言う「東京を向いた風見鶏」になれる自信がある場合に限るということだ。
「日本航空でさえ破綻する時代に、あなたの勤務している会社が定年まで存在する保証はどこにもない。いくら会社に忠誠を尽くしても、「企業特殊的技能」は会社がなくなったら何の価値もない。最後に頼れるのは、自分の専門知識だけである。」
まさにそのとおりなのだけど、そのとおりと思ってない、つまり企業内特殊技能が世界の何処でも通用すると思っている人の多い事にはびっくりする。とくにそれを実感するのは東京で行う説明会や個人面談の時である。
とくにこういう思い込みの強い人々をぼくの経験であげてみると、まずは超大手企業で働く超一流大学卒業の人々である。
社員数万人の会社ってのは使用する稟議書から契約書から社内ネット環境、ビジネススタイルまですべて自前で作るから「その企業だけのやり方」ってのがあって、学生からいきなりそういう企業に入ってしまうと純粋培養で成長してしまうから、世の中にはもっと違う現実も存在すると言うことが理解出来なくなる。
彼らは子供の頃から優秀な親に毎日のように「隣のxxちゃんに負けちゃだめよ、いいわね、人生で失敗したら渋谷駅でござの上に寝てるおじさんみたいになるのよ」と教え込まれ、とにかく試験に通る為だけの勉強をしてきてる。
親に言われる事をそのまま真実と思い込んでそれ以外に一切の疑問を持たないまま大人になるから、何かを疑うと言うことがない。
自分が歩いてきた道が、実は世界標準からすれば異常であり日本国内の、それも今と言う時代でしか通用しない特殊技能だということを理解出来ないままに社会に参加して社内結婚しているもんだからますます世間の常識から外れていく。
まあ常識はずれと言うよりもある意味むちゃくちゃ純粋で自分の生きてる世界だけが世の中のすべてと思っているから、当社の説明会に来た人で「何でそんなに言われなくちゃいけないんだ、プライド捨てるとか収入激減とか、おれがそうなるわけないだろう!」と内心怒って帰る人もいるのも事実。
何故なら説明会では参加者が聞きたくない「移住失敗話」もするんだけど、その時には当然「何で失敗するの?」と言う質問が出てくる。
大体において移住してもうまくいかない原因は、日本企業にいた時のような「卒業した大学や以前の企業の看板、肩書きが通用して誰も尊敬してくれるし褒めてもくれる」ことを期待して地元の人々と接しても誰もそんなのを聞きもしないし、知ったところで「あ、そ、ところでちゃんとごみ出ししてる?」である。ここでプライドが傷付けられてしまい、今までの人生でそんなことなんて一度もなかったから挫折してしまうのだ。
また日本向けには「ぼくの会社なんて日本の誰も知らないし、収入が激減して日本の友達や家族に恥ずかしくて言えない」のもある。
日本の会社の元同僚からは「大企業に残れば地位と収入が保証されていたのにそんな聞いた事もないちっちゃな会社で働いてるって言うし、聞いたら給料も半分以下じゃないか、あいつ、やっぱりルーザーだよ」と思われることを知っているからだ。
ここで本人の忍耐力が大事となるのだけど、説明会でこの点を細かく説明して「それでもあなたは移住しますか?我慢出来ますか?」と聞くのだ。果たしてあなたは今までの社会的地位と収入を捨ててでもニュージーランドの生活が出来ますか?
ニュージーランドにおいては誰も会社の肩書きで付き合いはしないし、転職が当然の社会では肩書きよりも本人の専門能力が評価される。会社にいるだけでは誰も評価してくれないのだ。
その専門能力というのもほんとの意味で専門であり例えば金融と言えば稟議書を書くことではなくいかにして資金を有効活用するか、その為に自分が学校で学んだファンドの作り方やファイナンス理論に合わせた投資や様々なパーティに顔を出して人脈を作ることなど、様々な能力が要求される。
つまり本人は稟議書の書き方を知っているから金融ビジネスをしているつもりでも、それは専門知識とは言われない。会社が換われば全く無意味になる知識は金融知識とは呼ばない。
優秀な小学校を卒業して立派な中学校に入って素晴らしい高校を卒業して最高の大学に入学してまるで人生がばら色みたいな、親からすれば自分の期待をすべて背負ってくれたような子供はとかく人のいう事を良く聞く。
何も疑問を持たずに会社に入社すると、その会社の形式で作られた稟議書とか企画書とか説明書だとか、とにかくその会社でしか通用しない書類を山ほど見せられて、「これが金融だ!これが社会だ!」と教え込まれる。
とにかくその形式ですべてをやらんといかんから、他に方法があるんじゃないかなんて考える事もせずに、ひたすら「その会社でしか通用しない書類とルール」で行動する。
そして10年もすれば立派なビルの中の立派なオフィスの中の立派な机に坐って素晴らしい肩書きの名刺を持ち周囲は「いよ!課長補佐!」と褒めてくれて、サラ金に行けば無条件で100万円くらい借りられて合コンに行けば無条件で女が顔色を変えて迫ってくれる。
しかしそんなばら色の人生はニュージーランドでは通用しないと言う現実があることが説明会で語られる。
「あなたが知っている技能は海外では全く役に立ちません」
「銀行で何年働いたとしても、しょせんは自転車で中小企業の親父さんの自宅で今日の売上を回収したり、上司に言われた意味不明の商品を意味不明な中小企業の親父さんに売り込むか、精々は大企業のオフィスで経理担当者とお互いに相手を褒めあって上司に言われた事を伝えて書類を企画どおりに揃えてお互いの上司に出して頭をなでられて“良い子良い子”してもらってるわけでしょ」
「けどそれは海外の金融機関ではあり得ない話であり、取引関係者と実務的に英語が出来て相手と同等の金融知識を持ち相手に利益が出るような提案が出来てそれでいて最後には“にこっ”って笑顔でいられる能力が要求されるんですよ」と言われる。
そんな金融知識なんてもん、見たことも聞いたこともない金融関係者は、自分が入社したばかりの頃に自転車でお得意様を回って集金したお金をカバンに入れて無事に銀行に持って帰るのが仕事だったし、ちょいと偉くなってからは大企業の経理部門に行って同じ年くらいの担当者とお互いに“いかにもおれたちエリートだよね、クーラーの効いた立派なオフィスの中でこうやって大きなお金の話をしているんだもんね”とタバコをぷかぷかしながらやってた自分の生活を否定されたわけだから、こりゃもうびっくりである。
そこで当然金融関係者はぼくに対して「君は一体ぼくの何を知っているというのだ、なぜ僕が考える事が成功しないなんていえるんだ、だいたい君は何様だ!」となる。
しかし現実は現実なのだ。移住一世の一番大事な問題点は理不尽な人種差別ではなく自分の心に棲んでいる「エリート感覚」なのだ。
こういう場合いろんな説明方法がある。けれど彼に対して懇切丁寧に「世界のあり方から始まって日本社会の(世界と比較した場合の)不合理さ、そしてそれがある時点では日本の強みになってたけれど時代が変ったら弱さになってしまい、合理的に行うべきビジネスが不合理と言うOSの上に乗っかっているからあちこちでバグを起こしているんだけど誰もそれを止める事が出来ないまま21世紀に突入している」ことを教えるのは移住説明会の趣旨ではない。それは池田信夫の本を買って読んでもらうしかない。
ぼくはあくまでも有料で開催された説明会の趣旨として、参加者の皆さんに良い面も悪い面も合わせて事実を説明するのが仕事だと思っている。
その悪い面を伝えると言うのがさきほども書いたけど「耐えられないほどの社会的地位の低下」と「恥ずかしいほどの収入の激減」である。これに耐えられますか?
だから僕は個人的に思うのは、企業内特殊技能を持ち、それに何の疑問も抱かずに生きていける能力を持っている人はそのまま日本で生活をすべきだし、間違って海外に行く場合でもそれは駐在員と言う「東京を向いた風見鶏」になれる自信がある場合に限るということだ。
2010年03月28日
民主主義、民族自決、アフリカ
昨日から続く。日本においては民主主義を導入することで一定の成果を得た米国であるが、ところがこれが地下資源が豊富な国でありその地上に住んでいる人民に用はないとなったら西洋的資本主義は過激な行動を取る。
それがアフリカにおいて行われた主に英国によるクーデター、軍事革命だ。
アフリカにおいては最初はまず奴隷貿易の対象としてアフリカ国民が拉致されて船で新大陸に送り込まれた。
ところが20世紀になり工業化が進むと、車の触媒に使う材料とかもちろんダイアや金が続々とアフリカ大陸から産出されるようになった。
そうなればもう奴隷貿易も出来なくなったんだし、いかに地下資源をアフリカ国民から奪い取るかである。
ワイルドギースという有名な映画があるが、これなどまさに当時のアフリカを象徴している。
なにせ労働力は役立たないのであるから、いちいち民主主義など面倒なことをやっているよりも、英国や欧州のいう事を聞かない政治家は反対派部族を使ってクーデターを起こして一気に政権をひっくり返せば良いのだ。
こうして当時のアフリカ国家は年中行事のように部族間抗争が行われそれが内戦になりその度に政権が引っくり返るのだが、反対派に武器を渡しているのは欧州の武器商人であり、その代金はアフリカの地下に眠る貴金属等の資源なのだ。
アフリカ大陸の多くはもともときちんとした中央政府が存在せず、部族がそれぞれ独立していたのもアフリカの悲劇の一つであろう。
アフリカが独立されて賢くなられて国民が自立する手段を持って一番困るのは、自分たちの利権を奪われてしまう英国および欧州である。
だからアフリカでは彼らが自立出来る様な産業の発展や教育の普及などはやらず、病院設備もほどほどにして出来るだけたくさんの子どもが死ぬようにしておいて「食糧援助」や「医療援助」などを行っているのが現状である。
ところがその食糧・医療援助も実は「やらせ」であり、国連経由で送られてきた物資は殆ど全てが途中で権力者に強奪されてしまい、本当に困っている人たちには渡らないようにする。
更に言えば国連が行う各種「援助」の為の食料や医療器具の購入はそれぞれの国の税金で賄われているだから、権力者からすれば自分の手を全く汚さずに丸儲け出来る仕組みなのである。
こうやってアフリカは食い物にされてきたが、その責任の半分は英国や欧州の魔の誘惑に乗って自国を売り飛ばした民族にもある。
明治維新の日本のように国が一丸となって外敵と戦えば彼らを追い返すことが出来たにもかかわらず、アフリカの多くの民族は目先の利益や自分の利益だけを考えてしまい、結局全体の利益を理解することが出来ずに現在のような体たらくになったのも事実である。
このバーでアフリカ人が訴えているのは、自国の為に何かをしてくれではない。援助を寄こせ、もっと寄こせの一点張りなのだ。困ったような顔をした英国人ビジネスマンたちは、時々周囲を見ながら「おいおい、あんまり大声で話すなよ」と静まらせようとしてた。
10分ほどで僕は席を立ってロビーに戻ったのだが、彼もトイレに立ったのだろう僕のすぐ横を通り過ぎていった。その瞬間、彼がちらっと僕を振り返ってウインクした。まるで「おいアジア人、どうだ今のオレの駆け引きは?」と声を掛けられたような気がした。
まだまだだよ、アフリカン。あいつらをやっつけるのはアジアに任せておきな。
それがアフリカにおいて行われた主に英国によるクーデター、軍事革命だ。
アフリカにおいては最初はまず奴隷貿易の対象としてアフリカ国民が拉致されて船で新大陸に送り込まれた。
ところが20世紀になり工業化が進むと、車の触媒に使う材料とかもちろんダイアや金が続々とアフリカ大陸から産出されるようになった。
そうなればもう奴隷貿易も出来なくなったんだし、いかに地下資源をアフリカ国民から奪い取るかである。
ワイルドギースという有名な映画があるが、これなどまさに当時のアフリカを象徴している。
なにせ労働力は役立たないのであるから、いちいち民主主義など面倒なことをやっているよりも、英国や欧州のいう事を聞かない政治家は反対派部族を使ってクーデターを起こして一気に政権をひっくり返せば良いのだ。
こうして当時のアフリカ国家は年中行事のように部族間抗争が行われそれが内戦になりその度に政権が引っくり返るのだが、反対派に武器を渡しているのは欧州の武器商人であり、その代金はアフリカの地下に眠る貴金属等の資源なのだ。
アフリカ大陸の多くはもともときちんとした中央政府が存在せず、部族がそれぞれ独立していたのもアフリカの悲劇の一つであろう。
アフリカが独立されて賢くなられて国民が自立する手段を持って一番困るのは、自分たちの利権を奪われてしまう英国および欧州である。
だからアフリカでは彼らが自立出来る様な産業の発展や教育の普及などはやらず、病院設備もほどほどにして出来るだけたくさんの子どもが死ぬようにしておいて「食糧援助」や「医療援助」などを行っているのが現状である。
ところがその食糧・医療援助も実は「やらせ」であり、国連経由で送られてきた物資は殆ど全てが途中で権力者に強奪されてしまい、本当に困っている人たちには渡らないようにする。
更に言えば国連が行う各種「援助」の為の食料や医療器具の購入はそれぞれの国の税金で賄われているだから、権力者からすれば自分の手を全く汚さずに丸儲け出来る仕組みなのである。
こうやってアフリカは食い物にされてきたが、その責任の半分は英国や欧州の魔の誘惑に乗って自国を売り飛ばした民族にもある。
明治維新の日本のように国が一丸となって外敵と戦えば彼らを追い返すことが出来たにもかかわらず、アフリカの多くの民族は目先の利益や自分の利益だけを考えてしまい、結局全体の利益を理解することが出来ずに現在のような体たらくになったのも事実である。
このバーでアフリカ人が訴えているのは、自国の為に何かをしてくれではない。援助を寄こせ、もっと寄こせの一点張りなのだ。困ったような顔をした英国人ビジネスマンたちは、時々周囲を見ながら「おいおい、あんまり大声で話すなよ」と静まらせようとしてた。
10分ほどで僕は席を立ってロビーに戻ったのだが、彼もトイレに立ったのだろう僕のすぐ横を通り過ぎていった。その瞬間、彼がちらっと僕を振り返ってウインクした。まるで「おいアジア人、どうだ今のオレの駆け引きは?」と声を掛けられたような気がした。
まだまだだよ、アフリカン。あいつらをやっつけるのはアジアに任せておきな。
2010年03月27日
友愛と民主主義の結果
民主主義の根幹にあるのは全員参加の政治である。全員で情報を共有して同じ情報を皆が自分の価値観に合わせて評価して、自分の意見を述べる。
最終的には多数決原則が導入されるが、これが嫌ならその国を出れば良いし、今回は自分の意見は通らなかったけど他人の価値観もよく分かるから納得もする、次回は自分の意見を述べてみようと、そのまま国に残る人もいる。
そしてある程度国民が増えるとさすがに話し合うことも多くなり直接民主主義では効率が悪く適応しなくなるので、今度はそれぞれの国民が自分の意見に合った代表を選挙で選び、代表同士で議論をさせる「間接民主主義」が導入されて、そこで選挙によって選ばれた人が議論をぶつけて最終的には多数決で決定していくものだ。
ではこの民主主義方程式のどこに問題があるのか?民衆が自分の事を自分で決める民族自決主義であることに何の問題があるのか?
実はこれ自体は問題ない。けどこれも地球温暖化と同じで、理屈は立派なんだけど運用においては細部にたくさんの技術的な問題点があり、正確な答を導き出すには日本人が得意とする、てか他に解決方法を知らない「YESかNOか」では絶対に答が出てこない仕組みになっているから本当の問題がうまく隠されている、困りもの方程式なのだ。
では逆に聞いてみよう。もし本来は全員が共有すべき情報が一部にしか流れず多くの人が知らない状態で何かを判断するとなったらどうだろう。または情報を操作して多くの国民にはわざと一部の事しか教えずにそこで判断を要求した場合はどうなるだろう?
例えば第二次大戦当時の朝日新聞は、日本が戦場で負ける度に「勝った勝った!」と報道した歴史的事実はある。新聞に書いてある情報がすべての人々からすれば、戦争で勝っているんだから政府はもっとイケイケ!となる。もっと戦地にヘイタイを送り込め、鬼畜米英をやっつけろとなる。
現実は日本軍はミッドウェイで大敗しガダルカナルで部隊が殲滅させられソロモン諸島で空母が沈められ、次々と太平洋から撤退していったのだ。
けれどそんな事実を知らない国民は、目先の情報で判断して、誰も停戦や交渉等を言い出す人は(殆ど)いなかった。
さあ、あなたは朝日新聞で毎日書かれている「日本勝利!アジア解放、鬼畜欧米の植民地からアジア人民を解放、正義を実現するまで戦い抜きましょう!」の記事を読んだあとに「お前はどうするのだ!」と言われたら、どうします?
与えられた情報で判断する限り、どうやっても「お、おお、おれだって戦争賛成だ!」としかなりませんよね。
それに更に警察権力が国家に反逆する人々を逮捕虐殺しては「アカは狂信的テロリスト集団である!」とやってるのを目の当たりに見て、誰が「これ、おかしくない?」と言えるか?「君、死にたもうなかれ」なんて言ってられないんだ。
結果的に国家が情報統制を行い警察が国家の手先として活動した場合、その国では民主主義は機能しなくなり、民主主義の名前を借りた独裁国家となってしまう。
これが民主主義国家での情報公開の何よりも大事な点であり民主主義の根幹をなす部分であるからジャーナリズムが一定の発言力をもてるし憲法でも発言の自由を認めているのだ。
それでも民主主義を導入している場合、選挙という方法で独裁政府をひっくり返す方法もある。これも民主主義を担保する素晴らしい仕組みだ。
けどここにも裏がある。選挙は実は操作出来るのだ。
皆さんは選挙のたびに政党が相手側のスキャンダルを暴露したりするのを見てるが、正しい情報かどうかが判らないない状態スキャンダルが事実なのか、政治家の発言が「どこかの国」に操られていないってのをどうやって見分けるのか?
テレビ局で偉そうに話している評論家と呼ばれる連中が中国寄りの発言をする時に、彼が中国からお金をもらってないなんて誰が保証出来るか?(実際には左翼は中国からの金を受け取っているのは社会党が存在した頃から明確です)
またその反対に親米派と呼ばれる評論家や学者や政治家が米国から操られ、米国からある時はお金を貰い、ある時は逆らって殺され、ある時はどっかの官僚のように米国の物覚えが良いおかげで中央官庁で出世出来て、そんな事実がないって誰が保証出来るか?
要するに選挙の際に行われる政党や政治家の発言も、それが本当に国民の為になることを訴えているのかどうか、それを判断する情報も基準もないってのが選挙の問題点なのである。
つまり自分たちが主権者のように思い込まされているが、実はそれが巧妙に仕組まれた情報操作と政治家操作によって、その後ろにいる世界の大国の意志のままに操られていることを気付かないそんな状態で選挙に参加しても、正しい答を出せるのか?
スキャンダルとテレビや新聞を利用した情報操作で常に自分たちのお気に入りの政党が勝つように仕組む事は決して難しいことではない。すでにある程度世間では知られているが、読売新聞の中興の祖である正力松太郎氏はCIA要員だったし、岸元首相も同様に米国の指示を受けていた。
ここで一つ断っておかねばならないが、日本の戦後の政治家はそれほど単純でもバカでもない。そして官僚たちも素晴らしい知能と教養を持った人々であった。
戦争に負けた彼らは米国の強さを知り、面従腹背と言う方法で時にはCIAのお手伝いをしたり時には米国の意志を「社会党がですね〜、反対なんですよね」とかうまく言い訳を作って日本国家を再生させたのだから、それは独裁主義が成功したという意味では稀有の歴史であり、それは正しく評価されるべきだと思う。
ある情報を隠しある情報を誇張し選挙では常に自民党が勝つけど野党としての社会党は温存させて、米国と中国と言う二大大国の間で渡り歩いたのだからたいしたものである。
ただしそれでも、情報操作と利益誘導という部分においてそれは民主主義ではなかったという点では事実なのだ。
時に世間は皮肉なもので、そうやって世界中の国を支配しようとしていた大国に逆らい、日本でも国民の圧倒的人気を得て選挙で勝って国民を洗脳から解かせようとする政治家も出てきた。
ここで出てくるのが米国のCIAによる国家操作、つまり実力行使である。
まずは米国に従わない政治家に「独裁主義者」と言うレッテルを貼る。レッテルを貼るのはその国の「学者」や「評論家」や「マスコミ」と呼ばれる、何らかの理由で米国から利益を得ている連中だ。
彼らからすれば自分の(例えば米国によって作られた女性問題や賄賂)スキャンダルをばらされても困るし、黙って米国のいう事を聞いてその流れに沿って発言すればカネが貰えるのだから文句はない。
日本国民?あんなバカども、どうでもいいよ、僕ぁは優秀な大学を出た賢い学者だし日本社会のためにずっと役立ってるんだ、そんなボクの生活は日本国民より大事なんだって理屈である。
そして次がいよいよ実力行使、CIAによって作られた政治家スキャンダルをバンバンとメディアに書かせるのだ。人間なんて面白いもので、嘘でも100回繰り返せば信じてしまう。
スキャンダルを半年くらい繰り返して、いよいよ国民も「それって、事実なんだろな」って思った頃に検察が動いて政治家を逮捕して件(くだん)の政治家を排除するのである。
日本は田中角栄がスキャンダルでやられ、小沢も刑務所の塀の上をぎりぎりのところで歩かされた。
日本のことを考えて行動した田中を売ったのは田中の子分であった竹下元総理などだが、田中はそれ以来生きている間は売国奴である彼らに目白御殿の敷居をくぐらせる事はなかったという。
中にはスキャンダルで自殺したり大国の狭間に挟まれて殺された政治家もいる。
それでも日本はまだ可愛いもので、一応それなりに米国だって「日本ってのは国民それ自体が非常によく働く奴隷資産であり、あの国は地下資源がない」と知っているからそれ以上の過激なことは仕掛けなて国家を転覆させるような事はしない。だってそんな事して社会構造が破壊されたら儲からないもんね。
太平洋の反対側にいる日本人を兎小屋に住まわせて始発から終電まで働かせて土日も働かせて年休も取らせず生まれた子供の運動会も参加出来ずに、おまけにその子も企業戦士にしてしまい、とにかく親子ともに馬車馬のように働かせる。
そして奴隷からの搾取で得た利益を様々な形で米国に還流させて、米国人はプール付きの豪邸に住んで毎日家族とゆっくり食事をして土日は友達とゴルフを楽しんだり子供の野球大会に参加したりバカンスで欧州旅行に行ったりするのだ。
そりゃそうだ、日本は資源がないのだ、だったら奴隷貿易で儲けるのが一番ではないか。
その為には奴隷が反乱を起こさないように息抜きのために飲み屋街を作り売春宿を作り警察は目をつぶっておいて、ついでに週末はギャンブル禁止の国で政府がギャンブルを運営して奴隷の鬱憤を晴らさせるのだ。
奴隷のような状況に追い込まれた人間は、酒と女と博打があれば大体において反乱は起こさない。そんな危険なことをするよりは黙って働いて溜めた小銭で飲み屋で女相手に威張ってれば良いのだ。
白人のこんな声が聞こえそうだ、「おれたちゃ英国人の血を引く奴隷貿易のプロですぜ、人心操作なんて簡単なもんだ!」
最終的には多数決原則が導入されるが、これが嫌ならその国を出れば良いし、今回は自分の意見は通らなかったけど他人の価値観もよく分かるから納得もする、次回は自分の意見を述べてみようと、そのまま国に残る人もいる。
そしてある程度国民が増えるとさすがに話し合うことも多くなり直接民主主義では効率が悪く適応しなくなるので、今度はそれぞれの国民が自分の意見に合った代表を選挙で選び、代表同士で議論をさせる「間接民主主義」が導入されて、そこで選挙によって選ばれた人が議論をぶつけて最終的には多数決で決定していくものだ。
ではこの民主主義方程式のどこに問題があるのか?民衆が自分の事を自分で決める民族自決主義であることに何の問題があるのか?
実はこれ自体は問題ない。けどこれも地球温暖化と同じで、理屈は立派なんだけど運用においては細部にたくさんの技術的な問題点があり、正確な答を導き出すには日本人が得意とする、てか他に解決方法を知らない「YESかNOか」では絶対に答が出てこない仕組みになっているから本当の問題がうまく隠されている、困りもの方程式なのだ。
では逆に聞いてみよう。もし本来は全員が共有すべき情報が一部にしか流れず多くの人が知らない状態で何かを判断するとなったらどうだろう。または情報を操作して多くの国民にはわざと一部の事しか教えずにそこで判断を要求した場合はどうなるだろう?
例えば第二次大戦当時の朝日新聞は、日本が戦場で負ける度に「勝った勝った!」と報道した歴史的事実はある。新聞に書いてある情報がすべての人々からすれば、戦争で勝っているんだから政府はもっとイケイケ!となる。もっと戦地にヘイタイを送り込め、鬼畜米英をやっつけろとなる。
現実は日本軍はミッドウェイで大敗しガダルカナルで部隊が殲滅させられソロモン諸島で空母が沈められ、次々と太平洋から撤退していったのだ。
けれどそんな事実を知らない国民は、目先の情報で判断して、誰も停戦や交渉等を言い出す人は(殆ど)いなかった。
さあ、あなたは朝日新聞で毎日書かれている「日本勝利!アジア解放、鬼畜欧米の植民地からアジア人民を解放、正義を実現するまで戦い抜きましょう!」の記事を読んだあとに「お前はどうするのだ!」と言われたら、どうします?
与えられた情報で判断する限り、どうやっても「お、おお、おれだって戦争賛成だ!」としかなりませんよね。
それに更に警察権力が国家に反逆する人々を逮捕虐殺しては「アカは狂信的テロリスト集団である!」とやってるのを目の当たりに見て、誰が「これ、おかしくない?」と言えるか?「君、死にたもうなかれ」なんて言ってられないんだ。
結果的に国家が情報統制を行い警察が国家の手先として活動した場合、その国では民主主義は機能しなくなり、民主主義の名前を借りた独裁国家となってしまう。
これが民主主義国家での情報公開の何よりも大事な点であり民主主義の根幹をなす部分であるからジャーナリズムが一定の発言力をもてるし憲法でも発言の自由を認めているのだ。
それでも民主主義を導入している場合、選挙という方法で独裁政府をひっくり返す方法もある。これも民主主義を担保する素晴らしい仕組みだ。
けどここにも裏がある。選挙は実は操作出来るのだ。
皆さんは選挙のたびに政党が相手側のスキャンダルを暴露したりするのを見てるが、正しい情報かどうかが判らないない状態スキャンダルが事実なのか、政治家の発言が「どこかの国」に操られていないってのをどうやって見分けるのか?
テレビ局で偉そうに話している評論家と呼ばれる連中が中国寄りの発言をする時に、彼が中国からお金をもらってないなんて誰が保証出来るか?(実際には左翼は中国からの金を受け取っているのは社会党が存在した頃から明確です)
またその反対に親米派と呼ばれる評論家や学者や政治家が米国から操られ、米国からある時はお金を貰い、ある時は逆らって殺され、ある時はどっかの官僚のように米国の物覚えが良いおかげで中央官庁で出世出来て、そんな事実がないって誰が保証出来るか?
要するに選挙の際に行われる政党や政治家の発言も、それが本当に国民の為になることを訴えているのかどうか、それを判断する情報も基準もないってのが選挙の問題点なのである。
つまり自分たちが主権者のように思い込まされているが、実はそれが巧妙に仕組まれた情報操作と政治家操作によって、その後ろにいる世界の大国の意志のままに操られていることを気付かないそんな状態で選挙に参加しても、正しい答を出せるのか?
スキャンダルとテレビや新聞を利用した情報操作で常に自分たちのお気に入りの政党が勝つように仕組む事は決して難しいことではない。すでにある程度世間では知られているが、読売新聞の中興の祖である正力松太郎氏はCIA要員だったし、岸元首相も同様に米国の指示を受けていた。
ここで一つ断っておかねばならないが、日本の戦後の政治家はそれほど単純でもバカでもない。そして官僚たちも素晴らしい知能と教養を持った人々であった。
戦争に負けた彼らは米国の強さを知り、面従腹背と言う方法で時にはCIAのお手伝いをしたり時には米国の意志を「社会党がですね〜、反対なんですよね」とかうまく言い訳を作って日本国家を再生させたのだから、それは独裁主義が成功したという意味では稀有の歴史であり、それは正しく評価されるべきだと思う。
ある情報を隠しある情報を誇張し選挙では常に自民党が勝つけど野党としての社会党は温存させて、米国と中国と言う二大大国の間で渡り歩いたのだからたいしたものである。
ただしそれでも、情報操作と利益誘導という部分においてそれは民主主義ではなかったという点では事実なのだ。
時に世間は皮肉なもので、そうやって世界中の国を支配しようとしていた大国に逆らい、日本でも国民の圧倒的人気を得て選挙で勝って国民を洗脳から解かせようとする政治家も出てきた。
ここで出てくるのが米国のCIAによる国家操作、つまり実力行使である。
まずは米国に従わない政治家に「独裁主義者」と言うレッテルを貼る。レッテルを貼るのはその国の「学者」や「評論家」や「マスコミ」と呼ばれる、何らかの理由で米国から利益を得ている連中だ。
彼らからすれば自分の(例えば米国によって作られた女性問題や賄賂)スキャンダルをばらされても困るし、黙って米国のいう事を聞いてその流れに沿って発言すればカネが貰えるのだから文句はない。
日本国民?あんなバカども、どうでもいいよ、僕ぁは優秀な大学を出た賢い学者だし日本社会のためにずっと役立ってるんだ、そんなボクの生活は日本国民より大事なんだって理屈である。
そして次がいよいよ実力行使、CIAによって作られた政治家スキャンダルをバンバンとメディアに書かせるのだ。人間なんて面白いもので、嘘でも100回繰り返せば信じてしまう。
スキャンダルを半年くらい繰り返して、いよいよ国民も「それって、事実なんだろな」って思った頃に検察が動いて政治家を逮捕して件(くだん)の政治家を排除するのである。
日本は田中角栄がスキャンダルでやられ、小沢も刑務所の塀の上をぎりぎりのところで歩かされた。
日本のことを考えて行動した田中を売ったのは田中の子分であった竹下元総理などだが、田中はそれ以来生きている間は売国奴である彼らに目白御殿の敷居をくぐらせる事はなかったという。
中にはスキャンダルで自殺したり大国の狭間に挟まれて殺された政治家もいる。
それでも日本はまだ可愛いもので、一応それなりに米国だって「日本ってのは国民それ自体が非常によく働く奴隷資産であり、あの国は地下資源がない」と知っているからそれ以上の過激なことは仕掛けなて国家を転覆させるような事はしない。だってそんな事して社会構造が破壊されたら儲からないもんね。
太平洋の反対側にいる日本人を兎小屋に住まわせて始発から終電まで働かせて土日も働かせて年休も取らせず生まれた子供の運動会も参加出来ずに、おまけにその子も企業戦士にしてしまい、とにかく親子ともに馬車馬のように働かせる。
そして奴隷からの搾取で得た利益を様々な形で米国に還流させて、米国人はプール付きの豪邸に住んで毎日家族とゆっくり食事をして土日は友達とゴルフを楽しんだり子供の野球大会に参加したりバカンスで欧州旅行に行ったりするのだ。
そりゃそうだ、日本は資源がないのだ、だったら奴隷貿易で儲けるのが一番ではないか。
その為には奴隷が反乱を起こさないように息抜きのために飲み屋街を作り売春宿を作り警察は目をつぶっておいて、ついでに週末はギャンブル禁止の国で政府がギャンブルを運営して奴隷の鬱憤を晴らさせるのだ。
奴隷のような状況に追い込まれた人間は、酒と女と博打があれば大体において反乱は起こさない。そんな危険なことをするよりは黙って働いて溜めた小銭で飲み屋で女相手に威張ってれば良いのだ。
白人のこんな声が聞こえそうだ、「おれたちゃ英国人の血を引く奴隷貿易のプロですぜ、人心操作なんて簡単なもんだ!」
2010年03月26日
デビアスとダイヤモンド
ロンドンにいた時の話。
ホテルの部屋で仕事の合間に時間を見つけてyoutubeで鳩山首相の所信表明演説を見る。
こうやってみると、事実を映像で伝えるテレビメディアってのは間違いなく存在価値がある。
だってYoutubeもGOOGLEも自分で取材できないのだ。彼らはメディアのデータを編集するのが仕事であり、じゃあ誰が一番最初に取材するのかってなると、これはやっぱりメディアの役目だと思う。
その意味で現場の情報をマスにして世間に広げるのがマスコミの仕事である。
今まではこの現場取材力とセットになってたのが記者による情報の評価である。しかし今、記者がまともな見識を持たずにバカになった結果としてマスコミ離れが起こっているのだから、取材と記者評価を切り離せば良いのではないかと思う。
つまり現場のカメラマンや取材をする人々は取材した事実と内容だけを、編集せずにそのままメディアに載せる。それをどう評価するかは別の組織がやるという方法。
この組織は有料読者を持って、評価内容が下らなければ読者が離れるから必然的に質の高い評価記事を提供するようになる。
Youtubeでは鳩山さんが「社会主義になりましょう。皆が皆を助け合いましょう。誰もが誰もを知っている、そんな人に優しい社会を作りましょう」なんとなくそんな感じを受ける友愛である。
最近の欧州では全体的な流れとして資本主義から社会資本主義に変化しているような気がする。
資本主義みたいに参加者が自分の利益だけのために殺し合いがっつきあい、結果的に社会を構築する一番大事な要素である家庭を崩壊させては本末転倒ではないか。
それよりはある程度社会主義的に国家規制をかけてでも競争制限を行い普通の人々が毎日家族と一緒に食事出来る環境を作ってあげる事ではないか。
そう考えれば鳩山さんのやるような社会資本主義という選択もある。
けど社会資本主義という響の良い言葉も、今まで英国や欧州がアフリカに対して行ってきた歴史的な略奪行為を知ると、今回の欧州が訴求する社会資本主義という言葉もなかなか信じれらないのも事実である。
英国や米国が植民地を広げるときに使う「民主主義」と言う言葉の響きが良いのは事実だけどその民主主義こそが実はアフリカを食いものにしてきた戦略であることは意外と知られていない。
今日の話は実はアフリカがテーマ。日頃アジア太平洋を中心に動いているのでなかなかこんな風にアフリカを実感することがないが、今回は偶然ホテルのバーでそんな場面を見たので英国的民主主義の怖さについて書いている。
ピカデリーサーカスに程近いホテルの地下のバーでお客とお茶を飲みながら打ち合わせをしてちょうど終わった頃、カラフルなジャケットとマフラーで身を包んだ一人のアフリカ人と地味な紺色のスーツを着た二人の白人が何かしゃべりながら入ってきた。
アフリカ人はかなり訛りの強い英語で同席している英国人ビジネスマンらしき二人の紳士に対して一生懸命しゃべってた。
「君らは僕らの国を援助する義務がある。同時に僕をCIAやFBIからも守ってもらわないと駄目だ。あいつらは僕たちを目の敵にしているが、あいつらこそアフリカを悪くした連中なんだ!」
この男の話、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかはよく分からないが、元々アフリカは英国および欧州の縄張りである。CIAはあまり関係ないはずだけどと思いながら「なんだろこの話、どこにいくんだろ」とそれとなく聞き耳を立てた。
民族独立とか民主主義という大義名分を使ってアフリカを最貧国に落とし込み、彼らが独立出来ないように「援助漬け」にして国内で仲間同士を戦争させて、アフリカから取れるダイアモンドや金やその他貴金属をすべて欧州が取り上げる為の戦略、それが実は元々の欧州における植民地戦略である。
その中でもアフリカから大量の貴金属を巻き上げた歴史ある最たる会社は今もロンドンの大通りに店を構えて世界中のダイアモンドを支配しているデ・ビアス社であろう。
多くの日本人女性が戦後この会社の策略に引っ掛かって“あ〜ん、ダイアモンドの指輪じゃなきゃやだやだ、だってアタシと結婚するんでしょ!”って買ってもらった、あれである。
アフリカにおいてはすでにどうしようもないほど民族が寸断されており、普通なら国境は川とか海とか民族分布なのになぜかこの地域では国境が定規で引かれたように真っ直ぐであるのは、世界地図を見ればすぐ分かる事だ。
続きます。
ホテルの部屋で仕事の合間に時間を見つけてyoutubeで鳩山首相の所信表明演説を見る。
こうやってみると、事実を映像で伝えるテレビメディアってのは間違いなく存在価値がある。
だってYoutubeもGOOGLEも自分で取材できないのだ。彼らはメディアのデータを編集するのが仕事であり、じゃあ誰が一番最初に取材するのかってなると、これはやっぱりメディアの役目だと思う。
その意味で現場の情報をマスにして世間に広げるのがマスコミの仕事である。
今まではこの現場取材力とセットになってたのが記者による情報の評価である。しかし今、記者がまともな見識を持たずにバカになった結果としてマスコミ離れが起こっているのだから、取材と記者評価を切り離せば良いのではないかと思う。
つまり現場のカメラマンや取材をする人々は取材した事実と内容だけを、編集せずにそのままメディアに載せる。それをどう評価するかは別の組織がやるという方法。
この組織は有料読者を持って、評価内容が下らなければ読者が離れるから必然的に質の高い評価記事を提供するようになる。
Youtubeでは鳩山さんが「社会主義になりましょう。皆が皆を助け合いましょう。誰もが誰もを知っている、そんな人に優しい社会を作りましょう」なんとなくそんな感じを受ける友愛である。
最近の欧州では全体的な流れとして資本主義から社会資本主義に変化しているような気がする。
資本主義みたいに参加者が自分の利益だけのために殺し合いがっつきあい、結果的に社会を構築する一番大事な要素である家庭を崩壊させては本末転倒ではないか。
それよりはある程度社会主義的に国家規制をかけてでも競争制限を行い普通の人々が毎日家族と一緒に食事出来る環境を作ってあげる事ではないか。
そう考えれば鳩山さんのやるような社会資本主義という選択もある。
けど社会資本主義という響の良い言葉も、今まで英国や欧州がアフリカに対して行ってきた歴史的な略奪行為を知ると、今回の欧州が訴求する社会資本主義という言葉もなかなか信じれらないのも事実である。
英国や米国が植民地を広げるときに使う「民主主義」と言う言葉の響きが良いのは事実だけどその民主主義こそが実はアフリカを食いものにしてきた戦略であることは意外と知られていない。
今日の話は実はアフリカがテーマ。日頃アジア太平洋を中心に動いているのでなかなかこんな風にアフリカを実感することがないが、今回は偶然ホテルのバーでそんな場面を見たので英国的民主主義の怖さについて書いている。
ピカデリーサーカスに程近いホテルの地下のバーでお客とお茶を飲みながら打ち合わせをしてちょうど終わった頃、カラフルなジャケットとマフラーで身を包んだ一人のアフリカ人と地味な紺色のスーツを着た二人の白人が何かしゃべりながら入ってきた。
アフリカ人はかなり訛りの強い英語で同席している英国人ビジネスマンらしき二人の紳士に対して一生懸命しゃべってた。
「君らは僕らの国を援助する義務がある。同時に僕をCIAやFBIからも守ってもらわないと駄目だ。あいつらは僕たちを目の敵にしているが、あいつらこそアフリカを悪くした連中なんだ!」
この男の話、どこまでが本当でどこまでが嘘なのかはよく分からないが、元々アフリカは英国および欧州の縄張りである。CIAはあまり関係ないはずだけどと思いながら「なんだろこの話、どこにいくんだろ」とそれとなく聞き耳を立てた。
民族独立とか民主主義という大義名分を使ってアフリカを最貧国に落とし込み、彼らが独立出来ないように「援助漬け」にして国内で仲間同士を戦争させて、アフリカから取れるダイアモンドや金やその他貴金属をすべて欧州が取り上げる為の戦略、それが実は元々の欧州における植民地戦略である。
その中でもアフリカから大量の貴金属を巻き上げた歴史ある最たる会社は今もロンドンの大通りに店を構えて世界中のダイアモンドを支配しているデ・ビアス社であろう。
多くの日本人女性が戦後この会社の策略に引っ掛かって“あ〜ん、ダイアモンドの指輪じゃなきゃやだやだ、だってアタシと結婚するんでしょ!”って買ってもらった、あれである。
アフリカにおいてはすでにどうしようもないほど民族が寸断されており、普通なら国境は川とか海とか民族分布なのになぜかこの地域では国境が定規で引かれたように真っ直ぐであるのは、世界地図を見ればすぐ分かる事だ。
続きます。
2010年03月25日
小沢的忖度(そんたく)政治 普天間編
小沢的忖度(そんたく)政治 普天間編
普天間で小沢氏「首相も県外移設、約束した感じ」
民主党の小沢幹事長は24日、党沖縄県連代表の喜納昌吉参院議員、連合沖縄の仲村信正会長と国会内でそれぞれ会い、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題で県内を移設先としないよう要請を受けた。
喜納氏らによると、小沢氏は「政府のことにどうのこうの言うことはできない」と述べる一方、「鳩山首相も去年の選挙の前、『最低でも県外』と言っていた。県民に約束したという感じになる」と語ったという。
政府はこの問題で、米軍キャンプ・シュワブ陸上部(沖縄県名護市など)に移す案と米軍ホワイトビーチ沖(同県うるま市)を埋め立てて移設する案の2案を軸に検討している。県内移設に懸念を示すような小沢氏の発言は、今後の作業に影響を与える可能性もある。
(2010年3月25日01時07分 読売新聞)
小沢的、戦略⇒戦術⇒戦闘の逆算思考
ぼくが小沢の忖度をするとすれば彼の長期戦略が日本の民主化と普通の大国にすることであるから、まず取るべき戦術は現在の非民主化構造の温床となっている官僚制度の再構築である。
その為には戦闘行為として参院選勝利が必要となる。ここで圧倒的多数を取って両院を押さえればこれから3年間の間にどんどん法改正をして官僚制度を根っこから作り変える事が出来る。
官僚制度の再構築であれば「みんなの党」も反対することはないだろうし選挙を通じて国民の信託を得る事が出来れば、国民の信託を得ないままに第四権力として自己の生き残りのためだけに活動しているマスコミが何を言おうと相手にする必要はない。なにせ次の選挙まで3年あるのだ。
その間にマスコミを全部作り変えても良い。元々第四勢力として政権を監視と自分でも宣言しているはずのジャーナリストが国民によって選ばれていないってのも変な話だ。
国民の代表として政権を監視するなら、彼または彼女はそれなりの勉強をして国民の望むところを理解していなければいけないし国民もそのジャーナリストの能力について知るべき権利もある筈だし、ばかな記者なら国民によって辞めさせるってのもありだろう。
国会議員は選挙で選ばれるのなら、政策を実際に作ってしまう官僚やその政策に大きな影響を与えるマスコミだって本来は選挙で選ばれねばおかしい。
要するに国民の忖度を受けて政策の決定(提案ではなくて決定の方)に影響力を持つ人々のうち政治家だけが選挙の禊を受けるのに他の2つは関係なくてよいのかってこと。
大学で法律を勉強して働いている場所が厚生労働省だとか、文学部を出て経済新聞記者ってのも、それで専門家なのか?よいのかってことだ。
まあ選挙なんて極端なことは言わずに、官僚は政治家及び政府に政策を提言して、後は政府の決めた政策を実行するだけの実務部隊になれば良いだけのこと。そしたら選挙は不要です。
今の官僚は選挙の洗礼も受けずに政策を決定実行しているから権利だけあって義務のないっていう極楽トンボの状態である。
マスコミだって、自分が知りもしないことを偉そうに感情論で記事にしてそれで今まで一生懸命に生きてきた農家の老夫婦の命を奪っておいて次の日には知らん顔である。
だからマスコミも本来の作業である「事実を国民に伝える」ことに特化して、例えば今後の取材はすべてビデオ撮影で編集をしない状態で国民に提供し、記事はツイッターで報道するだけの、本当の意味での媒体に徹底すれば良いのだ。
記事の内容や事実をどう評価するかってのは、これは専門のジャーナリストが行えば良いし、それは玉石混交になるだろうけど、読むほうが読解力を持って判断していくようになるだろう。
そんな風にして日本の政治構造を根本から作り変える。その為の当面の戦闘行為としての参議院選挙である。つまり長期戦略から逆算して今回の参院選は大きな戦闘行為になるのだ。
選挙に勝つために必要なのは国民の信託を得る事。簡単に言えば国民が小沢を好きになること、少なくとも嫌いになってもらわないことである。
かと言ってばら撒き公共事業の時代でもないんだし、浮動票やサイレントマジョリティと呼ばれる人々に訴えていくには、マスコミもそれなりに利用する事が必要だ。
長くなったけど、ここまでが今年の1月頃の小沢の心境ではないだろうか、と忖度する。
ダム疑惑で検察と大喧嘩になり何とか検察を押さえつけたけど、その経過では多くの国民の信頼を失ったのも事実である。
まあ何せ小沢がまっしろなわけはない。政治にカネがかかるのは国民が一番よく知っている。何せ票を売っているのは国民なんだから。
そこでダム疑惑を乗り切った小沢として次に仕掛けてきたのが今回の生方問題ではないかとは勘ぐり過ぎかもしれないけど、忖度政治の本当の意味はそこにあるんじゃないか?
