2010年08月

2010年08月31日

霞ヶ関をぶっ壊す

8月30日付けの日経ビジネスの特集が「霞ヶ関をぶっ壊す」だった。しかし読んでみると実際にぶっ壊されたのは民主党の脱官僚宣言と国家戦略室だったというテーマ。ミスマッチなタイトルには、笑うしかない。

ある民主党幹部が言う。「事業仕分けや予算編成のお膳立てをしてくれた財務省、成長戦略作りに欠かせない経済産業省などの協力を得ようと、官僚と手打ちした事が1点目。参院選で手足となって働いてくれた公務員労組への配慮が2点目だ」

政権を取っても運営に必要な官僚からの支援を受けないとやっていけないのは最初から分かっていたことだ。

だから本来やるべきは選挙勝利後すぐに、霞ヶ関の省益のみを考える幹部ではなく一般職員向けに「政府、国民も血を流すから霞ヶ関も血を流してくれ、日本の国益の為に」と宣言して実行する事であった。

日本の社会全体が持つ既得権益を一旦全部解散させて、再度政治としてこれを再配分するべきであった。

例えば労働組合に対しては正規雇用と非正規雇用の壁を撤廃して全員を組合員とするか、または組合そのものの会社側との交渉権を廃止する。(NZでは1990年代にやった。このおかげで劇的に中小企業が発展して土日に買い物が出来るようになった)

例えば官僚に対しては既存の利権システムをゼロから再度見直して、今の時代に合った能力別任用や官民交流の活用、早い時期から高給処遇(民間の2倍くらい)、などなどやれる事はたくさんある。

そして政治家は自らの襟を正す意味で国会及び地方議員報酬の半減と議席数の半減、そして形骸化した二院制度を廃止して一院制度にする、などの徹底した議員改革を行う。

同時に国民に対しては痛みを伴う消費税増税と年金減額を行う。

こうして社会全体を一気にぶっ壊す事で反対する人もたくさん出るのは当然だ。しかし個人の既得権益をいちいち守っていたら全体の再構築なんて出来るわけがないのだ。全員で痛みを分かち合い、社会から落ちこぼれが出ないようにする、その為の不死鳥計画だ。

今のままでは日本は焼土になる。そして次に日本が浮上するのは国民全員が窮乏生活を耐えた10年後くらいだろう。ただその時に世界の国境がどうなっているか。果たして日本にリーダーシップを取れる場所が残っているかだ。

今ならまだ体力もある。しかしこのまま周囲にKYと言われる事を嫌がって何も言わずに既得権だけを認めるようだと、間違いなく日本は焼土になるしそれからの立ち上がりは時間がかかる。

幸運なのは、日本は国土と国民に自浄作用があることだ。この原因が何か分からないが、推測するにはこの土地と空気と水がもたらす相乗効果だろう、とにかく日本は何度も大変な目にあってきたけどその国民性が変化する事はなかった。

しかしそれも、今回の焼土の後にどうなっているかは不明である。何故なら教育システムが破壊されてしまったから、ここも復旧に時間がかかる一つの理由だ。

民主党は選挙後のもたつきで国民全体に「血を流す宣言」を伝える時期を逃してしまい、結局日々の生活に戻ってみると官僚の事務作業の必要性を痛感して、結局元の官僚支配に戻った。

確かに霞ヶ関の利害利権は実に複雑に絡まっているが、よくよくほぐしてみると結局は“総論賛成各論反対”なのだ。

総論を賛成した後に各論になると、「それはxxさんにとって不利である」とか「弱者に対するxxだ」とか、本当は自分の利権確保が目的なんだけど表面的には「他の人の為に」とやってる。

日本人の殆どはいつの時代も同じで、自分がやりたいのに「あの人がやりたいから」とすり替えてしまう。本当に「あの人がやりたいから」なら良いのだが本音は違うから、自分が興味なくなったら何も言わなくなる。

日本中が公害に覆われた時代もそうだったし現代のマスコミ記事も同じで、何も変わっていない。

自分の既得権益に影響の出ない話ならどんどん改革でも進歩でもやりましょう、けれどそれが自分の利益に関わるならば絶対に手を付けさせない、手を出す奴は潰す、そのような官僚が今の日本を運営している。

そのシステムが永続するように働く、つまり自分たちの省=組織の最大限の利益を確保する人材が優秀と言われ、一般社会の常識がないままに霞ヶ関社会が財団やなんちゃらなど天下り団体を作り、それを批判されると名前を付け替えるがやる事は同じ、結局自分の利益だけである。

民間企業であれば一つの業界に様々な企業が競争しながら切磋琢磨するが、官僚業界の場合は省ごとに仕事が縦割りされているから競争原理が働かないし、役所は唯一無二であるから新規参加と言う競争原理も働かず、尚且つ倒産と言うこともないので費用対効果も考えなくて良い。

つまり役所のやり方に疑問を感じた若者が何か進言しても通らないし結果干されたりする。民間ならば他の企業に転職するとか自分で起業することが出来るが、結局それは役所の世界では通用せずに、若者が出て行った後はあいも変わらないシステムが永続するだけである。

そんなシステムが時代の変化についていけないのは当然であるが、ただここでよく考えるべきは、じゃあ官僚は馬鹿なのか?と言う点だ。

官僚は東大時代と同じように、一旦方向性をきちんと決めてこうやれと言われれば、事務処理とか難しい事を処理する能力においては素晴らしい能力を持っているので、うまく使えばはさみ並みに役に立つ。

だから政治家が国民の意見を代表して官僚の提出する様々な政策を取捨選択していけばスピード感のある政治に切り替わる。

日経ビジネスの27ページに掲載された国別官僚制度が面白い。官僚は公募か終身雇用かという縦軸と資格試験任用か政治任用かという横軸で各国の位置を表している。

「日本は終身雇用制度閉鎖型であり資格試験と年功序列で運用されているのがよく分かる。この反対にあるのがニュージーランド、豪州、英国である」

「この3国では多数の与党議員が行政府の役職に就く一方、事務次官以下の公務員はどの政党が政権を握っても中立的に時の政権を補佐し、政策の立案や情報分析の役割を提供する。政治家は公務員の中立性を尊重し、幹部を含め人事への介入を自制する伝統がある。各省の事務次官ら上級公務員には公募も活用」

実際に僕もよく新聞等で見かけるが、上級公務員クラスの官僚や大学の教授を「給料はこれだけ、仕事の内容はこう、期間はいつからいつまで、ボーナスアリ」みたいに募集している。日本のような終身雇用ではない為に開かれた場所になっているのが特徴だ。

次のページでは「官をこう変えよう」と言うイメージ図があるけど、官僚改革後の姿が今のニュージーランドの政治の姿と同じであるという皮肉。

振り返って日本の官僚。中堅キャリア達の覆面座談会で出てきた官僚の本音。

 経産省A氏 「まあ、劇的に人事制度が変わらない限り、50歳ぐらいまでは給料は上がっていきますし、年金、退職金も悪くはない。割り切って、適当に暮らしていこうと思えば、いい商売ですよ。家族もいますし、制度改革も穏当な手直しですんでほしいというのが本音ですね。」

まさにこれが、日本社会が役人を含めて誰もが本音では「変わりたくない」現状であろう。

どれだけ「変わらなければ滅びるぞ!」と言っても、出来れば聞きたくないしぎりぎりまで先送りしたい。むしろ彼らは焦土を望んでいるのかもしれない。だって人々が同時に貧しくなるのだから、自分だけが違っているわけではないから。


tom_eastwind at 11:47|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2010年08月30日

変な理屈

ある人、例えばAさんとして、彼が自分の体験談として神奈川県警加賀町署が紳士的な対応をしてくれたと書いたら数年経ってそのコメント欄に

「あなたは随分と寝ぼけた事を書くネット・ユーザーの様だ、神奈川県警加賀町署は評判が悪く庶民に対して高圧的で威張り散らす警察署である」

「まぁ、もっとも神奈川県警自体が評判の悪い自治体警察であり電話盗聴事件も未だに「やってない!」と大ウソをつく警察なんで、神奈川県警から不正・不祥事は無くならないと私は思う。」
と言う書き込みが入ってきた。

そこでAさんは
「加賀町警察や神奈川県警に対し、何かあるなら、小生のこんな駄ブログにコメントするより、直接抗議したらいかがですか?」と返した。

すると今度は「神奈川県警の常識は、世間一般の非常識。世間一般の常識は、神奈川県警の非常識」と言う短い書き込み。

そこでAさんは更に
「〜と書いてみても負け犬の遠吠えです。堂々と神奈川県警に抗議して正義を示して下さい。結果を期待してお待ちしています。」と返信した。

するとこんな意味不明な理屈の反論が書き込まれた。
「神奈川県警に抗議して正義を示せだぁ?もしも、公務執行妨害罪で逮捕されたら、あんた、責任を取れるのか?責任を取れないだろう? 無責任な事をコメントするな!私たち人間は、目に映るイメージに惑わされる。真実は、意外と見えないものだ。左様奈良。」

暇な人間がいるものだ。自分で喧嘩売っておきながら「オレが逮捕されたらあんた責任取れるのか?」だもんね。まったくもう、どうしようもない言いがかりである。

Aさんは自己紹介で
好きな作家:石原慎太郎、佐々淳行、田母神 俊雄
嫌いなもの:韓国ドラマ、パチンコ、パチスロ、タバコ、納豆、反日特定第三国人
と書いているので思想の方向性は理解出来る。どこにでもいる普通の愛国日本人だろう。

ただ、コメントをした側の目的や意味が全く不明であり、どう見てもこれで金を得られるわけではないし自分のブログの集客が目的でないのは匿名にしているから分かるし、けどだったら一体何の為にって疑問が湧く。

そう言えばネット会社の中には企業や団体の依頼を受けて特定のテーマを常にランダム検索してブログやコメントに一定の方向性をつけるとかぐちゃぐちゃにして炎上させることで売上を出している会社もある。

今回のテーマが例えば共産党による神奈川県警撲滅作戦だとしたら、これはないな、共産党は基本的に頭の良い団体である。自民党のような土建屋とは違うのでこんな幼稚な作戦は取らない。

大体文章にきちんとした筋が通ってないと、それだけで嫌悪感を感じる人々なのでこんな馬鹿な文章は書かない。

なのでこれは、単純にヒマな人間が匿名を利用して書き込みをしたと判断するのが良いのだろうが、最近の日本では本当に言いがかりをつける連中が増えているのを感じる。

ゲリラ豪雨で電車が安全の為に一時停止をすると駅員に掴みかかり「どういう事だ、おれはxx時までに取引先にいかなくちゃいけないのに、何で電車を止めるんだ!」みたいなのが典型だ。

こういうのって常識で考えれば分かる事だけど、その場の空気を読めば駅員を怒鳴るほうが正しいって理屈になるのかもしれない。それにしても日本では変な理屈がまかり通るものだ。


tom_eastwind at 12:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月29日

雨と東大

2602d101.jpg雨が降ったら電波が撃墜されるって言ったら笑われたって話を書いたら読者の方からご指摘を頂いた。ご本人の承諾なしなので内容をかいつまんで紹介すると、

前略〜無線LANで使う電波も人間の眼に見える光も同じ電磁波。雨が降ると光が届かずに景色が見えにくくなる。無線LANは高い周波数なのであながち間違いではない〜後略

実際は非常に丁寧な文章で詳しく説明を頂いているので、理科に弱い僕でもこれならすぐ分かる。

ありがとうございます、そうですか、どちらも電磁波のことなんですね。これですっきりしました。やっぱり専門家のお話は分かりやすくて簡単で事実を説明出来るので難しい勉強が分からなくても納得出来る。

それに比べると自称専門家でも全く意味不明な話をする人がいる。官僚でも本来は優秀なはずなのに現実を無視したわけのわからん考え型を平気でする人間もいる。

その理由が数日前のアゴラの池田記事で書かれていた。(池田氏は東大経済学部を卒業後慶応大学大学院でメディア・政策の修士課程を卒業、NHKに入社した人物である)

どうやら昔で言う大蔵省、今の財務省に入る学生は池田氏いわく「東大法学部に合格して最初から国家公務員試験を勉強して授業には欠かさず出席して、大蔵省は良が3つ以内でないと(後はすべて優)いけないので、入るのは勉強に疑問を持たず先生に忠実な学生であること」が条件だったようだ。

彼らは自分が納得するかどうかではなく先生が授業でどう言ったかがすべてなので、白いものを黒いと言われ、あれが白いと見えるのは錯覚だ、くらいの勢いで先生が説明する事を疑問を持たずに頭の中に詰め込まないといけなかったのだろう。

だから現実に見えるものでも信じてはいけないのだ。

そして先生や親の言う事を信じて社会に出れば本当にぼくは社会的に尊敬されて一生の生活は保証されて地域住民からは何かにつけ先生、先生と呼ばれて特別扱いされて幸せな一生を過ごす事が出来るんだ、そう本気で思い込んでいたのだろう。

だから世間からすれば常識的なことでも彼らの頭の中では一切理解出来ず受け付けようともしない。ある意味可哀相だ。

そして役人になれば疑う事を知らない彼らは今度は「上司のいう事がすべてだ、上司のいう事だけに従っていればよい、ばかな世間の噂や文句は無視しろ」と言われて育つ。

彼らの上司が作った作文だけが正しくて彼らの言うがままにバブル敗戦処理を先延ばしにしたり不良債権を隠したりしても何も疑問を感じない。

世間が大不況になり街には失業者が横行してアパートを追い出された人は公園にテントを張って寝るしかないような状況になっても本人の給与と地位は保証されているのだから関係ない、いつか世の中の現実を見せ付けられるまでは。

そう言えばこんな話がある。

ある地方都市の住宅街では地域住民が毎週交代で道路清掃などを行ってきた。新しく引っ越してきた家庭を訪問した町内会の幹事がこの住宅街でのイベントとか、皆が交代でやっている道路清掃の話をして“お宅の通りは来週の日曜が当番ですから、それまでに軍手とか買っておいた方が良いですよ、ほうきとかは町内会で準備していますので大丈夫ですから”、すると、それまでにこにこしていた奥さんの顔が急にきょとんと困惑したようになる。

“どうされたんですか?”そう訪ねる幹事に向って奥さんは「ええ、けど、宅は東大なもので、、、」。


tom_eastwind at 14:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月28日

紙があっても、君には関係ない

★朝日新聞記事より
新聞協会加盟全103紙が一斉広告 紙の魅力アピール
日本新聞協会に加盟する全103紙は27日、紙の価値を再発見してもらう広告「紙があって、よかった。」を一斉掲載した。北海道から沖縄県までの全紙で一斉掲載するのは初めて。

 同協会の「日本を元気にする」特別企画の一環。新聞の媒体力と新聞広告のパワーをアピールするのが狙いだ。 製紙会社5社を広告主とする今回は、手塚治虫の漫画の下書きと、野口英世の母が海外で働く息子にあてた手紙の二つを紹介。記録媒体が多様化する中で、紙と新聞がともに持つ普遍的価値を感じてもらうことを目的としている。
★ 記事終了

あのさ、紙の思い出が大事なんて当たり前の事であり、べつに製紙会社に宣伝してもらう必要もない。第一インターネットやIpadと言っても電気が止まれば無用の道具であり、電気の通じてない場所では紙が媒体であるのは間違いないのだから。

この記事ではスポンサーを製紙会社にしているけど、新聞社たちは普段は自然保護とか森林を守るとか、そういう支援がdaisuki、自然保護記事もdaisukiですよね。そして自然破壊をする人々を守銭奴みたいな書き方をしますよね。

けど、その森林から木を切り出してパルプにして日本に船で送ってそれを製紙会社が新聞紙にして新聞会社がそれに色をつけて毎日同じような政府広報や自己満足記事を有料で国民に配布しているんですよね。

そりゃ他に媒体手段がなかった時代は仕方ないけれど情報が紙不要のIpadで届くようになればそれこそ資源を守る為に毎日森の木を切る必要もなく、電気受信機械で情報をデータで受け取ればよほど森林環境に優しいわけだ。

だいいち政府広報や自己満足のために毎日毎日木を切り倒しておいて、それで発信する情報がどこも同じであれば新聞なんて大本営新聞だけ一社あれば充分でしょ。

ナノに何故、どの新聞社も環境と森林に優しいIpadと宣伝しないのだろうか。それは表面的には既存の業態で働く人々の既得権益を守る必要を訴えるからだ。

紙は木材会社、輸送会社、製紙会社、印刷会社、新聞配達会社、果ては駅のキオスクまで多くの人が関わっているビジネスであり、彼らの既得権益は時代がどう変化しようと守らねばならない、例え環境に優しくない事をして無意味な大本営発表をするだけの道具だとしても。

まあこのような紙側の理屈はすでに崩壊している。鉄道が石炭機関車からディーゼル機関車に変化した際に英国鉄道労働組合が雇用を守ると言う理屈で釜焚き職人をディーゼル機関車に乗せて結果的に英国鉄道が倒産した事実が物語っている。時代が変化すれば人々も変化せねばならない。

例え雇用が表向きの本当の理由だとしても、ならばその業界では何万人が従事しているのだ。何万人かの雇用は、代替手段があるにも関わらず自然環境を破壊する意味があるのか?世界には何億人いるのだ?どちらの利益が大きいか、社会の進歩と貢献と言う意味でどちらが役立つかと考えれば、そりゃどうコロンだって南米の山中でもアフリカの砂漠でも受信出来るインターネット媒体の方が正解なのは、誰でも分かる事だろう。

しかし裏の本当の理由はインターネットにより情報独占が出来なくなり既存の大本営ビジネスが継続出来なくなり、渡辺さんの晩節を汚すから、じゃなくてこれから既存の新聞ビジネスが崩壊してしまう事を業界の人々が理解し始めて、他人の雇用よりも自分の雇用を守るしかないから、何とかその崩壊を少しでも食い止めたいと考えているわけだ。

何故なら人々が望むのは情報でありコンテンツなのだから、そのコンテンツを作り出す能力が新聞社側にあれさえすればインターネットで素人が書いた記事などに負けるわけがない。ところが現実はインターネットで無料で提供される記事の方がすでに有料新聞を上回っているケースが続出している。

つまり例えば音楽なら、音楽業界で何十年も飯を食ってきたプロが音楽の事を書けば、昨日今日の駆け出し記者が何を書いても知識、能力ともに勝負にならない。

これはつまり、今までは音楽、経済、政治、文芸、料理など、すべての情報は一つの業界から新聞等の媒体経由でないと読者に届かなかったのが、インターネット経由で業界のプロが直接読者に情報提供を出来る仕組みになるので、今まで聞き書きをしていた程度の記者では全く歯が立たなくなるし、それが人々にばれてしまうからだ。

本来の新聞記者の能力は出版業界で常に10万冊売れるくらいの力があるべきだが、今まで政府発表を転載することが仕事だった記者には到底無理な話である。

そして新聞の媒体力を否定しているわけではなく新聞広告を否定しているわけではないけど、一日一回しか発行されない記事媒体よりもインターネットの方が圧倒的に情報電波力は早いわけであり、広告に効果があるのは間違いないのだから最近都内で始まった、印刷された広告とテレビ番組情報を個人宅に無料郵送するサービスが本格的になれば新聞配達と言うビジネスは成立しなくなる。

元々新聞にしろテレビにしろその存在理由はコンテンツにあり、どのような媒体を使うかってのは時代によって変化するのが当然だ。

僕らが子供の頃に音楽を聴くのはLPだった。丸い30cmくらいの音楽盤にそっと針を乗せて音楽を聴いていた。それからカセットテープが安く音楽を聴ける手段となりウォークマンが出てきた。

そうなると人々はLPから次第にカセットテープに媒体を変更させていったが、その当時は音楽業界もそういう時代の変化を理解していたので、自社工場のレコード製作機械をテープ製作に変えたりしてそれほど大きな影響もなく乗り切った。

そして次なる大きな変化がCDである。CDの出現によってLPレコードは完全にビジネスとしての道はなくなったが、この時も音楽に携わる機械を作っている会社はそれまでの針で音を拾って再現する技術をデジタルで音を拾って再現する技術にシフトする事で乗り切った。

そして今、音楽業界は次の大きな波を受けている。インターネット配信である。こうなるとCDが不要になるし音楽を詰めていた媒体そのものが不要になる。だから今音楽業界では大きなシフトが起こっている。

これから必要なのはインターネットで配信する際に同じデジタルでもどれだけ高い品質の音を提供出来るか、そして受信して再生する機械をどのように製作していくかである。

しかしこれはメーカーにはかなりきつい仕事だ。デジタルの場合、基本的に音の違いがない。劣化しない。そして受信して音楽を聴く側がそれほど品質にこだわりがなければ、再生機械は安いほうがいい。Iphone程度の音楽でも車の中で運転しながら聴く分には全然問題がない。

それこそ本格的なマニアだけが高品質の音を追求していくだろうが、それはメジャー市場にはなり得ない。

けれどメーカーがどうしようが彼らの位置付けが媒体である限りどこかに限界がある。限界がなくどこまでも成長できるのは唯一、コンテンツだけだ。音楽で言えば独創性のある素晴らしい歌だ。

そして最近日本では大型の歌手が出てきてない。100万枚売れる歌手がいないのだ。けどそこには必ず理由がある。ミュージシャン希望者は日本中どこにでもいる。誰でも出来るなら歌を歌いたい。けれど現実は音楽をやりたくても食えない、食える音楽をやる為には音楽事務所の言いなりにならないといけない。

そして日本の旧態音楽業界の中でミュージシャンとして生き残れるのはほんの一部だけになるが、しかし音楽性だけで言えば売れてる連中よりも腕の良い連中はいくらでもいる。彼らが今まで表に出る機会がなかっただけだ、音楽業界と言う壁に阻まれて。

だから最近ではユーチューブで独自に歌を発表してダウンロード形式で一曲いくらで買ってもらうインディーズビジネスが盛んである。

媒体はあくまでも媒体なのだ、コンテンツそのものではないのだ。コンテンツを作る側が常に弱者であった時代は媒体に逆らえなかった。しかしインターネットの出現でコンテンツ提供者は媒体を通す必要がなくなったのだ。

これがまさに新聞社が今通っている道である。自分でコンテンツを作ってきたか?記事の独自情報能力があるのか?

