2011年05月
2011年05月31日
隣人を愛する心
仕事しながらBGMでNHKつけてたら今回の災害で東京に住む多くの人々が寄付を行い救援物資を郵送し最近は日常生活必需品を自分で買いそろえて自分で送るようになったとか人は愛を信じて誰かを愛したくて結婚相談所は申し込みが急増しご近所付き合いのなかったのが急に打ち解けて話すようになったとか。
オークランドに住むぼくからすればちょっと不思議なのだが、では東京に多く住む青いビニールシート住民のことは彼らには目に入らないのだろうか?と言う素朴な疑問が浮かび上がる。彼らも人生における被災者なのだが・・・。
というのがオークランドは大都市でありながらいわゆる浮浪者が非常に少ないから東京の浮浪者の多さにどうしても気になるのだ。オークランドではつい5年前までは一日2~3名、いつも同じ顔の人間が、住むところもありながら他人と接触したくて出てきてたくらいだ。それでも地元のおばあさんは道端に座り込む彼らに「あんたら何やってんの!ちゃんと働きなさいよ!」と怒ってたりしてた。
今は街の中心部では10名程度に増えたが、町はずれではゼロである。中心部に行けば仲間に会える、くらいな感覚の住むところも保障されている浮浪者であり日本のような本格的な住むところのない浮浪者ではない。ときどき車のウィンドー磨きをやったりしている(迷惑だが)。
つまりどのような人間でも必ず救い上げる仕組みがニュージーランドにはある。この国は貧しくて自殺した人は国家開闢以来いない(他の理由で自殺することはあるが)。どのような人でも最低限の人間らしい生活を保障されているからだ。
ところが日本ではここ十数年で急激に増えた彼らを、同じ街に住む人々が救い上げようとしてあげないのだろうか?そういう仕組みがないのだろうか?
今日偶然用事があって渋谷に出たら宮下公園の交差点にたくさんの若者やお金持ちに混じって、60才過ぎの薄汚い服装の白いひげぼうぼうで何日も風呂に入ってない浮浪者の老人が立っていた。誰も老人を振り向かず誰も老人がそこにいないように振る舞い、けれど彼らは東北大震災の話をしたり「大変だよね、おれたちどうするかな」って言ってた。
冬の寒いさなか薄汚いぼろ服にくるまって歩く彼ら、夏の暑いさなか渋谷の宮下公園の線路沿いにべニア板とブルーシートと板戸を組み合わせて紐で縛ってひっそりと住んでいる彼ら、東京住民にとって路上生活者は不可触選民なのだろうか??不可視の存在なのだろうか?
彼らの多くは昔はきちんとした仕事があって生活をしていた。ところが1990年代から始まる大不況とリストラ、住宅ローンの逆ザヤで家庭崩壊、父親はそれっきり新宿中央公園でブルーシートのお世話になる生活が始まった。
つまり日本と言う社会は一度落ちこぼれたら這い上がれない仕組みになっており、1億2千万人のうち常に最下層の数%は一般社会から振り落とされて路上生活者の中に埋まってしまう。大人たちはよく分かっているから自分の子供には「ほら、ちゃんと勉強しないとあんな人みたいになるよ」と言う。
大人たちは自分だけは何とか一般社会から振り落とされない為に上司の無理なサービス残業要求にご無理ごもっとも、取引先からの次々と出てくる厳しい条件に赤字覚悟で「はいお客様」とやるが実際に仕事は利益が出ないから自分たちの給料は減らされ、今度は自分たちの下請けに対して非人間的に「おいこら、次回の納品から一律20%値引きや、品質は同じやぞ、でないと切るぞ!」と恫喝する。
社会にしがみつく、ただそれだけの為に個性を殺して上司の無理を聞き取引先に何を言われてもへらへらして下請けには非人間的な恫喝、これが母親が俺に望んだ生活か?そう疑問に思っても忙しくてそんなこと長く考えている時間なんてない、毎日残業で子供と会話も出来ないが実は自分が恫喝した下請けも同じように夜中まで仕事して更に安月給で子供との会話も出来てないって知ることがあるのだろうか?
そんな東京、日本はどこかおかしくないか?もう一度根本から見直すべきでないか?遠く離れた場所の「清い人」には同情も出来るけど、今目の前にいる「汚い人」は見えないのかな?
足元の、東京都下の公園で生活をする人たちには支援は不要なのか?彼らだってほんの少しの支援があれば元の生活に戻ることが出来るかもしれない。直接彼らの話を聞いてあげて可能性があると思うなら自分たちの自宅の一部屋を貸すことは出来ないのだろうか?
フラットメイトと言う習慣がない日本では難しいだろうが、では彼らの保証人になってアパートを借りさせることは出来ないのか?アパートを借りるお金が彼らになければ、あなたと同じ価値観を持っている他人を5人くらい集めて一人から2万円出させて彼に投資をすることは出来ないだろうか?
彼はその頭金と保証人でアパートを借りることが出来る。そして履歴書を出して仕事を探すことが出来る。最初の半年くらいは仕事がないかもしれないが、その場合は投資家が再投資すれば良い。一人2万円をもう2〜3回出せば彼は就職できるだろう。それでも就職出来なければ投資家の見る目がなかったということで手を引けばよい。そこから後は自己責任だ。
このような投資型救済支援の良い点はすべて自分の眼で見えるし何にいくら投資(寄付)したかが分かるし途中に役所も税務署もなんちゃら機関などの中抜きが一切入らない。
今東北に食糧を送ってもそれは食われて終わりだ。布団を送っても寝て終わり。肝心の復興支援、つまり自立支援には到底たどり着かないし個人がどれだけ寄付をしても政府の方向性が変わるものではない。
けれど同じだけのお金を数名が集まり、今一般社会から落ちこぼれてしまったばかりの若者を救えばどうだろうか?それとも浮浪者は人にあらず不可触選民であり不可視であり街を汚すだけの悪い存在であるが、遠く離れた東北の人々は清らかであり、彼らに寄付をすることは免罪符を大バーゲンで買っているようなものでとっても気持ち良いのだろうか。
その東北の一部では被災地に届けられた食糧や生活必需品をしっかり受け取り、仮設住宅に入り込んで新しく発行された通帳をにやにや見ながらたばこをふかし、仲間と「おい、うちの漁協では東電からいくらぼったくってやろうかね〜、全然働かなくてもいつもと同じだけの水揚げ高を請求すりゃいつもと同じように朝から風呂に入って酒飲めるってもんだ、ふわははは、こりゃええ、一年くらいは働かなくても食えるど〜」となるやからが存在するかもしれないのだ。
東北の人々を助ける気持ちは誰にでもある。ただ東京の場合、それよりも足元でやるべきことがあるのではないかと感じた。もちろん人助けを言い出せば距離感にきりがない。アフリカの難民を直接救うなんて出来ない、あれこそ政府の仕事だ。
けどぼくらが日常生活の中で周囲の人々に何かを与えることで「喜び」を感じるなら、そしてそれが自分の住む町の浄化になればもっと良いのではないか?そうやって考えてたどり着いた答えは汚い人に施しをしても「喜べない」からなのだろう。ぼくはどうしても東京の冷たさが好きになれない。
2011年05月30日
AKB48 年齢信仰について
篠山キシンと言う写真家がいる。もうすでに70歳過ぎているが今でも現役で写真を楽しそうに撮っているしとくに女性のヌードを撮らせたら日本一と言われている。
そんな彼がNHKの番組に出演して今までの作品集の話をする時の一つに、AKB48の子供たちと楽しそうに写真を撮っているのがあった。インタビューでアナウンサーから「彼女ら年齢差を感じませんか?」と聞かれた彼は、「仕事やってるのに年齢格差なんてないない、大体それ、あなたの勝手な思い込みでは?」みたいな発言があった。
かたや天下の篠山キシン大先生でありましてや70過ぎであるのに、16歳の女の子と同じ感性であるというのは日本型ではない、年よりはもっとエライのであり篠山キシン先生は社会的地位が高いのである、だからあなたから見ればずっと格下の16歳と一緒に仕事をしてるのはどうなんでしょうと言うのが「年齢差を感じませんか?」と言う言い方になるのだ。
ぼくはこういう日本人の考え方を「年齢信仰」と呼んでいる。
日本や中国など東南アジアの一部では相手の個人能力を評価せず年齢と社会的地位だけで相手の相対的位置を決めてそれで話が始まる。相手が子供だけど実はとても賢いとかすんごい年上だけどよく見りゃ「生まれっぱなしのバカ」ってのもいるがそれでも年齢が↑なら「はは〜!年上様〜」となるのだ。その代わり自分の番になれが後輩に自分に対して「ははー!」ってやるんだから悪くない。バカでも年を取れば威張れる世襲バカ構造である。
社会を秩序立てていくために分かりやすい手段ではあるが、そんなのは社会が秩序立っている時にしか通用しない話である。今の時代は大手企業であっても平気で年齢を飛び越した昇進があるし降格もある。要するに年齢で相手の位置づけをしても「だからなに?なにが決まるの?」でしかない無意味な判断だ。
ニュージーランドでは10歳の子供が50歳の大人と堂々と話をする。相手に対して年齢に応じた尊敬の念ははらうものの基本的に年齢はお互いの人間関係の中で何の意味も成さない。
だいたい会話の中で相手の年齢を聞く状況など普通にない。フラットメイトは数名いてもお互いの年を知らないのは普通だし隣の家のご夫婦がおいくつかなんて聞いても単なるのぞき趣味と思われるのがおちだ。皆さんが実際にニュージーランドに住んでみれば、彼らがどれだけ年を聞かないかがよく分かる。大事なのは年齢ではない何を語っているかなのだ、誰もが自分を幸せで永遠に若いと思ってしゃべっている時にわざわざこの世に登録された年月日を聞かれてうれしいだろうか?しらけるだけですぜ。
ニュージーランドは大学の入学枠を巡って同級生と競争するという仕組みが存在しないから受験勉強はあるけど日本のような他人を蹴落とす勉強ではなくあくまでも自分が行きたい大学の学科に必要な単位を取るための、つまり自分のための勉強をして18歳で大学に入る。
けれど同時にニュージーランドは誰でも大学に行ける仕組みがあるので、あえてそんな勉強して入学する必要もない。まずは15歳で義務教育は終了するので一旦社会に出て、例えばお父さんの牧場でお父さんと一緒に牛や羊を育てる仕事を10年くらいする。
22歳になってそろそろ次の仕事を覚えようとなりオークランド大学の情報処理コースを選択する。大学の授業に追いつくために彼は、その時点から入学準備コースに入って勉強をする。そして半年くらいで授業に追いつくようになれば学部に編入である。つまりこの場合は受験勉強さえ不要なのだ。そして大学で3〜4年勉強すれば学位が取れて新しい社会に旅立つことになる。
人間は22歳だから若いのではない、挑戦してみよう成長して見ようと言う若い気持ちを持つから若いのだ。挑戦も成長も無くした若い気持ちのない22歳なんてじじいですぜ。
実際にうちのおくさんは40歳過ぎてオークランド工科大学に入学してSociologyと言う学問を学んだ。社内でも現役社員でありながら大学に通っているスタッフもいる。当社で3年ほど働いた27歳の若者がもっと自分を磨きたいからと大学に入りなおして専門技術を学ぼうとしている。
3人ともアジアからの移民であり大学受験のため15歳の子供が勉強しているような勉強はやっていないが大学の門戸は開かれている。
説明会ではニュージーランドの教育の仕組みを説明して「だから22歳過ぎると誰でも大学に入れるんですよ」と言うと、「え?新卒になるんですか?」とか「18歳で入学した人と扱いは違うんですよね?」などと聞かれる。
あのですね、大学は資格を学ぶ場所であり学ぶ人の年齢が何歳かなんて何の関係があるのでしょうか?誰でも好きな時に大学で新しい専門知識を身に付けて次の世界に旅立つのです。
受け入れる企業の方でも年齢なんて関係ない、会社が存在して必要なポストに空席が出たら随時募集する。その時に大事なのは候補者の資格や能力であり、22歳で新卒よりもむしろ30歳くらいのいろんな社会経験を積んでいる候補者の方が使いやすいケースもある。
日本の大学は入学することが企業に対する「ぼく、利口です、僕を採用してください」と言うシグナリングであるから現在の日本の教育システムを常識として考えてる多くの人々はそれが実は社会歯車ロボット製造装置の一環であると気づいていない。
日本は戦後重工業生産を開始した。大きな工場を作りそれがいくつもつながり、そこに中東から石油を購入してコンビナートで商品化して太平洋を渡って米国に売るビジネスモデルが出来上がった。これはすべてが毎日きちんと動く必要がある、労働者も含めてだ。
労働者が毎月ぱらぱらと入ってくると新入社員教育が大変だし大きな工場を動かすのにそんな少人数の動員ではどうしようもない。そこで出て来たのが全(中高大)学生とも毎年3月31日学校卒業4月1日企業入社と言う仕組みである。つまり学生のジャストインタイムなのである。
こうしておけば工場にすれば中東の石油がいつ何トン入荷するのかと同じレベルで、ヒトはいつどれだけ入荷するのか、そのヒトはどんな商品を作らせるのかが作業表に書き込める、あはは。ほーら、人は歯車人はモノ、戦後の日本は人間までも商品を作るための部品としてしか扱わないようになったのだ。
そして次に大事なのが社会的地位である。4月1日の入社時点で優秀な大学を卒業したモノから日本株式会社の優秀なポジションに配置される。
一番優秀なのは大蔵省などのキャリア官僚に入り二番目はノンキャリア官僚、その次には大手民間企業の東京本社採用。都内の私立三流大卒だと地方のどさ廻り、高卒は地元の営業所で一生現場職員として東京の指示に従う。最近はあまり見ないが中卒は以前は金の卵と言われたがその配置先はすべて工場である。こうやって日本株式会社の中の階級が決まっていく。
逆に言えば三流大学や高卒だといつまで経ってもうだつが上がらないわけで現場で同期にこき使われることになるから母親としては子供に「あんた、いい大学に行きなさい!」となるのだ。大学で何を学ぶかではなく大学に入れたかどうかがシグナリングだと、高卒の自分の旦那を見てる賢い母親は良く分かっているのだ。
母親はもちろん子供を歯車にして社会に放り込むことに何の疑問も持たない。チャップリンの映画を観て人間が歯車に挟まれるのを観て「まあこんな世の中嫌よね、チャップリンは名優よね、さて、勉強の続きしなさい」となる。なぜなら今の日本にはそれ以外の選択肢がないからだ。「起業?そんな空恐ろしいお上にたてつくような事、させられません!警察に捕まりますわよ!」
年齢信仰の日本、いつの時代も「それって少しおかしくない?」と言う若者が出て来たがいつの時代も政府及び同級生によって排除された。何故なら誰もが秩序だった日本株式会社の中でぬるま湯で生きてこれたから、そこに波風を立てるような「人間」は支配する側からも支配されてる側からも同じように理屈抜きに「あいつおかしいよね」と排除されるのだ。
結局アジア人が持つ年齢信仰をうまいこと支配層に利用されて社会の歯車に放り込まれただけではないか。そして異端者を排斥して何とか生き残ったような顔をするが、そんな年齢信仰と歯車生活が幸せだろうか?ほんとに人間らしく生きているのはどちらだろう?