つまり筆頭副幹事長が
「小沢先生、先生のご意思を汲み取って生方の首を取る事にしました!」
とやれば、とりあえず小沢は止めはせずに
「よし、よろしくしてくれたまえ、君は優秀だ」
くらいの事を言っておく。
ところが「こりゃ面白い、小沢叩きにばっちりだ!」と何も考えずに乗っかったマスコミがあっと言う間に大きな記事にしてしまう。
充分国民全体に浸透した頃に小沢が
「生方君、やっぱり残ってくれ」とやれば、
マスコミ以外の普通の日本人選挙民であれば
「お。小沢も反省してるじゃないか」となる。
日本の場合伝統的に「反省すれば許される」と言う感情がある。「川でおぼれている犬を棒で突く」のはよろしくないのだから。
これで小沢民主党に集まった関心。そこで次に放った矢が以前から仕込んでいた普天間の基地問題。
鳩山政権では選挙前から基地問題を取り上げており自民党の案を実行することなどあり得ないはずだった。本来なら県外、海外、グアム移転もかなり現実性の高い案である。
なにせ元々は1990年代に米国が海兵隊とその家族まるごとグアムに移転させるって案だったのを、日本(外務省)がかなり無理して辺野古に移したって政治的経緯がある。
その背景には当時の橋本龍太郎自民党政権の中で利権取引があったのも当然だ。普天間の土地の殆どは私有地で毎年61億円の賃料を地元地主が受け取っている。
今更普天間を返還されても使い道の分からない地主からすれ困るだけだ。賃料以上の収入を得るだけのビジネスモデルがあの土地で回収出来るのか?
それに国内移転であれば沖縄県としても米軍軍需ビジネスが残せるし新しい基地建設で地元建設会社にお金が落ちる。
これ以外にも様々な政治的要素が絡まって現在まで10年以上引っ張っているのが普天間問題である。
けど現実的に見てみると、「米軍海兵隊基地」が沖縄にあることが必要なのかってことがある。
アジア太平洋における軍事的抑止力として沖縄が大事なのは当然だけど、世界情勢が変化した中では緊急配備を行う海兵隊ってのは沖縄にいる必然性はもうない。
北朝鮮が戦争を起こして緊急配備が必要になっても最初の数時間で行動を起こすのはまず在韓米軍と韓国軍であり、それに協力する形で在沖空軍が30分以内に北朝鮮部隊の上で制空権を抑えることが出来る。
海兵隊が朝鮮半島の浜辺に上陸するのはその後に情勢を見極めた後であり、そうなるとヘイタイと武器をグアムから空輸するのも沖縄から空輸するのも数時間の違いであり、大きな違いはない。
イラクがクウェートに侵攻した際も最初に動いたのは海軍機動部隊と空軍であり海兵隊や陸軍がサウジアラビアに集合したのはそれから数週間後である。
要するに海兵隊ってのは敵の領土の浜辺から上陸して敵地を叩くのが仕事であり、沖縄米軍を守る為の陸軍防衛隊ではないのだから、何で沖縄にいる必要があるのか。
米軍移転先のグアムに建設する宿舎も日本側の支払いで日本側の建設会社が仕事を取っているのだから沖縄で利権争いをする必要もない。
そんなさなかにある意味突然のように「県内移転」を公表した鳩山政権ってのがどうも怪しいのだ。ほんとか〜って感じなのだ。
だからこれはまず鳩山さんに「県内イテ〜ン!」と大きく歌わせておいて、小沢が後で社民党や諸団体や沖縄に恩を売るように「いやいや、国民はやはり基地は不要と言ってます。米国と交渉してグアムに移転させますよ」くらいの事をどっか〜んと公表する。
こうすれば国民の関心は一気に高まり、
「ナンだ小沢、やるじゃんか!」から
「米国相手に喧嘩売ってくれたぜ!」とか
「これでジュゴンも安心よ〜」まで、
日本の浮動票を大きく取り込むことが可能になる。
もちろんこれは米国側の許認可が先となるが、オバマ率いる米国政権も足元がふらついてるし、小沢が米国を集団訪問することも米国内では納得しているし、基地問題程度なら損はしないんだから譲歩してもいいかと思えるタイミングだと思う。
そういう事を考えた上での民主党全体の小沢に対する忖度政治であれば、これは立派な国家戦略だと言えるが、さてうまく実現するだろうか。
普天間で小沢氏「首相も県外移設、約束した感じ」
民主党の小沢幹事長は24日、党沖縄県連代表の喜納昌吉参院議員、連合沖縄の仲村信正会長と国会内でそれぞれ会い、沖縄県の米軍普天間飛行場の移設問題で県内を移設先としないよう要請を受けた。
喜納氏らによると、小沢氏は「政府のことにどうのこうの言うことはできない」と述べる一方、「鳩山首相も去年の選挙の前、『最低でも県外』と言っていた。県民に約束したという感じになる」と語ったという。
政府はこの問題で、米軍キャンプ・シュワブ陸上部(沖縄県名護市など)に移す案と米軍ホワイトビーチ沖(同県うるま市)を埋め立てて移設する案の2案を軸に検討している。県内移設に懸念を示すような小沢氏の発言は、今後の作業に影響を与える可能性もある。
(2010年3月25日01時07分 読売新聞)
小沢的、戦略⇒戦術⇒戦闘の逆算思考
ぼくが小沢の忖度をするとすれば彼の長期戦略が日本の民主化と普通の大国にすることであるから、まず取るべき戦術は現在の非民主化構造の温床となっている官僚制度の再構築である。
その為には戦闘行為として参院選勝利が必要となる。ここで圧倒的多数を取って両院を押さえればこれから3年間の間にどんどん法改正をして官僚制度を根っこから作り変える事が出来る。
官僚制度の再構築であれば「みんなの党」も反対することはないだろうし選挙を通じて国民の信託を得る事が出来れば、国民の信託を得ないままに第四権力として自己の生き残りのためだけに活動しているマスコミが何を言おうと相手にする必要はない。なにせ次の選挙まで3年あるのだ。
その間にマスコミを全部作り変えても良い。元々第四勢力として政権を監視と自分でも宣言しているはずのジャーナリストが国民によって選ばれていないってのも変な話だ。
国民の代表として政権を監視するなら、彼または彼女はそれなりの勉強をして国民の望むところを理解していなければいけないし国民もそのジャーナリストの能力について知るべき権利もある筈だし、ばかな記者なら国民によって辞めさせるってのもありだろう。
国会議員は選挙で選ばれるのなら、政策を実際に作ってしまう官僚やその政策に大きな影響を与えるマスコミだって本来は選挙で選ばれねばおかしい。
要するに国民の忖度を受けて政策の決定(提案ではなくて決定の方)に影響力を持つ人々のうち政治家だけが選挙の禊を受けるのに他の2つは関係なくてよいのかってこと。
大学で法律を勉強して働いている場所が厚生労働省だとか、文学部を出て経済新聞記者ってのも、それで専門家なのか?よいのかってことだ。
まあ選挙なんて極端なことは言わずに、官僚は政治家及び政府に政策を提言して、後は政府の決めた政策を実行するだけの実務部隊になれば良いだけのこと。そしたら選挙は不要です。
今の官僚は選挙の洗礼も受けずに政策を決定実行しているから権利だけあって義務のないっていう極楽トンボの状態である。
マスコミだって、自分が知りもしないことを偉そうに感情論で記事にしてそれで今まで一生懸命に生きてきた農家の老夫婦の命を奪っておいて次の日には知らん顔である。
だからマスコミも本来の作業である「事実を国民に伝える」ことに特化して、例えば今後の取材はすべてビデオ撮影で編集をしない状態で国民に提供し、記事はツイッターで報道するだけの、本当の意味での媒体に徹底すれば良いのだ。
記事の内容や事実をどう評価するかってのは、これは専門のジャーナリストが行えば良いし、それは玉石混交になるだろうけど、読むほうが読解力を持って判断していくようになるだろう。
そんな風にして日本の政治構造を根本から作り変える。その為の当面の戦闘行為としての参議院選挙である。つまり長期戦略から逆算して今回の参院選は大きな戦闘行為になるのだ。
選挙に勝つために必要なのは国民の信託を得る事。簡単に言えば国民が小沢を好きになること、少なくとも嫌いになってもらわないことである。
かと言ってばら撒き公共事業の時代でもないんだし、浮動票やサイレントマジョリティと呼ばれる人々に訴えていくには、マスコミもそれなりに利用する事が必要だ。
長くなったけど、ここまでが今年の1月頃の小沢の心境ではないだろうか、と忖度する。
ダム疑惑で検察と大喧嘩になり何とか検察を押さえつけたけど、その経過では多くの国民の信頼を失ったのも事実である。
まあ何せ小沢がまっしろなわけはない。政治にカネがかかるのは国民が一番よく知っている。何せ票を売っているのは国民なんだから。
そこでダム疑惑を乗り切った小沢として次に仕掛けてきたのが今回の生方問題ではないかとは勘ぐり過ぎかもしれないけど、忖度政治の本当の意味はそこにあるんじゃないか?
つまり筆頭副幹事長が
「小沢先生、先生のご意思を汲み取って生方の首を取る事にしました!」
とやれば、とりあえず小沢は止めはせずに
「よし、よろしくしてくれたまえ、君は優秀だ」
くらいの事を言っておく。
ところが「こりゃ面白い、小沢叩きにばっちりだ!」と何も考えずに乗っかったマスコミがあっと言う間に大きな記事にしてしまう。
充分国民全体に浸透した頃に小沢が
「生方君、やっぱり残ってくれ」とやれば、
マスコミ以外の普通の日本人選挙民であれば
「お。小沢も反省してるじゃないか」となる。
日本の場合伝統的に「反省すれば許される」と言う感情がある。「川でおぼれている犬を棒で突く」のはよろしくないのだから。
これで小沢民主党に集まった関心。そこで次に放った矢が以前から仕込んでいた普天間の基地問題。
鳩山政権では選挙前から基地問題を取り上げており自民党の案を実行することなどあり得ないはずだった。本来なら県外、海外、グアム移転もかなり現実性の高い案である。
なにせ元々は1990年代に米国が海兵隊とその家族まるごとグアムに移転させるって案だったのを、日本(外務省)がかなり無理して辺野古に移したって政治的経緯がある。
その背景には当時の橋本龍太郎自民党政権の中で利権取引があったのも当然だ。普天間の土地の殆どは私有地で毎年61億円の賃料を地元地主が受け取っている。
今更普天間を返還されても使い道の分からない地主からすれ困るだけだ。賃料以上の収入を得るだけのビジネスモデルがあの土地で回収出来るのか?
それに国内移転であれば沖縄県としても米軍軍需ビジネスが残せるし新しい基地建設で地元建設会社にお金が落ちる。
これ以外にも様々な政治的要素が絡まって現在まで10年以上引っ張っているのが普天間問題である。
けど現実的に見てみると、「米軍海兵隊基地」が沖縄にあることが必要なのかってことがある。
アジア太平洋における軍事的抑止力として沖縄が大事なのは当然だけど、世界情勢が変化した中では緊急配備を行う海兵隊ってのは沖縄にいる必然性はもうない。
北朝鮮が戦争を起こして緊急配備が必要になっても最初の数時間で行動を起こすのはまず在韓米軍と韓国軍であり、それに協力する形で在沖空軍が30分以内に北朝鮮部隊の上で制空権を抑えることが出来る。
海兵隊が朝鮮半島の浜辺に上陸するのはその後に情勢を見極めた後であり、そうなるとヘイタイと武器をグアムから空輸するのも沖縄から空輸するのも数時間の違いであり、大きな違いはない。
イラクがクウェートに侵攻した際も最初に動いたのは海軍機動部隊と空軍であり海兵隊や陸軍がサウジアラビアに集合したのはそれから数週間後である。
要するに海兵隊ってのは敵の領土の浜辺から上陸して敵地を叩くのが仕事であり、沖縄米軍を守る為の陸軍防衛隊ではないのだから、何で沖縄にいる必要があるのか。
米軍移転先のグアムに建設する宿舎も日本側の支払いで日本側の建設会社が仕事を取っているのだから沖縄で利権争いをする必要もない。
そんなさなかにある意味突然のように「県内移転」を公表した鳩山政権ってのがどうも怪しいのだ。ほんとか〜って感じなのだ。
だからこれはまず鳩山さんに「県内イテ〜ン!」と大きく歌わせておいて、小沢が後で社民党や諸団体や沖縄に恩を売るように「いやいや、国民はやはり基地は不要と言ってます。米国と交渉してグアムに移転させますよ」くらいの事をどっか〜んと公表する。
こうすれば国民の関心は一気に高まり、
「ナンだ小沢、やるじゃんか!」から
「米国相手に喧嘩売ってくれたぜ!」とか
「これでジュゴンも安心よ〜」まで、
日本の浮動票を大きく取り込むことが可能になる。
もちろんこれは米国側の許認可が先となるが、オバマ率いる米国政権も足元がふらついてるし、小沢が米国を集団訪問することも米国内では納得しているし、基地問題程度なら損はしないんだから譲歩してもいいかと思えるタイミングだと思う。
そういう事を考えた上での民主党全体の小沢に対する忖度政治であれば、これは立派な国家戦略だと言えるが、さてうまく実現するだろうか。
2010年03月24日
人間を幸福にしない日本というシステム
日本の経済関連は主に池田ブログやその周辺を読むことにしている。
政治はバイアスの強い世界なので労組の方が書いてるトンでもブログも目を通しておいて政治ブログランキングのベスト10(殆ど右翼か近隣国叩き)をちらっと見て、そいでもって中立かな、って思えるブログに目を通す。
どこのブログも政府や官僚+警察など、要するにこの国を現在実質支配している連中と「あなたも悪ですな〜」と仲間を組んでる気分の大手新聞よりは余程つぼを押さえた内容だから、左右両方を読んでると段々焦点が絞られてくる。
そんな中の一つがこの「永田町異聞」である。たぶん彼自身が政治の世界に深いのだろう、ちょっと具体的名政治家の名前がばんばん出てきてしまうので「読むだけ星人」だったのだが、今日のこのブログは出色。
出色=しゅっしょく。
3月24日付けの記事
http://ameblo.jp/aratakyo/
オランダ出身のジャーナリストが日本の現況について中央公論に寄稿した論文である。
★抜粋開始
いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。内閣中心政権を確立することができるならば、あらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになる。
〜中略〜
日本のメディアは自由な立場にある。しかし真の主権国家の中に、より健全な民主主義をはぐくもうとするならば、日本のメディアは現在のようにスキャンダルを追いかけ、果てはそれを生み出すことに血道を上げるのを止め、国内と国際政治の良識ある観察者とならなければならない。
そして自らに備わる力の正しい用い方を習得すべきである。さらに政治改革を求め、選挙で一票を投じた日本の市民は、一歩退いて、いま起こりつつあることは一体何であるのかをよく理解し、メディアにも正しい認識に基づいた報道をするよう求めるべきなのである。
★抜粋終了
かなり長いけど非常に良く日本を観察している内容であり、こらこら、外国人にここまで言われて黙ってんじゃねーぞと言いたくなるくらいだ。
しかし、記者を紹介してくれた「永田町異聞」には感謝であるし、わざわざ日本を相手に分析をしてくれた記者にも「お礼」である。
政治はバイアスの強い世界なので労組の方が書いてるトンでもブログも目を通しておいて政治ブログランキングのベスト10(殆ど右翼か近隣国叩き)をちらっと見て、そいでもって中立かな、って思えるブログに目を通す。
どこのブログも政府や官僚+警察など、要するにこの国を現在実質支配している連中と「あなたも悪ですな〜」と仲間を組んでる気分の大手新聞よりは余程つぼを押さえた内容だから、左右両方を読んでると段々焦点が絞られてくる。
そんな中の一つがこの「永田町異聞」である。たぶん彼自身が政治の世界に深いのだろう、ちょっと具体的名政治家の名前がばんばん出てきてしまうので「読むだけ星人」だったのだが、今日のこのブログは出色。
出色=しゅっしょく。
3月24日付けの記事
http://ameblo.jp/aratakyo/
オランダ出身のジャーナリストが日本の現況について中央公論に寄稿した論文である。
★抜粋開始
いま日本はきわめて重要な時期にある。真の民主主義をこの国で実現できるかどうかは、これからの数年にかかっている。内閣中心政権を確立することができるならば、あらゆる国々に対し、重要な規範を示すことになる。
〜中略〜
日本のメディアは自由な立場にある。しかし真の主権国家の中に、より健全な民主主義をはぐくもうとするならば、日本のメディアは現在のようにスキャンダルを追いかけ、果てはそれを生み出すことに血道を上げるのを止め、国内と国際政治の良識ある観察者とならなければならない。
そして自らに備わる力の正しい用い方を習得すべきである。さらに政治改革を求め、選挙で一票を投じた日本の市民は、一歩退いて、いま起こりつつあることは一体何であるのかをよく理解し、メディアにも正しい認識に基づいた報道をするよう求めるべきなのである。
★抜粋終了
かなり長いけど非常に良く日本を観察している内容であり、こらこら、外国人にここまで言われて黙ってんじゃねーぞと言いたくなるくらいだ。
しかし、記者を紹介してくれた「永田町異聞」には感謝であるし、わざわざ日本を相手に分析をしてくれた記者にも「お礼」である。
2010年03月23日
相続・贈与・節税の実際 その2
続き
実際に日本でいろんな顧客と会い相続の話をしているけど、本気で相続税をゼロにしようと思えばいくらでも方法はある。
国をまたいだ節税方法は実にたくさんあるし、やろうと思えば何でも出来る。けど日本人が一番苦手とするところを日本政府が実にうまく押さえているから結果的に「じゃあやめとこ」ってことになるのだ。
それは何かといいますと、
1・税務署が肉親、親類、知り合いへ連絡をして、彼らに迷惑をかけたくない。
2・下手に逆らったらどっかの痴漢冤罪人みたいに裁判になって社会的に抹殺されるぞう。
みたいなことである。
要するに、これからも日本で生きていくんだからお上に逆らうのは長期的利益が奪われる、だったら今、黙って納税した方がいいって発想だ。
これはこれで長期的に考えればYESではある。
けど50%の課税ですよ。それでいいんか?やっぱりこう思う人もいる。
だったら、人生で一回くらい政府と喧嘩したいなら方法はいくらでもある。
けどこれは資産が2億円以上ある人向けのプランである。今の日本でも5千万円の遺産は無税であり、更に相続人一人当たり1千万円が無税なので、例えば奥さん一人子供三人であれば9千万円が無税だ。
それに9千万円以上が課税と言っても最初の1千万円とかは10%程度と低額である。わざわざ自宅を売り飛ばさなくてもどうにかなる。
問題は2億円以上の資産がある場合の相続人である。
じゃあ自分の資産が2億円ある、これが自宅と言う不動産だったり金融資産だったりした場合、どうやって節税出来るのか?
こんなの、税理士や弁護士に相談する必要もない、思いっきり簡単な方法があるのだ。
例えばあなたの現在の資産が現金で1億円あったとする。その金を持ってラスベガスに遊びに行った。そこで1億円を全部博打で失った。
ささ、これに対して税務署が課税出来るか?
当然、出来るわけがない。つまり米国における正当な商行為の結果としてお金を失ったのだから、米国籍のカジノ運営会社に対して日本の税務署が「贈与税払え〜」なんていえるわけがない。
ニュージーランドもこれと同じ理屈であり、例えばニュージーランドに惚れた彼女がいてそいつに1億円あげたとしても、その贈与がニュージーランドで行われていれば日本の税法は彼女には及ばない。
何故なら彼女はニュージーランド国籍であり、日本の税法は日本国内の行為にしか適用されないからだ。
これで彼女は晴れてどっかの親父の1億円を自分のものに出来る。もちろんニュージーランドでは贈与税が発生するけどそれでも最大25%だから、2500万円の節税になるわけだ。
問題はこのお金を「彼女」が「どっかの親父」に返してくれるかどうかだけど、そこは親父次第だからこっちはしらん。ただビジネスモデルとしては問題なくやっていけると言うことだ。
他にも現地企業を利用した節税も可能である。どれもそれぞれの国においては合法である。ただ問題は、そういう事を理解した上で国際法規の「ずれ」をうまく利用して節税するだけの気合があるかどうかである。
一時期日本で外資が銀行株を売り買いして数百億円の大儲け、ところが欧州のある国を経由する事で納税ゼロにしてしまい日本の税務署が「くそー!」ってなったことがある。
こんな風に個人が政府に対して「ふざけんな、お前らは引っ込んでろ!」と言うだけの気合があるかどうか。相続対策はすべてにおいてそこに尽きると思う。
実際に日本でいろんな顧客と会い相続の話をしているけど、本気で相続税をゼロにしようと思えばいくらでも方法はある。
国をまたいだ節税方法は実にたくさんあるし、やろうと思えば何でも出来る。けど日本人が一番苦手とするところを日本政府が実にうまく押さえているから結果的に「じゃあやめとこ」ってことになるのだ。
それは何かといいますと、
1・税務署が肉親、親類、知り合いへ連絡をして、彼らに迷惑をかけたくない。
2・下手に逆らったらどっかの痴漢冤罪人みたいに裁判になって社会的に抹殺されるぞう。
みたいなことである。
要するに、これからも日本で生きていくんだからお上に逆らうのは長期的利益が奪われる、だったら今、黙って納税した方がいいって発想だ。
これはこれで長期的に考えればYESではある。
けど50%の課税ですよ。それでいいんか?やっぱりこう思う人もいる。
だったら、人生で一回くらい政府と喧嘩したいなら方法はいくらでもある。
けどこれは資産が2億円以上ある人向けのプランである。今の日本でも5千万円の遺産は無税であり、更に相続人一人当たり1千万円が無税なので、例えば奥さん一人子供三人であれば9千万円が無税だ。
それに9千万円以上が課税と言っても最初の1千万円とかは10%程度と低額である。わざわざ自宅を売り飛ばさなくてもどうにかなる。
問題は2億円以上の資産がある場合の相続人である。
じゃあ自分の資産が2億円ある、これが自宅と言う不動産だったり金融資産だったりした場合、どうやって節税出来るのか?
こんなの、税理士や弁護士に相談する必要もない、思いっきり簡単な方法があるのだ。
例えばあなたの現在の資産が現金で1億円あったとする。その金を持ってラスベガスに遊びに行った。そこで1億円を全部博打で失った。
ささ、これに対して税務署が課税出来るか?
当然、出来るわけがない。つまり米国における正当な商行為の結果としてお金を失ったのだから、米国籍のカジノ運営会社に対して日本の税務署が「贈与税払え〜」なんていえるわけがない。
ニュージーランドもこれと同じ理屈であり、例えばニュージーランドに惚れた彼女がいてそいつに1億円あげたとしても、その贈与がニュージーランドで行われていれば日本の税法は彼女には及ばない。
何故なら彼女はニュージーランド国籍であり、日本の税法は日本国内の行為にしか適用されないからだ。
これで彼女は晴れてどっかの親父の1億円を自分のものに出来る。もちろんニュージーランドでは贈与税が発生するけどそれでも最大25%だから、2500万円の節税になるわけだ。
問題はこのお金を「彼女」が「どっかの親父」に返してくれるかどうかだけど、そこは親父次第だからこっちはしらん。ただビジネスモデルとしては問題なくやっていけると言うことだ。
他にも現地企業を利用した節税も可能である。どれもそれぞれの国においては合法である。ただ問題は、そういう事を理解した上で国際法規の「ずれ」をうまく利用して節税するだけの気合があるかどうかである。
一時期日本で外資が銀行株を売り買いして数百億円の大儲け、ところが欧州のある国を経由する事で納税ゼロにしてしまい日本の税務署が「くそー!」ってなったことがある。
こんな風に個人が政府に対して「ふざけんな、お前らは引っ込んでろ!」と言うだけの気合があるかどうか。相続対策はすべてにおいてそこに尽きると思う。
2010年03月22日
相続・贈与・節税の実際 その1
今読んでる本のタイトル。
日本では資産家が三代続けば相続で財産は全部なくなるって言い方をされる。実際に日本の相続税を考えれば、一生懸命働いた人が財産を残すと、最高税率50%!が政府によって分捕られる。
政府からすれば「お前がカネ稼ぐのを法律面や治安面で守ったのが政府でしょうが」と言うかもしれないが、納税者からすれば「ざけんな、そんなもん所得税とか市民税を払ってるだろうがよ、大体が国民の年金財源を空っぽにしやがって」と言う気持ちだろう。
だいいち同じ所得の源泉に対して二度課税しないって言う税金の大原則はどこにいったのだとなる。つまり働いて収入を得てすでに所得税も住民税も払ってそれで国民としての義務を果たしているのに、残ったお金に更に課税するなんておかしくないか?
けどそこはお上、表立って逆らう事は出来ないので、何とか子供にお金を残す為の節税を考える。
この点ニュージーランドでは、家族の財布は一つと看做す習慣がある。もちろんニュージーランドでも相続税(GiftTax)があり、最高税率は25%(ほんとはもっと細かいけど詳細は略)かかるんだけど、家族がきちんと家族信託会社を作って弁護士に運営を依頼しておけば、殆どの財産は家族に残しておく事が出来る。
これは政府とか国家の考え方の違いだからどっちが良いとは言えない。
共産国家においては(つまり日本においては)本人が作った財産は本人が死んだ時点で全額政府に返すべきだ、その財源を持って社会に再配分すると言う考え方がある。
死んだ人の子供が「あれは親父の金、だからオレのカネ」なんて理屈は認めない。資産はそれぞれ個人のものであり、家族全体のものではない。
第一、政府が資産を国家で運用するほうが国民全体の幸せに繋がるではないかとなるのだ。だいいちそのカネって、子供が努力して作ったものではないよね、何で血が繋がっているってだけで相続の権利を認めるのか?
けど英国の制度を持っているニュージーランドでは、親が作った個人資産を政府がかっぱらう事はダ〜メである。
何故なら政府の役目は出来る限りちっちゃく、国民の財産は国民同士で話し合ってね、政府は関与しませんって感じ。
その代わりお金を使えばその分にしっかりと消費税(現在は12.5%、近いうちに15%くらいにする予定⇒その代わり所得税を減税する予定)を課税するので、親からカネを引き継いだ“ばかぼん”ちゃん、じゃんじゃんお金を使ってねと言う発想である。
結果的には一つの国家の国内でいつの時点で課税するか、政府が没収するかってのが問題なんだけど、これが死亡相続の発生した時点でがば!っとやってしまうのが日本で、死んだ後にぼんが乱費して消費税でがぽ!ってのがニュージーランドと思ってもらえば、ざくっとした意味では間違いないと思う。
じゃあ国をまたいで相続が発生した場合はどうなるのかってのが今日のお題だ。
世界中殆どの国ではその国内法において「国をまたぐ」と言う発想は組み入れられてない。なぜなら法律が出来た100年前にはこれほど国際移動が簡単になりインターネットがここまで発達するとは予測していなかったからだ。
だから1990年代までは国をまたいだ相続に関しては殆ど非課税であったし、税務署に「すみません、海外資産が〜」なんて聞くと、税務署職員はどきっとした顔で「え?あ?そうなんですか、えっと〜、まあ申告しなくてもいいと思いますよ・・・」程度だった。
それが段々海外相続が無税と気付いた人々が節税対策として海外を使うようになると、税務署も本格的に「よっしゃ、税金獲ったるで〜!」と燃え上がるのが2000年に入ってからである。
それまでの相続税法を大きく変更して、海外相続も日本で課税出来る様に仕組みを変えた。
そこまではOKなのだが、ここで問題になるのは海外相続の場合、税金を取り立てるのは日本だけではなく海外相続を行う国の納税当局もあるってこと。
つまりニュージーランドの納税制度と日本の納税制度のすりあわせが必要で、これが一般的に言われる「租税協定」となる。
租税協定には様々な条項があるけど、取れるものなら何処の国の政府だって課税したい、ましてや自国の制度では課税されないのに東洋の島国が当国家の居住日本人に対して課税するんなら、おれだってやっちゃうぜ!みたいなことになる。
だもんでそこはプロの強盗同士の話し合い、どっちの取り分がいくらかって話になるんだけど、なにせ21世紀現在の国際社会においては審判が存在しないので、どこの国も自国の利益の最大化を図ろうとする。
その最たる例がタックスヘイブンと呼ばれるバージン諸島とかクックアイランドとなるわけで、それに続くのがシンガポールや香港である。
続く
日本では資産家が三代続けば相続で財産は全部なくなるって言い方をされる。実際に日本の相続税を考えれば、一生懸命働いた人が財産を残すと、最高税率50%!が政府によって分捕られる。
政府からすれば「お前がカネ稼ぐのを法律面や治安面で守ったのが政府でしょうが」と言うかもしれないが、納税者からすれば「ざけんな、そんなもん所得税とか市民税を払ってるだろうがよ、大体が国民の年金財源を空っぽにしやがって」と言う気持ちだろう。
だいいち同じ所得の源泉に対して二度課税しないって言う税金の大原則はどこにいったのだとなる。つまり働いて収入を得てすでに所得税も住民税も払ってそれで国民としての義務を果たしているのに、残ったお金に更に課税するなんておかしくないか?
けどそこはお上、表立って逆らう事は出来ないので、何とか子供にお金を残す為の節税を考える。
この点ニュージーランドでは、家族の財布は一つと看做す習慣がある。もちろんニュージーランドでも相続税(GiftTax)があり、最高税率は25%(ほんとはもっと細かいけど詳細は略)かかるんだけど、家族がきちんと家族信託会社を作って弁護士に運営を依頼しておけば、殆どの財産は家族に残しておく事が出来る。
これは政府とか国家の考え方の違いだからどっちが良いとは言えない。
共産国家においては(つまり日本においては)本人が作った財産は本人が死んだ時点で全額政府に返すべきだ、その財源を持って社会に再配分すると言う考え方がある。
死んだ人の子供が「あれは親父の金、だからオレのカネ」なんて理屈は認めない。資産はそれぞれ個人のものであり、家族全体のものではない。
第一、政府が資産を国家で運用するほうが国民全体の幸せに繋がるではないかとなるのだ。だいいちそのカネって、子供が努力して作ったものではないよね、何で血が繋がっているってだけで相続の権利を認めるのか?
けど英国の制度を持っているニュージーランドでは、親が作った個人資産を政府がかっぱらう事はダ〜メである。
何故なら政府の役目は出来る限りちっちゃく、国民の財産は国民同士で話し合ってね、政府は関与しませんって感じ。
その代わりお金を使えばその分にしっかりと消費税(現在は12.5%、近いうちに15%くらいにする予定⇒その代わり所得税を減税する予定)を課税するので、親からカネを引き継いだ“ばかぼん”ちゃん、じゃんじゃんお金を使ってねと言う発想である。
結果的には一つの国家の国内でいつの時点で課税するか、政府が没収するかってのが問題なんだけど、これが死亡相続の発生した時点でがば!っとやってしまうのが日本で、死んだ後にぼんが乱費して消費税でがぽ!ってのがニュージーランドと思ってもらえば、ざくっとした意味では間違いないと思う。
じゃあ国をまたいで相続が発生した場合はどうなるのかってのが今日のお題だ。
世界中殆どの国ではその国内法において「国をまたぐ」と言う発想は組み入れられてない。なぜなら法律が出来た100年前にはこれほど国際移動が簡単になりインターネットがここまで発達するとは予測していなかったからだ。
だから1990年代までは国をまたいだ相続に関しては殆ど非課税であったし、税務署に「すみません、海外資産が〜」なんて聞くと、税務署職員はどきっとした顔で「え?あ?そうなんですか、えっと〜、まあ申告しなくてもいいと思いますよ・・・」程度だった。
それが段々海外相続が無税と気付いた人々が節税対策として海外を使うようになると、税務署も本格的に「よっしゃ、税金獲ったるで〜!」と燃え上がるのが2000年に入ってからである。
それまでの相続税法を大きく変更して、海外相続も日本で課税出来る様に仕組みを変えた。
そこまではOKなのだが、ここで問題になるのは海外相続の場合、税金を取り立てるのは日本だけではなく海外相続を行う国の納税当局もあるってこと。
つまりニュージーランドの納税制度と日本の納税制度のすりあわせが必要で、これが一般的に言われる「租税協定」となる。
租税協定には様々な条項があるけど、取れるものなら何処の国の政府だって課税したい、ましてや自国の制度では課税されないのに東洋の島国が当国家の居住日本人に対して課税するんなら、おれだってやっちゃうぜ!みたいなことになる。
だもんでそこはプロの強盗同士の話し合い、どっちの取り分がいくらかって話になるんだけど、なにせ21世紀現在の国際社会においては審判が存在しないので、どこの国も自国の利益の最大化を図ろうとする。
その最たる例がタックスヘイブンと呼ばれるバージン諸島とかクックアイランドとなるわけで、それに続くのがシンガポールや香港である。
続く
2010年03月21日
中央日報社説国際結婚
【社説】国の恥になる国際結婚の慣行は根絶すべき
韓国人の国際結婚は増加の一途をたどっている。全結婚10件に1件だ。これらの間で生まれた子どもの数も昨年10万人を超えた。
多文化家庭の増加は運がよければ少子化・高齢化に苦しむ韓国社会に大きな活力素になる。また外国人配偶者たちは子どもと一緒に出身国家と韓国間友好を進める懸け橋の役割も担ってくれる。
しかし残念ながら現実とは距離が遠い。結婚の第一ボタンをかける第一段階から人権侵害と詐欺が広がっている。乱立した仲介業者が「花嫁保証制実施」「出会いから結婚までたったの7日」など広告を掲げ、まるで外国人女性たちを売ってしまうような行動を見せている。すると友好増進どころか該当の国家で嫌韓世論ばかり大きくなる状況だ。
ついに最近、カンボジア政府が韓国に対して国際結婚の暫定中断措置を知らせるまでになった。
ある仲介業者が韓国男性1人対現地女性25人の見合いを取り持ち、摘発されたのがきっかけだった。これを人身売買と見たカンボジア政府は、再発防止の体制が整うまで結婚を許可できない立場だという。
まったく恥ずかしくて顔をあげることさえできない。今回が初めてではないのでなおさらだ。カンボジアは2008年3月にも同じ理由で暫定中断措置を取っている。
先立って2007年にはベトナム政府が国際結婚を申し込んだ韓国男性に対し、一人ひとり資格審査をすると通告し、2005年、フィリピン外交部も自国の女性たちに注意を促した。
ここに韓国政府も2008年6月、国際結婚仲介業を登録制に転換して対応している。しかし今後も不法行為が幅を利かせているのを見れば、政府の管理・監督がずさんだったという話だ。
これ以上国の恥をかかないよう、徹底的な実態の調査と取り締まりを行うべきだ。結婚を前にした夫婦を対象に言語と両国文化の違いなどに対する教育も強化しなければならない。
意思疎通の困難から、対立、暴力や離婚、自殺に至るケースが多いからだ。何より外国人配偶者たちの安着に障害物になる韓国社会の差別的視線から早くさくさなければならないだろう。
中央日報より 2010年3月22日
[プノンペン 20日 ロイター] カンボジア政府は20日、同国人女性と韓国人男性との国際結婚を一時的に禁止すると発表した。人身売買に当たるとの懸念を受けた措置だという。
政府スポークスマンによると、韓国人男性との結婚を仲介した女が、カンボジア人の少女25人から金を受け取り、10年の禁固刑を受けている。
警察はロイターに対し、この女は、韓国人男性に妻として選ばれた少女にそれぞれ100ドルを支払わせていたと説明。カンボジアでは、結婚の仲介手数料を取ることは違法だという。
★記事終了
そういえば日本でも以前、農村の跡取り息子の嫁が見つからなくてフィリピンから大量にお嫁さんを募集すると言うことがあった。
あの時、日本でも社会ネタにはなったが今回の韓国のような「恥ずかしい」と言う表現は出なかったと思う。
日本の農家で姑の冷たい視線に晒されながら面白くもない農作業をすることが当時の日本人未婚女性からすれば「あり得ん結婚相手」となるわけだが、フィリピン女性からすれば世界で最も裕福な国の一つで永住権が取得出来て家族にたっぷりと仕送りが出来て、フィリピンでやってた農作業をして夜は子供作りに励んで、その子供が日本社会でオトナになればフィリピンの親戚が日本に来る機会も出来るし仕送りも出来るし、よいことばかりではないかとなる。
農家の青年からすれば言葉が通じるばかりにかえって辛い思いをする日本人女性よりは、こんなおれにも優しく尽くしてくれるし家族を大事にしてくれる我慢強いフィリピン女性の方がずっと有難いわけだ。(フィリピン女性に人気があるってのは今も日本でフィリピンバーが流行っているのを見てもよく分かる。ぼくは個人的にはどうしても好きになれないが)
つまり参加者全員がWINWINなんだから、農村の跡継ぎ問題も解決するし良いのではないかって空気が社会にあったような気がする。
その根底にはやっぱり「うちを守る」と言う日本的感覚があるんだろう。それは韓国でも同じではないか。
ただそれが行き過ぎて「出会いから結婚まで7日間」と言うウリ文句を表に出してみたりして、何となく一応民主主義の世の中では「愛」とか「恋」って言葉をそれなりに表に出しておかないとOKじゃないのが、まるで食品スーパーの夕方のバーゲンのようになったから問題となったのか。
実質的な部分が「家を守る、家系を守る」と言うだけなら日本だって恋愛抜きの結婚は古くから行われている。日本では出会いの前からすでにほぼ結婚が決まっている政略結婚もあれば、結婚を前提とした伝統的な「お見合い」だってある。
「ちょっと会うだけだからいいでしょ、あたしの顔を立ててさ〜」なんて言いながらも最終目標は結婚なんだから、結婚紹介所もお見合いdaisukiおばさんもやってる事は同じである。
ただ国際結婚の大変さと言うのはこれとは全く別問題である。言葉が通じないもの同士が一緒にやってくってのはかなり大変で、だからこそ10年以内の離婚率80%なんて数字もあるくらいだ。
この件、自分が国際結婚してるもんだから、おまけにまともな日本のお見合い文化をあまり理解出来ない性格であり、更に言えば「家」とか「家系」とか「家督」とかが超大嫌いなもんだから、あまりまとまらないな。
てかまともに描くにはテーマでかすぎるので、今回はここで筆折り。
韓国人の国際結婚は増加の一途をたどっている。全結婚10件に1件だ。これらの間で生まれた子どもの数も昨年10万人を超えた。
多文化家庭の増加は運がよければ少子化・高齢化に苦しむ韓国社会に大きな活力素になる。また外国人配偶者たちは子どもと一緒に出身国家と韓国間友好を進める懸け橋の役割も担ってくれる。
しかし残念ながら現実とは距離が遠い。結婚の第一ボタンをかける第一段階から人権侵害と詐欺が広がっている。乱立した仲介業者が「花嫁保証制実施」「出会いから結婚までたったの7日」など広告を掲げ、まるで外国人女性たちを売ってしまうような行動を見せている。すると友好増進どころか該当の国家で嫌韓世論ばかり大きくなる状況だ。
ついに最近、カンボジア政府が韓国に対して国際結婚の暫定中断措置を知らせるまでになった。
ある仲介業者が韓国男性1人対現地女性25人の見合いを取り持ち、摘発されたのがきっかけだった。これを人身売買と見たカンボジア政府は、再発防止の体制が整うまで結婚を許可できない立場だという。
まったく恥ずかしくて顔をあげることさえできない。今回が初めてではないのでなおさらだ。カンボジアは2008年3月にも同じ理由で暫定中断措置を取っている。
先立って2007年にはベトナム政府が国際結婚を申し込んだ韓国男性に対し、一人ひとり資格審査をすると通告し、2005年、フィリピン外交部も自国の女性たちに注意を促した。
ここに韓国政府も2008年6月、国際結婚仲介業を登録制に転換して対応している。しかし今後も不法行為が幅を利かせているのを見れば、政府の管理・監督がずさんだったという話だ。
これ以上国の恥をかかないよう、徹底的な実態の調査と取り締まりを行うべきだ。結婚を前にした夫婦を対象に言語と両国文化の違いなどに対する教育も強化しなければならない。
意思疎通の困難から、対立、暴力や離婚、自殺に至るケースが多いからだ。何より外国人配偶者たちの安着に障害物になる韓国社会の差別的視線から早くさくさなければならないだろう。
中央日報より 2010年3月22日
[プノンペン 20日 ロイター] カンボジア政府は20日、同国人女性と韓国人男性との国際結婚を一時的に禁止すると発表した。人身売買に当たるとの懸念を受けた措置だという。
政府スポークスマンによると、韓国人男性との結婚を仲介した女が、カンボジア人の少女25人から金を受け取り、10年の禁固刑を受けている。
警察はロイターに対し、この女は、韓国人男性に妻として選ばれた少女にそれぞれ100ドルを支払わせていたと説明。カンボジアでは、結婚の仲介手数料を取ることは違法だという。
★記事終了
そういえば日本でも以前、農村の跡取り息子の嫁が見つからなくてフィリピンから大量にお嫁さんを募集すると言うことがあった。
あの時、日本でも社会ネタにはなったが今回の韓国のような「恥ずかしい」と言う表現は出なかったと思う。
日本の農家で姑の冷たい視線に晒されながら面白くもない農作業をすることが当時の日本人未婚女性からすれば「あり得ん結婚相手」となるわけだが、フィリピン女性からすれば世界で最も裕福な国の一つで永住権が取得出来て家族にたっぷりと仕送りが出来て、フィリピンでやってた農作業をして夜は子供作りに励んで、その子供が日本社会でオトナになればフィリピンの親戚が日本に来る機会も出来るし仕送りも出来るし、よいことばかりではないかとなる。
農家の青年からすれば言葉が通じるばかりにかえって辛い思いをする日本人女性よりは、こんなおれにも優しく尽くしてくれるし家族を大事にしてくれる我慢強いフィリピン女性の方がずっと有難いわけだ。(フィリピン女性に人気があるってのは今も日本でフィリピンバーが流行っているのを見てもよく分かる。ぼくは個人的にはどうしても好きになれないが)
つまり参加者全員がWINWINなんだから、農村の跡継ぎ問題も解決するし良いのではないかって空気が社会にあったような気がする。
その根底にはやっぱり「うちを守る」と言う日本的感覚があるんだろう。それは韓国でも同じではないか。
ただそれが行き過ぎて「出会いから結婚まで7日間」と言うウリ文句を表に出してみたりして、何となく一応民主主義の世の中では「愛」とか「恋」って言葉をそれなりに表に出しておかないとOKじゃないのが、まるで食品スーパーの夕方のバーゲンのようになったから問題となったのか。
実質的な部分が「家を守る、家系を守る」と言うだけなら日本だって恋愛抜きの結婚は古くから行われている。日本では出会いの前からすでにほぼ結婚が決まっている政略結婚もあれば、結婚を前提とした伝統的な「お見合い」だってある。
「ちょっと会うだけだからいいでしょ、あたしの顔を立ててさ〜」なんて言いながらも最終目標は結婚なんだから、結婚紹介所もお見合いdaisukiおばさんもやってる事は同じである。
ただ国際結婚の大変さと言うのはこれとは全く別問題である。言葉が通じないもの同士が一緒にやってくってのはかなり大変で、だからこそ10年以内の離婚率80%なんて数字もあるくらいだ。
この件、自分が国際結婚してるもんだから、おまけにまともな日本のお見合い文化をあまり理解出来ない性格であり、更に言えば「家」とか「家系」とか「家督」とかが超大嫌いなもんだから、あまりまとまらないな。
てかまともに描くにはテーマでかすぎるので、今回はここで筆折り。
2010年03月20日
東日流外三郡誌 ―斉藤光政 (東奥日報社編集員)―
ぼくが初めて東北という地域を意識したのは今から30年くらい前で、西村寿行が何かの対談で「現在の東北が大雪の降る田舎だからって、今から千年前だったらもしかしたら温暖で貿易が盛んで日本の中心だったかもしれません」みたいなことを書いてた頃だ。
当時は「東日流外三郡誌」どころか東北の歴史を全く知らないままに「ほ〜、東北か〜」と思うくらいだった。
何故なら南国の九州生まれ九州育ち、太陽ってのは一年中燦々と輝いて海は真っ青で山は緑なんだから、冬の空がどんよりしてて海が黒っぽくて山が雪でくすんでる場所は想像もつかない。ましてやそこに王国があった?
