2011年01月
2011年01月31日
食糧に関する誤解
日本で食糧自給率の話が出るときに必ずついてくるのが「日本で作らなくても海外から買えばよい」という議論である。
この議論で一番怖い点は「自分たちが食糧を外国から買うか買わないか」での議論があっても、相手には「売らない」という選択肢があるのだということが議論されないことだ。
【1月25日】 国際的に食料が安価だった時代は終わり、世界の人口増や食事の肉食化の影響で今後、食料価格は高騰し続け、40年後に今より50%以上高くなると予測する報告書を英国政府が出した。このまま世界の食料システムを変えないと、世界で10億人が飢えると。今の世界の食料システムは自由市場体制(米国系食料会社などによる隠然支配)だが、国際的な食料管理体制の強化が必要だと。この報告書が示唆するのは「世界政府」の機能強化である。世界的な金融危機回避や貧困対策、地球温暖化対策、テロ対策などの分野でも、世界システムの強化が提唱されているが、それらと同様の、世界政府に向かう隠然とした誘導だ。この動きは、米英覇権体制の綻びと同期しており、覇権多極化の流れの一つである。
http://www.independent.co.uk/life-style/food-and-drink/news/food-inflation-is-only-going-to-get-worse-in-future-warn-scientists-2193301.html
Food inflation is only going to get worse in future, warn scientists
日本の食糧問題を語るときに肝心の購入先である外国のことを考えてみよう。どこの国でも食糧が十分にあれば外国に売って外貨を稼ぐことはある。
ニュージーランドには豊富な食料があり食糧自給率はおおざっぱに言って300%以上ある。つまり10個のキーウィフルーツを作っても自国の消費は3個で外国に7個輸出して外貨を稼いでいる状況だ。
しかし最近はその輸出先が中国や欧州を中心として日本向け輸出については消極的になっている。
この理由はまず日本の提示する価格が低すぎることにある。日本は自分の国がデフレで不況で安くないと売れないってことで外国にも「安くしろ!」とむやみやたらに主張するが、例えば日本がサーモン一匹を20ドルにしろ!と言ってるときに中国が30ドルでいいから売ってくれと言われればそりゃだれでも中国に売るわな。
そして次の問題が品質要求である。サーモン100匹買うのにすべてのサイズが同じでないとダメだとか見た目が同じでないとダメだとか、本来の意味の品質とは関係ない日本側の嗜好の問題をニュージーランドに押し付けてくる。
ニュージーランド側が「いったい何が問題なのだ?魚は缶詰にしたり切り身にしたりするんだからサイズや見た目は関係ないでしょ」というと日本側のバカ担当者は偉そうに「何言ってんだよ、日本じゃそんな魚は売れないんだよ、そんなこともわからずに商売しているのかよ、まったくガイジンはやってられねーな」とそっくり返る。
ガイジンからすれば日本は世界にたくさんある消費国の一つにしか過ぎなくて人口だって1億2千万人だけだ。
同じものを中国にもっていけばサイズや見た目は気にしない、美味しければ良いし値段だって買い手=消費者に転嫁できるからあまり気にしない。だいいち人口が12億人ですぜ!日本の10倍以上の市場があって言い値で買ってくれて見た目は気にしないってんだから、こりゃ誰でも中国に売るわな。
そして今、現実にニュージーランドで一番大きな水産会社のお得意先は日本ではなく中国になっている。つまり価格や品質が合わなければ「売らない」という選択肢があるのだ。
それでも日本はいつまで経っても過去の栄光にしがみついて今の日本がどれだけ世界から無視され始めているかを気づこうともせずに「食糧問題」を語っている。
世界はすでに、「これなんぼや?もっと安うせーや!」と無闇に値引きを要求する日本のわがままな消費者と、その日本だけでしか通用しないバカごとを世界に向けてそのまま垂れ流ししているバカな水産会社とはつきあっていられない状況なのだ。
そしてさらに問題なのは、食糧問題が政治問題になった場合、日本は確実に飢えるということだ。
今の日本は金さえあれば何でも買えるって感覚だが、これから世界中で人口が増加する中で誰だって飢え死にしたくないわけだからまずは自国の食糧確保に走るのは当然だ。そうしないと今のチェニジアのように国民が暴動を起こして政府が転覆してしまう。
そして日本に対して何らかの外交的要求または経済的要求を持っている国がその政策を実現するために食糧輸出の停止は当然ありうる選択だ。
日本が嫌いだから魚を売らないという話ではない。そもそも外交的駆け引きの延長線上にあるのが経済制裁でありその先にあるのが戦争である。
今の日本に戦争を仕掛ける国はないだろうが、日本に言うことを聞かせるために経済制裁をすることは十分ありうる。その時食糧は武器となるのだ。
売らないという武器がいつ使われるかはわからない。しかし例えば最近中国が発動した政策である「レアメタルを売らない」という武器は日本だけでなく多くの先進国に影響を与えている。
これなどは日本の経産省が早いうちから予測していたことだが誰も「まっさか〜?中国みたいな貧乏国が売らないなんてあり得ないよ〜」と楽観視した結果、中国に替わる代替国での開発を怠って、その結果として車メーカーが大打撃を受けそうな状況である。
食い物ではないレアメタル一つを取ってもこうである。ましてや食い物の力は恐ろしい。国家を転覆させるのは食い物がない時である。
例えばある国が日本に対して外交要求として外国企業の日本での営業を認めさせろ、規制は緩和しろと言いだした場合、日本は当然のように自国産業を守るために拒否するだろう。
その時にある国が「じゃあいいや、お前らには小麦粉は売らない、ほかの国も自由経済を堅持するって名目で日本向け輸出を停止させるぞ」となれば日本は外国の言いなりになって外国企業を受け入れるしかなくなる。
そしてどこかの発展途上国が「お、今なら日本に高く小麦粉を売れるぞ」と乗り出しても“ある国”はその途上国に対して違う攻撃を仕掛けてくるだろう。
そうなれば日本人が食えるものはいくばくかのコメと一日一切れの魚にたくわん二切れということになる。
食糧の安全保障とは何も戦争だけを意味しない。日本の外交的安全保障も含まれているのだ。
だから日本がすべきは今中国がアフリカでやっているように「外国の土地」を合法的に買って自国向けの農場にすることだ。今ならまだ外国の土地でも合法的に買える。個人が所有してその食糧を日本向けに送ることは外国も反対出来ない。
中国は日本からODAの名目で金を受け取ってその金で自国の食糧安全保障政策として新興国であるアフリカで土地を買って食糧や地下資源を合法的に得ているのだ。
世界で食糧問題を深刻に捉えて問題解決に向けて具体的な行動を起こしているのに、日本はその間ぼやーっとしてへらへらと笑いながら「そんなこと、あるわけないじゅあ〜ん」とふんぞり返っている。
食糧問題についてはほんとは行き過ぎた行政による衛生管理や国民意識の低下による食糧廃棄問題があるのだが、それを書き出すと長くなるので後日にネタにしたい。
ただ、ニュージーランドという農業輸出大国で今行われている日本無視は必ず他国にも波及する。その時になって後手後手で対策を考えても日本に勝ち目はない。
2011年01月30日
年金改革は白紙で議論!
政府の言ってる消費税と年金改革の行方が見えてきた。まさに今までの制度を「白紙」、つまりちゃらにしてしまうということだ。
「国民の皆さん、みなさんが今まで払った年金は賦課方式、つまり年金世代を現役世代が支える仕組みという名目なので皆さんが払ったお金は先に使ってしまうのです、今まで皆さんが払った年金は全部箱モノにしたり天下り財源にしたりして使ってしまったのです。だからあなたの払ったお金はもうありませんヨ」
「もしあなたが年金欲しければ若者から取り立てるようになりますが、そうなると彼らの負担は毎月3万円とか5万円とかすんごく高くなりますよ、若者を苛めてあなただけ楽をしたいのですか(笑)〜??」
「日本のみなさん、今後は年金は団塊世代がもらえないようにひとまず70歳から支給にしますが、団塊世代が死なずにたくさん生き残るようなら団塊世代が追いついてこないように次は75歳、その次は80歳、最終的には90歳にしますから〜」
「それから病気にもならないようにメタボ対策やってくださいね、医療費も高くつくので今は三割だけどそのうち病気の種類によっては自己負担を基本としますね。どうしてもお金がなければ病院には行かないでください。でもって自宅で孤独死してくださいね。だって自己責任でしょ、病気になるのは」
「あ、もちろんぼくら公務員は別ですよ、自前で公務員年金を作ってるし医療保険制度も整備されていますので大丈夫。だいいち、いやだな〜(笑)、ぼくらは60歳までにきちんと天下りしますよ〜」
「次官クラスなら上場企業の役員、局長クラスでもなんちゃら財団やなんちゃら公益法人やらたくさんあります、一般職員でも自動車学校とか取引先の中小企業とかね、だって役人に睨まれたら困る人がたくさんいるでしょ」
「でもってそこの会社で70歳まで悠々自適で給料とか役員報酬とかをもらって最後にどかーんと退職金をもらって、仕事を辞めた後でも公務員年金は手厚いので生活には困りません、ど〜ぞご心配なくぅ〜」
年金改革が議題に乗っているが、どうやらこの考えは「年金は払わない」という方向性である。与謝野さんが担当になって財務省と組んで方向性は明確になった。年金を白紙でという意味は、年金制度をやめることを含めて見直しをしようということだ。
今まで国民から預かってた金は全部使った。年金制度は止めて自己責任制度にする。今まで真面目に払ってた人ありがと、これからは自分で稼いで自分の老後を守ってね。
これも財務省の立場から見ればわかりやすい。1960年代頃から年金は税金として国民から集めようという議論が当時の大蔵省の中にあった。しかし税金が高いと批判されないようにあえて税金と切り離して年金としたのだ。
こうすれば払ってる方からすればなんとなく貯金している気分になる。実際は賦課方式であり払った金はその場で全部使われたのだが、1970年代の若者は30年先に年金がどうなるかなんて考えもせずに黙って政府に金を差し出したのだ。。
しかし役人の感覚では国民から集めるこのお金は「税金」であり、毎年使い切るのが正しいとなる。
今年集めた金年金受給者に配給した後に残る莫大なお金の入った金庫に政治家や役人が手を突っ込んで「おらが村に箱もの作れ!」とか「私たちの天下り先の財団を作りましょ」となる。
もともと年金が残高不足になるのは20年前からわかっていた。少子化により現役世代が減っていくのだから当然のことだ。
今までにかき集めた金は全部使った。これから集める金は今の制度で払っていくには足りない。ならば選択肢は若者からごっそり取るか年金支払いを停止するかである。
ここでわかると思うが、厚労省には最初から年金運用で次世代に資金を残すと言う発想は全くなかった。とにかく入ってきた金は全部使う。足りなくなったら国民に選択を求める。「あなたの年金止めますか、若者から搾取しますか?」だ。
しかしそこには自分たちが保身のために使った金のことなど全く考慮されてない。
「今まで俺たちが払ってきた金は何だったのだ?」
「ああ、あれね、あれは賦課方式と言って年金世代の人々のために全部使ってしまいましたよ」
「え?じゃあおれたちが25年以上も続けて毎月払ってきた金はどこにあるんだよ?」
「ああ、あれね、ほら、阿蘇山の近くとか年金で作られた宿泊施設とか演芸会館とかあるでしょ、あれに使ったんですよ、だって賦課方式ですから入ってきたお金は年金世代の方に楽しんでもらうために大きな箱を作ったんですよ」
「それって今の計算でどれくらいの資産になるんだ?てか、それ売り飛ばして現金に出来ないのか?」
「ああ、あれね、売り飛ばしてもいいけど二束三文だし誰も買いませんよ、だってそこで働いてるのは国家公務員という大事な人々で、買い取りをしたい人には必ず雇用保障を要求しますからコスト合いませんよね〜(笑)」
「じゃあ、おれたちが今まで払ってきた金はなくなった、じゃあおれが60歳で定年になったらどうするんだよ!」
「ああ、あれね、大丈夫、定年は65歳にしますから。けど年金支給開始は70歳、でもって死人の数が合わなければまた支給年齢を引き上げますから〜、わははは」
これこそまさに年金の根本的改革である。政治が止めることは出来ない。選挙で止めることも出来ない。何故なら政治は官僚によって支配されており官僚は選挙で選ばれるのではないからだ。
この日本の制度を根本から変更する方法はある。しかし実行するにはあまりに多くの犠牲が必要である。今はまだ無理だ。
2011年01月29日
今度は背番号制度の復活ですかい!