政府発表記事だけを転載するだけで、イラクでも戦争の現場に自社記者は行かずにフリージャーナリストに取材させる、つまりコンテンツは他人に作らせておいて媒体を押えることでビジネスとして旨味を吸ってきたわけだ。

これはテレビ局でも同じで、コンテンツ制作が可能でありながら結局は一番楽な免許商売である媒体にしがみ付いてコンテンツは番組制作会社に安く作らせて、結局は優良なコンテンツが出来なくなって人々のテレビ離れが始まった。

新聞、テレビ、音楽、どこの業界でも同じで、とにかく独創性、コンテンツ、これがすべての始まりなのにいつの間にか中継ぎをする連中だけが儲かる仕組みを作り、コンテンツを作る努力を怠っていた。ずるくないか????

そして結局は技術の進歩で、手抜き産業のそのど真ん中をインターネット技術が直撃して既存の常識を破壊して物事の一番核となる部分を表出させたのだ。

なのに今、自分たち曰く公共の企業が公共の紙面を使って自己の既得権を守ろうとしている。時代は変わった。20世紀の主役も今のままでは生きていけない。さあどうする。時計の針は止まってはくれないのだ。


tom_eastwind at 15:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月27日

正規も非正規もコップの中の嵐

9b7f1f8f.jpg趣味と実益と兼ねた仕事だな〜、ロッククライミング。

当社の向かいのビルはオークランドでもかなりの高さのビルで、そのビルの屋上からまるでSWATの襲撃のようにロープが降りて来てがっちりとした装具で固めた人が数人、するすると降りてくる。

おなじみ、窓拭きである。日本だとこの高さのビルであればクレーンで窓拭きバスケットに乗り込んでの作業だろうが、ニュージーランドでは趣味と実益を兼ねたビジネスとして理解されており、ロッククライミングの得意な連中の実入りの良い仕事となっている。

世界で初めてエベレストに登頂したのはエドモンドヒラリーであり彼はキーウィだ。とにかくキーウィはスポーツがdaisukiでクイーンズタウンなどはまさに山登りのメッカみたいな町である。

スポーツショップで働く店員が山登りの道具を非常にうまく扱うので聞いてみると「あ、おれ去年はK2に登って、来年のエベレストに向けてここで働いてカネを溜めながら休日はフィヨルドランドの山脈で練習しているんだよ」。

まあかっこいいというか、とにかく人生を楽しんでいる。あるキーウィ登山家は凍傷で両足をなくしながらも世界で山登りを続けている。

オークランドは坂の街であり自転車で移動するにはかなりきついが、クイーンストリートをスポーツ自転車で背中に赤いバッグを抱えてかっこよく走り抜けて、上り坂でもぐいぐいと登っていき、下り坂ではすごい勢いで駆け下りてきて、時には両手を離してみたり、赤信号ではペダルに固定した足を外さなくてよいようにぴたっとバランスを取ってみたり、きみは郵便配達と自転車漕ぎとどちらが主な目的なのかって聞きたくなるくらい上手だし楽しそうだ。

実は郵便配達の中でも大きな荷物は太目のおじさんがビルにバンを横付けして二輪車でオフィスに運んでくれて「おはよ、君んとこの荷物、今日はこれだけだよ」と楽しそうに渡してくれる。

郵便配達は基本的に個人が配達会社と契約をして一個いくらで運んでいるからみんなキーウィ標準の仕事の早さの三倍くらいの速度で働いている。それでも顔は楽しそうだしよく冗談も言ってる。気楽で楽しいよね。

自転車にしろロッククライミングにしろ普通の荷物運びにしろ、何だか皆自分の今やりたい事を上手いことビジネスに結び付けているって感じだ。

日本では雇用継続の為に一生懸命しがみ付いているって感じになるのでキーウィの働き方を見れば「ふざけてんのか」と思うかもしれないが、いつ会社を辞めてもセーフティネットがあるし学校に行ってキャリアアップも出来る、その間は政府が学費と生活費の面倒を見てくれる国であるから、このように働いている人の顔が明るいし冗談も出てくるのだろう。

第一この国では正規雇用も非正規雇用もないから非正規労働者がいつ首を切られるかなどとびびる必要もない。すべては契約書ベースで労働期間と賃金が決められており、国が関与するのは最低賃金と労働基準法の遵守のみ。

ぼくも労働基準署と何度かやり取りした事があるけど、彼らはお役人と言うよりも調停者である。企業を裁くとか法律違反をどうのこうのなんてケースは殆どない。何故なら企業が労働法違反等すれば、労基署が調査するよりも先に労働者が訴えるからだ。

実際に日本人経営者でも現地の法律の厳しさが分からずによく訴えられているが、労基署はどちらかと言えば原告と被告の調停者であり、日本のようにお上が裁くなんてイメージとは全然違う。企業があってこその雇用であるという現実を一番理解しているのは政府である。

雇用の自由な移動、ジョブホッピングはスキルアップの為に当然のように行われる。そこに正規と非正規等の言葉さえ存在しない。

解雇については日本よりも緩く、解雇をする場合はリダンダンシーパックという退職に関する手当てと保証を会社が提案してそれで働く側が不満なら条件交渉をするが、日本のような一生絶対雇用と言う発想はお互いにない。

週刊ダイアモンドで正規雇用と非正規雇用について特集が組まれておりさまざまな反応を呼んでいる。ぼくが見る限りブロガーの間ではほとんどの意見は解雇規制緩和または解雇規制廃止を主張している。

民主党が労働組合に支えられており組合が自分たちの既得権を守る為に解雇規制を認めない方向であるが、労働組合と言う名前の下に労働者を差別して労働者内部に階級を構築して自分たちだけが特権階級労働者として居座り続けている。

その結果としてどこの企業も「切れないし使えない無能な正社員」を抱え込むことになり、ある資料によれば彼ら社内失業者を含んで計算すれば失業率は17%になると言われている。

働く能力のない正社員を抱えて生産性が下がる不幸な企業があり、その反対側には働く能力があるのに働く場所がない非正規社員の問題、これこそ政治が判断して改革していくしかないが、肝心の政治がねじれ現象を起こしているし一応与党の民主党でさえ内部で分裂している。

政治を立てれば民立たず、民立たねば経済立たず、経済立たねば成長せず、成長せねば競争力なく、競争力なければ国家が立たず、国家が立たねば他国に支配される。

右翼の左翼のと言ってる場合ではない。雇用については世界にもっと進んだシステムがいくらでもあるのだから、労働組合も政府も裁判所も、日本と言うちっちゃなコップの中でがちゃがちゃやらないで世界を見回して今の時代に合ったシステムを導入してもらいたいものだ。



tom_eastwind at 13:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月26日

原発記事特集

0f67103c.jpg「福島第1原発で作業員が被ばく」
多くの住民の反対を押し切ってプルサーマル計画が強引に推し進められている福島第1原発3号機(福島県大熊町)で、下請け会社から派遣されていた60代の男性作業員が、23日、放射性物質を吸い込み被ばくしていたことが分かった。

男性作業員は、23日の午前9時45分から午後8時までの間、原子炉建屋で排水弁の分解点検を行なっていたが、作業後の放射能測定で被ばくの疑いが見つかり、再検査によって被ばくしていたことが判明した。東京電力では「人体や環境には影響がない」というお決まりのコメントを発表したが、先月の7月30日にも核燃料再処理工場(青森県六ヶ所村)で30代の男性作業員が漏れた高レベル放射性廃液によって被ばく事故を起こしたばかりである。

東京電力は、この福島第1原発の他、福島第2原発、柏崎刈羽原発(新潟県)の3カ所の原発で、80年から90年代までに起こった「ひび割れ」などのトラブルを29件も隠蔽していた前科があり、2002年にこれらの隠蔽が発覚したあとも、原子炉の部品に損傷があるまま運転を続けていた。

このように30年近くも隠蔽と嘘を繰り返してきた組織が「プルサーマルありき」で進めている点検作業中に起こった被ばく事故である以上、東京電力側の発表を信用する住民はいないだろう。(2010年8月25日)世田谷通信

上記はきっこの日記から転載。世田谷通信と言う名前で書かれた記事なので信憑性を確認する為に朝日新聞をチェックしてみた。

すると朝日新聞では下記のように取り上げている。

東京電力は24日、定期検査で停止中の福島第1原発(福島県大熊町など)3号機で、23日に協力企業の60代の男性作業員が放射性物質の微粒子を吸い込む内部被ばく事故があったと発表した。
 東電によると、放射性物質はコバルト60とマンガン54だが、身体が受ける放射線量は今後50年間で約0.004ミリシーベルトと、医療用エックス線検査に比べても小さく、健康に影響はないという。 
[時事通信社]
★記事終了

そういえば原発事故で「作業員が被曝」と言う記事はよく読むが、彼らは東電などの社員ではなく地元の雇用対策で社員として採用されているのかと思ってた自分に気付く。

そこでもうちょっと調べてみた。

by2007.6.1のJANJAN記事
http://www.news.janjan.jp/living/0706/0705310440/1.php

差別の上に成り立ってきた原発労働の世界では、人権が完全に無視されていることを労働形態が如実に示している。原発→元請け(財閥系)→下請け→孫請け→ひ孫請け→親方→日雇い労働者(農漁民、被差別部落民、元炭鉱マン、大都市寄せ場、都市労働者)。この重構造が複雑に絡み合い賃金のピンハネがあり、二重の差別構造を形成している。つまり社会的弱者を徹底的に使役するというのが原発なのだ。

体をこわしても労災認定はおろか証拠のもみ消しにやっ気となる。この象徴的存在が、故・嶋橋伸之さん(享年29)のケースである。彼は下請け会社で浜岡原発内で働き、慢性骨髄性白血病で死亡した。94年、両親の訴えで労災認定を勝ち取ったが、その裁判過程で驚くべきことが判明した。彼が死亡した翌日に「放射線管理手帳」に記されていた被曝線量が全面的に書き替えられていたのである。〜

次いで同じ記事提供者、つまり同じ取材源から取材したと思われるスペインの新聞社のかなり昔の記事。

★ 日本の原発奴隷 2003年6月8日 エル・ムンド(スペインの新聞社)
日本の企業は、原子力発電所の清掃のために生活困窮者を募っている。 多くが癌で亡くなっている。クロニカ〔本紙〕は、このとんでもないスキャンダルの主人公達から話を聞いた。DAVID JIMENEZ 東京特派員
福島第一原発には、常に、もう失うものを何も持たない者達のための仕事がある。松下さんが、東京公園で、住居としていた4つのダンボールの間で眠っていた時、二人の男が彼に近づき、その仕事の話を持ちかけた。

特別な能力は何も必要なく、前回の工場労働者の仕事の倍額が支払われ、48時間で戻って来られる。2日後、この破産した元重役と、他10名のホームレスは、首都から北へ200kmに位置する発電所に運ばれ、清掃人として登録された。

 「何の清掃人だ?」誰かが尋ねた。監督が、特別な服を配り、円筒状の巨大な鉄の部屋に彼らを連れて行った。30度から50度の間で変化する内部の温度と、湿気のせいで、労働者達は、3分ごとに外へ息をしに出なければならなかった。放射線測定器は最大値をはるかに超えていたため、故障しているに違いないと彼らは考えた。

一人、また一人と、男達は顔を覆っていたマスクを外した。「めがねのガラスが曇って、視界が悪かったんだ。時間内に仕事を終えないと、支払いはされないことになっていた」。53歳の松下さんは回想する。「仲間の一人が近づいてきて言ったんだ。俺達は原子炉の中にいるって」。

日本は、第二次世界大戦後の廃墟の中から、世界で最も発達した先進技術社会へと移るにあたって、20世紀で最も目覚しい変革をとげた。その変化は、かなりの電力需要をもたらし、日本の国を、世界有数の原子力エネルギー依存国に変えた。

 常に7万人以上が、全国9電力の発電所と52の原子炉で働いている。発電所は、技術職には自社の従業員を雇用しているが、従業員の90%以上が、社会で最も恵まれない層に属する、一時雇用の、知識を持たない労働者である。下請け労働者は、最も危険な仕事のために別に分けられる。原子炉の清掃から、漏出が起きた時の汚染の除去、つまり、技術者が決して近づかない、そこでの修理の仕事まで。

“原発ジプシー”
 原発で働くことを受け入れた労働者たちは、原発ジプシーとして知られるようになる。その名は、原発から原発へと、病気になるまで、さらにひどい場合、見捨てられて死ぬまで、仕事を求めて回る放浪生活を指している。「貧困者の契約は、政府の黙認があるからこそ可能になります」。人権に関する海外の賞の受賞者である樋口健二氏は嘆く。

政府と企業は、誰も原発で働くことを義務付けてはおらず、また、どの雇用者も好きな時に立ち去ることができる、と確認することで、自己弁護をする。日本の労働省の広報官は、ついに次のように言った。「人々を放射線にさらす仕事があるが、電力供給を維持するには必要な仕事である」。

 ホームレスは、間違いなく、そのような仕事に就く覚悟ができている。原子炉の掃除や、放射能漏れが起こった地域の汚染除去の仕事をすれば、一日で、建築作業の日当の倍が支払われる。いずれにせよ、建築作業には、彼らの働き口はめったにない。大部分が、新しい職のおかげで、社会に復帰し、さらには家族のもとに帰ることを夢見る。〜
★抜粋終了

この記事にもあるように日本の電力を支えてきたのが原子力発電であり、そしてこれから日本が国家主導で外国政府に売っていこうとする目玉商品でもある。あまりもめてもらったら困るのが本音であろう。

国家がエネルギー政策を決定する際に必要なのはすべて費用対効果であり、原発が風力よりも安ければ当然原発となる。「しかし長期的に見て例えば浜岡原発がメルトダウンを起こして東京に死の灰が降ったら、その時の費用はどう考えても電気代とは比較出来ないだろう、だから人命一番費用は二番、原発反対」と言う意見は、ぼくは「そりゃそうだ」とは単純にうなづけない。

何故ならある種の国家にとっては国家の存亡の方が国民よりも大事だと考えるからだし、それはそれで筋は通っているからだ。非常に単純に言えば、今ここで3人を助ける為に1人を殺すことは許されるか、である。そしてある時代やある場所では実際に多数の人々を助ける為に少数の人を殺す判断をした国家もある。

例えば戦時下の英国でドイツの暗号解析装置エニグマを握ったチャーチルは、その情報によってある小さな街が爆撃されることを知った。けれどもしその街の人々を避難させると、英国側がエニグマを持っていることがドイツ側にばれる。

結局その街は爆撃を受けて多くの民間人がなくなった。けれど英国は結局ドイツを破って勝利した。

東京に死の灰が降っても死ぬのは人間だけであり建物や設備に影響は出ないのだから、死の灰が流された後に政府が地方の国民に「今日から住める家具つきのアパート、すぐ働ける仕事、便利な地下鉄、すべて揃った東京に移住しませんか」と東京移住計画をぶち上げれば良いのだ。

東京総入れ替えである。大丈夫、日本には1億2千万人もいるのだ、1千万人くらいいなくなっても大丈夫さ。それよりも日本の高い技術を守って将来の日本国家を発展させるほうが大事であるという考え方があっても不思議ではない。

原発記事については随分隠されていることがあると思うし国民も薄々とは感じていると思う。けれどそれでも原発を選ぶ政府を支持しているのが国民なのだから、それはそれで冗談ではなくスジが通っていると思う。

ちなみにニュージーランドの電力の約6割は水力発電で、3割くらいが地元で取れる石炭発電、残りが風力や地熱発電であり、エネルギーはすべてこの国の自然から回収したクリーンエネルギーだ。これからもニュージーランドが国策として原子力を受け入れることは、よほど環境の変化がない限り、あり得ないと思う。


tom_eastwind at 15:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月25日

ホメオパシー

2587dc1b.jpg昨日の朝日新聞など大手がホメオパシー否定基調で書かれた記事。

★抜粋開始
通常の医療とは異なる民間療法「ホメオパシー」について、日本学術会議(会長=金沢一郎東大名誉教授)は24日、「科学的な根拠は明確に否定され、荒唐無稽(こうとうむけい)」とし、医療従事者が治療で使わないよう求める会長談話を発表した。山口市の女児ら死亡例が出たことを重視。通常医療から患者を遠ざける懸念があるとして、一般に広まる前に、医療現場から排除する必要があると判断した。科学者の代表機関が、特定の療法を否定するのは極めて異例だ。
抜粋終了

また、「ホメオパシーのレメディを“ただの水”、ホメオパシーが主張する効能を“荒唐無稽”と一蹴した上で、日本の医療現場からホメオパシーを排除すべき」とも言っている。

この背景はどこの記事にも出てこないので分からない。

製薬会社からするとホメオパシーは自分たちのビジネスに全然繋がらないどころか、患者を薬漬けに出来ないのだからむしろビジネスを侵食される、だから今のうちに叩き潰しておけって事かな。

それとも本当に単純に、今まで一生懸命勉強して医者の免許を取って、先輩医師の言う事を聞いてやっとここまで来たのに、周囲からせんせーせんせーと呼ばれるまでになったのに、なんじゃこのホメオパシーとかの治療法は!オレの勉強してきた事と全然違うじゃねーかと言う医者としての怒りからくるものなのか。

それともそれとも、本当に本当に単純に、ホメオパシーとは新興宗教みたいなもので既存の科学と経験から生まれてきた医療方法を否定して、おれだけ正しい!みたいな、昔で言えば子供が危言をしゃべるようになったら村の呪術師みたいのが白い衣を着て竹の鞭で子供をびしばし叩いて殺してしまい、子供の家族には「遅すぎた、もうちょっと早く“治療”してれば〜」などと平気で言って家族と一緒に家の床下に穴を掘って埋めてしまい、何もなかったようにする、アレなのか?

僕自身はホメオパシーを詳しく知っているわけではないし、そういう治療方法があるのも今年になって当社で扱っているホリスティック製品の関連で知識として頭の中に入り込んだだけの状態である。

英国では資格として扱っているとかドイツでは保健医療の適用は認めないとか、ホメオパシー発祥の欧州でも国によって取り扱いが違う。

そこでウィキで検索してみたら「類似したものは類似したものを治す」と言う類似性の法則と言うものが出てきた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ホメオパシー

ウィキの中でも記述は中立になっているが、各国の取り組みが違うとか日本では通常の医療行為を受けさせずにホメオパシー治療だけ受けさせて患者が死んでしまったとかの実例が出ている。

しかしな〜、中立の立場で考えてみても、この内容を読む限りでは、何の予備知識もない普通の人が「この砂糖水飲んだらあなたの病気が治るよ」と言われてほいほいと飲むものだろうかと思ってしまう。

「水の記憶」とか言われてもね〜、何かもうちょっと違う説明はないのかと思っても少し検索してみた。

すると出て来る出てくる、「本当は凄いことなのです。信じたり祈ったりするだけで病気が治る生命の働きというものこそ今から本当に掘っていかなければならない大鉱脈なのです」 日本ホメオパシー振興会。

う〜ん、信じたり祈ったりするだけで治ることもあるし、そのあたりは全く否定しない。人間は魂の部分と肉体の部分があるし、魂が肉体に強い影響を与える事で、例えば一夜にして恐怖の為に髪の毛が真っ白になったなんて本当の話もある。

信じて祈ってれば一夜でハゲがふさふさの黒髪になったって話は聞かないな。これは程度の低い欲望だからだろうか、それともかつら会社と魂会社の裏協定か(笑)?