今から考えれば全く失礼な話だが、高校生の頃の視点は単純なもので、物理的にソウルや上海よりも遠いわけだし、心理的には米国や欧州よりも遠く、移動方法だって昭和中期の青森には新幹線もないし、大体西日本の人間からすれば上野駅と言うイメージさえ分からない。
福岡からソウルに飛行機で飛んだり釜山にフェリーで行くほうがよっぽど近いのだから、どうしても日本史の歴史の片隅であり、むしろその後仕事で飛行機に乗ってしょっちゅう行くようになった北海道の方が余程近い感じを受けていたものだ。
むかし東北にいたと言われるアラハバキ族よりも、目の前に見る白老のアイヌ資料館の方がぼくにとっては興味があり、ニュージーランドに渡った後も、アイヌとマオリ、琉球民族の繋がりの方がずっと興味を持てた。
何せアイヌ、マオリ、琉球民族と来ればムー大陸である、夢が広がるではないか。
そんな頃、つい数年前に偶然江戸時代の北方貿易の本を読むことがあり、そこで「十三湊」を知ることになる。
http://tom.livedoor.biz/archives/51137552.html#
2008年5月のブログ
江戸時代以前から中国北部、モンゴル、蝦夷、樺太、ロシアなどの北方諸国との交易地点として栄えたいた十三湊は弘前から西に行った日本海に面した貿易港である。
鎌倉時代以前から栄えていたとかいろんな説があるが、1100年代頃は多くの外国人が住み彼らの様式の建物が並べられて、まるで今の(じゃなかった)、明治から大正にかけての函館のようであったらしい。
家族で桜を見に行く事になり生まれて初めて東北の地に足を踏み入れてその文化の奥深さにびっくりした。こんな東北の山の中にこれだけの文化があるとは。
十三湊に興味を持ち少し調べているうちにたどり着いたのがこの本「東日流外三郡誌」である。
1970年代に青森の旧家で発見された古文書、その内容は今までの日本の正史をすべてひっくり返すような内容であった!
宇宙の創造はビッグバンだった!
ダーウィンよりも早く進化論を書いていた!
縄文の昔、東北は日本の中心であった!
東北文化は十三湊を通して世界と交易を行っていた!
福沢諭吉の学問のススメは三郡誌のコピーである!
天皇とのつながりもたくさん書いてるけどきりない。
てな感じで当時の人々の気持ちにもぴたりと嵌ったようで、当時の歴史家や宗教団体、政治団体なども多くこの本の内容を引用して、安保に破れた若者や宗教に走る人々が当時の自民党体制を批判する材料として使われた。
偽書事件とも呼ばれているのは、この三郡誌が実は第一発見者である和田氏が自分で作ったものでありフィクション、つまり事実でないかという疑問である。
なにせ最初に「発見」されてからも数十年、「第一発見者」である和田氏が亡くなった後も裁判にまでなった事件である。
1975年に青森県五所川原市(市浦村)の村史資料編として公表され社会に大きな影響を与え(オウム真理教にも利用された)、1992年に著作権侵害などの裁判が起こされ、地裁から最高裁まで続き結局1997年に最高裁による「上訴棄却」で終了。
しかしその後も議論は続き、2003年に記者により最終的に和田氏が発見したとされる旧家の実地調査により「原書が存在するような物理的場所は存在せず、建物自体も1940年代に作られたもの」と言う事実が判明し、さらに和田氏の親戚(戦後一時この旧家にも住んでいた)からも「あんたら、ばっかじゃないの?」と言うことで、現在ではほぼ「偽書」と多くの人に認識されている。
面白い事にこの三郡誌を「本物」と考える擁護派の一番の論点は「あんな東北の片田舎の親父にこれだけの膨大な量(三千数百巻)の江戸時代(当時の書体、筆書き、紙質)に書かれたように見せることが出来るわけなどない」と言う、つまり和田氏が低脳であると言う主張に対して、反対派は「いや、彼は実は優秀な知能を持っており歴史にも詳しく若い頃から書もしたため絵も書く、非常に慧眼な人であった」と褒めている点である。
「東日流三郡誌」は偶然三郡誌事件を最初から取り扱うことになった東奥日報の記者による時系列に書かれた記録である。
内容は検索すれば山ほど出てくるので横に置くとして、この本が本当に江戸時代に書かれたものであるかどうかが最初の問題となった。
じゃあもしこれが江戸時代に書かれたものでなかったとすれば?けどこれに対する答は簡単で、「そのとおり、“これ”は江戸時代に書かれたものではありません、わたしの先祖が書き写した写本です」と言ってるのだから、細かい日時を別にすれば江戸時代の原本でないからと言って問題はないだろう。
次の問題点として、この本はもしかしたら発見者である和田氏の「空想で書いた本ではないか」と言うことだが、これは空想だけで書いたのではない事は事実。
何故ならこの本には歴史的に証明された事もたくさん書かれていて、それらの離れた小島のような事実を大胆な推測と言う橋を架けて繋いだとすればそれなりに推測と空想で作られた「小説」である。
小説に対して「内容が荒唐無稽である」と言ったところで意味はない。それが小説なのだから。
だから反対派が問題点と指摘できるのは、和田氏が「この本の原本は江戸時代に書かれた」という言葉が嘘だという点である。
つまりこの本の作者と言われた秋田孝季という江戸時代後期の作者が存在せずに、和田氏が空想で作り出した人物であると言う指摘。
それでなに?
空想だったらどんな人物がいてもいいでしょ、シャーロックホームズだって小説だけど人々はシャーロックホームズがまるで実在だったように扱っている。
イザヤベンダサンと言うユダヤ人が1970年に「日本人とユダヤ人」と言う「本」を書いて大宅荘一ノンフィクション賞まで取ったのだが、実はそれは山本七平と言う書店の親父が書いた本であると後日判明した。
けどその後も山本七平はイザヤベンダサンの名前で本を出して、あげくの果てに「ありゃあおれのペンネームだよ」とまで公表したのは有名な話である。
東奥日報記者の斉藤光政がその本の最後に「もし私が和田氏存命の頃に直接会う事が出来て突っ込んだ話をさせてもらえば、もしかしたら彼はにやっと笑って“あんなもん、おれが書いたに決まってるだろ”と言ったかもしれないな」と感想を述べさせるほどである。
つまりもし、和田氏が最初から「これは小説だけど面白いよ、一つ一つは歴史の事実で、それをオレが一つのワッカで繋げてみせたのさ、興味があるなら読んでくれ」とやってれば・・・。歴史に“もし”はないけれど。
しかし逆に言えば、和田氏がここまで「こりゃホンモンだ!」と貫き通したからこそ、地方の一小説で終わらずに日本全体に東北の歴史を知らしめたという意味では、本来この本を擁護する人々の望むところは叶ったのではないかと思う。
それにしても東北。この本がなくても実は面白いねたはいくらでもある。
青森にある三内丸山遺跡は今から5千年前に古代縄文人が作った日本最大の集落である。5千年前ですぜ、その頃トヨタがあったのか?
十三湊もまだまだ発掘中であり、この湊と世界がどのような古代貿易の世界に広がっていくか分からない。
偶然だがこの近く、六ヶ所村では原発問題が起こっている。
東北を活性化させる手段はいろいろあるだろう。しかし人々の心に誇りを与えて自信を持たせて、おれたちの生まれ育った場所はすごいんだ、そういう気概を持たせる意味でも古代の歴史を再発見すると言うのは楽しい仕事である。
偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件
著者:斉藤 光政
販売元:新人物往来社
発売日:2006-11
おすすめ度:
クチコミを見る
幻想の津軽王国―『東日流外三郡誌』の迷宮
著者:原田 実
販売元:批評社
発売日:1998-09
クチコミを見る
当時は「東日流外三郡誌」どころか東北の歴史を全く知らないままに「ほ〜、東北か〜」と思うくらいだった。
何故なら南国の九州生まれ九州育ち、太陽ってのは一年中燦々と輝いて海は真っ青で山は緑なんだから、冬の空がどんよりしてて海が黒っぽくて山が雪でくすんでる場所は想像もつかない。ましてやそこに王国があった?
今から考えれば全く失礼な話だが、高校生の頃の視点は単純なもので、物理的にソウルや上海よりも遠いわけだし、心理的には米国や欧州よりも遠く、移動方法だって昭和中期の青森には新幹線もないし、大体西日本の人間からすれば上野駅と言うイメージさえ分からない。
福岡からソウルに飛行機で飛んだり釜山にフェリーで行くほうがよっぽど近いのだから、どうしても日本史の歴史の片隅であり、むしろその後仕事で飛行機に乗ってしょっちゅう行くようになった北海道の方が余程近い感じを受けていたものだ。
むかし東北にいたと言われるアラハバキ族よりも、目の前に見る白老のアイヌ資料館の方がぼくにとっては興味があり、ニュージーランドに渡った後も、アイヌとマオリ、琉球民族の繋がりの方がずっと興味を持てた。
何せアイヌ、マオリ、琉球民族と来ればムー大陸である、夢が広がるではないか。
そんな頃、つい数年前に偶然江戸時代の北方貿易の本を読むことがあり、そこで「十三湊」を知ることになる。
http://tom.livedoor.biz/archives/51137552.html#
2008年5月のブログ
江戸時代以前から中国北部、モンゴル、蝦夷、樺太、ロシアなどの北方諸国との交易地点として栄えたいた十三湊は弘前から西に行った日本海に面した貿易港である。
鎌倉時代以前から栄えていたとかいろんな説があるが、1100年代頃は多くの外国人が住み彼らの様式の建物が並べられて、まるで今の(じゃなかった)、明治から大正にかけての函館のようであったらしい。
家族で桜を見に行く事になり生まれて初めて東北の地に足を踏み入れてその文化の奥深さにびっくりした。こんな東北の山の中にこれだけの文化があるとは。
十三湊に興味を持ち少し調べているうちにたどり着いたのがこの本「東日流外三郡誌」である。
1970年代に青森の旧家で発見された古文書、その内容は今までの日本の正史をすべてひっくり返すような内容であった!
宇宙の創造はビッグバンだった!
ダーウィンよりも早く進化論を書いていた!
縄文の昔、東北は日本の中心であった!
東北文化は十三湊を通して世界と交易を行っていた!
福沢諭吉の学問のススメは三郡誌のコピーである!
天皇とのつながりもたくさん書いてるけどきりない。
てな感じで当時の人々の気持ちにもぴたりと嵌ったようで、当時の歴史家や宗教団体、政治団体なども多くこの本の内容を引用して、安保に破れた若者や宗教に走る人々が当時の自民党体制を批判する材料として使われた。
偽書事件とも呼ばれているのは、この三郡誌が実は第一発見者である和田氏が自分で作ったものでありフィクション、つまり事実でないかという疑問である。
なにせ最初に「発見」されてからも数十年、「第一発見者」である和田氏が亡くなった後も裁判にまでなった事件である。
1975年に青森県五所川原市(市浦村)の村史資料編として公表され社会に大きな影響を与え(オウム真理教にも利用された)、1992年に著作権侵害などの裁判が起こされ、地裁から最高裁まで続き結局1997年に最高裁による「上訴棄却」で終了。
しかしその後も議論は続き、2003年に記者により最終的に和田氏が発見したとされる旧家の実地調査により「原書が存在するような物理的場所は存在せず、建物自体も1940年代に作られたもの」と言う事実が判明し、さらに和田氏の親戚(戦後一時この旧家にも住んでいた)からも「あんたら、ばっかじゃないの?」と言うことで、現在ではほぼ「偽書」と多くの人に認識されている。
面白い事にこの三郡誌を「本物」と考える擁護派の一番の論点は「あんな東北の片田舎の親父にこれだけの膨大な量(三千数百巻)の江戸時代(当時の書体、筆書き、紙質)に書かれたように見せることが出来るわけなどない」と言う、つまり和田氏が低脳であると言う主張に対して、反対派は「いや、彼は実は優秀な知能を持っており歴史にも詳しく若い頃から書もしたため絵も書く、非常に慧眼な人であった」と褒めている点である。
「東日流三郡誌」は偶然三郡誌事件を最初から取り扱うことになった東奥日報の記者による時系列に書かれた記録である。
内容は検索すれば山ほど出てくるので横に置くとして、この本が本当に江戸時代に書かれたものであるかどうかが最初の問題となった。
じゃあもしこれが江戸時代に書かれたものでなかったとすれば?けどこれに対する答は簡単で、「そのとおり、“これ”は江戸時代に書かれたものではありません、わたしの先祖が書き写した写本です」と言ってるのだから、細かい日時を別にすれば江戸時代の原本でないからと言って問題はないだろう。
次の問題点として、この本はもしかしたら発見者である和田氏の「空想で書いた本ではないか」と言うことだが、これは空想だけで書いたのではない事は事実。
何故ならこの本には歴史的に証明された事もたくさん書かれていて、それらの離れた小島のような事実を大胆な推測と言う橋を架けて繋いだとすればそれなりに推測と空想で作られた「小説」である。
小説に対して「内容が荒唐無稽である」と言ったところで意味はない。それが小説なのだから。
だから反対派が問題点と指摘できるのは、和田氏が「この本の原本は江戸時代に書かれた」という言葉が嘘だという点である。
つまりこの本の作者と言われた秋田孝季という江戸時代後期の作者が存在せずに、和田氏が空想で作り出した人物であると言う指摘。
それでなに?
空想だったらどんな人物がいてもいいでしょ、シャーロックホームズだって小説だけど人々はシャーロックホームズがまるで実在だったように扱っている。
イザヤベンダサンと言うユダヤ人が1970年に「日本人とユダヤ人」と言う「本」を書いて大宅荘一ノンフィクション賞まで取ったのだが、実はそれは山本七平と言う書店の親父が書いた本であると後日判明した。
けどその後も山本七平はイザヤベンダサンの名前で本を出して、あげくの果てに「ありゃあおれのペンネームだよ」とまで公表したのは有名な話である。
東奥日報記者の斉藤光政がその本の最後に「もし私が和田氏存命の頃に直接会う事が出来て突っ込んだ話をさせてもらえば、もしかしたら彼はにやっと笑って“あんなもん、おれが書いたに決まってるだろ”と言ったかもしれないな」と感想を述べさせるほどである。
つまりもし、和田氏が最初から「これは小説だけど面白いよ、一つ一つは歴史の事実で、それをオレが一つのワッカで繋げてみせたのさ、興味があるなら読んでくれ」とやってれば・・・。歴史に“もし”はないけれど。
しかし逆に言えば、和田氏がここまで「こりゃホンモンだ!」と貫き通したからこそ、地方の一小説で終わらずに日本全体に東北の歴史を知らしめたという意味では、本来この本を擁護する人々の望むところは叶ったのではないかと思う。
それにしても東北。この本がなくても実は面白いねたはいくらでもある。
青森にある三内丸山遺跡は今から5千年前に古代縄文人が作った日本最大の集落である。5千年前ですぜ、その頃トヨタがあったのか?
十三湊もまだまだ発掘中であり、この湊と世界がどのような古代貿易の世界に広がっていくか分からない。
偶然だがこの近く、六ヶ所村では原発問題が起こっている。
東北を活性化させる手段はいろいろあるだろう。しかし人々の心に誇りを与えて自信を持たせて、おれたちの生まれ育った場所はすごいんだ、そういう気概を持たせる意味でも古代の歴史を再発見すると言うのは楽しい仕事である。
偽書「東日流(つがる)外三郡誌」事件
著者:斉藤 光政
販売元:新人物往来社
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幻想の津軽王国―『東日流外三郡誌』の迷宮
著者:原田 実
販売元:批評社
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2010年03月19日
社民党 終わりの始まり
ある意味いままで十分おいしい汁を吸って来たんだからもう良いでしょって感じがするのはぼくだけではなかろう。
社会党として存在してた頃は野党として民衆のガス抜き機能を果たすために現場組合員をただでこき使い真夏の沖縄で米軍反対運動をさせながら自分たち労働貴族は東京のクーラーの効いた部屋の中で「あんたも悪ですな〜」と自民党と仲良く人生を謳歌してたんだから、もうこのへんでやめれば?
そんなこと思ってたら、福島党首が国会で爆弾発言、自衛隊を合憲として原発容認に走ったのだから、いよいよこれで社民党の自滅である。
自民党の本名は自由民主党で、つまり国民に民衆主義と経済的自由を与えた。その代わり政治には口出すな、黙ってろって方法だ。
民主党じゃ民主主義をたくさんあげるけど自由はないよってことだ。いかにも小沢さんらしい、自由は完全に政府によってコントロールされた中にあるって考えだ⇒全体主義でもある。
これに対して(もともと)社会党は「素晴らしき新世界」=社会をブラザーと共に作るんだけど、そこには対等な立場としてのブラザー(民衆)はいない。あくまでもブラザーという名前の独裁者である。
あくまでも社会主義の名を借りた独裁であり社会を支える「同志だけ」が楽しく生き、残りの人間は監視されて大義のためにこき使われる世界である。
社会党が大きく割れて民主党と社民党に分裂した後の社民党は、名前を変えた後でもやっぱり社が先であり民はその後なのだから、やってることに大きな違いはない。
当時の社会党は自分たち労働貴族は鉄砲を持って国を守るわけじゃないから自衛隊違憲だとか現実離れしたことを言ってられた。
原発反対もあくまでも社会主義の名を借りて環境団体や原水協や原水禁とかのガス抜きをやってただけで、党として本気で何かをする気持ちなんてない。
当然だ、本気でやったら自民党から分け前もらえなくなるからね。それが55年体制と呼ばれるものだった。
ところが世の中が変わり民主党が強くなって本気で世直しをしようとなったら目端のきく組合の連中はとっとと民主党に鞍替え、うまい時期に原発推進自衛隊合憲と立場を変えた。
残された“とろい連中”が最後にしがみついたのが社民党と言う次第だ。社民党の支持団体は現在民間労組はなくなっている。残ってるのはピースボート、日教組、その他は左と北ですな。
ところが今回社民党は、なんと民主党と組んで原発と自衛隊というドクダンゴを食ってしまった。おまけに辺野古で最後の貞操帯まで奪われてキャーキャーと叫んでいるのが現状だ。
最初は社会党と社会主義も立派な事を教条として掲げて立派なことをやってたのだが、だんだんその生活が居心地良くなると、今度は幹部が既得権益を手放さなくなって、いつの間にか社長より在任期間が長い組合委員長がごろごろと出てくる。
委員長を辞めた後でも天下りみたいに労働関係の研究所とかなんちゃら団体顧問とか、要するに名前は違っても国民をしゃぶる仕組みは自民党と同じと言うことだ。
そうこうしているうちに組織がどんどん弱体化していき時代に合わなくなり組織率も低下するのだが、その事実に幹部たちは目をつぶる。俺の時代までは大丈夫だ、そう思って願っている。まさに自民党の先送りと同じである。
とくに最近の組合費など、ストも打てない賃上げも出来ない組合に何の存在感があるのだという意見が一般組合員から出ているのも事実だ。
民主党を支持する労組は、そうは言っても政権に入り込むことが出来て自分たちの既得権益を守って若者の失業率が増えても関係ない、おれが今、メシが食えるのは政権にいるおかげさ〜となってるから損はしてないだろう。
雇用と言う面ではまさに連合の勝利というべきだろう。若者は就職させず現在働いている組合員の首を切らせず高賃金と退職後の保障を確定させてるのだから、まさに立派な圧力団体である。
けど、社民党を支持する団体は、一体どれほどの組合費(税金)を払ってどれほどの利益を得ているのか?
組合費は一種の税金である。(この事を組合員はどれほど理解しているのか?)
税金払っているのにその金はオルグとか組織対策費とか幹部の飲み食いに使われてしまったりしてる。
こうなると自民党もびっくりの税金乱用だけど、組合の帳簿も役人団体の帳簿と同じで殆ど調べもされないし出張経費や飲み代など、どこまでホントか分からない。
空領収証なんて当たり前の時代から続いてきたビジネスモデルは、幹部になったほんの一握りの人間しか知らない事実である。
けどもうすでに議員数では衆参合わせて12名、おまけに貞操観念なしってのがばれてしまった今、どこかで引き受け手があるものなのか?
すでに時代の要請は終わってしまった団体であり、今回はついにその党是となる原発反対、自衛隊違憲、辺野古移設反対を全部ノーズロで認めてしまったわけだから、これ以上独自の党として存在する理由もないだろう。
これ以上組合員の貴重な組合費をムダにする前に解散してしまい、残ったお金は組合員に還元して「さよなら〜」ってやった方が後世において評価を受けると思うよ。
それにしてもどさくさにまぎれて民主党に潜り込んだ労組連中、ほんっと、実にうまいことやったぜ。生き残っていくのはいつもこういう連中なんだろうな。
2010年03月18日
核持込問題
タイトルのとおりなのだけど、歴代の首相が核持込について外務省から引継ぎを受けていたにも係わらず今まで「知らない、あり得ない」と嘘をつき続けてきた問題を誰も責任取らないようなので問題にしたい。
たぶん21世紀少年からすれば「過去の話」なんだろうけど、ぼくのように1970年代から80年代にかけてこの問題を見てきた立場からすれば、「おいおい、誰か責任取れよ」と言いたい。
非核三原則を導入したのは世界で唯一の被爆国として世界に訴えていく必要があるという「高貴」で「立派」な理屈であった。
だったら政府が決めた事なんだし政府が守れよと言うのが当然。ところが沖縄返還における核持込容認問題が起こる。
あの当時から核持込の密約があるって言ってて、それをスクープした記者は結局国策捜査で逮捕されて、それからも市民団体がこの問題を取組んで来たのだけど、時の政府はすべて「そんなの、ないもんね」で終わらせてた。
ところが歴代政府は核持込を知っていたのだ。
時代はバブルに入り、「もう核持込問題なんて古いかも」と言う雰囲気が出てきて佐世保にエンタープライズと言う空母が入ってきても以前ほどには問題にならず、要するに非核三原則なんてのは「もういいじゃん」と言う流れになった。
これは社会党が時代に乗り遅れて自滅していった時代とも共通するものがあるが、人々が段々と核に対して免疫が付き始めて、「まあ米国のことだから核の持込くらいやってるだろうな」とオトナっぽい対応に変わってきたのもあるのだろう。
それから日本は未曾有の不況を迎える。バブル崩壊後の大不況で日本企業に成果主義が導入され自分の首が飛ぶかどうかなんて時に今更プラカード持って「おいっちに!」と嘉手納基地を囲んでみたり佐世保でデモをするなんて非現実的なことはやってられなくなった。
それでも自民党時代は歴史的な「腐れ縁」で核持込の真実を語れなかったのが、今回民主党になったので「よっしゃ、今ならばらせるし国民も以前ほどに核アレルギーもなくなった」と判断した外務省の戦略であろう。
それはそれで良いのだ。確かに大局を考えれば1970年代当時に核持込を表ざたにしてしまえば政権が引っくり返る可能性もあったし、今なら自民党が退座したんだから今のうちに「昔の膿を出し切ってしまえ」と言う判断も正解なのだ。
民主党からすればはっきりと「ちぇ、うるせ〜な、ありゃ自民党時代の負の遺産です、だからわたしたちの時代できちんと整理しま〜す」と国母みたいに開き直って言えばよい。
ついでに言えば「自民党が黙ってたんだから自民党の問題でしょ、わたしたちはきちんと国民に伝える政党です。もちろん自民党出身の議員もいますが、彼らが核問題の事実を知っていたわけはないのだからムジツです、もちろん小沢さんだって知らなかったもんね」と言っておけばよい。あ、ここまで言うとやばいか。
ただ、あの時代を生きてきた人間からすれば、「またも現場は使い捨てですかい」と言う気持ちが諦めと共にこみ上げてくるのはどうしようもない。
出来ればこれからはあんまり秘密なしでやってもらいたいと思うのだが、これからも外務省の秘密主義は続くんだろうな。だって外務省の秘密主義の反対は公開していくことなんだけど、そんな事をいちいちやって「国民の意見」なんて聞いてたら話は進まない。
だいいち今の平和ボケ国民に既存マスコミ経由で「どうですかあ?」なんてやってもまともな回答が返ってくるわけではない。だから国益を考えれば国民に真実を伝えないと言う選択もあるだろう。だから「30年経ったらほんとの事言いますよ」ってのは現実的な解決策として正解だろう。
当時から核持込の問題点はぼくにとって少し疑問だった。何が問題なのだ?
核アレルギーと言うのは世界で唯一の被爆国だからってのが理由だけど、それ以上に社会党や共産党が政治戦略の中でお互いに「分かった上で」やっていた猿回しのような気がする。
当時の原爆、てか被爆国としての活動には社会党系が最初に取り組み、そこの分派として共産党系が別行動を取るようになった。そしてお互いの存在価値を見せるためだけに同じ日に同じ街の違う場所で原水爆禁止大会を行うという非常に現場を無視した政策行動になっていたのは事実だ。
つまり、大人の立場で子供に見せられないものを隠した自民党と、どうせ自分たちが政権を取る事はないんだからと熟知した上で子供の駄々ごとみたいに出来もしない非現実的なことをわーわー言う社会党と、早いとこ日本に共産主義を導入しようとして社会党を食い荒らしてた共産党との、ある意味三つ巴の政策闘争であった。
しかし本来の意味での非核三原則とは政策の道具ではなく国民の平和と安全を守るものであったはずだ。もともと原爆反対を訴えたのは原爆の被害を受けた市民団体であった。
その意味でこの日本と言う国は、個人がどれだけきちんとした使命をもって訴えたとしても所詮は政治に巻き込まれて政治のネタにされてしまい、終われば使い捨てである。まったくバカらしい話だ。
しかし日本に生きている限りこれを変える事は選挙でも不可能である。何故ならそれが国民性、つまりこの日本と言う固有の国土とその上で生活をする日本人全体が発する「気」みたいなものの融合体であるからだ。
先送り、臭いものには蓋をする、長いものには巻かれる、集団無責任、そんな空気の中では逆らってはいけない、まじめに自分の意見を主張するものがバカを見て潰されるだけである。
今は民主党が出てきて少しは変わり始めているが、例えば菅副総理が厚生大臣時代に薬害問題で国民の高い評価を受けたが、あれだって国民は「その場の空気の流れ」に従っただけであり、一人ひとりが本当に薬害問題を考えて菅さんを支持したわけではない。
だからこそ、まじめに考えれば考えるほど、現場でやっていれば日本と言う国の問題点が見えてくるのだ。
原爆問題で何が問題なの?そう聞くと皆が「非人間的爆弾!放射能!」と言う。具体的に何なのかを聞くと、原爆の炎で焼け爛れた人々の写真や放射線による被曝症が子供の世代まで続くという問題を挙げる市民団体の名を借りた政党。
じゃあ東京大空襲では誰も焼け爛れなかったの?被爆症の問題は分かるけど戦争だよね?相手を破壊する為に効率的な武器を使うのは当然でしょ。
こういう市民団体も最初はまともなんだけど、そのうちおかしな連中が入ってきて環境テロ団体のシーシェパードみたいなことになる。何の理屈も聞かずひたすら髪を振り回してぎゃーぎゃーと叫ぶだけの、今の日本で言えばエコテロ団体になってしまう。
ルールのない喧嘩(国民総動員による近代的戦争)を始めた以上、最初は素手で殴り合っててもそのうち相手は棒切れを持ち出す。するとこちらはライフルを持ってくる。すると相手は爆弾を持ってくる、するとこちらは・・・と言う具合にエスカレートするのが戦争である。
戦争の一部の道具だけを切り出して原爆反対と言っても現実性があまりに薄いのではないか。
もともと戦争とは外交政策の一つの手段である、そう戦争を勉強してきたぼくからすれば当時の社会党の言ってる事はどうしてもおかしいと思ってた。ただ理論的にまとめることが出来ずに「おいっちに」となったわけだが。
それでも当時、周囲に対して「原爆が悪くて東京大空襲で使ったナパームなら良いのか?問題は戦争と言う行為で外交政策を進めようとする米国等の覇道政策の問題であり、本来は米国に対して訴えるべき問題ではないか?」などと言ってた。
しかし当時は冷戦時代で、日本は米国の核の傘に守られていたと言う現実もある。だから社会党や共産党は、テレビの前では「こくみんの〜、こくみんのための〜」とのたまい原爆批判をしながら、自分たちがそれに乗っかり守られて一切の重武装をしないと言う自民党政策に追従していたのも事実である。
つまり、現場では激しい闘争をしながら東京の霞ヶ関のあたりではお互いにうまいことやってたわけだ。
あ〜あ、やっぱりいつも一番損をするのは現場ですぜ。
第二次大戦末期でも一番損をしたのは現場のヘイタイと民間人である。一番得をするのは偉そうなことを言ってヘイタイを戦地に追いやって戦後は知らんふりをして戦後日本の繁栄を享受した連中であろう。
ほんっと、日本って国はコンビニもあるし便利だけど、結局一番下で生きている限り擂り潰されるしかない運命なんだよね。
ニュージーランドは非核三原則を厳格に守り、持ち込み禁止と言う原則を徹底的に守り、1985年に米国の核搭載艦「ロジャーズ号」が来た時に追い返し、その後6年くらい米国と実質外交停止していた時期がある。
それはこの国のエネルギーの60%が自然の水力発電、40%が自前の炭鉱で取れる石炭による火力発電であり、危険な核が不要だからだ。
米国で起きたスリーマイル島事件、ロシアで起きたチェルノブイリ事件を見るまでもなく、核は一瞬の管理を怠っただけで周囲数十キロから数百キロを汚染してしまう。とくにチェルノブイリでは放射能が欧州にまで広がり被害は拡大した。
食料自給率300%の食料大国であり外貨の半分を食料輸出で占めているニュージーランドからすれば汚染問題はそれだけで国家の命運を決めて、つまり命取りになる問題である。
ましてや核がなくてもエネルギーは自然から与えられているのだ、何でそんな危険なエネルギーが必要なのか?
その延長でいくと自然に「核は一切持ち込まないで」と言う話になるのも当然だ。そりゃそうだ、米国が持ち込んだ核が万一ニュージーランドで誤爆でもしてみろ、どうやって米国は責任を取れるのか?
だからニュージーランドの政策をよく見れば分かるが、この国は「原爆禁止」ではなく「核の禁止」である。核開発自体を否定しているのだ。
ただその根源にあるのが現実的判断であるところも日本と大きく違う点であろう。ニュージーランドの場合は食料もエネルギーも自前で用意出来る、なのに何で危険なエネルギーを利用する必要があるか、なのである。
政策とか理念とか“まあ可哀相”とか“大変だわね、被害者の皆様〜”的な感情とかじじばばの戦争の思い出とかそういう次元の話ではないのだ。
核問題を考えるときには目先だけでなく、今、日本に核が必要なのかを国民全体で議論する必要がある。
しかし国民はそのような議論をする訓練も受けてないし歴史も知らないし、決断の方法も学んでいない。
自分が遊んでいるゲームの電気がどこから流れて来ているのかを考えようともしない国民と、出来る限り国民を12歳の子供のままでいさせようとする歴代政権が「そういうこと」を考えさせない教育をさせてきたのだ。
出来ればこれを機会に、もう一度戦後教育の総見直しをやって、少なくとも自分で考える力と自己責任とか政治的に判断する力とかを子供たちに身に付けさせないとこの問題は解決しないだろう。
ただ、国民が「それでいいじゃないか、寝た子を起こすようなことはするなよ」と言うのであれば、何もいう事はない。それがその国の意志であれば。
たぶん21世紀少年からすれば「過去の話」なんだろうけど、ぼくのように1970年代から80年代にかけてこの問題を見てきた立場からすれば、「おいおい、誰か責任取れよ」と言いたい。
非核三原則を導入したのは世界で唯一の被爆国として世界に訴えていく必要があるという「高貴」で「立派」な理屈であった。
だったら政府が決めた事なんだし政府が守れよと言うのが当然。ところが沖縄返還における核持込容認問題が起こる。
あの当時から核持込の密約があるって言ってて、それをスクープした記者は結局国策捜査で逮捕されて、それからも市民団体がこの問題を取組んで来たのだけど、時の政府はすべて「そんなの、ないもんね」で終わらせてた。
ところが歴代政府は核持込を知っていたのだ。
時代はバブルに入り、「もう核持込問題なんて古いかも」と言う雰囲気が出てきて佐世保にエンタープライズと言う空母が入ってきても以前ほどには問題にならず、要するに非核三原則なんてのは「もういいじゃん」と言う流れになった。
これは社会党が時代に乗り遅れて自滅していった時代とも共通するものがあるが、人々が段々と核に対して免疫が付き始めて、「まあ米国のことだから核の持込くらいやってるだろうな」とオトナっぽい対応に変わってきたのもあるのだろう。
それから日本は未曾有の不況を迎える。バブル崩壊後の大不況で日本企業に成果主義が導入され自分の首が飛ぶかどうかなんて時に今更プラカード持って「おいっちに!」と嘉手納基地を囲んでみたり佐世保でデモをするなんて非現実的なことはやってられなくなった。
それでも自民党時代は歴史的な「腐れ縁」で核持込の真実を語れなかったのが、今回民主党になったので「よっしゃ、今ならばらせるし国民も以前ほどに核アレルギーもなくなった」と判断した外務省の戦略であろう。
それはそれで良いのだ。確かに大局を考えれば1970年代当時に核持込を表ざたにしてしまえば政権が引っくり返る可能性もあったし、今なら自民党が退座したんだから今のうちに「昔の膿を出し切ってしまえ」と言う判断も正解なのだ。
民主党からすればはっきりと「ちぇ、うるせ〜な、ありゃ自民党時代の負の遺産です、だからわたしたちの時代できちんと整理しま〜す」と国母みたいに開き直って言えばよい。
ついでに言えば「自民党が黙ってたんだから自民党の問題でしょ、わたしたちはきちんと国民に伝える政党です。もちろん自民党出身の議員もいますが、彼らが核問題の事実を知っていたわけはないのだからムジツです、もちろん小沢さんだって知らなかったもんね」と言っておけばよい。あ、ここまで言うとやばいか。
ただ、あの時代を生きてきた人間からすれば、「またも現場は使い捨てですかい」と言う気持ちが諦めと共にこみ上げてくるのはどうしようもない。
出来ればこれからはあんまり秘密なしでやってもらいたいと思うのだが、これからも外務省の秘密主義は続くんだろうな。だって外務省の秘密主義の反対は公開していくことなんだけど、そんな事をいちいちやって「国民の意見」なんて聞いてたら話は進まない。
だいいち今の平和ボケ国民に既存マスコミ経由で「どうですかあ?」なんてやってもまともな回答が返ってくるわけではない。だから国益を考えれば国民に真実を伝えないと言う選択もあるだろう。だから「30年経ったらほんとの事言いますよ」ってのは現実的な解決策として正解だろう。
当時から核持込の問題点はぼくにとって少し疑問だった。何が問題なのだ?