ここまで来ればもう何でもアリの管政権である。与謝野さんが背番号制度の導入をいきなり発表してしまった。
いずれ短命に終わるから彼ら社会主義者が政権を握っているうちに財務省の目指す個人資産巻き上げ政策を一気に実行しようということだ。
民主党は大所帯であり左も右もいる。小沢氏が古い利権政治家の代表みたいに言われてるが、彼の国家運営の基本はイギリスのような小さな政府である。
そして管首相の目指す方向性は社会主義であり大きな政府だ。彼ら1960年代に理想の社会つくりを目指して連中の頭は今でも変わらない。
彼ら社会主義者は人民の平等が大好きだから金持ちから資産を全部巻き上げて政府に納めさせてすべての労働者に平等に行き渡るようにする。つまり下向きの平等だ。
もちろん政治家と官僚が少々余分に分け前を取って自分の懐を潤わせるのは仕方のないことだ、政治家や官僚は国家天下の事をいつも考えており、一般庶民が自分の生活を考えてるのに比べてずっと忙しくて大変なのだから。
彼ら社会主義者は労働者が大好きだからすべての労働者を雇用して役立たずでも何でも正規雇用で守りその分の人件費のしわ寄せが企業に行って結局海外企業との競争で負けても構わない。企業よりも労働者が大事なのだ。
その代わりに、政府が守るのは政府の言うことをちゃんと聞いて大企業に就職して正社員になった労働者だけね、フリーターとか自分で雇用の自由を選ぶような連中は正しい労働者ではないから彼らの雇用は守りません。だってだらしない生活を送ってきた連中は自己責任じゃんか。
彼ら社会主義者は犯罪のない平和な社会を作りまさに1960年代のロシアとか中国とかを目指している。そのためには国民全員を監視して政府批判発言があればすぐに国策捜査で逮捕してその人の人生を潰してしまう。
犯罪予防のために何もしていない一般市民であっても“犯罪を犯す可能性がある”ってことで逮捕する。
そのために人民の自由が少々犠牲になっても仕方ない、理想の社会主義国家を作るのだ、目的は手段を正当化するのだ。
そして彼ら社会主義者と手を組んだ財務省は、本来は簡単に通りそうもない相続税増税をどたばたの中で作り上げ、子ども手当では本来中央が勝手に決めた事なのに税負担は地方に「地方分権」という名目で「お前らも払え」と押し付けた。
こうやって国民の関心をかっている間に次の本丸が消費税と年金である。そしてこの両方を確固たるものにする、つまり一切の逃げ道を塞ぐ制度が今回の国民総背番号制度である。
国民全員に番号を付ければ管理しやすいのは当然だ。ニュージーランドでもすでに実行されてて僕のような永住者でもIRD番号を持っている。ただニュージーランドの場合は手続きの簡素化のためが主であり国民監視が目的ではない。
ところが今回の日本政府が導入する総背番号制度は国民の一挙手一投足を監視する為であり国民の金をすべて捕捉して確実に課税するためであることは明白だ。
それにしても日本の財務省がどれほど賢いかは今回の一連の法改正を見ればよくわかる。今回の改正でも表舞台に出るのは政治家だけ。彼らを弾除けに使って自分たちは黒子として政治家人形を踊らせているのだから。
しかしまあ、こうなったら何でもやり放題の社会主義者と財務省の強力タッグである。こんなのに対して国民が個人で抵抗しようとしたって勝つわけがない。
そして今年の選挙で自民党が勝っても国会のねじれは変わらず選挙制度自体が疲弊しているのをうまく利用して官僚たちが自分たちに都合の良い方向にどんどん引っ張っていく。
まったく、日本株式会社の復活である。挙国一致して「辛抱します勝つまでは!」とか「欲しがりません勝つまでは!」とかになって、政府の言うことをおかしいなんて少しでも口に出そうものなら町内会の洗脳おばさんたちに吊し上げられるのだ。
これからの10年、日本国民はとんでもない事になるぞ。いつだれが突然犯罪者として逮捕されるかわからない、個人資産はどんどん税金で持っていかれる、仕事は強制労働並みにきつくなる、けれど給料は上がらず生活はますます苦しくなる。
誰もが息苦しくなっていくのだが、死ぬほど働けば飢え死にしない程度に食える状態にしておく。だから誰も反乱を起こせない。自分が先頭になって死ぬのは嫌だ、それくらいならこのまま下を向いてパンをかじってるだけでよいとなる。
政府はこのあたりのさじ加減は天下一品である。なぜなら江戸時代から400年にわたって官僚連中が学んだのは「百姓は、生かさず殺さず」だからだ。
2011年01月28日
国債の60年返済
http://agora-web.jp/archives/1215648.html
来年度の国債発行額は169兆円である。それは過去に使ったお金をいまだもって返済せずに「60年かけて先送りしている」からである。
詳細はアゴラ編集部のブログをお読みいただければわかると思うが、1970年代や1980年代の景気の良い時にバンバン発行されて誰も走らない道路や出口のないトンネルなどに使われたお金をまだ返済していないのだ。
そしてこれを返済するのはこれからの日本を背負って立つ若者たちなのだ〜!
バブル時代に日本は浮かれて次々とこのような箱モノを作りビジネスマンや銀行員や経営者や政府役人は銀座に繰り出して1千万円を束にした「れんが」と呼ばれる札束をばらまいてどんちゃん騒ぎした。
これは実話であるが、ぼくの住んでいた福岡に中洲という繁華街がある。1980年代後半にはどこのお店も満席で、カウンターだけのちっちゃなスナックでも座って飲んだだけで2万円が普通だった。
景気の良い連中は店が終わったのちに女の子達を連れだしてアフターである。当時流行り始めていたホストクラブで朝までどんちゃん騒ぎ。そして太陽が昇る頃には「お〜い、ちょっと小腹が空いたな、何か食べに行こうぜ」となる。
するとある女の子が「あたしー、今日はとんこつラーメンじゃなくて味噌ラーメンがいいな〜」って言うとそのおっちゃん、「よっしゃ、今なら朝10時発の札幌行飛行機があるな、そいつに乗って味の時計台で札幌ラーメン食おうぜ!」となる。
女の子たち一同、Yeah!である。
20年も前にどんちゃん騒ぎした連中のツケ、そんな時代のツケをこれからの若者に払わせる、それが国債だ。
さらに注意すべき点がある。それは、ギリシアの経済危機が起こった時もその引き金はS&Pなどの格下げからだったという事実だ。
今回は引き金に指をかけましたよっていう米国金融界からの伝言なのかもしれない。本当に引き金を引くかどうかはわからないが、少なくとも引き金に指をかけているのは間違いない。
2011年01月27日
外国から見た日本国債格下げについて
日本ではS&PによってAA-に格下げされた記事を各新聞がいろんな温度で書いている。
与謝野さんは「消費税値上げのネタにしよう」とか「日本の国債の95%は国内で消化されているので大丈夫」とか「対外資産が十分にあるので大きな問題ではない」とか。
しかしそのような偏向のかかってない記事、つまり素直に外国人が理解出来るのは下記のような記事である。ちょっと長いが貼り付け。
In other news; ratings agency S&P has cut Japan's credit rating one notch
to AA-, the fourth highest rank and equal to China, saying lack of a
"coherent strategy" to tackle debt and ongoing political stalemate as a key
reasons why the world's third biggest economy can't tackle it's monster
deficit. For years the Government has borrowed cheaply from the aging
population to prop up the economy. Annual deficits of 10% have been common,
so the total domestic debt to GDP is over 200%. In contrast; New Zealand's
Government debt to GDP is approx 20%. With a shrinking population the
outlook for Japan looks grim. If Japanese investors start to turn away
from lending to the Government at super low interest rates and look to
invest overseas for higher returns the Government would be on the brink of
going broke. They simple cannot afford a higher interest bill as the 1.0%
they pay on the US$14 Trillion dollar equivalent of debt is only just
bearable, anything higher would be too much. Longer term exporters to Japan
should think about long dated forward cover as it is hard to be positive on
the Yen going forward. The Yen lost about 1% against the US and Kiwi
following the news.
日本の国債は中国と同じ程度であるのは日本の記事でも出ているけど、中国が危ないって日本人が言うなら、世界はその“危ない中国”と日本を同等に見てますよってことだ。
何よりも問題は日本政府がこの巨大な負債(GDP比で200%)に対して無策であり(ちなみにNZの負債はGDP比約20%だ)、人口減少を迎える中でどうするのかと問いかけている。
そして、日本の投資家が超低利の国債を見放して海外の高金利商品に向かった場合、日本政府はまばたきをする間に吹っ飛ぶだろうと言ってる。
その結果として日本円は信頼を失い長期的に見た円は肯定的な要素が全くないとなる。
キーウィからすれば日本の投資家の不合理な投資姿勢が理解できないので不安を感じるだろう。どう考えても理解不能だろう。世界にはAA格付けで利回り7%〜10%の商品は普通に存在する。
例えばニュージーランドの国債なら3.75%だ。AA銀行での定期預金でも5%、そして意外と知られていないがオークランド国際空港株式会社や電力会社やテレコムなどの電話会社など基幹産業の株式は利回りで10%近い。
実質的にニュージーランドの国民生活に直結したサービスを提供している企業が発行する株式がある日突然紙切れになる可能性と日本の国債が吹っ飛ぶ可能性はどちらが高いか?てか、利回り1%の吹っ飛びやすい商品と利回り5〜10%の将来性のある安定した国家の基幹産業の10%を比較すれば、どちらを取るかは答えは簡単である。
だからキーウィからすれば、てか普通に脳みそのある外国人からすれば日本はいつ吹っ飛んでもおかしくない状況であり、更に政府が無策だから今後の見通しは最悪、だったら日本国債なんて買わずに外国の商品を買うよって判断になる。なぜ日本人がそういう判断をしないのかが理解不能であろう。
日本の国債は約700兆円、そのうちの400兆円近くは邦銀が購入しており、更に邦銀の400億円のうち半分、200兆円くらいはゆうちょ銀行が購入している。(この数字はおおざっぱ。先週の日経の数字のうろ覚えなのでご容赦、大体は間違いないと思うけど)
政府は国債を発行して得た現金を子ども手当などで国民にばら撒く。しかし家計は厳しいのでお金はすぐに銀行に定期預金などで入金される。定期預金で入金されたお金で銀行は日本政府の国債を購入する。政府は得た現金を国民にばら撒く・・・。
何のことはない、堂々巡りだ。
国民から金を吸い上げておいてそこから役人の取り分を抜いて、残りをまた国民に返す。けどその金はまた銀行経由で政府に入る。政府に入るたびに役人の取り分が発生する。
「心配すんな、日本国民が外国の商品なんか買うわけないじゃんか、今までさんざんマスコミを使って外国商品の危険さを煽って怖いって教え込んで、第一英語だって国民が理解できないように“使えない英語”を初等教育から仕込んできたんだから、今さら外国投資なんてあり得ないさ」
そうやって笑ってる政府の役人の顔が見えるようだ。
外国人にとってはこの「政府による幼児期からの洗脳教育」が理解出来ないので日本国民の意味不明な投資行動が理解出来ないでいるのだ。
日本人は北朝鮮を「洗脳された独裁国家」と呼ぶが、外国から見れば日本も似たようなものである。どちらも普通に考えれば「おかしい」のだが、やってる本人はいたって真面目なんだからどうしようもない。
日本が危機的な状況にあるのは世界の投資家の誰もが理解している。ただ自分が最初に「日本国債の空売り」という引き金を引くと完ぺきに日本政府を敵に回してしまうので、だれかほかのやつが「最初の一発」を撃つのを待ってるだけだ。
今世界で語られているのは、日本の国債が安全かどうかなどの議論ではない。いつ吹っ飛ぶか、だれが引き金を引くかだけである。そしてそのような外国からの視線を理解していないのは肝心の日本人だけである。
2011年01月26日
人権だってさ
米中会談が終了した。お互いに相手を必要としながら、けれどお互いに一歩も引けない駆け引きである。
残念ながら日中関係のような戦勝国対敗戦国などの従属会談とは全然位が違う。
★記事抜粋
共同会見の場も、人権では熱気を帯びた。「大統領!国民を冷遇していることで知られる国とどうしたら協力していけるのか米国民に説明してほしい」。AP通信記者はオバマ大統領にそうただした上で胡主席に向き直り、「反論の機会を与えたい。中国の人権状況をどう正当化するのか」と厳しい口調で迫った。この時、会場の一部に陣取った中国人記者団が凍り付き、胡氏の顔も引きつった。
オバマ大統領は「米国はすべての人々にとって人権が普遍的な権利であることを再確認した」と、胡主席を横目に見ながら強調。胡主席は沈黙したままだった。次に指名されたブルームバーグ通信記者が胡主席に回答を求めると、胡主席は「通訳の技術的な問題で質問が聞こえなかった」と釈明。「人権問題では依然として多くの課題があるが、中国は常に人権擁護に努めてきた。大きな進歩があったと世界からも認められている。中米間では意見が一致しないが、内政不干渉を原則として話し合う用意がある」と大方の予想以上に率直な回答で切り返し、記者団を驚かせた。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110121/chn11012109020038-n1.htm
★抜粋終了
この記事では「人権、中国には聞こえず」のタイトルになっているが、これは記者がバカか最初からこういうタイトルにしろと局長から指示されたか、または記者は「丁々発止のやり取り!」と書いたけど整理部でタイトルを変更されたか、である。
なぜなら米国が「人権」を持ち出すときは、それは相手が何かを持っててそれを欲しい時だけだってのは世界政治の常識であるからだ。
米国は人権が大好きである。もちろんそれ自体は何の問題もない。けれど米国政治においては、それは相手の国を支配したい場合にのみ利用されて、本来の意味の人権とは全くかけ離れて、むしろ相手の国をぼろぼろにして人権を奪うことになるのだ。
20世紀の米国の歴史を見れば、人権とか民主主義とか、日本人の夢大好き人間が涙をこぼして喜びそうな名目を使って中南米の国々にCIAを送り込み次々にクーデターを起こして米国好みの国に改造して、さらにカーギル社あたりが中南米の作物を支配して、その国で作られた果物は地元ではなく米国や日本で売られて、儲かるのは米国人だけという状態が今も続いている。
少しでも反米愛国的な政治的指導者が出てくればスキャンダルを起こして潰すか、もっと具体的に暗殺したりするのが米国における民主主義であり、現地人を低賃金で働かせて自分だけ美味しい汁を吸うのが米国式人権である。
つまり米国式民主主義とは対米従属国家を作るための手段であり、米国式人権とは米国人の人権と利益を守るためだけということだ。
何をやるにしても米国は一事が万事こうである。だから彼らは自分の利権が届かないアフリカ大陸で行われる数百万人単位の民族虐殺事件には一切口を出さないし止めようともしない。
アフリカ諸国のやってることには米国は「内政不干渉」であり国連にお任せします、あたしは知りません、人権?民主主義?それは国連でどうぞ、である。
実際にルワンダで起こった民族大虐殺の時は、米国だけでなく国連でさえも「内政不干渉」で結果的に数百万人の死者を出した。国連軍の目の前で虐殺された人々の人権はどうなのだ?