そんなにも 効くなら ハゲは おらんだろ

ホメオパシーでは同族治療と言う名称で、同じようなものを水で思いっきり希釈して砂糖水にして飲ませるわけだから、自分の頭に最後に残った髪の毛を数本抜いて粉になるまで砕いて水で希釈して飲んだら毛は生えるのか?なんて単純な疑問も出てくる(笑)。

これがその辺の新興宗教と名乗っているのなら最初から話は簡単で、「あふぉ」で終了だし学術学会なんてでっかい組織がいちいち声明発表なんてする筈もないし、それだけ社会問題になっているからって事だろう。

つまり、ホメオパシーと言う治療行為に対して真っ向から反対する人々とホメオパシーを信じて強力に推し進めていこうとする人々がガチで喧嘩してるのが現状ってことだ。

そこでもう少し検索してみたらこんなのがあった。下記はホメオパシーを教える学校の「設立の経緯」の中にあった挨拶の抜粋。

★抜粋開始
現RAH学長由井寅子が、日本人で初めて英国HMA認定ホメオパスとなり、1996年から日本でホメオパシー健康相談や講演会等の啓蒙活動をスタートさせるまでは、日本でホメオパシーが紹介されることはほとんどありませんでした。そこで、日本国民がこのすばらしい“ホメオパシー”の恩恵を享受できるよう、プロのホメオパスを育生しなければならないとの考えから、1997年4月、ロイヤル・アカデミー・オブ・ホメオパシーが設立されました。
http://www.homoeopathy.ac/rah/index/b02_j.html
抜粋終了

なんだこりゃ?「そこで、日本国民がこのすばらしい“ホメオパシー”の恩恵を享受できるよう〜」だって?

あ、来た!駄目だこりゃ。自分がやってる事だけが正しくて他の事は間違いで、自分だけが知っているのはあまりに勿体無いから皆さんにもお教えしますよ、なにせあなたたちはまだこのような素晴らしい奇跡とのめぐり合いを知らない不幸な人々なんだからって言ってる。これって新興宗教の常套手段じゃんか!

だ〜から「ホメオパシーって代替医療手段もありますよ。大体医療ですから大体治りますが治らない事もあります。医者も証明しているように毒性はありませんので、効果がなければ”高い砂糖水を飲んだものだ”とお考え下さい」くらいに軽く提案しておけば先発の医療チームとも話し合いの余地もあるだろうに。

学会側にもおかしな話は山積みである。

学術学会が「科学的に証明されてない単なる砂糖水」とか「科学的に効能が否定されている」とか言うんだったら、その科学が進歩するたびに過去の科学の結果を否定していくわけで、だったら現在の自分によって否定された過去の「科学的事実」にどれほど信憑性があるのか。

「あの時点では真実と思ってました」なんて言い訳されたって、「あの時点」でさえ事実でなかったにも関わらず科学的事実として他の事実を否定してたんだから、その責任は重いよね。てか今回のホメオパシーをここまで否定する事自体、科学の進歩を阻害しているとも言えるよね。

ホメオパシーがどのようなものであれ、一つの仮説として取り扱って検討すべきなのは科学者のあるべき姿である。

そしてそれは、祈れば治るのであれば、何故祈る事で治る例があるのか、何故マリアの水を飲むと病気が治るのか、まさに科学者が挑戦すべき分野であり、それが人間の精神と肉体を結びつける事になる。

寓話がある。哲学者や科学者が一生懸命勉強して人間と言う高い山の頂上にやっと辿りついたら、そこではすでに一服している神学者がいて「よお、遅かったな」。

幽体離脱であれ実際に経験している人がいるのでありそれを頭から「あり得ん」と否定するんだから、こりゃもうどうしようもないとは思う。

けれど、けれどホメオパシー側も、こういう傲慢な態度であれば絶対に納得出来ない。てか、ホメオパシーと言う考え方は代替治療のひとつとして捉えていき、これで効果が出る人は使用していけば良いだけの事で、考え方そのものは何の問題もなくきちんとした話である。

外科手術はやっぱり西洋型の方が効果ありそうだし、漢方には体を内側から治す長年の実績があるし、その意味で人間の肉体と魂を健康に保つ為にはいろんな治療方法があって良いと思う。

何で大のおとなが相手の言う事を完全否定するだけで相手の意見を聞こうとも認めようともせずにここまでぎゃーすかやらかすかな、これじゃ電車の中で子供が腰の曲がったおばあちゃんを押しのけてシートに坐って暴れてても騒いでも文句は言えませんぜ。

ここでホメオパシー側から出た抗議文を見つけた。

各位様

最近、当社に対する誹謗・中傷など、一部で虚偽の情報が流されており、巧みに当社の信用を失墜する活動が見受けられます。皆様方に於かれましては充分ご注意いただきたくお願い申し上げます。
不審に思われた際、もしくはご不明点などございましたら、お名前、ご連絡先を明らかにして頂き、当社の相談窓口までご連絡下さい。
以上
ホメオパシージャパン株式会社
コーポレート コミュニケーション室
TEL:03-5779-6420

それからこんなのも見つけた。

ホメオパシーが病気を根本から治すことができて 副作用やアレルギーもなく健康にしているのなら とっくの昔に西洋医学を押しのけて立派な医療の主流派になっているw
幕末から明治にかけて西洋医学が日本の主流派になった過程を調べてみたら 人々に受け入れられるためには何が必要かわかるよ 少なくとも「我々は万能だ!」「誹謗中傷だ!」と 叫び続けることじゃないのは確か

写真は今日のスカイタワー。快晴です、とか書いてたら雨が降り出した。


tom_eastwind at 15:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月24日

愛は美しき誤解である

「愛は美しき誤解である。結婚は悲惨な理解である」
現実生活をよく言い表した表現だと思う。

NZdaisukiにはほぼ定期的に誰かが離婚問題を書き込んでいる。
http://www.nzdaisuki.com/bbs/

このような書き込みの場合、殆どはキーウィ男性と日本人女性だ。そして殆どの場合は
1・旦那が仕事をしない。
2・旦那の生活態度がデタラメ。
3・旦那が子供の面倒を見ない。
などなど。

小説で言えば「起承転結」の起の部分では、旦那に対する様々な愚痴が書き込まれて、承の部分では“だから旦那と別れようと思う”とか“別居して日本に帰りたい”が来る。

転の部分では“けれど実際に別れるとなったら親権の問題はどうなるのか?”とか“実際に離婚をするにはどのような手続きが必要か”などの質問編が来る。

そして最後には結の部分で“皆さんアドバイス有難う御座います、ゆっくり考えてみます”となる。

元々国際結婚は離婚率が高い。ぼくの記憶では10年以内に離婚するのが80%くらいだったと覚えている。どこの資料だかは忘れたが、このような書き込みや周囲の人の話を聞くと、確かに統計的にも合ってるなという感じだ。

国際結婚の離婚率が高い理由はいくつかある。
1・お互いに相手の言葉が話せない。
(それでケッコンするんか!と言う突っ込みは無しね)
2・お互いに相手の文化を理解しようとしない。
(どちらの国に住むにせよ、だ)
3・お互いに自分の問題の原因が相手だと思ってる。

まあこの程度は国内ケッコン?でも同じだ。同じ日本人同士なのに価値観が全然違ってて会話不能な夫婦はよく見かけるし、都会の奥さんと田舎の旦那の文化の違い、なんてのもある。生活費が不足しているのは相手が悪いのだとお互いを日本語で罵る家庭もある。

国内結婚の場合はお互いの家族や親類の面子とかがあるから、本人同士が冷え切ってても周囲が離婚を許さないなんて部族問題がある。

特に田舎では、都会に出た娘が離婚したなんて言ったら、恥ずかしくて実家の敷居をまたがせない、なんてのもある。

それに日本で生活していれば不満を爆発させる場所はいくらでもある。男であれば仕事仲間に「何でおれはこんなに家庭の為に夜遅くまで頑張ってるのに妻は分かってくれないんだ」と、一般的日本人男性であれば100人のうち90人以上が一度は使うセリフをこぼしたり、飲みに行って寂しそうにしてれば話しかけてくれる女の子はいくらでもいる。

女であれば実家の母親に電話したり学生時代の友達と食事に行ったり、それなりに対応も可能だ。子供がいれば子供の友達の親と「うちの“やどろく”(やどかりみたいなろくでなし」がさ〜」とか一般的日本人女性なら99%腹の中では考えている事を89%くらいの人が実際に口に出しながらママ友同士で息抜きしている。

要するに日本であれば逃げる場所がいくらでもあるからどうにかなる。けれど海外では逃げる場所もない。とくにニュージーランドのような田舎であれば、自分の住む町に日本人は私一人だけみたいな環境もある。だから思いっきりストレスがたまるのだ。

大草原の小さな家が素敵なのはテレビの画面の中だけだ。実際に朝起きて家の回りは牛や羊のくそに囲まれてみろって感じだろう。

ご主人の友達のBBQに呼ばれても英会話が出来ないしNZの知識もないからついていけないし日本の文化を知らないから自分から話す内容さえない。ないない尽くしのBBQパーティが面白いわけもなく、ますます面白くない。

けどそんな奥さんの気持ちを旦那は分かろうとしないどころか、「この街はぼくの故郷だ、何故君はこの街に馴染めないんだ、ぼくを嫌いなのか?ぼくとこの故郷を何故分かろうとしないんだ!」と怒り出す。

そんな環境で日本の親に電話すれば「帰ってきなさい」である。親からすれば元々国際結婚なんて出来る柄じゃないのに一時の勘違いに走ってしまった娘だから当然「いいさ、もう一度日本でやり直そうよ、お父さんもお母さんも一緒だからね」と優しくされる。

つまり日本人女性とキーウィ男性の国際結婚は社会や両親からすれば「あまり望まれない結婚」であり別れやすい、離婚を疎外する要素がないって言う状況なのだ。

だから国内ケッコンよりも自然と離婚率が高くなるわけで、ところが結婚しようとする本人は自分だけは統計の罠から逃れる事が出来る、上位20%に入れると思っている。

そりゃ確かに上位20%に入れる人はいる。

例えば旦那が日本で頑張って仕事をしててある程度は日本語が話せて日本の習慣を理解しており日本で知り合い、妻となる人も英語がある程度話せて、てかガイジンとの意思疎通能力があり旦那の生まれ育った町に感謝出来て、お互いに働く事が苦にならずに二人で目標を持って前進していこう、恋人同士や夫婦というよりはまるで戦友みたいな感覚で一緒に生活出来る、そういう感じの夫婦である。

実際に僕の知り合いでも国際結婚で今も幸せに過ごしている夫婦はたくさんいる。何よりも良いのは、そのようなご夫婦は周囲の日本人とキーウィの橋渡しになっているって事だ。

中には離婚はしてないものの奥さんが性格化け物、つまりキーウィのルーズさと日本人の悪いところ、つまり無責任さだけを身に付けて、何かあればアジア人を見下してみたいになり周囲の人間から全く相手にされなくなっている夫婦もある。ありゃひどい。

いずれにしても国際結婚、決して簡単ではない。恋人でいる間は楽しいのだから、そのまま素晴らしい思い出にして日本に帰るって選択肢もあるだろう。

キーウィは一般的に我慢強くはない。結婚に不満があればすぐに離婚する。法律だって日本のような有責主義ではなく破綻主義だから簡単に別れられる。

だから彼をNZに残して帰国し、その後に相手が日本まで追いかけてきて、よし、君のために日本で生活をしてやろうじゃないか、君の生まれた街で君の話す言葉を勉強するよ、仕事も一生懸命働くよ、そんな持続する精神的強さを持ったキーウィであるば、その時にゆっくりと結婚を考えても良いのではないだろうか。


tom_eastwind at 09:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月23日

Heavy Rain / Fine~pi-kan / Cloudy / Heavy Rain

Heavy Rain
今のシーズンは冬の終わりの不安定な天気で、天気予報では「今日は大雨のち晴れ、その後曇ってすぐ大雨、そして晴れ、夜は大雨です」となる。

とにかく数十分単位で天気が変化するのだが、今朝などは7時30分頃に突然空が真っ暗になったかと思うと叩きつけるような猛烈な豪雨が降り始め、それまでケロロ軍曹を見ながら朝ごはんを食べてた竜馬君が突然顔を上げて嬉しそうに「お父さん、今日は学校はなしだ!流れたぞ!ぎゃははは!」と一人で喜んでたくらいだ。

雨が降るとインターネットの繋がりが悪くなる。昔からそうだ。ぼくの場合は自宅では無線LAN、会社では無線と有線を使っているが、無線についてはスカイタワーから電波を飛ばしている。

オークランドで雨が降ると恐らくその雨粒がスカイタワーから発信されている電波を叩き落しているのだろうな、だとするとたまにうまく繋がった時は大雨の攻撃をかわしながらグレンフィールドまでやって来た優秀な兵隊である(笑)。

もちろんITの専門家にこんな話をするとせせら笑いながら「オマエ、ばか?」と叩き落される。けど、雨が降るとインターネットの繋がりが悪くなるのは事実なので、雨粒が電波を撃墜しているって勝手に思い込むことにしている。

それにしても昨日洗車しておいて良かったな、そう思いながら車を出すとどの車もヘッドライトを付けて徐行運転している。

写真は朝8時半のノースショアの交通渋滞。こんなもん、どこが渋滞か?と思われるかもしれませんが、オークランドではこれで充分に渋滞です。それにしてもまるで夕方のような暗さだし車のヘッドライトがどこまでも続いている。

けど写真の右側後方を良く見てもらえばちょっとした桜の並木が見えて、もうすぐ春なんだなって感じ。

夏に向けて少しづつ政府も動き始めたのか、またも移民法改正の話が出ている。ニュージーランドは移住したい国のベスト5に入ってるのに実際に移住する人は少ない。その原因を政府は(遅まきながら)移住のルールの厳しさにあると感じたようだ。

年間で300名の投資家枠を作ってもなかなか埋まらない。仕方ないのでANZと政府の投資委員会がアジア向けにセミナーを開催していくって話も出ている。

けどな〜、アジア人の事を知らないキーウィがいくらセミナーをやってもアジア人の要求するポイントが理解出来ないから参加者もセミナーに魅力を感じなくなるのは事実。

移民局にもアジア人スタッフがいるが、彼らも現在はあまり発言権もないし、キーウィ自体もアジア人を欲しいけど、どうやって選別したらいいか分からない。

まだ誰も実績がない状態なので、次にどう動いて良いか分からないのが現状。下手に動いて訳の分からん連中がどばーっと入ってこられても困る、そんな「総すくみ」の状態が続いている。

ところが最近はシンガポール等が積極的に投資移民受け入れを行っており、投資金額や条件を緩和しているので、そうなるとアジアの資産家は自然とシンガポールに視線が行ってしまう。

他の国でも優秀な人々は自国に取り込みたいわけであり、それぞれの国が優秀な人種確保政策に動いている。

IT能力の高い人を集めてIT国家戦略を打ち出している国、金融のプロを集めて金融立国を目指している国、学者を優遇する国、その中でニュージーランドの位置付けは「大自然のある国」だけなので、ちょっと弱いかも。

日本のような便利なコンビニはないし電車も少ない上に時間通りに来ない。バスは道を間違えるし、住んでみると不満を感じる人も多い。最初から田舎狙いで来た人にはばっちりだけど、何か違うものを期待して来た人には物足りないだろう。

なのに永住権取得となったら技能移民枠で英語力でIELTS6.5(英検1級以上)を要求されるし殆どの現地でのジョブオファーも必要だ。投資家部門が緩和されて英語能力が下げられたとは言え、それでも他国から比べれば「何でそんな事を聞くのよ?」と思うような的外れの質問が出てくるのが多い。

例えば夫婦の証明を出せと言われて戸籍謄本を提出したら、「これじゃ駄目だ、夫婦で一緒に写った写真や手紙のやり取り、ガスや電気の共同名義、銀行の共同名義など公的機関の書類も提出しろだって。

おいおい、日本の戸籍謄本はおそらくニュージーランドのどのような公的機関よりもしっかりと記録を作ってますよ。逆に日本じゃ銀行口座の共同名義をする習慣は一般的ではない。

つまり現在の永住権申請のルールはニュージーランドだけが持つ考え方と予防方法でルールを作ってるけど、それは日本人に対しては現実的ではないと言う現実だ。

今回のルール変更がどのような形になるのか未定だが、投資家枠の変更が中心になりそうだ。

良い国ではあるんだけどな〜、こういうところ、他国との競争とか他国の常識を理解するとか、そのあたりまで踏み込んだ移民政策なら、移住したい国ベスト5の実績通りの優秀な移住者が集まると思うんだけどな。


tom_eastwind at 15:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月22日

蝉ファイナル

13585498.jpgずっと雨の続く冬のオークランド、今日は久しぶりに午後から晴れたので洗車場で奥さんと二人で車を洗ってきました。手洗いなので良い運動と何気ないおしゃべり。

僕の頭の中には自動翻訳機が入ってて、英語を聞いてるとそのまま日本語になったり、その反対だったりする。

タイガーホース。日本語でトラウマと習っているがトラウマは元々英語なのでこのトラウマを日本語にするとタイガーホース、かなって思ってしまう。

ラグビーの試合で準決勝の事をセミファイナルと言うが、どれだけ聞いても蝉ファイナルに聞こえる。

暑い真夏の後半には、暑いざんしょ、なんて下らん駄洒落もある。

洋の東西を問わずにジョークと言うのはあるわけで、オーストラリアではブラックジョークがよく飛び交っている。

シドニーからオークランドに出張に来たビジネスマンに挨拶の積りで ”How is Sydney ?“と聞くと、“Ummm、Still there…”なんて返事が返ってきたりする。(シドニーはどうだった?と聞いたら、”うむむ、まだあるよ“と返事された)

ある時などニュージーランドのお札を取り出したオージーが、5ドル札はヒラリー卿、10ドル札は男の敵、20ドル札はお互い様のエリザベスだけど、うちのお札の笑い顔の方がいいな、でもって最後に100ドル札を出すとびっくりしたような顔で”OH! Saddam Hussein !!”とやって、ガハハと大声で笑ってくれる。

100ドル札に出てる人はニュージーランド出身の物理学者で原子物理学の父と呼ばれ、1908年にノーベル化学賞を受賞したアーネスト・ラザフォードであるが、確かにフセインにも似てる。

ちなみに10ドル札はケイトシェパード、1893年に世界で初めて女性の参政権を主張して署名運動を行い、リチャード・セドン政権時代に遂に参政権を勝ち取った。

もひとつちなみに参政権の裏話を書くと、リチャード・セドン首相は歴代首相の中でもベスト3に入る優秀で有名な首相であったが、彼も実は「女は台所に入ってろ」派閥であった。

ところがうざいケイト・シェパードと言えど3万人の署名を集めてしまったからには無視するわけにはいかない。

まあいいや、国会で議論するにしても議員は全員男だから、こんな女性の参政権などすぐ否決だろ、くらいに軽く考えていた様子だ。

ところが実際に国会で議論した後に投票すると、やすやすと女性参政権が世界で初めて可決されて法律となった。

後で賛成した連中に「何でだよ?」と話を聞いたところ、前の晩に自宅で奥さんに「あんた、賛成しないと明日から自分で料理と洗濯よ、その勇気ある?」って脅されたそうだ。


冬の晴れ間に奥さんと二人で冗談を言いながらふたりでごしごし車を洗って、日本語のジョークや英語のジョーク、中国語のジョーク、お互いにネイティブでない英語では、これ、何が面白いのかなとか、そんな、何でもない一日を過ごす。

写真はケイトシェパードです。




tom_eastwind at 19:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2010年08月21日

21世紀の靴磨き

オフィスの椅子に座って時々靴を磨いてる。特に今の時期は突然の雨が降ったりして靴が汚れやすい。そうしながらふと、「あれ?20世紀の時代は靴って自宅で磨くものだったよな」と思い出した。

♪男は明日履くためだけの靴を磨く♪なんて歌もあったな。仕事が終わり一人寂しくアパートに帰り、明日の為に疲れた体でくたびれた靴を磨いている光景。

あれは伊勢正三だ、かぐや姫のメンバーで、なごり雪とか22歳の別れで有名である。

そう言えば爪を切るのも自宅だったな〜。会社で靴磨いたり爪切ってたりしたら怒られるような時代の雰囲気だったな。てか、オフィスで爪を切ってるような社員がいればその会社を危ないと思えなんて習った事もある。

しかしニュージーランドに移住してきてクイーンズタウンの街で生活を始めると、次第にその感覚がずれ始めた。

1980年代のクイーンズタウンでは、普通のオフィスに働く普通のオフィスワーカーが営業時間の最中に、近くの港町ブラフから漁師が売りに来て「ブラフオイスターだよ〜」って街をトラックで流していると、あっという間に皆がオフィスから出てきて「おれに1ダースくれよ」ってその場で買ってオフィスに持ち帰る。

まるで石焼芋に釣られて出てくる団地の主婦みたいなものだが、何せ営業時間中ですぜ、おまけにオイスターと来れば自動的にオフィスの冷蔵庫からビールとワインが出てくる!