核アレルギーと言うのは世界で唯一の被爆国だからってのが理由だけど、それ以上に社会党や共産党が政治戦略の中でお互いに「分かった上で」やっていた猿回しのような気がする。
当時の原爆、てか被爆国としての活動には社会党系が最初に取り組み、そこの分派として共産党系が別行動を取るようになった。そしてお互いの存在価値を見せるためだけに同じ日に同じ街の違う場所で原水爆禁止大会を行うという非常に現場を無視した政策行動になっていたのは事実だ。
つまり、大人の立場で子供に見せられないものを隠した自民党と、どうせ自分たちが政権を取る事はないんだからと熟知した上で子供の駄々ごとみたいに出来もしない非現実的なことをわーわー言う社会党と、早いとこ日本に共産主義を導入しようとして社会党を食い荒らしてた共産党との、ある意味三つ巴の政策闘争であった。
しかし本来の意味での非核三原則とは政策の道具ではなく国民の平和と安全を守るものであったはずだ。もともと原爆反対を訴えたのは原爆の被害を受けた市民団体であった。
その意味でこの日本と言う国は、個人がどれだけきちんとした使命をもって訴えたとしても所詮は政治に巻き込まれて政治のネタにされてしまい、終われば使い捨てである。まったくバカらしい話だ。
しかし日本に生きている限りこれを変える事は選挙でも不可能である。何故ならそれが国民性、つまりこの日本と言う固有の国土とその上で生活をする日本人全体が発する「気」みたいなものの融合体であるからだ。
先送り、臭いものには蓋をする、長いものには巻かれる、集団無責任、そんな空気の中では逆らってはいけない、まじめに自分の意見を主張するものがバカを見て潰されるだけである。
今は民主党が出てきて少しは変わり始めているが、例えば菅副総理が厚生大臣時代に薬害問題で国民の高い評価を受けたが、あれだって国民は「その場の空気の流れ」に従っただけであり、一人ひとりが本当に薬害問題を考えて菅さんを支持したわけではない。
だからこそ、まじめに考えれば考えるほど、現場でやっていれば日本と言う国の問題点が見えてくるのだ。
原爆問題で何が問題なの?そう聞くと皆が「非人間的爆弾!放射能!」と言う。具体的に何なのかを聞くと、原爆の炎で焼け爛れた人々の写真や放射線による被曝症が子供の世代まで続くという問題を挙げる市民団体の名を借りた政党。
じゃあ東京大空襲では誰も焼け爛れなかったの?被爆症の問題は分かるけど戦争だよね?相手を破壊する為に効率的な武器を使うのは当然でしょ。
こういう市民団体も最初はまともなんだけど、そのうちおかしな連中が入ってきて環境テロ団体のシーシェパードみたいなことになる。何の理屈も聞かずひたすら髪を振り回してぎゃーぎゃーと叫ぶだけの、今の日本で言えばエコテロ団体になってしまう。
ルールのない喧嘩(国民総動員による近代的戦争)を始めた以上、最初は素手で殴り合っててもそのうち相手は棒切れを持ち出す。するとこちらはライフルを持ってくる。すると相手は爆弾を持ってくる、するとこちらは・・・と言う具合にエスカレートするのが戦争である。
戦争の一部の道具だけを切り出して原爆反対と言っても現実性があまりに薄いのではないか。
もともと戦争とは外交政策の一つの手段である、そう戦争を勉強してきたぼくからすれば当時の社会党の言ってる事はどうしてもおかしいと思ってた。ただ理論的にまとめることが出来ずに「おいっちに」となったわけだが。
それでも当時、周囲に対して「原爆が悪くて東京大空襲で使ったナパームなら良いのか?問題は戦争と言う行為で外交政策を進めようとする米国等の覇道政策の問題であり、本来は米国に対して訴えるべき問題ではないか?」などと言ってた。
しかし当時は冷戦時代で、日本は米国の核の傘に守られていたと言う現実もある。だから社会党や共産党は、テレビの前では「こくみんの〜、こくみんのための〜」とのたまい原爆批判をしながら、自分たちがそれに乗っかり守られて一切の重武装をしないと言う自民党政策に追従していたのも事実である。
つまり、現場では激しい闘争をしながら東京の霞ヶ関のあたりではお互いにうまいことやってたわけだ。
あ〜あ、やっぱりいつも一番損をするのは現場ですぜ。
第二次大戦末期でも一番損をしたのは現場のヘイタイと民間人である。一番得をするのは偉そうなことを言ってヘイタイを戦地に追いやって戦後は知らんふりをして戦後日本の繁栄を享受した連中であろう。
ほんっと、日本って国はコンビニもあるし便利だけど、結局一番下で生きている限り擂り潰されるしかない運命なんだよね。
ニュージーランドは非核三原則を厳格に守り、持ち込み禁止と言う原則を徹底的に守り、1985年に米国の核搭載艦「ロジャーズ号」が来た時に追い返し、その後6年くらい米国と実質外交停止していた時期がある。
それはこの国のエネルギーの60%が自然の水力発電、40%が自前の炭鉱で取れる石炭による火力発電であり、危険な核が不要だからだ。
米国で起きたスリーマイル島事件、ロシアで起きたチェルノブイリ事件を見るまでもなく、核は一瞬の管理を怠っただけで周囲数十キロから数百キロを汚染してしまう。とくにチェルノブイリでは放射能が欧州にまで広がり被害は拡大した。
食料自給率300%の食料大国であり外貨の半分を食料輸出で占めているニュージーランドからすれば汚染問題はそれだけで国家の命運を決めて、つまり命取りになる問題である。
ましてや核がなくてもエネルギーは自然から与えられているのだ、何でそんな危険なエネルギーが必要なのか?
その延長でいくと自然に「核は一切持ち込まないで」と言う話になるのも当然だ。そりゃそうだ、米国が持ち込んだ核が万一ニュージーランドで誤爆でもしてみろ、どうやって米国は責任を取れるのか?
だからニュージーランドの政策をよく見れば分かるが、この国は「原爆禁止」ではなく「核の禁止」である。核開発自体を否定しているのだ。
ただその根源にあるのが現実的判断であるところも日本と大きく違う点であろう。ニュージーランドの場合は食料もエネルギーも自前で用意出来る、なのに何で危険なエネルギーを利用する必要があるか、なのである。
政策とか理念とか“まあ可哀相”とか“大変だわね、被害者の皆様〜”的な感情とかじじばばの戦争の思い出とかそういう次元の話ではないのだ。
核問題を考えるときには目先だけでなく、今、日本に核が必要なのかを国民全体で議論する必要がある。
しかし国民はそのような議論をする訓練も受けてないし歴史も知らないし、決断の方法も学んでいない。
自分が遊んでいるゲームの電気がどこから流れて来ているのかを考えようともしない国民と、出来る限り国民を12歳の子供のままでいさせようとする歴代政権が「そういうこと」を考えさせない教育をさせてきたのだ。
出来ればこれを機会に、もう一度戦後教育の総見直しをやって、少なくとも自分で考える力と自己責任とか政治的に判断する力とかを子供たちに身に付けさせないとこの問題は解決しないだろう。
ただ、国民が「それでいいじゃないか、寝た子を起こすようなことはするなよ」と言うのであれば、何もいう事はない。それがその国の意志であれば。
2010年03月17日
郷に入らずんば郷に従え
「公の場でキス」と禁固刑 ドバイ、英カップルは上訴
【カイロ共同】アラブ首長国連邦(UAE)ドバイで、英国人の男性(24)と女性(25)のカップルが「公の場でキスした」などとして昨年11月に一時逮捕され、今年1月に裁判所から禁固1月の判決を言い渡されていたことが14日、分かった。ドバイ英字紙ガルフニューズなどが伝えた。
ドバイは多くの観光客を受け入れているが、地元住民は保守的なイスラム教徒が中心で、公の場で性的と受け止められる行為は禁止。同紙などによると、2人は「あいさつとしてほおにキスしただけ。唇には触れておらず、違法ではない」として同日、上訴した。
ドバイの海岸近くのレストランで2人が酒を飲んでキスをしているのを地元女性らが目撃し、当局に通報。その後保釈されたが、パスポートを取り上げられているという。
2010/03/15 08:53 【共同通信】
以前、数年前にもシンガポールで路上にガムを捨てただか唾を吐いたかだかで逮捕された米国の若者がいた。彼は結局徹底的に反発したものだから、最後はシンガポール当局によるムチ打ちの刑になった。
当然米国政府も「おいおい、やめてくれよ、子供のあそびじゃねえか」ととりなしに入ったけど結果的に刑は執行された。
ニュージーランドに来ても自由と無責任を勘違いして「郷に入っても郷に従う必要なんてない」なんて平気で言う連中も多い。
8年くらい前の話だけど、当時クイーンズタウンにやってきた日本人スノーボーダーの品の悪さが問題、てか、犯罪になった事がある。
街中で酔っ払って道路に停めてある車に飛び乗ってみんなでガンガンとクルマを叩き、それで警察がやってくると「これはおれたちの車だ、何が悪いんだ!」ってやったもんだから、公衆の面前で騒いだら豚箱行きって法律を適用されてそのまま警察の留置場に放り込まれた。
その後もこいつらは、買ったシーズン券を途中で帰国するからって他の連中に転売した。写真なんてどうせ分かるわけはない、てな感じでこれまた詐欺罪で逮捕。
郷に入っては郷に従えと言うのは、そうしないと逆に自分の生活環境を他人から守れないからだ。
なのに「自分の言ってることは何も間違ってないんだ、バカなのはキーウィなんだからあいつらのルールなんて尊重する必要はない」なんて騒ぐ連中がいる。
けど、大体そういう連中は生活に苦労していない。子供を近くに置いておきたくない親から貰ったお金とか、要するに日本社会の寄生虫として生きているからニュージーランドに本当の意味での収入基盤がない。
だからニュージーランドでお金を稼ぐ苦労をしていないまま、自分のいいたいことだけを毎日ぐだぐだと文句ばかり言い散らして、額に皺寄せて怒る顔を年中やっているからそのうち顔まで薄汚く下品な顔つきになってしまう。
鏡を見る機会もないし周囲の友達は金目当てについてきてるだけで誰も彼女の事を「裸の王様」とは呼ばない。だってカネやメシくれるんだからどうでもいいではないか、ほんとの事など言う必要はないってことだ。
ニュージーランドの日本人社会と言っても大雑把に二つある。
一つは1990年代に親に捨てられ日本社会では通用せずに逃げてきた、英語もろくに出来ないままに他人(親)の金や遺産で生活をしている連中だ。
彼らはまともな定職についた事もなく毎日遊んでばかりで、新しく来た日本人が近づいて来たら「俺が何でも教えてやるよ」とばかりにエバリくさっていろんなこと言うけど所詮は遊びの延長。
こいつらと絡んでしまったらとんでもない事になる。
最初は「あたしのいう事だけ聞いてればいいのよ」と理不尽な話ばかりに付き合わされ、あまりのバカさ加減に次回のパーティを断ると、この婆連中は周囲の婆連中に「あの女、あたしが、あ、た、し、がよ、折角いろいろと面倒見てやってるのに、人の手を噛むようなことばっかりしても〜、やってらんないわよ!」と、ヒマにあかせて日本人連中に電話をしまくるのだ。
「冗談じゃない、いつ私があんたに頼んだのよ〜」と思っても、もう後の祭りである。
もう一つは自分で現地で働いて給料を得ている人々である。彼らは比較的まともだ。何故ならキーウィと一緒に生活をすることでその良い面悪い面を見るわけで、郷にいらずんばってことで私生活に立ち入らせない程度で相手に合わせることが出来る。そして合わせないと仕事もうまくいかないので当然彼らのやっている事を理解しようとする。(あわせすぎて困ることもあるが)
でもって大事なのはこの「理解しようとする気持ち」である。これがあるから長く働ける。
現場で仕事をしているのにいちいち自分だけ正しい、あいつは間違い!みたいなことを考えてたら仕事なんて続くわけはない。毎日周囲と衝突してまともな仕事なんて出来るはずはない。
結果的に「続かない奴」はすぐ辞めて、残るのは他人の文化をある程度理解出来る人々となる。このような人々が集まるのが第二のグループと言える。
初めてニュージーランドに来る人はどうしても情報が不足する。なのですぐ「日本人会」とか「なんちゃらグループ」に入ろうとする。けど大体そのような古くからの組織には「やまんば」がいる。
これは何も言葉の例えで言ってるのではなく、本当にそんな顔なのだ。オゾンホールに長年晒されてまるで木の根っこか真っ黒に汚れたずだ袋みたいな顔の真ん中に異様に小さい猜疑心の強い目があって、髪はばさばさで服装はヒッピー、口はとにかく次にどんな悪口を言ってやろうかと待ち構えている、まるで蛙を探している蛇みたいに逆三角形に開いている。ぎや〜!あ〜、こわ。
国によって文化も習慣も違うわけで、その中で相手とうまくやっていこうとするからには必ず「他人を尊重」することが必要だ。うまくやっていく必要がない連中、それは生活の糧を自分で得る必要のない人間だ。
うまくやる?何でよ、あたしはあたしよ、そう言っても生活出来るのだから、そりゃあんた言いたい事いうのが一番でしょう、となる。
でもってこういうキチガイ連中に限って普段やることないから、普通にこの国で頑張って働いている日本人に絡んで何か邪魔しようとしたり相手にされようとしたりする。
郷に入っては郷に従えであるが、じゃあ郷に入ってる連中を見分ける方法は?
いくつかあるけど、まずはあなたの日本での社会人経験を思い出しながら「こんな事言う人っておかしいよね」と思ったら、そりゃ間違いなくおかしい。海外だからと言って人付き合いには何の違いもない。相手のことを思いやる気持ちがなければそれは近づかないほうが良い。
でもって、相手の職業や収入源を聞けるものなら聞いてみればよい。今までのぼくの経験で言っても、自分で生活の糧を得る努力をしていない人間になればなるほど、どこかおかしくなってる。
あとは、そうだな、ニュージーランドの文句を言いながら住んでる人ってのは、日本に帰れない理由があったりするからね、これも「そんなにNZが嫌いなら、何で住んでるんですか〜?」って、あふぉっぽい顔で質問して相手が戸惑ったら、まずは「あ、こいつ、所詮日本で生きていけないんだ」と言うことが分かると思う。
外国に住んでる日本人ってのは性格の悪い奴はとことん悪くなるし性格の良い奴はとことんよくなる。何故なら周囲に歯止めをする人も仕組みもないもんでその人の本性が出てくるからだ。
日本人が外国に住んでるだけでえらい!なんて思わないようにお願いしますね。
【カイロ共同】アラブ首長国連邦(UAE)ドバイで、英国人の男性(24)と女性(25)のカップルが「公の場でキスした」などとして昨年11月に一時逮捕され、今年1月に裁判所から禁固1月の判決を言い渡されていたことが14日、分かった。ドバイ英字紙ガルフニューズなどが伝えた。
ドバイは多くの観光客を受け入れているが、地元住民は保守的なイスラム教徒が中心で、公の場で性的と受け止められる行為は禁止。同紙などによると、2人は「あいさつとしてほおにキスしただけ。唇には触れておらず、違法ではない」として同日、上訴した。
ドバイの海岸近くのレストランで2人が酒を飲んでキスをしているのを地元女性らが目撃し、当局に通報。その後保釈されたが、パスポートを取り上げられているという。
2010/03/15 08:53 【共同通信】
以前、数年前にもシンガポールで路上にガムを捨てただか唾を吐いたかだかで逮捕された米国の若者がいた。彼は結局徹底的に反発したものだから、最後はシンガポール当局によるムチ打ちの刑になった。
当然米国政府も「おいおい、やめてくれよ、子供のあそびじゃねえか」ととりなしに入ったけど結果的に刑は執行された。
ニュージーランドに来ても自由と無責任を勘違いして「郷に入っても郷に従う必要なんてない」なんて平気で言う連中も多い。
8年くらい前の話だけど、当時クイーンズタウンにやってきた日本人スノーボーダーの品の悪さが問題、てか、犯罪になった事がある。
街中で酔っ払って道路に停めてある車に飛び乗ってみんなでガンガンとクルマを叩き、それで警察がやってくると「これはおれたちの車だ、何が悪いんだ!」ってやったもんだから、公衆の面前で騒いだら豚箱行きって法律を適用されてそのまま警察の留置場に放り込まれた。
その後もこいつらは、買ったシーズン券を途中で帰国するからって他の連中に転売した。写真なんてどうせ分かるわけはない、てな感じでこれまた詐欺罪で逮捕。
郷に入っては郷に従えと言うのは、そうしないと逆に自分の生活環境を他人から守れないからだ。
なのに「自分の言ってることは何も間違ってないんだ、バカなのはキーウィなんだからあいつらのルールなんて尊重する必要はない」なんて騒ぐ連中がいる。
けど、大体そういう連中は生活に苦労していない。子供を近くに置いておきたくない親から貰ったお金とか、要するに日本社会の寄生虫として生きているからニュージーランドに本当の意味での収入基盤がない。
だからニュージーランドでお金を稼ぐ苦労をしていないまま、自分のいいたいことだけを毎日ぐだぐだと文句ばかり言い散らして、額に皺寄せて怒る顔を年中やっているからそのうち顔まで薄汚く下品な顔つきになってしまう。
鏡を見る機会もないし周囲の友達は金目当てについてきてるだけで誰も彼女の事を「裸の王様」とは呼ばない。だってカネやメシくれるんだからどうでもいいではないか、ほんとの事など言う必要はないってことだ。
ニュージーランドの日本人社会と言っても大雑把に二つある。
一つは1990年代に親に捨てられ日本社会では通用せずに逃げてきた、英語もろくに出来ないままに他人(親)の金や遺産で生活をしている連中だ。
彼らはまともな定職についた事もなく毎日遊んでばかりで、新しく来た日本人が近づいて来たら「俺が何でも教えてやるよ」とばかりにエバリくさっていろんなこと言うけど所詮は遊びの延長。
こいつらと絡んでしまったらとんでもない事になる。
最初は「あたしのいう事だけ聞いてればいいのよ」と理不尽な話ばかりに付き合わされ、あまりのバカさ加減に次回のパーティを断ると、この婆連中は周囲の婆連中に「あの女、あたしが、あ、た、し、がよ、折角いろいろと面倒見てやってるのに、人の手を噛むようなことばっかりしても〜、やってらんないわよ!」と、ヒマにあかせて日本人連中に電話をしまくるのだ。
「冗談じゃない、いつ私があんたに頼んだのよ〜」と思っても、もう後の祭りである。
もう一つは自分で現地で働いて給料を得ている人々である。彼らは比較的まともだ。何故ならキーウィと一緒に生活をすることでその良い面悪い面を見るわけで、郷にいらずんばってことで私生活に立ち入らせない程度で相手に合わせることが出来る。そして合わせないと仕事もうまくいかないので当然彼らのやっている事を理解しようとする。(あわせすぎて困ることもあるが)
でもって大事なのはこの「理解しようとする気持ち」である。これがあるから長く働ける。
現場で仕事をしているのにいちいち自分だけ正しい、あいつは間違い!みたいなことを考えてたら仕事なんて続くわけはない。毎日周囲と衝突してまともな仕事なんて出来るはずはない。
結果的に「続かない奴」はすぐ辞めて、残るのは他人の文化をある程度理解出来る人々となる。このような人々が集まるのが第二のグループと言える。
初めてニュージーランドに来る人はどうしても情報が不足する。なのですぐ「日本人会」とか「なんちゃらグループ」に入ろうとする。けど大体そのような古くからの組織には「やまんば」がいる。
これは何も言葉の例えで言ってるのではなく、本当にそんな顔なのだ。オゾンホールに長年晒されてまるで木の根っこか真っ黒に汚れたずだ袋みたいな顔の真ん中に異様に小さい猜疑心の強い目があって、髪はばさばさで服装はヒッピー、口はとにかく次にどんな悪口を言ってやろうかと待ち構えている、まるで蛙を探している蛇みたいに逆三角形に開いている。ぎや〜!あ〜、こわ。
国によって文化も習慣も違うわけで、その中で相手とうまくやっていこうとするからには必ず「他人を尊重」することが必要だ。うまくやっていく必要がない連中、それは生活の糧を自分で得る必要のない人間だ。
うまくやる?何でよ、あたしはあたしよ、そう言っても生活出来るのだから、そりゃあんた言いたい事いうのが一番でしょう、となる。
でもってこういうキチガイ連中に限って普段やることないから、普通にこの国で頑張って働いている日本人に絡んで何か邪魔しようとしたり相手にされようとしたりする。
郷に入っては郷に従えであるが、じゃあ郷に入ってる連中を見分ける方法は?
いくつかあるけど、まずはあなたの日本での社会人経験を思い出しながら「こんな事言う人っておかしいよね」と思ったら、そりゃ間違いなくおかしい。海外だからと言って人付き合いには何の違いもない。相手のことを思いやる気持ちがなければそれは近づかないほうが良い。
でもって、相手の職業や収入源を聞けるものなら聞いてみればよい。今までのぼくの経験で言っても、自分で生活の糧を得る努力をしていない人間になればなるほど、どこかおかしくなってる。
あとは、そうだな、ニュージーランドの文句を言いながら住んでる人ってのは、日本に帰れない理由があったりするからね、これも「そんなにNZが嫌いなら、何で住んでるんですか〜?」って、あふぉっぽい顔で質問して相手が戸惑ったら、まずは「あ、こいつ、所詮日本で生きていけないんだ」と言うことが分かると思う。
外国に住んでる日本人ってのは性格の悪い奴はとことん悪くなるし性格の良い奴はとことんよくなる。何故なら周囲に歯止めをする人も仕組みもないもんでその人の本性が出てくるからだ。
日本人が外国に住んでるだけでえらい!なんて思わないようにお願いしますね。
2010年03月16日
Harbour Bridge is falling down ♪
写真はハーバーブリッジの一番真ん中あたり、ぼくのクルマは外側の車線である。
何で高速道路で運転しながらこんな写真が撮れるのかって?
止まってるからです。渋滞。朝の上り車線は通常4車線のところが車線変更で5車線になるのですが、それでも渋滞解決はしてません。
市役所もバスレーンを作ってパーク&ライド(Park & Ride ) をやったりしてはいるのですが、人口増加の速度にはまだ追いついてるとは言えませんね。
けどそんな事言ったら東京の生活なんてどうなるんだって感じですよね。
自宅の玄関から会社のドアまで1時間、おまけにその間は徒歩移動か電車でぎゅーぎゅーなんて痛勤状況から見れば、自宅から朝の一番混んでる時間でもDoorToDoorで30分、おまけに椅子(自家用車とかバス)に座りっぱなしなオークランドは、まだ幸せと言うべきでしょうか。
ただ気になるのは2年くらい前からやっている(筈)の橋梁補強工事。
1959年に作られたこの橋は元々上下合わせて4車線でしたが、その後の交通機関の発達で端の両側に2車線ずつクリップで引っ掛けるようにして2車線づつ追加されて現在では上下8車線となっています。
ところが1950年代ってのはオークランドでも普通に馬車が牛乳を日用品店に運んでた時代で、クルマなんて言ってもずいぶんちっちゃな奴ばかりでした。
ちょっと古い家の駐車場を見れば当時の車の小ささがよく分かりますが、例えば今ベンツやレクサスを1950年代の車と並べて比較すれば、サイズからパワーから、ドイツの大型戦車キングパンサーと三丁目の夕陽で出てくる軽三輪自動車の違いくらいあります。
そんな時代に作られた橋にしてはきちんと車線も広くは取っていますが、何せ気になるのが橋の上で渋滞になって停車したとき、特に今ぼくのいる外側の「引っ掛けた部分」に停車しているとき、橋がうねるように動いてるのが分かるのが、さすがに変な感じです。
丁度恐竜の背中に乗っていると言うか、足元を巨大なモグラが穴掘ってると言うか、個人的に言わせて貰えば、まさに「おい、この橋、落ちるんじゃねえか」です。
宝くじは「当たるだろう」と思い、交通事故には「当たらないだろう」と思うほど楽観的ではありませんが、ある一瞬で落ちる橋にぼくのクルマが乗っかっている可能性はゼロコンマ何%だろう?
ニュージーランドは良い国です。この橋が落ちれば怪我人は全員国の保険で全額治療が受けられます。治療中の給料も国から貰えます。死んだら?葬式代くらいは国から出ますし、たぶん遺族年金も出ると思います。その意味では良い国です。
が、その「良い」の中に橋梁技術が含まれていないことだけは事実です、はい。
何で高速道路で運転しながらこんな写真が撮れるのかって?
止まってるからです。渋滞。朝の上り車線は通常4車線のところが車線変更で5車線になるのですが、それでも渋滞解決はしてません。
市役所もバスレーンを作ってパーク&ライド(Park & Ride ) をやったりしてはいるのですが、人口増加の速度にはまだ追いついてるとは言えませんね。
けどそんな事言ったら東京の生活なんてどうなるんだって感じですよね。
自宅の玄関から会社のドアまで1時間、おまけにその間は徒歩移動か電車でぎゅーぎゅーなんて痛勤状況から見れば、自宅から朝の一番混んでる時間でもDoorToDoorで30分、おまけに椅子(自家用車とかバス)に座りっぱなしなオークランドは、まだ幸せと言うべきでしょうか。
ただ気になるのは2年くらい前からやっている(筈)の橋梁補強工事。
1959年に作られたこの橋は元々上下合わせて4車線でしたが、その後の交通機関の発達で端の両側に2車線ずつクリップで引っ掛けるようにして2車線づつ追加されて現在では上下8車線となっています。
ところが1950年代ってのはオークランドでも普通に馬車が牛乳を日用品店に運んでた時代で、クルマなんて言ってもずいぶんちっちゃな奴ばかりでした。
ちょっと古い家の駐車場を見れば当時の車の小ささがよく分かりますが、例えば今ベンツやレクサスを1950年代の車と並べて比較すれば、サイズからパワーから、ドイツの大型戦車キングパンサーと三丁目の夕陽で出てくる軽三輪自動車の違いくらいあります。
そんな時代に作られた橋にしてはきちんと車線も広くは取っていますが、何せ気になるのが橋の上で渋滞になって停車したとき、特に今ぼくのいる外側の「引っ掛けた部分」に停車しているとき、橋がうねるように動いてるのが分かるのが、さすがに変な感じです。
丁度恐竜の背中に乗っていると言うか、足元を巨大なモグラが穴掘ってると言うか、個人的に言わせて貰えば、まさに「おい、この橋、落ちるんじゃねえか」です。
宝くじは「当たるだろう」と思い、交通事故には「当たらないだろう」と思うほど楽観的ではありませんが、ある一瞬で落ちる橋にぼくのクルマが乗っかっている可能性はゼロコンマ何%だろう?
ニュージーランドは良い国です。この橋が落ちれば怪我人は全員国の保険で全額治療が受けられます。治療中の給料も国から貰えます。死んだら?葬式代くらいは国から出ますし、たぶん遺族年金も出ると思います。その意味では良い国です。
が、その「良い」の中に橋梁技術が含まれていないことだけは事実です、はい。
2010年03月15日
My Fair Lady
今移住に関する基本的なデータをいちいち説明会に来なくても自宅で読めるように文書化して販売しようと企画中。
説明会で使う資料に説明会で話す内容を加えて、臨場感はないけれど少なくとも皆さんがニュージーランドに対して持っている知識を増やすのに役立つ内容にしようと考えている。
この資料、去年末くらいからどんな切り出しにしようかと思ってたんだけど、序章でどうしても1840年のロンドンの雰囲気を頭の中に入れたかった。
何故1840年代にイギリス人はニュージーランドに移住したのか?
今回2月のロンドン出張の目的の一つは、実はテームズ川を見ることにあった。
産業革命、東欧からの移民、マイフェアレディ、蒸気船、そしてテームズ川。
人々はこの川の東側と西側で違う言葉を使い、郊外には貴族が住む屋敷があり、人々は住む家や話す言葉で階級が分かった、そんな時代の香りを感じてみたかった。
「マイフェアレディ」ではコヴェントガーデンで使われる労働者言葉が話の中心に置かれる。
だもんで出張から戻ってからは夜の10時過ぎにはベッドに入り朝の4時前には目が覚めるようにしている。
そのまま起きても良いのだけど、とくに急ぎの仕事もない時はそれから瞑想?迷走?要するにうとうとした状態でいろんなアイデアを頭の中で飛ばしていくことにしている。
そこで今朝はオードリーヘップバーンをdaisukiな僕はマイフェアレディを真ん中に置いて朝早くから“ぽよぽよ”する頭の中で空想してみた。
すると出て来る出てくる、みた事もないロンドンのテームズ川に横付けされる蒸気船、そこから陸に上がって石造りの建物を歩く人々。
周囲は随分汚くて臭くて(何故か色も臭いも感じる)、行ったとこもない時代なのに、なんでか記憶の中でしっかり重なっていく。
でもって不思議なのは、大体こんな空想をしている時は僕は誰かの体の中に入ってその人の眼で見ていることが多いのだ。
今回も船から見上げたテームズ側の岸壁。これは多分前回のロンドン訪問でいろんな角度からテームズ川とそこにかかる橋と川を渡る船の高さなんかを自分で歩き回ってみたので、自然に頭の中でキャドが動いて三次元画像を作ったのだろう。
そいでもっていろんな映画でみたいろんな場面がどんどん重なって編集されていって、一つの物語になっていく。
岸壁にぶつかった軽い衝撃も体に感じて思わずびくっ!と目が覚める。
でもってまたすぐ半迷走瞑想に戻ると、今度は街を歩く人々の格好(シルクハットはロンドンを舞台にした小説が影響してる)に「おお、すごいな、ロンドンだわな」なんて感心しながら歩いてる自分がいる。
結局は今まで見た映画や読んだ小説が頭の中で総動員されて一つの物語を作っていくんだけど、だから実際にその時代に飛んでいるわけではなく、あくまでもたくさんの要因が一つにまとまっていくだけなんだけど、それはそれぞれの原本の筋書きから大きく変わっており独特の筋書きになっていく。
こうやって何故当時のロンドンで多くの人々がニュージーランド行きの船に乗り込んでいったのか、その時の人々の気持ちはどうだったのか、そんな事を考えながら話を膨らませていく。
そんな過程で出てきたのが英語の訛り、それもコックニーである。マイフェアレディから入ったからこうなったのかな?
ちなみにMy Fair Lady (マイフェアレディ)は、本当はMayfair Lady(メイフェアレディ=上品なレディの住む街)だったのをコックニー訛りでMayfairをマイフェアと発音するからわざとこう書いたらしい。
僕が夢の中で歩き回ってた地域の人々は確かにコックニーだったけど、現在のニュージーランドではコックニーを使っているのは南島のかなり地方に住む農場経営者とか、随分限られている。
けどそれはコックニーを全く使わないってわけではなく、今でもラジオを聴いてると朝のニュースでも随分「おら、訛っただか?」的な発音を聴く事がある。
なのでまあ、一生懸命キングスイングリッシュを使おうとしているけどねっこんところにはまだまだ訛りが残ってるんだべさと感じた。
それに比べてオーストラリアではコックニーが当たり前のように使われているのが特徴的というべきか。
このあたりが自主的に集団でニュージーランドに移住しようとした先取精神の強い中流階級移民団と、犯罪を起こして逮捕され政府によって個別に片道切符で送り込まれて一生島流しになった労働者犯罪階級オージーとの違いか。
まあ、1800年代のロンドンの汚いことと言ったら話しにならない。日本だとすでに整備されている公共設備が殆ど整っておらず、自由主義や資本主義の結果がこれなら徳川家康の独裁主義の方がよっぽど良いぞと思う。
だいいち犯罪が多い。治安が悪いし医療も発達してないし教育だってカネがかかるし第一普通の子供は良い学校に行けない仕組みがある。最初から社会の平等(機会の平等と結果の適度な平等)が存在していないのだ。
そう考えてみると今の中国についてで、よく議論されるのが、本当に民主主義は正しいのか?と言うことだ。
殆どの日本人は戦後教育によって子供の頃から民主主義は素晴らしい、民主主義を導入すればどの国でも良くなる、だから民主主義のない国は不平等であり不自由であり不透明であると思い込んでいた。
けどその結果として犯罪を生み不幸を生み社会が成長しないとなれば、さあどうなんだってことになる。
きしくもトウショウヘイが以前語ったように「白い猫でも黒い猫でもねずみを獲る猫が良い猫」である。
民主主義が立派なものだとどれだけ理屈を言われてもそこに参加して民主主義が食い物を与えてくれず住む場所を与えてくれず着る物もなく将来も与えてくれないのであれば、そりゃあねずみを獲れない猫と同じで役立たずだ。
独裁主義とか共産党とか言われても今の中国に勢いがあるのは誰も否定出来ないし、その勢いを作ったのがトウショウヘイでありその後継者であり彼らの基盤とするものが中国共産党である以上、悪い猫かもしれないがよくねずみを獲ってくれるのだ。
けど共産主義は悪い奴が権力を握ったらどこまでも悪くなるよって、そんなの分かってる。
けど今、愚民ばかりが集まってあ^でもないこーでもないと騒ぐだけで結果的に何も進まずに社会自体が沈んで全員が不幸になり始めている民主主義よりは、どう見ても魅力的に見えるよ。
要するにどっちが今、人々を幸せにしてくれるかだ。
だいいち民主主義とか言いながら政府は30年以上も核持込を偽装しており、今になって「国民の為だった」とか言ってるのなら、共産主義と何が違う?
不透明どころか政治家と官僚による情報の非公開であるところは民主主義を隠れ蓑にした独裁でしょ。「独裁です、はい」ってはっきり言い切ってるほうがまだましだ。
日本航空が破綻して債務超過になっているのが分かっているのに上場企業から1千数百億円の資金を集めたのは合法で、誰にも迷惑をかけずに自分の頭でビジネスを構築したホリエモンは潰された。
政府についてればOK、逆らうなら平等なんてない、法律を後から作ってでも逮捕してやるってことでしょ。これなんて体制側による完全なる不平等ではないか。
中国で政治活動をすれば逮捕されて拷問の挙句に殺される。それは事実だ。けどでは、日本では不当逮捕、社会的抹殺がどれだけ行われているか?
植草痴漢事件、風呂屋の万引き事件、とにかく当局に逆らったら逮捕である。
政治活動をやっても良い、当局の許す範囲内ならってなら、だったら共産党と何が違う?言論の自由が保障されていないのはそりゃ共産党の方だって分かってる。どっちも言論が不自由なんだからその意味ではこれも嘘を言うだけ民主主義のほうがずるいでしょ。
アフガニスタンに大量破壊兵器がなかったこと、イランに核開発がないこと、地球温暖化の嘘、自由主義と言いながらどれほど大きな嘘が出回っているか、自由なことを書こうとすればつぶされる事を報道現場では知っている。これで自由と言えるのか?
なんて朝方の半分寝ぼけた脳みそでロンドンの風景を眺めながら考えてみた。
なんだよ嘘つき!民主主義が良いとかいいながら、結局共産主義者も民主主義者もやってる事は同じじゃんか!誰も労働者のことなんて考えてない、所詮は使い捨てではないか!
そうなったら自分を守るのは自分しかいないし、自分の家族を守るのは自分しかいない。
よし、テームズ港から船に乗ろう。そして新しい国に行こう。
そこは労働者天国で人々が平等で、働かずに土地だけ持って小作人を雇うような金持ち連中もいない。
一生懸命がんばれば報われるし、年をとれば国から年金をもらえるから老後も安心だ。治安も良いし子供の教育も無料だし医者だって通うことが出来る、そんな国に行こう。
そして1840年代の英国人中流者階級は船に乗って南太平洋の彼方にある小島に向ったのである。
説明会で使う資料に説明会で話す内容を加えて、臨場感はないけれど少なくとも皆さんがニュージーランドに対して持っている知識を増やすのに役立つ内容にしようと考えている。
この資料、去年末くらいからどんな切り出しにしようかと思ってたんだけど、序章でどうしても1840年のロンドンの雰囲気を頭の中に入れたかった。
何故1840年代にイギリス人はニュージーランドに移住したのか?
今回2月のロンドン出張の目的の一つは、実はテームズ川を見ることにあった。
産業革命、東欧からの移民、マイフェアレディ、蒸気船、そしてテームズ川。
人々はこの川の東側と西側で違う言葉を使い、郊外には貴族が住む屋敷があり、人々は住む家や話す言葉で階級が分かった、そんな時代の香りを感じてみたかった。
「マイフェアレディ」ではコヴェントガーデンで使われる労働者言葉が話の中心に置かれる。
だもんで出張から戻ってからは夜の10時過ぎにはベッドに入り朝の4時前には目が覚めるようにしている。
そのまま起きても良いのだけど、とくに急ぎの仕事もない時はそれから瞑想?迷走?要するにうとうとした状態でいろんなアイデアを頭の中で飛ばしていくことにしている。
そこで今朝はオードリーヘップバーンをdaisukiな僕はマイフェアレディを真ん中に置いて朝早くから“ぽよぽよ”する頭の中で空想してみた。
すると出て来る出てくる、みた事もないロンドンのテームズ川に横付けされる蒸気船、そこから陸に上がって石造りの建物を歩く人々。
周囲は随分汚くて臭くて(何故か色も臭いも感じる)、行ったとこもない時代なのに、なんでか記憶の中でしっかり重なっていく。
でもって不思議なのは、大体こんな空想をしている時は僕は誰かの体の中に入ってその人の眼で見ていることが多いのだ。
今回も船から見上げたテームズ側の岸壁。これは多分前回のロンドン訪問でいろんな角度からテームズ川とそこにかかる橋と川を渡る船の高さなんかを自分で歩き回ってみたので、自然に頭の中でキャドが動いて三次元画像を作ったのだろう。
そいでもっていろんな映画でみたいろんな場面がどんどん重なって編集されていって、一つの物語になっていく。
岸壁にぶつかった軽い衝撃も体に感じて思わずびくっ!と目が覚める。
でもってまたすぐ半迷走瞑想に戻ると、今度は街を歩く人々の格好(シルクハットはロンドンを舞台にした小説が影響してる)に「おお、すごいな、ロンドンだわな」なんて感心しながら歩いてる自分がいる。
結局は今まで見た映画や読んだ小説が頭の中で総動員されて一つの物語を作っていくんだけど、だから実際にその時代に飛んでいるわけではなく、あくまでもたくさんの要因が一つにまとまっていくだけなんだけど、それはそれぞれの原本の筋書きから大きく変わっており独特の筋書きになっていく。
こうやって何故当時のロンドンで多くの人々がニュージーランド行きの船に乗り込んでいったのか、その時の人々の気持ちはどうだったのか、そんな事を考えながら話を膨らませていく。
そんな過程で出てきたのが英語の訛り、それもコックニーである。マイフェアレディから入ったからこうなったのかな?
ちなみにMy Fair Lady (マイフェアレディ)は、本当はMayfair Lady(メイフェアレディ=上品なレディの住む街)だったのをコックニー訛りでMayfairをマイフェアと発音するからわざとこう書いたらしい。
僕が夢の中で歩き回ってた地域の人々は確かにコックニーだったけど、現在のニュージーランドではコックニーを使っているのは南島のかなり地方に住む農場経営者とか、随分限られている。
けどそれはコックニーを全く使わないってわけではなく、今でもラジオを聴いてると朝のニュースでも随分「おら、訛っただか?」的な発音を聴く事がある。
なのでまあ、一生懸命キングスイングリッシュを使おうとしているけどねっこんところにはまだまだ訛りが残ってるんだべさと感じた。
それに比べてオーストラリアではコックニーが当たり前のように使われているのが特徴的というべきか。
このあたりが自主的に集団でニュージーランドに移住しようとした先取精神の強い中流階級移民団と、犯罪を起こして逮捕され政府によって個別に片道切符で送り込まれて一生島流しになった労働者犯罪階級オージーとの違いか。
まあ、1800年代のロンドンの汚いことと言ったら話しにならない。日本だとすでに整備されている公共設備が殆ど整っておらず、自由主義や資本主義の結果がこれなら徳川家康の独裁主義の方がよっぽど良いぞと思う。
だいいち犯罪が多い。治安が悪いし医療も発達してないし教育だってカネがかかるし第一普通の子供は良い学校に行けない仕組みがある。最初から社会の平等(機会の平等と結果の適度な平等)が存在していないのだ。
そう考えてみると今の中国についてで、よく議論されるのが、本当に民主主義は正しいのか?と言うことだ。
殆どの日本人は戦後教育によって子供の頃から民主主義は素晴らしい、民主主義を導入すればどの国でも良くなる、だから民主主義のない国は不平等であり不自由であり不透明であると思い込んでいた。
けどその結果として犯罪を生み不幸を生み社会が成長しないとなれば、さあどうなんだってことになる。
きしくもトウショウヘイが以前語ったように「白い猫でも黒い猫でもねずみを獲る猫が良い猫」である。
民主主義が立派なものだとどれだけ理屈を言われてもそこに参加して民主主義が食い物を与えてくれず住む場所を与えてくれず着る物もなく将来も与えてくれないのであれば、そりゃあねずみを獲れない猫と同じで役立たずだ。
独裁主義とか共産党とか言われても今の中国に勢いがあるのは誰も否定出来ないし、その勢いを作ったのがトウショウヘイでありその後継者であり彼らの基盤とするものが中国共産党である以上、悪い猫かもしれないがよくねずみを獲ってくれるのだ。
けど共産主義は悪い奴が権力を握ったらどこまでも悪くなるよって、そんなの分かってる。
けど今、愚民ばかりが集まってあ^でもないこーでもないと騒ぐだけで結果的に何も進まずに社会自体が沈んで全員が不幸になり始めている民主主義よりは、どう見ても魅力的に見えるよ。
要するにどっちが今、人々を幸せにしてくれるかだ。
だいいち民主主義とか言いながら政府は30年以上も核持込を偽装しており、今になって「国民の為だった」とか言ってるのなら、共産主義と何が違う?
