2018年04月
2018年04月30日
海外ネット通販に消費税。
いよいよニュージーランドでも海外企業がNZに向けて行うネット販売に対しても消費税を払う政策を導入した。1年後から実行すると言うのは、要するにどう海外企業に把握させてどう正確にNZに消費税を払わせるかだ。
NZの場合は消費税が15%でありNZ国内の通販企業は消費税を払うが、例えばAmazonにキーウィが注文してその品物が海外からNZに届いた場合は今までは消費税はかからなかった。
しかしこの為にNZ政府としては毎年数千万ドルの損害を被ってきておりNZ国内企業よりも安く物販をする海外のネット企業はNZの地元企業に対する明確な営業妨害であった。
小売市場がここ数年で急激に変化しているのは事実だしNZが田舎だからって外国企業が消費税を払わなくても良いなんてことはない。
しかし現実問題として外国企業にどう課税していくのか?これから一年かけて法整備をすることになるが、Amazon等は明確に確信犯でありNZ政府の法整備と本格的に戦うのか、それとも米国などでも同様の動きがありここはおとなしくするのか、興味のあるところだ。
これも結局G20の動きである。国家は何時の間にかお互いの壁を越えて共闘するようになり、それが次々と法制化され、Amazonやスターバックスのような国際企業を狙い撃ちにしだした。
表面的には正解な動きであろう。しかし問題は米国などではG20に参加するメンバーがAmazonの元社員だったりG20に参加していたメンバーがAmazonで働いてたり、要するに官民交流が良すぎるので情報戦になっているという事だ。
ネット通販については外国企業が消費税を払うべきか?これはサービスがどこで提供されたかによる。外国の小売会社がNZの居住者に本やCDを売った場合、サービスはどこで提供されたのか?この場合NZ居住者がNZで本を読み音楽を聴けばサービスはNZで提供されたと主張出来る。
しかし外国の会社が「サービスは郵送するまでで郵送した後は何のサービスもしていない」と主張した場合、NZ政府はどう反論するのか?
Amazonが正面からNZ政府と喧嘩するのか、その他通販会社がどう動くのか、これはいずれ日本にも影響の出て来る問題であり興味を持って観て行きたい。
2018年04月29日
今の日本の旅行業界に未来はない。
2019年の就職人気企業ランキングにJTBが日経ビジネスでは10位、ネットでは8位になっている。他にもKNTが35位とかもあったりだが、現在の日本の旅行業に未来はない。
現時点ではインターネットを使えない人々相手に数年は食えるだろうが、既に個人旅行はセルフブッキングでホテルも飛行機も現地での移動手段も手配出来るから大手の旅行会社から個人客が離れていくのは当然である。
団体旅行も1980年代のような「団体慰安旅行」がなくなりその結果として熱海の旅館群も1990年代に次々と倒産した。団体で移動する習慣が次第になくなっていった。
インバウンドは実態としては中國からのツアーは中国人同士の手配ですべて完結しており日本の旅行会社にお金は落ちない。
つまり外国から観光客が増えて日本から海外に行く観光客が増えて国内旅行が盛んになっても、それは既存の旅行会社の手から擦り落ちているのだ。
唯一未来があるのがMICEであるが、現在の日本の旅行業界でMICEを出来る人間は限られており、第一MICEが出来るなら独立開業するほうがやってる担当者からすれば余程自由度が高まり仕事がやりやすくなる。
僕は1980年代に自分がMICEをやってたので分かるが、MICEは広告代理店が得意とする分野であるから広告代理店が本気で参入すれば代理店の下請けとして仕事をするしかない。
例えば今年ニュージーランドで行われたワールド・マスターズゲームでは日本からもチャーター便で多くの人々がやって来たが、仕切ったのは電通である。彼らの下請けでオークランドのインバウンドエージェントが動いた。
では何故旅行業界は世の中の変化を見て自分たちも変化しなかったか。
大きな原因としては2つ。
1つ目は老害である。1980年代にジャンボで香港チャーターを飛ばした夢が忘れられず何時も売上と総客数だけ観て利益率を考えず航空会社からの接待に喜び、インターネット時代になったのに全く対応出来ず外国から来た予約システムや日本国内の「旅の窓口」に後れを取った。