それまで日本の常識で仕事をした僕からすればあっけに取られる場面ではあるが、ぼくは仲間との親睦を大事にしているので臨時オイスターバーには常に参加していたものでした(笑)。

当時はまだ社会主義時代の風潮が残っており、計画経済で決められた量の仕事をすれば後は適当に「上がって」良いような感じであった。

今も似たような風潮はあり、地元企業でも金曜日の午後になるとビールを冷蔵庫から引っ張り出してきたりしている。

金曜日の昼過ぎに地元の銀行を訪問した時など、こっちがしかめっ面で会議していると隣の大会議室で大声で笑い声が聞こえて、どう見てもパーティ。あとで聞いたらやっぱりパーティだったそうで、その時は仲間の退職パーティだったそうだが、大体毎週何かの理由を付けてどこかの部署が集まってどんちゃんと言うのは一般的である。

じゃあだらけて働いているのかと言うと、これはそうでもない。普段はきちんと真面目に働いているのだけど、人生を楽しむ事と仕事を比較すれば、確実に人生を楽しむ事を優先している社会構造があるから、こういうオイスターバーが許容される文化になるのだ。

確かに、働く事の目的を生活の糧を稼ぐ事と考えればお金は手段であり生活を楽しむのが目的だから、どっちを取るのよとなれば生活である。

ただそこには、会社を辞めても生活に困らない社会保障があるし転職は「気分転換」みたいなもので普通の事だから誰も気にしないと言う仕組みがあるから出来ることである。

こんな事日本でやってたらとっくの昔に首になるだろうが、これもまさに文化の違いとしかいいようがない。

最近の日本の会社事情はどうなのだろう、平日の昼間に酒を飲めないのは変わってないだろうが(笑)、靴を磨いたりとか爪を切ったりってのは、アリなのかな。

両方の文化の狭間にあってぼくは、平日はスーツを着てオフィスで仕事をしながら、時々気分転換に靴を磨いているのだから日本とNZの合作みたいなものか。


tom_eastwind at 18:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月20日

詐欺師からでもカネを取る方法

詐欺師からでもカネを取る方法とは、元々は英国で消費税を導入する時に使われた表現と聞いているが語源は正確ではない。しかしその意味は非常に明確だ。

消費税だけはどんなに逃れようと思っても逃れようがない税金である。どっかの詐欺師が政府相手に大儲けして税金払わずに銀座に飲みに出る。けどその店で100万円遣ってくれれば5万円が税金だ。

ニュージーランドは今年中に消費税が12.5%から15%に上がる。同時に所得税の減税を行うのだが、その目的は出来るだけ働いた方がお金になりますよ、失業保険は本当に困った人の為の仕組みですよっていう、国からのメッセージだ。

そして今朝のニュースでは、社会福祉の一つである家族手当について、6歳の子供が学校に行くようになったらシングルマザーでもパートタイムの仕事を探すように促す法律が出来た。

これはつまり、今までは子供がいてシングルマザーなら全然働かなくても生きていけるだけの手当てを貰ってたしこれからも仕事がないお母さんに手当てを出すけど、社会に参加しているんだから出来るだけの事はしようねって意味だ。

ニュージーランドのセーフティネットが整備されているのは何度も書いたが、逆にあまりに整備され過ぎて、わざと働かないで政府からカネ盗ってベンツに乗ってるようなある特定の人々が増えてきたのも事実である。そしてそのような状況は一般的な勤労キーウィからすれば、どうなのかと言う疑問も増えていた。

なので今回の世界不況を利用して政府が今までの性善説に基づいた制度に付けこむ連中を合法的に排除する方向で少し見直していこうと言う、機会を捉えて選んだ政策である。

これが3年前ならグリーンパーティ(麻薬の合法化したり人間を草葉の陰で生活させたい人たちの集まり)あたりから反対も出ただろうが、現在の失業率の状況なら押し切れる、政府もそう判断したのだろう。Nice Judge,である。

ニュージーランドは来れば誰もが幸せになれるシャングリラではない。真面目に働く人がきちんと対価を受け取る事が出来るだけの国だ。その点だけは理解してもらいたい、そう、そこを歩くxx人、君の事ですよ。


tom_eastwind at 14:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月19日

議員の報酬

鹿児島県の阿久根市では、竹原市長と議会及び労働組合の反対派の間で市政が注目されている。名古屋市でも同じように河村市長と反対派の間でリコール問題が起こっている。

その渦中で仙波敏郎さんという元警察官、愛媛県警察試験を満点で合格し、採用後最初の試験でもトップの成績を収め、同僚の中で最も早く昇進しながら、上司に要求された裏金作りを一切拒否してその後一切の昇進もなく、しかし真面目に警察の職務を実行して何度も表彰を受け、裏金作りが問題になった時には警察組織全体が関わっていた事を証言し、信念を貫いて警察を定年退職した人が阿久根市の副市長になったのはつい最近のことである。

仙波敏郎副市長のインタビューの一部を抜粋する。

★抜粋開始
―無給というのは、最初の約束で決められていたのですか。
仙波 そうです。最初は「専決でゼロ(無給)にしてください」と頼んだんですが、それでは今の規定を考えると寄付という違法行為になる、と彼(竹原市長)が言ったので、ひとまず給料の金額を下げることで話をつけてもらいました。それから、残った金額を供託することにしました。供託金というものは、取りに行かなければ国のものになります。もし、私が仕事をしたことに対して、市民の皆さんが「これなら仙波にも4割カットの給料を払ってもいい」と言ってくれたときには、供託しているお金については考えますが、何の仕事もしていない、何の結果も出していない状態では、私は給料なんて受け取ることはできません。
 ―竹原市長も自らの給料を4割カットしていますが、これについてはどう思っていますか。
仙波 私は、彼(竹原市長)が自らの肉を切り血を流すような人でなければ、ここには来ていなかったと思います。彼の手段は少し強硬すぎる部分もありますが、私は彼が素晴らしいことをしていると考えています。どれだけ、自分が公益のために頑張れるか。大切なことは、公益というものに対して、自分なりのポリシーを持てるかどうか、です。
★ 抜粋終了

この、公益という言葉を公務に就いている人はどの程度理解しているのだろうか。

ニュージーランドではどのレベルの議員でも基本的にはボランティアの延長である。市民社会の中で市民同士の利害関係の調整を行い、公益の為に橋や道路を作り社会保障制度を作る、その際において決定権を持つ議員は民間人が一時的に公益の為に働くと言う発想が強く、日本のような二世議員や地盤看板カバンなどと言う馴れ合いもない。

日本は政治を利益誘導のための手段として田舎のおらがむらから馴れ合いの延長で選出された二世国会議員がおらがむらの利益を得るために国会で偉そうに理屈を並べて最終的におらがむらに新幹線駅を作ったりダムを作ったりの公共事業を獲得して、おらがむらの一部の有力者連中で利益をむさぼる利権構造が出来上がっていた。

それはおらがむらの自己努力を怠ることになり、結果的に今日本中のおらがむらは公共事業もなく成長する方策も思いつかず息絶え絶えになりながら、またも政府からカネをかすめようとしている。つまり真面目に働いてきちんと納税している普通の国民の税金を使って穴埋めさせようとしているのだ。

茨城県では住宅供給公社が400億円の負債超過で倒産、その穴埋めを地方債「第三セクター等改革推進債」の発行、つまり県の借金、つまり県民の税金で賄おうとしている。この地方債、もしかしてその半分くらいは国から交付金が出るような債券じゃないだろうな。

全くどこまでいっても全体を見ることが出来ないおらがむらのばか者どもが馬鹿なことをやってる真っ最中である。こんなんでよくも茨城県民はクーデターを起こさないものだ、少なくとも国家賠償請求くらい裁判に持ち込む人はいないのか、けどまあ、そんな事やっても今の日本では勝ち目もないだろう、全くどうしようもないだろうと思ってた。

けど、名古屋の河村市長にしても阿久根の竹原市長にしても、やっとこういうまともに公益を考える人々が政治家として出てきたのは嬉しい限りである。

何よりも、名古屋では議員の年収を下げようだとか、自分たちの給与はゼロで良いと堂々と言える阿久根の仙波副市長のような活動が本来あるべき議員の姿である。

議員とは本来は市民の中から選ばれて一時的に社会の方向性を決めたり利害調整をするのが仕事であり、それは民意を反映するものでなければならないし、その仕事で利益を得るようになってはおしまいだ。

議員の報酬とは、市民からの賞賛と尊敬である。

その意味で議員が無給なのも、ありだと思う。もちろん日常生活の糧がなくなると困る人が議員をするなら、彼が民間で働いていた時と同額の給料を保証すると言う方法もあるだろう。

ただ、少なくとも議員個人の利益やおらがむらだけの利益を考えれるようなやからの集まりだけは全くあり得ないし許せない。

市役所の仕事は公務である。彼らの仕事は市民から選ばれた議員が決定した事を実行する部隊であり、または議員が方向性を考えるときに専門家として様々な選択肢を提案するのが仕事である。

つまり彼らの給料は市民から出ているのだから、市民が役所に来れば「いらっしゃいませ株主様」が本筋であろう。

ところが役所は自分たちが許認可権限を握ってあふぉ議員やおらがむらの一部有力者と組むことでいつの間にか市民の上に立つ「岡っ引き」みたな、虎の意を借りる狐のような真似をして恥ずかしいとも思ってない。

今回の仙波副市長の就任で竹原市長の独裁が少し収まるのではないかなどと言う話も出ているが、竹原市長にしろ仙波副市長にしろ公益を考えて平静心で仕事をしているだけだ。どっちが勝つとか負けるとかではなく公益に合ったものを遂行するだけだ。

問題は既得権益にしがみ付きおらだけが良ければと考えている役人や労働組合であるのは明白だ。

早い時期に日本全体で議員報酬の半減とか議員数自体の半減を本気で実行しなければ、国民はますますやる気をなくして国そのものが衰退していくのは間違いない。

やるかやらないかではない。いずれ国家が破綻したらやるしかない議員報酬削減と議員数半減である。ならばまだ国家の体力があるうちに、早めにやるべきなのは普通の脳みそであれば分かることだろう。

まあおらがむらの議員が朝から酔っ払って車をコンビニに突っ込ませるような痴呆議会だと、この程度の理解力もないままに集団自殺に向って走っていくのかもしれない。


tom_eastwind at 14:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月18日

インサイダー

松本徹三という人がいる。ソフトバンクモバイルの副社長であり通信業界で長く働いている人だ。今はシムロック問題で矢面に立たされているが、彼なりに自分のブログできちんと説明を行っている。

シムロックについてはソフトバンクの立場は明快で、これは元々Iphoneを独占販売する事を前提に安い料金体系を作っており、今になってIphoneでシムロックは外せというのは、ルールに従って商売をやってたら後追いでゲームのルールを変えられたようなものだとの主張である。

ならばシムロックを解除する時点でNTTやソフトバンクが料金体系を変更して競争すれば良いという条件交渉になるのだろうが、まあこれは本題ではないのでご興味のある方は彼のコメントを読んで欲しい。

そして最近は「光の道」論争が続いているが、彼なりに目に見えない一般大衆を相手に毎日自分の意見と会社の意見を書き込んでいる。「ビジネスの当事者は国家レベルの議論をしてはいけないのか?」と言う、当然なのだが普通の日本人には分かりにくい意見を展開してて、これも参考になる。

http://agora-web.jp/archives/1075601.html

ぼくが面白く読んだのは、その中でも直接議論には関係のない下記の下りである。

★抜粋開始
もう一つ、私がいつも気になっていることがあります。世の中の批評家やジャーナリストの方々は、実業に携わっている我々と異なり、書くことが仕事であり、マスコミや出版社に取り上げてもらわなければなりませんから、どうしても一般の読者が面白がるような筋書きに持っていこうとする傾向があるようです。「日本はかくあるべき」等といった大上段に振りかぶった議論をするには、相当の力と時間を要しますが、世の中の物事を動かしている「裏の事情」や「陰謀説」に類する話なら、或る程度の取材だけでも書けるし、読者の安直な興味を引くので、出版社にも取り上げて貰いやすいからでしょう。

しかし、私のような「本当のインサーダー」から見ると、こういう記事の浅薄さには「やれやれ、またか」という思いが募るばかりです。また、この方々が考える企業のリーダーというものも、どちらかと言えばステレオタイプになりがちです。

企業家は、勿論、企業の存続と発展の為に毎日仕事をしているのですが、その前に、やはり一人の人間なのです。「功利主義」は事業の存続の為には必要となりますが、事業を推進しようとする情熱の原動力にはなり得ません。サラリーマン経営者の場合は話が別ですが、創業者型の経営者の場合は、その事業に対する情熱は、しばしば「主義主張」、「人生観」や「国家(社会)観」、或いは、もっと単純な「正義感」や「自己顕示欲」等から生まれていることが多いのです。
★抜粋終了

これは孫正義社長についてのくだりであるが、まさにこれは僕もいつも感じることである。

ニュージーランドは情報が不足しているのでインターネットや雑誌で調べるのが普通であるが、そこに散らばっている情報を見ると、まさに話を面白おかしくする為に目先の情報源不明なネタを使って嘘を書いたりしているって事がよくある。

旅行会社が発行しているガイドブックにはずいぶん調子の良い事を書いているが、おいおい君、これは今月号と書いているけど、取材は3年前の記事をそのまま使っているよね?と、もろばれなケースがよくある。

とくにレストラン紹介などは、すでにオーナーが変わって経営方針もメニューも変わっているのに、あいも変わらず昔のデータをそのまま掲載したりとかだ。

これがレストラン情報程度であればまだ良いのだが、情報誌によっては移住に関する情報で平気で嘘を掲載する。てか取材発行された3年前は正しくても現在はすでにルールが変わっているので結果的に虚偽掲載となっている。

ところが読者はそんな事知らないから、今月発行された雑誌であれば最新情報であろうと思い込んで自分なりの移住計画を立てようとする。

おいいおおい、そっちは崖ですよ、まさしく大声で言いたくなるのだが、どこで読者が読んでいるのか分からないのでどうしようもない、間違った情報のままニュージーランドにやって来て「あれ?」となっても、もう遅いのだ。

不動産情報にしても、「ええ?あの人がこんな事、今でも言ってるの?それ、やばいっしょ」的な情報を見かける。まさに、“オマエが言うか!”だ。

ニュージーランドの不動産業者は基本的に「売ってなんぼ」である。だからどんな問題物件でも平気で売る。てか問題物件かどうかさえ考えてもいない。

壁の水漏れ、ひび割れ、屋根からの水漏れ、シャワーの水圧、部屋の中の傷や壊れたままのドア、そんなもん知った事か、サインさせればこっちの勝ちとばかりに言いたい放題アリもしない事をいう。

何でこんな事がまかり通るのかと言うと、不動産業者というのは例えば移住したばかりで“他に仕事がない人々”やオークランドに出てきたキーウィが自分の納得いく仕事が見つかるまでの腰掛で、業界外から歩合給目当てに集まってきてある程度稼いだらすぐに辞めて全然違う業界にいく、つまり同じ街で何十年もやっている地域の名士という立場がない、単なる渡り鳥的な業界だからだ。

実際に当社へは駆け込み寺的にやってくる人が多い。「あの、不動産を地元業者に買わされたんですけど、買ってすぐにアパート全体が水漏れで全面造り替えが必要、その費用はオーナーが全額負担って言われてるんですけど、どうすればいいでしょう?」

どうしようもない、相手を信用して買ってしまったら、サインをしてしまえばもう終わりだ。払った金を諦めてアパートを放棄するか、建て直しのお金全額を負担するかである。

売ってしまった当の不動産屋は見事なまでに「知らぬ存ぜぬ、おれの責任ではないよ、サインしたのはアンタでしょ」である。

こんな、移住情報や不動産情報を掲載する人は自分の商売さえ成立すれば良いのだろうが、ぼくらのように現地でこれから何十年もお付き合いをしていく立場からしたら、そんな「やりっぱなし」など出来るわけがない。

実際に駆け込み寺として来られてからお付き合いしているお客様でも10年近くになるのだ。何せしょっちゅう顔を見かけて話をしたりメールしたりするのだ。ビザ情報が古かったです、不動産情報が間違ってました、で済むわけがない。

ぼくはブログの松本さんの書く、まさに「インサイダー」である。それもニュージーランドに関する情報がどっぷりと集まるど真ん中にいる立場にいる。

だから内容の薄い書き込みを見てもすぐに「あ、これはあそこのネタだな」とか「ここの事を書いてるな」って見当がつく。

なので数年前までは誰かの書き込みで間違いがあれば指摘したりとかしてたのだが、そうすると今度は「オマエはインサイダーだ業者だ、自分の都合のいいことだけ書くようなオマエに書き込みをする権利はない」みたいな話になって、全く無責任な立場で思いつきだけで書いてる立場の人に掲示板が立って話が勝手に進んでいく。

全くもう、ああ、もういいや、そう思うようになって今では直接僕に影響がない限り、間違った情報や面白おかしく書かれている記事やコンテンツを見ても何も言わないようにしている。

ぼくはニュージーランドに5万人の日本人社会を作ってヴァーチャルな形で共同体が出来上がれば良いと本気で思っている。現在日本でいろんな問題を抱えている人も、人はどこでも自由に住むことが出来ると言う事実に気付いてくれればそれで良いと思っている。

「オマエはインサイダーであり顧客誘導しているだけだろうが」と本気で思っている人がいるとすれば、じゃあ逆に聞きたい。「ぼくはそのような人とオークランドと言う狭い街でこれからも何十年も一緒に生活をするんですよ、そんな事出来ると思いますか?」

ぼくが皆さんにご案内するのは、正確で最新の情報を提供する事である。いずれにしてもインサイダー、まさに今の自分だなってつくづく思った。



tom_eastwind at 14:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月17日

雪山にて

7cbdde0f.jpg日本人が集まる掲示板にNZdaisukiがあるのはご存知だろう。以前そこで書かれていたことが、「スーパーの中で親が万引きして子供に牛乳を飲ませている!あり得ない」みたいな内容だった。

何のことはない、こちらではスーパーで買い物をしたら子供などがそれをすぐ欲しがった場合そのままあげる、そして空になったカンやパックでレジを通してお金を払うのだ。

そのような行動をする人は実は一種の性善主義者にNZと言う地域性が乗っかっていると思えば良い。

彼らの頭の中に人のものを泥棒するなんて発想は全くない。実際この国では以前は、誰かが駐車している車に自分の車をぶつけると、相手の車にメモか名刺を挟んで「ごめんね、連絡下さい」とやっていたのだ。

当然である、他人の車をぶつけたのだから責任を取るべきだ、当て逃げなんてあり得ない、そういう時代がニュージーランドにあった。

スーパーでもそうであり、誰かのものを勝手に盗むなんてあり得ない、だからこそ逆に、普通に棚のものを手にとって食べながらレジに行ってお金を払うと言う発想になるのだ。

日本ではスーパーのレジを通す前に食べてしまったら食い逃げの可能性があるから食わせない。つまり人間性悪説である。

要するに自分を正しいと思ってる日本人のうち多くは、実は人間性悪説に立って正しいだけで、違う価値観の下では“人を疑いの眼でしか見ない”人物と言うことになるのだ。いや〜、そうじゃないと日本では生きていけないでしょって言うなら正しいという言葉には色んな価値観があると知ってもらいたい。

もちろんなかには本当に泥棒をする人もいるだろう。けど一般的にスーパーの中で堂々と食べている人はそのような人ではない。

このあたり、この国の構造は本当に日本と根本的に違う。それは歴史と宗教とこの国を創った人々の思想の組み合わせで出来上がったものであるが、
1・この国が建国された1840年代(当時のロンドンの社会状況や戦火に明け暮れる東欧そして食料飢饉に何度も襲われたアイルランド)という歴史的位置付け。
2・人は嘘をつかないと言う宗教の真面目さ。他人に見られなくても常に神が見ているから心に手を当てて悪いと思うことはするなって発想。
3・当時の政治家及び国民全体の合意である、労働者の天国を作る。つまりすべての人が機会においても結果においても平等であるべきだしお金持ちが特権階級を作るのを認めない。


このような色んな要素が混ざっているのだが、話はスーパーからスキー場に飛ぶ。

写真の家族の手元をよく見ていただくと分かるが、彼らは週末のスキー場のレストランの日当たりの良いゲレンデ真下の最高の席で、テーブルの上に自宅で作ったスコーン、パイなどの食べ物をピクニックのように広げて、子供は親から受け取ったソースを盛大に自分の料理に振っている。

そう、この国ではまだレストランで自分の作ったものを食べる習慣があるのだ。てか、“君のものは僕のもの僕のものは君のもの”的な共産主義思想みたいなものが残ってて、だからレストランと言うのは個人が商売をしているところでありそこに料理を持ち込んで食うのは良くないって言われても、あまりぴんと来ないのだ。

レストラン慣れしていないってか、君んちのダイニングテーブルに、料理を持ってきた僕が食べている、みたいな感覚と言うかな。

最近ではレストランも入り口に「持ち込み禁止」など表示する店が増えたが、逆に言えば持ち込みする人が多いと言うことだ。

コロネットピークはその中でも持込が多い。と言うのも観光客は短期滞在なのでわざわざお弁当を作ることはないので持込をするのは地元民のみ。そして地元民は山から降りれば地元のレストランやホテルで働いており、いわゆる山と街の持ちつ持たれつの関係である。だから自然とこのような関係が出来上がったのだと思う。

元々入り口と言うのがない作りのカフェテリアだからスキー板を置いてどこからでも入り込めるし、誰も何も言わない。実際にぼくも仕事以外で山に行くときでもけっこうお弁当をもっていって、一般客に混ざってカフェテリアでお弁当を食べていたものだ。

何だか、社会がまだまだ分化していない、てか今でも社会は常にお互いに助け合うってのが残っているのだろう。

コロネットピークでもぼくがスキー場で働いていた頃、こんな事件があった。ある米国人インストラクターが昼食を終えて自分の板のところに戻ると、何故かポール(日本式で言うストック)だけがない。

おっかしいな、どこに置いたかな、そう考えながら近くを見回していると、ゲレンデから降りてきたキーウィのスキーヤーが明るい声で「ハイ!、これ、」と手渡してくれたのは米国人インストラクターのポールである。

このキーウィの頭の中では、世界は一つ、家族は一家、君は今ポールを使っていない、ぼくは今ポールがない、だからそこにあって誰も使ってないポールを使った、使い終わったからそこに置いておく、次は君が使うんだね、そんな感覚なのだ。

もちろん資本主義で私有財産命の米国人からしたらあり得ないくらい怒ったのだが、キーウィからすれば何が問題かよく分からない。だってそこにあるのだ、誰も使ってないのだ、何が悪いのだ?