不透明どころか政治家と官僚による情報の非公開であるところは民主主義を隠れ蓑にした独裁でしょ。「独裁です、はい」ってはっきり言い切ってるほうがまだましだ。
日本航空が破綻して債務超過になっているのが分かっているのに上場企業から1千数百億円の資金を集めたのは合法で、誰にも迷惑をかけずに自分の頭でビジネスを構築したホリエモンは潰された。
政府についてればOK、逆らうなら平等なんてない、法律を後から作ってでも逮捕してやるってことでしょ。これなんて体制側による完全なる不平等ではないか。
中国で政治活動をすれば逮捕されて拷問の挙句に殺される。それは事実だ。けどでは、日本では不当逮捕、社会的抹殺がどれだけ行われているか?
植草痴漢事件、風呂屋の万引き事件、とにかく当局に逆らったら逮捕である。
政治活動をやっても良い、当局の許す範囲内ならってなら、だったら共産党と何が違う?言論の自由が保障されていないのはそりゃ共産党の方だって分かってる。どっちも言論が不自由なんだからその意味ではこれも嘘を言うだけ民主主義のほうがずるいでしょ。
アフガニスタンに大量破壊兵器がなかったこと、イランに核開発がないこと、地球温暖化の嘘、自由主義と言いながらどれほど大きな嘘が出回っているか、自由なことを書こうとすればつぶされる事を報道現場では知っている。これで自由と言えるのか?
なんて朝方の半分寝ぼけた脳みそでロンドンの風景を眺めながら考えてみた。
なんだよ嘘つき!民主主義が良いとかいいながら、結局共産主義者も民主主義者もやってる事は同じじゃんか!誰も労働者のことなんて考えてない、所詮は使い捨てではないか!
そうなったら自分を守るのは自分しかいないし、自分の家族を守るのは自分しかいない。
よし、テームズ港から船に乗ろう。そして新しい国に行こう。
そこは労働者天国で人々が平等で、働かずに土地だけ持って小作人を雇うような金持ち連中もいない。
一生懸命がんばれば報われるし、年をとれば国から年金をもらえるから老後も安心だ。治安も良いし子供の教育も無料だし医者だって通うことが出来る、そんな国に行こう。
そして1840年代の英国人中流者階級は船に乗って南太平洋の彼方にある小島に向ったのである。
2010年03月14日
片腕をなくした男 −ブライアン・フリーマントル−
ぼくが1977年から読んでいる「チャーリーマフィンシリーズ」は、すでに33年間続いているんだからたいしたものだ。
作者もすでに73歳なのに、しっかり現役で作家活動を行っている。
実はこの本、通常よりもかなり好きなシリーズである。他にもこういう系だとクライブカッスラーとかパトリシアコーンウェルとか米国の有名どころがいるけど、チャーリーマフィンは作品の出来を超えて共感を覚えてしまう。
冷戦時代のベルリンの壁から始まって中年の冴えない労働者階級のチャーリーがあの手この手を使いながら英国諜報部員としてその持てる知識と知恵を使って難局を切り抜けていくのだが、常にサイドテーマとなるのが彼の生い立ちや階級、格好である。
ハッシュパピーの靴を履き、マーク&スペンサーで買った安物のYシャツにはアイロンもかかってない。しかしそれは見せかけであり、諜報員として相手を欺く手段の一つである。
仲間内(諜報機関内)ではやらなくてもいい喧嘩をやり、張らなくても良い意地を張り、結局苦労するのは自分なんだけど、けどけど止められない。結局これって生まれついての劣等感の裏返しなのだけど、喧嘩してしまう性格だ。
そんな彼が今回はロンドンやモスクワを舞台として活躍するのだけど、どっちもどんよりとした空ですよね。
ちなみにこの作者が住んでいるのは生まれ故郷でもあるサザンプトン。ロンドンに行くまでは世界中の地名の一つでしかなかったけど、今は何となく頭に絵が浮かぶ。あんな暗いイギリスだからこんな暗い本が書けるんだな、とか(笑)。
ところでこの本のもう一つのテーマとしてチャーリーマフィンとその「英語」がある。
コックニー訛りという言い方はちょっと英語に詳しい人なら知っていると思うが元々はロンドンの労働者階級が使ってた話し方で、現在でもオーストラリアでよく使われる発音だそうだけど、分かり易いのがMAYをマイと発音することか。
Gooday!と書いてゲライ!、A(エー)がA(アイ)になったりもする。
クイーンズタウンにAラインモーテルと言う古くから有名な宿屋がある。
1980年代のスキーツアーでアメリカから来た観光客が、バス運転手が車内アナウンスで「次はAライン、降りる人いますか?」と聞かれて自分のホテルと思わずに乗り過ごした。そして彼はいつまで経っても自分の宿屋に着かないので運転手に聞いた。
観光客「おいおい、もしかしてさっき通り過ぎたのはおれが泊まる予定のエーラインモーテルじゃないのかね?」
運転手「だから今聞いたでしょ、アイラインモーテルいませんか?って」
なんてのは冗談のようだけど当時の有名な話である。英語の言い回しや発音は、一体どれが標準語じゃ?と言うくらいたくさんある。
例えばtoとwithの使い方の違いは、米語と英語で表現するとこうなるようだ。
英語=Talk to David
米語=Talk with David
数十年前になるがジョンルカレの小説「スマイリー三部作」で英国諜報員が米国側と話をする事になった。その時に英国諜報員が言ったのが「けどさ、あいつら meet with you って言うんだぜ全くもう」とふてくされてた場面がある。
それほどにイギリス人はそれなりに自分の言葉に誇りを持っているけど、さらに同じ英国人同士でも階級によって言葉が違うってんだから、そりゃチャーリーさんも舐められた話し方をされると喧嘩もしたくなるでしょう。
思わずルソーの本を相手の顔に叩きつけたくなるけど、ルソー如きでは英国の伝統ある階級差別を破壊する事等不可能。そうなったら後は実力行使しかないではないか。そして自分の上司を相手側に売り飛ばしたり首にしたり飛行機ごと吹き飛ばしたり。
それにしても今回もやっぱりチャーリーマフィン、最後に決めてくれます。途中までは「あれ?息切れ?」なんて思ってたけど、そうきましたか。さすがスパイ小説の行き着くところは英国系です。米国人の脳みそと思考回路では、てかあの土地ではこんな文章は書けないでしょうね。
けどマフィンさん、1977年の時点で冴えない中年スパイだったよね、今何歳だ?
片腕をなくした男〈下〉 (新潮文庫)
著者:ブライアン フリーマントル
販売元:新潮社
発売日:2009-11-28
おすすめ度:
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2010年03月13日
ワーホリノ3ヶ月ルール廃止
日本から来るワーキングホリデイの皆さんには、実に生真面目な人もいれば超不真面目な人もいる。
人それぞれだから他人に迷惑を及ぼさないうちはよいのだが、たまに仲間内の飲み会で議論になることがあるのがこの3ヶ月ルール。
ワーキングホリデイビザでは同一雇用主の下で3ヶ月を超えて働く事が出来ないという決まりがある。
この理由はワーキングホリデイと言う趣旨が、若者が旅をしながら外国を学ぶと言うものであり、一箇所にとどまって1年も仕事を続けるようでは本来のビザの趣旨ではないから駄目よと言うことだ。
これはこれでスジが通った話なのだが、ニュージーランドに来る日本人ワーホリはどちらかと言うとワーホリ⇒ワークビザ⇒永住権という流れがあり、その為一箇所で長く働くと言う傾向があった。
そして移民局としても真面目に働く優秀な若者である日本人がきちんと一年間同一雇用主の下で働いて納税した後にワークビザを申請するのは国益である。
だもんで同一雇用主の下で一年働きワークビザを申請する際に雇用主が「この子は当社で一年よく頑張って働いたのでワークビザを申請する」と言うと、そりゃよくがんばった、はいワークビザって感じでほんとに普通にワークビザが取得出来てた。(もちろん職場によりますよ、きちんとした会社である事は前提)
「おいおい移民局さん、この申請者って3ヶ月ルールを見事に破ってるんですけど」なんてやぼな突っ込みはなしだ。日本人だぜ、悪い事をするわけないじゃんか。
これは実は今も変わらない。キーウィにとってニホンジンと言うのはちょいと特別枠であり、他にもいくつか優遇されている面がある。
ただこれが、生真面目ワーホリからすれば「ルールなんだから3ヶ月以上働くなんてあり得ない!そんな人がいるから日本人が悪く言われるのよ!」と本気で怒るネタになる。
一応現場と法律を見てる立場から言わせて貰えば、ルールなんてのは人間が決めてるわけでありお互いに良いと思えばルールを適用しない事があるこの国では、あまりルールに拘るのは意味がない。
法の精神が国益を守る事であり、ニュージーランドにとって優秀で病気にも罹らない若い労働者が増える事が国益なんだから、優先度がず〜っと下の方にある「ワーホリノ3ヶ月ルール」なんてのは無視。つまり適用しないのが当然である。
また日本人が悪く言われる事も統計的には少ない。非常に少ない。お人よしだしやってる事が意味不明ってのはよく言われるが。
思い込みの激しい人がニュージーランドでも最下層の人々が夜な夜な集まる地下の薄暗いバーで網を張ってるガイジンが日本人の気を引く為にありとあらゆるデタラメをばら撒いて、どうこうと英語で話しかけられてくる言葉を、ほとんどその意味も分からずに真に受けている人間に限って日本人悲観論に陥ったりして「3ヶ月以上同じ場所で働くワーホリがいるから日本人が悪く言われるんだ」とか、「鯨を食べちゃいけない」とか言い出す。
しかし、だからと言ってこの「日本人には3ヶ月ルールが実質的には適用されていない」事実を逆手にとって、ワーホリを一年まるまる、ぎりぎりまでこき使う為に「大丈夫、一年働いてくれたらワークビザを申請してあげるから」と安い給料で雇う経営者がいるのも悲しいが事実である。そして勿論ワークビザの申請なんてしてくれない。結局最後になって「やっぱりお前、働きよくないから不要」となる。
説明会で時々こういう法律に関して質問を受ける事がある。
「9ヶ月滞在したら次の9ヶ月は再入国出来ないって大使館に聞いたんですけど本当ですか?」
「大使館の言ってることは一般的な話であり日本人には現在適用されていません。つまり中国人や中東の人々にとっては違法でも日本人には違法じゃないんです。けどそれを文章にすると人種差別になるので書いてないだけです」
ちょっと意地悪な書き方だけど、ではもう一つの例。
ニュージーランドは日本のような自動車教習所がない。なので運転免許を欲しい人は教官を個人的に雇って教えてもらったりする。同乗者がいて「運転勉強中」のサインを出していれば公道を運転出来る。
そして免許の実技試験の日。試験官は彼または彼女に「はい、この試験場まで自分の車で来てください」と言う。
「おいおい、ぼくはまだ何の免許も持ってない状態だぜ、隣に誰も坐ってない状態で、つまり今運転したら無免許じゃんか」
普通の日本人の発想なら当然こうなる。
けどこの国では「え?あんた運転出来る自信があるから試験受けるんでしょ、自信ないの?」となる。
このあたり、「違法」と言う考え方が日本とニュージーランドではすでに違うのだ。
この説明は実に難しい。法は現実に則していなければ適用しなければ良いという考え方は日本でも昔から存在するし、実際にそういうケースはたくさんある。
ところが真面目な日本人は法律を、その字面で書いてあることをそのまま鵜呑みにして自分なりに解釈して、自分で裁判官までやってしまい、違法か合法かを決めてしまうと言う、なんともエライものだ。
実態としては日本人の場合、3ヶ月ルールをそれ単独で適用されたことはない。
中には「3ヶ月ルールを適用されて職場を追い出された」と言う人もいるのだが、ありゃそうじゃなくて、本当は他に理由があるのだけどめんどいから分かり易い3ヶ月ルールで追い出したと言うケースなのだ。
このあたりも殆どの日本人は伝聞証拠で「私の知り合いが聞いた話だと〜」とか「だってこんな話がインターネット掲示板で書かれてたもん」と言って、根拠無根の話を舞台として無意味な会話が始まるから、いつまで経っても生産性のある議論にならない。
まあとにかく日本人に対しては3ヶ月ルールは廃止された。これは間違いない。同じ雇用者の下で長く働いて永住権に繋げる機会でもある。
人それぞれだから他人に迷惑を及ぼさないうちはよいのだが、たまに仲間内の飲み会で議論になることがあるのがこの3ヶ月ルール。
ワーキングホリデイビザでは同一雇用主の下で3ヶ月を超えて働く事が出来ないという決まりがある。
この理由はワーキングホリデイと言う趣旨が、若者が旅をしながら外国を学ぶと言うものであり、一箇所にとどまって1年も仕事を続けるようでは本来のビザの趣旨ではないから駄目よと言うことだ。
これはこれでスジが通った話なのだが、ニュージーランドに来る日本人ワーホリはどちらかと言うとワーホリ⇒ワークビザ⇒永住権という流れがあり、その為一箇所で長く働くと言う傾向があった。
そして移民局としても真面目に働く優秀な若者である日本人がきちんと一年間同一雇用主の下で働いて納税した後にワークビザを申請するのは国益である。
だもんで同一雇用主の下で一年働きワークビザを申請する際に雇用主が「この子は当社で一年よく頑張って働いたのでワークビザを申請する」と言うと、そりゃよくがんばった、はいワークビザって感じでほんとに普通にワークビザが取得出来てた。(もちろん職場によりますよ、きちんとした会社である事は前提)
「おいおい移民局さん、この申請者って3ヶ月ルールを見事に破ってるんですけど」なんてやぼな突っ込みはなしだ。日本人だぜ、悪い事をするわけないじゃんか。
これは実は今も変わらない。キーウィにとってニホンジンと言うのはちょいと特別枠であり、他にもいくつか優遇されている面がある。
ただこれが、生真面目ワーホリからすれば「ルールなんだから3ヶ月以上働くなんてあり得ない!そんな人がいるから日本人が悪く言われるのよ!」と本気で怒るネタになる。
一応現場と法律を見てる立場から言わせて貰えば、ルールなんてのは人間が決めてるわけでありお互いに良いと思えばルールを適用しない事があるこの国では、あまりルールに拘るのは意味がない。
法の精神が国益を守る事であり、ニュージーランドにとって優秀で病気にも罹らない若い労働者が増える事が国益なんだから、優先度がず〜っと下の方にある「ワーホリノ3ヶ月ルール」なんてのは無視。つまり適用しないのが当然である。
また日本人が悪く言われる事も統計的には少ない。非常に少ない。お人よしだしやってる事が意味不明ってのはよく言われるが。
思い込みの激しい人がニュージーランドでも最下層の人々が夜な夜な集まる地下の薄暗いバーで網を張ってるガイジンが日本人の気を引く為にありとあらゆるデタラメをばら撒いて、どうこうと英語で話しかけられてくる言葉を、ほとんどその意味も分からずに真に受けている人間に限って日本人悲観論に陥ったりして「3ヶ月以上同じ場所で働くワーホリがいるから日本人が悪く言われるんだ」とか、「鯨を食べちゃいけない」とか言い出す。
しかし、だからと言ってこの「日本人には3ヶ月ルールが実質的には適用されていない」事実を逆手にとって、ワーホリを一年まるまる、ぎりぎりまでこき使う為に「大丈夫、一年働いてくれたらワークビザを申請してあげるから」と安い給料で雇う経営者がいるのも悲しいが事実である。そして勿論ワークビザの申請なんてしてくれない。結局最後になって「やっぱりお前、働きよくないから不要」となる。
説明会で時々こういう法律に関して質問を受ける事がある。
「9ヶ月滞在したら次の9ヶ月は再入国出来ないって大使館に聞いたんですけど本当ですか?」
「大使館の言ってることは一般的な話であり日本人には現在適用されていません。つまり中国人や中東の人々にとっては違法でも日本人には違法じゃないんです。けどそれを文章にすると人種差別になるので書いてないだけです」
ちょっと意地悪な書き方だけど、ではもう一つの例。
ニュージーランドは日本のような自動車教習所がない。なので運転免許を欲しい人は教官を個人的に雇って教えてもらったりする。同乗者がいて「運転勉強中」のサインを出していれば公道を運転出来る。
そして免許の実技試験の日。試験官は彼または彼女に「はい、この試験場まで自分の車で来てください」と言う。
「おいおい、ぼくはまだ何の免許も持ってない状態だぜ、隣に誰も坐ってない状態で、つまり今運転したら無免許じゃんか」
普通の日本人の発想なら当然こうなる。
けどこの国では「え?あんた運転出来る自信があるから試験受けるんでしょ、自信ないの?」となる。
このあたり、「違法」と言う考え方が日本とニュージーランドではすでに違うのだ。
この説明は実に難しい。法は現実に則していなければ適用しなければ良いという考え方は日本でも昔から存在するし、実際にそういうケースはたくさんある。
ところが真面目な日本人は法律を、その字面で書いてあることをそのまま鵜呑みにして自分なりに解釈して、自分で裁判官までやってしまい、違法か合法かを決めてしまうと言う、なんともエライものだ。
実態としては日本人の場合、3ヶ月ルールをそれ単独で適用されたことはない。
中には「3ヶ月ルールを適用されて職場を追い出された」と言う人もいるのだが、ありゃそうじゃなくて、本当は他に理由があるのだけどめんどいから分かり易い3ヶ月ルールで追い出したと言うケースなのだ。
このあたりも殆どの日本人は伝聞証拠で「私の知り合いが聞いた話だと〜」とか「だってこんな話がインターネット掲示板で書かれてたもん」と言って、根拠無根の話を舞台として無意味な会話が始まるから、いつまで経っても生産性のある議論にならない。
まあとにかく日本人に対しては3ヶ月ルールは廃止された。これは間違いない。同じ雇用者の下で長く働いて永住権に繋げる機会でもある。
2010年03月12日
小沢的構造改革 -新しい料理は新しい皿に-
何で経済改革が進まないのか、考えてみた。現場では「韓国脅威論」が出てきているし世界の中で日本の姿が見えなくなっている。
世界第二位の経済大国と言っていながら、中国は日本を追い抜くし韓国も今の勢いで日本を追い上げてくるだろう。
なのに日本政府はあいも変わらず「友愛精神」ばっかりで、米国と基地問題やったり小沢の賄賂問題をやったり、とにかく政治が安定せずに経済への注力が見られず、結果的に指導力を無くした日本の経済は三流に陥ってる。
と、これが今現在の日本人ビジネスマンの一般的な見方であろう。
しかしちょっと視点を変えて見ると、これは違った見方が出来る。つまり日本政府は新しい経済政策を打ち出せないのではなく、あえて打ち出さないのだ。
もし今ビジネス界の要望を受け入れて様々な経済政策を実行しようとする。そうなるとその受け皿である官庁は、例えば経産省がエネルギー政策を発動してその旗の下に大手電機メーカーがぶら下がって「日の丸技術」の開発にかかる。
けど、この手の方法は二つの問題を生み出す。
一つは、すでに時代遅れになった「何でも自前」主義で国際社会に合致しないような、つまり所用のない技術ばかり作って「ほら、おれはすごいだろ」とやってしまう自己満足に陥ってしまうと言うことだ。
そしてもう一つがもっと大事なのだけど、もし今大胆な経済政策をやるとしても、実際にそれを行動に移すのは既存の官僚であり既存の仕組みである。
そしてその中でやる限り既存の官僚ルールが適用されて、官僚は「大胆な経済政策」を人質にとって自分たちの組織の延命を図り、結果的に現在の官僚システムの温存に繋がってしまうということだ。
そうなってしまえば、たとえ目先の経済は復活したとしても肝心の日本構造改革は失敗に終わってしまう。これが一番やばいのだ。
つまり、古くて汚れたお皿に新しい料理を載せるなということだ。
新しい料理は古いお皿に足すのではなく新しいお皿に。ところがそのお皿がまだ焼きあがっていない。だから今、どれだけたくさんの美味しいレシピがあってもそれは待機してもらうしかない。
お皿が焼きあがるのは、今年の参議院選挙で民主党が勝利を得てから政治改革を行い、戦後続いて来た官僚制度を本当に国民の為になるように作り変えるまでだから、後1年くらいか。そしてその経済政策が実際に効果を見せるのはさらに2年後くらいだろう。
政治改革は官僚制度をぶっ壊すと言っても良いし改善と言ってもよいが、ポイントは個人としての業務処理能力が高い官僚が自分たちだけの利益を考えて行動する時の方向性が国民の幸せの方向性と一致するような制度に作り変えることだ。
天下り制度だって現役世代で年収数千万円を受け取っていれば天下りで60過ぎまで働かなくても充分食っていけるので天下り先の確保は不要となり、公団やなんちゃら財団は不要となる。
現役高級官僚の人事権をすべて政府及び内閣が持ってしまい、国策に合った行動をする官僚を評価すれば、自然と誰もが自分の省庁よりも全体の利益を考えるようになり、省庁間のすりあわせでも全体的な利益と言う分かり易い視点で議論が出来るから答が明確になる。
こういう、方向性が明確になれば日本人は強い。国益を考えた人間が利益を得られるとなれば、素晴らしい回答を持ってくるのが優秀な官僚である。
そして民間と役所の交流も非常に大事だ。現在のように一人の人間が22歳から55歳まで同じ場所で違ういくつもの業務をこなしても出来上がるのは何でもちょっとだけ知っている「何でも屋」であり世界では通用しない。
何でも屋を育てるよりも、今は何か一つの業務があればそれを熟知している民間メンバーを一時的に役所に入れて仕事をしてもらい、終わればまた民間に戻る仕組みを作る事だろう。
今のように省庁がそれぞれ人事権を持ち、自分の省庁の利益を追求する人間が出世できる仕組みがあるから頭の良い東大卒は自分だけの利益を考えて行動する結果として国益が失われるのだ。
こうやって既存のシステムを完璧に作り変えてしまった後に経済政策を出していく。そういう順番でないと長期的視野に立った日本の将来は見えてこない。
だから言葉を変えれば「国民の皆さん、あと3年くらいは我慢してください」ってことだ。「その間、頑張って耐えてくださいね、デフレ、失業、年金不足、問題はたくさんあるけれど、日本人だったら雑草のように生き残るでしょ」である。
日本の民衆は叩いても叩いても死なないだけの連中だもんな、それは明治維新でも日露戦争でも第二次世界大戦でも何度も証明されている。日本人はウエがどんなに無策でバカでも現場で何とか解決するもんね。これはこれで悲しいかどうかは別にして、事実である。
確かに現場では完成品メーカーの存在が薄れてきている。ソニーはサムソンに負けるし原子力発電所でも韓国に負けたし、ヒュンダイはすでに世界第5位の販売台数を持って日本のクルマメーカーを後追いしている。
しかし技術だけを見れば、韓国は結局日本の部品メーカーから優秀な部品を買い付けて韓国で組み立ててるだけであり、基礎的な技術はあいも変わらず日本が強いし、おそらくこれからも政府が余計な事をしなければ世界でトップであり続けるだろう。
原子力発電所だって核を制御する技術は日本が最高である(現場ではバカみたいなミスが出てるけど、それでも他国よりはまし)。
だから韓国としては結果的に日本を頼りにするしかないのも事実。ただし韓国が頼りにしているのは日本の技術を持っているメーカーであり、完成品会社ではないし安い値段だけがウリの日本企業ではない。
実際に去年後半から韓国の完成品メーカーが日本の技術部品企業に次々と部品の発注を行っている。
だから今、日本がこれだけの技術を持っているうちに、つまりまだ何とか食えていけるうちに政府が自己変革を行い平成維新を実行して、次の50年間に向けた経済戦略を作っていくようになるのだと思っている。
そうなる前にどうにかならなかったのかと言えば、そりゃそうだ。
けどこれもまた日本と言う国の特性なのか、全体を見通して転ばぬ先の杖って発想がどうしても苦手なのは仕方ないんだから、今回は50年に1回の平成維新ってことでしばらくは我慢するしかない、「国民の皆さん、欲しがりません勝つまでは」です。
データをUPしようとしてたら視界の右側で何かが飛び上がっていった。朝からバンジーやってる人もいるんだな。写真はオフィスから見たスカイタワーと、ちょっと見づらいけど手前の黄色いクレーンが逆バンジーです。
世界第二位の経済大国と言っていながら、中国は日本を追い抜くし韓国も今の勢いで日本を追い上げてくるだろう。
なのに日本政府はあいも変わらず「友愛精神」ばっかりで、米国と基地問題やったり小沢の賄賂問題をやったり、とにかく政治が安定せずに経済への注力が見られず、結果的に指導力を無くした日本の経済は三流に陥ってる。
と、これが今現在の日本人ビジネスマンの一般的な見方であろう。
しかしちょっと視点を変えて見ると、これは違った見方が出来る。つまり日本政府は新しい経済政策を打ち出せないのではなく、あえて打ち出さないのだ。
もし今ビジネス界の要望を受け入れて様々な経済政策を実行しようとする。そうなるとその受け皿である官庁は、例えば経産省がエネルギー政策を発動してその旗の下に大手電機メーカーがぶら下がって「日の丸技術」の開発にかかる。
けど、この手の方法は二つの問題を生み出す。
一つは、すでに時代遅れになった「何でも自前」主義で国際社会に合致しないような、つまり所用のない技術ばかり作って「ほら、おれはすごいだろ」とやってしまう自己満足に陥ってしまうと言うことだ。
そしてもう一つがもっと大事なのだけど、もし今大胆な経済政策をやるとしても、実際にそれを行動に移すのは既存の官僚であり既存の仕組みである。
そしてその中でやる限り既存の官僚ルールが適用されて、官僚は「大胆な経済政策」を人質にとって自分たちの組織の延命を図り、結果的に現在の官僚システムの温存に繋がってしまうということだ。
そうなってしまえば、たとえ目先の経済は復活したとしても肝心の日本構造改革は失敗に終わってしまう。これが一番やばいのだ。
つまり、古くて汚れたお皿に新しい料理を載せるなということだ。
新しい料理は古いお皿に足すのではなく新しいお皿に。ところがそのお皿がまだ焼きあがっていない。だから今、どれだけたくさんの美味しいレシピがあってもそれは待機してもらうしかない。
お皿が焼きあがるのは、今年の参議院選挙で民主党が勝利を得てから政治改革を行い、戦後続いて来た官僚制度を本当に国民の為になるように作り変えるまでだから、後1年くらいか。そしてその経済政策が実際に効果を見せるのはさらに2年後くらいだろう。
政治改革は官僚制度をぶっ壊すと言っても良いし改善と言ってもよいが、ポイントは個人としての業務処理能力が高い官僚が自分たちだけの利益を考えて行動する時の方向性が国民の幸せの方向性と一致するような制度に作り変えることだ。
天下り制度だって現役世代で年収数千万円を受け取っていれば天下りで60過ぎまで働かなくても充分食っていけるので天下り先の確保は不要となり、公団やなんちゃら財団は不要となる。
現役高級官僚の人事権をすべて政府及び内閣が持ってしまい、国策に合った行動をする官僚を評価すれば、自然と誰もが自分の省庁よりも全体の利益を考えるようになり、省庁間のすりあわせでも全体的な利益と言う分かり易い視点で議論が出来るから答が明確になる。
こういう、方向性が明確になれば日本人は強い。国益を考えた人間が利益を得られるとなれば、素晴らしい回答を持ってくるのが優秀な官僚である。
そして民間と役所の交流も非常に大事だ。現在のように一人の人間が22歳から55歳まで同じ場所で違ういくつもの業務をこなしても出来上がるのは何でもちょっとだけ知っている「何でも屋」であり世界では通用しない。
何でも屋を育てるよりも、今は何か一つの業務があればそれを熟知している民間メンバーを一時的に役所に入れて仕事をしてもらい、終わればまた民間に戻る仕組みを作る事だろう。
今のように省庁がそれぞれ人事権を持ち、自分の省庁の利益を追求する人間が出世できる仕組みがあるから頭の良い東大卒は自分だけの利益を考えて行動する結果として国益が失われるのだ。
こうやって既存のシステムを完璧に作り変えてしまった後に経済政策を出していく。そういう順番でないと長期的視野に立った日本の将来は見えてこない。
だから言葉を変えれば「国民の皆さん、あと3年くらいは我慢してください」ってことだ。「その間、頑張って耐えてくださいね、デフレ、失業、年金不足、問題はたくさんあるけれど、日本人だったら雑草のように生き残るでしょ」である。
日本の民衆は叩いても叩いても死なないだけの連中だもんな、それは明治維新でも日露戦争でも第二次世界大戦でも何度も証明されている。日本人はウエがどんなに無策でバカでも現場で何とか解決するもんね。これはこれで悲しいかどうかは別にして、事実である。
確かに現場では完成品メーカーの存在が薄れてきている。ソニーはサムソンに負けるし原子力発電所でも韓国に負けたし、ヒュンダイはすでに世界第5位の販売台数を持って日本のクルマメーカーを後追いしている。
しかし技術だけを見れば、韓国は結局日本の部品メーカーから優秀な部品を買い付けて韓国で組み立ててるだけであり、基礎的な技術はあいも変わらず日本が強いし、おそらくこれからも政府が余計な事をしなければ世界でトップであり続けるだろう。
原子力発電所だって核を制御する技術は日本が最高である(現場ではバカみたいなミスが出てるけど、それでも他国よりはまし)。
だから韓国としては結果的に日本を頼りにするしかないのも事実。ただし韓国が頼りにしているのは日本の技術を持っているメーカーであり、完成品会社ではないし安い値段だけがウリの日本企業ではない。
実際に去年後半から韓国の完成品メーカーが日本の技術部品企業に次々と部品の発注を行っている。
だから今、日本がこれだけの技術を持っているうちに、つまりまだ何とか食えていけるうちに政府が自己変革を行い平成維新を実行して、次の50年間に向けた経済戦略を作っていくようになるのだと思っている。
そうなる前にどうにかならなかったのかと言えば、そりゃそうだ。
けどこれもまた日本と言う国の特性なのか、全体を見通して転ばぬ先の杖って発想がどうしても苦手なのは仕方ないんだから、今回は50年に1回の平成維新ってことでしばらくは我慢するしかない、「国民の皆さん、欲しがりません勝つまでは」です。
データをUPしようとしてたら視界の右側で何かが飛び上がっていった。朝からバンジーやってる人もいるんだな。写真はオフィスから見たスカイタワーと、ちょっと見づらいけど手前の黄色いクレーンが逆バンジーです。
2010年03月11日
こんな天気の良い日に
この写真は香港上海銀行(HSBC)の受付から見えるワイテマタ湾。
この時期になると世界中から客船がやってきて、今朝も客船からちっちゃな通関を通って観光客が降りてきているのが見える。
男性は半ズボンに明るい色のポロシャツ、足元は白い靴下に運動靴、首からカメラをぶら下げてサングラス、頭には野球帽(Cap)と誰もが制服のように決まった格好、けど女性はそれぞれにカラフルでカジュアルな格好を楽しんで、夫唱婦随で楽しそうだ。
「こんな天気の良い日にね〜」
これが今朝一番のHSBCでの会議で最初に発した言葉。期せずして彼も同じことを考えていたようで、
「ほんとだよね、まったく」
と返ってきた。
そう、今日はあまり楽しくない話題でHSBCとの会議である。
ニュージーランドに興味を持ってもらうのは有難いのだが、殆ど情報がない中で現地の法律も知らずに闇雲に不動産を買ってみて、後になって日本と法律の違いにびっくりして手放したい、けどそれが簡単にいかないって言っても、そりゃ後の祭りですぜ。
でもって祭りの後始末がこちらに回ってくる。うちの会社のような存在はある意味日本人にとっての駆け込み寺的な面があり、うちも費用さえ貰えばどんな交渉でもやるけど、それにしても日本人の契約観念の薄さには時々頭が痛くなる。
日本国内でやる分にはある程度消費者保護や仲間内の常識で“なあなあ”や“まあまあ”で通ることもあるが、外国では大体の場合において通用しない。
書類にサインした後に「ところでこれって何の書類ですか?」って、順番が逆ですよね。最初に書類を読んでからサインしましょうぜ。
後になって「聞いてない、知らない、分からない」なんて言っても、あなたがサインした書類は「不動産売買契約」だし弁護士に通訳入りで説明を受けて弁護士の目の前で「わたしは不動産に関するすべての情報をしっかり聞きました」と言う確認書類にもサインをしているんだし、銀行でも「あなたがやろうとしている事はこういうことですよ」と説明を受けているのだからどうしようもない。
そのどうしようもないものをどうにかならないかと交渉するわけだから、HSBCの担当者と僕は顔を見合わせて「こんな天気の良い日にね〜」となるのだ。
ニュージーランドの不動産市場は基本的に右肩上がりである。昭和の日本と同じで、どんどん人口は増えているしオークランド周辺に移住者は集中しているし、世界的にある程度以上の人々は積極的に国境を移動する生活をすることになるから、この状況がこれから最低でも10年間は続く徒予想される。
なので不動産については右肩上がりと言う神話が出来上がっているしそれは事実なのだが、勿論市場原理も働いているから過熱し過ぎれば調整もある。ある時期、例えば去年前半は不動産価格が20%程度下がったこともある。
けど今年になってまた価格は上がり始めているし、10年単位で見ればのこぎりの歯のようにぎざぎざを刻みながらも上昇している。
住宅価格が上昇する一つの理由は、ニュージーランドが世界経済の中で動いているからだ。
日本の工場が低賃金の労働力を求めて中国に工場を移しても、暫くすれば中国の人件費が上昇する。そうすると低賃金が中賃金になる。こうやって賃金はいずれ平準化する。
難しい方程式を書き始めるときりがないけど、風が吹けば桶屋が儲かる式で世界レベルで見れば時間はかかるけど賃金や物価はある程度収斂されていく。
その過程ではニュージーランドのように低賃金の国は賃金が上昇するし、住宅が世界的に見て安ければ上昇する。
その意味でニュージーランドの不動産を長期的に見れば投資対象としては良いと言える。何よりこの国では不動産売買に税金がかからない。無税で売買が出来るのだからこれは魅力的である。
なので長期的に保持をして住宅売却の利益=CapitalGainを狙うのであれば問題はない。
ただそこに日本の常識を持ってくるから話がおかしくなる。
「不動産が値上がりするなんてあり得ない!」
「新築しか価値がない!」
「中古住宅の価格が上がるわけがない!」
などなど、「今の日本」では30年前の日本では土地も値上がりしていたのをすっかり都合よく忘れて「今の話」しか言わない人が実に多い。
いくら説明しても聞く耳を持たず、とにかく「あり得ん!」を繰り返しておきながら、けど実際にニュージーランドに視察に来て不動産視察をすると今度はいう事が正反対になって「不動産がいい!」となる。
そしてこうなるとまたも人の話も聞かずに何でも買おうとする。
やめとけっつうのに不動産屋(最近ますますこの手のセミナーが増えた)にうまい事言われてその気になって、まるで中学生の小娘レベルである。
てか、最近の女子中学生はもう騙されないだろうから、小学生の男子児童レベルと言うべきか。
けどその不動産を誰がどう管理するのか、維持管理費はどの程度なのか、問題が起きた時にどのような法的措置が取れるのか、そういう大事な部分を「売りたいだけの」不動産屋に全部任せてしまう。
不動産屋は売れれば後は知らないんだからその場では「はいはい、何でもしますよ出来ますよ」と調子の良いことばかり言いながら、もちろん売れた後は「知らん。そんなもん自己責任でしょ」となる。
そこでドツボにはまるのは動かしようのない商品、つまり不動産を買ってしまった投資家である。
誰に貸せば良いのか、修理はどうすればいいのか、家賃の納税はどうするのか、最終的な出口である売却はどうすればいいのか、などなど問題は山積みとなる。
そしてある日、いよいよどうしようもなくなった時、ふと見た月刊ニュージーランドの広告で当社の存在を知り電話してくるってことになる。
僕は仕事だからどんな案件でも受ける。ニュージーランドと日本にまたがる問題であれば、ほぼ100%の割合で問題点を発見して解決する自信はある。
しかしそれはあくまでも顧客がその解決方法で納得してくれた場合であり、どうしても自分のやり方でないと嫌だとなれば、これはどうしようもない。
なので最初に案件の内容を聞いて、顧客がどこまで妥協出来るか、どれを捨ててどれを残したいか、優先順位をしっかりと決めてもらう。そこで初めて当社がお手伝い出来るかどうかが分かる。
今回の案件は更に複雑であり、HSBCの担当者も「こ、こんな複雑なのは初めてだぞ、どうすりゃいいんだこりゃ〜」って頭を抱えている。
こっちからすれば様々な選択余地がある。例えばA案、例えばB案、みたいに。
銀行とすれば出来るだけもめずに片付けたいけど、出来るだけたくさんの回収をしたい。そりゃそうだね銀行さん、けどさ、あなたも優先順位を付けようよ。
ちなみに今交渉している部署はクレジットデパートメントである。ここの人々はあまりネクタイをしていない。
銀行の表の顔となるセールスデパートメントのスタッフは全員ネクタイ着用だけど、銀行の裏の顔にあたる彼らの仕事は、英語で言えばクレジットデパートメントなんてかっこいいけどクレジットカードを発行するわけではなく「貸した金の回収」が仕事である。
だから債務者相手に「こら、どうなっとるんじゃい」が主な仕事なので、夏の暑い日の南太平洋の小島のちっちゃな街で借金取りをしている彼らにネクタイは必要ないとなるのである。
さて今日の話し合いは結果的に「またちょっと考えてみるわい」である。彼らにとっても複雑に権利関係が絡んでおり下手に何かやって後で裁判起こされるのも嫌だし、だからと言ってカネの回収は絶対だし、さあどうしよって感じである。
お互いにプロとしてやりあっているので感情的になることはない。けど隙を見せればすぐに相手のわき腹に短剣差し込むくらいの真剣さはある。
「お前、今こう言ったよな、いい間違いなんて言わせないぞ、おれ、聞いたからな」みたいのから始まって「おい、お前どうもモノの言い方悪いよ、お前と交渉したくないからウエの人間出せよ」とか「あのさ〜、ない袖振れないのは分かってるだろ、お前のことはToughNegotiatorだってお前の上司に言ってやるから早いとこ納めようぜ」まで、甘辛なんでもあり。
具体例を書けないのが残念なくらいだけど実に多様な表現が飛び回り、間違いなく英語の勉強にはなる。
まっすぐな米語と違い英語の場合は日本語と同じように最後の最後に今まで話してた事を全部ひっくり返す事が出来る。こういうのをお互いに何発もかましあいながら相手の顔色を見ている。
最初に相手に良さそうな話をしておいてどの時点で相手が「にやっ」とするかを見極めて最後の言葉で「〜じゃないんだけどね」とやって、それでがくっとした相手の顔を見て、考えている落しどころを見極める。
けどこれを乱発するとかえって相手の反発をくらって、「もういい、お前とは話をせん!」になってしまえばこれまたダメダメである。
こんなのを真夏の太陽がぎらぎらと照りつける南国の小島の海辺に立ってるビルの中で朝一番にやるんだから「こんな天気の良い日にね〜」となるのである。
2時間ほど話し込んでから、相手もボスと打ち合わせしてから返事をくれるとのこと。
“Ok, see you soon” と言う僕に対して彼はにやっと笑って“Hope NOT! “だってさ。
★ あ、そうだ、これだけは日本の方に言っておきたい。
今の日本は猫も杓子もエコエコって言うのに、何で住宅は今で使えるものを壊して「新築」にするのか、この意味が不明である。
“もったいない”なんて言葉が外国人に使われて喜んでいるけど、だったら中古住宅を買って中古車に乗りましょうぜ。「え〜、気持ち悪い」なんて言ってるうちはエコなんていわないほうが世界的にはYESだと思いますぜ。
そう考えたらニュージーランドはエコエコなんて騒がれなかった時代から古いものを何度も修理して使うような習慣があるので、よっぽどエコですぜ。
この時期になると世界中から客船がやってきて、今朝も客船からちっちゃな通関を通って観光客が降りてきているのが見える。
男性は半ズボンに明るい色のポロシャツ、足元は白い靴下に運動靴、首からカメラをぶら下げてサングラス、頭には野球帽(Cap)と誰もが制服のように決まった格好、けど女性はそれぞれにカラフルでカジュアルな格好を楽しんで、夫唱婦随で楽しそうだ。
「こんな天気の良い日にね〜」
これが今朝一番のHSBCでの会議で最初に発した言葉。期せずして彼も同じことを考えていたようで、
「ほんとだよね、まったく」
と返ってきた。
そう、今日はあまり楽しくない話題でHSBCとの会議である。
ニュージーランドに興味を持ってもらうのは有難いのだが、殆ど情報がない中で現地の法律も知らずに闇雲に不動産を買ってみて、後になって日本と法律の違いにびっくりして手放したい、けどそれが簡単にいかないって言っても、そりゃ後の祭りですぜ。
でもって祭りの後始末がこちらに回ってくる。うちの会社のような存在はある意味日本人にとっての駆け込み寺的な面があり、うちも費用さえ貰えばどんな交渉でもやるけど、それにしても日本人の契約観念の薄さには時々頭が痛くなる。
日本国内でやる分にはある程度消費者保護や仲間内の常識で“なあなあ”や“まあまあ”で通ることもあるが、外国では大体の場合において通用しない。
書類にサインした後に「ところでこれって何の書類ですか?」って、順番が逆ですよね。最初に書類を読んでからサインしましょうぜ。
後になって「聞いてない、知らない、分からない」なんて言っても、あなたがサインした書類は「不動産売買契約」だし弁護士に通訳入りで説明を受けて弁護士の目の前で「わたしは不動産に関するすべての情報をしっかり聞きました」と言う確認書類にもサインをしているんだし、銀行でも「あなたがやろうとしている事はこういうことですよ」と説明を受けているのだからどうしようもない。
そのどうしようもないものをどうにかならないかと交渉するわけだから、HSBCの担当者と僕は顔を見合わせて「こんな天気の良い日にね〜」となるのだ。
ニュージーランドの不動産市場は基本的に右肩上がりである。昭和の日本と同じで、どんどん人口は増えているしオークランド周辺に移住者は集中しているし、世界的にある程度以上の人々は積極的に国境を移動する生活をすることになるから、この状況がこれから最低でも10年間は続く徒予想される。
なので不動産については右肩上がりと言う神話が出来上がっているしそれは事実なのだが、勿論市場原理も働いているから過熱し過ぎれば調整もある。ある時期、例えば去年前半は不動産価格が20%程度下がったこともある。
けど今年になってまた価格は上がり始めているし、10年単位で見ればのこぎりの歯のようにぎざぎざを刻みながらも上昇している。
住宅価格が上昇する一つの理由は、ニュージーランドが世界経済の中で動いているからだ。
日本の工場が低賃金の労働力を求めて中国に工場を移しても、暫くすれば中国の人件費が上昇する。そうすると低賃金が中賃金になる。こうやって賃金はいずれ平準化する。
難しい方程式を書き始めるときりがないけど、風が吹けば桶屋が儲かる式で世界レベルで見れば時間はかかるけど賃金や物価はある程度収斂されていく。
その過程ではニュージーランドのように低賃金の国は賃金が上昇するし、住宅が世界的に見て安ければ上昇する。
その意味でニュージーランドの不動産を長期的に見れば投資対象としては良いと言える。何よりこの国では不動産売買に税金がかからない。無税で売買が出来るのだからこれは魅力的である。
なので長期的に保持をして住宅売却の利益=CapitalGainを狙うのであれば問題はない。
ただそこに日本の常識を持ってくるから話がおかしくなる。
「不動産が値上がりするなんてあり得ない!」
「新築しか価値がない!」
「中古住宅の価格が上がるわけがない!」
などなど、「今の日本」では30年前の日本では土地も値上がりしていたのをすっかり都合よく忘れて「今の話」しか言わない人が実に多い。
いくら説明しても聞く耳を持たず、とにかく「あり得ん!」を繰り返しておきながら、けど実際にニュージーランドに視察に来て不動産視察をすると今度はいう事が正反対になって「不動産がいい!」となる。
そしてこうなるとまたも人の話も聞かずに何でも買おうとする。
やめとけっつうのに不動産屋(最近ますますこの手のセミナーが増えた)にうまい事言われてその気になって、まるで中学生の小娘レベルである。
てか、最近の女子中学生はもう騙されないだろうから、小学生の男子児童レベルと言うべきか。
けどその不動産を誰がどう管理するのか、維持管理費はどの程度なのか、問題が起きた時にどのような法的措置が取れるのか、そういう大事な部分を「売りたいだけの」不動産屋に全部任せてしまう。
不動産屋は売れれば後は知らないんだからその場では「はいはい、何でもしますよ出来ますよ」と調子の良いことばかり言いながら、もちろん売れた後は「知らん。そんなもん自己責任でしょ」となる。
そこでドツボにはまるのは動かしようのない商品、つまり不動産を買ってしまった投資家である。
誰に貸せば良いのか、修理はどうすればいいのか、家賃の納税はどうするのか、最終的な出口である売却はどうすればいいのか、などなど問題は山積みとなる。
そしてある日、いよいよどうしようもなくなった時、ふと見た月刊ニュージーランドの広告で当社の存在を知り電話してくるってことになる。
僕は仕事だからどんな案件でも受ける。ニュージーランドと日本にまたがる問題であれば、ほぼ100%の割合で問題点を発見して解決する自信はある。
しかしそれはあくまでも顧客がその解決方法で納得してくれた場合であり、どうしても自分のやり方でないと嫌だとなれば、これはどうしようもない。
なので最初に案件の内容を聞いて、顧客がどこまで妥協出来るか、どれを捨ててどれを残したいか、優先順位をしっかりと決めてもらう。そこで初めて当社がお手伝い出来るかどうかが分かる。
今回の案件は更に複雑であり、HSBCの担当者も「こ、こんな複雑なのは初めてだぞ、どうすりゃいいんだこりゃ〜」って頭を抱えている。
こっちからすれば様々な選択余地がある。例えばA案、例えばB案、みたいに。
銀行とすれば出来るだけもめずに片付けたいけど、出来るだけたくさんの回収をしたい。そりゃそうだね銀行さん、けどさ、あなたも優先順位を付けようよ。
ちなみに今交渉している部署はクレジットデパートメントである。ここの人々はあまりネクタイをしていない。
銀行の表の顔となるセールスデパートメントのスタッフは全員ネクタイ着用だけど、銀行の裏の顔にあたる彼らの仕事は、英語で言えばクレジットデパートメントなんてかっこいいけどクレジットカードを発行するわけではなく「貸した金の回収」が仕事である。
だから債務者相手に「こら、どうなっとるんじゃい」が主な仕事なので、夏の暑い日の南太平洋の小島のちっちゃな街で借金取りをしている彼らにネクタイは必要ないとなるのである。
さて今日の話し合いは結果的に「またちょっと考えてみるわい」である。彼らにとっても複雑に権利関係が絡んでおり下手に何かやって後で裁判起こされるのも嫌だし、だからと言ってカネの回収は絶対だし、さあどうしよって感じである。
お互いにプロとしてやりあっているので感情的になることはない。けど隙を見せればすぐに相手のわき腹に短剣差し込むくらいの真剣さはある。
「お前、今こう言ったよな、いい間違いなんて言わせないぞ、おれ、聞いたからな」みたいのから始まって「おい、お前どうもモノの言い方悪いよ、お前と交渉したくないからウエの人間出せよ」とか「あのさ〜、ない袖振れないのは分かってるだろ、お前のことはToughNegotiatorだってお前の上司に言ってやるから早いとこ納めようぜ」まで、甘辛なんでもあり。
具体例を書けないのが残念なくらいだけど実に多様な表現が飛び回り、間違いなく英語の勉強にはなる。
まっすぐな米語と違い英語の場合は日本語と同じように最後の最後に今まで話してた事を全部ひっくり返す事が出来る。こういうのをお互いに何発もかましあいながら相手の顔色を見ている。
最初に相手に良さそうな話をしておいてどの時点で相手が「にやっ」とするかを見極めて最後の言葉で「〜じゃないんだけどね」とやって、それでがくっとした相手の顔を見て、考えている落しどころを見極める。
けどこれを乱発するとかえって相手の反発をくらって、「もういい、お前とは話をせん!」になってしまえばこれまたダメダメである。
こんなのを真夏の太陽がぎらぎらと照りつける南国の小島の海辺に立ってるビルの中で朝一番にやるんだから「こんな天気の良い日にね〜」となるのである。
2時間ほど話し込んでから、相手もボスと打ち合わせしてから返事をくれるとのこと。
“Ok, see you soon” と言う僕に対して彼はにやっと笑って“Hope NOT! “だってさ。
★ あ、そうだ、これだけは日本の方に言っておきたい。
今の日本は猫も杓子もエコエコって言うのに、何で住宅は今で使えるものを壊して「新築」にするのか、この意味が不明である。
“もったいない”なんて言葉が外国人に使われて喜んでいるけど、だったら中古住宅を買って中古車に乗りましょうぜ。「え〜、気持ち悪い」なんて言ってるうちはエコなんていわないほうが世界的にはYESだと思いますぜ。
そう考えたらニュージーランドはエコエコなんて騒がれなかった時代から古いものを何度も修理して使うような習慣があるので、よっぽどエコですぜ。
2010年03月10日
海外で会社を設立するには
海外で会社を設立するって?