「はかない青春」
疲れた夏が頭をたれて、
湖に映った自分の色あせた姿を見る。
私は疲れ、ほこりにまみれて並木路の影の中を歩く。
ポプラの間をおどおどした風が吹く。
私の後ろの空は赤い。
私の前には、夕べの不安と、
―――たそがれと
――― 死とが。
2011年05月29日
砲艦サンパブロ
今日で説明会も無事終了。それにしても二日間ぶっ続けはかなり体力の消耗なので夜はどこにも行かずルームサービスのサンドイッチとコンビニで買ったカップヌードルで済ませてamazonで買った「砲艦サンパブロ」のDVDをゆっくり観ることにする。
1966年に作られたこの作品は当時の米国の時代をよく表している。第二次世界大戦の勝利から続く好景気と英国から移ってきた世界支配権を併せ持ち誰もが米国は世界一と信じていた。コーラとキャデラックと屋外映画、ロックンロールで楽しむ週末。とにかく時代と大人と政治に文句を言って抵抗して後ろにいる友達に「ほら!おれっていけてる!」というだけでよかった時代。
ところがケネディ暗殺、ベトナム戦争の暗雲と続く未来が本当に資本主義をよくするのか、もしかしたら共産主義の方が良いのではないか、国民の中にも疑問を持つ人が多く表れてきた、そんな時代が1960年代後半だ。
日本では安保闘争が行われて親のカネで大学に通う学生が親の働く職場や社会に対してゲバ棒を振って反発して日本は大騒動になった。ところが最後には社会が「お前らいい加減にしろ、ほらここにお前の就職する会社の名前が書いているからそこに行って黙って働け、文句があるならそれからにしろ」と言われ、放り込まれた子供は今度は今までと正反対のイデオロギーで企業戦士となった。
ほとんど血も流れずほとんど人も死なず若者はいつの間にか社会人になり今彼らは年金生活を送っている「おれも若い頃はさ〜」なんて昔の事を楽しく思い出しながら。
そして21世紀の今、昔のようなところてん式「学生の間は社会に背を向けて卒業したら誰でも就職出来て一生同じ会社で働けて病気の心配も要らず毎年給料が上がって停年で年金もらえてそれを支えるのは次に続く若者」と言う構図はすでに崩壊して、今社会にゲバ棒をふっても誰も相手にしてくれないし就職もない。
ところてんがなくなった時代、米国でも日本でも「永遠の繁栄」がなくなった時代にはいつも時代の一番最後にいる人々にすべてのしわ寄せが集まる。米国においてはそれがベトナム戦争であり5万人の無垢な若者が戦死して多くの帰還兵が故郷に馴染めずにランボーのようなベトナム症候群に陥った。日本では明日の仕事が保証されないフリーターと毎年自殺する3万人の社会不適応者たちを生み出した。
文句ばかり言えば解決してた時代、そんな時代も間違いなくあった。ただ、今はその時代でないことも明確だ。自分で答えを探していくしかない。今回のセミナーがそのような人々の答え探しの第一歩になればと思う。
皆さんご参加有難うございました。
2011年05月28日
移住とは長い旅
日本人サラリーマンは各個人は働き者だというのは正解であるが仕事の内容が効率的であると言うのは大間違いで、賽の河原で石を積み上げては落とすような事をして長い時間会社に縛り付けられている。
日本人の仕事の多くは予定を作って計画を作り、予定が変更になってまた計画を作り直し、直前になってまたも予定が変更になったものだから作り直す時間がなくて最後は行き当たりばったりで現場の努力でどうにかこなしてしまうというものだ。
香港日通旅行で働いてた1990年代の事だが銀行の本店会長が香港視察に来ると現地の支店は数か月前から予定作りにてんてこ舞いになる。これによって自分の評価が決まるのだ、最高のアテンドをしなければと毎日毎日「会長は天ぷらがお好きだと聞いたぞ」とか「中華は外せないぞ」とかで同じ日のディナーを3か所くらいトリプルブッキングしておく。
食後も麻雀台を会長の部屋に置き支店の接待麻雀得意の行員を数名用意させておく。同時にカラオケバーも2軒ほど予約を入れておく。
送迎の車も車種から色からサイズから、立派なものから会長車、社長車、専務車と並べていくのだが困ったことに支店の判断でベントレーとロールスロイスのどっちが格上なのか勝手に決めて責任を取らされるのは嫌なので僕らに「どっちが上でしょうかね?」と聞いてくる。
そして飛行機到着当日。会長はいきなり「何だ!おれは香港に遊びに来たんじゃないんだ、現場のシンセンの工場視察にすぐ連れていけ〜!」
そーら大変だ!ダブルナンバーのベンツを数台手配して同行する人のビザを即時取得させて、シンセンシャングリラホテルの部屋を手配して、最初のスケジュールはもうむちゃくちゃである。
支店の人々もこういう突発事故になると右往左往して誰もが思考停止状態になる。要する即時の判断を求められるので失敗すれば判断責任が発生する。支店駐在だからある程度現地事情が分かってても本当の現場の細かい点は分からない。だからこういう時はぼくら外部の旅行会社に丸投げして少しでも責任被害を減らすとなるのだ。
この時は「まず会長を休憩と称して当初のホテルの部屋で休ませてください。でもって同行する人のパスポートをすぐ私に下さい。2〜3時間で車とホテルと視察手配かけてきます」から手配を始めたがすべてがその場の判断で決めていくので「社内政治的圧力」など関係ない。
後で聞いたら会長は日本出発前にご挨拶にお伺いした当局の若いキャリア課長に「ところで会長、まさか大名旅行ではないでしょうね、円高の今中国シフトは日本メーカーにとって生死を賭けた問題ですから、すぐに現地を見に行かれますよね」と言われたそうだ。
当時のシンセン視察ではこのような突発事故はしょっちゅうであった。ある大手生命保険会社重役の御座すダブルナンバーのストレッチベンツが国境を渡りシンセンの工場地帯に向かっているとき、田舎道を正面から飛ばしてきたぼろトラックが車線を無視してこちらに突っ込んできた!とっさの判断で運転手はハンドルを右に切ったのだがここは中国、そのまま車は田圃に落ちて皆さんどろだらけになってしまった。
当時は携帯電話の普及期で田圃から「どうしょましょ〜?!」と連絡が来たのだが、この時も「今どこですか?だったらすぐ車の周りの荷物を集めて会長を次の車に乗せてxxホテルまで直行してください、工場の手前です。そこに部屋を取っておきますからその部屋でシャワーを浴びて頂いて昼食休憩しておいてください。そして会長の部屋から替えのスーツ一式と靴と靴下をすぐ用意してください、わたしが今から取りにいきます。今からなら落馬州(車用の国境)までタクシーで行き国境を越えてそのホテルまで大体1時間30分で行けますから」
電話を切るとすぐに必要な手配に入る。タクシー(ぼろでも早けりゃいい)、中国側ホテルの一番良い部屋の予約(景色も確認の事、窓を開けたら豚小屋はダメだ)、中国側の車(ベンツだ!なければホテルのリムジンをチャーターしろ)などの手配をスタッフに依頼して返事を僕の携帯電話に入れるように指示すると、国境でいざとなった時に必要な賄賂を経理から出金してホテルに向かう。
★
移住と言う仕事をしていて感じるのは「準備」と「実行」の踏み切り時期である。どれだけ準備しても万全はあり得ないし、こっちが準備出来たと思った頃は相手、つまりニュージーランド政府が移民のルールを変更したりする。
元々旅行と言う言葉はトラベルだがその語源はトラブルだとも言われている。そしてほとんどすべての日本人移住者は実は旅行者である。いつか年を取れば日本に帰り実家の墓に入るのだから移住とは実は長い旅行なのだ。
その旅行にトラブルはつきものであり完ぺきにしようなんて考えること自体が無理がある。相手のある話であり時とともに変化する状況で大事なのは結局トラブルになっても即応出来る能力と心のゆとりだ。
日本人の予定大好きはよく分かるが移住は長い旅だと考えてほしい。そして旅のトラブルは後になると思い出になる。あなたが旅行から無事に帰ってきて旅先の写真を整理していると「あれ?これって何日目だっけ?」なんて考えることがよくあるだろう。
ところが旅先であなたの乗っていた車が湖に落ちかかった!そんなのは一生忘れられない記憶になり「あの時さ、こんなことがあってさ」と、きれいに撮れた写真よりも思い出の一枚になっている。
それと同じで、完ぺきも絶対もない世界でジェットコースターに乗る勇気がある人は移住を楽しめるだろうしそうでない人はたとえ移住できたとしても数年で文句を言いながら日本に帰るだろう、こんなはずじゃなかったって。
今日で5月説明会第一部が終了。明日が第二部となる。
2011年05月25日
ワークビザや永住権の不思議
ニュージーランド地元のニュースではクライストチャーチで介護士として働いていたフィリピン女性3名の労働ビザ延長が却下されたとの事。
ところがオークランドでは専門学校を卒業してオープンワークパーミットを取得して働くアジア系若者はますます増加している。 永住権にしても、事前審査(EOI)にも通り本申請で条件は十分に整っているのになぜか半年経っても移民局から連絡もないという人もいれば、申請したら「あら、わたし3か月で取れちゃった」と言う人もいる。 この違いは何か?いつも日本のお客様から「不思議です、どうしてですか?」と聞かれる。聞かれても移民局の担当官ではないので「あなたのケースがなぜそうなったのか」を具体的個別的に説明することは出来ない。 ただ全体的に状況判断をすることは出来る。 まずクライストチャーチ(CHC)でフィリピン人介護士のビザが却下された件についてだが、これは 1・CHCの無色(無職)人種が有色人種が働くことに対して厳しい目を向けているということ。自分が失業保険で食ってるし仕事したくないのは棚に上げている。 2・CHCでは今回の地震で倒壊したビルに入ってた英語学校がフィリピン人向け介護士プログラムを作っており、これがここ数年バカ売れで街中にフィリピン人があふれるようになった。(ちなみに校長は今回の地震時にオフィスにいて亡くなった) 3・今回の地震で失業率が高まってしまい、これでビザ延長はまずいかなって判断が移民局にあった。 4・だったらついでにフィリピン人に対する警告として数名のビザを却下してみよっか。(あいつがいなくなったからやっちまえ?) 5・よっしゃ、今申請しているフィリピン人介護士の申請書を持ってこい。(xxxxしてxxxxたらxxxで)3枚(笑)は却下だ。 6・フィリピン人介護士が本気なら再審査を請求するだろうし再審査が通ればそれはおれらの上級部門の判断なのでおれらとは関係ないので後は知らん。 1から6のうち、5は今回この手法を使ったかどうかは不明であるが手法としては現在も生きている。うっそ!と思うかもしれないが、NZの移民局などそんなものである。伏字にしたのは移民局の名誉を考えての事だ。きれいな言葉で言えば「無作為に抽出した3枚の書類」となるが「あなたならどう抽出するか」はご自分で考えてもらえばよい。 移民局は感覚で言えば地方役場の戸籍係みたいなもので、毎日毎日同じことの繰り返しである。申請書の写真を見ても顔の区別もつかないような連中や名前の発音も出来ないような連中の作ったガイジンの書類を見ながら、書類に添付されている資料が本当かどうかをチェックするよりも、どのようにチェックしたかを上司に見せて点数稼ぎたい移民担当官が退屈そうに作業をしているだけだ。 高邁な精神で「ニュージーランド国家の為に優秀な人材を外国から受け入れて〜!」なんて考えているのは国会内の政治家だけであり現場では与えられた退屈な仕事をどうやって手抜きしながら上司には一生懸命働いているようにみせる為に、永住権申請者に対しては答えられないような質問を平気でぶつけてくる。 「ぼくはxx大学を卒業しました、卒業証書はこれです」と大学が署名捺印して発行した原本を見せると「これが原本であるという証明をしろ」と言ってくる。原本だぜ、これ以上どうやれっちゅうねん?おまえあふぉか?であるが彼らは自分たちが調べるのでなく申請者に面倒な事を全部やらせて上司には「自分が一生懸命調べました!」とやるのだ。 こういう場合は地元の弁護士にお願いして「この書類は真正であり内容に間違いない」と一筆入れてもらう。もちろん弁護士はそんな大学など聞いたことも見たこともなければ証書がホンマモンかどうかなんて知りもしないし知りたくもない。一仕事して手数料が入ればOKなのだ。 でもってなんでこれが上司に「よく働いた」となるのか?それはこれで地元弁護士の仕事が増える事で弁護士も移民局に「サンクス!」となるし次の機会に弁護士が何かあれば上司とにビールをご馳走して、更に弁護士内で「あの移民マネージャー、おれたちの仕事をCreateしてくれるからいい奴だね」となり上司の評価が上がるのだ。 つまり何のことはない真面目に書類を作った申請者は食い物にされているだけなのだ。移民局だって公務員、仕事を作り出すのが彼らの仕事であり、官民交流が盛んなNZではいつ自分が民間に戻るか分からない、ならば今のうちに他人のカネで自分を売っておこうとなる。 そして大きな問題は担当官である。あなたの担当官が白人キーウィであればかなり好意的に扱ってくれて提出する書類も大体信用してくれるから当選確率高しである。キーウィは日本人には好意的なのだ。 ところがこれがパキスタンあたりから政治亡命してきた連中や難民ビザで入国して何とかこの仕事を手に入れた連中からすれば「け!なんだよ日本人!お前ら自分の国でぜいたくできてるのに、さらに“じゃあこの国の永住権もお一つ頂こうかしら”なんて考えているんだろバカヤロ、」となり職歴と学歴の違いなんかを突いてくる。 「あなたは大学で経営学を学んだが就職した会社では現場で営業をやっている。これは関連性がないのでポイントとして認めることは出来ない」と言い出す。 「日本では大学の学部は企業に入社するためのシグナリングであり経営学など実はまともに学んでいない、それよりも就活と合コンにいそしんでいるのだ、そして就職後は丁稚奉公から始まるのだ」なんて説明しても、パキスタンの難民からすれば行ったこともない国の聞いたこともない不合理な制度である。 ダイガクで専門知識を身に付けない?若いのは給料の安いでっち奉公?意味不明!だいいち大学まで行きやがってこのやろう、おれが銃弾の下をかいくぐって戦場で必死に生き残ろうとしていた時に「ダイガクでシューカツ?だと?ごーこんだと?どんな飲み会楽しんでたんだよばあか!」となるから更に突っ込んでくることになるのだ。 このような裏ネタは普通にNZ社会で生活をしていてはまず見ることはない。キーウィでも知らない人がほとんどだ。時々ニュースで移民局の上司と担当官が調子ぶっこいて申請者から裏金もらってそれがばれて初めて表面的な部分だけが新聞発表されるが、それでも裏ネタは出てこない。 こういうネタは表だって聞いても「いえ、そのような事はございません、皆さん平等公平に書類を審査しておりますよ、おほほ」となるが、仕事のでたらめさについては移民局がしょっちゅう「あなたの申請書類に添付された旅券が紛失しましたので再発行して持ってきてください」というレターが発行されることで証明されている。 ぼくの直接の知り合いでも移民局に旅券紛失された連中が何人もいる。けれど移民局は過ちを認めようとせず、おれとは違う部門から書類が来た時点ですでに旅券がなかったとかおれの部門を通過した時点では間違いなく旅券はあったなどと言って絶対に間違いを認めようとしない。これまた結局は申請者が泣くしかない。 だからニュージーランドの表面的な自然の美しさや人々の優しさに目を奪われてビザ手続きも同様に「みなさん優しくしてくれるのだろう」なんて思ったら大間違い。 キーウィは個人的に付き合うには実に良い人種であるが仕事をするとなるとミスは多いし自分の利益を最優先させるし相手に仕事を押し付けるのが得意である。そして移民局は役所でありどこの国でも役人が考えることはあまり変わらないし更に移民局で働く移民と言う構造であるからますます複雑混迷となる。 だから移民局とやり取りをする時に日本的な常識は通用しない。NZの人の良さも通用しない。ならばこちらも彼らのルールで戦わねばならないのだ。 良いとか悪いとか価値観の問題を言い出しても問題は解決しない、ビザをあきらめるか彼らの価値観を受け入れて出来るだけ円滑にビザが取れるようにするか。結局真面目でお人好しで他人と組んで仕事をすることが得意の日本人には最も苦手な、おれかお前か駆け引きの世界なのだ。
2011年05月24日
今日の運命は、今日という日が決めるのではない。あなたが決めるのだ。
(原文:凶吉は人によりて、日によらず)
吉田兼好の「徒然草」は日本三大随筆の一つと言われており誰でも学校で学んだ記憶があるだろう。昨日ネットで調べ物をしていたら偶然出て来たのだが、そうなんだよな、自分なんだよな、ほんとにって思う。
古典や古文を読んで暗記したってあまり意味はない。むしろ実行出来るかどうかである。暗記して学んでも日々の生活で実行されなければ学んだ本当の意味はないわけで、このあたりが学校のセンセーの能力によるのだが、これがデモシカセンセーだとかなるやばい。
子供の頃の先生の役目は知識を与えるという意味で非常に重要だ。けれど先生自身がこのような言葉を暗記はしても実行出来てなかったら教えられるわけはない。
それに日本政府からすれば運命はお上が決めるわけでありあなたが決めてしまえばお上の支配構造が根底から壊れてしまうからそんな事を教えることは出来ない。
けれど幸運なことに大人になってこういう言葉を思い出してその意味を考える時間があれば幸せだし実行出来ればもっと幸せになれる。
人は誰でも願えば叶う。これだけは間違いない。願わないから努力も勉強もしないので昨日と同じ退屈な今日が来るのだ。
日本政府からすれば「退屈な毎日」ってのがばれたら困るから、人々の周囲をあらゆる娯楽で埋めて肝心のことを考える時間を奪う仕組みを作った。それがテレビでありお笑い番組でありパチンコでありカラオケである。
エンターテイメントを作った人たちは純粋に人々に楽しみを提供するための発明ではあるが、それは政府からすれば歓迎すべき発明である。
昔の学生は「立てばパチンコ座れば麻雀、歩く姿は千鳥足」と言われたものだが、そういう学生が社会に出て企業戦士として何の疑問も持たずに働いてくれるのだ。吉田兼好を教えるような奴は不要どころか有害なのである。
ニュージーランドにはほとんど娯楽がない。パチンコはないし雀荘もないしカラオケも数えるほどだし歓楽街も少ないし田舎に行けば誰でも夜の9時には寝るような生活である。その代わり朝には太陽と共に起きてジョギングしたりたっぷりの朝食を家族で食べてから仕事や学校に行く生活だから考える時間はいくらでもある。残業はないし土日はお休みだし一年に一か月の年休があるから家族との生活を楽しみながらも聖書や古典を引っ張り出して自分磨きの為にゆっくり読むことが出来る、残念ながら、だからキーウィが皆深い思考を持っているわけではないが(笑)。
時間は誰にも平等だがそれを有効活用できるかどうかは本人次第だ。それが日本であってもニュージーランドであっても。ニュージーランドに来たら誰でも幸せになるわけではないって事だけは忘れないで欲しい。
今日の運命はあなたが決めるのだ。この意味を考えれば考えるほど深い言葉だと思う。
2011年05月23日
スパゲティナポリターナ
今回の移住説明会は通常と異なり2回開催でかなり忙しい。個人面談もすでに満席、問い合わせの多さとその真剣度の高さがよく分かる。今回は東京の滞在が非常に短いので日程調整でばたばたしている。
ただ週末はニュージーランドらしくゆっくりと過ごせたのでよかった。平日だと時間がなくて作れないオックステールと焼き肉用のカルビ肉を金曜日に近くの韓国ショップで買って仕込む。
オークランドの韓国人社会は3万人くらいだが独立して商売をする人が多く韓国人向けのお店が10軒くらいの単位で固まって市場を作っている。そしてこういうお店がオークランドのノースショアにはあちらこちらにあるので買い物にはありがたい。
ぼくは韓国語が出来ないので(相手は英語が出来ない)肉屋のおばさん相手に見まね手真似とでカルビらしきものを指さし「カルビハナチョセオ」と言うと、3種類の肉がどれもカルビだと言われた。うーん、これ!って指さして出してもらったがとてもきれいな赤い肉、やっぱり牛肉は韓国人には勝ちませんな。
牛肉のうま味はぎゅっとかみしめて出てくるものだ。ところが日本では油だらけの牛肉を霜降りと呼んで高級食材となっているが、ぼくはあの油っぽいものは苦手だ。マグロの油は口で解けるが牛肉の脂は口の中では解けないので結局ねちょねちょになる。だから家族で恵比寿のトラジに行くとぼくが選べる肉が限定されてしまう。
金曜日は韓国製の家庭用焼台(煙を出さない奴)で韓国のソースとチシャで焼き肉を楽しみながら
同時にオックステールを仕込みに入る。オックステールはとにかく仕込みが手間がかかるけど出来上がったら絶品!