さすがに都会に行けばそういう事もなくきちんと個人私有と社会共有の財産は区別されて・・・いるよな、、、時々されてない気もするが、、、、(笑)。

だからスーパーで買い食いをする人やレストランに自分のランチを持ち込む人や仲間のポールを使っている人は何も悪気がないのであり、裁判所で毎週月曜日の朝に警察官に囲まれて行列を作っている、麻薬で歯が抜けて目がらりってていつも汚い言葉を使っている人々とは違うのだって事がこの国で生活をする際に最初に理解すべき点であろう。

他にもこんな事件があった。オークランドのメインストリートで友達のやっている日本食レストランがあった。昼時なのでお店の前に出来たての持ち帰り用お弁当を並べていたら、近くを歩いてた浮浪者がいきなりそれを一個掴んで歩き出したのだ。

オーナーは勿論店から飛び出して「何してんだ、カネはらえ!」となったが、その時に間に入ったのがごく普通の中年キーウィ。

彼はオーナーに向って落ち着いた声で「ごめん、こいつはオレの友達なんだ、金はオレが払うから、弁当渡してくれよ」何がなにか分からないまま、けどオーナーからすれば弁当代金を貰えば問題はない。

その後弁当を持った浮浪者は意味が分からないような顔をしながら立ち去って行き、キーウィも何もなかったように自分の道を歩き続けた。

もちろん僕の視点だけがすべてではなく、もっと外国人から見たニュージーランドの違った面があるのだから、この国で生活をしようと思う人は、いろんな方面から情報を仕入れるべきであろう。

ただ一つだけ言えるのは、人間性悪説が頭にある限りこの国の法的仕組みとか日常の流れとかが理解しづらくなるのは事実であり、どうせ住むなら生活を楽しむ為にも、何故キーウィがこのような性格なのか、その一部に人間性善説があるってのは理解してもらいたい。


tom_eastwind at 15:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月16日

警察の紋章 佐々木譲

警官の紋章 佐々木譲

北海道警察シリーズ第三弾。クイーンズタウンの山の中で読了。

いつもはスキーの後はばったんと寝るほうなので本読めるほど起きていられるかなと思ったけど、不思議な事にあまり眠くもならずに毎晩友達のレストランでの夕食後近くのお店で買った氷を持ち帰り、部屋着に着替えて寛いで結局二晩で読み終わった。

この北海道警察シリーズは元々の発端が北海道で発生した裏カネ作り事件と稲葉事件をベースにしている。両方の事件とも警察上層部の関与が囁かれていたが今日現在も事実関係は白日の下には現れておらず。

小説と言う自由なフィクション形態を取ったことでかえって様々な情報が取れたのだろう、文中のあちこちで「推測されていたこと」が「事実」として描かれていく。

北海道警察シリーズでは佐々木譲の文体はいつもそうだけど、始まりはまるで春の陽気のようにぽかぽかとした切り口であり、中盤になると実社会では噂とされていた伏線が次々と表に出てくる。

そして物語は後半になると一気にクライマックスに入り、最後は爽やかですっきりした、まるで日本酒の「上善水の如し」のような口当たりが残る。

もちろんこの進め方を遅いと思う読者もいるだろうが、これはこれで一つのちゃんと出来上がった作品だ。いつもアリステアマクリーンやジョンルカレ読んでてたまにフリーマントル作品を開くと読みやすくてほっとするようなものだ。(日本人作家の名前を出そうと思ったがとっさに出てこなかったので英国作家)

読みやすい作品だし事実がベースなので臨場感もあるし、こういう作品は日頃本を読まない人、特に北海道出身の人には地名も分かるし取り付きやすいのではなかろうか。

ちょっと本筋とそれるけどこの作品はハルキ文庫から出ている。角川春樹がいよいよ本格的に復活している。「野性の証明」では日本中に角川映画の凄さを見せ付けた時代の異端児であるが、角川の復活も合わせて楽しめる北海道警察シリーズだ。





警官の紋章 (ハルキ文庫)警官の紋章 (ハルキ文庫)
著者:佐々木 譲
販売元:角川春樹事務所
発売日:2010-05
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


tom_eastwind at 15:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2010年08月15日

ローリスクハイリターン

4fd14bf2.jpg7月23日に欧州スイスで発生した氷河特急の脱線事故。多くの日本人の方が怪我をしたり死亡した方もいらっしゃる。

ご冥福をお祈りします。

しかし現実としては旅行業は常に事故と隣り合わせの仕事であるのも事実だ。人々は自然を楽しみスポーツを楽しみ、旅に出て見知らぬ土地を歩く。

お盆の期間も多くの方が日本国内の山で登山を楽しんだが、やはり事故は起こっている。暑い夏なので海にも行くが、ここでもやはり海水浴客の事故が起こっている。

じゃあ家の中にいれば死なないかと言えば、確率的には低いものの平屋であれば森の息子の車が突っ込んでくるだろうし、じゃあ高層マンションなら安全かと言えば窓から落ちる事もある。じゃあ3階建てアパートなら墜ちて死ぬ事はないだろって、そりゃ墜ちては死なないが今度は火事に巻き込まれて死んでしまうかもしれない。

要するにどこにいても生きている限り死ぬリスクをゼロにする事は不可能であり、リスクは最小化出来るけど完全に失くすことは出来ないという事だ。

これは人生の一つの真実であると思う。

だから、いつ死んでも「ああ、良かったな、この人生」って思えるように生きようぜと言うのが現実的なキーウィの考え方である。人生に危険は付き物、ならば出来るだけ自分の努力で危険をコントロールしようとする、つまりリスクコントロールである。

だからニュージーランドでは各種スポーツ事故でも、事故を起こした側によほど故意の過失がない限り、つまり善良な管理者としての義務(善管義務)を果たしていれば、そこから先は参加者の自己責任である。

しかしそのような考え方を持たない、つまり不老長寿がdaisukiな、つまり体中をホースで繋げてでも長く生きている事そのものに価値を見いだすような民族では、どうしても冒険した側(顧客)ではなく冒険を作った側(スポーツ会社等)に対して責任を要求する。

「何でそんな危険な事をするのだ!危険と分かっているじゃないか!」
「お前の責任だ!法律とかじゃない、企業としての社会的責任だ!訴えてやる!」となる。

その結果として企業も個人も社会的制裁、法律的制裁、家族への抗議運動などを考えて萎縮してしまい、結局誰もがリスクを取らなくなる。

そして更にその結果として現状維持のみが許される環境となり、新しいものを作り出す文化はどんどん萎縮して社会全体が衰退していくのだ。

リスクは許さない、税金は払いたくない、仕事だって上司に言われた事だけをしていたい、けど年金と保険は全額もらいたい、そんな都合の良い話が通るものか。

そしてリスクを取って成長する社会とどんどん格差が広がっていく。

氷河特急でも事故後数日して再開したが、それに対してある日本の新聞では「無責任だ!死者を出すような事故ですぐに再開とは何事か!」などの声もあった。しかしそれは亜細亜の片田舎の世界の非常識から出てくる意見であり、事故後にきちんと調査して問題がなければ再開するのが欧州や西洋のルールである。

法的責任、技術的問題、社会的責任、これはそれぞれに違う。しかし日本ではこれがすべて団子になって問題とされるのだ。そして最後には大きな声を出して日本のスジとかを言った者が勝ちとなる。

スキーを楽しみにやってくる日本人だが、思考回路は当然日本のままなのだから何かあったら「何よ、責任問題でしょ!」となるのだが、相手が外国人の場合は、殆どの場合日本人は英語が出来ないからそのまま黙ってしまう。

けれど相手が日本人だと火の玉のように日本語で怒り相手に謝罪をさせようとする。つまり自分が理論的に正しいかどうかではなく、その場で発言出来るかどうか、空気でも読んでいるといったところだろうか。よくわからんが。

今もコロネットピークのリフト乗り場の横を怪我したスキーヤーが救急医療隊のソリに横たわって降りてきた。首には大きな浮き輪のようなものを嵌めこんで動かないようにして体がショック死しないように暖かい毛布でくるんだままの状態で、待機していた救急車で山を駆け下りていく。

「あ^あ、やっちゃったな」そう思いながら僕は山に駆け上がって行く。他の人たちも一瞬どきっとした顔をしながらも、次の瞬間は仲間の肩を叩いて「おい、おれたちのリフトが来たぞ」と勢い良く乗り込む。スキーは危険なのだ。

今年のニュージーランドは異常で、すでに5人のスキー事故死者を出している。スキー界幹部も「今年はChallenging Yearだ」とニュースで語っていた。

しかし誰も山を閉山しろとは言わない。精々がヘルメット着用、くらいだ。スキーは危険なスポーツであり怪我をする事も覚悟の上だからだろう、それ以上の話にはならない。

しかしもしこれで日本の常識を持ちスキーを知らない連中がやってきて「管理責任はどうなっているのだ!責任者を出せ!こんな危険な山などすぐに閉めて、絶対に事故が起こらないと保証出来るまで再開するな!」と言い出したら、どうなるのだろう。

まあ間違いなく言えるのはその週の地元の新聞に一面で「変な日本人」と言う記事が載ることだ。

スキーや山登りは参加する人々も危険性を覚悟してやってくるからそれほど責任問題は起こらない。けれどスキーや山登りだけが危険なスポーツではない。生きていくってのもそれなりに様々なリスクがあるものだ。

そのリスクをすべて否定してしまえばすべての人間の進化は止まってしまうし、何よりもリスクを完全に回避しながら生きていくことは不可能なのだ。てゆーか、リスク=危機だが、それは同時に好機なのだ。

初めて空を飛んだライト兄弟は、落ちるリスクを抱えながら成功して歴史に名を残した。

以前も書いたがチャンスと言う言葉は機会であり、好機なのか危機なのかは、ある意味どちらの面から見るかによって答が変わる。

スキーをする事で空を飛んで得られる喜びと自分への自信、それと空から墜ちて受ける怪我、スキーそのものが持つ危険性を秤にかけてみればそれぞれに答は違うだろう。

けれど技術的には、喜びとリスクを両方とも減らす事でローリスクローリターンのスポーツに切り替えることも出来る。つまりゆっくり滑るという事だ。

人生も同じで、受験勉強で志望学校を決める時のリスクと、そこに行く為の努力、その結果落第した場合のリスク、誰しもがそんな経験があるだろう。ハイリスクハイリターンでいくか、ローリスクローリターンの人生を選ぶか。このような判断は大変ではあるが、それがその人の経験となる。

ただ一つだけ、普段の人生をローリスクハイリターンにする方法はある。それはビジネスで挑戦して失敗しても彼や彼女が再度挑戦出来る法的整備と再挑戦までの経済的生活に影響が出ない、つまり政府がセーフティネットをしっかり構築しておく事だ。

リスクを減らしながらリターンを増やす。それは日頃から国民がきちんと納税をして労働をして新しいものを作っていこうとする社会では可能である。

写真はコロネットピークのロッキーギャレー、一般的にTバーと呼ばれているコースである。丁度この写真のすぐ近くが事故現場でもある。



tom_eastwind at 15:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月14日

神と仏と

27042b27.jpg数日前にクイーンズタウンで一人の日本人男性スキーヤーがスキー事故で亡くなった。享年80歳。

今も現役でスキーのレースを楽しんでおり、今回は冬のニュージーランドで更に腕?足?を磨くべくやってきたのだが、コースを滑走中に左手が本当ならはじき出すポールを左手の肘に巻き込んでしまいバランスを崩して転倒。

その後リフトまでは自分で降りてきたのだが、係員と話をしている最中に崩れるように倒れて意識を失い、救急ヘリでダニーデンの病院まで搬送したのだが、結局意識は戻らないままに亡き人となった。

ちゃんとヘルメットをしていたのだが、転倒の際のショックには古くなった体が耐えられなかったのかもしれない。冥福を祈る。

たまたまこのツアーを主催している日本の会社の現地お世話係が長い付き合いの友達で、事故時に居合わせたキーウィたちがこんな風に語ってたのを教えてくれた。

「OH!彼は何て幸せなんだ!80歳になってもdaisukiなスキーを続けて、最後は雪山の上で亡くなった。ぼくも死ぬときはこうやって死にたいよ」

同じ死を迎えるにしても日本人であれば例え何歳であろうと死は不吉なものであり語るものではなく80歳であろうと雪山でなくなったのであろうと(本音はどうでも)何と大変な事だろう、何と不幸なことであろうと嘆かねばならない。

日本に限らず中国でも同じように、自分の両親が亡くなったら子供たちは長期にわたり自宅に篭る習慣があった。今でも中国では葬式は一大儀式であり、その死因は問題ではなく、死というものに対して厳かに悲劇的に向わねばならないのだ。

キーウィの彼はスキーヤーでありスキーがdaisukiであり、だからこそ亡くなった方の生き様を善しとして、いたずらに長生きをするだけではなく人生を楽しむことに価値観を置いていた。

日本では意識のない老人に対してまでチューブを付けて肉体的に長生きさせようとする。それがどれだけ医療費がかかろうがかなりの部分を国が負担してくれるのだから気にする必要はない。

ところがニュージーランドでは、少年少女が交通事故やスポーツの事故などで脳死状態になった場合、一週間程度様子を見るだけで、もうどう見ても無理だと医師が判断したら家族の承諾を得て生命維持装置を外す。

ニュージーランドではこのような事は普通であり、勿論若くして死んでしまうのはとても不幸だけど、治る見込みもないままにチューブで肉体のみを生き残らせることに何の意味があるのかと考える。これはもう宗教観の違いでもあるだろう。年に数回、こういうニュースが流れる。

だからどっちが良い悪いではない。まさにこれこそ欧米人のキリスト教の価値観と仏教をベースにしたアジア人の価値観の違いとしかいいようがない。

ニュージーランドでは維持装置を外すし、外しても周囲の人は「よく頑張ったね、あとは神様の下でゆっくり過ごしてね」となる。

日本で維持装置を外したら殺人事件にだってなる可能性が高い。日本ではとにかく家族が了承しても周囲が了承しないなんて事がある。

今年のニュージーランドの冬ではすでに4人がスキー場で死亡している。日本人の方を入れると5人。通年だと1人死ぬだけで大ニュースなのだが、今年は本当に事故が多い。

いろんな原因があり、5人それぞれに状況は違うので何が悪いという事は出来ない。あえて日本流に言うなら運が悪いとなるのだろうが、それは亡くなった方よりもスキー場会社のほうである。

NZのある議員などはスキー場でのヘルメット着用を義務化しろと言ってるが、事故った人は日本人の方を含めて少なくとも2名はヘルメットをしてたので、これもそれほど説得力がない。

いずれにしても久しぶりに訪れたクイーンズタウンで突然の訃報を聞き、そして同じ事故でも日本人の視点から見るのとキーウィの視点から見ることの違いを感じた。

写真はコロネットピークから眺めたリマーカブル山脈。




tom_eastwind at 07:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月13日

クイーンズタウン1988

ae39c0b1.jpgクイーンズタウンは1988年から1991年まで住んでいた。あの頃は毎日のように日本から団体ツアーやハネムーン、冬場になるとコロネットピークと言うスキー場で滑っている人の10人のうち3人くらいは日本人だった時代がある。

一日に滑る人は大体2000人くらいだから600人が日本人である。

ところが時代が変わり現在はスキー場で日本人を見かけることも少なくなり、たまに見かけても退職後の人生を楽しむリタイア世代の人々が日本のスキースクールのツアーに参加するくらいで、若くて元気の良いスキーヤーを見ることは殆どなくなった。

これでリタイア世代がスキーを止めたら、それこそクイーンズタウンで日本人の存在感はゼロになるだろう。

クイーンズタウンで有名なハンバーガーショップがある。ファーグバーガーと言うのだが、とにかくどんな時間に行っても行列で、少ないときでも15分くらいは待たされる。まあそうだろう、注文が入ってからマックのハンバーガーの4個分くらいのでっかいハンバーガーを焼き上げるのだから時間がかかるのも分かる。

今回この店にお客様家族と一緒に行ってメニューを注文しようとしたら、「あれ?日本人?じゃちょっと待ってて」と日本語メニューが出てきた。ほー、まだまだ存在感があるのかな、行列には韓国人も中国人もいるのに、まだファーグバーガーの意識の中では彼らの存在感はそれほどないのだろう。

けどそれも時間の問題、毎日わんさかとやってくる中国人ツアー、スキー場に行くと飛び交う韓国語、いずれファーグバーガーにも中韓メニューが出てくるのだろうな。

それにしても1980年代のクイーンズタウンを知っている自分としては隔世の感があるのも事実である。

おかしな偶然なのだが、ぼくが住む街は常に景気が良い。

ぼくが日本を離れたのは1988年、まだバブル景気で仕事がいくらでもあるような時代だった。

1980年代のクイーンズタウンでは日本人ブームでありぼくらの仕事は断らねばならないほど舞い込んで来た。あの頃一週間に稼いだ給料は当時の物価から考えてもかなり高額だったし今の時代でも充分通用する金額だ。おかげで一年でちっちゃな家を買えた。

1991年に移住した香港では返還ブームに沸く香港で日系企業が次々と円高対策で工場を中国に移し、その多くの仕事を頂いた。

1996年にオークランドに移住すると、丁度その頃は建設ラッシュ、そして日本人ワーキングホリデイの全盛期であり、旅行と留学を中心に業務展開した。21世紀に入り留学から移住にシフトするとこれも丁度タイミング良く成長して現在に至る。

ところが日本は1991年にバブルが崩壊して失われた20年となり、クイーンズタウンも僕が香港に行ってからバブルの崩壊で旅行客が激減した。

香港を離れた後は返還ショックで香港のハンセン指数ががた落ちするほどに香港ビジネスが激減して、それからサーズや911等でホテル業界も未曾有の不況を迎えた。

オークランドでも旅行業と留学業から移住にシフトした途端に旅行業と留学業は完全に衰退産業になり、旅行業でもJTB,日本旅行、近畿日本ツーリストなど以前は支店長は皆日本から派遣されていたが、今ではすべての支店長が現地採用である。そう言えばJALもなくなってしまったしね。

どんな偶然か分からないが、自分が住んでいた時期の街はどこも活気があったので本当に幸運だと思う。

これって一体何なのだろうって思ってしまうが、事実は事実であるから多分不況と僕は相性が悪いとか、何かの巡り会わせがあるのだろう。

それにしても今のクイーンズタウンは見事なまでに成長を遂げて、世界中からバランスよく観光客を集めて成長している。

クイーンズタウンの自然と景観を守りつつ観光客向けの施設を整備していく。この写真はクイーンズタウンのゴンドラで山頂に上ってリマーカブルの景色を見る展望台だけど、20数年前はあり得んくらいのぼろっちい施設だった。

それが今では素晴らしい展望レストランと周辺施設の整備で、これまた隔世の感がある。

昔はクイーンズタウンでステーキを食うとするとブリタニアかビーフイーターというお店しかなかったのが、今では街中素晴らしいレストランで溢れてて、美味しい料理とプロのサービスを受ける事が出来る。

これもこの街に来る観光客は世界中から高い飛行機代を払ってきており、現地価格で高いと思うような食事代でも彼らからすれば「あら、このサービスとこの料理でこの値段?お安いわね」となる。

こんな事、今の日本からすれば考えられないかもしれないけど、ニュージーランドは今でも毎年政府による賃上げと各企業による賃上げが行われている。

そしてその中でも一番物価とが高いのがクイーンズタウンであるが、お金を使う顧客が海外の観光客なので高価格でも支払い力があるから自然と物価も上がるし街全体も活気が出て潤っている。

ただこの街の一番の特徴は、実はこの街はほんの数名の地元キーウィが実質的にすべてを支配しているって事だ。民主主義なんてお構い無しに彼らの独裁の下でやってきたから効率的に街が発展してきたのだ。

こう考えるとシンガポールのように民の事をちゃんと考える優秀な独裁者がいれば民主主義よりも余程正しくてスピード感のある政治が行なわれると思う。

今晩はクイーンズタウンの学校に通う娘と久しぶりに食事。この街は星が綺麗なのでも有名だが今彼女がはまっているのが星見である。学校が終わって日の沈んだ寄宿舎の庭から満天の夜空に光る星を眺めているのだが、気付いたら一時間くらい座り込んでたりすると言う。