米国が人権というなら北朝鮮に言ってくれ。あそこの強制労働収容所に放り込まれている人々の人権はどうでもよいのか?北朝鮮は米国にとって利益になるかどうか不明な点が多すぎるし、下手に手を出すと中国ともめるから絶対に人権を口に出さない。
日本から拉致された人々がどれだけ米国に訴えても「あー、そう、うん、わかった」で終わりだ。
しょせん国際政治において本来の意味の人権など全く関係ない。将棋の駒の一つでしかないのだ。
そんなことは百も承知の中国側は「人権はどうなってる?」と質問されて「無視」で返し、再度聞かれると「内政不干渉だ」とたたき切った。
こういう簡単な国際常識さえ記事に出来ないのは記者がバカか新聞社の意向かどちらだが、いずれにしてもこんなものを知らない人が読むと「え〜、ちゅうごくって、ひどーい!」なんて思うかもしれないので、そうなればメディアがバカ製造機になったという責任ですよ。
米国自体が今でもグアンタナモ監獄に無実の人間を放り込んだまま釈放も名前の公表もせずにいることは国際政治の中では常識である。また自国民であるアメリカ人がサブプライムローン問題で家を無くしたテント生活者を「自己責任」として救おうともせず放置しているのも事実である。
それでもまあ、日本にいる多くの夢見る夢子ちゃんやアメーリカ大好き人間には「人権、中国には聞こえず」ではなく「人権、バカには理解出来ず」である。
少なくとも個人レベルでは米国の狡さ加減と中国の狡猾さ加減を理解して、その間にいる日本がどうすべきか、そして個人レベルでは自分と家族の生活をどう守るかを考える必要がある。
2011年01月25日
密約
「大手新聞が消費税増税に肯定的だがその本当の理由は、新聞が軽減税率を受けるから。財務省は増税ムードを煽りそのうち反対のめぼしいところは軽減税率で篭絡。新聞とはもうできている。読売は財務省らから天下りを既に受け入れたからね」
★高橋洋一のついったーから
今回の消費税増税についてはなぜかどこの大手新聞もあまり否定的な記事がない。
今までは消費税の話が政治家から出るたびにマスコミ総戦力で袋叩きにしていたのに、今回民主党が増税を突き上げても去年のような反対が出ない。
去年と今年と何が変わったわけではないのに、どこのマスコミも宮崎のインフルエンザや三平のネタである。
消費税を増税することは国の流れからすれば仕方ない。それは国民の責任でもある。
戦後長い間政治に興味を持たず選挙に行かずおらが村だけ良ければという考え方で村の一部権力者だけが利益を享受できる仕組みを作った。その結果としての財政赤字であるから今の政権に文句を言うのもおかしな話だ。
しかし普通、消費税を増税するならその増加分で年金を充実させるとか医療を手厚くするとかになるだろう。それが本来の天秤型再配分である。
ところが日本だけは天秤の片方で増税しておいて天秤の反対側で年金は切り捨てて医療は自己責任でと全然バランスが取れてない。
じゃあ国民の金はいったいどこに行くのかと言えば過去に政府と役人と一部既得権益者が今まで自分の金とばかりに箱もの行政や道路などに使いまくったツケの支払いであり、つまりこれから日本人は過去の日本人がばら撒き使いまくってきた借金のつけ払いを要求されているのだ。
今まで理論の中で語られていた現役世代が過去世代のつけ払いをするということが現実になってしまった。
これから皆さんが払う税金は自分たちのためではなく過去のおやじ連中が作った借金返済に消える。そして医療も年金もどんどん切り下げられて、人生90年、だから70歳まで現役で働いて親の借金返せと堂々と言われているのだ。
まったくバカな話だ。親の世代の借金なら子供は本来相続放棄するわけであり、現役世代は現役世代同士で支えあっていくべきだ。
親が作った借金なら、まずそのバカ親が何に金を使ったか、責任を明確にするのが当然であろう。そういう行政の出口議論は全くされないままに金だけ払えではどう考えても理屈が通らない。
それもこれから一年とか二年の時限立法ではない、君たちが死ぬまで払い続けるけどその金は自分たちのためには使われないのだ。
それなのに本来社会の木鐸として政府の行動を監視すべき大手新聞が何も書かないってのはどういうことだと思ってたら、なるほど上記の「ワケ」があったのか。
政治が官僚主導になりマスコミが官僚に籠絡されてしまえば国民の「知る権利」はインターネットのみとなる。ところがそのインターネットにしても数日前の最高裁判決で情報統制とも言える判決が出た。
ますます国民の目は塞がれ耳は塞がれ、毎日をただひたすら働いて納税するのみになる。これでもまだ日本人は毎日満員電車の中で新聞を広げて訳知り顔で政治を語るのだろうか?
それにしてもマスコミのていたらくも、ここに極まえりである。
2011年01月24日
政治が官僚に負けた日
菅首相は21日、省庁間の政策調整について、閣僚・副大臣ら政務三役だけでなく、次官・局長らによる調整も容認する方針を示し、「政治主導」の名の下に官僚を排除してきた姿勢を大きく転換した。(2011年1月22日17時45分 読売新聞)
★抜粋終了
民主党が政権を取ったときのマニュフェスト(ぼくは個人的にこの言葉が好きではない。日本人同士が話をするんだから普通に政権公約と言えばよいではないか、なんだかいかにも英語劣等感と白人崇拝の匂いがして臭くて仕方ない)では政治主導でなかったか?
この記事は「政治が官僚に負けた日」というタイトルが一番ふさわしい。政治が混乱したのは政治主導に逆らう官僚が混乱させたからだ。自分たちで政治を混乱させておいて政治が悪いとは大したマッチポンプである。自分で火をつけておいて油を注ぐようなものだ。
だが官僚の壁が厚いことは民主党だって政権を取る前からわかってたことだ。それを今になって官僚主導に戻すのなら、民主党はいったいどんな脳みそなのかと聞きたい。
けれどこれを違う角度から見ると理解できる。
もともとが左翼的な集団が集まって国家主導による理想的国家作りを描いてた民主党が今まさに今国家を主導している。
彼らの頭の中にあるのは社会主義国家であり、官僚が行っているのがまさに社会主義国家であり、実は民主党の方向性と官僚の方向性は全く一致していたのだ。
政治主導や官僚制度の根本的改革などはもう民主党の頭の中にはないのだ。
そして官僚組織を守るということは必然的に彼らの下部組織である国家公務員、地方公務員もそのまま温存される、うまくいけば火事場の焼け太りで公務員の数を増やして大きな政府を作るということになる。
民間で出来るような業務でも「こんな大事なことは民間に任せられない」と役人が独占してそこに公務員を送り込めば、日本中どこもが公務員天国となる。
公務員が増える=公務員で構成される労働組合員が増える。これは自治労にとってまことにありがたいことである。新しく採用された公務員については組合加盟を条件とするショップ制度を導入すれば組織率低下の自治労を一気に昭和のような大勢力にすることが出来る。
そのためにはまず官僚と手を組んで次は民主党の支持母体である労組を強力にすることで民主党の基盤を安定させる。
こう考えてみれば民主党が官僚主導に舵を切ることで自分たちの社会主義を実現させようとして同時に選挙で勝てるための「官僚主導宣言」も当然の帰結である。
何もおかしくはない、何も問題はない、ただ選挙の時に期待していた「政治主導」を信じた選挙民が見事に裏切られた、ただそれだけだ。
見ていればわかる、いずれ中央でも地方でも何らかの理由をつけて公務員が増加していくだろう。
ただしこれは「方向性」であり実現するかどうかは不明である。官僚にとって最大の敵であった小沢氏追い落としはまだ完ぺきに成功したわけではなく、次の選挙で「みんな」がどう成長するか、地方選挙で何が起こるか。2011年は政局の年になる。
ただ、国民からすれば、政治が右に行ったり左に行ったり、そんなことやってる間にも世界は動いておりどんどん取り残されていくのだからやってられない。お家騒動で一番とばっちりを受けるのは領民である。
2011年01月23日
これからの10年
財務省は今年4月から実施する富裕層向けの増税、特に個人資産1400兆円が次世代に移動する際に相続税という名目で個人資産の50%以上を持っていく。これが国家が今まで抱えていた1400兆円余りの長期負債の返済原資となる。
次に返す刀で消費税の増税である。毎年の税収が法人税に頼れない現在、国はどんな人間からでも巻き上げられる消費税に軸足を移す。消費税はどろぼうからでも外人からでも回収できる税金だ。
これで毎年の国家予算を黒字化させる。
そして大事なのは国民総背番号制度である。今までは個人がゆうちょ銀行などを利用して資産を分散していたが今後は個人の資産すべてを政府が把握することになるから税金の支払い漏れはなくなる。
これで日本のお金はすべて政府が管理することになるので政府資金は安心安泰である。
経産省は官民一致の日本株式会社政策で古き良き時代の産業政策を取る。戦後すぐに行ったのは鉄鋼などに資金を集中投入して成長産業にする戦略だ。
今回は日本の技術を品質を世界に向けて売って行こう、これが新幹線鉄道、原子力発電、水処理などである。 しかし面白いことに官僚が主導権を取って成功した政策はほとんどない。
鉄鋼などは大過去の産業であり結局は韓国や中国と競り負けしている。
実際に日本を引っ張っていった自動車産業や家電業界は経産省はあまり力をいれてなかったし本来は国を挙げて引っ張っていくべきだったコンピューター産業は無策の結果米国に完全に支配され今に至る。
たとえばIJPC,イラン・ジャパン石油化学という一大事業。政府のエネルギー政策としてイランの石油開発を主体的に行うことで1970年代に日本政府と三井物産によって運営されたがイランイラク戦争とイラン革命て頓挫、結局1989年に当時のお金で1300億円の清算金を支払って撤退した。
(すみません、最初は1300兆円と間違って入力してました、読者の方のご指摘で訂正しました、ありがとうございます)
しかし政府はいまだ持って自分たちの方が民間より賢いと信じ込んでいるから今回も官僚主導の国策を進めていくだろう。
官僚主導がうまくいかないのは当然のことで、ビジネスにはリスクがあるのにそのリスクを理解しない、つまり成功すれば自分の手柄、失敗すれば国民の金で埋めるということを繰り返してきたためにリスクの怖さを理解できない人々がビジネスをやってもうまくいくわけがない。
またビジネスはスピードが勝負なのにお役所間の書類のたらいまわしでもたもたしている間に他国にビジネスを取られるのは目に見えている。
民間企業でやる気のある連中が常々言ってるのは「補助金などは不要、政府は口出しをせずに邪魔をせずにいてくれればよい」である。
厚生労働省は今まで積みあがった年金の処理のために人生90年の時代になった、だから年金支給は70歳からで良い、なんてことをやろうとしている。
そして企業に対しては定年を65歳以上にさせて、使えなくなった人々でも民間企業が給与という形で国民の生活保障をさせる。
本来なら民間企業は利益が出なければ人を採用する意味はない。だから不要となった人員は切るしかない。
その結果として発生する失業者を保護するのが厚労省の役目である。 ところがその本来目的を民間企業に押し付けているのだから大したものだ。
現在は多くのブロガーの間で雇用の自由化が訴えられている。日本を再興するためには個人の力でリスクを取ってどんどん起業させるべきだ、そのためには現在の雇用慣行を改善すべきだと訴えている。
だが厚労省からすれば自分たちの仕事は厚生と労働であり起業や日本再興は関係ない。厚労省が最高なのだ。
法務省はこうやって政府が進める政策の後付けであれ法律的な正当性を与えるためだけに法律を作る。
その法律が国民のためになるかなんてどうでもよい、政府がやってることに法律的に文句を言わせないための作業をするのだから。
法務省が白い猫を黒いといえばそれは黒いのだ。一般市民が「これは白いじゃないか!」と訴えても無意味、何せ法律で白い猫は黒いとなってるのだ。
そして多くの日本人はホーリツ大好きである。それがなぜ存在するのか、だれの利益のためにあるのかなんて全く考えずに、とにかく宗教団体のように「ホーリツなんです、決まってるんです」を繰り返して自己陶酔にひたる。
ほかの官庁についても右に倣えであり政府が政府自身の肥大化のために「国家政策」という名目のもとに、国民から直接選ばれたわけでもなく責任は取らないけど権限だけは全部取ってしまうという奇妙な団体として活動していくわけだ。
つまりこれからの10年間は政府と官僚による民間支配がますます進んでいき、政府と官僚や彼らに近い立場の人間だけが国民の生み出す利益の多くを得て、利益を生み出した肝心の国民の手元に残るのはわずかしかないとなる。
ここまでくれば江戸時代の五公五民を思い出す人もいるだろう。
だから日本政府の仕組みを外国から見れば意外とわかりやすいほど、政府による国家運営とそれにぶら下がって何も考えずにひたすら働くけど自分の頭でものを考えようとしない一般国民が見えてくる。