オックステールはシチューにするかスープにするかカレーにするかで家族で議論をして結果的に土曜日の夜はオックステールシチューにして食べた。これまた美味しいですね。ネットで調べると様々な料理方法があるので苦労しなくて良いが火加減と塩加減だけは自分で考えるしかないので金曜の夜と土曜日の昼はキッチンを行ったり来たり。
日曜は最近家族に人気のスパゲティナポリターナ。大なべでスパゲッティを茹でてトマトを裏ごししてソースを作り、ベーコン、鶏肉、えび、いか、貝などの食材を調理したらソースを入れて味を調整して、そこに茹でたスパゲッティを放り込む。、
家族はこんなイタリア料理は知らなかったようで、最初は父親がトマトソースの中に麺をぶちこむのを見て「????」だったが、食ってみると上手い。いろんな食材が入ってるし他のパスタの様に緊張する必要なく作れるので楽だ。と言う事で人気の一皿になりました。
ナポリターナは1980年代の喫茶店の常連メニューだが現在ではすっかりパスタが主流となり、俗っぽい味のナポリターナはボロネースに取って替わられてしまったが我が家ではこれがカルボナーラを駆逐してくれそうだ。
週末は明るい太陽の光と鳥のさえずりで目が覚めるので気持ち良い。最近の日の出は7時ちょっと前だが、鳥はその20分くらい前からさえずりだすので6時30分には目が覚める。
日本の東京のマンション(こちらで言うアパート)で密室性の高い部屋だと鳥のさえずりが聞こえないだろうがそこは手先の器用な日本人、すぐにケータイなどの目覚まし時計に「鳥のさえずり音」を入れてしまう。
キーウィは日本のケータイから鳥のさえずり音が出ると、「うわお!何て正確に再現されてるんだ、さすが日本!ところでこれ、何の為?」となる。鳥のさえずりが聞こえない生活があることを知らないのだ。
オークランドでも郊外に行けば自宅の窓を開けると向かいの牧場の牛が口をごちょごちょと動かしながらこっちを見ている。
オックステールシチュー、スパゲティナポリターナ、ゆっくりとした時間。今週から日本出張だ。日本にいる間はゆっくりとした時間、なんてあるわけない。日本時間で動きまくることになる。最近の日本は暑いようだが、本格的な夏が来る前に一頑張りで仕事をしてこよう。
2011年05月21日
舌禍
昨日の内閣参与の話が舌禍とすればニュージーランドにも舌禍はある。この国に住む限りやっぱり発言には注意が必要だ。
ユダヤ人ジョークと言うのがあって、ひねりが利いて実に面白いのだが、一つ間違えるとどえりゃー問題を起こす可能性がある。なぜって、相手がどう理解するかは相手の知性の問題であり、以前も記事にしたがTVONEのアナウンサがーインド人総督の問題をジョークの対象にしたらインド人から大反発を食らって番組を降ろされた(最近はまた他の番組で復帰しているが口はあいも変わらずだ)。
特定の場所で特定の人に発言した積りでも言葉が独り歩きすることはよくある。とくにぼくのような日本人が地元で生活をするには、ジョーク一つ使うにしても時と場所と相手を選ぶ必要がある。
ユダヤ人や中国人とのパーティで使うジョークならこんなのもある。
キリストと油絵の違いは?
油絵は一本の釘でぶら下げられる。
けどこれ、真面目で低能なキリスト教徒が聞いたら最初は何がおかしいか分からずに、笑いのポイントが分かってもなぜそれがおかしいか分からず、最後には腹を立てて本気で怒ったりする。まともなキリスト教徒なら異教徒の冗談と無視または付き合いで苦笑してくれる程度であるが、やはり喧嘩になる危険性は高い。
マオリと飯を食う時ならこんなきついジョークもある。
「おいお前らお人好しだな。白人が来て空を見上げさせて天に神様がいるって話している間にお前らの足元の土地を白人がかっぱらっていったんだよな〜」
なんてのも結構受けてくれる。「そうなんだよな、あんときゃしまったよな、パケハ野郎め〜しっかり仕返ししなきゃな」となる。
シドニーからビジネスマンがやってきた。
“Hi How is Sydney!” (シドニーはどうだい?)
“still there” (まだあるよ)
こんなのは誰相手でも使えるのでとげはない。
舌禍で地元ネタになっているのがカフェ、つまり公衆で母乳授乳をしていた女性に店のオーナーが隠すための布を用意したら「ふざけんな!この国では公衆で母乳授乳をする権利があるのだ!」と大喧嘩になり、それがネットで広まり大騒ぎ。
実際にニュージーランドでは法律で認められており、法律の文意でいくと母乳を与える母親の行為を止めさせようとすることは違法ですと明確に書かれている。しかしそれにしても喧嘩するような話じゃないでしょ、てか普通のキーウィは普通に布を使ったりスカーフとか使ったりしているよ。
けれどこういう左翼崩れの権利大好き仕事大嫌いな連中は何につけても文句を言いたがる。今のニュージーランドの方向性としては1984年を境に自由経済主義に移行しているが、いまだ社会主義政権の頃の夢が忘れられない連中が何かにつけてケチをつけたがる。
以前も書いたがカフェで昼間にお茶をしてた中国人女性が広東語で話してたら通りかかったおばあさんが「ここはニュージーランドよ、英語でしゃべりなさい」なんて平気で言う国だ。
これからニュージーランドで生活をする人は地元とのお付き合いでパーティに呼ばれたりするだろう。ジョークはお互いの距離を近くしてくれるし親密感は増す。ただそれも時と場所と相手によりけり、まさにTPO(time,place,occasion)をどこまでわきまえているかが計られる瞬間でもある。
2011年05月20日
バカをさらすということ
内閣参与が韓国まで行ってバカをさらしてきた。日本が米国の命令で汚染水を海に排出したと公表したのだ。べつにそんなの気にする必要ないじゃん、日本は常に米国の指示で動いているし今回の大地震でも原発事故でも緊急対応能力がない日本に替わって米国はずいぶんと助けてくれた。だからもともと問題になるような話ではない。
米国の専門家から「汚染水は海に流せ」と言われれば、これはぼくの推測だが米国の判断は汚染水をそのまま土地に浸透させると本当に何十年も土地が使えなくなる、それよりは海に流した方が「まし」と言う判断だろう。
あふれる汚染水を現場で見てればこの水がどこにしみこんでいくか普通に考えても分かる。ところが日本政府は誰も責任を取りたくないからあふれる汚染水をじっと見ているだけ。そこに現れた米軍緊急対応部隊責任者が「何やってんだ!この水、早いとこ海に流せ!土地に染み込んだら被害はもっと大きくなるだろうが!」と怒鳴ったのだろう。
でもってその話が回りまわって「汚染水を海に流したのは米国の指示ですから私は無実です〜」と責任逃れをした日本人連中がいたのだろうと推測する。それが今回のこの参与であろう。韓国人を前にして「あーあれね、あれは米国の指示ですよ、仕方ないでしょ、えへへ」
日本が米国の指示に従って原発事故の処理をやっていたのでありそれがなぜ韓国から「日本は主権を米国に渡したのか?」などと言われなければいけないのだ。主権を渡すわけはない、渡したのは原発事故処理現場での判断である。もっと堂々と発言すればよいだけのことだ。
だからこの参与の発言には普通に信憑性もあるし問題もない。韓国に事前通告なしでって、太平洋側の海の話だ、韓国に行くのはずっと先だ。ロシアから文句を言われるならまだ分かるがって感じ。
政府としては問題を大きくしたくないから国内でもみ消しをやって、おそらく今頃は米国にお詫びの使者が行ってるのだろうが、米国からしたら不愉快で仕方ないだろう。自分の国でもないのに放射能を浴びる危険性を顧みずに原発処理にあたったのに、そのお返しに「汚染水流出?ああ、あれは米国ですよ米国!」と言われたのだから、だったらもういい、お前らなんか勝手に原発と一緒に吹っ飛んでろって気分になるだろう。
現場ではダメージコントロールが常に要求される。これはビジネスでも戦争でも全く同じだ。全体図を広げてどこをどう動かせばどこで被害が出るか、その被害はどこが一番大きいか、これを現場の人間が判断するのだ。海に流すか土地に染み込ませるか、どちらにしても被害は出るのだから被害の少ない方を選ぶのが当然だろう。
ダメージコントロールでぼくがいつも言うことは「月曜日の間違った判断は金曜日の正しい判断よりも正解である」だ。常に危機意識を持って十分な情報を把握していれば、よほど方向性が違わない限り常に答を出し続けることが最善の判断である。一番だめなのは何も判断せずに問題を先送りして被害を拡大させることだ。
これが日本だと目の前で溢れだす汚染水一つにしても誰の責任になるか分からないから皆がお互いに顔を見合せたまま黙り込んでしまう。東京に連絡したって現場の状況が分かるわけないから汚染水問題がいつの間にか全然違う問題にすり替わったりする。
「海に流すと周囲の国家から批判が出るのでは?」
「しかし土地に浸透した場合は周囲の土地も含めて大規模な被害が出るぞ」
「いやいやそれはおかしい、もともと原発は被害が出ること分かってたんだから我慢すべきだろ」
「ロシアからどのような反対が出てくるものやら見当もつきませんが」
「海に流したのはきれいな水だってことにしておけ」
「いや、後で汚染水とばれたら責任問題ですよ、てか調査すればすぐわかるでしょ・・・」
「あの土地は元々堤たちが大儲けした場所だ、西武の株を売って弁償させろ!」
「そりゃ無理だ、西武は堤を潰して“正常化”させたのだから、それにしても堤を潰したのはまずかったな、あいつがいればどうにかなったかもね」
「けど地元の土地に浸透させたらおれら地元出身代議士は次回落選だべ」
「海に流したら隣県のおらが漁村にも影響出るべさ、おらも落選だべ、だめだめ!」
「そんなこと言っても水は溢れているんですが・・・・」
「じゃあいい、お前らが現場で飲み干せ!」
結局誰も個人責任を取らずに稟議書を回して「ね、ね、みんなで決めたんだもんね」と言う体質では絶対に危機管理は出来ない。それにしても政府の中に政治素人で発言の時も場所もわきまえてないお花畑左翼が増加しているのには一抹の不安を感じる。
そしてこれで米国には「やはり日本人はいつまで経っても12歳だ、まともに相手にしておれんな」、中国からは「ぎゃはは!ちょろQやろうめ、走り回って勝手に転んでろ、台湾が終わったら次はお前だからな」と日本人全体をバカ扱いされるのが何より嫌だ。政府のばかと一緒にするんじゃねえ!
2011年05月19日
不動産神話
今回の大震災で不動産の評価基準が大きく変化した。つまり今まで通用していた常識がある日突然通用しなくなり人々はどうしてよいか分からず右往左往しながら、やっと新しい常識に慣れてきた。
今回は日本の不動産に対する神話=常識が大きく変化した。それは今まで前提とする条件にはあまり考慮されてなかった、つまり地震による液状化、埋め立て地、インフラ崩壊などが現実化してしまい、今後はこれを考慮にいれなければいけないという事が分かったからだ。
昭和20年、つまり1945年から1990年までは不動産神話があり、土地の値段は上がるもの、絶対に下がらないと言われていた。そして新築の一軒家を建てれば一人前と言われた時代があった。土地を担保にすれば銀行がお金を貸してくれた。
明日は今日よりも不動産の価値は上昇するのだ、そういうことが神話として常識としてまかり通っていた。「なぜ不動産価格が上昇するのか?それは上昇するからだ」という神話だ。
こういう常識や神話と言うのは数十年単位で変化している。
今も田舎に行けば一軒家を建てれば一人前と言われるのかもしれないが、不動産市場全体を見渡せばすでに中古とリフォーム市場の方が新築より大きくなっている。つまり新しい家を建てる人が減り、人々は今住んでいる家をリフォームしながら終の棲家として利用したり中古市場で割安な住宅を購入する層が表れてきたという事だ。
キーウィが日本人の変な癖と思ってたのは新品嗜好である。車にしても「え、中古?」とか不動産エージェントと一緒に回っているとお客が「この家を壊して更地にして新築にすればいいわね」なんて平気で言う。不動産エージェントからすれば「なんでこの家壊すの?!十分に住めるじゃないか、必要ならリフォームすればいいのに、なんで??」である。
「いやいやキーウィさん、日本人は何でも新品でないと気に入らないのですよ、奥さん以外は」と言うと合理的思考しか出来ないキーウィには意味不明、とくに奥さんの部分だけは「なんで他は新品なのに奥さんは新しいのにしないんだ?」。
たった1千km走っただけの車が新品と比べて大幅に安くなる、大工が自分で建てたデザイナーハウスに数か月住んで売りに出すと「それ、中古だよね、だったら大幅値引きよね」と言い出す日本人の感覚がどうしても理解出来ないのだ。
そりゃそうだ、新品嗜好なんてのは何の理屈も存在しない見栄はりみえちゃんの世界なのだが、日本人はほとんど全員がみえちゃんの世界に入ってるから自分の言ってる事のどこがおかしいか理解出来ないのだ。
ニュージーランドではモノを大事に使う習慣があるし車の年間販売台数のうち8割以上は中古市場、新車を買うのはよほど儲かってる会社の税務対策か車オタクかって感じだ。住宅市場も同じで、新築なんてあまり見かけない、どこの家も中古で、むしろ地区20年くらいのカウリの木を使った木造住宅なんかのほうが「ほう、20年も使っているのだから安心だ、それにカウリじゃんか」と喜ばれる。
5年ほど前にお客様の同行でノースショアの不動産視察をして「このあたりはこれから更に土地が値上がりします」と言うとそのお客はせせら笑って「は!そんな事あるわけないじゃん、土地は買ったらそこから下がるのよ、何言ってるんだか、あなた不動産の事分かるの?」と言われた。
結局この人の頭の中では日本の土地値下がり神話しか頭になく、いくら人口動態を説明しても聞く耳持たずであった。だから〜、ここは日本じゃないし日本の常識は通用しないし、これからオークランドは200万人の街に向けて人口増加していくんだからと言ってもダメ、とにかく「そんなことありません、わたしはね、東京で不動産のプロのセミナーにも参加して分かってるんです、不動産と言うのは買った時から価値が下がるんです」の一点張り。
あれには参りましたな、本気で信じている人に何を話しても仕方ない、まさに神話の世界の話なのだから。
しかし不動産でこうやって常識が変わるんなら日本での生活そのものを覆っていた常識も、ここでもう一度見直してみるべきではないだろうか。
要するに日本人が日本と言う国に対して持っている前提である様々な条件がすでに変化を始めているのだ。それなのに自分の生活は変化に対応しているんだろうか?
明日も今日と同じ、同じ明日が来ると思い込んでいないだろうか?そしてそれに対して「違うんだ、前提が変わったんだから僕らも生活を変化させなくちゃ」と警鐘を鳴らす人々の意見は無視されて、結局行き着くところまで行きついてから初めて「あ!やばい、ここ崖っぷちじゃん!」と言う事に気づく。
崖っぷちで気づく人などまだ良い。社内を渡り歩く能力と社内用稟議書を書くのは上手だけど何のスペシャリストでもなく平凡なサラリーマン、けど自分はこれだけ会社に貢献したんだからリストラなんてされないと思ってた40代中年がある日突然肩たたきされて退社、再就職も出来ず貯金は底をつきはじめ家族には何も言えずに消費者金融で金を借りて「給料」として入れて半年も経たずに行き詰ってしまい、最後は山手線ダイブとなってしまった人たちもいる。
けれど不動産神話も日本を覆う日本だけにしか通用しない常識も、その前提となる条件が変化すれば変化していくしかない。変化しない者は確実に滅びるからだ。
そのような前提の変化はすでに様々な形で情報として流れている。それを自分のこととして当事者意識を持ってきちんと読み取り消化していけるかどうか、これがほんとに運命の分かれ道である。
新品神話、不動産神話、いずれも「時」と言う大きな津波がすべて洗い流していって問題を顕在化させた。これからは東京都内では車はシェアで住宅は賃貸でマンションは中古の低層階で職場から歩いて帰れる距離となるだろう。
そしてこれから顕在化するのが「脱東京」だ。すでにケンコードットコムはオフィス機能を福岡に移しているし外資系企業は大阪に事務スペースを確保して、今までのような東京一人勝ちではない時代となってきた。東京でなければ出来ない仕事は東京に残すが、オフィスの賃貸家賃は福岡や大阪に移せば半額以下になるので大部分の作業は地方都市で賄うようになる。
そして他の企業も同じように東京を出ていくから「おや、おたくも福岡ですか、お互い近くて便利ですな〜」となれば今まで東京の一極集中だったメリットが薄くなっていく。つまり東京でなければ出来ない仕事が減ってきているのだ。
そんな時に資産ポートフォリオの大部分が都内のマンション高層階でローンが残っている場合、かなりやばいことになる。
顕在化されていない前提条件の変化は他にもたくさんある。一番大きなもので言えば、数十年と言う長期間をかけて日本の太平洋側が少しづつ沈没していくことである。もしかしたら百年後には日本は地図の上に存在しなくなっているかもしれない。ならば今、自分は目の前にいる家族の100年後の将来の為に何をすべきか?