十数年も今のようなコンサルティング仕事をしているとニュージーランドで会社を立ち上げるとか、そこから発生する作業量が大体見えてくる。
なので、会社設立に関してはある意味ブログ一日分を書くくらいの感覚で処理しているし作業については会社から歩いて5分の山水までお昼ご飯を食べに行く手間程度と考えている。
会社の作業の多くは外注出来るし、最近はなにせメーカーが工場自体を他社に外注する時代だもんね、会社がやる事ってのは実はかなり少ない。
会社を作る時に最初にまず考えるのは、会社を作る基本的、最終的な目的を考えて、会社設立以外の方法があるのかなど考えながらいろんな方向性を探る。
つまり会社を作らなくても目的が達成出来るなら面倒なことなどする必要はないってことだ。極端な話、お金を儲けようと思って自己資金で宝くじ買うのに会社設立は不要。
これはブログでも同じ。
朝起きて、さて今日はどんなニュースがあるかな、日本の各種新聞とNZヘラルドに目を通しながらテーマを考えてそれで文字数がどれくらいになるか予想して、今日の仕事の量を考えて、あ、このテーマは今日は止めておこうとか、じゃあこのテーマで書いてみようとか。
つまり最初にボタンのかけ違いをしないように、自分がやりたい事、自分が出来る事、それをやる事で周囲にどんな問題が起こるかを予想する事、これが最初に考えることになる。
自分がやりたい事、もちろんこれは一番大事。今日起きて、お、このネタ良いねと思うとまず検討の俎板に乗る。
しかしそれが自分の手に負える内容なのか?
例えば天皇陛下のお孫さんが学校に行かないことは、それが記事になることが面白いから書いてみようとなる。
けどその為には学習院の教育システム、天皇家の学校の通い方、ご学友、なんちゃらかんちゃらの独自の風習があるだろうし、それを知らねば書けない。うちの子供が小学校で隣のガキに蹴りを入れた、レベルの話ではないことだけは想像がつくから、下手は打てない。
それに今度は、天皇ネタってのは軽くない。よほど絞って書いたつもりでも、一つ間違えば筆禍となる。
だいいちそれを全部理解してブログに落とすとなれば、仕事の片手間どころではなくなる。
学習院や天皇一家、天皇制、そして天皇を取り巻く役人のことをきちんと調べるだけでまるまる2日くらい潰れるぞ。
どう考えても片手間で書けるブログの内容ではないとなる。そうするとこれはまず物理的に無理だよねって話になる。
会社を作るのも同じで、このように自分がやりたいと思ってることを全体図に落として見て、果たして自分がやろうと考えている事は自分の今の能力でやれるのかを考えてみる必要がある。
自分の能力、自分が使える時間、そういうものを、己を知った上で全体図を見れば、今すぐに出来ることと出来ないことがわかる。
仮にこれがうまくいきそうなネタだとしよう。
えっと、例えば旅行業に関するネタ。これなら怖くない。旅行に関して言えば殆ど誰よりも業界歴は長いし色んな国の旅行業のやり方も分かっているし何せ現役ではないので利害関係がない。
これ書きたいけど、書くとあいつにやばいかな、なんてのはない。だから書ける。
けどこれが最近起こったホントの話とかだと、その日のネタとしては思いっきり面白いだろうし、おそらくかなりの笑いとどきどきを勝ち取れるだろう。
けど結果的に今動いてるいろんな案件の利害関係があちこちでぶつかり合ってしまい最後には飛んでも八分歩いて十分と言うことになる。
あ、「飛んでも」と言うのは平成生まれの人には分かりにくいかもしれないが、比喩の一つです。普通にはちゃっちゃくちゃら、めっちゃくちゃ、扇風機にぶちかました泥水を真正面でかぶって吹っ飛ばされる、くらいの意味です。泥水、あ、原典では正確には泥水ではなくもっと汚い半液体ですが。
つまり会社を作ってもそれが継続出来るのかって問題が常に存在するってことです。
ニュージーランドでは一年間に会社が100社出来たとすると、一年以内に50社以上が閉鎖されます。でもってその後も毎年数十パーセントの会社が退出して、5年後に残る会社は100分の1社程度と言われています。
消滅していく会社は大体において背伸びをしたり現実を考えずに精神論でどうにかなると思い込んでいたりある日突然の泥水扇風機だったり理由は様々です。
けれどそれを防ぐ方法もあります。それは孫子の兵法を読むこと。
戦争とビジネス?変てこかもしれませんが、実は戦争とビジネスは実に相性が良い。見事なまでに戦争の理論はビジネス理論とも通じるのです。
その意味で日本の中小企業の経営者は実に戦いに弱い。地元だからかろうじて立ってていられるんだけど、これがAwayアウェイになるともうべたべたに駄目になる。
なぜなら彼らは他所の街でも通用する戦いの原則を学ばないまま、たまたま地元でBeginners’ Luck ビギナーズラックで当たったのを、何を勘違いしたか自分の力はどこの街でも通用すると思い込んでしまうからです。
ビジネスも戦争も原則を大事にしていけば、かなりの確率で成功します。そして最初にちょっとうまくいったからと言って調子ぶっこかないこと。ここ大事な点で、多くの人が一年目はうまくいくのに二年目でこけるのは、大体ぶっこきが原因です。
「勝って兜の緒を締めよ」と言う諺は伊達ではなく、武田でもなく、遥か昔の中国でも言われたことらしくて、孫子ではなく老子だなんて話もあります。
いずれにしても共通しているのは
「己を知り敵を知らば百戦また危うからず」
「驕る者は久しからず」
です。
ちょっとばらばらになったな。ま、いいか、そのうちきちんとまとめよう。
写真は雲の上に浮かぶリマーカブル山脈です。
十数年も今のようなコンサルティング仕事をしているとニュージーランドで会社を立ち上げるとか、そこから発生する作業量が大体見えてくる。
なので、会社設立に関してはある意味ブログ一日分を書くくらいの感覚で処理しているし作業については会社から歩いて5分の山水までお昼ご飯を食べに行く手間程度と考えている。
会社の作業の多くは外注出来るし、最近はなにせメーカーが工場自体を他社に外注する時代だもんね、会社がやる事ってのは実はかなり少ない。
会社を作る時に最初にまず考えるのは、会社を作る基本的、最終的な目的を考えて、会社設立以外の方法があるのかなど考えながらいろんな方向性を探る。
つまり会社を作らなくても目的が達成出来るなら面倒なことなどする必要はないってことだ。極端な話、お金を儲けようと思って自己資金で宝くじ買うのに会社設立は不要。
これはブログでも同じ。
朝起きて、さて今日はどんなニュースがあるかな、日本の各種新聞とNZヘラルドに目を通しながらテーマを考えてそれで文字数がどれくらいになるか予想して、今日の仕事の量を考えて、あ、このテーマは今日は止めておこうとか、じゃあこのテーマで書いてみようとか。
つまり最初にボタンのかけ違いをしないように、自分がやりたい事、自分が出来る事、それをやる事で周囲にどんな問題が起こるかを予想する事、これが最初に考えることになる。
自分がやりたい事、もちろんこれは一番大事。今日起きて、お、このネタ良いねと思うとまず検討の俎板に乗る。
しかしそれが自分の手に負える内容なのか?
例えば天皇陛下のお孫さんが学校に行かないことは、それが記事になることが面白いから書いてみようとなる。
けどその為には学習院の教育システム、天皇家の学校の通い方、ご学友、なんちゃらかんちゃらの独自の風習があるだろうし、それを知らねば書けない。うちの子供が小学校で隣のガキに蹴りを入れた、レベルの話ではないことだけは想像がつくから、下手は打てない。
それに今度は、天皇ネタってのは軽くない。よほど絞って書いたつもりでも、一つ間違えば筆禍となる。
だいいちそれを全部理解してブログに落とすとなれば、仕事の片手間どころではなくなる。
学習院や天皇一家、天皇制、そして天皇を取り巻く役人のことをきちんと調べるだけでまるまる2日くらい潰れるぞ。
どう考えても片手間で書けるブログの内容ではないとなる。そうするとこれはまず物理的に無理だよねって話になる。
会社を作るのも同じで、このように自分がやりたいと思ってることを全体図に落として見て、果たして自分がやろうと考えている事は自分の今の能力でやれるのかを考えてみる必要がある。
自分の能力、自分が使える時間、そういうものを、己を知った上で全体図を見れば、今すぐに出来ることと出来ないことがわかる。
仮にこれがうまくいきそうなネタだとしよう。
えっと、例えば旅行業に関するネタ。これなら怖くない。旅行に関して言えば殆ど誰よりも業界歴は長いし色んな国の旅行業のやり方も分かっているし何せ現役ではないので利害関係がない。
これ書きたいけど、書くとあいつにやばいかな、なんてのはない。だから書ける。
けどこれが最近起こったホントの話とかだと、その日のネタとしては思いっきり面白いだろうし、おそらくかなりの笑いとどきどきを勝ち取れるだろう。
けど結果的に今動いてるいろんな案件の利害関係があちこちでぶつかり合ってしまい最後には飛んでも八分歩いて十分と言うことになる。
あ、「飛んでも」と言うのは平成生まれの人には分かりにくいかもしれないが、比喩の一つです。普通にはちゃっちゃくちゃら、めっちゃくちゃ、扇風機にぶちかました泥水を真正面でかぶって吹っ飛ばされる、くらいの意味です。泥水、あ、原典では正確には泥水ではなくもっと汚い半液体ですが。
つまり会社を作ってもそれが継続出来るのかって問題が常に存在するってことです。
ニュージーランドでは一年間に会社が100社出来たとすると、一年以内に50社以上が閉鎖されます。でもってその後も毎年数十パーセントの会社が退出して、5年後に残る会社は100分の1社程度と言われています。
消滅していく会社は大体において背伸びをしたり現実を考えずに精神論でどうにかなると思い込んでいたりある日突然の泥水扇風機だったり理由は様々です。
けれどそれを防ぐ方法もあります。それは孫子の兵法を読むこと。
戦争とビジネス?変てこかもしれませんが、実は戦争とビジネスは実に相性が良い。見事なまでに戦争の理論はビジネス理論とも通じるのです。
その意味で日本の中小企業の経営者は実に戦いに弱い。地元だからかろうじて立ってていられるんだけど、これがAwayアウェイになるともうべたべたに駄目になる。
なぜなら彼らは他所の街でも通用する戦いの原則を学ばないまま、たまたま地元でBeginners’ Luck ビギナーズラックで当たったのを、何を勘違いしたか自分の力はどこの街でも通用すると思い込んでしまうからです。
ビジネスも戦争も原則を大事にしていけば、かなりの確率で成功します。そして最初にちょっとうまくいったからと言って調子ぶっこかないこと。ここ大事な点で、多くの人が一年目はうまくいくのに二年目でこけるのは、大体ぶっこきが原因です。
「勝って兜の緒を締めよ」と言う諺は伊達ではなく、武田でもなく、遥か昔の中国でも言われたことらしくて、孫子ではなく老子だなんて話もあります。
いずれにしても共通しているのは
「己を知り敵を知らば百戦また危うからず」
「驕る者は久しからず」
です。
ちょっとばらばらになったな。ま、いいか、そのうちきちんとまとめよう。
写真は雲の上に浮かぶリマーカブル山脈です。
2010年03月09日
未来の国から
未来からの提言・タバコ
大仰(おうぎょう)な書き方になったけど、禁煙都市に長く住む禁煙者からのメッセージ。
90年代は世界中何処でも皆がぷかぷかとタバコを吸ってた。とくに香港なんてどこに行ってもタバコだらけで、仕事が終わって家に帰ったら、服が臭くてたまらんという経験は日常だった。
ニュージーランドでもすべての公共機関や建物に禁煙条例が出たとき、どこのお店も大声で「うちを潰すつもりか!」と大騒ぎになった。
しかし結局は条例が導入され、せーのどん!で導入したもんだから、喫煙者は他のどこに行こうと条件が同じならと結局客足が落ちなかったと言う実績がある。
香港でも導入の際は大揉めになったそうだが(その頃ぼくは香港に住んでなかった)、結果的に一旦ルールが導入されるとそこは香港人、見事なまでにきちっと守って今ではどこも禁煙が当たり前、100年前からやってますみたいな顔で澄ましている。
日本では禁煙条例の導入にあたって徳島市の記事があった。
★記事抜粋開始
禁煙宣言事業所の制度は2008年4月にスタート。建物内や敷地内で全面禁煙に取り組む事業所を募り、福祉施設、医療機関、官公庁など、10年1月現在で391事業所を登録した。
しかし、飲食店で登録されたのは、まだ10店だけ。喫煙者が禁煙店を避けがちなため、多くの飲食店は売り上げ減少を心配して、全面禁煙化に踏み切れないでいる。
特に居酒屋は、客が比較的長時間、店内にいる場合が多いため、喫煙者は禁煙を嫌がるという。徳島市中洲町の居酒屋経営者(55)は「収入減を考えると禁煙にできない。お客さんの健康が第一とはいえ、経営が成り立たないと困る。法律や条令で店内禁煙を義務付けられたら従うが……」と話す。
一方、同市籠屋町の「禁煙天国 おとなの居酒屋 可夢庵(かむあん)」は居酒屋では唯一の禁煙宣言事業所。山田全宏(まさひろ)店長(69)は1日にたばこ3箱を吸うヘビースモーカーだったが、6年前に狭心症を患って反省した。客の健康と、日本酒本来の香り、味を楽しんでもらうため、4年前の開店時から全面禁煙にした。
当初は禁煙を嫌がる団体客が多く、オープン後1年間の売り上げは、予想の半分以下だった。山田店長は「これから店内禁煙にしようと思う店は、売り上げが5割減る覚悟がないと難しい」と話す。
しかし、2年目から禁煙者や、料理と酒の味を気に入った客が口コミで増えて売り上げを伸ばし、今では喫煙者も訪れ、店内で我慢するという。居酒屋では不利と言われた全面禁煙化を、逆に店の特徴、強みにして受け入れられている。
厚労省の「全面禁煙」通知は、飲食店、商店、遊技場、ホテル、官公庁といった不特定多数の人が集まる施設や、鉄道、タクシーなどの交通機関、子どもが利用する公共施設などが対象。全面禁煙が困難な場合、「当面の間、受動喫煙防止対策を進め、将来的には全面禁煙を目指すこと」と求めている。
全面禁煙の取り組みについて、飯泉知事は「まずは社会全体で取り組む機運を盛り上げるのが重要。事業所や利用客の動向を注視し、県としての対策を考えたい」としている。
★抜粋終了
「収入減を考えると禁煙にできない。お客さんの健康が第一とはいえ、経営が成り立たないと困る」というのは、まさに経営者側の本音だろう。
お客さんの健康が第一という建前よりも自分の生き残りと言う本音で語ってくれるのが分かり易い。
けど、こういう事こそ政府が率先してシステムを導入しなければいけないものだ。禁煙に参加したお店が不利になるようなルールに誰が従うものか。
税金と同じで真面目に払った人がバカをみるようでは公平の観点からみても間違いであるのは明確だ。
日頃政府は自分勝手なことを国民に強制するくせに、こういうことだけは「いや、個人の自由が〜」とかでのらりくらり逃げている。
要するに禁煙を一気に導入しても手間はかかるし国民に文句を言われるし自分の利益にならないし、そんな「猫の首に鈴をつけるようなまね」はやりたくないってのが本音だろう。
ただこれは、どこのお店も長引く不況で大変な中、放置しておいてどうにかなる問題ではない。
タバコは間違いなく肺がんの原因であり体に良くないのは医学的にも証明されており、米国では医学的に肺がんになるという事実を知りながら販売していたタバコ会社が集団訴訟を起こされて天文学的な賠償金を取られている。
ならば日本では、例えば2010年7月20日(夏休み前、子供の健康を守る為)をもって政府の法令によって全面禁煙を導入、もし店の中でお客にタバコを吸わせたら、経営者を自殺幇助罪で逮捕するなんてのはどうだろう。
こういう罰則を付けてすべての公共の建物及びレストランを禁煙にしてしまえば、真面目な日本人のことですからあっと言う間に禁煙が普及されるだろう。
日頃は国に期待なんかしたくないし邪魔するなってのが僕の基本的発想だが、国民全体で不便を引き受けるのだから、これこそ国の積極的関与を期待したいところだ。
ただ言えることは、全面禁煙を導入したことでお店が潰れた例は少なくともニュージーランドや香港では存在しないし、日本でも全面禁煙で店がつぶれる事はあり得ない。
むしろこれを機会に綺麗な空気もメニューです、くらいのことをウリにするレストランが出てくるべきだと思う。ピンチはチャンス、使い方によってビジネスのスパイスにする、経営者にそれくらいの知恵がないと、禁煙以前の問題で店はぽしゃりますぜ。
写真はバルカンレーン、夏です。100年前にイギリスからやってきた移民が長い船旅の後にオークランドの土を踏んでこのあたりのホテルに泊まってたんですね。
大仰(おうぎょう)な書き方になったけど、禁煙都市に長く住む禁煙者からのメッセージ。
90年代は世界中何処でも皆がぷかぷかとタバコを吸ってた。とくに香港なんてどこに行ってもタバコだらけで、仕事が終わって家に帰ったら、服が臭くてたまらんという経験は日常だった。
ニュージーランドでもすべての公共機関や建物に禁煙条例が出たとき、どこのお店も大声で「うちを潰すつもりか!」と大騒ぎになった。
しかし結局は条例が導入され、せーのどん!で導入したもんだから、喫煙者は他のどこに行こうと条件が同じならと結局客足が落ちなかったと言う実績がある。
香港でも導入の際は大揉めになったそうだが(その頃ぼくは香港に住んでなかった)、結果的に一旦ルールが導入されるとそこは香港人、見事なまでにきちっと守って今ではどこも禁煙が当たり前、100年前からやってますみたいな顔で澄ましている。
日本では禁煙条例の導入にあたって徳島市の記事があった。
★記事抜粋開始
禁煙宣言事業所の制度は2008年4月にスタート。建物内や敷地内で全面禁煙に取り組む事業所を募り、福祉施設、医療機関、官公庁など、10年1月現在で391事業所を登録した。
しかし、飲食店で登録されたのは、まだ10店だけ。喫煙者が禁煙店を避けがちなため、多くの飲食店は売り上げ減少を心配して、全面禁煙化に踏み切れないでいる。
特に居酒屋は、客が比較的長時間、店内にいる場合が多いため、喫煙者は禁煙を嫌がるという。徳島市中洲町の居酒屋経営者(55)は「収入減を考えると禁煙にできない。お客さんの健康が第一とはいえ、経営が成り立たないと困る。法律や条令で店内禁煙を義務付けられたら従うが……」と話す。
一方、同市籠屋町の「禁煙天国 おとなの居酒屋 可夢庵(かむあん)」は居酒屋では唯一の禁煙宣言事業所。山田全宏(まさひろ)店長(69)は1日にたばこ3箱を吸うヘビースモーカーだったが、6年前に狭心症を患って反省した。客の健康と、日本酒本来の香り、味を楽しんでもらうため、4年前の開店時から全面禁煙にした。
当初は禁煙を嫌がる団体客が多く、オープン後1年間の売り上げは、予想の半分以下だった。山田店長は「これから店内禁煙にしようと思う店は、売り上げが5割減る覚悟がないと難しい」と話す。
しかし、2年目から禁煙者や、料理と酒の味を気に入った客が口コミで増えて売り上げを伸ばし、今では喫煙者も訪れ、店内で我慢するという。居酒屋では不利と言われた全面禁煙化を、逆に店の特徴、強みにして受け入れられている。
厚労省の「全面禁煙」通知は、飲食店、商店、遊技場、ホテル、官公庁といった不特定多数の人が集まる施設や、鉄道、タクシーなどの交通機関、子どもが利用する公共施設などが対象。全面禁煙が困難な場合、「当面の間、受動喫煙防止対策を進め、将来的には全面禁煙を目指すこと」と求めている。
全面禁煙の取り組みについて、飯泉知事は「まずは社会全体で取り組む機運を盛り上げるのが重要。事業所や利用客の動向を注視し、県としての対策を考えたい」としている。
★抜粋終了
「収入減を考えると禁煙にできない。お客さんの健康が第一とはいえ、経営が成り立たないと困る」というのは、まさに経営者側の本音だろう。
お客さんの健康が第一という建前よりも自分の生き残りと言う本音で語ってくれるのが分かり易い。
けど、こういう事こそ政府が率先してシステムを導入しなければいけないものだ。禁煙に参加したお店が不利になるようなルールに誰が従うものか。
税金と同じで真面目に払った人がバカをみるようでは公平の観点からみても間違いであるのは明確だ。
日頃政府は自分勝手なことを国民に強制するくせに、こういうことだけは「いや、個人の自由が〜」とかでのらりくらり逃げている。
要するに禁煙を一気に導入しても手間はかかるし国民に文句を言われるし自分の利益にならないし、そんな「猫の首に鈴をつけるようなまね」はやりたくないってのが本音だろう。
ただこれは、どこのお店も長引く不況で大変な中、放置しておいてどうにかなる問題ではない。
タバコは間違いなく肺がんの原因であり体に良くないのは医学的にも証明されており、米国では医学的に肺がんになるという事実を知りながら販売していたタバコ会社が集団訴訟を起こされて天文学的な賠償金を取られている。
ならば日本では、例えば2010年7月20日(夏休み前、子供の健康を守る為)をもって政府の法令によって全面禁煙を導入、もし店の中でお客にタバコを吸わせたら、経営者を自殺幇助罪で逮捕するなんてのはどうだろう。
こういう罰則を付けてすべての公共の建物及びレストランを禁煙にしてしまえば、真面目な日本人のことですからあっと言う間に禁煙が普及されるだろう。
日頃は国に期待なんかしたくないし邪魔するなってのが僕の基本的発想だが、国民全体で不便を引き受けるのだから、これこそ国の積極的関与を期待したいところだ。
ただ言えることは、全面禁煙を導入したことでお店が潰れた例は少なくともニュージーランドや香港では存在しないし、日本でも全面禁煙で店がつぶれる事はあり得ない。
むしろこれを機会に綺麗な空気もメニューです、くらいのことをウリにするレストランが出てくるべきだと思う。ピンチはチャンス、使い方によってビジネスのスパイスにする、経営者にそれくらいの知恵がないと、禁煙以前の問題で店はぽしゃりますぜ。
写真はバルカンレーン、夏です。100年前にイギリスからやってきた移民が長い船旅の後にオークランドの土を踏んでこのあたりのホテルに泊まってたんですね。
2010年03月08日
Blood Test
血液検査の結果良好。点数で言えば75点くらいか。さすがに100点満点を目指しているわけではないのでこれで充分って感じ。
しかしまあ、健康オタクからすれば頭に来るかもしれない。「検査が間違ってます!」と言いたくなるかもしれない。
なにせオタクは朝から晩まであーでもないこーでもないと思いながら今日食べる料理の栄養バランスを考えて今晩の運動で何するか考えて夜は早く寝るようにして朝食はきちんと摂って、などなどとにかく朝から晩まで健康に気を使っているのだ。
そんな彼らからすれば、まるで自分たちの努力がアフォに思えてしまうようなぼくの検査結果である。
おいおいあいつはまともに飯も食わないし、食ってもインスタントラーメンとか卵うどんとかだし、酒は飲むし一年中飛行機に揺られてるし、夜中まで本読んだりしてて、あんな不健康な奴がまともな健康体ってどういう事よ??!!!となるだろう。
しかし僕は自殺志願者ではないし普通に自分の体を気にしている。毎日ストレッチングをしているしお腹が空けばご飯も食べる。ごく普通にやっている。
ただオタク連中と違うのは、他人に言われた事を真に受けない信じないって点だろうと思う。
自分の体が求めるものをその都度体と相談しながらやってるだけで、金儲けの為に書かれた本やマスコミ受けしたいが為に歩き回る連中の話をあまり相手にしないってくらいだろう。
赤ワインが体に良いからと言ってワインをがぶ飲みすれば良くないのは当然だし、体全体や人生全体のバランスっちゅうもんがあるでしょ。
だから普通に考えて一つ一つの、例えばワインが良いと言われても赤ワインばかりでは人生に楽しみがないわけだし、健康が大事と言いながらも酒のない人生も楽しくないわけだし、だからと言ってアル中になっちゃあ人生がぼろぼろだし、酒もタバコもやりません、貯金だけが趣味ですってやっても女にもてなきゃ人生楽しくないっしょ。
要するにバランスである。自分の体が元々真ん中にある人は本に書いてあることをすれば良いのかもしれないが、僕みたいに生まれた時から思いっきりバランスが偏っている人間からすれば、まともに人のいう事を聞いてやってるとかえって体を壊すのだ。
だいたいにおいて学者とか医者とか健康なんちゃら連中が言ってるのは毎年日替わりメニューみたいにころころ変わる。おまけに医者同士でも言ってる事が違う。
例えば筋トレでも、昔は軽いものを長時間と言ってたのだけど今では重いものを短時間でも良いなんて言ってる。ふざけんなっつうの。
お前らは自分の本を売ったり公演に呼ばれたいから毎年違う事を言ってるんだろうけど、世の中には純粋無垢で脳タリンの健康オタクがいて、彼らは君のいう事を真に受けて毎日自宅であーでもないこーでもないと、いちに、さんし、とやってるのだ。
そんな純粋オタクを騙して毎年違う事をさせてカネを儲けてる連中には何のお咎めもなしで、そいつらに洗脳されたオタク連中は僕をまるで「鳥インフルエンザ」か「エボラウイルス」に罹った病人みたいな顔で見つめる。
それはあまりに不公平ではないか?とは思うのだが人の思うことを止める事は出来ない。ただ出来ることは「かわいそうだな、洗脳されちゃって」と思いながら彼らと距離を置くだけだ。
ぼくもそれなりに健康管理をしているし体には気をつけている。ただその方法が世間一般と違うだけである。
僕の場合、まずは自分の胸に手を当てて体に「今何したい?」と聴いて、体の欲しがるものを常に食材として食べて、体が「今さ、ちょいとここ、弱ってるぜ」と言われた部分をストレッチングで筋肉動かして、その結果として25年前のスーツを今でも着られる体型を維持している。あなたは25年前の服を今でも着られますか?
健康管理ってそんな難しいことではない。例えばお昼の12時になったからご飯を食べるのではなくお腹が空いたからご飯を食べると言う当然のことをしているだけなのだ。
が、世間のオタクは医者の言う「毎日三食を規則正しく食べて」と言う言葉を金科玉条のように守って、お腹が空いてもいないのに無理やり12時にご飯を食べてその結果としてデブになって、今度はメタボがどうのこうのと薬を飲んだりしている。
要するに自分の頭で考えずに自分の体の免疫作用を信じずに自分自身を信じずに、紙に書いてることやエライさんの言ったことがすべてと思い込んでる。
こりゃまさに医者やその手の連中の奴隷ではないか。完全に洗脳されている。だいいち医者がいう事が時代によってどれだけ変わってきたか、普通にちょっと歴史を勉強してみれば分かる事である。包帯に関する湿潤治療なんて良い例だ。
ましてや食事の回数や内容なんて国によって時代によって随分違う。例えば一日二食でやってた時代もあれば朝ごはんをどかっと食べて夕食はちょびっとしか食べない地域もある。
そんな中で日本人は歴史も場所も振り返らずに目の前の週刊誌に書かれたことだけをxxみたいに守ってそれで満足して、そういう事を信じない人をゴキブリを見るような目で「まあ、何て不健康!」と言う。
江戸時代の日本が一日何回食事してたか、何を食べていたか、そんな事は「過去の間違い」みたいに否定して自分の目の前にある週刊誌やテレビで繰り返し騒がれる戯言(たわごと)を自分の言葉のように思い込んで自分からマインドコントロールされて喜んでいる。
ちょっと待ってくれ、あなた達が毎週変わるダイエットの内容を信じて毎週違う事をして高い金払ってそれで自己満足して、太ったからと言って脂肪吸引が良いだとか言うのは構わない。
自分の体が一番免疫作用を理解しているし、脂肪吸引の前に普通に運動すれば脂肪はそんなに付かないはずだし、血液さらさらって言う前にまずあなたはきちんとストレッチングして股を開いて頭が床に付くような運動をしてないからって、そりゃあなたの体だから文句は言わない。
ただ、ぼくに向ってまで君のルールを押し付けないでほしい、思うことはただそれだけだ。
でもってもう一つ不思議なのは、そんな健康オタクだが、彼らは何のために生きているのだろう?話を聞いてもまともな事は何一つ理解しておらず世の中のことも知らず、それでいて健康の話ばかりするが、彼らは何のために生きているのか?
体が続く限り生きますってのはぼくも同じだし自殺志願者でもない。けど体だけの為に人間が生きているのか?そりゃ目的と手段が本末転倒してませんか?
ほんらい、体ってのはこの世に生まれてきて何かを成し遂げる為の道具であり、自分が満足出来て目的を果たして、そして体の寿命が来れば(現在は100歳くらいまで体は持つはずだ)それで体は土に返して天に戻ればよいだけではないか。
今は坂本竜馬が日本で人気だけれど、まさしく彼は普通の生活をしてなかったし、彼は体はあくまでも道具と理解していたが、世間の人々は彼のそういう面は全く無視している。変な話だ。
そういう事を言うと「まあ、この人ってキチガイかどっかの宗教にはまってるのかしら??」なんて思われてしまうが、あのね、はまってるのはオタクサンあなたですよ、現代の雑誌病とかテレビ病とかで人の金儲けに貢いで騙されているのは。
まあ良い、いずれにしても自分の体はいまだもって健康だ。ただ、今が健康だから何もしなくても良いなんて意味ではなく、やっぱり年齢に応じた健康管理はやっていく。
めったに人の話を聞かないぼくだけど「お前だけの体ではないのだ」と教えてくれた人生の先輩に対しても感謝せねば。相手にしてくれるだけ有難い話である。
今回の75点は、約1ヶ月の一人暮らしとその後の3週間の出張でかなりぼろぼろになった体で受けた結果であるので、あと2週間くらいしてもう一回検査してみる積り。
しかしまあ、健康オタクからすれば頭に来るかもしれない。「検査が間違ってます!」と言いたくなるかもしれない。
なにせオタクは朝から晩まであーでもないこーでもないと思いながら今日食べる料理の栄養バランスを考えて今晩の運動で何するか考えて夜は早く寝るようにして朝食はきちんと摂って、などなどとにかく朝から晩まで健康に気を使っているのだ。
そんな彼らからすれば、まるで自分たちの努力がアフォに思えてしまうようなぼくの検査結果である。
おいおいあいつはまともに飯も食わないし、食ってもインスタントラーメンとか卵うどんとかだし、酒は飲むし一年中飛行機に揺られてるし、夜中まで本読んだりしてて、あんな不健康な奴がまともな健康体ってどういう事よ??!!!となるだろう。
しかし僕は自殺志願者ではないし普通に自分の体を気にしている。毎日ストレッチングをしているしお腹が空けばご飯も食べる。ごく普通にやっている。
ただオタク連中と違うのは、他人に言われた事を真に受けない信じないって点だろうと思う。
自分の体が求めるものをその都度体と相談しながらやってるだけで、金儲けの為に書かれた本やマスコミ受けしたいが為に歩き回る連中の話をあまり相手にしないってくらいだろう。
赤ワインが体に良いからと言ってワインをがぶ飲みすれば良くないのは当然だし、体全体や人生全体のバランスっちゅうもんがあるでしょ。
だから普通に考えて一つ一つの、例えばワインが良いと言われても赤ワインばかりでは人生に楽しみがないわけだし、健康が大事と言いながらも酒のない人生も楽しくないわけだし、だからと言ってアル中になっちゃあ人生がぼろぼろだし、酒もタバコもやりません、貯金だけが趣味ですってやっても女にもてなきゃ人生楽しくないっしょ。
要するにバランスである。自分の体が元々真ん中にある人は本に書いてあることをすれば良いのかもしれないが、僕みたいに生まれた時から思いっきりバランスが偏っている人間からすれば、まともに人のいう事を聞いてやってるとかえって体を壊すのだ。
だいたいにおいて学者とか医者とか健康なんちゃら連中が言ってるのは毎年日替わりメニューみたいにころころ変わる。おまけに医者同士でも言ってる事が違う。
例えば筋トレでも、昔は軽いものを長時間と言ってたのだけど今では重いものを短時間でも良いなんて言ってる。ふざけんなっつうの。
お前らは自分の本を売ったり公演に呼ばれたいから毎年違う事を言ってるんだろうけど、世の中には純粋無垢で脳タリンの健康オタクがいて、彼らは君のいう事を真に受けて毎日自宅であーでもないこーでもないと、いちに、さんし、とやってるのだ。
そんな純粋オタクを騙して毎年違う事をさせてカネを儲けてる連中には何のお咎めもなしで、そいつらに洗脳されたオタク連中は僕をまるで「鳥インフルエンザ」か「エボラウイルス」に罹った病人みたいな顔で見つめる。
それはあまりに不公平ではないか?とは思うのだが人の思うことを止める事は出来ない。ただ出来ることは「かわいそうだな、洗脳されちゃって」と思いながら彼らと距離を置くだけだ。
ぼくもそれなりに健康管理をしているし体には気をつけている。ただその方法が世間一般と違うだけである。
僕の場合、まずは自分の胸に手を当てて体に「今何したい?」と聴いて、体の欲しがるものを常に食材として食べて、体が「今さ、ちょいとここ、弱ってるぜ」と言われた部分をストレッチングで筋肉動かして、その結果として25年前のスーツを今でも着られる体型を維持している。あなたは25年前の服を今でも着られますか?