そう、つまり日本のやってることは江戸時代から何も変わっていない、国民が作り出したコメを政府が召し上げていく、その配分比率は他国に比べて国の取り分が異常に多いのだがその代りに国民が自分の頭で考えて自己責任で行動するというめんどくさい作業を国が引き受けますよってことだ。
なぜニュージーランドや北欧のようなちっちゃい国家で人々が幸せに生活できているか。それは国民が自己責任を理解して自分でできることは自分でやる、政府の再配分が必要な部分だけを委託する、政治家も官僚も自分の役目をよく理解しているから国民のために何が一番利益になるのかを考えて行動するからだ。
そのかわり国民の一人一人が自分の頭で考えて行動することを要求されるので子供のころから自発的発言や自分の考えを理論的に説明するような教育を受けている。
つまり現在の日本を北欧やニュージーランドのように自分たちの取り分を出来る限り増やすような仕組みにしたければ政府を解体して教育を根っこから変更して江戸時代から慣らされてきた「長いものには巻かれろ」を捨て去る必要が出てくる。
自分の稼ぎの半分を国家に持っていかれてもいいや、だって自分で考えて何かをする必要はないんでしょ、って考える人には日本は住みやすい国であろう。
いつもいうことだが、だれにも移動の自由はあるので日本政府が大好きで稼ぎの半分を差し出しても気にしない人はそれで全く問題はない。
これから10年の日本の方向性は見えてきた。「長いものには巻かれろ政策」だ。
しかし断言するがこれからの10年は政府がやりたい放題でその政策は21世紀の世界の動きに追いついていけずに失敗する。
外国に住んで外国がどのように変化しながら世界の中で自国の地位を確保しようとしているかを見て、翻って日本が何をやっているかを見れば答がよくわかるのだ。
そして政府は失敗する度に国民に責任を押し付けて増税したり社会保障を削減したりするが政府だけは自分たちの給料と年金を確保しておいて被害から逃れる政策である。よくできた仕組みだ。
(まだ新しいPCうまく使えない。コピー&ペーストでなんで改行が消えるのだ?)
2011年01月22日
再開!
1月19日に出社、ということは一か月会社にいなかったわけだ。ぼくの長期出張は3週間程度なのでオフィスを離れてた日数では最高記録かも。
日本の1970年代は商社マンの出張と言えば一か月など珍しくなかった時代がある。海外出張しても乗継便の問題とかで時間がかかる。どうせ行くならまとめて出張を片付けてしまえってんで米国をぐるぐる回った後に欧州に行き、それからついでに中東かアフリカを回って帰ってくればカレンダーの月は変わってて、ある意味時代はそれだけゆっくりしていた。
今では信じられないだろうけど旅先の多くのホテルにファックスはないし国際電話も申し込んでから部屋で何もせずに2時間くらい待ってやっとつながるとかだ。もちろん携帯電話はなし。だから出張の途中に待ち時間を数日利用してちょっと旅行でもなんてできた。
それが今は世界中どこでも一発で通じるケータイ電話とファックスとインターネット、そして何よりも飛行機の高速化により移動時間が大幅に短縮されたことで、“ちょっと旅行でも”なんて思ってたらいきなりケータイが鳴り出して「お前、今どこなんだよ!夕方の直行便ですぐ帰ってこい!」ってことになる。
その結果として1泊3日の欧州出張などが発生するようになり、海外を飛び回る連中からすればまさにビジネス以前の体力勝負になったわけだ。
パソコンやケータイが出現したとき、人はこれで便利になると思った。けど、相手も同じ武器で装備するって考えなかったのかな、結果的に誰もが今まで以上に忙しくなった、喜んだのはビルゲーツとNTTだけである。けどその彼らも自分たちの首を絞めることになったのだから、古き良き時代の終わりを自分たちで幕引きしたってことかな。
オフィスの机の上は思いっきり片付いてて、ほとんど何もない机の左上に郵便物が日経ビジネスを中心にきれいに重ねられていて、郵便でさえ2通だけ。ぼく宛ての手紙が来ることは非常に少ない。出張中にわりかし不安なのがクレジットカードの利用残高である。金がなければ何もできない日本だからと言って腹巻に現金巻いていくわけにもいかない。クレジットカード命である。だから出張から戻ってきて銀行のステートメントを見るのがどきどきだったけど、今ではこれでさえもネットで即見られるので通知をもらう必要もない。
そういえば1960年代の手塚治虫のマンガで「これからのお金はクレジットカードになるよ」と主人公が言ってて、当時のぼくは「授業で使うような下敷きのプラスチックがお金になるわけないよ」なんて思ってたけど今ではカードは手放せないし、逆に言えば自分の行動を思い出そうとしたらクレジットカードの利用記録を見ればわかる時代になった。
水曜日の朝に出社して机の上をさっさと片付けて出張中に日本で溜まった読み終わった本を本棚に、雑誌を休憩室に、その他必要なものを定位置に戻すと朝の11時からさっそく会議に入る。
今回の出張で今後10年くらいの日本の方向性は見えた。もうちょっと長いか。やっぱり日本が日本でいる限り絶対に変わらない部分と、一部日本人がとんでもない努力と偶然と幸運を身に着けて変えていく部分とがどう組み合わせていくか、ベクトルは広いけど答えに大きな違いはない。
(今日も書き込みで苦労してます。写真の挿入とか行間とか、まだわからんな)。
2011年01月21日
PANASONIC CF-J9
今まで使ってたW5がいよいよ動作不良でモニターにも縦線が出てきたので今回3年ぶりにパソコンを買い替えることにした。
ポイントはバッテリーの持ちと軽さ、そして何よりも頑丈さだ。移動ばかりしているので電源の長持ちと軽さは当然のこと、カバンごと落としても壊れない頑丈さは必須。
今まで海外出張で見かけた日本人ビジネスパーソンの多くはレッツノートを使っている。いろんな空港のセキュリティゲートで彼らのカバンから出てくるパソコンが揃ってレッツノートなのは必然的なのかも。
でもってぼくも今回は秋葉原に出かけてソフマップで約15万円でCF−J9を選んだ。
キーボードが狭いかと思ったが実際にタッチしてみると90%違和感がない。操作はこの3年でずいぶん進化したというか、使いやすい。余分な機能が利用者の声により削られて新しい機能が利用者の声によって追加されたって感じだ。
オークランドに戻ってデータの移動などをやってたが、なんとかほぼ終了。週末からブログ再開です。
2011年01月18日
竹原さんが負けたか・・・
西平市長は就任後初の記者会見で「副市長は別の方にお願いしたい。これから人選に入る」と述べた。仙波氏は竹原前市長が昨年7月、専決処分で副市長に選任したが、片山善博総務相が「選任は違法」などと指摘していた。
記者会見で西平市長は、竹原前市長が専決処分で半減とした職員のボーナスについて「さかのぼって支給はしないが、次の支給では考え直す」として増額を検討する考えを示した。一方、1日当たり1万円の日当制となっている議員報酬は「現状維持する。議会側から提案があれば議論したい」とした。
★記事終了
竹原さんが負けたか、感情論で言うと悔しいな。ただしぼくは実際の選挙現場を見ていないし竹原さんの主張しか聞いてない。
だからみんなが彼を選んだ以上西平さんの実力も知らないのでなんとも言えない。この結果が出た以上、西平さんの実力に期待するしかない。
けど、これでもし彼のやる事が住民無視で役人優遇、労働組合だけが儲かるような仕組みを再構築するのであれば、その時は地域住民全体で責任を取ってもらえば良いだろう。ここから先は自己責任である。
2011年01月17日
1月出張終了
それにしても日本の二極化と言うか、説明会や個人面談でやってくる方はいろんな問題意識を持っておられるのだが殆どの日本人にとっては毎日の生活が楽しいし、これから何か大変な事が起こるなんてあり得ないと本気でおもっているようだ。
それはそれで良いのだ。大東亜戦争で負けたと言っても300万人程度が死んだだけだし(?)日本が沈没したわけではない。国民の5%くらいは直撃被害を受けて死んだりしても残りの95%は何とかまたゼロからやり直せるのだから、そう考えれば「大変だ~」と思ってるぼくの方がおかしいのかもしれない。
久しぶりに友達と居酒屋に行ってサラリーマン集団とぶつかって、彼らの幸せそうな赤らんだ顔を見ながら思った。会社と言う組織の中でそれなりに明確な群れの中でお互いを何とか守りあいながら仲間内で楽しくやって、それで今日と同じ明日が来ると思ってて、それがこの楽しい笑顔になるんだよな。
彼らからすればすでに「あっち側」に行ってしまった「ぼく」としては、楽しそうにおさけを飲む彼らを見ながら何も言えることがない。今日を楽しむ、それが一番じゃん、そして彼らはそれを実行している、いいよな~って、正直に羨ましくも思えた。
さってと、2月一杯はオークランドで下見にお見えになるお客様や新しい企画の立ち上げだ。昨日も書いたけど海外相続が商品化出来たのでスタッフと打ち合わせしてウェブにアップする予定。
相続対策は一年で出来るものではない。いつかやろうと思っててあっと言う間に時間がなくなり、結果的に資産の半分以上を国に持っていかれることになる。
かと言って国内での相続には節税の限界がある。今ならまだ海外を使った節税が出来る。是非とも本気で考えて欲しい。
2011年01月16日
青空東京
ばかと煙は高いところに昇ると言うが、まあお祭りみたいなタワー建設であり地上デジタルの矛盾とか国民の共有財産である電波の独占などと難しい事は言う必要も無いだろう。費用対効果とか目的は考えてないのだから、みんなが楽しめる展望台と思えば立派なものである。
さすが技術立国日本、こんなのはチェニジアでは絶対に作れないよ。このタワーが平和の象徴だろうし豊かな象徴だろう。このタワーに世界から観光客が集まって東京観光名所になってくれれば、それだけで立派なものだ。
しかしこちらはなんとかと煙みたいなことは言ってるひまはない。毎日が真剣での戦いであり絶対にミスが出来ない仕事をやってるのだから「ほう、ご隠居、今日は天気もいいですぜ~、ちょっと日本橋まで足でも伸ばしてみませんか~」とは言ってられない。
与謝野さんが出てきた。今年から本格的な大増税が始まる。資産家も一般市民も、両方とも各個撃破で狙い打ちされる。
東京で持ち家で生活してて不動産はあるんだけど納税用の現金がない人たち向けの節税対策が今回の数回の会議で出来上がった。
日本の保険や5年以上の親子の海外在住にすることなどを組み合わせた方法で、現時点ではかなり良い線をいってると思う。法律は使うもの、使われるものではない。死んだら頭を使えないんだから生きているうちに一生懸命使ってみよう。
2011年01月13日
Iphoneがケータイ電話帳になった
携帯電話が使えなくなった。SIMカードに登録された番号は取り消しされて携帯電話Iphone本体もロックがかかって他のSIMを持ってきても電話出来ない。なぜか他のSIMを入れるとメールとネットは出来るのだが、肝心の電話機能がないのでどうしようもない。
何が起こったのか分からずに恵比寿駅前のソフトバンクに行きケータイの現物を見せながら説明をした。
「えっと、海外、ニュージーランドでSIMロック解除をしたのがまずかったんですかね~?」と正直に聞くと「え~、ちょっとお待ちくださいね、」ぱたぱたと端末を叩いてる。
「あ、これ、お客様、電話代払ってないですよ、それも4ヶ月くらい。だから解約されてますね。電話機もロックされて使えないようになってます~」だって。
おいおい、おれのケータイはクレジットカード引き落としなんだからそんな事ないでしょって言ったら「ええ、そうなんですけど、一回でもクレジットカード支払いが出来なかった場合は次回から窓口払いになるんですよ~、そしてお客様は去年の7月に一回クレジットカード引き落としが出来ずに窓口お支払いして頂いてますよね。なのでそれ以降は窓口しか出来ないんですけど~、4ヶ月払ってないんですね、だから、カ・イ・ヤ・ク・」
あのですね、ぼくのANZクレジットカードが田舎カードで、日本で使えないことがよくあるのは知ってます。ホテルの支払いやタクシーの支払いでも拒否される事もよくある。去年の7月もなんかの理由で引き落とし出来なかったんだろうけど、田舎カードはここまでぼくを困らせるのか。
けれどおかしいな、毎月電話代の引き落としは請求書の中にあったような気がするんだけどな。
まあいいや、で、4か月分の電話代は合計でいくらかって聞くと10万円くらい。だったら本人が今目の前にいるんだからそれを払って回線復活出来ますか?って聞くと、にこっと笑って「できませ~ん、もうカイヤクになってま~す、再契約するしかないですね、その場合でも番号は変わりますよ~」って。
この子、ほんとに明るくって楽しくってこっちもうきうきするんだけど、話の内容は「どこに整合性があるの?」って感じ。だいいち、ぼくが未払いの電話代を払うってんだから、とりあえずそれだけでも回収しておけば良いではないか????