この街で生まれた彼女が20年経ってまたこの街に戻り学校に通い、星を眺めている。

明日どんな運命が待っているかも分からないけど、僕が20数年前に初めてこの街にやってきた時は知り合いもカネもコネもなく明日の事さえどうなるか分からなかった。それが20数年経って今こうやってまたこの街で娘と一緒ご飯を食べている。

明日がどうなるかなんて今日考えても仕方ない、明日の事はは明日考えよう。そう思った懐かしいクイーンズタウンだった。


tom_eastwind at 22:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月12日

寒い朝

寒いある朝窓辺で立っていたら
母ちゃん連れて行く車がやってきた。
車やさん、車引きさん、静かに頼みます。あんたが連れて行く、
それは寝てる母ちゃんだからね

by加川良

オークランドは冬になるとよく霧が発生して、オークランド空港の国際線でさえ午前中の便が時々遅延する。

オークランドは南緯38度、日本で言えば長野とかにあたるので雪が降ってもおかしくない場所なのだが、南北に長いこの街の右側には太平洋の暖流、左側にはタスマン海の暖流が流れているので、夏は暑くなく冬も寒くないと言う特徴がある。

だからオークランドの住宅でも冷房を付けている家は少ないし、冬場と言っても南島のような底冷えもない。

その代わりに冬場の名物として霧が発生するのだ。冬は雨の季節で、夜の間に降った雨が芝生に水滴として滴っているのだが、これが地面の温かさと朝型の気温上昇に合わせて霧になって起伏の多いオークランドの谷間を埋めていくことになる。

朝起きたらほんとうに全部薄いもやがかかったような景色だけど、この霧を見ると「おお、今年も本格的に真冬に入ったな」って気にさせる。

今朝もそんな感じの霧で車のヘッドライトをつけて走って空港まで向う。今日からクイーンズタウン出張だ。

菅談話は当然のごとく色んなご意見があった。そりゃそうだろう、日韓問題に限らずだが、お隣の国同士は歴史的に軋轢がある。フランスとドイツ、インドとパキスタン、そして日本と韓国。

近すぎるからどうしてもトラブルを生みやすいが同時に近いからこそ仲良くしておかないと世界全体から見た場合の地位の低下と言う問題が発生する。

中国では王道と覇道という考え方がある。簡単に言えば王道とは理と情で他国と併合する事であり覇道は武力で相手を押さえつけて併合する事だ。

20世紀の米国が取った方法がまさに覇道であり結果的に大失敗をした。中国でも覇道は長続きしない、本来は王道でいくべきだと言われている。

だったら今の中国のチベット問題はどうなんだとなるけど、基本はあれも王道でいこうとしているのだ。長い時間をかけて漢人を移住させて地元民と結婚させ、いつの間にか中国の支配下にしてしまう方法だ。時々暴動が起こるけどそれは力づくで抑え込んでおいて後で何かの飴玉を渡す。

一番印象的だったコメントは、ぼくに対してきちんと反論をして、「けど結局となりの国とは仲良くするしかないんですよね、特に中国とは」だった。

まさにそうだと思う。そして、どうせ仲良くしようとするなら余計な事は言わずにおくことだ。相手の細かい事をいちいちあげつらってどうのこうのと言えば、相手もこっちの過去の問題をどうのこうの言って話が前に進まない。

オークランドに住み、香港に住み、日本で仕事をして、いろんな国の人と付き合いが広がれば広がるほど分かるのは、あまり相手の細かいところを指摘するなって事だ。こちらからしたら嫌なことでも相手にとっては文化であるかもしれない。

“疑人不用、用人不疑”と言う諺がある。疑う人は使うな、使う人は疑うなという古い中国の諺である。日韓の場合“使うな”とは言えない。隣同士なんだし仲良くするしかない。そんな時にいちいち相手のやる事を疑ったりケチをつけてたりしたら何も進まない。

“君子淡交”と言う諺もある。付き合いはあっさりとしようって事だ。深く踏み込むことでかえってお互いにいやな思いをする事もある。

それにしても戦前から戦後、1970年代くらいまでは日韓関係というのは一部の政治家によりコントロールされており、日韓一般市民の知るところではなかった。その方がお互いの政治家にとって利益だったからだ。

だから、時代で言えば金大中大統領の1999年頃からではないかな、日韓の民間交流が本格的になったのは。

金大中と言えば、彼が東京に滞在中にKCIA(韓国情報部)から誘拐されてソウルに拉致されて殺されそうになったところを超高度政治的交渉で釈放された人物である。そういう事実をどれだけの日本人が知っているだろうか?

韓国に対する何らかの感情を持つ前に、もう少し歴史を勉強してみればどうだろう。そして自分を振り返ってみればどうだろうか。

お隣だから当然だが、いろいろと縁のある国である。その国と仲良くしていく、当然の事ではないか。

とくに戦前は日本が韓国を支配していたのは事実であり、法律的とか国際条約の話ではなく、国民感情の話になっているのだ、兄ちゃんは怒っているのだ。だから一度はきちんと弟としてごめんと言えばいいではないかと思う。

自分の非の部分を認めてきちんと謝罪する、そこから次の関係を作る。それこそが大人の付き合いだと思う。



tom_eastwind at 21:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月11日

菅談話

「菅談話」

菅総理が韓国へ「談話」をする事になった。これは歴史的に重いことであるが、ぼく自身は日本国内から見た視線ではなくちょっと違った立場、つまりニュージーランドから見た日本と韓国を考えている。

日本を愛する者として今回の菅総理の談話、非常に乱暴な言い方ではあるが、日本全体の方向性がきちっと一致しているなら、これもありかなと思う。

方向性を失った今の日本を昭和20年代の日本のように社会主義で運営していく、そして外交においては米国から距離を置き亜細亜の一員として生きていく、その為に韓国とも仲良くしておく必要がある。個人の好き嫌いではなく国家として明確に「こんにちは韓国」と言えるようになるのは国策として方向性が一致していれば良い。

一番いけないのは「船頭多くして」である。方向性の定まらないままにあっち行け(米国)こっち行け(中国)って連中ばかりで国家戦略がなければ社会主義でも資本主義でも意味はない。そして日本の失われた20年は、方向性が定まらないままにふらふらしていた事が問題なのだ。

今の日本に必要なのは明確な方向性である。韓国への謝罪?それがどうした。気にするな、これで韓国の人々が納得してくれて両国がより親密になり世界の中で肩を組んで戦っていこうと考えてくれるならそれでいいではないか。

いやさ、ごめんと謝ったら何かもっと盗られるんじゃないの、なんてのは自分の脇の甘さを露呈しているだけだ。是々非々である。謝罪はするが無理はきかない、この姿勢を明確にすれば良いのだ。

このあたり、日本人は心配性、てか喧嘩出来ない人種だから問題だけど、彼らがこれで竹島はどうのこうのとか慰安婦問題がどうのこうのと言ってきたら、「そりゃ違う、歴史的事実を正しく認識しましょう」と言えば良い。

菅政権及び民主党及び官僚の基本方針が大きな政府と社会主義、でもって米国は日本から手を引きますって言ってるんだから、今まだ体力のあるうちにお隣さんと仲良くして米国抜きでやれるようにすべきだ。

今こうやって、日本国内で全く使っていない書類を韓国の所有物をとして韓国に返すことで、次は英国に対しても堂々と「大英博物館の多くのものはアフリカから来てますよね」と主張出来る。

自分が泥棒をしておいて他人を責める事は出来ない。けどこっちがきちんと返還すれば、次に何かあった時には堂々と「それ、おかしいよね」と言える。

要するに歴史の清算をいっぺんやっておけば良いと思うのだ。もうすでにやったじゃないかって言う意見もあるだろうが、相手が納得していないのだ、もう一回言えば良い。

スノーボーダーの国母選手がお詫びをした時もマスコミは「ありゃお詫びじゃない!」と騒いだよね、あれと同じ事を今の韓国が言ってるんだ。自分がやった事を相手がやったからと言って一方的に批判するのは、天に向って唾を吐くようなものだ。

例えば日本人からすれば1965年の日韓基本条約で賠償金も払って問題は終了したと言いたいだろうが、当時の韓国の李承晩政権は独裁政権であり韓国に渡ったお金の多くは当時の独裁者やその周囲の人間が全部吸い上げてしまって国民には何も残らなかったのだから、賠償を受けたと言う実感はないだろう。

橋を作ったじゃないか、ダムも作ったし、自立出来る様にしたじゃないかと言っても、それは通用しない。日本が米国に対して原爆投下の謝罪をしろと言ったら米国は「それで戦争が早く終わったんだからいいじゃないか、第一米国のおかげで今の日本(1980年代までね)の経済的発展があるんじゃないかって言い返されたようなものだ。

そしてここからは、ニュージーランドから見ているから言えるのだけど、今回お詫びした後に相手がどうのこうのと言ってくればきっちりと「それ、違うでしょ」と言えば良いし、清算したんだからこれ以上金は出しませんよと言えば良い。

特に慰安婦問題の賠償など、元々が何も問題なかったところに勝手に日本の一部マスコミが煙を上げて、次に火のないところに煙は立たぬと言う意味不明の理屈で世界の問題にしてしまった、あれこそ日本売国行為である。

ちょっとでも大東亜戦争=第二次世界大戦の歴史や当時の日本帝国陸軍の仕組みを知ってて、その当時に実際に戦地で兵隊をしていた人から話を聞けばすぐばれるような嘘を、当時の事を知る人がいなくなった時点で「あの時はこうだった」と嘘をつくそれこそが売国行為である。

韓国でも慰安婦問題がカネになると知って飛びつく卑怯者がいるし、日本でも売国奴がいる。しかしそれは少人数であり、歴史の事実を捻じ曲げたままに闇雲に今回の「談話」にひっつけてカネを要求する連中に対しては、NOとはっきり言うべきである。

少し話はそれるが慰安婦問題に日本の軍隊が関わっていないのは歴史的事実である。

どこの国の軍隊でも戦地の若者の性欲処理として売春宿は存在した。これは日本人だけに限らない歴史的な事実であり、明日死ぬかもしれない若者は、戦地でもらった給料を握り締めて地元のバーでたらふく酒を飲んで女を抱いたものだ。ベトナム戦争当時のサイゴンや沖縄を見れば分かる事だ。

けど、そのバーや売春宿が軍隊によって経営されていたか?されてない。何故なら軍隊と言う組織は忙しいのだ。そんな兵隊の個人的な問題にまで口を出しはせずに民間業者にすべて委託した。そんなのは当時の記録を見ればすぐ分かる。

どうしても何かを教えろと言うなら、中国寄りに描かれた五味川純平の「人間の条件」と言う小説があるから一度読んでみればよい。

まさに売春宿がどのように管理されていたかよく分かるし、日本食料亭の経営方法もよく分かる。

言っとくがこの本は日本の非道を責めるために書かれた本であり、それでもその本の中に出てくる料亭や売春宿でさえ、一切日本軍は関知していないのだ、兵隊がお金を払って遊ぶと言う以外には。

当時の軍隊においては売春宿は合法であり和食料亭も合法であり、もしビジネスとして考えているなら両方とも軍隊がやったはずだ。けどやらなかった。何故か?それは同じ事を繰り返すようだが非合理的であり「民で出来る事は民で」の基本が徹底していたからだ。

ましてや韓国の女性が日本軍によって拉致されて売春婦にさせられたなど、システムとしてあり得ないのだ。日本軍がどこかの村に行って可愛い子を拉致する???そんな時間がどこにあるか?誰もが戦闘と訓練に忙しいのだ。そんな事をしなくても韓国人女衒が女性を揃えてくれるのだ、何であえて皇軍が“たかが性欲処理”の為に軍隊を動かすものか。例えて言えば富士通の東京本社の社員が美味しいコーヒーを飲むために仕事そっちのけで本社の社員を世界のコーヒー豆の産地に送り込むようなものだ。あり得んでしょ。そんな事しなくてもスターバックスが富士通本社に出店してくれれば問題は解決するのだから。

第一もし軍隊がそのような行為を戦闘時以外に行う場合はすべて書類による決裁と結果報告が必要であり、そうなれば皇軍すべての部隊において記録が残る筈であり、他の戦闘記録はすべて残っているのに慰安婦記録だけすべての軍隊記録から戦争に負けた瞬間にすべて廃棄するなど、太平洋と亜細亜と日本と中国本土に広がった組織では実務的にも不可能であり、第一その当時にその事が問題になると考えていた軍上層部がどれだけいる事か。

まだまだいくらでも慰安婦問題は書けるけど今日はそれがネタではないので、このような、あり得ない嘘を平気でつく連中と事実を捻じ曲げて金儲けをしようとする連中と対決する為には「談話」があっても良いと思う、くらいにしておく。

とにかく慰安婦問題については、煙に目くらましされずに自分でしっかりと歴史資料を読んだ上で当時の世界を理解した上で語ってもらいたいものである。

むしろそういうシステムを持たない1930年代の蒋介石の正規軍は同じ民族である中国人の村を襲って食料を奪い女を強姦していたし、1960年代のベトナム戦争では韓国軍は猛虎師団1万数千名を派遣してベトナムの人々を無差別虐殺して村を焼き払い女を強姦した。そうやって妊娠して“混血児”として存在する子供がその事実を証明している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ライタイハン

韓国ではベトナム戦争で行った民間人虐殺や強姦事件について何か「清算」をしているのだろうか、是非とも知りたいところである。

大東亜戦争で戦地を体験した人から直接当時の様子を聞いた世代としては、おそらく僕らが最後になるかもしれないから、戦争問題についての間違いだけはきちっと正しておきたいと思う。

いずれにしても、謝ったのだから金を出せと言う相手の要求に対しては、「あんたに直接迷惑かけてないよね、あんたのおじいさんの世代の話だよね、何だ結局あんたらは金が欲しくてこんな要求をしているのかい、だったら国連事務総長を輩出している国として恥ずかしくないか」と言えば良い。

そうやって堂々として毅然とした態度で、返すものは返す、お詫びするものはする、しかしそれは決して暴力に屈するのではなく、相手の理屈をきちんと認めて、必要と思って行う自主的行為だという事を明確に主張する事だ。

韓国と日本が地理的に隣同士なのは歴史的事実であり切り離しようがない。あっちいけとは言えないのだ。ある意味兄弟げんかをしているようなものだと思えば良い。

公平な立場から言わせてもらえば、中国は優秀だけどしばらくだらけてた威張るのがdaisukiな父親で、最近はまた元気になった、韓国は長男だけどあんまり働きもせずに他人の文句ばかり言ってる、日本は優秀な次男坊でよく働き真面目で責任感が強いけど主体性がないから流されやすい、これが3カ国を知る西洋人が持つ一般的な民族認識ではないだろうか。

だから是々非々で話をすれば良い。それが「負けた」事になるかどうかは千年単位で考えればよい。大体相手の話を全く否定していけばいつまで経っても小骨のように問題が残り、まとまる話もまとまらなくなる。

実際に韓国や中国の人々は、個人生活レベルでは日本人に対して好意を持っている、ある意味自国民に対するよりも、である。それでよしとしようではないか。

歴史的認識とお金は別なのだ。

もし僕が首相なら、最初から韓国に対して「ちょっと待て、それは違うでしょ、私たちはあなたの国を自立出来る様に制度設計しました、これはどう考えますか?もし韓国が中国の属領のままロシアに支配されていたらどうなっていたと思いますか?もちろん僕らも国益を考えます。対馬海峡のすぐ向うにある国がロシアに支配されると困りますよ。けど、正直に聞きたい、僕らとロシアと中国と、どの国を選びたかったですか?」と言うだろう。

その上で、韓国に対しては“にいちゃん悪かったな、謝るよ、この前の蹴りは痛かったよな”で終わりだ。それ以上何か言うなら、また“蹴り”を入れるぞって気合だけは持った上で。

問題をお金と言う程度に矮小化せずに、世界政治の中の日本の位置付けをしっかり考えていけば、この程度の談話など、大したことではない。

日本と韓国だけでやるから分かりにくいのだ。世界では日韓以上の問題は山積みである。イラクとトルコに住むクルド人の問題では、彼らは本当に血の殺し合いをしている、あれを見れば日韓の歴史など子供の遊び、兄弟げんかである。

韓国だって国内政治がある。日本政府が頭を下げて韓国の所有物を韓国に返すと言えば、韓国マスコミがどう煽ろうが「おお、やっぱり日本だね」となる。

もしここで韓国の一部連中が尻馬に乗ってカネ寄越せなんて言えば世界に訴えればよい。世界のまともな国からすればどっちが馬鹿かすぐ分かる。どちらがずるいかすぐ分かる。

反論OKです。ただし、ぼくはあなたと同じかあなた以上に日本を愛する日本人であり、日本を愛するからこそ日本を憂いているので今回の談話で日本人が短絡的な行動に走って欲しくないと思っている日本人だという事だけはご理解ください。


tom_eastwind at 18:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月10日

21世紀の国境

f463724c.png第一国境と第二国境

米国と中国の国境問題が日本の頭越しに進んでいる。え?米国と中国って直接国境が接している場所ってあったっけ?と普通に考えれば変な話だが、元々国境は力の強い者が自分で線を引っ張って「ここ、おれんち」とやるのだから、現在の国境が永遠に変化しないなんてあり得ない。

分かり易い例を挙げれば、何故アフリカの国境の殆どは川や山ではなく棒を置いたように一直線になっているのか、何故中近東の国境は民族性を考慮しないままに縦横に作られているのか?あの国境は世界を覇権した英国が勝手に仕切った結果であり、その為に今でも民族抗争が各国で止まらないのだ。

★抜粋開始
実は、黄海を「中国の海」にしたのは、米政府の今回の一回限りの譲歩だけが原因ではない。米国は昨年、中国に対して「米中で世界を二分する覇権体制を作ろう」と「米中G2体制」を提案した。中国は「わが国はまだ発展途上で、そのような体制に参加するには早すぎるし、世界覇権も狙っていない」と断った。

だが中国は、G2体制の初期的な第一歩として、自国周辺の台湾、チベット、新疆ウイグル(トルキスタン)という、中国が「国内」と主張する3つの地域「3T」と、東シナ海と南シナ海という、中国が経済水域権(大陸棚)や領有権(南沙群島)を主張する2つの海域において、中国だけが国家主権(覇権)を行使する体制を容認してほしいと米国に求めた。

 米国はこの要求を容認したらしく、中国は今年初めから「3T地域における中国の国家主権を認めない言動に対し、中国は今後容赦なく攻撃し、潰すことにする」と宣言した。同時に中国は、東シナ海(琉球列島の西側)と台湾東部沖、フィリピンの西側、南シナ海(ボルネオ島からベトナムの沖合)をつなげた海域の境界線を「第1列島線」として設定し、第1列島線から中国の海岸の間は、中国の影響海域であり、他の国々の領有権主張や軍事進出、資源探査を許さないという方針を打ち出した。

http://tanakanews.com/100627china.htm
消えゆく中国包囲網

「第1列島線」と同時に、伊豆諸島、小笠原諸島、グアム島(北マリアナ諸島)、ミクロネシアの西側を南下してニューギニア島沖に至る「第2列島線」も制定された。従来、第1列島線の西に位置する台湾までを影響圏にしていた米国は、第2列島線の東にあるグアム島まで撤退し、それと同時に中国が第1列島線の西側のすべてを自国の影響圏として設定し、2つの列島線の間に位置す
る日本やフィリピン、インドネシアなどは米中の緩衝地帯として機能するという、将来的な米中の影響圏の取り決め構想である。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/Geographic_Boundaries_of_the_First_and_Second_Island_Chains.png
第1列島線、第2列島線の地図

 米国では、中国が2つの列島線の構想を出したと説明されている。だが、G2を時期尚早と断った新参者の中国が、将来的な米中の影響圏の設定を、まだ世界最強の古参覇権国の米国に話を通さず、勝手に独自に設定するはずがない。米国の外交戦略を考案する奥の院である「外交問題評議会」が発行する雑誌「フォーリン・アフェアーズ」は今年「米国が第2列島線まで後退し、中国が第1列島線まで進出してくるのは、不可避のことだ」と主張する論文を載せている。2つの列島線は、米中が合同で話し合って決めたものに違いない。
★抜粋終了

どうやらこれで普天間の方向性は確定したようだ。元々全軍がグアム移転する計画だったのに、一部部隊のみが辺野古に残るって嘘ごとで日本政府の思いやり予算を確保したかった米軍と、米国追従派閥が組んで作った辺野古計画も、これからあーでもないこーでもないと計画をやり直しながら、最終的には沖縄の米軍はすべて第二列島線の東にあるグアムに集中する。

辺野古の海がどうなろうと日本政府にも米国にも関係はない。だからもしかしたら本当に滑走路を作るかもしれない。けどそこに駐留する米軍はいない。

だから政府としても沖縄とあまり喧嘩をしてもめるよりも、計画の先送りを繰り返して結果的に数年後に「あらま、米軍は皆グアムに行きましたな、だったらグアムの米軍向けの思いやり予算を計上しましょ、沖縄から出て行ってくれたお駄賃でしょ」って感じになるのだろう。