目先の顕在化されていない問題で言えば年金、医療、教育などがある。一部の人にはすでに顕在化しているかもしれないが多くの人にはまだ具体的に年金医療教育が今後どうなるのか目の前に見えてないので行動していない。
「出来ない」のではなく「してない」のだ。自分の意思で行動を起こしていないのだ。そして問題が目の前に出てきてから初めてパニックになったように「おれは悪くないんだ、おれはちゃんと真面目にやってきたんだ〜!」と騒いで行動を起こすが、果たして右に行けば良いのか左に行けば良いのかさえ分からない。その結果として残された道は行列を作って崖から飛び降りる作業となる。
戦後の不動産神話は崩壊した。不動産を選ぶ常識は大きく変化した。それ以外の要素が変化しないと誰が言い切れるだろうか。
2011年05月18日
ある朝
そろそろ季節の変わり目だ。毎年5月になると天気予報は「今朝は空が真っ黒になるほどの大雨、その後太陽が出てから強烈な晴天、その後強い風が吹いてから強烈なスコールが降りそのすぐ後には晴天となるでしょう。夕方から夜にかけて強い風が吹いて雨が降ります。気温は17度前後」今日も一日で四季があるオークランド、傘なんて要らない、てかこんな天気で傘さしても吹っ飛ばされるだけだし雨が降れば雨宿りすればいいだけだ。仕事はこの雨降り、少々遅刻してても誰も気にしない。
冗談抜きにビジネスの面談予定でも、雨が夕方に降ると「あ、ごめん、今日は雨きついしこのまま帰るわ、じゃあまた明日にでも!」なんてのが平気で言える。
車を運転する人間にはサングラスとヒーターと強力なワイパーが必要となる季節、この天気が数週間過ぎると青空で寒空の冬型の天気になり、これが9月後半まで続く。オークランドのダムは5月に雨を溜めて上水道に提供したり水力発電に回されることになるので「今年も安い電気代で生活出来るし水なんてただみたいなものだからほんと、いい街で生活出来てるね、らっきー!となる。
ところが同じことを違う書き方をすると「今朝はどしゃぶりの大雨でうざし、ちらっと見えた太陽もすぐ雨雲にかき消されてさ、とんでもない大風が吹いてまたも土砂降りで気分は暗くて、日が沈むころからまた土砂降り、料理作っててもいつ停電するか分からない、まったくうんざりするような季節だな、これが9月後半まで続くとなるのだから全くもうやってられないよ、文句たらたら」となる。
どっちも同じ自然現象を見ているのだが、見る角度が違う。人生をどの角度から見るか。自分を幸せにしたいのか?だったら自分を幸せにするように考えてみればよい。何かあればすぐに暗い面だけに目を向けて悲観的になり明日はもっと暗くなるだろうと落ち込み、けれどそれに対する準備をしようとは考えもしない。
毎日だらだらと生きながら文句ばかり言って自分では何も変えようとしないのなら、そんな人が幸せになれるわけがない。
「ショートランドストリート」と言う超退屈で超長長寿番組がある。最初から最後まで何を言ってるのか何を言いたいのか全く意味不明で、あんなのをまともに見てたら退屈病で死んでしまうのではないかと思うのだが、どうやらイギリス気質のキーウィにはこれが大人気のようである。
底抜けに明るいキーウィでもこんな番組を見るのかと思えば、やっぱりファンの多くは英国白人移民である。彼ら英国移民は元々が英国の一年中憂鬱な曇り空と雨雲とうす寒い天気と北海の黒い海を見て育って、おまけに食い物と言えば芋とくそまずいふにゃくれたローストビーフと言う生活を何百年も送ってきたから、こんな薄暗い退屈な番組でも楽しめるのだろう、てかこの番組には彼らの薄暗い心情を駆り立てる何かがあるのだろう、まさに国民性と言うべきか。
薄暗い天気に嫌気がさしてニュージーランドに移住する英国人は毎年約2万5千人。彼らは心の中では「おれっち宗主国出身だもんね」というのがあるが地元キーウィの前では絶対に言わない。けどぼくら移民同士でおしゃべりをする時は結構気楽に「バカキーウィがさー、約束も時間も守らない、それでいてけろっとしてる、全くだっさいんだよね〜」と平気で言ってる。
そんな連中でも夜になるとソファに横になりながら枕を抱えてダークビールを飲みながら「ショートランドストリート」を見て「おお、すばらっしい」とかやってるんだから、何てか笑える。
ある意味英国人は先の先まで見通す訓練を1700年代のパックスブリタニカ時代から続けて来たから人の人生は浮き沈みを知っており、現実の重みを背負って生きているからキーウィの底抜けのバカ陽気さにはさすがについていけず夜は「ショートランドストリート」を見ながら故郷を思い出しているのかもしれない。やっぱり根暗か(笑)と思ったりする。
ニュージーランドの人口における白人率は75%。これが十数年のうちに65%にまで落ちてアジア人が増えるだろうというのがニュージーランド政府の見通しである。そしてこれをどう捉えるか、つまりガイジンに対する恐怖とみるか、人口が増えてビジネスチャンスが増えるとみるのかで全く答えは変わる。
国民戦線と言うバカ右翼がアジア人台頭にびびっているが政府は慎重に受け入れ増加をしようとしている(もちろん、できれば中国人少な目・笑)。国家の将来を理性で考えれば世界の国際化は避けられず、世界と強調しながら平和と繁栄を呼び込むには今の時代はアジア人と組むのが正解、そう理解しているのが現在の政府である。
移民法が今年の7月でまたも大きく変更される。細かい変更を入れれば3か月に1度は変更されている移民法だが今回は投資家枠の部分に大きく変更が加えられている。ただ当然の事ながら6月末までに申請すれば6月までの法律、7月に申請すれば新しい法律の適用となるので日本のように遡って法律無視!なんてのはないのでそれは大丈夫だ。
理性と知識でアジア人と手を組んで21世紀を生き残っていこうとするキーウィ、けどその中にある心情ではやっぱりダークビールを飲みながら「ショートランドストリート」を見てどきどきして、最近は番組内にアジア人俳優とかも出てきて、おおお、どうしよ〜なんて悩み考えしているんだろうな。
彼らの心情に対してぼくらアジア人が取るべき態度は礼節と笑顔であろう。この二つがあれば彼らとも楽しくやっていける。最近やってくる大陸中国人を見ていると礼節の言葉が生まれた国から来たのか?と思わせるほど態度が悪い。インド人は自分のことを1.5級市民とでも思っているのかアジア人に対して横柄な口のきき方をする。これじゃ仏教がインド人に呆れてお釈迦様と一緒にアジアに移住したのがよく分かる。
そう考えると、日本人は自分自身気づいていないだろうが実は世界で一番まともで礼節を心得た人種である。仏教精神が一番根付いている先進国は実は日本ではないかと本気で思う。
朝8時30分、みゆきを学校に送って会社の下のスターバックスの2階の大通りに面したソファに座ってイングリッシュブレックファーストティー(Venti)を飲みながらカフェの入り口で寒そうに厚着をして新聞を売るインド人、土砂降りの雨の中を傘もささずにけらけらと笑って信号を渡るスーツ姿の中年キーウィ、フーディをかぶってラップしてるマオリの若者、襟を立てて傘をさす中国人を見ていると思わずこの人種多様性に「昼は勤王飲めば佐幕」と言われた山口容堂を思い出す。
キーウィも英国人も理性と感情のはざまでいろんな事考えながらアジア人受け入れをやっているんだろうな。しかし世界で発展する街はニューヨーク、シドニー、ロンドン、そしてこのオークランドと人種多様化を行っている。
さて今日もまたミーティングだ。フィリピン出身の弁護士と打ち合わせしてから次の弁護士事務所で中国人と打ち合わせ、地元の会社に問い合わせいれてと、たしかに人種多様化しているなって感じる朝でした。
2011年05月17日
ネットリテラシー
最近は電話で移住の問い合わせを受けるケースが増えてきた。日本からは直接電話で問い合わせしてくるのだが、やはり海外の会社にメールを送る不安があるのだろう、だから電話をするのは正解だと思う。当社スタッフはほぼ全員日本人であり電話をとるときも最初から日本語対応にしている。
ネットにいくらかでも不安を感じるのであれば原始的ではあるが電話が一番確実だ。相手の声も聞こえるし雰囲気も分かる。第一こちらの情報提供を出来るだけ少なくすることが可能だ。
実際にメールアドレスを持っていても使いこなせていない人もまだ多い。メールを送ってきてこちらから回答するのだが何回送っても「なんで返事がないんだ!」とメールが来るが受け取り側が受信拒否操作をしてたら、そりゃ受信出来ません。「そちらから変なメールが送られてくるがどういう事だ!」いやいや、それはSPAMメールと言ってこちらのアドレスを真似しているだけです。
でもって「アフリカの金と政府ネタメール」とか「宝くじ当たったよメール」を受け取って、自分の幸運にどきどきしながら「まわり、誰も見てないよねどきどき」みたいな感じで夜中にもう一回パソコン開いて「おー!おー!」と喜ぶ人たちもいる。
メディアリテラシーとネットリテラシーは文字情報を読み解くという意味では同じだが、駅のキオスクで買った朝日新聞が勝手にこっちの情報を取りに来ることはないこちらからの「一方通行」なのに対してネットの場合こちらからアクセスしていく双方向なので自分がアクセスした先がどうなっているかが分からないわけで、その意味ではネットの方が危険性が高い。
しかし情報量はネットの方が圧倒的に多いのであなたの脳をこれからも活発に利用するつもりならネットリテラシーを身に付けて「なんじゃこりゃ?あやしいぞ〜」と見抜けるようになるとかなりたくましい味方になってくれるのは事実だ。
そういえばもう一つ面白い事があるのだが、東北地震の際に当社のお客様に「大丈夫ですか」メールを送ろうと思って調べてみたら、当社のお客様は東北にたったおひとりだけ、それもその方は以前ニュージーランドに在住されていた方だった。
東北の人にとって海外ってのは遠い世界の事だろうし移住ってのは東京に行くことなんだろうな、思わずそう実感した。
けれどこれからの将来を考えていけば東北と言えど日本国内であり厳しい現実が待っていると言わざるを得ない。何せどれだけ働いても日本政府と言う相手の平の上で踊っているのだから、これから導入される国民総背番号制で収入は完全に捕捉され年金は削減され税金は増えるわけだから海外と言う選択肢も視野に入れていくことも必要ではないかと思う。
海外と国内と税法や収入や生活などいろんな面を比較して選択肢を持った上で、それでも日本国内が有利であれば日本を選べば良いと思う。とくに言語の問題は日本人には辛いものがある。
しかし選択肢を考えもせずに持ちもせずに毎日真面目に仕事をして「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手を見る」状態になってしまってから後悔しても始まらない。少なくとも本人は「働けど」で納得するにしたって子供には広い世界を見せてほしいと思う。
その為の第一歩がネットリテラシーを高めて海外の情報収集をすることである。インターネットには危険な情報も出回っているが同時に国内メディアでは取得出来ない情報がたくさんある。個人的には危険度対有益度でいけば2:8くらいだと感じている。ネットは強力な拳銃のようなもので使い方を間違ったら自分が死んでしまうがうまく使えば敵をやっつける道具になる。
石川啄木の時代はネットもなくさすがに海外と言う発想はなかっただろうがそれでも彼は函館まで行ってる。当時の函館は東京よりも国際的だったという話もあるから随分と自由だったのだろう。ネットリテラシーを身に付け選択肢を増やすこと。これを出来るかどうかがこれからの日本を生き抜くための一番大事なポイントになってくると思う。
2011年05月15日
モンスター
浦沢直樹と言う漫画家が描いた「モンスター」は多くの日本人が読んでいるモンスターヒット作品だ。週末は久しぶりに読み返して楽しんだ。浦沢直樹は作品全体からにじみ出てくる人間肯定が大好きで「パイナップルアーミー」の頃から読んでいた。そう考えてみればもう20年以上のファンだ。
モンスターの舞台は欧州、主にドイツとチェコだ。よっぽど取材を重ねたのだろう、欧州の裏町の石畳がほんとに細かく書き込まれている。作品内で出てくるセリフはどれも重みがあるが、とくにこのセリフがどきっとした。共産党政権下の東ドイツで子供の教育に携わっていた学者が言う。
「教育とは社会が要求する人間を創り上げる事だ」。
ぼくからすれば教育本来の目的は子供の持つ可能性を出来るだけ引き出してあげて社会に貢献しながら人生を楽しむことが出来るようにすることだと思っているが、政府からすれば社会に適応する人間を創り上げる事の方が正しいとなる。そしてわけのわからん事を子供に無理やり押し付ける役目がガッコーのセンセーだ。
ニュージーランドの牛乳は味が濃くて美味しい。これに比べると日本の牛乳はどうしても薄く感じるし学校の給食に出されてた紙パックの牛乳などほんとに紙をなめているような味だった。
それでもセンセーは「出されたものは食べなさい!」と言う。あんた、くそが出ても食うのか?第一この牛乳、体に悪そうじゃないか。こんな牛乳もどき飲まされて納得できるかよ。
まずいのはホウレンソウでも同じで「野菜は体に良いのだ!ほうれんそうにはたくさんの鉄分が入ってるのだ!食べなさい!」と先生に言われた。けど、たくさん入っているのは農薬でありまずいものはまずい。苦いのだ。体が拒否反応を起こしているのだ、農薬まみれだ食うなって。
もちろん食わなかったがが、あの頃の先生が見つかったら当時の厚生省のホウレンソウのデータを見せて戦前に比べてどれだけ劇的に鉄分が減ったかそしてどれだけ農薬を突っ込んで作ってたかを見せて「おまえが押し付けた野菜のおかげでどれだけの子供が主体性を失い健康を害して挙句の果てには社会組織に組み込まれて歯車としてすり潰されたんだよ」と言ってやりたい気分だ(笑)。
こんな子供生活を送っていたから、つまりまずい牛乳や農薬まみれの野菜を食わなかった事で何とかまともな大人になれたが(笑)、それにしても教育の重要性はいろんな国で子供を見ながら痛感した。
どこの国でも共通することは子供は最初は自由で楽しく笑ってるが、年を取るにつれて段々笑顔がすり減ってくるという事だ。その国の社会と言う型に押し込まれてその国の価値観を押し付けられていつの間にか自由に考えることが出来なくなっていく。
子供は3歳までに親と周囲を見て性格が形成されて3歳から社会と言う型枠にはまる訓練を受ける。4歳あたりから先生が自由とか主体性とかを教えると、子供は水を得た魚の様に生き生きと学校生活を楽しむことになる。なぜ?と言う子供の質問に対して徹底的にきちんと答えてあげると知識を身に付けるようになる。そしてどんどん発言をするようになる。
しかし日本では型枠にはめる事だけを目的に教育を与えるからまさに「教育とは社会が要求する人間を創り上げる事だ」となり子供は見事に型にはめられてそれをおかしいとも思わなくなる。
「モンスター」では幼児教育が一つのテーマになっているが、実際に共産主義政権下では生まれたばかりの子供たちを「教育素人」の親から取り上げて「教育のプロ」である国家が教育プログラムをすべて管理して社会に適応する子供たちを作り上げるという発想があった。
国家が「2足す2は5」と言えば5になるし、「なぜか?」なんて考えちゃいけないってのはジョージオーウェルの「1984」で有名な話だが社会に順応するという事は国家のいう事を実行することであり、「なぜ?」とか「どうして?」なんて考えちゃいけない、それが国家のためなのだからとなる。
あれ?2足す2を4だって答える自由、よく考えてみれば今の日本の受験などまさに「答える自由」はない、東大に入学したかったら間違った歴史でも記憶しなさいと言われて終わりだ。国語の時間に小説を読まされて「さあ、ここだぞ、ここが感動する部分だぞ、わかったな」と言われて考えてはいけない。感動することも国家が決めるのだ。
ホウレンソウだって同じ、自分の頭で考える事の出来ない、ただ先に生まれただけの連中(これを略して先生と言う)に押し付けられて嫌だと言えば怒られて「皆も食べているんだ!」とか「これはおいしいんだ!」とか全然理屈にならない理屈を並べる。
あ、そうか、モンスターの舞台は日本だったんだ(笑)!