しかし彼女の頭の中では「ケータイはカイヤクされてる⇒カイヤクされたバンゴーは機械にトウロクされてない⇒機械にニュウキン出来ない⇒できませ~ん」となるのだろう。
考えてみよう。ぼくはソフトバンクで2年契約でIphoneを購入した。毎月4千円程度の基本料金を払ってればOKな奴。
購入してまだ半年くらいしか経たないのにこの時点でソフトバンクがカイヤクするとボクの手元にIphoneは残る。もちろん日本国内で電話機として使うことは出来ないがSIMカードを入れ替えればインターネットとメールの受信は出来る。
ソフトバンクからすれば本体機器と通話料金を含めた約10万円+αを損するわけだ。
「そうなると、ここで通話料金の10万円を払っても番号は戻らずにこの携帯電話Iphoneは使えない、そういう事ですね?じゃあ今ここでSIMだけ買って、それをIphoneに入れるって事は出来ますか?」
「できませ~ん、そのIphoneはロックがかかっているから日本ではもう使えませ~ん。SIMだけの販売ってのもしてないんですよ、だから本体ごともう一回契約しちゃいませんか(笑顔)?」
だ~か~ら、どう考えてもソフトバンクが損をするわけであり彼女の対応は理論的ではないのに、話しぶりがあまりに流暢なもんだからこっちまでついつい天然に付き合ってしまい、「うんうん、そうですね~」と頷いてしまった。
彼女からすればボクが今10万円払っても電話番号は戻らないしこの電話機は使えない。けどニュージーランドではこのケータイが使える。
だったら払わずに新しくお申し込みされたらいかがですか、こちら、新しいプリペイド機種も発売されてますから、これなどいかがですか?」と言う笑顔である。
販売店からすればすでに売れてしまった機種の代金回収なんて仕事ではない、それよりも新しい機種を買ってもらったほうがいいじゃんか、となるのかな?
けれど新しい機種を購入するとまたも本人確認をするわけで、この販売店からソフトバンクに連絡を入れたその時点で「この人、お金払ってない、受け付け出来ません」となるのではないか?それとも受け付けしてもらえるって何か自信あるのか?
第一、未払いの電話料金はどうする積りなのだ?なのに「どうぞもう一台」ってどういう神経だ?
どうも意味が分からないので「ちょっと考えて見ます」とショップを出たのだが、う~ん、分からん。たしかにクレジットカードの引き落としはあったと思うんだけどな~・・・やっぱり日本は複雑だ・・・。
という事で暫くIphoneは携帯電話帳となりました。
2011年01月12日
こうもり
★抜粋開始
携帯電話を使いながら片手で運転したり、音楽プレーヤーで両耳をふさいで運転したり。そんな危なっかしい自転車が目立つ。人波を縫うように猛スピードで走り抜ける光景も珍しくはない。
手軽さゆえの気の緩みからか自転車事故が増えている。二〇〇九年は歩行者との事故が十年前の約三・七倍、自転車同士の事故が約四・四倍に上った。
一瞬の油断がもたらす代償は大きい。夜間、携帯電話を見ながら無灯火で走っていた女子高生の自転車が前を歩いていた看護師の女性に追突した。女性は首にけがをして歩行困難の障害が残った。五年前、横浜地裁が支払いを命じた賠償額は約五千万円に上った。
相手が死傷すれば、自動車事故と同じように刑事と民事の両面で重い責任を問われる。自転車には一生を棒に振りかねない危険が常に潜んでいる。利用者はそれを肝に銘じておきたい。
★抜粋終了
ニュージーランドでは去年自転車の死亡事故が5件続いて、現在の道路交通法を見直しすべきではと言う動きがある。
この国では自転車は車があるのだから車道を走ると言う考えである。だから5年ほど前まではオークランドの大きな交差点でバスが信号待ちしていると、トレーニング用の自転車がその左横にぴたっと付けて自分の右手で体を支える場面などごく普通であった。
ところがあいつぐガソリン値上げで当時は1L1ドルだったのが、今ではもう1Lが2ドルである。これに影響を受けたのだろう、シティで最初に流行になったのがMoped(モペッド)、つまり日本で言う原付である。
そして自転車は以前は郵便局の配達のお兄ちゃんが颯爽としてシティの坂を駆け上ったものだが、最近はどうもガソリン節約の為のバイカーが増えてきて、彼らの腕が落ちているのではないか、クイーンストリートを走るのは良いがそれなら周囲にあわせた速度で走ろうよ、そんなとろとろで一車線取られたらやってっれないぜって雰囲気。
最近は道路整備するときは自転車対策としては車道と歩道の間に自転車道を作る地域も増えている。けれど自転車はやはり自動車に対しては弱者である。だから事故が起これば自転車が確実に負ける。
けど自転車を轢いてしまうと刑務所入りの可能性が高いからドライバーも注意しなくちゃいけなくて、これがまた運転の疲れをましてしまう。
と、ここまでがニュージーランドの現状であるが、日本に行くと自転車が歩道に乗り上げて歩行者を突き飛ばす事件が頻発している。
ぼくも街中を歩いてるとびっくりするが、今の日本ってこんなに他人に対して思いやりなくなったのか?抜粋にもあるように、ほんとにヘッドフォンして勢いつけて歩道を走って、子供が居たらビンビンとベル鳴らして「あっち行け!」である。
こうなると自転車は一体何なのか?自動車のような強い奴に対しては弱者になるが子供や老人の歩行者に対しては威張りクサって”リンリン!”と強者となる、まるでこうもりのようではないか。
今は日本でも自転車道を作ることが検討されているが、自転車は手軽に使えて車のように車庫証明も不要で駅前でだって放置しておけば良いってわがままな人間が増えて役所も困って対策を立てているがどうも根本的な改革になってない。
これなど自転車を運転する人が道徳心を持ってきちんと駐輪したり歩道で歩行者とすれ違う時は一時停止するとかすれば良い事だ。そうすれば何も駐輪場なんて多額のお金をかけて作らなくても済むだろうし歩道の拡幅もしなくて良い。
自転車は車なのか?答は難しいだろうが、お互いが相手の事を少し気を使うだけで解決する問題だ。
2011年01月11日
21世紀少年
何故なら人間の肉体そのものの利用限度は100歳くらいまであるからだが、じゃあ何で平均寿命が70数歳かと言えば、現代では解決出来ない病気や正しい使い方をしなかった為に多くの人は肉体年齢以下の年齢で亡くなってしまうからだ。
だからこれから100年生きようとする子供に親がどうすべきか、その為に大事なのが10年単位での社会の変化を理解して、子供を正しい、または有利なスタートラインにたたせることである。
目先の、いくらちっちゃな事をかき集めても結果的に時代に合ってなければ大変な苦労をしてほんのちょびっとしかリターンが得られないと言うことになる。
簡単な例で言うとファイナンスビジネスだ。日本の銀行でも投資銀行部門やプロジェクトファイナンス部門などで世界を相手に働く人は終身雇用と言う枠の中で年収2千万円程度を稼ぐだろう。日本国内で見れば高収入だ。
ところが業務は過激で残業は当たり前、土日だって接待が必要だし会社でも言いたいことも言えないまま、とにかく金稼ぎマシンに徹するしかない。
ところが同じビジネスをやってても外資で働けば収入は数倍になる。ましてや最初から「白人枠」で採用された場合でうまく業界で成長すれば年収数億円なんてざらである。同じ日本人でもスタートラインが違うだけでこれだけの結果が出るのだ。
外資はきついとか言うけどじゃあ邦銀はきつくないのか?金稼ぎが目的であればきつくても稼げるほうが良いだろう。金を稼ぐなら佐川急便、である。
だから子供が社会に出た時に自分の望むように成長または生活したいと思うときに出来るだけたくさんのアイテムを持ってるほうが有利なのは当然だ。
そこで大事なのは、じゃあ10年後に世の中がどのように変化しているかを予測して、その時に左右どちらに転んでも役立つアイテムを持たせることだ。
子供の為に金をいくら残しても、バカであればそれを使い切ってお終いであり、そこから先は寂しい生活が待っているだけだ。
やはり親としては子供の社会生活スタートの時点である程度の金は残すとしても、それよりも子供が自活していける状況にしておきたいと思うだろう。
その為に必要なのは当然だがまずは何よりも言語である。言語はハコである。中身がなければただのハコにしか過ぎないが、中身がたくさんあってもそれを伝える道具がなければ不利である。第三者を通して自分の意見を伝えるのではなく、相手に直接自分の言葉で伝える為の手段だ。
言語は今時の40過ぎの親父に要求しても無理だろうが21世紀少年なら今からやればどうにかなる。
まずは英語だ。21世紀になったからと言ってすぐに英語が公用語でなくなるわけではない。これから最低でも50年は英語が必要だ。ではどの程度の英語かと言えば、本当は英語で経済の議論や東西文化の違いを語れる程度である。
そして中国語。これが必要な理由は非常に簡単で、大きな会社であろうが小さな会社であろうがこれからの日本は確実に中国との取引が増大する。良い悪いではなく、そうなる。これを説明すると長くなるので割愛するが、間違いなく、そうなる。
戦後長い間日本海側が裏日本と言われてきたが21世紀は日本海が海上貿易の要になる。日本は技術立国になり付加価値の高い商品や技術を作りあげ、中国を含めた東南アジアの工場でその技術を使って製品を作り上げて日本を含む世界に輸出するようになる。
その時に社内で中国語が出来るとなれば上司は確実に「おい、次の出張、お前ついて来い」となり、これは社内出世の道の第一歩である。
中国語は同じ文化と漢字を使ってると言う意味で日本人には馴染みやすい。早い時期から教えておけば英語よりも使いやすい言葉になるだろう。ついでに漢詩の勉強もしれくれればいう事なし。
次に必要なのは理論的に説明する能力。これは日本人が一番苦手とするところで、学校で学ぶ事も出来ない。また一夜にして身につくものではない。けれどガイジンとお互いの価値観や理論を説明したり理解したりする程度であれば、子供のうちなら数ヶ月の訓練をすれば、後は子供が自分で学ぶはずである。
その方法の一つとして、子供は常に「ねえ、なぜなぜ?」と聞く。健全な疑問を持って質問をする。その時に子供と一緒に一つの問題を最小原子まで分解して再構築してあげる事だ。
例えば子供が「何で雪が降るの?」と聞かれた時に、その場で一緒にウィキペディアでも見ながら親が一緒に勉強すれば良い。そうすれば子供は「あ、お父さんとお母さんは、分からないときはこうやって調べてるんだな」と理解する。次は自分で調べる事が出来る。
一番駄目なのは「そんな事、今忙しいの!」とか「そんな事、何で聞くの!」とか「言わなくても分かるでしょ!」とやってしまい、折角の子供の学ぼうとする芽を摘むことだろう。