ただ問題は、これで米国と中国の間で国境線が明確になったって事だ。日本、沖縄、台湾、ベトナム、このあたりの「第一国境線」は中国の支配下に、そしてグアムを境界として米軍は第二国境線を作る。

第一と第二の間は緩衝地帯として両国は手を出さない、これで21世紀を行きましょうよ、そんなイメージだ。丁度、韓国と北朝鮮の間の板門店みたいなものである。

なんでこんな事をやっているかって言うと、どう転んでも12億の人口を抱える中国の台頭を米国は止める事が出来ないし、だったら最初から仲良く世界を米大陸、亜細亜、欧州と三分割して、それぞれにうまくやっていきましょうぜって処世術だ。

日本は今、自分の国がどうなるかって考えている。けど、世界の動きの中で実態としての国境線が変わろうとしている。要するに国境なんて、その時に力のある連中が決めることだ。

残念な事に米国追従の日本では米国の既定方針に逆らう事は出来ない。ではいくらかでも今のうちに亜細亜で良い地位を得るために中国や韓国と仲良くしていこう、それも一つの政治であろう。


tom_eastwind at 14:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月09日

社会に出たくない人々

集団就職
2012年卒業予定の大学生で「出来れば社会人になりたくない」と答えた学生は45.5%。日経ビジネスで行われた学生意識調査から出てきた回答だ。

そして大企業優先、長期雇用を期待して、収入よりも安定性を求めているのが良く分かる。

うーん、そりゃまるで、官僚の狙い通りに人々が育ちましたねって感じだ。

子供をびびらせて長いものに巻かれろと教えて失敗したら二度と立ち上がれずに山手線ダイブだぞって教え込んで、起業なんてしたら社会の敵に仕立ててマスコミ使って叩き潰すぞって明確に伝えて、だから大人しく役人の言う事を聞いておけば大丈夫と言うことがきちんと子供の頭に刷り込まれて、まさにその通りの結果が調査に表れたと言える。

ところが企業ではそのような人材ではこれから世界に出て行くのに通用しないと分かっている。なので、

例えばパナソニックは今年1250人の新入社員を採用したが、海外の外国人を対象としたグローバル採用枠では750人が入社。来年は採用予定1390人のうちグローバル枠を1100人とする。
2012年から社内の公用語を英語にするとしたユニクロでは200人の採用枠のうち外国人が100人を占めた。

(いずれも日経ビジネス2010年7月26日号より)

政府や労働組合と違って日本の企業で危機感を持っている会社は当然のように世界を市場と定めて海外に打って出る覚悟だ。

サービス産業は日本人を対象として日本でビジネスをしているのでデフレに巻き込まれてしまうが、海外に顧客を求める事が出来るメーカー等は60億人を相手にビジネス展開が出来る。

一昔前は帰国子女が日本の大学に入学する条件が厳しかったり、日本語の敬語がちゃんと使えないからと卒業しても就職先がないなどの問題があったが、今では大学が帰国子女枠を作り企業がこぞって英語を話せる人材を募集している。世界を相手のビジネスになれば、敬語よりも英語の時代なのだ。

なので海外でゆっくりと生活しながら自分で考える事が出来る子供を育てて、子供は自主性を持って大学卒業してから日系企業に就職するって道の方が、日本国内でせっせと脳みそ洗脳作業を受けさせられて目的意識のないまま「ぼく、卒業したくな〜い」って学生になるよりはずっと子供の為になるだろう。

そういえばうちの娘が東京の専門学校に通ってた頃よく僕に文句を言ってた。「お父さん、この学校って私立で学費も高いのに、来てる子供たちは全然やる気なくって、一体日本人って何なの?先生の話も聞いてないし勉強もしないし、親に言われたから通ってるだけって平気で言うし」と怒ってた。

娘の通ってたコースではグラフィックデザインを学ぶのだが、コースには自由創作と言う時間がある。これは本来学生が今まで学んだ事を基本に自分の頭で考えて自由にデザインを創作するのだが、この時も先生が「はい、ここはこう描いて、ここはこうしてこの技術を使って〜」と、手を取り足を取り“自由創作”させるのだ。

娘は先生にある時尋ねたことがある。「先生、自由創作なんだから自分でゼロからやるべきじゃないんですか?」すると先生は「そりゃそうなんだけど、こっちで手取り足取りして教えないと自由に創作出来ないんだよ、第一教えてあげないと後で生徒の親から“ちゃんと教えてくれない”と文句を言われるんだよ」

これじゃあ確かに社会人になりたくなくなるわな、親のすねをいつまでも齧って先生が手取り足取りしてくれるんだから。

ぼくが子供の頃は食堂に行っても一番安いものしか食べられず、てか食堂に行く事さえ晴れの日にしかなかった。オトナになって何よりも嬉しかったのは、自分で稼いだ金で好きなものが食えるって事だった。

今自分で金を稼ぐようになって働くことの楽しさも理解出来て、何より自分が社会の一員として参加していると言う気持ちは、どう考えても学生やって親の脛にぶら下がるよりはよっぽど楽しい事が分かる。

それにしても時代を担う人々の半数が「社会人になりたくな〜い」では、やっぱり官僚にやられっ放しですね。


tom_eastwind at 12:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月08日

アオテア・ランギ 大地と風と空気と水と

c64c0126.jpg続き
さてこの白ワイン、味わいはすっきりとしてボディはきりっと引き締まって、まるで冷やした最高級の辛口大吟醸を味わうような、けどぼくは米じゃないですよ、葡萄ですよって明確な主張がある。

何よりもこの味わいって、まさにスポーツをこよなく愛する良いキーウィを体現するようだ。口に含めばその透き通った酸味が広がり、ニュージーランドの青い空と白い雲が見えてくるようだ。こんな美味しい天からの授かりものをただで飲ませてくれるお店、あり得んでしょってくらい。

このワインが一番合うのは僕は個人的にはグリーンマッスルの蒸し料理だと思っている。オークランドにオキシデンタル(Occidental)と言う、このマッスルとワインを食わせてくれるパブがある。

オークランドに来られたお客様をご案内すると次からはご自分でも必ず一度は寄られるくらいで、ここのマッスルを一度食うと皆病みつきになる。この店ではバケツに入って出てくる名物料理だ。

マッスルは日本ではあまり有名ではないが、長さ5cm、幅2cmのカバンみたいな形の中に入った、実に滋味のあるムール貝の事だ。

こいつをポットに放り込んで、たっぷりのバター(ニュージーランドの大自然の中で生育した牧草を食べてのびのびと育てられた乳牛から搾り出された乳を攪拌させて分離機でバターに仕上げてる)(バター作りはロトルアに行けば観光牧場で実演してます、10分でバターが出来ます。)、そこに細かく刻んだガーリックと天然の塩と胡椒、これにマオリハーブを加えて味を調えるのだが、これが馬鹿みたいに旨い。

こんな安い値段でこんな美味しい料理がどうやったら出来るのかって思うくらいだけど、考えてみれば澄んだ空気と豊饒の大地と柔らかな水の組み合わせなので美味しいのも当然、地元ではごく普通にスーパーで販売されている食材でありながら、きちんと手間をかけて作れば最高のシーフードメニューの一つになり得る。

アオテアランギのマッスルもやっぱりバケツ(NZよりは一回りちっちゃいがずっと上品)で提供されて、お客はトングまたは指で掴み上げるのだが、貝を殻から外すときに反対側の殻を使っているかどうかでキーウィかどうかがすぐ分かる(この意味分かりにくいと思うけど、こうやるとするっと外せる)。この店のマッスルも、この料理の為にだけ来てもおかしくないくらい旨い。

マッスルとクラウディベイの組み合わせは法悦、とまでは言い過ぎかもしれないが、調味料で慣らされた日本人の舌に、「ああ、美味しいってこういうことか、こうやって自然のものを食べるとこれだけ体に良いのか」と実感させてくれる料理である。

そしてラム肉と赤ワイン、これも素晴らしい組み合わせだ。ニュージーランドと言えば当然羊肉なんだけど、今でも多くの日本人は羊肉を誤解して「臭い肉」として認識しているようだ。

そりゃそうだ、日本の皆さんが昔から食べてきたマトンと言う羊肉は臭い。だからNZでもマトンは犬に食わせる肉である。

羊肉は年齢によってカテゴリーが違う。乳歯が生えるまでの羊、つまり大雑把に言えば一歳未満の羊肉はラムと呼ばれて、これには全く臭みがない。

乳歯が生える頃から羊の体内に一種の「匂い菌」みたいなものが発生して、これが臭みの原因になる。2年目から3年目に至る期間の羊肉をホゲットと呼び、これもキーウィはほとんど食べない。

そして生育後3年経った時点で食肉になった時点で羊肉はマトンとなる。この時点ではすでに犬の餌であり、まともなキーウィ(まともでなくても)はまず食べない。だって肉を置いてあるコーナーがドッグフードの棚なんだから。

世界にはいろんな迷信があるけど、羊肉に関する知識を少しでも正しい方向に向けたい、てか、美味しい羊肉を食べたいと思うなら、是非ともラムとホゲットとマトンの違いは知っておいて欲しい。

でもってこのアオテア・ランギで出てくるラムラックは子羊のあばら骨の肉なんだけど、これはもちろん全く臭みのないニュージーランド直送である。だから臭みがない。牛肉のように脂っぽくなく、けれどとても柔らかな口当たりのラム。

最初「え?ラム?」って言ってた人も、口に含んだ瞬間そのジューシーさと臭みのなさに同時にびっくりして今までラムについてイメージしていたものが見事に変化する。

逆に言えば「ラム肉だって臭いですよ」ってのは、それはあなたが食べたお店がラムと言う名称で実は店側も区別がつかずにホゲットを出しているケースかもしれない。だってシェフ自体がラムとホゲットの違いを知らなければそういう事は当然起こる、見かけは全く同じだから。

自然のままの豊かな海の水が蒸発して雲となり、澄んだ空気の中を雲を柔らかい風が運び大地に雨を降らせて大地を潤わせ樹木を成長させ、同時に大地の持つミネラルを吸い取って川を流れながら水は海に流れ込み、更に海を豊かにする。

思うのだが、空気、水、大地、風、そういったこの国を構成する一番基本的な要素が自然循環してこの国の豊かな自然を作り上げており、その大地で生まれたNZ産ラム肉とNZ産ワイン、相性が良くって当然ではないかと思う。

ニュージーランドの赤ワインはどこのドメインも小規模であり多品種少量生産体質なのであまり日本には出回っていないが、アオテア・ランギはワインメニューが充実しており、とくにその中の一本にはびっくりした。え?!このワインがあるの?

そのワイン、ニュージーランドの平均価格から見ればもちろん安くはない。そして世界標準で言えばほぼ手作りワインでありあまりに少量生産なのでここで紹介して売り切れてしまうと怒られるのでやめておくが、それ以外のワインでも実に素晴らしい味である。

フランスワインのような高貴でいかにも高級ってイメージはないけど、いかにも自然な田舎、いかにも真面目に手作りってニュージーランドワインは是非とも味わってもらいたいものだ。

お店を訪問した全体として言えるのは、この店はニュージーランドの良さを感じて楽しむにはお勧めであり、移住するかどうか考える前に、まずはこの店でワインと料理を楽しんでもらえばいかがだろう。


tom_eastwind at 15:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月07日

恵比寿 アオテア・ランギ

恵比寿にあるニュージーランド料理レストラン「アオテア・ランギ」を訪れたのは東京が30度以上の猛暑に襲われていたある真夏の週末の金曜日の夜、お客様に連れられてだった。

http://www.unitedf.com/aotea_rangi/

以前から興味があったのだけど、場所が良く分からない(一般の人は一発で分かるが地図を読むのが苦手な僕はよく分からないという意味)ままに行きそびれてた。

今回実際にホテルから行ってみて「え?こんなに近かったのか?」と、まずびっくり。ホテルから恵比寿駅に歩いて行く途中にあり、歩いて10分もかからない距離にある。

恵比寿駅の繁華街の五差路のうち一本の通りは住宅街みたいな感じの夜の静かな雰囲気を漂わせており、通りに並ぶお店はどれもお洒落で、金曜の夜の楽しさを感じさせてくれる。

東京で面白いのが、街ごとに住んでいる人種が違うのではないかと思うほど全く客層が違うって現実。とにかくこの恵比寿って、道行く人が皆お洒落なんだよね。同じ東京なのにとげ抜き地蔵にいる人と全然違うよね。

いかにも恵比寿らしいお洒落なお店の雰囲気に負けないお洒落な雰囲気のお客ばかりで、てか、店とお客がお互いを引き立てあっててすんごい良い雰囲気であり、要するに田舎の親父である坊主頭のぼくが来ても全く様にならないってことを上品に言いたいだけだ。

この店の話を聞いたのは数年前で、ニュージーランド料理専門店が出店するってのだけど、日本のお客様は興味を持ってくれるのかな、ニュージーランド料理って言っても美味しいと思ってくれてるのかな、なんて考えてた。

ところが金曜日の夜に入ってみると店内は見事に満席、7時に入ってから11時くらいまで居たのだが(居座った?)、大体15分に1回くらい若くてお洒落なカップルが来て「席ありますか?」の連続。入り口の席にいたので、何だかぼくみたいなのがお店の営業妨害をしているのではないかと自己反省させられる。

それにしても恵比寿と言う街にいると、本当に日本は少子化しているのか?と思うくらいちっちゃな可愛いどこも、じゃなかった子供を連れて歩いてるヤンママを見かけるし、夜の街を歩いてても日本が不況なんてのが信じられなくなるくらいだ。

まるでこの街だけが日本と言う一般的な名称から切り離されてEBSと言う独立した国家ではないか、少なくとも中世の城塞都市の内側で当時最高の文化を享受していた貴族の街ではないかって思うくらいだ。

お店に入るとそこはまるでオークランドにあるOccidentalという地元民向けパブみたいなざっけない感じだ。

初めての店なのに、何でか古く懐かしい、店の中では今その街で生きている人が何の気も使わずにちょっと息抜きにビールを傾けてたり、入り口の外にあるテラス席では少し背中を倒してリラックスした感じの人々がおしゃべりを楽しみながらワインやビールを飲み、スチームドマッスル( Steamed Mussels) をつまみにゆっくり流れる時間を楽しんでいる、そんな感じだ。

ざっけない古そうな、長い時間坐るにはお尻が痛くなるような椅子、頑丈だけどよく使い込んだ木製のちっちゃなテーブル、そこに料理が思いっきり並んで、ビールグラスやワイングラスが処狭しと林立して、皿とトールグラスのバランスはまさにオークランドのCBD(Central Business District)とその周辺の住宅街を彷彿とさせる。

ちっちゃなお店はごった返してるけど人々はそんな事は全然気にせずに、近くのテーブルに坐っているカップル客は笑顔で大きな声で「それにしてもニュージーランド、良いよね!」って話題で盛り上がっている。たぶん最近ニュージーランドを旅行してきたんだろうな、楽しい旅、良かったですね、素直にそう思える。

たぶんこの和やかでお洒落でくだけた週末の雰囲気は、恵比寿だからあり得るお店とお客の波長の同期なんだろうと思う。相乗効果のある波長同期は新宿歌舞伎町では起こり得ない。あそこは客と店が限られた金とサービスを巡ってぎすぎすと相手を削りあう戦場だ。

新小岩だと波長の同期はあるけど、あそこは喫煙席ばかりで地元のおじさんが日本酒とおでんなので、ジャパネスクであるが恵比寿のお洒落の正反対に存在する、ある意味伝統的日本だ。恵比寿とオークランドシティだから何となく合うのだ。新小岩に合うのは香港の女人街裏の屋台街だろう。

この店で最初にびっくりしたのは、当然でもあるがワインの品揃えだ。

ニュージーランドでは常にトップクラスの白ワインとして知られているクラウディベイのサーヴィニヨンブランク、これからニュージーランドを目指したい人、またはニュージーランドの雰囲気を味わいたい人には是非とも飲んでもらいたい素晴らしい白ワインである。

が、何と今の時期、お店ではある程度の食事をしてくれた人に無料でサービスしているのだ。このサービスは8月末までなので、お見逃しなく!である。けどこの店に来てワインだけ飲むなんてあり得んのだが、詳細はウェブサイトを見てください。

長くなったので続きは明日にします。




tom_eastwind at 10:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月06日

這えば立て・・やだよ、自分で決めるよ

どんなに可愛くてもやっぱり怒る事がある。竜馬君がオークランドに戻ってきてすぐくらいの頃かな、しようもない事でどうしても感情的になって、当時住んでいたアパートの窓から竜馬君が大事にしてた人形を放り投げた事がある。

その頃竜馬君はもちろん声が出せなかったのだけど、うーうーと哀しそうな顔をして下を向いてた。びっくりしたのは、最近その話を竜馬君にすると、何とこの子、しっかりその夜の事を覚えているのだ。

子供は外側から見てても分からない、オトナの何気ない一言が一生子供の心の傷になるんだなって思った。同時に自閉症は病気ではない、コミュニケーション能力に一時的に問題が生じているけどそれ以外の能力に問題はなく、時間をかけてそれが取り除かれれば、あとはもう普通の子供と全く同じになるんだなとも思った。

ただ問題は、この「取り除く」作業に時間がかかるのと、その時間内にもっと悪い要素が子供に入り込んでしまった場合だ。その場合は子供はどんどん悪くなっていく。空気の悪い場所にいれば病気になるのと同じで、悪い環境にいる子供はどうしても周囲の影響を受けやすい。

だから本来は大した事ではなかったような問題が、周囲が気にしすぎるから悪化するという事がある。幸運なことにぼくは竜馬君が喋れないのは全然気にならなかったので特別扱いをする事はなかったし奥さんは素晴らしい教育者だから常に彼を見つめながら褒めてきて、結果的に今の、スキー場でも半袖で過ごせるような超元気な子供に育った。

かたことの日本語しか出来ないのに家族で東京に行った時は一人で吉野家の牛丼を注文して卵まで追加注文してて、どんな時でも「ぼく、出来るから大丈夫!」とものおじせずにどんな事でも自分でやりぬいている。

大体漢字が読めないのにスイカ使って山手線に乗って無事にホテルまで戻ってこれるのだから対したものだ。

このあたりはやっぱりニュージーランド教育の良さだと思う。どんな事でもものおじせずに失敗を恐れずに挑戦する(その代わり失敗しても怒らない事が大事)精神だろうと思う。

結果的にぼくはニュージーランドで子育てが出来て本当に良かったと思ってる。(てか、子育ての殆どは奥さんだったので何も偉そうなことは言えないが)

ただまあ、落第父親でもいくつか分かったことがある。それは、「這えば立て、立てば歩めの親心」は子供にとっては迷惑な場合もあるってことだ。

子供は自分の速度で成長していくし、人生は他人との競争ではない。いつ這い這いをしていつ立ち上がっていつ歩くかは、子供が自分で決めることだ。人生は長いんだから急ぐ必要はない。

金を作るだけが人生ではない。金が出来ても家族に見捨てられる寂しい人もいる。自分の子供が豪邸の一部屋で夕暮れを寂しく一人で見つめながら酒に溺れているのは見たくないよね。

だから親からすれば子供に何かを期待してかえって相手に負担をかけるよりも毎日を楽しく過ごさせることだろう。ニュージーランドの教育の良さってのは、子供を素直に育てさせてくれる点だろうと思う。他人と比較せず自分で作った自分の目標に向って進んでいける。

間違っても親が自分の叶わなかった夢を子供に託して無理を押し付けてはいけないと思う。他人を押しのけるような生活をさせるから子供は自分の夢を失ってしまい夢のないまま何故自分が今ここにいるか分からないような大人になっていくのだから。


tom_eastwind at 17:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月05日

デモシカ

香港時代の幼稚園では、竜馬君に接してくれる誰もが本当に“教師”だった。僕はもちろん教育のプロではないが、彼ら彼女らの子供に対する接し方を見ればすぐ分かる。目線が全然違うのだ。

子供には柔らかな言葉で話しかけながら、同時に子供の様子をじっと見つめている。

日本と違って香港では英国式教育なので「Ms Wong」みたいに相手の苗字に敬語を付けて呼ぶ。ニュージーランドでも同じで、単純に先生と呼ぶことは絶対にない。だって先生と言う言葉が存在しないからだ。

Teacher?それは教師だ。Teach、教師ってのは教える師であり、日本にあるセンセイって言葉は、教える子供よりも先に生まれたってだけであり、教師ではないのだ。

子供に教える仕事の大変さを理解し、そしてなおかつプロとして仕事をする。

日本ではデモシカ先生というのがごろごろして彼らが将来ある子供の芽を次々と摘み取っていったものだ。進路指導という名目の元、子供の将来をセンセイが決めていた。センセイの中で一人でも子供に「おい、オマエくらいに夢があるなら独立して起業しろ」なんて言うのはいなかっただろう。

そりゃそうだ、だって自分が出来なかったことを今目の前にいる子供が出来るなんてあるはずもないし、あったら自分のせっかくしがみついてきた人生が否定されたようで悔しいじゃないか。

ちなみにデモシカってのは、先生に“デモ”なろうか、先生“シカ”出来ないなって意味である。

けど、子供の未来をそんな人生のど素人が決めて良いのか?彼らは児童心理学をきちんと学んでいるのか?てか、幸せっての意味とか個性ってとかの意味を分かっているのか?