2011年05月14日
自由と安全と
ニュージーランドでは14歳のりょうまくんでも普通に知っていることだ。だからこそ子供の頃から自分の身を自分で守る事を覚える。ナイフを使って手を切ってナイフの怖さと有用性を知るし、木に登って落ちてから本気で登り方を覚えるものだ。
キーウィが日本人と比べて伸び伸びとしているのは、あれは別に体格が良いからではなく子供の頃から主体性や自主性を教え込まれているからだ。人間は常に危険と隣り合わせで生きている。だからこそ常に状況を見ながら自分で考えていくって訓練を受けている。
ところが日本人は昔から「絶対安全神話」を頭に刷り込まされている。これは子供の頃から文部省が作った洗脳教育システムの中でどのような教科を教えるにしても必ず底辺には「政府のいう事を聞いてれば大丈夫だ、絶対安全だし間違いをしないのが政府だ」と教え込んでいるからだ。
原発事故でガイジンが日本から消えたってテーマで日経ビジネスが特集組んでた。ある意味当然であろう、ガイジンは絶対安全など信じていないから万が一の事を考えて避難する。日本は故郷ではないのだし今も原発の放射線は毎日空を舞っているのだ。
飯館村が30km圏内ぎりぎりにある村でありながら強制退去になったのは誰も不思議に思わないのだろうか?地図を見れば分かるがあの村は原発の北西にある。ところが原発事故以来の風の流れで飯館村に堆積した放射線はすでに1平方メートルあたり3百万から3千万ベクレルになっており、これならいつ原爆病に罹ってもおかしくない状況である。
http://kikko.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/05/09/osn2_2.jpg
つまり風の気まぐれで日本のどこに放射線が降るか、まさに神のみぞ知るような状況になっているのだ。それでも日本人は「ちぇ、ガイジンが、帰るなら帰れ!」と言う態度で、いまだもってお上の放送を信じている。
「原発は安全である!」って言われて何も考えずに信じてしまい、原発が水素爆発した時は「この程度なら問題ない」と言われて安心して、放射能が漏れ始めて東北の空を覆うようになった時は「この程度、ニューヨークに行く飛行機に乗ってるより安全」と言われてああそうかって思い直して、そして今、原発事故から2カ月も経ってから避難命令を出す。「大丈夫だけど、一応危険だから避難しなさい」って、意味不明な指示であるが、日本人は真面目だから素直に従って羊の群れの様にしゅくしゅくと行動する。
「絶対安全神話」などニュージーランドで育った日本人の子供は「絶対に」信じない。すべてのものは安全ではない事を前提にして思考と行動をするのだ。
だからどこに住んでても危険はあるけど座して死を待つような自ら放射線を浴びて原爆病に罹る危険を選ぶ必要はないだろうって事だ。
大事なことは、思考と行動は友達や先生や親を通じて多くの知識、様々な価値観や考え方を吸収して自分の行動の選択肢を増やすことだ。多くの知識や様々な価値観を理解しておけば何かあった時に自殺をする確率が低くなるし生き残るための選択肢を増やすことが出来る。
何かあった時に自殺って簡単に言えば金玉の裏に出来た陰金を前立腺がんと思い込んで悲観して自殺するような知識不足だろうし(笑)、またはイスラム教の国に行って酒を飲みながら「コーラン節」を歌ったりコーラン焼いたりしないだけの常識があれば首を切られずに生き残れる確率は高くなる。
ところが日本では絶対安全神話を大前提にして「議論」が行われるからいつも話がおかしな方向に行く。「政府が安全と言ってるから安全だ〜!」とか「テレビで偉い学者センセーが安全と言ったから安全だ〜!」とか、とにかく自分の頭と知識と常識で考えようとしないから、いざ何かあった時に考える訓練が出来てないからすくみあがってしまい全く行動がとれなくなるのだ。そして最後に「だって、xxがこういったんだもん」。けど自分の人生にエライセンセーは責任取ってくれないよ。
何故日本政府がこのような政府無謬説を洗脳させるかと言えば、それが国民統治をしやすいからだ。つまり洗脳されて安全神話を刷りこまれてまともな議論も出来ずに政府に教え込まれた台本ばかり読んでるだけの人間の方が、自由や政府誤謬説「=権力は腐敗する。権力が長ければ長いほどそれはより深く腐敗する」を訴えて世間を不安定に陥れる人々よりも制御しやすいからだ。
その結果として日本人は自らの頭で考えて「自由と言う選択肢」を失ってしまい目の前に来ている時代の変化についていけず結果的に最低の人生をつかまされることになるのだが、本人は意外と最低とは思っていない、何故なら周囲も同じくらい最低の人生を送っているからだ。
休みもまともに取れない仕事、残業の連続で家族の顔も満足に見ることが出来ない、ましてや毎晩家族と一緒にご飯を食べる事なんてあり得ない、夜中にくたびれて家に帰って翌朝の電車でまた会社に行く、そういう生活はどう見ても上等な生活とは言えないが、周囲が同じ事をしているから「あ、これでいいんだ」と思ってしまう。
時々心の底に湧き上がってくる「これておかしくないか?」なんて疑問は、テレビのバカ芸人のお笑いと忙しさの合間に埋まってしまい、またいつもと同じ一日を過ごす。そして思う、いつかのんびり出来るのかなって。
けど、幸せとはあの世で得るものではなく今の人生で得るものなのだ。その気になればいつでも自由を得ることは出来る。
日本と同じような政治形態をとっている英国では、権力は腐敗すると教えている。だからこそ一人一人が政治に参加して常に監視をする必要があると訴えている。
つまり政府が間違いを犯すことをよく分かっているから彼らの話をうのみにしないし間違いがあることを前提に議論するから現実的な議論が行われる。
ところが日本では伊丹の騒音問題があるからって理由で関空作っておいて、やっぱり伊丹も継続してくださいって住民と、建設会社を稼がせたい政治家と役人が乗客見込みもない関空が大赤字になっても知らんふり、そりゃ国民の税金で負担しましょ、さらに神戸にまで空港作って乗客いないから神戸市役所の出張は全員飛行機だ〜みたいな、全く本末転倒な議論が行われる。
そして安全神話が崩壊すると日本人は思考停止に陥るがいずれ時間が解決してくれてまたすべて忘れてお上頼りの生活に戻る。そしてまた毎日電車に揺られて出勤する生活を繰り返すようになる。
「自由」とは出来るだけ多くの進むべき道を持つことであり「安全」は出来るだけたくさんの逃げ道を持つことである。しかしいずれの場合にしても「完全な自由」や「完ぺきな安全」などあり得ない。その事をよく理解した上で自分の頭で考えて自分の考えで行動しよう。
2011年05月13日
政治鎖国
最近の日本は当然の話であるが津波に原発に地震など国内的なニュースばかりである。
田中宇のメルマガでは最近の韓国では従来の対米従属政策がこのままでよいのか、むしろ貿易相手として第一位である中国と接近すべきではないかと議論の様子が書かれている。同時に議論をしないまま対米従属を変えようとしない日本の問題にも触れている。
★抜粋開始
日本は、アジアにおいて米国より中国が支配的になった場合に「政治鎖国(国際的な、いないふり戦略)」という、島国ならではの国家戦略をとりうる。日本は地震と津波と原発事故が頻発しかねない国なので、外国人は来ない方がいいですよ」という趣旨にもとれる震災後の日本政府のあり方や、被災と原発のことばかり報じて世界のことを国民に伝えなくなった日本のマスコミのあり方は、この「政治鎖国」の方向性との関係で考えると興味深い」と書いている。
★抜粋終了
この政治鎖国と言うのは確かに日本人がよくやる方法で、問題が大きすぎると目をつぶり見えないふりをして状況が変わるまで砂の中に頭を突っ込んでおくというやつだ。
これは別に国家レベルの判断だけではなく個人でも全く同じで、日頃は何も考えずに何かあるとびっくりして思考停止してしまい、最初は無口になり次に怒り出して最後は「もう知らん!」と逃げる。百姓が毎年襲ってくる野武士に対応出来ずに攻め込まれたらコメと女を渡して何もなかったふりをするようなものだ。
結局日本人は論理的現実的に考える訓練を受けていないし考える作業が結構辛いしその過程において自分のバカさ加減が見えてくるのでどうしても嫌になって途中で停止してしまうためだ。そして家長が思考停止すると他の家族は家長の手前新しい事を言いだせなくなり家族全員が思考停止状態に陥る。
日本はある意味思考停止をしても食っていける幸せな国であるから結局土の中に頭を突っ込んでも何とか誰かがいつの間にか対応してくれて、土から頭を出したらまたそこで生きていける場所があるって感じだ。
お隣の韓国が米中どちらと関係強化をするかの議論が炎上してるところでこちらの日本ではそういう議論が全く出ないまま「アメリマさまさま」の状況が続いている。
沖縄問題などまさにアメリカ様のご判断を仰いでお決め頂いて、ところがそのアメリカ様も政策変更が多くて振り回されてる、日本の政治は「いないふり」をして裏では金儲けしている国防連中が暗躍しているのが現状である。
2050年の東北アジアを考えた場合に日本がどのような立ち位置にあるのかあるべきか、それを戦略的に現実的に冷静に考えるという発想は全くなく、あいも変わらず感情論者の「竹槍でB29を落とす」スローガンか思考停止型の米国礼賛でしかない。
日本は、アジアにおいて米国より中国が支配的になった場合に「政治鎖国(国際的な、いないふり戦略)」という、島国ならではの国家戦略をとりうるが、それが日本の将来のためなのか。
こういう事を書くと「お前は売国奴か!」と言われそうだが、今の時代であれば日本は開国すべきである。それも東北アジア共栄圏を作り各国の自由と民主主義(中国も形式は民主だ)を認めた上で東北アジアの外交は主に中国に任せ洗濯機などの汎用品のモノづくりと販売は韓国に任せ日本はひたすらに最新技術の研究開発を行い価格競争のない商品で世界に向けて販売をする。
極端な書き方だが、日本人が国家としてフルセットですべてのものを自前で持つ必要が今の時代にあるのか?得意とするものを成長させ、得意でないものは他国と組んで対応することもありではないか。
ぼくは国家とか国境と言う観念が普通の日本人より薄いのだろう、だからどうしても「なんで一国で全部をフルセットで持つ必要があるのか?」と考えてしまう。苦手なものは外注して下請けに出せばよいではないか。「外交は国家の基本であり!」と怒る人もいるだろうが、ではそれほど大事な基本を日本人がうまく使いこなせていない現状をどう思うのか?
江戸時代に江戸幕府と諸藩が併存していた頃でも各藩ごとに「あそこが軍艦持ってるならうちも一つ持っておけ、操艦出来る人はいないけど・・」的な発想があった。「あの国が外交するならうちも独自の外交しなくちゃ、能力はないけれど・・・」である。
明治政府が出来て中央集権体制になったら各藩は外務大臣も軍隊も自前で持つ必要がなくなった。都市の理論の基本は分業であり、農業をする人機械を作る人料理をする人、そういう専門特化した人々が集まって都市を構成している。
ならば日本が苦手とする外交と廉価販売についてはそれを得意とする国に任せ、日本は得意とする分野に専念すればどうかと思うのだ。東北アジア全体の利害関係は密接であり共通の利益は常に存在する。
北方領土は対米従属の手段であるが本当に北方領土が戻ってきて日本に何の利益があるのか?
むしろ中国とロシアが交渉して樺太やサハリンの自然エネルギー権益を三国で共有する、その代わりに日本は北方領土問題は持ち出さないとすればよい。中国ならその程度の交渉はあっと言う間にまとめる能力がある。
こう考えれば米国追従や中国服従と言う発想にはならない。日本の技術力は中国や韓国が彼らの土地で彼らが何百年かかっても追い抜くことはできない。本質的な部分の違いがあるのだ。
この本質的な部分の違いとは日本と言う場所が置かれた環境、空気や水や海や森、そして日本人同士が作り出す気、そういうものの合成物である。
中国人が日本に来て日本人と協力して何かを作ることは出来るしそれは中国に持って帰って売る事は出来る。しかし今ここに存在しないものを心で見て、何もないところから日本基準で完璧に製品や技術として作り上げる事、これは日本人にしか出来ない。
だからこそ日本人は開国をしても恐れる必要はないのだ。米国追従を止めて中国と対等の立場で協力関係を結ぶことが2050年の日本のためだ。
日本の国力がGDPで何番だなんて、そういう競争は無駄であるし誰も気にしていない。第一GDPがトップの米国でどれだけ銃による殺人がありどれだけの失業者がいるか?中国のGDPがどれだけ高くて黄砂の吹きまくる国に住みたいとは誰も思わないだろう。だからGDPなんて個人の幸せを計る物差しにはなり得ないのだ。
むしろこれから少子高齢化しても対応出来るように定年を廃止して能力があればいつまでも働く仕組みにして工場は韓国や中国やベトナムに移転させて日本は研究に徹底して、環境は時間をかけて土地を整地して自然が豊かだった時代の海や川を取り戻せばよい。
豊かな森が作る自然の栄養素がダムのない川に流れこみメダカが泳ぎ、河口では澄んだ川の水ときれいな海の水が混じってハマグリが取れるようになる。そういう日本を子供の為に残すことが出来る。
政治的開国と言うのは他国に乗っ取られることではなく、むしろ積極的に相手の胸に飛び込んでいって胸襟を開いてお互いの利益を得ることである。日本と韓国と中国は違うなんて狭い発想を持つ必要はない。
日韓中の細かい違いを重箱の隅を突いて取り上げて「だから違うんだ、組めないよ」なんて言うのだったら薩摩と長州が組めないと言ってるようなものだ、日本とアフリカの共通点を挙げてもらいたいものだ。
同じ漢字文化と仏教と儒教を持ち同じような顔をしているわけだし世界中のどこの国よりも組みやすいのだ。
こういう発想が出来るのは日本人だけである。中国韓国共に残念ながら彼らは「組んで何かをする」のは得意ではない。だから彼らが持ち出しても壊れる話であるが、今の日本が持ち出せば十分に実現可能な話になるだろう。
ならば今のうちに日本がまだ体力のあるうちに日本が仕掛けて東北アジア共栄圏を提案してみればどうだろうか。
2011年05月12日
どこの国でも存在する人種差別バカについて
ニュージーランドが天国と思われないように人種差別の話を書こうと思ってたらちょうどこんなニュースが飛び込んできた。
http://www.nzherald.co.nz/nz/news/article.cfm?c_id=1&objectid=10724703
以前から人種差別の目立つ街だったクライストチャーチを本拠地とするちんぴらはげ団体がオークランドまで出張してアジア人出てけ!ってビラをまいたんだとさ。
ほんとはもっと上品な人種差別ネタを書こうと思ってたのにクライストチャーチが出てくるとどうしても下品になる。
この街は昔から人種差別のある街で数年前も市長がテレビで「この街の人種差別は何十年も続くだろう」とけろっとした顔で言ってた。街のど真ん中で昼間からチンピラが暴れてて近くのアジア人通行人を脅かしたりとかしょっちゅうである。
人種差別に上品とか下品とかあるのかって言うと、ある。
このクライストチャーチの団体が典型的な下品差別である。
まず人間個人そのものには格差がないという理屈が理解出来ないし1300年代まで世界は中国を中心に回っていたという歴史も知らないし西洋世界も今はどうやってアジアと組んで成長しようかとしている世界観も理解できないし、とにかく政府から失業手当貰って毎日ビール飲みながら下ネタ飛ばしてギャーギャー騒いで、そのくせアジア人が金を持っているのを見てむかついてるだけのあふぉー連中である。
こーいうのが酔っぱらいながらクライストチャーチの街中を車で練り走りアジア人の獲物を見つけては水で膨らませたコンドームを投げたりするのだ。
けど、それがオークランドで通用するって本気で思っているのかな。だいたいオークランドに来れば先住民族であるマオリに叩かれるよ。お前らここをどこだと思ってるんだ、マオリ語で話せ!ってことになる。
だいいちオークランドでビジネスをしている人々からすれば人種差別なんてしてるヒマないし、商売するのにものを売りつける相手としてのアジア人はネタである。下手にそんな差別のどうの言ったら大変な騒ぎである。こーいうネオナチ的なばかはげ団体に付き合うのはせいぜいがマリファナ狂いの失業チンピラ連中くらいだ。
ただここで考えるべきことは、差別は存在しないんだなんて理想論を絶対に語らないことだろう。差別は常に存在する。その上でどうやってその差別と共存していくかを考えることが大事だ。
あなたがたも日本では在日韓国人、部落民、ブラジル労働者日常的に差別を行っていることを考えた事があるだろうか。誰しもが自分の生まれ故郷では一級市民と思いこみ、それ以外の出自は二級市民として差別している。
在日韓国人の場合は日本で生まれ育ったのに、完ぺきに日本語と日本文化を理解して同化しているのに在日と言うだけで企業は採用してくれず結果的に彼らが独立してパチンコ産業や芸能界で生きていくしかなかった。そしたら今度は「あらま、パチンコやさんですか、おっほほほ、お下品ですわね」となる。自分で追い込んでおいてせせら笑う、最低の人種差別くそったれ連中である。
部落民の場合などは大企業の総務課には必ず部落地図があり部落出身者は入社試験の際には自動的に振り落される仕組みがあった(今はどうか知らないが)。藤村の本を読んだ人はどれくらいいるのかな。
「あたしは違うのよ!あたしは彼ら被差別者の為に戦うのよ、日本人相手に!」と、キーキーと叫ぶ人権団体連中もつまりは自分の手の汚れないところでエラそうに騒いでるだけの自分可愛い連中にしか過ぎない、しょせんは差別主義者だ。
差別なんてあっちゃいけない!なんて言うのが間違いであり、差別は常に存在するのだ。差別は同じ人種内でも行われる。背が高い低い、顔が可愛い醜い、デブだはげだ、こんなもの結局は自分だけがエラインダと思い込みたい感情である。
それを理性で理解して適切な行動をとるのが天国に近い人間であり、感情をむき出して差別をするのが限りなく動物に近い人間である。
ぼく自身が日本人と言う生まれで奥さんが香港生まれで子供二人はニュージーランド生まれで、じゃあ子供は何人かってことを考え、子供たちの日常生活やぼくが香港とニュージーランドで生活や仕事をしているから差別とは日常的にぶつかって喧嘩をしている。どこの国でも常に差別に対する喧嘩から始まるようなものだった。
ニュージーランドでもこれは同じで白人キーウィだけしか入れない組織もたくさんあり、アジア人はお客様として招かれても本当の話には入れてくれない。これなどは目に見えない障害壁であるが、それはどこの国でも同じだろう。