オークランドの幼稚園で園児が皆で歌を歌っていたとする。誰か一人が違う歌を歌いだした。すると先生は「みんな聴いて、xxちゃんがこんな新しい歌を歌ってるよ、皆で歌おうよ」という事でxxちゃんは人気者になる。
日本だったら「それ、違う!皆と同じ歌を歌いなさい!」とハコに閉じ込めてしまうだろう。そして子供が聞く「何で駄目なの?」の質問に対して先生が言えるのは「だって皆がそうしてるでしょ」なのだ。
そこには子供を納得させるだけの理由もなく、子供は世間のハコにいつの間にか自分から入り込んでしまい、理論的に考えて相手に納得させるだけの訓練を行わなくなり、そのまま大人になる。出来上がった大人は「駄目!だって皆が駄目って言ってるんだから」となり、なぜ駄目なのかを考える能力を完璧に失ってしまっている。
自分の子供をそんな風に育てたいだろうか?もちろんここだけの話なら誰もが「NO!」と言うだろうが、現実は親が子供に「駄目!」ばかり言ってるし説明努力を怠っている。
今回の苗場では三連休と言うこともあり家族連れが多かったが、見てると「駄目!」派がとても目立った。理由を説明しないままにダメダメを繰り返す親と、その親を困らせるように意味不明な質問ばかりする子供たち。
21世紀少年、やる事はたくさんあるけど、まずは親を選ぶ事から出来れば最高だなって思わず笑ってしまった。
写真は苗場スキー場を行軍するりょうまくん。すんごい雪だと思ってたら地元の人からすれば「まだまだ全然駄目」出しされました。
2011年01月10日
つまようじ
真面目そうな顔をした若い店員さんがそういって丁寧に差し出したつまようじ。
・・・つまようじって、先が尖ってるなけりゃ意味ないよね・・・。
苗場スキー場のフードコート内でのことだ。りょうまくんとお昼ごはんに何食べようかって事でカレーライスにしたのだが、これが旨い。1250円のカツカレーだから美味しくて当然と言うかもしれないが、冬場の雪山でこれだけ美味しいカレーが食えれば充分ではないか。
りょうまくんは歯にものが挟まったようで「お父さん、つまようじちょうだい」との事でもらいに行く。これがニュージーランドなら反対だ。あいつの方がお父さんより英語うまいんだからあいつが使いっぱしりになるのだがここは日本なのでお父さんが使いっぱしりである。
冬の間だけのフードコートだからアルバイトの店員さんだろうと思う、見掛けも学生さんって感じ。ぼくは最初にカウンターの上に置いてた物入れを見た。ソース、しょうゆ、ナプキン、けどやっぱりつまようじがない。
そこでこの店員さんすかさず「何かお探しですか?」と明るく聞いてきた。「はい、すみませんがつまようじありませんか?」と聞くと「はい、ございます、少々お待ち下さい」と言ってカウンターの内側にある爪楊枝を一本取り出して「先が尖っておりますのでお気をつけ下さい」となったわけだ。
う~ん、考えた。誰が彼にこのような事を教えたのかを。
彼はお店で研修を受けた際に、または今までのアルバイトの経験からお客様に爪楊枝をお渡しする際はちゃんと注意をするんだよと学んだのだろう。そして今も言われたとおりにきちんと仕事をしている。
その意味においては立派なものである。違う意味においては恐ろしくもある。なぜならこれは今の日本が無責任とわがままが勝手放題に跋扈跳梁している象徴だからだ。
まず、爪楊枝とは先が尖ってないと使えない。だから使うほうだって尖ってる事を前提に使う。なのに店のマニュアルに「先が尖ってるから気をつけて」となるのは、すでに今までどこかのわがまななバカたれが「きさまこら!爪楊枝の先が尖っててアブねえじゃねーか、何で一言いわないんだよ、店長呼べ!」みたいな事があったのだろう。
そして店側としても面倒を避けたいからバカにお詫びして対策マニュアルを作ったわけだ。
しかしよく考えて欲しい。飯食ってて箸が喉に刺さったと言って箸メーカーに文句言うか?
餅が喉に詰まって死ぬ老人が毎年何人も出てるのにそれは誰も餅を禁止しようとしないし餅メーカーを「もちがでかすぎる!」と告訴した人もいない。
ところがこれがメーカーを限定しやすいこんにゃくゼリーとなると、鬼の首を取ったように「ゼリーがでか過ぎる!固すぎる!」と裁判沙汰だ。こんなのニュージーランドではあり得ない事件だ。
実際問題としてはメーカーの責任でもないのにマスコミが囃したててメーカーの責任にしてしまい、お詫びをしなければマスコミ総勢で袋叩きにしてメーカーが倒産してしまう。メーカーにいい分があろうと関係ない、とにかくお詫びなのである。
そのようなマスコミどもの攻撃に一民間企業が太刀打ちできるわけがない。結果的に企業が萎縮して消費者保護と言う美名の下に実に馬鹿げた、そして無駄な時間を使うバカ向けマニュアルが出来上がったのだ。
これはある意味企業側の防衛であり、それなりに理解出来る。しかしその為にかかる原価は回りまわって当然消費者が負担するわけだ。「先が尖ってます」と言う為の費用は1250円の中に含まれているのだ。
それが1円なのか50銭なのか分からないが、誰もが尖った爪楊枝が歯茎に刺さったからと言ってお店を訴えるような無責任でわがままを言いまくる時代になったのか?
てか、これは消費者としての視点で無責任なわがままを言ってるわけだが、その消費者だって会社に行けば労働者である。そして今度は労働者として無責任でわがままな消費者の相手をしなければいけなくなるわけだ。
もう少し社会全体が自己責任を受け入れるようになれば爪楊枝のマニュアル分だけでも生活費は安くなるんだけどな~と思いながら、旨いカレーやさんを後にした。
2011年01月09日
苗場の小話(笑い話です)
ずいぶん日本にも慣れてきて良い機会なので日本のいろんな良いものを教える。
礼儀とか丁寧さとか気遣いとか、ニュージーランドにいる限り絶対に理解出来ないことばかりだもんね。
ぼくの仕事はすでに開始しているが東京でも苗場でもオークランドでも出来るので、天気の良い時間だけ2時間程度滑って、あとは部屋でインターネットをつなげている。素晴らしい時代になったものだ。
ところで昨日スキー場で仕入れたネタ、しょうもない小話です(笑)。
苗場のゴンドラは8人乗りだが最近はそれほど混雑していないので前後に二組づつ乗せたら出発している。1980年代のイケイケドンドン時代はリフト待ちや食事トレイを持って食事中のお客の後ろに並んでた時代だった。
「わたしをスキーに連れてって」は、まさにあの時代の象徴である。多くの若者が来年はもっと幸せになれると信じてた時代、多くの若者が苗場をエンジョイしていた。
りょうまくんが途中で休憩したのでぼくが一人でゴンドラに乗り込んだとき、すぐ後ろのカップルスキーヤーも後ろ座席に乗り込んだ。ちらっと見たけど40前後の小奇麗なカップルでウェアも伝統的な80年代スーツ?。
男性はすかっとした顔つきのハンサムな部類でいかにも大手企業の課長か課長補佐クラスの雰囲気がする。女性のほうは昔はお立ち台でしたって感じの小洒落たタイプ。お互いに美男美女で社会的地位も釣り合っての幸せなご結婚だったのでしょうね。
「ねえ、明日はゴルフでしょ、帰りに厚木の実家に寄ってってよ」
「うん、ちょっと寄ってから帰るわ。一応お土産持っていくね」
「折角だから泊まりなさいよ、お母さんには私から電話しとくから」
「う~ん、けどなあ、嫁の実家はそれなりに気を使うもんだぞ」
とかなんとか話してたらそのうち
「スキーはいいよな、昔はうちの会社でもスキークラブがあったもんな」
などと旦那、のんびりして昔を懐かしんでる。けっこうのんびりやさんか。
けど奥さんはそんなの関係ない、昔は昔って感じで
「ふーん、そうなんだ、あ、ところであたしたちの部屋ってどこかな?」
おお、この家庭、奥さんが仕切ってますなってのが一発で分かるアクセント。
旦那答えて、
「あの銀色っぽい一番背の高い建物の下の階だよ、けど景色イイヨな~」
奥さん、なぜかふと何かに釣られて余計な一言。
「そうねー、あれ、前回はどこに泊まったっけ~?」
「ん~・・・おれ、知らないよ・・・」
旦那、ほんとに読めてない様子。
奥さん、あせあせしながら0.05秒ですかさず反応、
「あ、あれはゆみとみっちと私で来た時なんだけど、どこだったっけな~?」
だって。
ちっちゃなゴンドラの中、笑いを堪えるのに必死でした。ゴンドラ、早く終点に着け~!って本気で思いました。奥さんはもっと本気で思ってたでしょう。
2011年01月08日
技術はないけど根性はあるね、菅首相
今は国民にとって頭の上のハエよりも具体的に自分の資産や生活をどう守るか、その方がずっと大事だ。政治家が何人代わろうと関係ない、うちの家族は変わらないのだから守っていくしかない。
菅首相は所詮は学生左翼であり野党でいる間はよいが実際に政権を持つと世間の厳しさを知る事になる。頭は良いけど喧嘩は下手であり、官僚やマスコミ相手にどう戦うかなんての技術論は全くゼロ。
何よりも大事なのは政治哲学であり、厚労省でエイズ問題を取り上げたのは立派だったが、それは野党レベルの話であり自分が日本を動かすとなったらそんなレベルでは到底やっていけない。
その点小沢は政治哲学もあるし喧嘩も無茶苦茶強い。小沢の世間を見る眼もすごい。歴代政治家は密室政治が基本であり、国民には知らせず教えずでやってきた。小沢もその世代であり料亭政治も出来る人間だ。
しかし彼は去年からインターネットで自分の情報を発信するようになった。これは政治家にとっては怖いことである。なぜなら生の自分が映し出されて一切の編集無しに自分の発言がそのまま国民に届くわけで、バカや付け焼刃はすぐばれるからだ。
ばれてしまえば次の選挙で落選確実である。普通ならそんな怖い事しないよね、政治哲学と「語る力」がなければ。
だから今までの政治家はマスコミを利用して、マスコミも利用されながら自分たちの生存を守る為に国民に「編集された=嘘の情報」を垂れ流ししていたわけだ。
その、持ちつ持たれつの関係が今回の菅首相のネット出演で大きく変化するのは間違いない。
なぜならマスコミが自分たちの紙媒体やテレビ媒体と言う存在そのものを脅かすネットを恐怖しており徹底的にネット=悪のような情報統制を行っていたのに、そのネットに現役首相が出演したのだから、ちゃぶ台ひっくり返し10回くらいの大事件だ。
小泉時代はマスコミを逆利用して国民との直接対話を図って成功した。小沢は時代の波を読んでマスコミを切りネットに自分の意見表明をする場を造った。
それにしても小沢すごいよな、あの年になってでもインターネットの強さを理解して自らが出演していくんだからと思ってたら、今回は菅首相が現役首相として初めてインターネットに出演、90分にわたって持論を展開したとのこと。
これは評価する。これで大きく時代は変わる。なかなか出来ないですよ、これは。首相がネット出演した事で賛否両論あるようだが、じゃあ否定論者に聞きたい。自分の立場なら出来ますか?