健康管理ってそんな難しいことではない。例えばお昼の12時になったからご飯を食べるのではなくお腹が空いたからご飯を食べると言う当然のことをしているだけなのだ。
が、世間のオタクは医者の言う「毎日三食を規則正しく食べて」と言う言葉を金科玉条のように守って、お腹が空いてもいないのに無理やり12時にご飯を食べてその結果としてデブになって、今度はメタボがどうのこうのと薬を飲んだりしている。
要するに自分の頭で考えずに自分の体の免疫作用を信じずに自分自身を信じずに、紙に書いてることやエライさんの言ったことがすべてと思い込んでる。
こりゃまさに医者やその手の連中の奴隷ではないか。完全に洗脳されている。だいいち医者がいう事が時代によってどれだけ変わってきたか、普通にちょっと歴史を勉強してみれば分かる事である。包帯に関する湿潤治療なんて良い例だ。
ましてや食事の回数や内容なんて国によって時代によって随分違う。例えば一日二食でやってた時代もあれば朝ごはんをどかっと食べて夕食はちょびっとしか食べない地域もある。
そんな中で日本人は歴史も場所も振り返らずに目の前の週刊誌に書かれたことだけをxxみたいに守ってそれで満足して、そういう事を信じない人をゴキブリを見るような目で「まあ、何て不健康!」と言う。
江戸時代の日本が一日何回食事してたか、何を食べていたか、そんな事は「過去の間違い」みたいに否定して自分の目の前にある週刊誌やテレビで繰り返し騒がれる戯言(たわごと)を自分の言葉のように思い込んで自分からマインドコントロールされて喜んでいる。
ちょっと待ってくれ、あなた達が毎週変わるダイエットの内容を信じて毎週違う事をして高い金払ってそれで自己満足して、太ったからと言って脂肪吸引が良いだとか言うのは構わない。
自分の体が一番免疫作用を理解しているし、脂肪吸引の前に普通に運動すれば脂肪はそんなに付かないはずだし、血液さらさらって言う前にまずあなたはきちんとストレッチングして股を開いて頭が床に付くような運動をしてないからって、そりゃあなたの体だから文句は言わない。
ただ、ぼくに向ってまで君のルールを押し付けないでほしい、思うことはただそれだけだ。
でもってもう一つ不思議なのは、そんな健康オタクだが、彼らは何のために生きているのだろう?話を聞いてもまともな事は何一つ理解しておらず世の中のことも知らず、それでいて健康の話ばかりするが、彼らは何のために生きているのか?
体が続く限り生きますってのはぼくも同じだし自殺志願者でもない。けど体だけの為に人間が生きているのか?そりゃ目的と手段が本末転倒してませんか?
ほんらい、体ってのはこの世に生まれてきて何かを成し遂げる為の道具であり、自分が満足出来て目的を果たして、そして体の寿命が来れば(現在は100歳くらいまで体は持つはずだ)それで体は土に返して天に戻ればよいだけではないか。
今は坂本竜馬が日本で人気だけれど、まさしく彼は普通の生活をしてなかったし、彼は体はあくまでも道具と理解していたが、世間の人々は彼のそういう面は全く無視している。変な話だ。
そういう事を言うと「まあ、この人ってキチガイかどっかの宗教にはまってるのかしら??」なんて思われてしまうが、あのね、はまってるのはオタクサンあなたですよ、現代の雑誌病とかテレビ病とかで人の金儲けに貢いで騙されているのは。
まあ良い、いずれにしても自分の体はいまだもって健康だ。ただ、今が健康だから何もしなくても良いなんて意味ではなく、やっぱり年齢に応じた健康管理はやっていく。
めったに人の話を聞かないぼくだけど「お前だけの体ではないのだ」と教えてくれた人生の先輩に対しても感謝せねば。相手にしてくれるだけ有難い話である。
今回の75点は、約1ヶ月の一人暮らしとその後の3週間の出張でかなりぼろぼろになった体で受けた結果であるので、あと2週間くらいしてもう一回検査してみる積り。
2010年03月07日
Full Flat Seat
いかにもニュージーランドらしい、正しい発想だ。
ニュージーランド航空日本支社長のクリスマイヤー氏のインタビュー記事。
「運賃の水準は昨年と同程度だとは思うが、まずはニュージーランドが「量より質」のデスティネーションであることを伝えしたい。料金を安くして渡航者数を増やすことより、質の良さに価値を見出していただくことに重点を置いている」
こういう考えの下、ニュージーランド航空はエコノミークラスにフラットシートを導入する予定である。
「エコノミークラスの新シート「スカイカウチ」は、3つのシートからなり、前の席の背もたれ部分まで水平になるように設計。特に小さな子供連れのファミリー層やカップル、夫婦での利用を想定している。大人2名での利用の際の運賃設定は、2席分の運賃に加えて1席の約半額程度にする予定という。また、プレミアム・エコノミークラスも「ビジネスクラス並み」の質を実現。「2-2-2」の配置のうち中央2列は2名での利用に配慮したつくりとし、窓側の4列はそれぞれ1席ごとにプライバシーを確保しやすい配置とした。座席数はビジネスクラスが44席、プレミアムエコノミーが50席、エコノミーが246席で、このうちスカイカウチは22席(通常の席としては66席)だ」
http://www.travelvision.jp/modules/news1/article.php?storyid=43952
以前から何度も書いたことだが、日本から10時間もかかる南太平洋の小島であるニュージーランドと言う小国は大量に送ってどうにかなる構造になってない。
一般的に香港やシンガポールやハワイみたいに地方空港からチャーター便を飛ばして一回300人とかを送り込んでも一人当たりの利益はマイナス発進である。
マイナス発進とは例えば今の香港なら一人の旅行費用を3万円くらいにしておいて、出発時点では航空券と現地(ランド)費用を合わせて3万5千円くらいで組み立てる。
つまり出発して黙って日本に戻れば5千円x300人=150万円の赤字である。これがマイナス発進。
これを防いで黒字にする為に、現地に着いていかにおみやげ物を買わせてオプショナルツアーを販売して、夜景を見に行けば写真を売りつけて、ええい、こうなったら中国産キムチでも売りつけてしまえ、みたいな勢いでお客の気持ちを無視して強制販売を行うのだ。
1980年代からそんなことばかりやったから日本では青田刈りで誰も彼もツアーで海外旅行に行くようになり、お客が現地の知識を学んでしまいインターネットが発達すると旅行業離れが始まった。
そして押し売り産業となった旅行業の社会的地位はいつまで経っても向上せずに旅行の基本であるコンサルティング技術も成長しないままに現在の旅行業構造不況に陥ってしまった。
悪いのは自分なんだから自己反省すればよいものを、そんな連中に限って今でも座席をたくさん売れば優秀だと思い込んでる。
今回のニュージーランド航空の方向性は、最近よく使われている「持続する成長」の具体的戦略である。
どんなサービスにも原価がある。その基本は人件費であり、人件費の標準額は国によって違うだろうが、少なくとも夫婦が二人で5年働けばその街でちっちゃな家を買うだけの頭金が貯金出来る、それが目安だと思う。
そこから原価を積み重ねていき(もちろん無駄な経費は省略するのは当然)旅行の原価を組み立てて、そして会社として成長できるだけの利益を取りお客様に販売する。
そんな事やってたら売れないってんなら、旅行業やめな。それは旅行業を真剣に考えていないか、脳みそが足りないか、間違いなくどちらかだ。
マイナス発進とかたくさん売ればエライとか、そういう幻想は捨てて現実的にどうやったら商品を売れるか、来年どうやったら利益を出せるか、5年後にどうやったら現状かそれ以上を目指せるか。
そを考えていけば、必然的に「持続する成長戦略」を作る必要があり、ニュージーランドのようなニッチ市場においてはそれは必然的に適正価格で無理をせずに少人数だけどニュージーdaisukiな人々にきちんと丁寧に売っていく事になる。
ニュージーランドのようなちっちゃな市場が押し売りをせずに健全に市場を成長させていくには、まさに「量より質」なのである。
そうなればエコノミーだけどゆっくり旅が出来ますよってのは、これは正解な売り方である。
日本では安売りと取引先叩きと目先の利益と自分だけ生き残れば良いし規模が大きいのが良い事だ神話が今でも横行しているが、一度くらい自分のやっていることに間違いはないのか考えてみればどうかと思う。
ニュージーランド航空日本支社長のクリスマイヤー氏のインタビュー記事。
「運賃の水準は昨年と同程度だとは思うが、まずはニュージーランドが「量より質」のデスティネーションであることを伝えしたい。料金を安くして渡航者数を増やすことより、質の良さに価値を見出していただくことに重点を置いている」
こういう考えの下、ニュージーランド航空はエコノミークラスにフラットシートを導入する予定である。
「エコノミークラスの新シート「スカイカウチ」は、3つのシートからなり、前の席の背もたれ部分まで水平になるように設計。特に小さな子供連れのファミリー層やカップル、夫婦での利用を想定している。大人2名での利用の際の運賃設定は、2席分の運賃に加えて1席の約半額程度にする予定という。また、プレミアム・エコノミークラスも「ビジネスクラス並み」の質を実現。「2-2-2」の配置のうち中央2列は2名での利用に配慮したつくりとし、窓側の4列はそれぞれ1席ごとにプライバシーを確保しやすい配置とした。座席数はビジネスクラスが44席、プレミアムエコノミーが50席、エコノミーが246席で、このうちスカイカウチは22席(通常の席としては66席)だ」
http://www.travelvision.jp/modules/news1/article.php?storyid=43952
以前から何度も書いたことだが、日本から10時間もかかる南太平洋の小島であるニュージーランドと言う小国は大量に送ってどうにかなる構造になってない。
一般的に香港やシンガポールやハワイみたいに地方空港からチャーター便を飛ばして一回300人とかを送り込んでも一人当たりの利益はマイナス発進である。
マイナス発進とは例えば今の香港なら一人の旅行費用を3万円くらいにしておいて、出発時点では航空券と現地(ランド)費用を合わせて3万5千円くらいで組み立てる。
つまり出発して黙って日本に戻れば5千円x300人=150万円の赤字である。これがマイナス発進。
これを防いで黒字にする為に、現地に着いていかにおみやげ物を買わせてオプショナルツアーを販売して、夜景を見に行けば写真を売りつけて、ええい、こうなったら中国産キムチでも売りつけてしまえ、みたいな勢いでお客の気持ちを無視して強制販売を行うのだ。
1980年代からそんなことばかりやったから日本では青田刈りで誰も彼もツアーで海外旅行に行くようになり、お客が現地の知識を学んでしまいインターネットが発達すると旅行業離れが始まった。
そして押し売り産業となった旅行業の社会的地位はいつまで経っても向上せずに旅行の基本であるコンサルティング技術も成長しないままに現在の旅行業構造不況に陥ってしまった。
悪いのは自分なんだから自己反省すればよいものを、そんな連中に限って今でも座席をたくさん売れば優秀だと思い込んでる。
今回のニュージーランド航空の方向性は、最近よく使われている「持続する成長」の具体的戦略である。
どんなサービスにも原価がある。その基本は人件費であり、人件費の標準額は国によって違うだろうが、少なくとも夫婦が二人で5年働けばその街でちっちゃな家を買うだけの頭金が貯金出来る、それが目安だと思う。
そこから原価を積み重ねていき(もちろん無駄な経費は省略するのは当然)旅行の原価を組み立てて、そして会社として成長できるだけの利益を取りお客様に販売する。
そんな事やってたら売れないってんなら、旅行業やめな。それは旅行業を真剣に考えていないか、脳みそが足りないか、間違いなくどちらかだ。
マイナス発進とかたくさん売ればエライとか、そういう幻想は捨てて現実的にどうやったら商品を売れるか、来年どうやったら利益を出せるか、5年後にどうやったら現状かそれ以上を目指せるか。
そを考えていけば、必然的に「持続する成長戦略」を作る必要があり、ニュージーランドのようなニッチ市場においてはそれは必然的に適正価格で無理をせずに少人数だけどニュージーdaisukiな人々にきちんと丁寧に売っていく事になる。
ニュージーランドのようなちっちゃな市場が押し売りをせずに健全に市場を成長させていくには、まさに「量より質」なのである。
そうなればエコノミーだけどゆっくり旅が出来ますよってのは、これは正解な売り方である。
日本では安売りと取引先叩きと目先の利益と自分だけ生き残れば良いし規模が大きいのが良い事だ神話が今でも横行しているが、一度くらい自分のやっていることに間違いはないのか考えてみればどうかと思う。
2010年03月06日
アマルフィ
新保作品は大好きである。ストーリー展開から話の流れまでいつも満足している。勿論内容が荒唐無稽であるのは承知の上。それでも充分に「話」として楽しめる。
けどさけどさ、この作品の主人公が外交官で、外交官が上司の指令を無視して民間人を助けるなんて筋書き、そりゃあんた、西から太陽が昇る時代になれば考えてもよいけれど、東から太陽が登り続ける限りあり得ない。
政府の役目は、例えば警察の仕事は治安維持でありその意味で反体制を取り締まるのが仕事だから一般市民よりも体制を大事にする。
外務省も同じであり、仲間内の官僚やお客である政治家を守るのが仕事、国民などは政治家の客なんだからオレには関係ない。
問題は僕の給料を直接僕の口座に入れてくれて、その金額の多寡を決めるのは顔の見えない国民ではなく目の前にいる上司だってこと。
1990年代の香港で領事館に仕事で打ち合わせに行った時に偶然その領事の部屋に緊急通報が入った。
「すみません、ついさきほど日本人駐在員のアパートで本人が突然死しておりまして、おそらく病気とは思われますが」
「そんな事は民間に任せておきなさい。何?その会社は運送会社?だったらますます良い、自分たちで死体を運べと言っておきなさい」
2001年にニューヨークでテロが起こった時もニューヨーク総領事館は日本人に対してドアを閉めたのは有名な話だ。
どこかの国で革命が起こって日本人が取り残されると肝心の日本外務省は何もせずに、結局トルコが日本人を助けて避難させたなんて話もある。
そんな中でアマルフィ。
これはないでしょ。いくらテレビ向きに作ったとしても、あり得ん。どうせ荒唐無稽にするなら特命係長の方が余程ましですぜ。
話自体はもちろん面白い。けど最初に「外交官が民間人を守る」と言う設定にがくっと来た僕は話の進行についてきながらも、まるで魚の小骨が喉に刺さったまま美味しい白身のサシミを食ってる感じで、どうにも納得が出来なかった。
民主党が政権を取っても当分この流れは変わらないだろう。
だって民間を無視して外務省のムリ無駄につきあった方が自分個人の利益になると外交官が理解している限り、東大を出た優秀な人間は計算が速いのだから当然誰もが「あんた、誰?民間人?ここは領事館ですよ、本国から来た政治家と官僚を接待する場所ですよ、あなた、旅行会社に行きなさい」と言う話になるのは自明の理。
まあ僕らも守ってもくれない人々を信じて真面目に付き合うことはやめて自分の道は自分で切り開いていくことだが一番である。
けどさけどさ、この作品の主人公が外交官で、外交官が上司の指令を無視して民間人を助けるなんて筋書き、そりゃあんた、西から太陽が昇る時代になれば考えてもよいけれど、東から太陽が登り続ける限りあり得ない。
政府の役目は、例えば警察の仕事は治安維持でありその意味で反体制を取り締まるのが仕事だから一般市民よりも体制を大事にする。
外務省も同じであり、仲間内の官僚やお客である政治家を守るのが仕事、国民などは政治家の客なんだからオレには関係ない。
問題は僕の給料を直接僕の口座に入れてくれて、その金額の多寡を決めるのは顔の見えない国民ではなく目の前にいる上司だってこと。
1990年代の香港で領事館に仕事で打ち合わせに行った時に偶然その領事の部屋に緊急通報が入った。
「すみません、ついさきほど日本人駐在員のアパートで本人が突然死しておりまして、おそらく病気とは思われますが」
「そんな事は民間に任せておきなさい。何?その会社は運送会社?だったらますます良い、自分たちで死体を運べと言っておきなさい」
2001年にニューヨークでテロが起こった時もニューヨーク総領事館は日本人に対してドアを閉めたのは有名な話だ。
どこかの国で革命が起こって日本人が取り残されると肝心の日本外務省は何もせずに、結局トルコが日本人を助けて避難させたなんて話もある。
そんな中でアマルフィ。
これはないでしょ。いくらテレビ向きに作ったとしても、あり得ん。どうせ荒唐無稽にするなら特命係長の方が余程ましですぜ。
話自体はもちろん面白い。けど最初に「外交官が民間人を守る」と言う設定にがくっと来た僕は話の進行についてきながらも、まるで魚の小骨が喉に刺さったまま美味しい白身のサシミを食ってる感じで、どうにも納得が出来なかった。
民主党が政権を取っても当分この流れは変わらないだろう。
だって民間を無視して外務省のムリ無駄につきあった方が自分個人の利益になると外交官が理解している限り、東大を出た優秀な人間は計算が速いのだから当然誰もが「あんた、誰?民間人?ここは領事館ですよ、本国から来た政治家と官僚を接待する場所ですよ、あなた、旅行会社に行きなさい」と言う話になるのは自明の理。
まあ僕らも守ってもくれない人々を信じて真面目に付き合うことはやめて自分の道は自分で切り開いていくことだが一番である。
2010年03月05日
死んだ猫は飛び上がらない
なんとも嫌らしい表現ではあるが、英語のビジネスの世界では「死んだ奴は復活しない」とか「一度地面に叩きつけられた奴が突然飛び上がることはない」と言う意味で使っているようだ。
オークランドに戻った翌日から社内と社外でいろんな会議を繰り返している。
今朝は9時から!(当社の営業時間は9時30分です)香港上海銀行で会議。銀行でも営業部門は2008年から厳しい冬の時代に入ってやっと薄暗がりの先に灯りが見えてきてる状態だが、クレジットコントロール部門は今が最も苦しい時代かもしれない。
ニュージーランドには不況の大波が直接被らなかったとはいえ、やはり住宅ローンの焦げ付きが発生しており、その取立てをやるのが彼らクレジットコントロール部門の仕事だ。
NZdaisukiによると2007年の住宅競売件数が475軒だったのに対して2008年は1303軒、2009年は3024軒だったと言うからこの増加はクレジットコントロール部門にとっては自分の実力を発揮する機会が来たというべきか、のんびりと椅子に座っているヒマがなくなったというべきか。
それが終わって予約してあった血液検査の為に当社の医療チームが常駐しているキーメド病院に行く。
こんな時自社内に医療チームがいると、ほんと助かるね、今は看護婦さんと言っちゃいけないのだろうが、やっぱり看護婦さんって言葉には救いと癒しの香りが漂うとって感じてるのは僕だけではないだろう。
けど偶然とは面白いもので、毎朝通勤途中に聴いているラジオ“BREEZ”、93.4FMでも贔屓の男性パーソナリティが半分深刻な声で「今朝はぼくが血液検査に行く瞬間を生放送します」だって!
おいおい、ニュージーランドではいつから予防の為の血液検査を受けるようになったんだ(笑)?
乳がんと前立腺ガンは治療費が予防費を超えるようになったので無料で健康診断を受けられるようになったと聴いたのは去年だが、血液検査もOKになったのか?
深刻そうなパーソナリティの声を聴きながら、こりゃ神様のいたずらか?などと本気で思ってしまう。
「はい、私は看護婦、右手を出して。あなたは非居住者よね、血液検査は有料よ」と真っ先に宣言されたが、すかさず看護婦のK子さんが可愛らしい声で「あ、この人、居住者です(可愛い声はそれだけで有利だ、多分100メートル競争で50メートル先から走り出すくらい有利だ、人生は生まれた時から不公平だ)」、カルテを再度見た彼女は「あ、そう、あれ、オタクのボス?」みたいなことを二人でカルテを衝立にしてしゃべっている。
そっか〜、まあ確かに医療英語は分からんし女性同士の会話に踏み入って痛い思いをするくらいなら注射針の方がましだと思い、あふぉの面のまま針を刺されるのを待つ。
年季の入った看護婦さん、にこっと笑って「ほ〜ら、痛くないよ、男でしょ!」みたいに言われて「そりゃあなた、お互いに抵抗出来る状態での殴り合いなら痛くもないけど、無抵抗で刺されるのはどうもね」と言おうと思ったが、平和の国ニュージーランドで「殴る」なんて言ってしまうとそのまま警察に通報されて予防措置として虎箱に入れられてしまいそうなので言葉少なく「痛いっす、やっぱり」としか言えない。
男って実に不便な生き物だ、思ったことを口に出すだけで「弱虫!」から始まって「暴力的!」、「鈍感!」あげくの果てに役立たずと何度言われたことか・・・。
まあいいや、その代わり外に出た時に周囲にいる男に向かってきちんと発散しているからね。
悪いね、君らに罪はない、ただ、悪いときに悪い場所に悪い相手といただけなのだよ、恨むなら女性を恨めよね(笑)てな感じである。
まあそれで注射打たれて、そのまま真夏のシティをスーツで10分くらいでオフィスに戻ると、久しぶりに「あれ?今日、外、雨でしたっけ?」状態になる。
今日の昼間は26度くらいだし湿度もないのだが、実はぼくは香港時代も「雨降りtom」と言われるくらい、スーツ姿のときによく汗をかく。
それほど汗臭くはないほうなので乾けばOKなのだが、久しぶりに汗をかくと懐かしいやら腹が立つやら。
いや別に汗をかくのはOKなのだ。その時、TPOに合った服装であれば。例えばTシャツに短パンで歩いてて汗をかけばこれはすがすがしい。
けどネクタイにスーツで長袖シャツのボタンをしっかり留めて、腰はベルトでぎゅっと締めてて足元は締まった革靴ですぜ、おまけに手には資料の入ったカバン。
おまけに頭は直射日光をさえぎってくれる木陰もない(つまり毛がない)ので、もろに太陽光線を吸収して脳髄に響く。
ううう、おれって働き者かも・・・日本人が勘違いする自己陶酔的一瞬(笑)?けれど禿山に鉄砲水が起こるように僕の頭からは止めるべき頭髪もなく物凄い勢いで汗が濁流となる。
そんなこんなで4週間ぶりに山水に顔を出して、血液検査の為に合計で20時間近く飯を食ってなかったので、ほんと何年ぶりかで「ざる蕎麦と散らし寿司」を注文する。
お店の人のびっくりする顔を横目にばくばくとサシミ、蕎麦、酢飯を食らう。う〜む、毎日これだけ食ってたらデブるだろうな、けど今日はほんとにお腹が空っぽなので、今入った酢飯の位置が分かるくらいに気持ちよい。
2月に入って客足が戻った山水で少しのんびりとしてから次のアポの準備の為にオフィスに戻ると、丁度名古屋でお会いしたお客様も偶然オフィスにお見えになっていた。今回のNZ滞在は2週間程度との事。実務的なお話よりも日本の政治や経済の話に傾く。
実際この日本のガラパゴス化をどうすれば良いのだろう?道は分かっているのだが、その為には経済、政治、文化、すべてが同時に動かねばならない。
そしてそんな大きな変革の力を単体で発揮出来るのはやっぱり外圧しかないのか?小沢でも駄目か?やっぱり「みんなの党」か?
それにしても日本で唯一救いなのは、誰がリーダーになっても日本を本当の意味でガイコクに売り飛ばす奴は、良くも悪くも出てこないだろうという事。それが、よくも悪くも日本人の良い点。
だったらどんなにワルでも統率力のある人間が仕切った方が良いと思うのだが。まあ昼間のオフィスで偶然会ったくらいで話し込むねたでもないので迷惑にならないように適当に切り上げる。
でもって今日のファイナルアポは弁護士事務所である。なんか最近、行く先がいつも同じだな。
今回のテーマはニュージーランドにおける金融ライセンスの助言である。
どこの国でも法律があり、すでに前回の時点では確認を取っていてお墨付きはもらっていたが、去年末に業法が少し変わったとの事もあるので、再度確認。
話をする中でそのうち弁護士事務所の所長まで入り込んできて、「おい、あんな事知ってるか?こんな事知ってるか?」と、まるで子供の自慢話みたいに50手前の腹の出た親父が昼の日なかからTシャツにビーサン、右手にIphone持ってしゃべりだす。
このおっさん、悪い奴ではないのだが実に話が飛び散りやすい。だから固めて話そうって時には実に不便。
昼飯でだべる分には良いのだが、こっちはノースショア行きの高速道路が込み合って、普通なら15分で移動出来るところを60分かけたくないために早く帰ろうとしているのだが、べちゃべちゃとしゃべりまくる。
けど話の内容は多彩であり、とくにローカルねたに強い(当然ではあるが)。なので彼から聞いてると、1時間に一つくらいは役立つねたが手に入る。
こっちはその代わりに先週訪問したロンドンの話や東京の話をする。
そんな時に出てきたのが経済の二番底。
くるのか来ないのか?
「日本では来るって意見が大勢だよね、けどNZとAUSではもう終わったって感じだ。英国もどうやら不況は脱出したって見方だよね」とねたを振ると、それが冒頭の話に繋がる。
「死んだ猫は飛ばないよ」つまり、二番底はもうない、少なくともコモンウェールスではこれから成長が開始されるよって感じの発言。
けどこの意味は、だからと言って日本の二番底がないって意味ではない。日本は単体として二番底に来る可能性が高いのだ。
それも最近の流れを見ると単なる金融不況ではなく、今までのビジネスモデルが製造業でも通用しなくなり、かと言ってそれ以外のビジネスでは日本に基幹産業はなく、その為にすべての業種において他国に負けてしまい、日本に残るのは公共福祉ビジネスのみとなるというモデルだ。
一番怖いのはこれかな。だって福祉ビジネスが伸びるってその財源は税金でしょ。タコが自分の手足を食って生き延びているようなものだ。つまり若者が自分で税金を払って、その税金が政府の人件費や派遣会社の利益を取られた後に給料と言う形で自分に戻ってくるようなものだ。
もちろん順番から言えばまず労働があってそこから納税があって、この税金が福祉目的に使われるが、そのお金の一部がケアヘルパーの人件費となる。その人件費=給料から納税して、そのお金がまた福祉に使われる。
てか団塊世代を支える為に現役世代が払う負担はますます増えていく。団塊世代があの世に行ってしまったその時点で国家財政が使い果たされてたら、日本にいる労働者の福利厚生はどうするのかな?
自分のやっている仕事が「付加価値を売ること」だから、どうもこういう蛸足的なビジネスはあまり積極的な気持ちが湧かない。誰か経済学者さん、一度計算してくれませんかね、福祉ビジネスって国家として経済成長しているって言えるのか?
将来世代が支えるにしても人口は圧倒的に少ない。かと言って移民を受け入れると言う話にもならない。まったくもって、現実から目をそらしたまま新たな「失われた次代」が20年続くのかもしれない。
二番底、日本は死んだ猫?日本だけ沈む?うむむむ、込み始めた高速道路をのろのろと走りながら、結構これってマジかもと思い始めた。
オークランドに戻った翌日から社内と社外でいろんな会議を繰り返している。
今朝は9時から!(当社の営業時間は9時30分です)香港上海銀行で会議。銀行でも営業部門は2008年から厳しい冬の時代に入ってやっと薄暗がりの先に灯りが見えてきてる状態だが、クレジットコントロール部門は今が最も苦しい時代かもしれない。
ニュージーランドには不況の大波が直接被らなかったとはいえ、やはり住宅ローンの焦げ付きが発生しており、その取立てをやるのが彼らクレジットコントロール部門の仕事だ。
NZdaisukiによると2007年の住宅競売件数が475軒だったのに対して2008年は1303軒、2009年は3024軒だったと言うからこの増加はクレジットコントロール部門にとっては自分の実力を発揮する機会が来たというべきか、のんびりと椅子に座っているヒマがなくなったというべきか。
それが終わって予約してあった血液検査の為に当社の医療チームが常駐しているキーメド病院に行く。
こんな時自社内に医療チームがいると、ほんと助かるね、今は看護婦さんと言っちゃいけないのだろうが、やっぱり看護婦さんって言葉には救いと癒しの香りが漂うとって感じてるのは僕だけではないだろう。
けど偶然とは面白いもので、毎朝通勤途中に聴いているラジオ“BREEZ”、93.4FMでも贔屓の男性パーソナリティが半分深刻な声で「今朝はぼくが血液検査に行く瞬間を生放送します」だって!
おいおい、ニュージーランドではいつから予防の為の血液検査を受けるようになったんだ(笑)?
乳がんと前立腺ガンは治療費が予防費を超えるようになったので無料で健康診断を受けられるようになったと聴いたのは去年だが、血液検査もOKになったのか?
深刻そうなパーソナリティの声を聴きながら、こりゃ神様のいたずらか?などと本気で思ってしまう。
「はい、私は看護婦、右手を出して。あなたは非居住者よね、血液検査は有料よ」と真っ先に宣言されたが、すかさず看護婦のK子さんが可愛らしい声で「あ、この人、居住者です(可愛い声はそれだけで有利だ、多分100メートル競争で50メートル先から走り出すくらい有利だ、人生は生まれた時から不公平だ)」、カルテを再度見た彼女は「あ、そう、あれ、オタクのボス?」みたいなことを二人でカルテを衝立にしてしゃべっている。
そっか〜、まあ確かに医療英語は分からんし女性同士の会話に踏み入って痛い思いをするくらいなら注射針の方がましだと思い、あふぉの面のまま針を刺されるのを待つ。
年季の入った看護婦さん、にこっと笑って「ほ〜ら、痛くないよ、男でしょ!」みたいに言われて「そりゃあなた、お互いに抵抗出来る状態での殴り合いなら痛くもないけど、無抵抗で刺されるのはどうもね」と言おうと思ったが、平和の国ニュージーランドで「殴る」なんて言ってしまうとそのまま警察に通報されて予防措置として虎箱に入れられてしまいそうなので言葉少なく「痛いっす、やっぱり」としか言えない。
男って実に不便な生き物だ、思ったことを口に出すだけで「弱虫!」から始まって「暴力的!」、「鈍感!」あげくの果てに役立たずと何度言われたことか・・・。
まあいいや、その代わり外に出た時に周囲にいる男に向かってきちんと発散しているからね。
悪いね、君らに罪はない、ただ、悪いときに悪い場所に悪い相手といただけなのだよ、恨むなら女性を恨めよね(笑)てな感じである。
まあそれで注射打たれて、そのまま真夏のシティをスーツで10分くらいでオフィスに戻ると、久しぶりに「あれ?今日、外、雨でしたっけ?」状態になる。
今日の昼間は26度くらいだし湿度もないのだが、実はぼくは香港時代も「雨降りtom」と言われるくらい、スーツ姿のときによく汗をかく。
それほど汗臭くはないほうなので乾けばOKなのだが、久しぶりに汗をかくと懐かしいやら腹が立つやら。
いや別に汗をかくのはOKなのだ。その時、TPOに合った服装であれば。例えばTシャツに短パンで歩いてて汗をかけばこれはすがすがしい。
けどネクタイにスーツで長袖シャツのボタンをしっかり留めて、腰はベルトでぎゅっと締めてて足元は締まった革靴ですぜ、おまけに手には資料の入ったカバン。
おまけに頭は直射日光をさえぎってくれる木陰もない(つまり毛がない)ので、もろに太陽光線を吸収して脳髄に響く。
ううう、おれって働き者かも・・・日本人が勘違いする自己陶酔的一瞬(笑)?けれど禿山に鉄砲水が起こるように僕の頭からは止めるべき頭髪もなく物凄い勢いで汗が濁流となる。
そんなこんなで4週間ぶりに山水に顔を出して、血液検査の為に合計で20時間近く飯を食ってなかったので、ほんと何年ぶりかで「ざる蕎麦と散らし寿司」を注文する。
お店の人のびっくりする顔を横目にばくばくとサシミ、蕎麦、酢飯を食らう。う〜む、毎日これだけ食ってたらデブるだろうな、けど今日はほんとにお腹が空っぽなので、今入った酢飯の位置が分かるくらいに気持ちよい。
2月に入って客足が戻った山水で少しのんびりとしてから次のアポの準備の為にオフィスに戻ると、丁度名古屋でお会いしたお客様も偶然オフィスにお見えになっていた。今回のNZ滞在は2週間程度との事。実務的なお話よりも日本の政治や経済の話に傾く。
実際この日本のガラパゴス化をどうすれば良いのだろう?道は分かっているのだが、その為には経済、政治、文化、すべてが同時に動かねばならない。
そしてそんな大きな変革の力を単体で発揮出来るのはやっぱり外圧しかないのか?小沢でも駄目か?やっぱり「みんなの党」か?
それにしても日本で唯一救いなのは、誰がリーダーになっても日本を本当の意味でガイコクに売り飛ばす奴は、良くも悪くも出てこないだろうという事。それが、よくも悪くも日本人の良い点。
だったらどんなにワルでも統率力のある人間が仕切った方が良いと思うのだが。まあ昼間のオフィスで偶然会ったくらいで話し込むねたでもないので迷惑にならないように適当に切り上げる。
でもって今日のファイナルアポは弁護士事務所である。なんか最近、行く先がいつも同じだな。
今回のテーマはニュージーランドにおける金融ライセンスの助言である。
どこの国でも法律があり、すでに前回の時点では確認を取っていてお墨付きはもらっていたが、去年末に業法が少し変わったとの事もあるので、再度確認。
話をする中でそのうち弁護士事務所の所長まで入り込んできて、「おい、あんな事知ってるか?こんな事知ってるか?」と、まるで子供の自慢話みたいに50手前の腹の出た親父が昼の日なかからTシャツにビーサン、右手にIphone持ってしゃべりだす。
このおっさん、悪い奴ではないのだが実に話が飛び散りやすい。だから固めて話そうって時には実に不便。
昼飯でだべる分には良いのだが、こっちはノースショア行きの高速道路が込み合って、普通なら15分で移動出来るところを60分かけたくないために早く帰ろうとしているのだが、べちゃべちゃとしゃべりまくる。
けど話の内容は多彩であり、とくにローカルねたに強い(当然ではあるが)。なので彼から聞いてると、1時間に一つくらいは役立つねたが手に入る。
こっちはその代わりに先週訪問したロンドンの話や東京の話をする。
そんな時に出てきたのが経済の二番底。
くるのか来ないのか?
「日本では来るって意見が大勢だよね、けどNZとAUSではもう終わったって感じだ。英国もどうやら不況は脱出したって見方だよね」とねたを振ると、それが冒頭の話に繋がる。
「死んだ猫は飛ばないよ」つまり、二番底はもうない、少なくともコモンウェールスではこれから成長が開始されるよって感じの発言。
けどこの意味は、だからと言って日本の二番底がないって意味ではない。日本は単体として二番底に来る可能性が高いのだ。
それも最近の流れを見ると単なる金融不況ではなく、今までのビジネスモデルが製造業でも通用しなくなり、かと言ってそれ以外のビジネスでは日本に基幹産業はなく、その為にすべての業種において他国に負けてしまい、日本に残るのは公共福祉ビジネスのみとなるというモデルだ。
一番怖いのはこれかな。だって福祉ビジネスが伸びるってその財源は税金でしょ。タコが自分の手足を食って生き延びているようなものだ。つまり若者が自分で税金を払って、その税金が政府の人件費や派遣会社の利益を取られた後に給料と言う形で自分に戻ってくるようなものだ。
もちろん順番から言えばまず労働があってそこから納税があって、この税金が福祉目的に使われるが、そのお金の一部がケアヘルパーの人件費となる。その人件費=給料から納税して、そのお金がまた福祉に使われる。
てか団塊世代を支える為に現役世代が払う負担はますます増えていく。団塊世代があの世に行ってしまったその時点で国家財政が使い果たされてたら、日本にいる労働者の福利厚生はどうするのかな?
自分のやっている仕事が「付加価値を売ること」だから、どうもこういう蛸足的なビジネスはあまり積極的な気持ちが湧かない。誰か経済学者さん、一度計算してくれませんかね、福祉ビジネスって国家として経済成長しているって言えるのか?
将来世代が支えるにしても人口は圧倒的に少ない。かと言って移民を受け入れると言う話にもならない。まったくもって、現実から目をそらしたまま新たな「失われた次代」が20年続くのかもしれない。
二番底、日本は死んだ猫?日本だけ沈む?うむむむ、込み始めた高速道路をのろのろと走りながら、結構これってマジかもと思い始めた。
2010年03月04日
PAIN PROGRESS
話は行ったり来たりするけど、ロンドンから東京に帰る飛行機の中での話。
“PAIN PROGRESS” うん?なんじゃこの表示?
日本航空402便のエコノミー席には小型のテレビが付いてて、そこに出てきた表示。
痛みの進行?誰か怪我でもしたのか?そ、それとも、もしかしたら彼ら乗務員は残念な話をしようとしているのか?
確かに一回目は残念な通知。
出発時刻を10分ほど遅れて乗り込んできた日本人乗客二人の為にヒースロー空港を飛び立つタイミングを失って、駐機場で更に30分待たされることになったのだ。
こりゃ確かに「痛い」わな。
けど、そんなことで“お洒落な英語アナウンス”を流すってのも日本航空、やらんでしょ。
そこで次にサインが出た時によ〜く見てみると、何とそれは
PA IN PROGRESS なのである。
Public Announcement in Progress なのです。
ところがどのような文字を使っているのか分からないけど、英語モードで入力されているようなのに何故か日本語入力の際によく見受けられる「スカスカ」があるのだ。
damonde, damonde、 どうも見づらい。
このサインもよくよく見ると「言いたい事は分かるよ」なのだけど、ぱっと見にはどうしても痛みの進行にしか見えない。作りこむときにエネルギー注いでしまって、後になって「まあいいや、間違ってないもんね」ってなったんでしょうね。
こういうちょっとしたところでも手直しすれば、見るほうも違和感ないのですがね。
ちょっとした小話ですが、皆さんも日本語パソコンで英語文字入力をする際は、ほんっと、間合いにご注意下さい。
出来れば英語単語を入力する際はフォントをBook Antiqua とかに変換するくらいにしてくれると良いです。そうすれば不要な誤解もないし、です。
“PAIN PROGRESS” うん?なんじゃこの表示?
日本航空402便のエコノミー席には小型のテレビが付いてて、そこに出てきた表示。
痛みの進行?誰か怪我でもしたのか?そ、それとも、もしかしたら彼ら乗務員は残念な話をしようとしているのか?