白人キーウィは英国からの伝統で自分たちは働かずに食う「金に働かせる」と言う考え方を持っている。だからビルや土地は白人所有でありその場所を小作人であるアジア人が借りて一生懸命商売やって家賃を払うわけだ。
漁業や農業も同じで、一番おいしいところは絶対に手放さない。それを差別と呼ぶ人もいるがそんなもん彼らが先に来てリスクを取って美味しいところ取ったんだから仕方ないっしょ、だからぼくらは彼らとぶつからないところで新しくビジネスを創りだして雇用を創り納税を行い彼らと共存するしかない。
そうすれば彼らは喜んで受け入れてくれるし、一級市民は無理でも準一級くらいはいける。子供の世代なら一級の可能性も十分にある’(笑(。ほんとはそんなこと、どうでもいいんだけどね。
ただオークランドでまともな高等教育を受けた人々は差別をすることはない。彼らは差別が意味のない理不尽な感情だという事を知っているしアジア人を人種として見ずに個人を見て判断するからだ。
ちょっと取り留めのない文章になったが、ニュージーランドが差別のない天国だとは間違っても誤解してもらいたくないのであえて書いておいた。ただニュージーランドは英国圏5カ国のうち最も差別の少ない国であることも間違いない事だけはニュージーランドの名誉のためにも書いておく。
2011年05月11日
5月28日と29日に説明会を開催します。(ご案内)
日本社会の現況
説明会をするとお客様からいろんな質問が出てくるが、要約すると大体下記の様になる。
問題点として
1・少子高齢化による社会保障の不安(財源ないじゃん)
2・子供の教育環境や生活環境の不安(原発、非国際化、主体性志向のなさ)
3・相続税増税などの富裕層狙い撃ち増税(金持ち追出し政策)
対策として下記を説明する。
1・社会福祉と政治の安定した海外の国に移住する。
2・原発のない国に移住する。
3・子供の教育環境と生活環境の良い海外に移住する
4・親子で移住して資産の海外相続をする
そうなるとそれをどう周囲に説明するかとなる。
1・子供には沈むタイタニックの中の席取り競争ではなく青い海で生活をさせたい。実際に日本で東大を卒業してもまず米国IBM本社の社長にはなれない。けれどニュージーランドで勉強して西洋社会の思考が出来れば可能性はある。
2・移住とは日本を捨てることではない。沖縄や隠岐島に移住するのと同じ引越しであり、ただ居住地を海外へ移すだけの海外引っ越しだ、ビジネスも心もすべては日本にあるが、日本政府の為に働くつもりはない
3・日本政府へ納税をすることの無意味さ、結局一部の特権階級のみに税金を取られて社会全体に公平に行き渡らない問題。
4・日本と日本政府は違う。政府はいつも「日本を好きですか?だったら税金払ってください」とうそをついて誤魔化すが、本音は「日本政府を好きですか?だったら税金払ってください」なのだ。寄付を認めない社会構造、すべてがお上ありきである。そんな政府とは付き合いたくない。
原発問題でしばらく中断していた移住説明会を再開することにした。5月28日と29日。この説明会が5万人移住計画の一助になればと思っている。
2011年05月10日
衣の盾と教養と
「衣の盾はほころびにけり」って、なんでこの原発と関係あるんですか?と聞かれた。そうか最近の学校では日本史では教えてないのか。ぼくらの時代の歴史では必ず出てくる名場面でしたがね〜。
“安倍貞任は優れた武人であったが、文人としても優れていたと言われている。その故事が「古今著聞集」に記録され安倍貞任と源義家が和歌の応酬をしたという逸話が残っている。衣川の柵から脱出を図った貞任を義家は見つけて「衣のたてはほころびにけり」と貞任に向けて和歌の下の句を叫んだ。 貞任はとっさにしころを振り向けて「年を経し糸の乱れの苦しさに」と上の句を返した。この故事の伝説の域はいささか拭えないが、古代奥羽にも和歌の文化が普及していて、貞任のような武人でも和歌の教養を身につけていたことが伺える。“ http://www.mumyosha.co.jp/ndanda/06/medieval09.html もちろんこの話が事実かどうかは上記の方も書いているように伝説かもしれないがいかにも教養を感じさせる話である。東北は太古の文化に恵まれた地域である。 「年を経し糸の乱れの苦しさに」 「衣のたてはほころびにけり」 まさに今の原発の舞台である東北仙台を中心に1056年から1063年まで戦われた「前九年の役」の時の話である。これが現代に舞台を移して原発と格闘している今の日本政府とだぶったからこのタイトルになったのだ。 詳細は上記の方のブログやウィキで検索されば出てくるが、概略すれば衣川で長い間安定政権を誇った安倍貞任に対して追い落としを図った源義家が阿倍の立てこもる柵=たて=盾=館から脱出した時に、 「あなたの着てる衣はほころんでますよ」 =「お前の衣川に作った盾はほころんだぞ」 =「おい、お前の城は落ちたぞ!」=と投げかけたのだ。 するとすかさず阿倍が 「年を経し糸の乱れの苦しさに」 =「いやさ、長い事着てたもんだから糸も乱れてぼろぼろになって苦しいものよ」と返したのだ。 今の原発もまさにこの通り、長い間原発村で身内だけで金儲けをしてきた連中が「いやさ、ほころびてきたのよ」と言い訳をしている。自然と言う自分よりも圧倒的に強い敵に対して後悔の念を語っているようだ。 けど戦の最中でもこういう「心のゆとり」があるってすごいよね、てか本当にうらやましく思う。こういうのは教養と言って日常生活には全く役立たないし、こういう事を知っていれば時給が上がるってものではない。 だからある意味学んでいる時間は非常に非生産的なのだが、学んでいる間の心の至福は大きく本当に平安時代に心が飛んだ気持ちになって自分の世界観が広がる。 こういうのは金稼ぎだけのためだけの勉強をしていると絶対に身に付かない知識であるし普段のビジネスシーンでは絶対に出てこない話である。 けれど面白いことに自分が人生の岐路に立った時、さあどうしようと思う時には教養が非常に役立つ。今自分が置かれた立場を客観的に判断することが出来るからだ。政府の役人でも教養がある人は実にたくさんいる。ただそういう人は自分に嘘をつけないから出世できないだけだ。 今の自分を歴史的に見ればどうなんだろ、過去に同じような立場の人はいたんだろか、自分は道徳的にどう判断すれば正解なのだろう、そういう事が理解出来てくると何かあった時の対応が全く変わる。 ユッケ牛肉事件で社長の会見を観た。怒鳴ってみたり土下座してみたりだが、怒鳴るにしても怒鳴り方がある。土下座も同じくだ。大変申し訳ないがどちらも非常に見苦しく教養がないのが一目で分かる。 おそらくこういう人は自分の夢の実現に向けてまっすぐに走ってきて一切他のことに目を向けず頑張っていたのだろうが、彼の目標を聞くと「上場」らしい。 上場とは会社株を公開して資金を集める事が主たる目的であるが(だから世界最大の穀物メジャーであるカーギル社はもちろん上場していない)上場自体は企業の資金調達の手段であって目標にはなり得ない。 会社の目標は社会貢献でありその為に必要なら資金を大衆から募る、それが上場である。その必要がなければ資金は自己調達すればよいだけだ。 ところが今の時代はどうも「上場」することで金も名誉も手に入る、飲み屋に行っても「おれってさ〜、上場企業のしゃっちょさんなんだよね!」とえばる事が出来てそれが人生の到達点と思っているふしがある。これはほりえもん時代にも見受けられた悪しき慣習であるが、ぼくから見れば教養のない親が子供を育てた結果であるとも思っている。 企業の存在意義ををしっかり理解せずに「おれ、会社作ってジョウジョウしてカネモチになるんだ〜」と本屋に平積みされてる本を何冊か買って「お、これかっこいいからうちの企業理念にし〜よっと、ところでこの“寛恕”って、何て読むのぉ?」程度であるからお詫びも怒りもお笑いにしかならない。 日本の学校では教養を教えなくなったのかな。そして少なくとも親に教養がなければ子供に教養は身に付かない。ユッケ牛肉事件の社長はある意味今の日本の社会の短絡的価値観をよく描いていると言える。
2011年05月09日
衣の盾はほころびにけり
★記事開始
大阪・西成区のあいりん地区で、東日本大震災後に宮城県で運転手として働く求人に応募した男性が、実際には福島第一原発でがれきの撤去作業をしていたことがわかりました。
大阪労働局によりますと、3月17日ごろ、西成区の労働福祉センターが、業者から依頼を受け「宮城県でトラックの運転手募集」の求人情報を掲示し、採用された男性は東北地方に向かいました。
しかし、雇用期間中にこの男性から「福島第一原発で防護服を身に着け、がれきの撤去作業をしている」と、労働福祉センターに連絡が入ったということです。
男性はすでに雇用期間が終わり、大阪に戻ってきましたが、大阪労働局などは事実関係を確認して業者側から話を聞くことにしています。(09日09:52)
★記事終了
あいりん地区は昔から日雇い労働者の街で様々な人たちが吹き溜まりのような場所に集まり独特の派遣ビジネスを行っていた。そしてこの街で原発作業員が募集されているのも昔から有名な話である。
原発ジプシーと言う本を読んだことがある人はどれだけいるのだろうか?1970年代にはすでに孫請け労働者が原発の定期点検など被曝作業を携わっていたのは有名な話である。
今回もニュースで時々「協力会社の作業員が被曝」とか変なこと書きやがってと思ってた。そんなもん要するに東電社員が被曝したくないから手配師に金払って自分たちは知らんふりをして安い金で現場の作業をやらせてただけでしょ。
東電が下請け会社に手配するってったって、まともな社会人であれば原発作業はさすがに怖くて出来るものではない。しかしあいりん地区の人々は明日をも知れぬ生活をしており、「げんぱつか〜、しかたないかな〜」と作業に参加するのだ。
あいりん地区に集まった人々は日本社会の中で受け入れてくれる場所もなく家族もなく吹き溜まりに集まるようにやってきた。身元不明の人もたくさんいる。病気で死んでも情報が漏れることはない。
東電はそんなことは全部知っていた。けれどお公家の顔をする東電は「そのような事、知らぬぞえ、下々に任せるわ」と作業は全部下請け会社に回した。原発の定期点検は下請け会社にとってもうま味のある仕事である。さらに下請け会社でも原発の被曝可能性の一番高い「窯の中」には一切立ち入らず、そこだけは自分たちの手を汚さない為に手配師を使いあいりん地区やあちこちで日雇い労働者を集めた。
大阪労働局は「事実関係を業者側から確認する」と言ってるがこれは役人用労働用語であり普通の日本人の言語に直せばこうなる。
「一体どいつがちくったのか今回の犯人をすぐに見つけ出せ」
「次にそいつの口を金で塞いでそんな事言ってませんと言わせろ、でなきゃ一生消えてもらえ」
「それから手配師呼べ」
「お前今回の仕事どじったな、お前の兄貴分に言っておいた、次の失敗はないぞ、その時はお前が原発作業に出てもらう」
「さて今回の件は誰に責任取らせるかな、まずは東電にはあいりん地区の連中を数人正規採用してもらうかな。まあこれは皆が忘れたころに首にすればよいわ、ははは」
「それともしこれが広がるようなら、下請け会社の強制調査と総務部長クラスの逮捕と、手配師との窓口だった課長は自殺してもらうかな」
「これで東電にまでは被害は行かんだろうが、それにしても東電も下手を打ちやがってばかやろーが。今回はうちで丸く収めてやるから、次から厚労省の受け入れ枠を3人くらい増やせよ、ばかやろーが」
官庁はあいりん地区の原発派遣作業を分かっていても知らんふり。東電は自分たちの手が汚れなければよし。下請け会社は一番汚い部分は手配師に回して自分たちは逃げ切り。
けどこれは別に今回が初めてではないしこれからも続くだろう。こういう派遣労働に対する厚労省の立場は明確で、自分たちは法律をこねくり回して少しでも多くの利権を押さえる事であり東電も下請け業者もその為に存在するに過ぎない。
九州の筑豊では明治の昔から炭鉱ビジネスが盛んで、石炭の切り出し、川を利用して小倉の港に運び、更に石炭を積んだ小舟から大きな船に移す仕事があった。大変危険でありしょっちゅう死人も出てたが、これらの仕事は川筋男と呼ばれる乱暴者や過去のない連中、とにかくてっとり早く金儲けをしたい連中で賄われていた。
そしてこのような川筋男たちを束ねるのが手配師、つまり地元のやくざである。乱暴者を整列させておいっちにと働かせるのだ、炭鉱会社の青っ白い新入社員には到底勤まるわけはない。
この石炭会社で当時一番勢力があり今でも福岡をすべて支配しているのが麻生一族である。つまり日本の元首相の出身企業はやくざの大元締めでもあったのだ。
このような手配作業は戦後も山口組などが主な収入源としていたが、うまみのあるビジネスに目を付けた官僚やくざが派遣下請けビジネスの利権を取り上げて自分たちの天下り先にしたり資金源にしたりした。
まさに官僚やくざは一番強い。民間やくざを追い払うのにまず最初に法律を作って彼らを違法化させておいて「はいはい、あとは当社で発行した免許のない会社じゃないと派遣出来ませんよ、この意味、分かりますよね〜」とやる。
その官僚やくざは普段はきれいな顔をしているが今回はそのような「衣の盾がほころび」かかって原発現場の実態がちらっとのぞいてしまったのだ。
メディアも危なくて踏み込めない話であるが、今まで東電の原発の釜掃除が正社員によって行われていたなんて平和に思っていた「蝶よ花よ人」には現実を知るためのちょうど良い気つけ薬ではないだろうか。
2011年05月08日
ぽちの自殺
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110507-OYT1T00278.htm?from=navr
警察発表はもちろん「自殺の理由は不明、これから調査する」って事はこれでふたをかぶせてメディア発表は終了と言う意味だ。これから警察内部で責任の押し付け合いが出てくるだろう。
学校を卒業して地域を守るって正義感に燃えてて、そんな若い警察官が死ぬにはそれなりの理由があるのだろう。
死ぬ寸前まで平静だったようであり、そうなると自殺の理由としては
1・失恋しますた。
2・地震や原発など日本の将来を憂いつい発作的に引き金を引いてしまいました。
3・自分が地域巡回をしているときにやった「いたずら」がばれそうになり上司に説得されて引き金引きました。
4・上司の裏金作りを告発する予定でしたが上司に射殺されました。
などなどいろんな事を思いついてしまう。 「日本は警察国家です」というのはこの国を理解する際の一つの要素として考えておくべきだろう。警察はフーバー時代の米国FBIと同じように国家の有力者に監視を付けて違法行為をすべてファイルしておき、何かあるとこいつが出てきて「ところで先生、あなたまさか、こんな事やってませんよね?」となる。
しかし、だからと言って中国や北朝鮮の警察よりひどいかと言えばそういう事は全然ない。むしろ民主的であり、あなたに日本社会組織の中で適応能力があれば、そして「ごめんなさい」と言う能力があれば問題なく生活できる。
逆に言えば警察がしっかりしていない国家は無政府状態であり政治も経済も混乱してしまうのだから、ある意味警察はしっかりしてもらわないと困る。
中国で起こった天安門事件が日本で言う安保闘争と思えば良いだろう。中国政府は平和的に集まった学生に向かって同じような年の兵隊が銃を発砲し戦車で踏みつぶして一気に叩き潰して残党は刑務所に放り込んだ。
それに比べて日本の安保闘争の場合は後藤田さんに代表される「戦前から武士の気合を持つまともな警察官僚」が事態を激化させないように使用する武器は盾と警棒と放水車だけなど控えめにしながら出来るだけ若者を殺さないように心掛けていた。
日本では反対に若者がエスカレートして火炎瓶を作ったり最後には猟銃で強盗をするなど、いつの間にか国民を守る者と国民に危害を加える者と立場が逆転していた。
それから長い時間をかけて警察も腐敗していったがそれはどこの組織も同じようなものであり、日本の警察は中国や北朝鮮に比較すればずっとましであるし一般国民が普通に困っていれば助けてくれる頼りになる存在だ。
その組織を「警察は裏金作ってる!」とか「警察は麻薬犯罪に協力している、証拠がある!」などとフリージャーナリストや雑誌社が脅かしたりすると異常なまでの反応をして脅迫者を叩き潰しにかかる。
けれど最初はまず「まあまあそんなこと言わず、やめときましょうよ」と説得にかかり、それでも「いやだ、俺は公表する!」となると速攻で別件逮捕、拘置所に放り込んで「ごめんなさい」と言うまで続ける。 それでも逆らう場合は植草さんやほりえもんのように司法と検察が組んで実刑判決を出して社会的に抹殺してしまう。
「ぽちの告白」は逆の意味では、日本の警察はよほどの事がない限り個人を拳銃で殺すことはないってことだ。中国よりよほどましである。 日本ではここまでやっても大丈夫とか、やったらダメだけど権力者と繋がっていればこの程度までは大丈夫とか、ここで我慢すればあとは問題ないとかが見えてくる。 まあいずれにしても日本の警察の場合もニュージーランドの警察の場合も基本的には「さわらぬ神にたたりなし」である。
2011年05月07日
ポチの告白
「警察と天皇陛下にだけは逆らってはいけない。やくざでさえも警察とはほどほどの付き合いをして、必要に応じて警察にとって困る人間を殺す」
いきなりすんごい切り口!なんじゃこの映画?こんなの一般社会で放映出来るのか、てか、やるだけの度胸があるのか?それくらいびっくりさせてくれた「ポチの告白」である。
「国民の安全と平和を守る社会を作るために警察に入社しました!」そうやって真面目な気持ちで警察に就職する普通の人々が「問答無用で上意下達!」の組織に入り上司や先輩の指導に従っているうちにいつの間にか犯罪に手を染め、組織の実行役としてやくざや覚せい剤の売人、果ては売春組織のけつもちまでやっていく。
これ、ほんとか?そう思わせる場面が次々と出てくるが元々この映画の出所は警察不祥事を調査しているジャーナリストの持っている資料であり、その資料は実は警察によって公表されている。
ただその殆どが一般の人々の目に触れないように巧妙に「元警官」とか重大な不祥事発表の時はその数時間以内に一般の人々の目を引くような大きな発表を組むことで相対的に「見えないように」しているだけだ。
現職の交番勤務の警察官が近所の一人暮らしの女性の家に上り込んで強姦する。交通違反をした女性を理由を付けて警察署に呼び出して取調室で強姦する。
こういう手口を普通の交番勤めの警察官が「まあいいじゃんかそれくらい、おれたち平和を守っているんだからさ」と言う。このような事件は警察不祥事と言うキーワードで検索すればすぐに出てくる。
逮捕実績を増やすために交番近くに自転車を放置しておき、夜中に酔っ払いがその自転車に乗った瞬間に「現行犯逮捕」する。誰が自転車に乗るかを賭けているのだが、負ければその金は酔っ払いの財布の中の現金を盗って払う。