他人事であればどうとでも言える。けど、一つ間違えば自分の政治生命を断ってしまうようなことは普通の人にはなかなか出来ない。
例えばあなたが、自分の信じる事を上司に直言して、それで首になっても良いと思えるか?それくらいの根性のある話だ。
今回の菅首相のネット出演により、多くの政治家がネットを利用した情報発信をするだろう。そしてこれは政治活動の主流になる。既存の紙媒体やテレビ媒体は政治家にとって今までのような価値はなくなる。
例えば政治家の発言が「シロ」と言ったのにどっかの紙媒体が偉そうに「あれはシロと言ったけどほんとはクロだぜ」みたいなことを書けば、すぐにネットで訂正すれば良いのだ。
問題は、ネットは30代までの人々には有効だが今の日本で選挙権を持つ60代の人々に届くかどうかである。ここは技術的な問題であろうが、テレビでネットを見れるようにすれば解決するし、すでに一部のテレビではネットを見ることが出来る。
これで既存のマスコミがゴミとして排除されて、本当の意味での政治監視機関としてのメディアに変化して、ニュースはネットで提供して分析を既存媒体で行うと言うことになったら菅首相の役割は大きく、おそらく歴史上でも名前を残す事になるだろう。
2011年01月07日
和僑
ぼくが香港に住んでいた時代にはなかったが、その頃からすでに香港をベースにして起業をする日本人が増えていた。しかし彼らをまとめる組織は当時なかった。
海外には基本的に商社や銀行や製造業の現地駐在員の集まりである企業ベースの集まり(~会)と個人が加入する日本人会がある。
商社や銀行員の集まる会は基本的に全員が東京を見ている。いずれ東京に帰ることを前提に海外で集まって人脈作りをやっている。だから旦那の企業名と肩書きで奥さん連中の集まりも階級化される。
旦那たちの会合で話されることと言えば現地従業員をバカにして現地のカラオケバーに新しく入った女の子の品定めをして東京の上司の悪口をお互いに言い合って最後に「おれたち、がんがってるもんね」と乾杯して終わりだ。
けれど仕事をすれば現地従業員の方が数倍情報収集力があり交渉力があり言語力があるので頼るのは彼らしかない。
カラオケバーのねーちゃんたちからすれば昔は単なる金づるであったが、今ではせこく飲むわりに威張るばかりなので、むしろ日本語の通じない気前の良い中国人や韓国人のテーブルの方がましである。
ただまあ駐在員からしても昔のように現地手当てがどーんと出るわけではなくいつ首になるかもしれないから、今安全な場所にいる間に出来るだけたくさん貯金しておきたいと言う気持ちも分かる。
なので、和僑の望むような個人で破壊的な力を持って現地で起業して戦っていこうと言う集まりにはなり得ない。
オセアニアの日本人会に至っては個人で誰でも入れるのでまさに玉石混交、けれど多くは石、それも庭石にも飾りにも使えない石である。
長く異国の土地に住んでいるけど、いつまで経っても地元の友達は出来ず、かと言って親の前で啖呵切ってきたから今更日本にも帰れず、何も知らずに新しくやって来た日本人を相手にいつ終わるともわからない地元の噂話と自分の自慢話ばかりしているおばさんとかが餌食探しに参加したりしている。
また、1990年代は今よりも永住権の取得が容易だったので、日本じゃ役立たずの息子を留学と言う名目で海外に追いやり、ついでに親がカネを出して適当に現地で会社を作らせてそれで親の住む地元では「おらが息子が海外で起業しただ!」と威張りまくる。
子供は現地で一人社長で仕事をするが実質的には能力がないので親の金で食ってるだけだ。1990年代のシドニーでもこういう会社、多かったな。実際に日本の政治家や官僚の子供たちが「うちの子供、海外留学してます」って言ったら島流しのケースの方が多い。
海外で生活をしようとする方は「そこに行けばどうにかなる」と言う淡い期待を持って既存の会合に入っても実際の生活には役立たずどころか、あとで絡まれて返って面倒なだけだ。むしろ「そこに行ってどうにかしてやろう!」くらいの気持ちが必要である。
香港の組織は起業家の集まりだが、場所柄香港を含む華南地方でビジネス展開をする人たちがお互いに信用出来る日本人同士で情報交換をしようとしている。マッチングビジネスと言える。
シドニーは現地で起業した人の定期的な集まりもあるけど香港に比べると市場が小さいから、そんなとこに顔出すよりも地元オージーのパイプを作ろうって雰囲気があるのかもしれない。
ニュージーランドにおいては更にちっちゃな市場であり勉強会もあるが、それがすぐにマッチングビジネスに繋がるとは言いがたい。むしろ地元キーウィの教会の集まりに参加するほうがずっと役立つのは間違いない。
なので海外生活をする時に既存の会合に参加しようとするのであれば、組織実態を知った上で自分の知りたいことやりたいことと合致しているかどうかを調べるのが安全である。
2011年01月06日
2011年、仕事再開
今年から確実に下向きの平等が始まる。不思議なのは多くのブロガーがその事に対して「政府は何故そんな無策や悪手を打つのか!」と訴える点だ。
ちょっとちょっと、あなたにとっての無策は政府にとっての雄策でありあなたにとっての悪手は政府にとっての好手なのだという事に何故気づかない?
今ここで書いているのは地方公務員の作業が遅いとか無駄な事をやってるとかではない。 日本全体の流れとして、米中に挟まれた島国が不沈空母となるのか日本沈没となるのか、そういう国家全体の動きを日本政府の上層部が「全く理解していない」なんて事はあり得ない。
すべては「わかってやってる事」であり、彼らの視点から見れば今の日本が何故こうなっているのかがよく分かるし、何故こうしたかったかもよく分かる。
10年前に日本の予測をしたが、大体において合ってた。年末の休暇を利用してたっぷりと睡眠と運動を取り頭をすっきりさせてゆっくり考えてみて、次の10年が大体見えてきた。
個人のレベルで誰がどうなるかなんて分からないが、政府がこの国を10年後に世界のどのあたりに位置づけようとしているのかは大体分かった。
問題はその為に必要な様々な犠牲であり、2010年はその犠牲に選ばれる人たちのリストが政府によって決められた時期だと言ってよい。
ただしこの政府と言う意味は現在の民主党政権ではない。その背後にある長期的に日本を支えて来た官僚である。
彼らは日本を良くするためなら日本国民をどれだけ犠牲にしても気にしない。与謝野晶子なら「君、死にたもうなかれ」だろうが、国家にとっては「君、死にたまえ」である。
今までどれだけ日本に貢献したか、どれだけ奉仕したかなんて関係なく、リストに載ってしまった人々はすべてが対象となる、官僚と一部特権階級を除いて。
リストに載ってしまうと、今までは他人事だった床屋談義も冗談では済まなくなる。問題は、誰が最初に行動を起こすかだろう。そしてバスに乗り遅れた人々に残された道は多くない。
2011年。ぼくは今日から仕事を再開する。
2011年01月05日
医療の夜明け
ぼくは今日も新しい死体が入手出来たと連絡がありVTOL(垂直離発着機)で病院に向う。病院で受け取った新鮮な臓器、どれどれ今日は何個だ?でもって配達先病院はどこだ?
数十年前までは死亡した方の遺体は献体と言う形でないと臓器移植が出来なかったそうだが、それってどんな医学知識暗黒時代だったのかな?人間は魂が永遠であり肉体は抜け殻にしか過ぎない。その抜け殻で多くの人々が助かるのだからリサイクリングビジネスでしょ。
十数年前に国会で臓器移植に関する国民的合意を作り上げて、今では予め死亡予定者が肉体所有権移転書類に署名しておけば亡くなった時点で死体は葬儀社に所有権移転されて葬式は葬儀社が全額費用負担をしてくれるようになった。
相場としては臓器一個で普通の葬式、臓器2個なら豪華な葬式、もし内臓全体を含めて四肢全体を提供してくれれば派手な葬式に参会者の夕食の手配からお墓まで。
葬式終了後にその時点での臓器相場で死亡者から遺族への「遺産相続」としてまとまったお金が葬儀社から支払われるようになる。これで誰もがHappy!
元々は臓器売買ビジネスは闇市場で行われていたが、これも酒や麻薬と同じできちんと表の市場に出す事で大きなビジネスになり、結果的に公正な市場を生み出すことになった。今は臓器待機リストが国内で完全に統一されて闇市場での売買は出来ない。
ヤミ煙草や麻薬などのちっちゃなものと違って、ちゃんとした施設を持った病院と医師と葬儀社がいないと手術が出来ないのだから、常に需要と供給のバランスが図られるようになっている。
クローン技術も発達しており簡単な指や腕程度ならクローンでも良いのだが、臓器となるとやはり新鮮な人間のものが一番相性が良い。
医療暗黒時代には「術後生存年数」などと言われてたが今の医療技術では術後はすべての患者か健康体に戻るので寿命をまっとうするのが当然となっている~~~。
なんて、夜明けにこんな夢を見たのでかなり鮮明~。あ~怖かった。かなりクリアーだったし、自分が搭乗する垂直離発着機も、胴体から翼までクリアー。
昨日の夜は香港映画でホラー系だったが「臓器抜き取り」がネタにされてた。普通に健康な若い女性を誘拐して意識不明にさせて右腰の上、へその下のあたりを30cmくらい切り取る。そこから臓器を取り出して後は縫合手術をして放置である。
この映画見た後だったからだろうな、こんな夢見たのは。
日本では臓器移植の議論が進み、脳死でも臓器を取り出すことが可能になった。これだけでも一歩前進であろう。しかし生きている人を相手に「あんたの死体、買いますよ」と言うビジネスが出てきたら、ますます発展途上国の人間の金儲けは手段を選ばなくなるであろう。
誘拐しても身柄は返すのだから身代金を取る為の危険性はゼロだ。中国ではすでに臓器目当ての誘拐など珍しくもない。買い手さえ見つかれば大儲けなのである。
そしてこれは1920年代の米国禁酒法と同じで、放置しておけば次々に闇市場が発生してしまい、かえって社会を混乱に陥れる。
ニュージーランドではキリスト教が中心で魂と肉体を区別する考えがあるから、事故で脳死になった子供の生命維持装置は3~4日で外してから献体するケースがよくある。
日本では子供が親にそんな事言えるわけがない、文化が違うのだ。だから死体はどんどん出来るけど使い道がないままに火葬場行きとなる。
中国でも子供は親を大事にするから他人の家の誰かを誘拐して臓器を抜く。ふ~む、現実的ですな(笑)。
日本の臓器移植の問題は現在健康でいずれ死を迎える人々の意識を変化させて「死体は抜け殻、あなたは三途の川を渡って次は鳥になるんですよ」と教育すれば良い。
けどこれだけでは何の利益にもならない。「献血してもヤクルトやトマトジュースではね~、ましてやおれの死体でしょ、もっと色付けてよ」ってなる。そこで葬儀屋と病院のコラボで遺産相続という発想を導入するのだ。
もちろんすぐにどうにかなるわけではない。利権があれば必ず次の問題は出てくる。そしてこれはクローン問題に行き着く。様々な問題が派生してくるし宗教的な判断も必要となる。
けど臓器が必要な人がいて移植技術があるのに、どうにか出来ないのかとなる。だから中国で臓器抜きとって闇で売るビジネスよりは、表に出して皆で議論した方が良いに決まってる。
その結果として「やっぱり日本ではビジネスに出来ません、中国から買います」と国民が合意すればそれもあり、クローンは作れません、それもあり、ただその代償として臓器移植が出来ずに死んでいく人々の事を忘れることは出来ない。
てか臓器問題は数十年前から手塚治虫が火の鳥の中でも問題提起していたのだ。それから何十年、一体どんな議論を医学界はしてきたのか?てか、してきたのか(笑)?
2011年01月04日
人を殺すとはどういうことか 2
2009年に発行された現役の終身刑受刑囚が塀の中で書いた本である。
人は人を殺していいのか?この問題を徹底的に突き詰めて、それを分かり易い言葉に書き直してるんだけどこれは相当に知識がないと上滑りになるか人権左翼の感情論にしかなり得ない。
ここに出てくるのは死を哲学的概念から見た場合どうなのかと言う視点。
次に実際に自分が殺人を犯した立場として、つまり現場から見た殺人と言う視点。
そして聞き取り調査を行う中で出てくる現実と人権左翼の主張の違い。
彼は最終的には「死刑はありだ」と言ってる。それは自分が人を殺したのだからいつ殺されても文句は言いませんという点で彼なりに導き出した結論であり、同時に彼が子供の頃から親に教えられて来たことと一致する。
「人にされて嫌なことは、人にしちゃいけませんよ」そして彼の規範で言えば彼が殺した二人は「俺に殺されても仕方ないくらい嫌なことをしていた」のだ。
作者は2人を殺害した罪で無期懲役を宣告されて重罪刑務所に入れられる。彼は塀の中で持ち前の探究心と学識を組み合わせて重罪を犯した人々に対して様々な「聞き取り調査」を行う事でいくつかの考えを持つに至る。
聞き取り調査では犯罪者の今の気持ちを平易な言葉で書きながらも彼が分析する際は犯罪心理学と照合しながら行うので、その調査結果は非常に面白い。
彼はまず「殺す」と言う行為をある程度定義付けて、良い(仕方ない)殺しも悪い(絶対に罰するべき)殺しもあると判断している。
次に同じ殺しでも組織犯罪者と堅気の意識の違いを分析していく。その結果として彼が自分なりに判断するのは、組織犯罪者の場合は軍隊同士の戦いでありそこには規律もルールもあるが、堅気の殺し、特に強盗殺人、放火殺人、強姦殺人などの場合は完全に本人の欲望や短絡的な発想、他人を全く思いやる事のない犯罪であり、ほぼ更生の余地はないと言うことだ。
犯罪者の刑務所に閉じ込められる時間が長くなってもいつかは出て行くのであれば、彼らはまた繰り返す。何故なら彼らは刑務所の中で長い時間をかけてお互いの手口を研究して出所する頃には高度化しているからだ。
そして彼ら堅気の犯罪の特徴は、普通の人なら理解出来るであろう「そうやったら次こうなるでしょ、だから結局損でしょ」と言う三段階の論理展開が苦手であり、普通の人なら我慢出来る事が全く出来ない。
また人を殺す時は何も感じないのに自分が死刑になるとか殺されるとなったら突然「や、やめてくれ!」となる。このあたりのバランス感覚が全く無いのである。
生まれた時はあったのかもしれないが親の問題や周囲の問題でいつのまにか失ってしまったのだろうが、どう考えても一生治らないような人間をまたも一般社会に放置して次の犯罪を作るのか?