確かに一回目は残念な通知。
出発時刻を10分ほど遅れて乗り込んできた日本人乗客二人の為にヒースロー空港を飛び立つタイミングを失って、駐機場で更に30分待たされることになったのだ。
こりゃ確かに「痛い」わな。
けど、そんなことで“お洒落な英語アナウンス”を流すってのも日本航空、やらんでしょ。
そこで次にサインが出た時によ〜く見てみると、何とそれは
PA IN PROGRESS なのである。
Public Announcement in Progress なのです。
ところがどのような文字を使っているのか分からないけど、英語モードで入力されているようなのに何故か日本語入力の際によく見受けられる「スカスカ」があるのだ。
damonde, damonde、 どうも見づらい。
このサインもよくよく見ると「言いたい事は分かるよ」なのだけど、ぱっと見にはどうしても痛みの進行にしか見えない。作りこむときにエネルギー注いでしまって、後になって「まあいいや、間違ってないもんね」ってなったんでしょうね。
こういうちょっとしたところでも手直しすれば、見るほうも違和感ないのですがね。
ちょっとした小話ですが、皆さんも日本語パソコンで英語文字入力をする際は、ほんっと、間合いにご注意下さい。
出来れば英語単語を入力する際はフォントをBook Antiqua とかに変換するくらいにしてくれると良いです。そうすれば不要な誤解もないし、です。
2010年03月03日
ウエディングベル
ちょっと戻るけど東京での出来事。
最近は低所得化が進み、30代男性の年収の中心は300万円と言う話もある。
そんな中で年収500万円貰っていたら結構良いほうとなるのだろう、たぶん銀行もすぐにクレジットカード作ってくれるんだろう。
そんな彼らは10年前は30代男性の年収500万円が中心だった事も忘れている。
さらに1980年代後半の「20代後半男性は仕事の終わった彼女を会社に迎えに行く条件としてBMW3シリーズが当然」くらいに思われてた時代も映画の中でしか知ることはない。
ひたすら安定志向になり、例え年収400万円でも他の人より少しでも高ければよく、尚且つひたすら目先の飯のために大企業と公務員を就職先として就職活動を行う。
ところが日経ビジネスに掲載される現役老人経営者はそんな若者が「覇気がなく独立心もやる気も“よっしゃやってみよう”と言う気概もない」と嘆く。
けどさ、日本って元々事前規制の厳しい国で独立起業なんてのは滅多なことじゃできない。
また一度失敗すればその後は個人借金まみれになって一生復活出来ないままに新宿中央公園で青ビニールのお世話にならなければいけない現状。
ましてや事前規制をきちんとクリアーして法律を守りながら起業して成功しても、今度は成功したこと自体に対する老人からの妬みにより法律を変えられて事後規制で逮捕されてしまう。
こんなの僕の住んでる国や西洋社会ではあり得ないし考えれない。
第一そんなの、法の不遡及と言って法律的に間違っているのは法学者なら誰でも知っていることであるのに、日本では何故かそんな議論さえされずに「あんた退場」となる。おいおい、ルール破りはお前じゃないかと本気で腹が立つが、ルールを決めるのはあっちだ、こっちゃ逆らう事も出来ん。
若者のやる気が世の中を進歩させるのはビルゲイツやYoutubeやGoogleを見るまでもなく分かりきったことで、既得権益の中で年を取った老人が冒険などするわけがない。
変化はある意味若者の特権であり、彼らを自由に遊ばせて楽しませながら社会に貢献する事業を生み出させるのが孵化機(インキュベーター)としてのオトナの役割である。
だからこの国では事業に対する事前規制を出来るだけ低くして、最終的にその起業が世の中の役に立ったか、社会に迷惑をかけてないか、きちんと公平に行われたかが確認出来れば「おめでとう!」であり、もし途中の過程で「ずる」をしていたら、「若者よ、それは駄目だ、もう一度やり直せ」となるだけだ。
事前規制は少なく、事後規制もあくまで社会的にどうかの判断であり、結果的に失敗してもいつでもまたやり直せる土壌を用意しているのがこの国だから、若者は恐れずに何度も挑戦できる。
けどそんな仕組みも作らずにとにかく若者が挑戦出来ないように事前規制を作り、失敗したら一生立ち直れないような仕組みを作り、成功しても今度は事後にルールを変えてまで逮捕する。
ホリエモンが良い例だ。あれで若者は確実に今の日本にあきらめてしまい、それ以降は奴隷でもいいからとにかく安定した生活を求めるようになった。
そりゃそうだ、若者が自分たちの住む村の生活改善の為に村興しを企てたらその代表が突然お代官に呼び出されてその首が理不尽にも何の調べもないままにたたっ切られた。
そして悪代官と組んだ悪徳老人商人が二人してけたけた笑いながら「ほらがき、だから無理するなって言ったろ、おまえらはおれたちの言うことだけを聞いてればいいのさ」とほざかれた。
そんな圧倒的な強さを持つ老人世代に対して若者は罪を犯して村を捨ててまで自由を求める気概も湧かず、村に帰って妻と乳飲み子を抱えてわらぶき小屋の中で自分の心を殺しながら毎日、「明日履くためだけの草履♪」を作るのだ。
そんな中で若者はたった一つ許された最後の夢に走る。
ぼくが泊まっているホテルは結婚式が集中する週末は朝食レストランも結婚式の参加者で混雑する。普段なら朝6時30分から10時30分のどの時間でもお一人様だから常に座れるのだが、週末だけはそうはいかない。
永遠の愛を誓った二人とそれを祝福する周囲。日本人の面白い点は、結婚式の瞬間だけは実は理性的に考えれば実に馬鹿げてる感情でも「永遠に愛する」って夢を純粋に信じ込める点だろうか。それとも現実から目を背けているだけだろうか。
結婚は一種の社会契約であり法律的に相手の権利や義務を定義付けるのが目的だ。結婚に愛は“それほど”必要ない。だからこそ「お見合い」と言う実に素晴らしい先人の知恵があるのだ。
男は子供を残し女は子供を産むことで社会が成立する。お互いが貞操の義務を守って財産権を請求するのは、そうしないとあっちこっちで財産分与の問題が起こるからだ。
「ちょっとあんた何よ、よその女に子供を産ませといてうちの子供に財産残さない積りなの?!」とでもなった時に、女性や子供の権利を法的に守る事で女性に安心感を与えて子供を産んでもらい社会を安定させるのが結婚の意味である。
江戸時代から明治時代までは甲斐性さえあれば男が何人の女性と付き合おうと問題なかった。男の仕事は子供をたくさん作る事であり、それで「家族」が発展するならそれは「良い事」なのだから。
苗場プリンスホテルや西武デパートを作った堤さんちだって、お父さんは戦前の政治家でありながらあちこちに子供を作ってそれぞれに事業を継がせた。
戦後になって米国式の教育が日本にも導入されるようになって一夫一婦制が当然のようになったけど、そんなの日本ではまだ60年しか使用されていない社会ルールであり、それまでの数百年間は「愛しちゃったのよ結婚」よりも「愛さなくても良いから家を守り男子を産んで家を発展させる結婚」が普通であった。
「愛なのよ!」と叫びたい人に聞きたい。では堤の親父が産ませた子供たちは淫乱親父のご乱交の結果でありその子供たちはろくでなしなのか?って。
いえいえ、生まれた子供に罪はないわって言うなら、産ませた堤の親父は罪人なのか?じゃあその罪人の作った電車に乗ってる人は罪びとの親玉か?
それともまさか、ほ、ほんとうに米国人の言う事を真に受けて信じて「愛〜」なんて言ってるんじゃないでしょうね。
そんな事言ったら許されない恋愛の代表格である昼メロなんて存在できないわけだし、みんなdaisukiな不倫も浮気もあり得ないし、ましてや20代の男性客で賑わう「訳あり人妻クラブ」なんて絶対に存在しちゃいけないって事になるぞ。
第一そしたら「金曜日の妻たち」なんて社会現象も起こらないし“両手で頬を押さえても”なんてカラオケで歌えなくなる。
いやさ、別に結婚している人全員が他人の畑で種まきしているかどうかは知らないけど、間違いなく言えるのは結婚と言うのは社会的儀式であり法的権利確保の方法であるってことだ。
その事実を冷厳に見据えたうえで結婚して、相手に浮気されないように「良い妻」を演じながら「あんた、浮気したらどうなるか分かってるわよね」と男を教育指導していけば良いのだ。
そんな覚悟もなしに恋に恋して結婚と結婚したくて花嫁衣裳を着て、結局相手をしっかり値踏みもせずに将来の事も考えず後になって自分の力不足を嘆いたって仕方ないでしょ。
けどこんな事、ホテルの朝食会場で着飾ったちょっとずれた赤ら顔の蝶ネクタイの親父や髪を巻き上げて和服を綺麗に着こなして「日曜午後の撃墜モード」に入ってる花嫁の女友達や黒いドレスに太った身を包んだ「逃げ切り妻」たちの前では、こんな事を語ってはいけないのだ。
「皆が幸せなんだから真実を語る必要はないでしょ」
まさにそうだ。これこそ予定調和の最たるものだろう。嘘を嘘と言わずにとにかく時間稼ぎをして問題を先送りして何もなければ「ああ、良い人生でした」で終わるわけだから、余計な事を言うんじゃないよって感じ。
どうせほんとに問題が起こったらその時になって悩み考えればいいのだから、今考えたってしかたないでしょ。
あ、たしかにそうだな。結婚した夫婦全員が浮気をするわけではない、つまり発生率の低い事故と、それを未然に防ぐ為に世間全体が真実の勉強をして嫌な思いをする事を比較すれば、社会全体が抱えるコストとして「知らないまま」の方が良いのかもしれない。
挑戦する事を忘れ、結婚の現実から目を背け、長老に祝福されて自分が奴隷から奴隷頭に少しだけ成長して若者は「あ、おれもオトナになったな」と思う。
そうさ男は人生のペテン師だから♪
「皆が幸せなんだから、真実を語るなんてバカなことは止めてくれ!おれたちゃもう、長いものに巻かれたんだ、今更古い話なんてしないでくれ!」
まあ日曜日の朝にホテルのレストランで考えるようなことじゃないのも事実。さ、黙って自分の飯でも食おうっと。
最近は低所得化が進み、30代男性の年収の中心は300万円と言う話もある。
そんな中で年収500万円貰っていたら結構良いほうとなるのだろう、たぶん銀行もすぐにクレジットカード作ってくれるんだろう。
そんな彼らは10年前は30代男性の年収500万円が中心だった事も忘れている。
さらに1980年代後半の「20代後半男性は仕事の終わった彼女を会社に迎えに行く条件としてBMW3シリーズが当然」くらいに思われてた時代も映画の中でしか知ることはない。
ひたすら安定志向になり、例え年収400万円でも他の人より少しでも高ければよく、尚且つひたすら目先の飯のために大企業と公務員を就職先として就職活動を行う。
ところが日経ビジネスに掲載される現役老人経営者はそんな若者が「覇気がなく独立心もやる気も“よっしゃやってみよう”と言う気概もない」と嘆く。
けどさ、日本って元々事前規制の厳しい国で独立起業なんてのは滅多なことじゃできない。
また一度失敗すればその後は個人借金まみれになって一生復活出来ないままに新宿中央公園で青ビニールのお世話にならなければいけない現状。
ましてや事前規制をきちんとクリアーして法律を守りながら起業して成功しても、今度は成功したこと自体に対する老人からの妬みにより法律を変えられて事後規制で逮捕されてしまう。
こんなの僕の住んでる国や西洋社会ではあり得ないし考えれない。
第一そんなの、法の不遡及と言って法律的に間違っているのは法学者なら誰でも知っていることであるのに、日本では何故かそんな議論さえされずに「あんた退場」となる。おいおい、ルール破りはお前じゃないかと本気で腹が立つが、ルールを決めるのはあっちだ、こっちゃ逆らう事も出来ん。
若者のやる気が世の中を進歩させるのはビルゲイツやYoutubeやGoogleを見るまでもなく分かりきったことで、既得権益の中で年を取った老人が冒険などするわけがない。
変化はある意味若者の特権であり、彼らを自由に遊ばせて楽しませながら社会に貢献する事業を生み出させるのが孵化機(インキュベーター)としてのオトナの役割である。
だからこの国では事業に対する事前規制を出来るだけ低くして、最終的にその起業が世の中の役に立ったか、社会に迷惑をかけてないか、きちんと公平に行われたかが確認出来れば「おめでとう!」であり、もし途中の過程で「ずる」をしていたら、「若者よ、それは駄目だ、もう一度やり直せ」となるだけだ。
事前規制は少なく、事後規制もあくまで社会的にどうかの判断であり、結果的に失敗してもいつでもまたやり直せる土壌を用意しているのがこの国だから、若者は恐れずに何度も挑戦できる。
けどそんな仕組みも作らずにとにかく若者が挑戦出来ないように事前規制を作り、失敗したら一生立ち直れないような仕組みを作り、成功しても今度は事後にルールを変えてまで逮捕する。
ホリエモンが良い例だ。あれで若者は確実に今の日本にあきらめてしまい、それ以降は奴隷でもいいからとにかく安定した生活を求めるようになった。
そりゃそうだ、若者が自分たちの住む村の生活改善の為に村興しを企てたらその代表が突然お代官に呼び出されてその首が理不尽にも何の調べもないままにたたっ切られた。
そして悪代官と組んだ悪徳老人商人が二人してけたけた笑いながら「ほらがき、だから無理するなって言ったろ、おまえらはおれたちの言うことだけを聞いてればいいのさ」とほざかれた。
そんな圧倒的な強さを持つ老人世代に対して若者は罪を犯して村を捨ててまで自由を求める気概も湧かず、村に帰って妻と乳飲み子を抱えてわらぶき小屋の中で自分の心を殺しながら毎日、「明日履くためだけの草履♪」を作るのだ。
そんな中で若者はたった一つ許された最後の夢に走る。
ぼくが泊まっているホテルは結婚式が集中する週末は朝食レストランも結婚式の参加者で混雑する。普段なら朝6時30分から10時30分のどの時間でもお一人様だから常に座れるのだが、週末だけはそうはいかない。
永遠の愛を誓った二人とそれを祝福する周囲。日本人の面白い点は、結婚式の瞬間だけは実は理性的に考えれば実に馬鹿げてる感情でも「永遠に愛する」って夢を純粋に信じ込める点だろうか。それとも現実から目を背けているだけだろうか。
結婚は一種の社会契約であり法律的に相手の権利や義務を定義付けるのが目的だ。結婚に愛は“それほど”必要ない。だからこそ「お見合い」と言う実に素晴らしい先人の知恵があるのだ。
男は子供を残し女は子供を産むことで社会が成立する。お互いが貞操の義務を守って財産権を請求するのは、そうしないとあっちこっちで財産分与の問題が起こるからだ。
「ちょっとあんた何よ、よその女に子供を産ませといてうちの子供に財産残さない積りなの?!」とでもなった時に、女性や子供の権利を法的に守る事で女性に安心感を与えて子供を産んでもらい社会を安定させるのが結婚の意味である。
江戸時代から明治時代までは甲斐性さえあれば男が何人の女性と付き合おうと問題なかった。男の仕事は子供をたくさん作る事であり、それで「家族」が発展するならそれは「良い事」なのだから。
苗場プリンスホテルや西武デパートを作った堤さんちだって、お父さんは戦前の政治家でありながらあちこちに子供を作ってそれぞれに事業を継がせた。
戦後になって米国式の教育が日本にも導入されるようになって一夫一婦制が当然のようになったけど、そんなの日本ではまだ60年しか使用されていない社会ルールであり、それまでの数百年間は「愛しちゃったのよ結婚」よりも「愛さなくても良いから家を守り男子を産んで家を発展させる結婚」が普通であった。
「愛なのよ!」と叫びたい人に聞きたい。では堤の親父が産ませた子供たちは淫乱親父のご乱交の結果でありその子供たちはろくでなしなのか?って。
いえいえ、生まれた子供に罪はないわって言うなら、産ませた堤の親父は罪人なのか?じゃあその罪人の作った電車に乗ってる人は罪びとの親玉か?
それともまさか、ほ、ほんとうに米国人の言う事を真に受けて信じて「愛〜」なんて言ってるんじゃないでしょうね。
そんな事言ったら許されない恋愛の代表格である昼メロなんて存在できないわけだし、みんなdaisukiな不倫も浮気もあり得ないし、ましてや20代の男性客で賑わう「訳あり人妻クラブ」なんて絶対に存在しちゃいけないって事になるぞ。
第一そしたら「金曜日の妻たち」なんて社会現象も起こらないし“両手で頬を押さえても”なんてカラオケで歌えなくなる。
いやさ、別に結婚している人全員が他人の畑で種まきしているかどうかは知らないけど、間違いなく言えるのは結婚と言うのは社会的儀式であり法的権利確保の方法であるってことだ。
その事実を冷厳に見据えたうえで結婚して、相手に浮気されないように「良い妻」を演じながら「あんた、浮気したらどうなるか分かってるわよね」と男を教育指導していけば良いのだ。
そんな覚悟もなしに恋に恋して結婚と結婚したくて花嫁衣裳を着て、結局相手をしっかり値踏みもせずに将来の事も考えず後になって自分の力不足を嘆いたって仕方ないでしょ。
けどこんな事、ホテルの朝食会場で着飾ったちょっとずれた赤ら顔の蝶ネクタイの親父や髪を巻き上げて和服を綺麗に着こなして「日曜午後の撃墜モード」に入ってる花嫁の女友達や黒いドレスに太った身を包んだ「逃げ切り妻」たちの前では、こんな事を語ってはいけないのだ。
「皆が幸せなんだから真実を語る必要はないでしょ」
まさにそうだ。これこそ予定調和の最たるものだろう。嘘を嘘と言わずにとにかく時間稼ぎをして問題を先送りして何もなければ「ああ、良い人生でした」で終わるわけだから、余計な事を言うんじゃないよって感じ。
どうせほんとに問題が起こったらその時になって悩み考えればいいのだから、今考えたってしかたないでしょ。
あ、たしかにそうだな。結婚した夫婦全員が浮気をするわけではない、つまり発生率の低い事故と、それを未然に防ぐ為に世間全体が真実の勉強をして嫌な思いをする事を比較すれば、社会全体が抱えるコストとして「知らないまま」の方が良いのかもしれない。
挑戦する事を忘れ、結婚の現実から目を背け、長老に祝福されて自分が奴隷から奴隷頭に少しだけ成長して若者は「あ、おれもオトナになったな」と思う。
そうさ男は人生のペテン師だから♪
「皆が幸せなんだから、真実を語るなんてバカなことは止めてくれ!おれたちゃもう、長いものに巻かれたんだ、今更古い話なんてしないでくれ!」
まあ日曜日の朝にホテルのレストランで考えるようなことじゃないのも事実。さ、黙って自分の飯でも食おうっと。
2010年03月02日
あたた、筋肉痛だ。
3週間ぶりに出社する。カバンを机に置き、封の切ってない日経ビジネス4冊が机に置かれているのを見て「毎週一回の配達で4冊だから約一ヶ月か」と旅の長さを実感する。
それにしても、あ痛たた、両肩と両肘と背中と腰と尾てい骨と両足が痛い。ほぼ体全体が、かなり痛い。痛いっつか、こりゃきしみだわ。筋肉痛。まるでスポーツをした後のような感じ。
飛行機疲れだわな、この筋肉痛は。カバンを机に放り投げて椅子に座り込む。たぶん普通の人ってこんな疲れで寝込んでしまったりするんだろうな。筋肉あってよかった。
バンクーバーでビジネスしてた時も南太平洋の小島から北上して東京経由でバンクーバーに横移動してたので、あの時以来の大長距離移動である。
地球を一周すると約4万キロだそうで、今回は3万キロくらい回ったので地球を四分の三回ったことになる。
だったらいっそ地球一周航空券を買ったほうが安いのではないか?オークランドから香港経由でニューヨーク、それからロンドンに入って、帰りに英語の通じないパリやローマに寄って東京、でもってまた香港経由でオークランドに戻ってみたらどうかな〜なんて、結構真剣に考えている。
マイレージもある程度溜まったので、次回は帰国便だけでもビジネスクラスにしてみるかなとか、きしむ体で結構マジで考える。
体がちっちゃいのでエコノミーでも普段は全然気にならずに本読んでたりするんだけど、今回の最後のフライト、東京からオークランドではさすがに仕事ネタも山積みだったせいもあるのだろう、脳みそメモリーが一時的に溢れた。
どばっと溢れる感覚ではなく、何となくバケツの端っこからちゃぶっと水が時々こぼれる感じだ。
こんな時は何せ本の文字さえが目に入らない。目に入る瞬間にシャッターが下りた感じで、「ばちっ!」と切れてしまい文字の意味が全く理解出来なくなる。
機内で本を開いても文字が目に入らず、映画を観てても全然意味が分からず、「この主人公、何やってんだろ?」状態。
たぶん酸素欠乏状態で脳みそがぼんやりするようなものなのだろう、とにかくひたすらに目を閉じて椅子に体を丸めて押し込んでじっとするのだが(酒を飲んでも何も感じない!ので飲むことさえしない)、なんか体が前後に揺れてる感じ。
でもってとにかくどんぶらこしている脳みそが余りこぼれないように、思いついたことをどんどんケータイでメモにしておく。
これをやっておかないと、何かを脳みそから失ったのに何を失ったか分からない状態になってしまい、意味不明な不安に襲われるのだ。
けど文字入力するにもキーボードがちっちゃいからしょっちゅう入力間違い。
それでも何とか文字を押し込んでおくと、「きゃきんぇのかいrふらけろじ」みたいな文字でも、「顧客データの解決しろ」だと分かるので、後で照合可能である。
自宅に帰った午後は、とにかくお風呂にお湯を張って体を伸ばして、奥さん特製の「豚肉スペアリブ入りのお粥」を食べさせてもらう。
一人暮らしだとこのまま絶対に体壊してたよな、なんて思いながら自宅の良さを味わう。風呂と柔らかい食事でとろけた脳みそも次第にもとの位置に戻って、なんとか文字が読めるようになる。
あれ?じゃ、いつブログ書いてんだ?なんて質問がきそうだけど、基本的にブログは数日分をまとめ書き。
頭がすっきり整理された時に「だだっ!」って30分ほどで脳みそからパソコンに電子データとして出力して、それを更に小分けして一日ごとに分けているのだ。
けど、たぶんこれでまた脳の許容量が増えたような気もする。いいこっちゃ。
さて会社に行くのは3週間ぶりだけど机の上はきれいに片付いている。
もちろん必要書類は机の端っこに固めて積みあがっているのだが、それも今回は手紙が3通くらいでそれ以外は日経ビジネス4冊だけ。
僕宛に届いた手紙でも大体においてスタッフが目を通してくれて、急いで処理するものはスキャンされてデータで転送、なんて便利な世の中だ。
そんな中であふぉっぽい手紙が一通。
ANZクレジットカードから「おたく、オークランドでピザハットの注文して翌日に香港でホテルの宿泊料金払ってその翌日には東京のレストランで使ってるなんておかしい。カードは“安全の為に”停止したのですぐに連絡をしてほしい」と。
お前、ばか?おれ、海外に出てるんだよ。だから香港や東京でカード使っているんだよね。オークランドにいない人間に普通郵便でそんな通知をして、それでおれに伝わると本気で思っているのか?
今までの利用履歴を見ればいつも海外で利用しているのがわかるでしょ????ANZだけはほんっと時代遅れのハクチとしか言いようがない。彼らクレジットチームの頭の中では今も人間が馬車で移動している感じなんだろうか。
何で君はぼくのメールアドレスを知っているのにそこに連絡しないのか?
この件は東京にいる僕にメールで連絡が来たのですぐ電話して処理したのだが、それから数日後もまたカード使用停止になる。今度は更に「おかっしい!あなたは東京だったでしょ、何でロンドンでカードが使われてるの?不正使用でしょ、はい一時停止」だってさ。
まさに田舎の銀行である。今回はさすがに一回の出張で2回も停止されて、かなり頭に来た。次回からの海外出張は香港で発行されたクレジットカードで旅費精算しよう、ANZはNZ国内、ピザハットと居酒屋で限定使用だと本気で考えている。
何だか考えることが一杯な一日。
きしむ骨とはしばらくお付き合い。
脳みそはこれからも鍛えてメモリー増強だ。
旅先でメールが読める優秀なIphoneはこれから長いお付き合い。
バカな田舎銀行とはそろそろ付き合い方を変えなくちゃ。
長距離路線ではビジネス使いもありかな。
それにしても、あ痛たた、両肩と両肘と背中と腰と尾てい骨と両足が痛い。ほぼ体全体が、かなり痛い。痛いっつか、こりゃきしみだわ。筋肉痛。まるでスポーツをした後のような感じ。
飛行機疲れだわな、この筋肉痛は。カバンを机に放り投げて椅子に座り込む。たぶん普通の人ってこんな疲れで寝込んでしまったりするんだろうな。筋肉あってよかった。
バンクーバーでビジネスしてた時も南太平洋の小島から北上して東京経由でバンクーバーに横移動してたので、あの時以来の大長距離移動である。
地球を一周すると約4万キロだそうで、今回は3万キロくらい回ったので地球を四分の三回ったことになる。
だったらいっそ地球一周航空券を買ったほうが安いのではないか?オークランドから香港経由でニューヨーク、それからロンドンに入って、帰りに英語の通じないパリやローマに寄って東京、でもってまた香港経由でオークランドに戻ってみたらどうかな〜なんて、結構真剣に考えている。
マイレージもある程度溜まったので、次回は帰国便だけでもビジネスクラスにしてみるかなとか、きしむ体で結構マジで考える。
体がちっちゃいのでエコノミーでも普段は全然気にならずに本読んでたりするんだけど、今回の最後のフライト、東京からオークランドではさすがに仕事ネタも山積みだったせいもあるのだろう、脳みそメモリーが一時的に溢れた。
どばっと溢れる感覚ではなく、何となくバケツの端っこからちゃぶっと水が時々こぼれる感じだ。
こんな時は何せ本の文字さえが目に入らない。目に入る瞬間にシャッターが下りた感じで、「ばちっ!」と切れてしまい文字の意味が全く理解出来なくなる。
機内で本を開いても文字が目に入らず、映画を観てても全然意味が分からず、「この主人公、何やってんだろ?」状態。
たぶん酸素欠乏状態で脳みそがぼんやりするようなものなのだろう、とにかくひたすらに目を閉じて椅子に体を丸めて押し込んでじっとするのだが(酒を飲んでも何も感じない!ので飲むことさえしない)、なんか体が前後に揺れてる感じ。
でもってとにかくどんぶらこしている脳みそが余りこぼれないように、思いついたことをどんどんケータイでメモにしておく。
これをやっておかないと、何かを脳みそから失ったのに何を失ったか分からない状態になってしまい、意味不明な不安に襲われるのだ。
けど文字入力するにもキーボードがちっちゃいからしょっちゅう入力間違い。
それでも何とか文字を押し込んでおくと、「きゃきんぇのかいrふらけろじ」みたいな文字でも、「顧客データの解決しろ」だと分かるので、後で照合可能である。
自宅に帰った午後は、とにかくお風呂にお湯を張って体を伸ばして、奥さん特製の「豚肉スペアリブ入りのお粥」を食べさせてもらう。
一人暮らしだとこのまま絶対に体壊してたよな、なんて思いながら自宅の良さを味わう。風呂と柔らかい食事でとろけた脳みそも次第にもとの位置に戻って、なんとか文字が読めるようになる。
あれ?じゃ、いつブログ書いてんだ?なんて質問がきそうだけど、基本的にブログは数日分をまとめ書き。
頭がすっきり整理された時に「だだっ!」って30分ほどで脳みそからパソコンに電子データとして出力して、それを更に小分けして一日ごとに分けているのだ。
けど、たぶんこれでまた脳の許容量が増えたような気もする。いいこっちゃ。
さて会社に行くのは3週間ぶりだけど机の上はきれいに片付いている。
もちろん必要書類は机の端っこに固めて積みあがっているのだが、それも今回は手紙が3通くらいでそれ以外は日経ビジネス4冊だけ。
僕宛に届いた手紙でも大体においてスタッフが目を通してくれて、急いで処理するものはスキャンされてデータで転送、なんて便利な世の中だ。
そんな中であふぉっぽい手紙が一通。
ANZクレジットカードから「おたく、オークランドでピザハットの注文して翌日に香港でホテルの宿泊料金払ってその翌日には東京のレストランで使ってるなんておかしい。カードは“安全の為に”停止したのですぐに連絡をしてほしい」と。
お前、ばか?おれ、海外に出てるんだよ。だから香港や東京でカード使っているんだよね。オークランドにいない人間に普通郵便でそんな通知をして、それでおれに伝わると本気で思っているのか?
今までの利用履歴を見ればいつも海外で利用しているのがわかるでしょ????ANZだけはほんっと時代遅れのハクチとしか言いようがない。彼らクレジットチームの頭の中では今も人間が馬車で移動している感じなんだろうか。
何で君はぼくのメールアドレスを知っているのにそこに連絡しないのか?
この件は東京にいる僕にメールで連絡が来たのですぐ電話して処理したのだが、それから数日後もまたカード使用停止になる。今度は更に「おかっしい!あなたは東京だったでしょ、何でロンドンでカードが使われてるの?不正使用でしょ、はい一時停止」だってさ。
まさに田舎の銀行である。今回はさすがに一回の出張で2回も停止されて、かなり頭に来た。次回からの海外出張は香港で発行されたクレジットカードで旅費精算しよう、ANZはNZ国内、ピザハットと居酒屋で限定使用だと本気で考えている。
何だか考えることが一杯な一日。
きしむ骨とはしばらくお付き合い。
脳みそはこれからも鍛えてメモリー増強だ。
旅先でメールが読める優秀なIphoneはこれから長いお付き合い。
バカな田舎銀行とはそろそろ付き合い方を変えなくちゃ。
長距離路線ではビジネス使いもありかな。
2010年03月01日
ロンドンに限らず価値観・どの国で何をしたいか
ロンドンのジャパレスで日本人が時給手取り4ポンドとして頑張って週40時間働いても、手取り160ポンドだ。
ロンドンのフラットシェアの家賃は週で120ポンドくらい。これで生活費(週100ポンド程度)を考えるとかなりきつい。てか実際には無理だ。
そうなるともっと給料の高い一般事務の仕事となるのだが、これも(業務内容、給与ともに)大したことはなく、普通の事務員であれば1時間8ポンドから10ポンドである。
年間2千時間の労働と計算して年収2万ポンド。ここから税金を納めていくと、フラットシェアの生活で年に一回日本に里帰り出来るかどうかのラインであり、貯金はかなりきついだろう。
一般的には年収4万ポンドあたりが「普通に働いているビジネスマン」の基準である。現在の円に換算すれば600万円程度である。だから日本だったらどうにか稼げそうな金額ではあるが、ロンドンではきつい。
しかし仕事をするからにはそれくらいの稼ぎが取れるようにならなければ意味はない。これがニュージーランドなら給料が安くても家族と一緒に食事出来るし週末は明るい太陽の下で友達とBBQを楽しめる。
何故に一年中どんよりとした鉛色の空の下で、家族と古くて床のきしむようなちっちゃいアパートに住み、押しつぶされそうな仕事の重圧に耐えながら世界を相手に毎日を戦って生き残ろうとするのに安い給料で満足出来る物か。
このあたりがロンドンとオークランドの一番の違い、かな。
だからこそロンドンシティで仕事をうまくいかせようとするビジネスマンは無理してでもボンド街に並ぶ一流洋服店でお洒落なスーツとネクタイを買って、Yシャツにあったカフスボタンを付けて自分の業種に見合った色でまとめて自分をその業界の人々に「ほら、ボクも君らの仲間だよ、だからそこに入れてくれよ」と信号を発信しているのだ。
ぼくが一ヶ月ほど前にHSBC(香港上海銀行)オークランド支店にミーティングに行った時、初めて会う二人組みはどちらも僕のスーツ姿を見て思わず「あ、ごめん、ネクタイ無しで。今日はカジュアルデイなんだ」とちょっと恥ずかしそうに言ってたのを思い出す。
オークランドは超地方の一支店である。
その中でやってる分には着る物よりもリラックスが優先されてるし、第一田舎で皆が顔見知りの世界では誰しもが「カジュアル」でOKなのだ。しかしロンドン本社から誰かが来る時はやっぱりきちんとネクタイを付けられるように、職場では常にYシャツを着ているしネクタイとジャケットはハンガーに架かっている。
彼らHSBCスタッフからすれば僕はオークランド在住だからラフな格好で来るんだろうなくらいに予想していたのだろう。
生活水準を取るか、年収を取るか、それはその人の価値観である。
ただ、これもまたロンドンに限らずであるが、仕事が大変な場所ってのは競争が激しい分だけ高い給料をもらえる。その分現地の物価も高くなる。そうなると仕事が大変な場所で高い給料をもらえずにいると、これは辛いことになる。
だから高い年収を狙ってるのならば自分を外見も中身も磨く事しかない。最後は自分、なのだ。または最初からニュージーランドを生活の拠点としてデッキチェアに背中を預けてのんびり出来る生活を選ぶか、である。
あ、もう一つの価値観があった。給料は安いしフラットシェアで住んでるアパートはエレベーターもない4階建てで毎日交通渋滞の中をバスで揺られながら職場に向かい夜遅くまで仕事をして、楽しみは近くのコストコでまとめ買いした安い缶ビールを夜遅くに自分の部屋で飲むこととなっても、日本にいる友人には「おれ、ロンドンで働いててさ〜、この前なんてお店にショーンコネリーが来たよ〜」とメールを送り、少しでも日本の田舎の同級生に嫉妬心を抱かせる価値観である。
僕はそのような価値観は否定しない。他人に迷惑をかけていないのだ、何が悪いかって本気で思ってる。そりゃ角度を変えて忠告して欲しいってなら言う事もあるけど、そんなもん人間が生まれた時から持ってる本能みたいなもので、人は学ばない限り他人と自分を比較するものなのだ。
ほんとにもう、ピカデリーサーカスのあたりは何処を見ても「人、人、人」である。その中で明るく大騒ぎしてるのは米国や南米からのお上り状態の観光客であり、ビジネスマンは皆よそ目もふらずに急ぎ足で石畳にカツカツとTODSの靴音を響かせながら通り過ぎていく。
ミュージカルの本場としても有名なこの街では、夜の部のショーでもやっぱりおのぼりさんたちはキャーキャーワイワイと席で騒いでる。
舞台の裏では今日の公演のメンバーに入れてもらえなかった若き踊り子たちが、明日こそはと真剣なまなざしで舞台を見つめてイメージ練習をしている。
ロンドンで仕事をしながら、そのような「価値観」をずっと見てきた。ただ一つ救いなのは、ぼくが見てきた範囲内でしか言えないが、少なくとも「こんなはずじゃなかった」と思ってるような顔は少なかったと言う点だ。
実際には皆、腹の中でいろいろと考えているのかもしれない。けど少なくともプロとして仕事をしている間はきちんと誇りと自信を持って仕事をしている感じを受けた、日本食レストランを除いてね。
仕事の話をこれだけ書かない「起業家日誌」ってのも何なのかとか思ったりもするが、今回のロンドンでの打ち合わせで思ったより仕事を拡大して展開していけそうな雰囲気になった。
ロンドン発19時の日本航空402便で東京に向かい横移動、ロシアを飛び越えて飛行時間は約11時間、時差9時間の旅である。
東京に16時に着いて(体内時間は朝8時?)定宿に移動。19時と21時に会議を行う。一つは今回のロンドンビジネスをどう展開してくのかって話だ。
それが終わって翌日の午前中には成田に戻り、15時過ぎのキャセイ航空で縦移動、飛行時間11時間、時差4時間で香港経由オークランドに戻る。ロンドンを出発してから72時間のうち飛行時間が24時間で陸上移動が8時間である。
3月に入りオークランドに戻れば、今回の展開が大体固まってくるはずだ。そうすれば近いうちにもう一回ロンドンに行く事になるだろう。今度は春かな。
3月はニュージーランド移住に向けた視察ツアーが何本か予定されている。
これまた重い。彼らは人生を賭けてニュージーランドに来るわけであり、彼らの気持ちを充分に共感した上で現実的に彼らに合った工程表を組み立てていくのである。
スーパーで買った卵が壊れてて「ありゃすみませんねえ奥さん、じゃあ新しいのをそこから持ってってくださいよ」とは言えないのだ。人生と時間にやり直しはない。
「ニュージーランドはデッキチェアでのんびり、じゃなかったの?」と聞かれそうだ。たしかに僕の自宅と家族はオークランドだけど、ビジネスは一年のうち半分近くを北半球の海外で過ごしているのでぼくのビジネスモデルは「北半球型過激競争系」である。
その積りで過激にやってるしその事を「こんなはずでは」と思うこともないのが僕だろう。
オークランドの周囲では皆が楽しそうにあいも変わらずおしゃべりをしているんだろうけど、お前一人だけ何をあくせくやってんだよって言われそうだけど、自閉症なので他人の言葉は耳に入らない。
他人のことは気にならないし、北半球に居る時は彼らの価値観を尊重して僕も同じように夜中まで働くし南半球に居る時はオークランドの連中の価値観を尊重して夕方の4時には自宅に帰る。
まあこれがぼくの価値観だ、そう考えている。価値観、これって英語で言えばライフスタイルだろう。
それにしても今回の出張は、長かったな。香港から東京、名古屋、木曽福島、木曽御岳、東京、説明会、ロンドン、東京、合計で3週間だ。しかし実りのあるものになった。次はこれをどう育てて収穫していくか、である。がんがろっと。
ロンドンのフラットシェアの家賃は週で120ポンドくらい。これで生活費(週100ポンド程度)を考えるとかなりきつい。てか実際には無理だ。
そうなるともっと給料の高い一般事務の仕事となるのだが、これも(業務内容、給与ともに)大したことはなく、普通の事務員であれば1時間8ポンドから10ポンドである。
年間2千時間の労働と計算して年収2万ポンド。ここから税金を納めていくと、フラットシェアの生活で年に一回日本に里帰り出来るかどうかのラインであり、貯金はかなりきついだろう。
一般的には年収4万ポンドあたりが「普通に働いているビジネスマン」の基準である。現在の円に換算すれば600万円程度である。だから日本だったらどうにか稼げそうな金額ではあるが、ロンドンではきつい。
しかし仕事をするからにはそれくらいの稼ぎが取れるようにならなければ意味はない。これがニュージーランドなら給料が安くても家族と一緒に食事出来るし週末は明るい太陽の下で友達とBBQを楽しめる。
何故に一年中どんよりとした鉛色の空の下で、家族と古くて床のきしむようなちっちゃいアパートに住み、押しつぶされそうな仕事の重圧に耐えながら世界を相手に毎日を戦って生き残ろうとするのに安い給料で満足出来る物か。
このあたりがロンドンとオークランドの一番の違い、かな。
だからこそロンドンシティで仕事をうまくいかせようとするビジネスマンは無理してでもボンド街に並ぶ一流洋服店でお洒落なスーツとネクタイを買って、Yシャツにあったカフスボタンを付けて自分の業種に見合った色でまとめて自分をその業界の人々に「ほら、ボクも君らの仲間だよ、だからそこに入れてくれよ」と信号を発信しているのだ。
ぼくが一ヶ月ほど前にHSBC(香港上海銀行)オークランド支店にミーティングに行った時、初めて会う二人組みはどちらも僕のスーツ姿を見て思わず「あ、ごめん、ネクタイ無しで。今日はカジュアルデイなんだ」とちょっと恥ずかしそうに言ってたのを思い出す。
オークランドは超地方の一支店である。
その中でやってる分には着る物よりもリラックスが優先されてるし、第一田舎で皆が顔見知りの世界では誰しもが「カジュアル」でOKなのだ。しかしロンドン本社から誰かが来る時はやっぱりきちんとネクタイを付けられるように、職場では常にYシャツを着ているしネクタイとジャケットはハンガーに架かっている。
彼らHSBCスタッフからすれば僕はオークランド在住だからラフな格好で来るんだろうなくらいに予想していたのだろう。
生活水準を取るか、年収を取るか、それはその人の価値観である。
ただ、これもまたロンドンに限らずであるが、仕事が大変な場所ってのは競争が激しい分だけ高い給料をもらえる。その分現地の物価も高くなる。そうなると仕事が大変な場所で高い給料をもらえずにいると、これは辛いことになる。
だから高い年収を狙ってるのならば自分を外見も中身も磨く事しかない。最後は自分、なのだ。または最初からニュージーランドを生活の拠点としてデッキチェアに背中を預けてのんびり出来る生活を選ぶか、である。
あ、もう一つの価値観があった。給料は安いしフラットシェアで住んでるアパートはエレベーターもない4階建てで毎日交通渋滞の中をバスで揺られながら職場に向かい夜遅くまで仕事をして、楽しみは近くのコストコでまとめ買いした安い缶ビールを夜遅くに自分の部屋で飲むこととなっても、日本にいる友人には「おれ、ロンドンで働いててさ〜、この前なんてお店にショーンコネリーが来たよ〜」とメールを送り、少しでも日本の田舎の同級生に嫉妬心を抱かせる価値観である。
僕はそのような価値観は否定しない。他人に迷惑をかけていないのだ、何が悪いかって本気で思ってる。そりゃ角度を変えて忠告して欲しいってなら言う事もあるけど、そんなもん人間が生まれた時から持ってる本能みたいなもので、人は学ばない限り他人と自分を比較するものなのだ。
ほんとにもう、ピカデリーサーカスのあたりは何処を見ても「人、人、人」である。その中で明るく大騒ぎしてるのは米国や南米からのお上り状態の観光客であり、ビジネスマンは皆よそ目もふらずに急ぎ足で石畳にカツカツとTODSの靴音を響かせながら通り過ぎていく。
ミュージカルの本場としても有名なこの街では、夜の部のショーでもやっぱりおのぼりさんたちはキャーキャーワイワイと席で騒いでる。
舞台の裏では今日の公演のメンバーに入れてもらえなかった若き踊り子たちが、明日こそはと真剣なまなざしで舞台を見つめてイメージ練習をしている。
ロンドンで仕事をしながら、そのような「価値観」をずっと見てきた。ただ一つ救いなのは、ぼくが見てきた範囲内でしか言えないが、少なくとも「こんなはずじゃなかった」と思ってるような顔は少なかったと言う点だ。
実際には皆、腹の中でいろいろと考えているのかもしれない。けど少なくともプロとして仕事をしている間はきちんと誇りと自信を持って仕事をしている感じを受けた、日本食レストランを除いてね。
仕事の話をこれだけ書かない「起業家日誌」ってのも何なのかとか思ったりもするが、今回のロンドンでの打ち合わせで思ったより仕事を拡大して展開していけそうな雰囲気になった。
ロンドン発19時の日本航空402便で東京に向かい横移動、ロシアを飛び越えて飛行時間は約11時間、時差9時間の旅である。
東京に16時に着いて(体内時間は朝8時?)定宿に移動。19時と21時に会議を行う。一つは今回のロンドンビジネスをどう展開してくのかって話だ。
それが終わって翌日の午前中には成田に戻り、15時過ぎのキャセイ航空で縦移動、飛行時間11時間、時差4時間で香港経由オークランドに戻る。ロンドンを出発してから72時間のうち飛行時間が24時間で陸上移動が8時間である。
3月に入りオークランドに戻れば、今回の展開が大体固まってくるはずだ。そうすれば近いうちにもう一回ロンドンに行く事になるだろう。今度は春かな。
3月はニュージーランド移住に向けた視察ツアーが何本か予定されている。
これまた重い。彼らは人生を賭けてニュージーランドに来るわけであり、彼らの気持ちを充分に共感した上で現実的に彼らに合った工程表を組み立てていくのである。
スーパーで買った卵が壊れてて「ありゃすみませんねえ奥さん、じゃあ新しいのをそこから持ってってくださいよ」とは言えないのだ。人生と時間にやり直しはない。
「ニュージーランドはデッキチェアでのんびり、じゃなかったの?」と聞かれそうだ。たしかに僕の自宅と家族はオークランドだけど、ビジネスは一年のうち半分近くを北半球の海外で過ごしているのでぼくのビジネスモデルは「北半球型過激競争系」である。
その積りで過激にやってるしその事を「こんなはずでは」と思うこともないのが僕だろう。
オークランドの周囲では皆が楽しそうにあいも変わらずおしゃべりをしているんだろうけど、お前一人だけ何をあくせくやってんだよって言われそうだけど、自閉症なので他人の言葉は耳に入らない。
他人のことは気にならないし、北半球に居る時は彼らの価値観を尊重して僕も同じように夜中まで働くし南半球に居る時はオークランドの連中の価値観を尊重して夕方の4時には自宅に帰る。
まあこれがぼくの価値観だ、そう考えている。価値観、これって英語で言えばライフスタイルだろう。
それにしても今回の出張は、長かったな。香港から東京、名古屋、木曽福島、木曽御岳、東京、説明会、ロンドン、東京、合計で3週間だ。しかし実りのあるものになった。次はこれをどう育てて収穫していくか、である。がんがろっと。