覚せい剤を使用することを「しゃぶを食う」と言うそうだ。現役警察官が交番勤務中に覚せい剤の禁断症状が出て仮眠室で震えだす。そこで本署から覚せい剤を急送する場面なんて「あり得ん」と思うが、これも調べてみると現役警察官が麻薬使用で逮捕されている記事はいくらでも見つかる。
銃器取締対策に実績を上げたい現役警察官が暴力団に金を渡して拳銃を購入させてそれを取り締まって「実績」にする。もちろんその見返りに覚せい剤取引を見て見ぬふりをしたり、時には暴力団のけつもちとして麻薬取引の現場に足を運ぶ。銃器取り締まりにおける警察官不祥事はネットで探す必要もなく今でも記憶の中に残っている。
とくに警察が一番問題にするのは身内の不祥事であるから、そのような事が起こった場合はとにかく隠ぺいする。事実など関係ない、そんなものいくらでもでっち上げれば良いのだ、よし、じゃあこういう筋書きにしてこいつをここで逮捕してと、そんな話し合いが警察幹部の間で行われる。最後は「なーに、すぐ忘れるよ、大衆もマスコミも」と笑って終わりだ。
この映画は最後に「ぽちの告白」で終わる。いやいや、ここまで描いていいのか、まさに正面から日本の警察に逆らっているではないか。これじゃあいつ殺されてもおかしくないぞ。
どこの国でも同じだが権力は絶対に腐敗するものだ。だからこそ常に血液を入れ替えて世間の常識が通用するような組織にする必要がある。もちろんそれでも腐敗はあるし不正行為も行われる。
これはニュージーランドでも同様である。この映画を観て「何て日本の警察は酷いの!NZは賄賂もないし平和なのよ〜!」なんて夢子さん物語は思い込まないで欲しい。
たしかに日本と比較すれば警察はおとなしいがそれでも違法捜査や違法逮捕はよくある。これはもう警察と言う存在自体が法と治安を秤にかければ必ず治安を優先する、既存の組織を守るように出来ているからそれに逆らう組織や個人が出てくれば当然のように潰しにかかるのは彼らにとっての必然である。
だからニュージーランドでも時々は警察官による犯罪が表に出る。ただ、その酷さが軽いだけだ。血液の入れ替え、つまり民間人が途中から警察に入社したりその反対があったりで血液交流が盛んだから組織で金儲けをするような仕組みが出来上がりにくい。
そしてもともとニュージーランドは賄賂や汚職を嫌う土壌があるからそれが公務員にも波及して組織的に国民を食い物にするという事にならないだけだ。
ただし自分自身の経験から言えるが、NZは警察官も裁判官も法律を重要視してない。そしてあまり頭が良くない。だから法律で決まっているのに平気で全然違う判決を出したりする。
法廷で判決に対して「裁判長、それはおかしいですよね。この場合の法律の解釈はこうなってますよね」と言うと、びっくりしたような顔で「あ、そうだな、じゃあこの判決は止めておこう、じゃあ弁護士、どの程度なら被告は納得するのか?」と法廷の中で平気で聞いてくる。
順法意識の高い日本人がニュージーランドで事件に関わることは殆どないと思うが、たまたま僕の仕事はそういう事件を扱うことが多いものだからこの国で生きていくのに最低の法律知識と腕の良い弁護士の友達を持つことがどれほど重要かはよく理解している。
幸運なことにキーウィも日本人の順法意識の高さを理解してくれてるからよほどの事じゃない限り大きな問題にはならずに終わるが、中にはどうしようもないちんぴらが事件を起こすこともある。
ちんぴらがニュージーランドで起こした事件として有名なのは数年前のクイーンズタウンのスノーボーダーの集団詐欺事件だ。シーズンパスは一人一枚で名前も顔写真もカードに記載されているのだが、キーウィが東洋人の顔を見分けにくいのを利用してパスを使い回して、それを見つけたリフト係に「何が悪いんだ〜きゃはは!おれたちゃジユウなんだよ!」みたいな態度で、こいつらは全員逮捕の上強制送還となった。
また同じクイーンズタウンで日本人スノーボーダー集団が酔っぱらって大騒ぎ、通りに出て駐車してあった車を蹴ったり車上に飛び乗って踏みつけたり、騒ぎを聞きつけた警官に対しても「へ、何が悪いんだよ、おれたちゃジユウなんだよ〜!」とからみ、こいつらも全員逮捕、強制送還。
オークランドで普通に生活をしてて警察とかかわりになることはまずない。何せこの街では中国人が先に暴れてくれてバカをやってくれるから、日本人がとても上品な人種に見えているのは間違いない。
夜の町で地元キーウィにからまれるようなことがあったら「おれは日本人だ!」と言ってみるとよい、そうすると相手も「お、そうか、悪かったな、中国人だと思ってたよ、ゴメンネ」って感じだ。
まあどこの国でも警察と言うのは注意してお付き合いする必要のある人々であることは間違いない。法律がどうなっているかなんて現場ではあまり関係ない。大事なことは何かあった時に誰にどんな電話をかけることが出来るかだ。
それにしてもこの映画、すべての日本人は首輪を付けられてるんだ、それを取り締まるのが全国27万人のぽちだ、警察と検察と司法と政治家と暴力団が組んで鉄の組織を作ってるのだって言われると、ほんとにぞっとするな。
2011年05月06日
にわか
時々誤解されるので書いておきますと、ブログに乗せてる顔写真は俳優の火野正平の若い頃のです。写真の彼はたばこ吸ってるけどがぼくは煙草は吸いません。「にわか」と言うNHKの時代劇で彼のファンになり掲載しているのです、ミーハーです(笑)。
在沖縄米軍海兵隊の水増し請求、ユッケ食中毒、東電が賠償費用を国民につけ回しする、こりゃまあどれ一つを取っても大きなニュースだ。それにしてもネタに尽きない今日の日本だなって思う。
ただこのばらばらに発生した事件3つには共通項がある。それは記事として報道されてからとつぜん多くの人が批判したり批難したり文句言ったりする「にわか米軍専門家」や「にわか牛肉流通業界プロ」になったり「にわか原発反対者」になったって事だ。
原発反対者など実に面白いのだが、どこかの文書をウェブで見つけて興奮して自分のサイトに引っ張ってきて「原発はこんなに怖いんです!わたしはわかってるんです!なんでみんな反対しないんですか!」と書き込む人がすぐ後に「わたしは正直こんな問題が起こるまでは原発なんて何も考えてませんでした」と言う。
がく!って感じだが、まあ原発事故が起こった後でも勉強しないよりはましだが、次の問題はその情報って本当に正しいって言える内容なのかどうかだ。単なる原発反対派のネタ記事に踊らされているだけではないか?そういうメディアリテラシーに乏しいから見つけた情報を真に受けてるのではないか?もしそうならこれはある意味二次災害(笑)だ。
普通に社会生活をしていれば原発反対記事を読む機会があるだろう、どうして普段何もない時に自分の身の回りを注意して見ようとしないのかなって思う。そういう人に限って「だって、普段はお茶とかして忙しいだっもん」と言い訳をする。言い訳だけは上手であるが結局自分のバカさ加減を曝しているだけなのに何の変りもない。
今回の原発のつけ回しにしても最初に必要な知識は減損や社債の意味であるが、そういう知識は日頃時間のある時に10分あればウィキで調べられる。普段きっちりと30分で昼ごはん食べて30分でお茶するわけだから、お茶をしている時間に知識を身に付けるという作業をするだけでメディアリテラシーはかなり高くなる。
何がネタで何が本当か、どこが問題点で自分はどういう視点から見るべきか。そういう事を問題が発生する前に学んでいれば問題が起こった時にどう対応するべきかが分かる。周囲の間違った情報に振り回されることもなくなる。
「原発傍観は賛成と同じ!」なんて言われても、苦笑いするしかない。けどこういう「二次災害派」が真面目に顔を真っ赤にして真剣に話をすればするほどもっと何も知らない人々が真面目に信じてしまい三次被害者発生である(笑)。
沖縄米軍基地のグアム移転の問題など、騒音問題だけを見て「まあ何て可哀そうなの!早くグアムに移転させてちょうだい、その為には日本政府がお金出しても仕方ないわよね、出て行けって言うんだから」というお涙ちょうだいのあんぽんたんがいる。
だったらまず最初になぜ日本の主権領土内に米軍基地があるのかその法的根拠は何なのかを勉強すればどうだろう。そして沖縄の米軍がうるさいし日本の米軍基地は沖縄に集中してる、けど北朝鮮とか仮想敵国があるし米軍の核の傘で守ってもらってるから文句も言えないというなら自分の町で基地を受け入れれば良い。
要するに自分でどろをかぶってでも何かをしようとはせずに被害者の沖縄に「まあ可哀そう」と言う自分を「可愛い」と思ってるだけだ。そして10分もすれば次の記事にのめりこんでる。「あらま海老蔵、再起するのね〜」
沖縄の米軍問題は1945年から続く日本の抱える安保問題のかなめであり同時に外務省や防衛相や政治家、ロビイストが一番金を稼げる「銭箱」である。米国からすれば日本が勝手にどうこうやって意味不明だけど、まあグアムに行くのに金くれるんだったら貰っておこう、見積もりの水増しもいいよ、だって金払うのはしょせん日本人でしょって感じだ。
実にバカな話であるがそのバカな話がまともに新聞に掲載されて誰も何も感じないことの方がすごい。同じ金を、例えば1千億円あれば何が出来るか考えてみよう。政府による事業仕訳なんて言ってるが、だったら米軍問題やってみれば?それから自衛隊装備。これだけで何千億円と言うおカネが不明朗支出されているのが分かるはずだ。
けど米軍基地問題はそれで稼げる関係者がたくさんいるから誰も何も言わないし国民にも実態を知らされない。今回のようにウィキリークスでちょろっと出て初めて問題にされるが、これも10分くらいしたら忘れられて「きゃー、モー娘再デビュー!」となるのだ。
人間の心理とは面白いもので最初に刷り込まれた知識はなかなか抜くことが出来ない。最初に原発=怖い!となると理屈抜きで怖くなる。その後どれだけ理論的に「これは危ないけどこれは危なくない、問題は原子力と言うエネルギーの費用対効果だ」と説明しても聞く耳を持たずひたすら「ゲエンパ〜ツハンタ〜イ!」とやりだす。ある意味宗教団体みたいなものだ。
何かがあってから後手後手で対応することに「泥縄」と言うことわざがある。
今大事なのは何かある前に日頃の自分の時間を使ってもう少し世の中を学ぶことであり世の中がどんな仕組みになってて誰が何をどう動かしているのか、そしてその中で自分はどういう立ち位置でどう判断していくのか、つまり「自分の意見を持つ」ことだ。
2011年05月04日
竜巻 自然と共生する価値観
Hardだと「硬い雨」になるそうでHeavy=重い雨の方が良いのだと。けれど雨がだんだん激しくなるって言い回しなら”Rain Hard “ と言う言い方もあるので結局Hardと言う単語をどう俳句の様に使い回すかの問題だろう。
昨日の朝のラジオでアナウンサーが”Today is HARD rain”と言ってた。最初にそれを聞いた時はちょっとびっくりしたのだがその後すぐにHeavy Rainも使ったので両方使い分けているのだろう。こういうのはNative、英語を母国語とする人間の強みだな、間違った言い方でも遊びとして意味を持たせることが出来る。
けど、その時はまさかそんな英語の勉強どころじゃなくなるなんて思いもよらなかった。
その日の午後、りょうまくんを迎えにいくために滝のように強まる雨の中を抜けてノースショアに出るとこっち側は雨が降ってなくて、大木の下でじっと立ってたりょうまくんを拾う。彼の服を触ると濡れてない。どうやら雨と雨の間を抜けて迎えの場所まで来たようだ。雨の合間を抜けるとか木の下で待つとか、少しづつ賢くなってきたな。
「今日の雨はすごいよね、学校もまるで滝の中にいるようだったよ」って話す彼を自宅に連れ戻したが、てか、この季節に傘も携帯電話もない状態で学校から迎えの場所まで行かせるのは危険だな、明日からは両方持たせようって思った。
土砂降りの雨は毎年降るが、基本的に熱帯スコールであり雨雲の向こうに晴れ間が見える奴。ところが昨日のは朝から徹底的に土砂降りPatchyRain(パッチイレイン=継ぎ当ての様に降る雨)で、ほんとに天の泉の底が抜けて気まぐれにあっちこっちに吹きさらしているのかと思ったくらいだ。
自宅に戻ってすぐ、またも天が抜けたような滝のような大雨とそれを叩き上げるような突風が吹いた。ぐわーって感じ。自宅もがたぴし言うような凄い勢いで吹き抜けていったのは、後で分かったのだがそれが竜巻だった。
http://www.nzherald.co.nz/nz/news/video.cfm?c_id=1&gal_objectid=10723156&gallery_id=118343
なんだこりゃと思って急いでNZHeraldのサイトを開くと数多くの写真と動画が投稿されていた。竜巻がアルバニーショッピングセンターを襲ったのだ。ここって、いつも龍馬君と買い物に行くところなんだよな、先週のイースターもそういえば大雨だったし、あの時に起こってもおかしくなかったんだよな。
ニュージーランドには確かに蛇もワニもいない。もちろん熊もハブもいない。自然の中でキャンプをしても安全な国である。 けれどやっぱり自然と言う視点から見るといつもよく事件が起こる。
南島のクライストチャーチでは地震も起こったしクイーンズタウンでは10年に1回くらいはワカティプ湖が増水して街の湖畔のお店の一階部分が水没する。こういう大きな自然災害に比べればオークランドの停電などはかわいいものだ、ほんとにそう思う。
自然災害はしょっちゅうあちこちで起こっているわけでそのたびにワイカト川で氾濫する川の水に囲まれて身動きできない牛の写真がウェブサイトに出たりする。立ち往生した牛をヘリが救出するわけだが、では翌年の氾濫に備えて土手を高くするとか堤防を作るかとか言うと、そういう事はしない。
「こうなると日本のほうがよほど自然災害に強いではないか」と言うと、まさにその通り。日本だって昔は自然災害大国であったがその後の技術革新で日本列島をコンクリートで固めて何とか自然災害をかなり防ぐことが出来るようになった。
けど、ここで考えるべきことがある。人間は一体どこまでの自然災害に対して事前の備えをするべきか?だ。自然を破壊してコンクリートで固めても想定以上の災害が来ればどうしようもないのだ。 ニュージーランドを走っていると分かるが、この国の道路は自然を出来るだけ大切にした道づくりをしている。
世界的に有名なミルフォードサウンドは出発地点であるクイーンズタウンから6時間、300kmくらい走って到着するが直線距離では100km足らず、クイーンズタウンの山の上から見えるくらいに近い。 けれどそこであえてスーパー林道なんて作らずに湖に沿って細い道を最低限作って走らせているだけだ。
この道などほぼ半年に1回は土砂崩れで閉鎖されるような構造であるが、キーウィは自然を破壊してトンネル掘ったり大規模工事で補強しようという考えはあまりない。 もちろんすべては費用対効果であるがこの場合の費用とは道路を作るお金だけでなく人としての自然を大事にする価値観の「費用」が含まれている。
自然と共生するのだから自然災害もあるだろう、それを含めて総合的に判断するという考え方だ。 単純に観光客の増減と道路の建設費用の比較ではなく、「自然を壊してまで道路を作って観光客が欲しいのか?」という基本的な価値観の問題にたどり着く。
災害を想定してM9対応まで作っても想定外の自然災害M10(そんなのあるのか?まあいいや)に対しては、つまり1千年に1度とか1万年に1度の自然災害があるのなら、無理して景色を壊してみんなの税金を使って醜いコンクリートで防壁を作ってぶっ壊されるより、そういう場所に住まないという選択肢、またはそういう場所に住むなら最初から災害を受け入れる覚悟を持つという方がよほど合理的ではないだろうか。
先祖代々の土地と言う表現があるが、東北の豪農だって最初のご先祖様は精々が1000年前程度だろう。エジプトのスフィンクスに比べたらまだまだ新人ですぜ。そんな中途半端な昔の、顔も知らない先祖の土地を守って100年に1回津波に流されるのなら、もうちょっと違う発想は出来ないだろうか。
せっかくの先祖代々の素晴らしい借景を壊して醜い柱を港のど真ん中に何十年もかけて作って、それが出来た途端に一発の津波で吹っ飛んでしまうような堤防などより、堤防を作るお金で地域住民の住宅はすべて山の上に移設させて浜辺の土地は魚を干したり漁網を並べたりするだけのビジネス街にすればよい。
だいいち堤防建設費用なんて言ってもそのお金の殆どは国交省と建設会社と地元の一部の議員のポケットに入って終わり、地元住民にはせいぜいアルバイト程度の日給1万円くらいの小銭しか回ってこない。 だったら堤防つくるお金で住宅を山の上に作る方がはるかに合理的だろう、同じ街中での引越しなら先祖も文句は言わないだろう。
勿論今回の竜巻とか地震とかの自然災害を見て「ありゃま、ニュージーランドも大変だわね」と思う人も多いだろう、その方が現実的でよいと思う。
いつも書くことだがニュージーランドは天国ではない。人が住む、それなりに危ない国なのだ。この国に来たら誰でも幸せになれるってわけではない。この国に来たからと言ってそれなりに差別とか嫌なことはたくさんあるし努力しなければ楽しく生きていくことは出来ない。自然災害だってしょっちゅうやってくる。自分がいつその被害者になるか分からない。
嫌なことは毎日一杯あるけど結局僕がそれでもこの国に住むことを選んだのは、やっぱりこの国の人々の持つ価値観を共有できるからであろう。
この国は1800年代後半に自然林の殆どを伐採して家具にしたり住宅建材にしたりして海を守ることが出来なかった。そのせいもあるのだろう、今は自然林保護に対して非常に厳しい規制を作っている。
多くの日本人は日本政府(国交省とか建設会社とか)が持つコンクリートの価値観を共有出来るし我慢できるしそれで飯を食ってる人もいるのだろう。また近代的な技術で大地震でも倒れない高層ビルで働くことを夢見る人もいるのだろう。それはそれでよしだ。結局は価値観の問題である。
竜巻が過ぎて今朝は晴天だった。けれど竜巻の通った後は見事に吹き飛ばされた屋根や木が道路を塞いで、朝から工事会社がチェーンソーを持って道路上に横たわる大木を切り裂いてた。
そして皆はいつものように会社に来て「ねえねえ、昨日の竜巻、すごかったよね〜、よっしゃ、じゃあ仕事しよっか」となる。お昼になると休憩室でお弁当を電子レンジで温めて美味しそうに食べる。そして5時30分になるといつものように自宅に帰る。
今年の年末はどこに行こうか、そろそろみんなが考え始める頃だ。うちは年末年始のクリスマス休暇が毎年3週間程度あるので、日本に帰っても良いしフィジーやタヒチもありだろう。
竜巻は過ぎて人々は家族や恋人の元に戻る。 生きる価値ってなんだろうか、考えてみる良い機会ではないだろうか。
2011年05月03日
竜巻が来ました!