だから前科何犯、それもすべて幼女虐待とかであればこれはもう死刑にすべきだ、死刑に反対する人に言いたい、いっぺん塀の中に入って彼らの本音を聴いて見ろと主張する。
一生塀の中で罪を償わせるなんて甘い甘い、彼らの殆どはそんな事は考えちゃいない、今日の夕飯と夜のテレビと仲間内の情報交換、あとは「早くシャバにでてえな」だ。
彼が犯罪者仲間に聞いた。「おい、お前そんな犯罪起こしておいて反省しないのか?」
犯罪者がさらっと言った。「ああ、反省しているよ、何故あそこで下手を打ったんだろうてな」
まず大事なのは市民社会では他人も法律を破らない事を前提に生活している。財産権、生命権をお互いに守ろうねと言うことを前提にしているから平気で他人に背中を向けられる。けど他人が平気で自分の背中に包丁を突き立てる奴だったらどうする?
今の日本の司法では犯罪者をミソもくそも一緒に扱っているし、更に更生支援にしても表面的なところで終わっているのが現状である。作者はそういう日本の司法制度の問題にも触れている。
日頃毎日どこかで殺人が起こってる日本の自宅のお茶の間でテレビニュースは見て「ひどいね~」とは言いながら、じゃあ死刑ってどうあるべきかとか再犯の場合誰に責任があるのかとか被害者の人権が無視されている現状を何も考えない。
けど、テレビを見ている貴方の自宅に誰かが忍び込んで来たら、そして包丁で襲いかかられたら、その人が実際に犯罪に巻き込まれた場合どうするのか?傍観者としてではなく、もう少し当事者としてこの問題を皆が考えるべきではないか、その為にもこの一冊はお勧めである。
2011年01月03日
人を殺すとはどういうことか
救命胴衣は飛行機が着水して、外に脱出してからふくらませることになっています。機内でふくらませてしまうと、体を前に曲げて、膝のあいだに頭を入れる安全姿勢がとれないからです。しかし、私の席の周囲では、ふくらませてしまったお客様が、四、五人いました。男の人ばかりです。
こういう場面になると、女の人のほうが冷静なようです。泣きそうになっているのは男性でした。これはとても印象深かったことです。ベストをふくらませてしまった若い男性が「どうすればいいんだ」と弱気そうな顔でおっしゃるんですが、ふくらませてしまったのは仕方ないですから、そのままでいいですと、安全姿勢をとっていただきました。
「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくさいました。
★抜粋終了
ちょっと用事があって日本航空墜落事故時の資料をネットで読み返してたら上記の記事が出てきた。女性は強いなって思った。
同時にこの事件の背景に、今までは全く考えもしなかったような「仮説」があるのも分かった。911はかなりの確率で「仮説」の方が正しいと思うが御巣鷹山でもそう考えた人がいたって事だけでぞっとする。
フィリピンで車を運転してて逮捕されて刑務所に放り込まれた人に「人身事故でも起こしたのかい」って聞いたら、彼がこう言った。「違うよ、何もしてねえよ、捕まった時に警察に渡す金がなかったからさ」
フィリピンでは賄賂としてのカネがないと警察に逮捕される。逮捕されて役人に渡すカネがないと有罪になって刑務所に放り込まれる。刑務所で看守に渡す金がないと飯も食えずに死んでしまう。
これもぞっとする話であるが、こちらは実話なのでフィリピンに行くときはカネだけはたくさん持っていこうと本気で思ったものだ。
こんな感じで世の中にはぞっとする話がたくさんあるが、今読んでる「人を殺すとはどういうことか」もずいぶんぞっとさせられる内容だ。
今日1ページ目を開いたので明日には読み終わっているだろうが、社会の成り立ちの「おれはお前を殺さない、だからお前もオレを殺さない」と言う原則がある。社会に入りました、殺されましたでは洒落にもなんない。
ではもし相手がその原則を破ったら??司法に出来る事は「起こった犯罪を裁く」だけだ。では犯罪が起こらないと言う予防の部分は誰が携わっているのか?戦前は犯罪予防と言う意味で警察が個人生活に立ち入り、犯罪防止のためと言う名目で特高警察が個人の取締りを行った。
そうなると殺されないだけの予防をするのは自分で自分のみを守るしかない。落ちそうな飛行機には乗らない、フィリピンではカネなしに車の運転をしない、などなど。
でもこういう危機管理は完璧があり得ない。どれだけ気をつけてても事故るときは事故るのだ。だから何かあった時にどれだけ対応能力を持つか、何も起こらないように日頃から危機意識を持って生きるかは大事である。
しかし何よりも大事なのは同じ社会に住んでいる人が同じ原則を理解出来ているかどうかを知る事だ。相手が原則を知っていればそれだけ危機は減少する。
作品とは少し違う内容のブログになった。この本に関する感想は後日まとめて書きます。
人を殺すとはどういうことか―長期LB級刑務所・殺人犯の告白
著者:美達 大和
新潮社(2009-01)
販売元:Amazon.co.jp
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2011年01月02日
地方市民国家
「関西は独立せよ」と言う池田ブログが人気?と言うかいつものように周囲に議論を巻き起こしている。
彼は極端なまでに頭が良くて合理的に考えてそのまま発言するからなのだろう、日本大好きの感情論者からすれば「何て奴だ!そいつは気に食わん」と相手の議論の趣旨も理解出来ずにぎゃーぎゃー書き込んでみたり、役人からすれば隠しておきたい本音をどんどんばらされるからやってられない。
大学の学者が最近続けて何人も「国策捜査」で痴漢にされたり風呂屋泥棒にされたりしているが、次は池田じゃないかなんて見方もあったりする。
今回は関西独立に関する観念論的な主張であるが、問題点の把握と解決策の提示としては非常に面白いと思う。
例えばニュージーランドは人口が400万人、最も大きなオークランドでも人口は140万人と、日本で言えば福岡県サイズである。
福岡県サイズが独立国として主権を持って外交政策を持ち国内で徴税する仕組みを持ち、ちっちゃな国ながらも国連に大使も送ってアフガニスタンや東ティモールに国連部隊としてキーウィ兵士を送り込んでいる。
そう考えれば池田ブログの「関西の二府四県の人口は約2千万人、GDPは世界13位、韓国より大きな独立国になり得ます」と言う言葉もそれなりに現実的である。
北欧タイプと比較する場合も、彼らは人口数百万人の国であり地方主権が明確である事を考えれば、日本は中央集権とするにはあまりにも大きすぎて価値観が違いすぎる人々が一緒にいるから、いつまで経っても船頭多くして船山に登ることになる。
自民党が右に引っ張ったら民主党が左に引っ張り、結果的に国家としては全然前進していない。つまり一つの国家でありながらあまりに各地の利害関係や価値観が違いすぎているのではないか、それが結果的に今の日本の停滞を生む一つの要素であると思う。
国の境と言うのは一つは個人の価値観だろうと思う。同じ価値観を持つものが同じ地域に集まって彼らが自分たちが望む市民国家を作れば良いのだ。
この際に大事なのは市民国家がすべての徴税権を持ち、市民国家の連合体である中央政府には外交と防衛のみを任せて、各市民国家が中央政府役人を「雇う」ことにすれば良い。
この仕組みの良い点は同じ価値観を持つ人々が集まるから市民国家としての意思決定が早く、更に自分の払った税金が自分の住む街にそのまま反映されるわけで、そうなれば関西3空港なんてバカな役人太り仕事なんて絶対に認めないだろう。
「関西には3つの空港が必要だ、どこの空港も儲かりまっせ。だから税金を払って下さい」と言われて「はいはい」と払う関西人がどれだけいるだろうか。よそからカネを持ってきて作ったから3つも空港が出来たわけであり、自分の金でなら「こんな狭い地域に空港3つも作って採算合うわけないでしょ!」となる、あり得ない話だ。
要するに地域のお金を地域で運用して、その使い道を判断する場合の価値観が同じ人々が集まっていれば文句が出ることも少ない。
昔ある集まりで日本全国から代表が集まる事があった。その時北海道出身の議員は「雪害対策にカネがかかる、石炭代も必要だ、中央で負担してくれ」と言った。
すると沖縄の代表が「雪の降らない沖縄の人間が何で北海道の雪害対策を負担しなくちゃいけないのか、君らはそこに好きで住んでいるんだろうが」と言う議論になった。
そして東京に住んでいる議員は「東京は家賃が高いから住居手当をくれ」と言ったところ、地方議員からは「お前らは文化の中心地にいて、いつでも演劇や買い物を楽しむ事が出来るではないか、ぜいたくを言うな」となった。
住む場所の自由は憲法で保証されており一般的な民主国家であれば憲法で保証してもらわなくても自分がどこに住むかは自分の自由だなんて当然のことだ。
子供の保育所が充実している地域や住民税が安い街に移るのも本人の自由だ。だから今のように日本中に万遍なく散らばっている「価値観の違いすぎる人々」をそれぞれ価値観の合う地域に集めてしまえば良いという案もありである。
まあ実際には日本の場合憲法改正などが必要で実現は不可能かもしれないが、政治談議を床屋で他人事みたいにやるよりは、自分たちの街をどうするかって話だから当事者意識は非常に強くなると思う。
2011年01月01日
南半球のちっちゃな島から
子供だって一つの生き物であり親が自分の何かを強制することは出来ない。
去年の子供の名前ランキングで男の子の一番が大翔(ひろと)との事。その名前を付けた親からすれば大きく飛翔して欲しいと思っているのだろうが、実際に親が言う事は「勉強しなさい、塾に行きなさい、良い学校に行って良い大学に行って公務員とか一流企業に就職しなさい、その為には良い子でいなさい、夜は早く寝なさい、あれこれあれこれ」。
つまり子供を自由に飛翔させずに地上に置かれた籠の鳥のように「型に嵌める」作業を押し付けているだけなのだ。
こんなのは今の日本社会の平均値=ほぼ自由を失って周囲に束縛されて生きている親の価値観の押し付けに過ぎない。
要するに考えている事と実際にやる事が矛盾しているのだ。でなければ子供が一番成長する時期に子供の個性とやる気と自発的感情を擂り潰すような事が出来るはずがない。
「けどね、そんなこと言っても今の日本ではね、そうはいかないのよ」と言うのだったら最初から子供にそんな名前付けるな。
子供の名前を「駄馬」とか「籠の鳥」とかにしておいて子供が物心つくころになったら「あ、そうか、ぼくは駄馬で籠の鳥だから誰かに首を引っ張られて動けばいいんだし籠の中から出るなんて自由を考えちゃいけないんだ」と自分で気付く事が出来る。
ニュージーランドで生活をして一番良いのは、自由があることだろう。同時に何をするにしても自由だけど自分のやった事には責任を取らなければいけないと言う自己責任の原則もある。
これって社会の中で生きていくごく普通の要素なんだけど、何故かそれが日本にはない。
これは日本が西洋のような「一部独占階級から特権を奪うための市民の戦い」を経験していないからだと思う。いつの時代、どんな政権の下でも一般的日本人は黙って従って長いものに巻かれて自由を得る為の戦いをする事はなかった。
明治維新は武士同士の政権争いであり大東亜戦争は一部特権階級が決めた戦いであり敗戦後の日本を成長させたのは優秀な官僚だったが、どれ一つをとっても一般市民が自分の為に何かをやったのではない。
結局いつの時代においても一般的日本人は「お上」の言う事を聞き長いものに巻かれて生きてきた。だから自由と自己責任の原則を理解しようとせずにいつまで経っても子供っぽい議論しか出来なくなっている。
大雪で電車が止まれば駅員に「どうしてくれるんだよ!大事な仕事があるんだよ!」と突っかかるバカ親父。かと言って事故覚悟で電車を走らせて本当に事故が起これば「一体乗客の安全をどう考えているのだ、賠償責任だ、カネ払え!」となる。常に他人任せ、自分の頭で考えるって事をしようとしない。
結局日本が精神的に大人になる為には、つまり自由と自己責任の原則を理解するようになるまではまだまだ長い時間がかかるだろうし、もっと言えば一般的日本人が本当に自由と自己責任を自分の手で掴みたいのかどうかって事だろうと思う。
写真は自宅の庭の木に止まってるいんこ(?)。