いつも思うことだが、日本では教師は聖職なのか労働者なのかと考えられる。

その意味でニュージーランドでは一つの答が出ていると思う。それはプロフェッショナルと言うことだ。労働者でもあり聖職者でもあるプロ。だから昇給を求めてストライキもするし同時に子どもたちに何故私たちがストライキをするかを教える。

もちろんニュージーランドの全ての教師が素晴らしいわけではなく、うちの家庭の夕食の時にも娘が学校の教師の批判をしたりするし、お母さんも竜馬君の学校の教師の批判をしたりする。

けど僕からすればそれは基本的に「程度の問題」であり「絶対的な問題」ではないって部分でニュージーランドの教育方法を評価したいと思っている。

僕自身が小学校の頃から何度センセーに潰されたことか、いまだもって怒りをもって思い出すくらいだ。

これは別に、個人的に誰が悪いとかではなく、日本式教育ってのは一部のエリートを除き90%以上の人間を型に嵌める教育であり、落ちこぼれは“だめだめ”であり、ましてや自閉症の子供なんてあり得ん、そんな感じだった。

何故か?答は簡単で、そうしないと日本と言う国家組織が運営出来ないからだ。

僕はその当時の政府の選択を間違いとは思っていない。実際にそうやって日本と言う国を世界のトップクラスに押し上げたのだからたいしたものだとおもっている。

ただ、そのシステムは“普通ではない人々”にとってはとってもきついシステムであった。普通になれってのは、僕にとっては、既成の靴に合わせて足を大きくしろとか言う話であり、それは僕の中であり得ない解決策だった。

竜馬君を見るたびに自分の子供時代を思い出す。やっぱりこの子がこの国で生まれ育って良かったな、日本だったらこの子は完璧に潰されて、自殺していたかもしれないって現実。

一体どれくらいの日本人が自分の立っている場所を安定しているって思っているかもしれないが、安定ってのは本人の心構え次第であり、それなしに社会にすがって生きているのは安定ではなく甘えでしかない。

誰かに何かをしてもらおう、その気持ちは分かるけど、親である自分がしっかりとした価値観を持っているのか、他人の価値観を自分の子供に押し付けてないか、子供は意外と強いのだ、あるがままに認めてあげればよいのだ。

自閉症?何が問題だ?ぼくはこうやって生きている。あるがままに生きている。

続く



tom_eastwind at 16:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月04日

シェーカー

バッシャーン!盛大な音を立ててシェーカーがぶつかり中のアイスカフォレがキッチン一体に飛び散る。

「大丈夫、ぼくは何でも出来るんだ!」といつもの口癖で竜馬君は生まれて初めてのシェーカー振りに挑戦するも、振る前にきちっとトップのふたをするって基本をやらずにいきなり馬鹿力で振り回したもんだから、中身は飛び散るわ、慌てて取り落としたシェーカーから残りのカフェオレが飛び散るわで、台所は大変なことになっていた。

最初にお母さんが「このふたをね、ちゃんとこうやって」と説明している最中に「大丈夫、分かってるから、お母さんはあっち行ってて!」と言い、お母さんが“あっち”に行った瞬間にバッシャーンだから、可笑しくて可愛くてしょうがない。

普通の日本人なら汚れたキッチンを見て怒るだろうが、ぼくやお母さんの場合はどっちかと言うと起こらなかったこと、つまりこれで竜馬君が怪我をせずにまた一つ人生で生きていく方法を実戦と言う形で覚えてくれたほうがうれしい。

ニュージーランドの教育方針は日本とは全く違う。そして社会構造も全く違う。だから子供に対する親の接し方も全く異なる。

ぼくは教育の専門家でもなければ医者でもないから、ニュージーランドの教育のどこが日本と比較してどう良いのかとか、何でぼくの香港政府及びニュージーランド政府お墨付きの生まれつき自閉症の子供が小学校5年くらいで普通クラスに編入出来て、今では親に向って「分かってるから、あっち行ってよ!」って言えるかを理論的に説明は出来ない。

ぼくのブログはコメント欄は作ってないけど、書き込みをしてもらうと読むことは出来る。いろんな書き込みが来る。

どう見てもこの人、お酒飲んで書いてるでしょって感じのワンフレーズ「フィービジネスやってる奴がなに偉そうなこと言ってんだ」とか、君さ、専門用語使って書き込むしおまけに自分の名前をTakuなんて書いてしまうと、おれんちはtakuよりは一年長生き出来たんだぞってのが見え見えでしょ、隠したいならもっと上手にやればと思わず微笑んでしまう。

返信出来ないシステムのコメントなのでROM(読むだけ)になるんだけど、興味のあるコメントについては数日中のどこかのブログの中でその人に分かるように情報提供をしている。

昨日受け取ったコメントが自閉症とNZで検索してたらぼくのブログにたどり着いたと言う方からだった。

ん〜、竜馬君ネタだけど、問題はぼくは自閉症の専門家ではないので偉そうなことは何も書けない、ただ、竜馬君と一緒にずっと今まで一緒に生きてきたってだけだ。

だから上に書いたように専門家でも医者でも教育者でもないのであくまでも素人としての、ただ現場を経験してきた人間の立場からしか言えないけど、ニュージーランドは人を人として、個性を個性として認めてくれる国だってのだけは言える。

生まれて最初の5年くらい、竜馬君は一言も話が出来なかった。全く言葉が出てこないのだ。うーうーと唸るわけでもない、にこにこしているしとても元気なのだが、まったく話をしないし記憶力が殆どなく会話も不能だし少しでも嫌いなことには異常なほどに反応してしまう。

初めて香港の幼稚園に連れて行った時に教師から「この子は普通の子とちょっと違うからお医者さんに一度見てもらって下さい」と言われて病院に行くと「お母さん、残念ながらこの子は自閉症です、普通の学校に行く事は出来ません」と宣告された。

ところがお母さんはその話を聞いた瞬間、お医者さんの前でびっくりするほどにこにこしており、「あ、そうなんですね先生、有難う御座います」びっくりしたのは医者の方で
「あの、お母さん、大丈夫ですか?」
「いえ、あのですね、変な意味じゃなくて、この子のお父さんってこの子以上に変なんです。けどまともに社会で生活して一応家の大黒柱として働いてもらってるので、だったらこの子も問題ないなって思ったんですよ」

嘘みたいな、けど本当の話だ。その晩奥さんから聞いた時、ぼくも「ああ、そりゃそうだな」って思わず頷いた。ぼくら二人にとっては竜馬君は個性を持つ可愛い子であり、それ以上でもそれ以下でもない、とにかくこの社会で楽しく生活出来ればそれで十分と思っていた。

自閉症を気にするのは親だが、子供は自分を自閉症と思っていない。ぼくが生まれてから30半ばまで自分をおかしいと思わなかったのと同じだ。

周りが気にするから本人も気になり、そのうちどんどん悪くなっていく、そういう事ってないだろうか。例えば小学校でトイレに行った子供を周りの子供が笑いのネタにして、それが段々周囲の虐めに繋がっていくとか。

子供も同じように、いつの間にか周囲の遠慮するような雰囲気とかを感じ取って「あれ?ぼくっておかしいのかな?」って思うようになる、そんな事ってないのだろうか。

オークランドに移住してきた時も、お姉ちゃんは優秀で周囲の空気も読めて本心はどうか分からないけどそれなりに学校にも通った。けど竜馬君はここでもまた「ニュージーランド政府のお墨付き」をもらって特殊学級へ。

ある時おくさんから「あ、そう言えば何だか政府から毎月200ドルくらいお金が振り込まれてるわよ」と言われた。聞くと、竜馬君の自閉症で大変だろうからって政府から支給されるお手当らしい。

結果的に幼稚園の学費も全額香港政府持ち、ニュージーランドでは勿論学費は無料だけど、更にお手当貰って学校に通う状態である。

月曜日から木曜日までは特殊学級、金曜日は普通学級で勉強をする生活を小学校一年から大体4年くらいかな、繰り返した。

当時は英語どころかお母さんの母国語である広東語でさえ殆ど話せなかった竜馬君で、学校の教師からしても大変だったろうけど皆本当によく子供に普通に接してくれて、竜馬君も学校でいつもにこにこしてて、笑顔だけはとても可愛くて、本当に楽しかったのを覚えている。

続く

ネスカフェ

tom_eastwind at 17:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 移住相談

2010年08月03日

Gravity

龍馬Gravity

ニュートンが落ちるりんごを見て思いついたという重力を、竜馬君が豆腐で実験した。別に豆腐でなくても良かったのだが、冷蔵庫にある食材で安いもので東洋的なものって考えたのだろう。

「重力について説明せよ」、これが竜馬君の通う中学校で先生から出された宿題である。

こちらの宿題と言うのは歴史の年号を暗記するとかスイキンチカモクドテンカイメイではなく自分の考えている事を表明するプレゼンテーション資料の作成と発表なので、いつ、どこで、何が起こったかを暗記して終わりではない。それを合理的に説明せねばならないのだ。

写真のように大きなパネル(これは後で立体的にする予定)に色んな文章やグラフを貼って、そこの中心に落下前の豆腐と落下後の豆腐の写真を入れて自分なりに重力とは何かを考えさせ、それを他人に理論的に説明する能力を身に付けさせることが目的なのだ。

世界が重力で支配されているのは誰もが周知の事実である。それを法則として証明?再発見?なんてか、誰でも知っていることを理論で発表したのがニュートンであり、別に彼が発明したわけでもなんでもない。

竜馬君はニュートンの重力?引力?の法則を自分なりに理解して「重さとは何か?」を同級生の前でプレゼンテーションするのだが、週末の間、好きなゲームも出来ずに朝からずっとエクセルでデータ作成やワードで文章を作ったり、次はそれをどんどん印刷にかけて、それから大きなダンボール紙を居間に広げて宇宙を意味する青に塗って、それから今度は床に座り込んではさみで切ってフロアを紙切れで吹雪が出来るほどにばら撒きながら一生懸命作っている。

ところが大体1時間に1回くらい、切れる。基本的に他人の話を聞かないので、お母さんがちょっと洗濯物を取り入れに行った瞬間、ふと目の前にテレビがあると何も考えずにスイッチを入れて後はずーっとそれを、お母さんに見つかって怒られるまで観ているのだ。

そしてお母さんがいる時でも、作業が煮詰まってくると、「お母さん!もう駄目だ、ぼくの思考回路が溶けてしまった!整理するにはPS3しかないんだ、Give me half hour ! 」とか叫んだりしている。けど一度始めたら1時間では終わらないのもいつもの事で、これまた怒られる。

毎回怒られることは目に見えているので、最初にまとめて宿題を終わらせてからゆっくりテレビを観ればよいものを(まあ親父も毎回同じ結果になることを分かっていながらバカな事をしているのであまりどうこう言えないが)プレゼンテーション資料作りは彼にとって全く新しい勉強方法であり、いらいらするのもよく分かる。

竜馬君もそろそろ自分の将来の方向性を考える時期に来ており、これから学校が教えていく内容も今までのような一人一人の子供向け情操教育中心から次第に社会の中に一人で放り出されても他人と社会生活をしながら生きていけるようになれる「すり合わせ教育?」とでも言うかな、自分の主張をきちんと他人に伝えられるようにする訓練だ。

今回の竜馬君のテーマは重力であるが、先生が与えた研究テーマは一人ひとり違うので、テーマが被ることはない。このあたりも、他人と比較するよりも自分で目標を作って自分の目標に近づいていくと言う方針を感じる。

プレゼンテーションの資料が出来上がれば学校に持って行き、子供たちが順番にクラスの前で自分に与えられたテーマごとに同級生に発表する。

最初の頃は慣れないだろうが、そのうち西洋人社会の論理にもまれて彼らの言い回し、理論展開などを少しでも覚えてくれればと思う。そうすれば彼は言葉のバイリンガルだけでなく思考回路に置いてもバイリンガルになることで、西洋社会のどこに飛び出しても親の助けなしに何とか戦っていけるからだ。

バイリンガルと言えば日本では士魂商才、和魂洋才、と言う諺があるけど、うちは日中ハイブリッド家族なので亜洲精神西洋理論か。


tom_eastwind at 12:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 

2010年08月02日

言葉の障害物競走 堂場瞬一

「告白」されたのが土曜日で、あんまり後口が悪かったので日曜日は大切にしまっておいた堂場瞬一を一冊引っ張り出す。海外に住んでいると小説の在庫ってのは大事で、それこそ後3冊!なんてなると精神的に不安定になりとりあえず何でもいいからamazonしようって事になる。

けどその作品が今回のように「外れ」だった場合はかなり辛い。なので堂場作品はまとめ買いして棚に置いてる。安全策だ。

彼の作風はホームランは打たないけど確実にきちんとヒットを積み重ねて、終わってみればいつも僅差で勝っているって感じだ。

堂場ものは元々鳴沢シリーズから入ったのだが、当時流行の警察小説と言うよりも、何かな、一人の真面目な若者が社会の中で段々成長して大人になっていく過程を王道で描いているって感じがする。

それから検察、失踪課シリーズと続き、ぼくにとってはどれも安心して読める内容になっている。突飛でもなく無理もなく、一つ一つの話の進み方に現実感がある。

警察小説も次々と出てくるようになり、そろそろ各作者の力量が見えてき始めた。

佐々木譲(普通に好きだけどちょっと暗くないか)、今野敏(問題なくdaisuki)、横山秀夫(僕は個人的に好きではないが)などの有名どころと並べてみると堂場は一段低い評価をされているのかもしれないが、個人的に好きなので気にしない。

今回は警視庁失踪課・高城賢吾シリーズの「相剋(そうこく)」。

日曜の昼から読み始めて、途中で夕食のちゃんぽんを作ってみんなで食べてお皿洗ったらもう8時。やっばいな、まだ半分残ってるじゃんか。ちゃんぽんじゃない、本だ。

明日は月曜日だから早く寝ないと。うーん、けどこれを残してベッドに入ってしまうと、折角の堂場作品が勿体無い。

と言うことでこの日曜は特別に11時まで起きてて良いって決めて、結果的に10時30分頃に読了。

ある日失踪課にやってきた少年の依頼を受けて高城刑事が非公式な家出人捜査を始めるのだが、やっぱりぼくがこの作品を好きなのはその言葉選びだろう。

「言葉の障害物競走をやらせたら手ごわいですよ」と言う台詞がこの本に出てくるが、まさにこの言葉選びが堂場ものの面白みを一番的確に表現しているのかもしれない。

本庁一課からやって来た横暴な管理官に対して所轄刑事である高城が失踪課室長の真弓を前にしてこんな会話をする。
「話が終わりならお引取りください」私はドアを開けてやった。
「何もわざわざご挨拶に来てもらう必要はなかった」
「最低限の礼儀のつもりだが」
「そういうことなら、あなたのような礼儀知らずを寄越すべきじゃなかったな。一課も人材不足なんですか?まともに喋れる人間もいないとはね」
射殺そうとするような目つきで長岡が私を睨みつける。しかし捨て台詞を忘れはしなかった。真弓の方を向いて
「これ以上うろちょろしていると、正式に問題にします」と最後通告をする。
大股で失踪課を出て行く彼の背中を見送りながら、私は呟いた。
「我ながら我慢強い男だと思います」
「そうね。よくあれで済んだわね」
「他人事みたいに言わないで下さい」

何のことはない言葉の掛け合いだが、こういう言葉の掛け合いはその人の会話力と人間力、てか人間のセンスをそのまま表に出してしまう。

同じセンスと会話力があれば、お互いに相手の会話力を理解しているから、今一番その場に合った言葉が使えてとても楽しいし常に相手から学べる。

これでセンスが違うとそうはいかない。人間力の問題だからどれだけ学校で勉強しても、会話の出来ない人間には出来ない。

バカに限って語彙が少ないのは英語も日本語も同じで、なにかにつけては同じF台詞しか言えない連中ってのがまさにその例である。

特に夫婦の間で言葉のセンスが違った会話は一方通行になり、そのうち会話が楽しくなくなり、いつの間にか会話をしなくなり、最後は濡れ落ち葉である。

言葉のセンスは実生活において明確に出てくる。どの場面でどの単語を選びどのような言い回しをするか、それでその人の実力が判断される。言葉はまさに言霊であり、金でも身長でも学歴でもないその人の中身が飛び出してくるから怖い。

言葉は正しく使わなくてはと思わせる一冊。同時に、本棚に高城シリーズが後何冊残っているかを考える。これからも高城の言葉の障害物競走が楽しみだ。



相剋―警視庁失踪課・高城賢吾 (中公文庫)相剋―警視庁失踪課・高城賢吾 (中公文庫)
著者:堂場 瞬一
販売元:中央公論新社
発売日:2009-04
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


tom_eastwind at 14:04|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

2010年08月01日

告白されてしまった 湊かなえに

「わたし、実は小説じゃないんです」と告白されてしまった感じの湊かなえ作品がこの「告白」だ。

てか彼女の他の本を読んでない状態で本屋大賞を受賞して映画化もされたって事なので、そうなると二つに一つ、余程双葉文庫がプロモーションをかけたいのか本当に今の時代に合った小説なのか、である。

結果としては両方、かもしれない。

小説なんてのは好き嫌いがある訳で僕の大好きなSF作家筒井康隆も作品のレベルの高さの割に世間一般ではあまり高い評価を受けてない。

SFマガジンを子供の頃から読んでいた僕としては彼の世間全般を洞察した知性をベースにしたパロディなど実によく出来てるなと思うが、知性パロディを理解出来ない人種にとっては噴飯ものらしいし「無人警察」に至っては「差別だ!」って本気で怒る人がいるくらいだから、小説に関しては好き嫌いがあるとしか言いようがない。

ただ、自分で自分の事を小説と呼ぶなら最低の基準があると思う。例えばそれが全編文字で書かれている事とかは当然として、それ以外にもいくつかの基準がある。ただこれが人によって少しづつ解釈の仕方が違うので細部に至ってはもう議論のしようがない。

例えば東京に「二郎」と言う有名なラーメン屋がある。本店から暖簾分けしたのか、東京にはたくさんの二郎がある。ラーメン通で反二郎派からすれば「ありゃラーメンじゃない!」と言われたりする、かなり異色のラーメンである。

二郎派にとっても「おれ、今日は二郎食べる」と言うのもそれほど違和感がないほどに通常のラーメンから離れている。けど、例えて言えば地球と火星くらいに離れていると表現したって、それでも地球と土星よりは近いからやっぱりラーメンだとも言える。

僕にとってこの「告白」と言う本はそれほど僕の解釈する小説からは離れている。しかし全編文章で出来上がっているから一応は本屋に並べることになったのだろう。(そう言えば話は横道にそれるが、Ipadを販売する本屋ってないのだろうか)

だもんでゆとり教育のど真ん中で本も殆ど読まずに子供の頃にあまり漢字に接する機会がなくて、けど塾には必ず通ってて受験勉強だけはやってて、子供のことを分かってくれない親に腹立ちを感じながらも尾崎豊の歌のようには家出もできないままに東京の大学に入学して、アルバイト先の本屋でたまたま開いたら自分と同じような年齢で同じような感性の人がとっても分かり易い表現で短い文章をたくさん並べてくれてたから手にとって読んでみて、それで本屋大賞になったという感じだろう。

言葉を変えて言えば評価する側の低下である。本をきちんと読んだことのない、重みのある本を読めない、例えて言えばキリンビールが本格的なビールだとすればアサヒビールってのは子供だましだけど若者からすればあの軽さが体に受け入れやすい、キリンビールでは重すぎるって感じか。本屋大賞、以前はもうちっとましだと思ってたのだが。

けど映画にするのは正解だろう。海外ロケも不要で派手な銃撃場面もアクションもないので非常に低コストで映画を作れる。そこに松たかこ、岡田将生を持ってくればファン層も間違いなく掴めてヒット間違いなし。

観客は映画のないようにはがっくりしてもすでにその時点で売上は計上されているのだから観賞後感がどうでもあろうと構わない。どうせ一ヶ月で忘れてしまうような客層なんだから、また半年くらいしたら同じようなプロモーションをやれば戻ってくる。

そういう意味では今回はプロモーションを仕掛けた連中の勝ちですね。出版不況の原因がどこにあるかを考えるよりもまずは目先の売上、ですな。

出版業界も紙だけでビジネスを考えてしまえば構造的に終わりだしそれは新聞や雑誌が物語っている。

今後は著作権を出来るだけ弾力的に解釈して良質の作品を送り出す、アイドル作家ではなく優秀な作者の卵を見つけては開発してビジネスを広げていく、そういう方向に進んでいけば出版業界も明るい将来があると思う。




告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み 21-1)
著者:湊 かなえ
販売元:双葉社
発売日:2010-04-08
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


tom_eastwind at 12:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本