大雨の中で大風で生ぬるい空気とかいろんな気象条件が重なったようですが、ちょうどその時間に竜巻のコースの数キロ東の自宅にいたぼくは「おお、すんごい風だな、雨が吹き上がってるぞ」という感じ。
この竜巻、10メートル程度の幅にあるものを巻き上げる、まるで掃除機みたいなもので、20メートル離れてると直撃なしってやつです。
高速道路も大渋滞です。停電する家もあると思うけど、何かな、皆「おお、大自然!」って感じ。これは明日書きます。とりあえずうちはみんな元気です。
tom
1984 New Zealand
★記事開始
国家公務員給与、1割引き下げ方針…復興財源に
読売新聞 4月30日(土)11時24分配信
政府は30日、国家公務員給与を1割前後引き下げる方針を固めた。
東日本大震災の復興財源確保の一環で、実現すれば約3000億円の人件費削減となる。5月の連休明けにも公務員労働組合に提示し、交渉を始める。政府は、関連する給与法改正法案などを今の通常国会に提出する方針だ。人事院勧告を経ずに給与改定が行われれば、1948年の人事院発足以来初めてとなる。
引き下げについて、枝野官房長官は30日午前の記者会見で、「具体的な引き下げ内容を政府内で検討している」と述べた。
政府内では、引き下げ幅について、若手職員の削減幅を小さくし、その分、幹部職員の下げ幅を厚くする案が有力となっている。ただし、若手の給与が幹部職員の分を上回らないようにする。このため、総人件費の削減幅は最終的に1割に達しない可能性もある。 .
★記事終了
なんだ、その気になれば出来るじゃないか。せっかくだから10%と言わず20%でいこうぜ(笑)。でもって削減した分を空残業手当で「闇給与補てん」なんてせこい真似は止めてねと予め言っておきたい。
この記事は土曜日の朝ベッドの中でIphone開いてねぼけた眼で見た記憶があるのだが、なぜかその日の午後普通にグーグルニュースを見てても出てこない。日曜日もニュースとしては出てこない。「日経 賃金削減 公務員」とニュース検索してやっと出て来た。
給与を下げたというが以前も指摘した事だが民間は事実上どんどん賃下げされている。それでも何とか食っていけるのは毎年デフレで物価が下がっているからだ。
つまり給与据え置きは実質的な賃上げである。例えば物価が3%下がって給与が変わらなければそれは3%の賃上げに匹敵する。
公務員は物価に関係なく毎年の給与を少しずつ値上げしていったので実質的には大幅な賃上げである。だから10%削減と言っても民間の痛みに比べれば軽いものだ。
今回の決定が政府のどのあたりで行われたのか背景は全く分からないが、政府内の誰かが東北大震災を利用して公務員改革にメスを突っ込んだのかな。
ならばこれを機会に次は公務員の強制的2割削減を行わないだろうか。2割削減と言っても本当に首切りをするわけではなく、例えばどっかの市で運営されている市営バスとか民間にやれることはそのまま民間に事業を売却するのだ。
そして民間に移った労働者が役に立たず人件費が高いならその時は民間の厳しい仕事を教え込み賃金を下げてけばよい。なにせ不要な役所や仕事はたくさんあるのだから、役所の責任としてどんどん民営化して公務員削減をさせればどうだろうか。
もちろん普通の状態で公務員改革は難しいが、現状のような大震災こそ既存の仕組みをぶち壊す最高の機会である。
1984年までの約10年間、ニュージーランドはまさに今の日本のような末期の経済状態であった。
1900年代初頭から続いた幸せな日々で国民は労働者としての権利を謳歌して国家は農業近代化によって国庫収入を増やすことが出来たが1960年代に入ると農業構造そのものが大きく変化した。それまで英国の食糧庫として活躍してきたニュージーランドだが肝心の英国が経済変化に対応出来ず英国病に罹ったのだ。
ちなみに1967年までニュージーランドはポンド制であった。ドルになったのは英国が英国病に罹り彼らが1961年からEEC加盟を構想し始めて「こりゃいかん、太平洋とビジネスしなきゃ、その為には10進法のドルにしなくちゃ」からである。
世界的に見ても羊毛輸出と言えばニュージーランドの独壇場であり更に北半球の端境期に南半球の野菜を送るというビジネスモデルで安定した収入を得ることが出来た。
ところが南米が戦後に農業力を付けてきて羊毛輸出を開始して国際羊毛価格の下落が起こった。当時世界トップクラスの賃金を受け取っていたニュージーランドと、世界でも最低賃金クラスのアルゼンチンの羊飼いが作る羊毛の品質が同じなのだから勝ち目があるわけはない。
農産物にしてもそれまではどんな品物でも公社が一括買い上げだった為にコストは高止まりして品種改良もせずに過ごしていたら他国は安い賃金と広い土地の作付けで次々と欧米向け輸出を始めてニュージーランドは変化に対応出来ずに市場を奪われた。
それでも社会主義経済では公社による農民が作った野菜の一括買い上げは変わらず政府はその分赤字を抱え込むようになる「逆ザヤ」が発生したが農民は「おれの知ったこっちゃない」である。
エアニュージーランド(航空会社)、BNZ(銀行)など大きな会社もすべて国の機関であり誰も危機感を持たずに高い給料と短い労働時間と無責任な仕事に浸かりきってしまって自分たちの国が沈むのを放置していた。そこに追加的に発生した石油危機で経済は崩壊を始めた。
そこで当時の首相であるマルドーンが最後の大博打である「Think Big」政策(工業化)を実行したがこれが石油危機に再度振り回され大失敗、1984年にニュージーランドドルはついに崩壊して準備銀行(Reserve Bank of New Zealand)が外国為替取引停止措置を取った。
今日と同じ明日が来ると信じて生活をしていた労働者の上にいきなり津波が襲ってきた。首切りとハイパーインフレーションが国民を襲い失業率は一気に上昇して、古き良きニュージーランド社会主義は崩壊、終わりを告げたのだ。
このあたり、戦後の繁栄を謳歌して何も変わろうとしない今の日本と非常によく似ている。
昨日と同じ明日が来るだろうと信じ込み、目の前に現実が付きつけられると砂の中に首だけ突っ込んで何も見えないふりをして現実が通り過ぎるのを待つだけの人々。しかし現実は通り過ぎない。人々の上にのしかかったまま押しつぶしにかかってきたのだ。
そして1984年、デビッド・ロンギとロジャーダグラス蔵相率いる労働党内閣が選挙で地滑り的圧勝、そこから経済改革が始まり市場が自由化され国家公務員はそれまでの8万人から3万人程度にまで削減することになったのだ。
その改革は恐ろしいほどの痛みを国民全体に与えた。ここで首切りデビッドロンギ首相、コストカッターのロジャーダグラス蔵相などと呼ばれたが彼らはひるまずに改革を進めた。
つまり日本と同じ島国のニュージーランドでは、これから日本を襲うであろう社会的変化をすでに30年前に経験していたのだ。逆に言えばこの改革があったからこそ人口がたった400万人の国でも何とか独自性を保って現在の世界の大変化の中でも国家運営が出来ているのだ。
結局ロジャーダグラス蔵相は1988年、デビッドロンギ首相は1989年に痛みを感じる労働組合や農協や既得権益団体から引きずり降ろされた。
皮肉なことに経済改革を批判して与党を勝ち取った国民党はそれから経済が好転したものだから批判していた経済改革を逆に更に進めて、ついでに労働党では出来なかった労働組合に大ナタを振り下ろした。
1900年代初頭から肥大化した労組の権利を奪い取ったのだ。組合加入の選択自由、専従の職場立ち入り禁止、社員以外の団体交渉禁止など次々と打ち出した政策によって新しい起業家が出てきて彼らはそれまでの社会主義的な発想では思いもつかなかったビジネスを起こした。
結局ロンギ首相が退陣してから5年後の1994年に国家経済は黒字化して経済安定は2006年まで続いた。その後はリーマンショックで振り回されたものの現在はまた好景気に入ろうとしている。
ニュージーランドのようなちっちゃな島国でも国家を破たんの中から救い上げて経済安定させるまで10年かかった。日本のように利害関係が複雑になっている、さらに米中による政治的ガイアツが常に存在する状態ではどれだけの時間がかかることであろうか。
日本が今1944年なのかどうか、地球はそこに住む人々の意思の反映なのか、これから答えが出る。
2011年05月02日
官費留学
「オーストラリアにも原発はありませんよ。シドニーの近くにアイソトープを生産する原子炉はありますが、発電してません。地震もないし、オーストラリアに留学するのはお勧めです」
昨日のブログでご指摘があった。あ、そうか、オーストラリアにあるのは研究用の原子炉で原発ではない、勘違いしていました。だから前言訂正して、オーストラリアも留学先の一つとして候補、ですね。
いずれにしても一か所で集中して日本人学校を作るわけではないので英語圏5か国で分散して送り込むのが良いだろう。事前の英語研修や生活相談とかは日本の大手留学会社が対応出来る。東電という経産省の下請け機関が金を出すのだからこりゃ官費だ。
なんて段々真面目に考え始めているが(笑)、明治時代初期は多くの日本人学生が海外留学をして英仏独米などいろんな国でいろんなことを学びその知識で日本の軍隊システムを構築したり警察組織を構築した。
今の日本が末期症状に陥っているのは誰が見ても分かるが、ではどうするのかと言うと誰もが結論を出せずにいる。正しい結論を出してしまえば今までの先輩の行動を否定することになるから官僚生命を失い将来は奪われてしまう。
かと言って嘘の結論を出せばますます日本は悪い方向に向かっていく。なので自分だけ逃げ切ってどうにかならないものか。政府と既得権益にすがっている人々は何とか自分の時代だけは逃げ切ろうと先送りするしその勢力が政府内でも国会議員の支持者にも多い。
現在の東電の社長や会長がお詫びをしているが、今の東電と経産省のずぶずぶの関係を作ったのは彼らではなくその先輩であり、先輩連中は「ほ、おれの時代でなくて良かったぜ」と胸をなでおろしているに違いない。
かといって日本をよくするという再興論を持っている人は少数に過ぎずテレビでは発言権もなくどこまでいっても少数派であるからマスコミにも政府にも取り上げられない。「下々の者は黙っておれ」と言うことだろう。
日本はもっと落ち込まないとダメなようだ。ガイアツでないと変化出来ない体質なのだからガイアツが来るまでどうしようもなく時間を無駄に過ごすしかない。今の日本が1945年8月15日の敗戦後の状態であるという人がいるが、ぼくにはこれからまだいろんな事が続けて起こると思う。
その意味では他のブロガーも触れているが今は1944年ではないか。
http://agora-web.jp/archives/1319482.html
なので国内でがたがたやって時間を無駄に過ごすくらいなら過渡期の大人たちのごたごたに巻き込ませずに、子供たちを静かに海外留学させればよいのにとますます思う。明治時代の若者が官費留学をしたように、東北の子供たちを東電のお金で官費留学させて将来の芽とするのだ。
ソフトバンクの孫さんが震災後すぐに10万人単位の疎開計画を作ったそうだが、結局それは頓挫してしまったそうだ。孫社長は民間の為に出来ることはないかと考え個人的なつながりで衣食住の衣料はユニクロの柳井社長に、食はローソンの新浪社長、住はHISの澤田会長に呼びかけてハウステンボスやシーガイアを受け入れ先と計画した。
ところがこれはその後政府に提案すると最初は「大変素晴らしい」などと言ってた仙谷官房副長官だが政府内の議論で時期尚早=やらないとなったそうだ。
こんなのも結局復興計画を政府が全部取り仕切って何でも管、じゃなかった、何でも官でとやった結果として出たマイナス効果であろう。何人送れるか分からないけど、とにかくやるしかない。
一人でも多くの人を救う事が先であり「悪い意味や足を引っ張る意味での悪平等」で全員に平等に行き渡らないからとやらなければ何も進まない。民間の邪魔をする政府は引っ込んでおけ、てかいちいち役人に報告せずにどんどん実行していけばいいのだ。
民主党政権の頭の中にある社会党時代からの悪平等が助かる人さえ助けられない状況を作っている。これから復興計画が進んでいくがその過程で日本の病はますます悪化していく。
今が1944年でありこれから次に何が来るか誰も分からない。前回の敵は鬼畜米英と教えられてきた。今回の敵はもしかして民主党じゃないか?
2011年05月01日
こども留学
今日も天気が悪く、買い物する為にハーバーブリッジを渡った昼頃には強風、ワイテマタ湾に白波が立っていた。夕方頃にはそれに大雨が加わり、今晩はまた停電かな、ローソクの場所を確認しておかなくちゃ。
福島県飯館村で東電が住民説明会を開いたが怒号の飛び交う集会になったようだ。
怒鳴って問題が解決するならいくらでも怒鳴ればいい。しかしどんなに怒鳴っても状況は変わらないのだ。ならばその状況で何が最上かを判断すべきだろう。
「誠意を見せろ!」とか「社長を出せ!」とか言うけど、誠意って何だ?金よこせって怒鳴ってるのか?社長が出席して、それで何か変わるのか?
加害者に対して被害者意識で感情論で怒鳴ったところで何が変わるものではない。それより今出来るのは何なのか?
せっかくだからこれを機会に新しい街づくりをするのだ。今までと同じ場所に同じ家を建てるなんて感情論的発想はやめよう。
どうだろう、原発による計画的避難区域の人々は、国内に避難先がないなんて後ろ向きの発想ではなく、これを機会に子供たち全員を1年くらい海外留学させればよい。その費用は東電から出させればよい。
留学させたくても金がないしな〜なんて思ってた親御さんからすれば、今回は東電の費用で留学出来るのだ、せっかくの機会だ、同じ学校の友達達と海外留学をさせるのだ。子供たちに広い世界や明るい将来を見せてあげるのだ。
行く先はもちろん原発のないオーストラリアやニュージーランドだ(笑)。ここで商売っ気を出しては良くないが、カナダ、イギリス、米国、オーストラリア、ニュージーランドの英語五か国圏で原発がないのはニュージーランドとオーストラリア(正確に言えば原子炉は研究用に存在する)だけなのも事実だ。
日本の本州程度のちっちゃな島国だしカラオケもパチンコもないけど、ないというなら原発もないし凶悪犯罪もない。人々は何よりも家族と生活を大事にしている。
もちろん停電もよく起こるけどそれを「電機はどうなった〜!」といちいち怒るのではなく「こんばんはキャンドルナイトだね♪」と楽しく受け入れる心の余裕がある。こんなこともあるよねって笑って過ごせる人間らしい生活がある。
狭い日本に住んでいるとなかなか見る事の出来ない生活を体験して、狭い日本に住んでいると思いもつかないような発想が出来るようになる。そんな子供たちをこれからの東北の未来のかなめに出来る良い機会なのだ。
多くの子供たちを海外に出して見分を広め英語力を身に付けさせ東北を中心にして海外から様々な受け入れが出来る環境を作るのだ。
一人で行くなら不安もあるだろうが、クラス全員で行けば怖くもない。小学生程度なら一年の留学でかなり英語力が身に付く。日本で必要な授業があれば先生が同行して放課後に教えてあげればよい。
どんな大変な事態でも生きていればそこから必ず何かを得ることが出来る。前向きに生きてみよう。