2つ目はやはり1980年代からの悪い習慣であるが、お客様の要望を聴かず自分の売りたいものだけを売ってきたことである。まるでたちの悪い銀行や保険の営業マンと同じである。
旅行業が提案するものは旅という非日常で絵や本でしか知らない場所に連れていき、事実確認をする満足感と旅の途中に起こる色んなハプニングが楽しいのだ。
銀行や保険ならカネも返ってくる可能性もあるが旅行では払ったお金は絶対に返ってこないし、むしろ旅先でお土産や食事の支払いで旅行費用と同じくらい確実に使う。
それでも人々は旅をした、その好奇心を満足させる為に。ならば旅行業者としては顧客ご家族一人一人の旅の歴史を把握して、この家族は去年はあそこに行ったから今度はこちらをお勧めしよう、お子さんが来年高校受験だから長旅は駄目だなとか、プロとしてその家族に提案した。
そして団体旅行を組むならその団体の存在目的は何なのか?彼らが忌諱するものは何で彼らの興味があるものは何なのかを考えて「先生、次の旅行は、こちらはどうですか?」と提案した。
つまり顧客と営業担当が旅行情報を共有して営業担当はプロとして誠実に顧客に提案していた。当時はインターネットもなく旅先の旅行情報は旅行会社にしかなかったからその情報格差を利用してビジネスが成立したのだ。
ところが1980年代に旅行業が急成長すると同時に航空会社がジャンボジェットを導入して座席を大量に旅行会社に販売した。当時は航空会社が自前で航空券を売る仕組みを持っておらず、旅行会社に依頼するしかなかったのだ。
そこで旅行会社の各支店は自分の担当航空会社と交渉して香港3泊4日チャーターを組み300人募集をコミットする。
一旦コミットすると支店全員が顧客に売りに行く。そうなると本当はシンガポールを勧めるべき顧客に「今は香港っすよ!ジャンボチャーター!」全然顧客の顔を見ずに自分の支店ノルマだけ考えた。
更に支店長クラスになると自分とこの会社と送客契約をしている近辺の旅館やホテルの社長に声をかけて「おい、旅行に行こうぜ!」とやる。相手もプロだから「悪いけど今は丁度決算やってて休めないんだ、悪いけどその旅行で支店長んとこはいくら利益が出るの?その分払うから勘弁してよ」となる。
そしてチャーター担当者も他社と価格競争になるから香港3泊4日4万8千円!とかやる。これは業界では赤字発進と呼ばれており原価計算上では一人2万円くらいの赤字が出る。
だから香港に到着してバスに乗るとまずは日本語ガイドが両替を全員にする。続いて現地でのオプショナルツアー、例えば水上レストランの夕食とかを売り込み、最初にネイザン通りを観せたらすぐにお土産屋に連れていき30分以上缶詰めにする。
夕食後はお決まりのピークに向かい、九龍側の景色を背景に写真を撮るのだが、カメラマンは地元ヤクザである。彼らがニコニコしながらポラロイドを使って帰りのバスの中で即売する。
もうこうなると完全なぼったくりツアーであり、顧客は旅行会社のボッタクリに嫌気が差して「もう旅行会社なんて使わない」と思ってた。丁度その頃にインターネットが発達を始めて、今までは旅行会社が独占していた旅行情報を個人が得ることが出来るようになった。
何だ、だったら自分で予約するよ、そんな時代に個人がホテルや旅館を予約出来る「旅の窓口」が出来て、ビジネスマンを含む多くの人々がセルフブッキングを始めた。
それでも老害達はネットを無視して「へ、あんなの旅行会社じゃねー!」と言ってるうちにネット旅行会社に客を取られてしまった。
これは丁度1980年代にHISが安売り航空券会社として成長した時に当時のJTB幹部が「あんなの旅行会社じゃねー」と言ってたのと全く同じ状況である。
つまり消費者である顧客の旅の気持ちを読み取らず自分たちだけの情報格差が永遠に続くと思って顧客に寄り添わなかったからだ。
現時点でも既存大手旅行会社の売上は毎年減少している。これから先もネットでは客を取られ団体は減少しインバウンドも利益を取ることは出来ない。
MICEは利益を取れるが今まで古い旅行会社はMICEの知識を社内に蓄積しなかった。
これで勝ち目があるわけない。
本当に企業ってのは規模ではない。どんなに大きくても変化出来なければ退場である。生き残るのは企業規模に関係なく、時代に合わせて変化出来るかどうかである。
その意味で現在の大手旅行会社があいつら老害を抱えて変化出来るか?間に合うか?到底そうは思えない。だからこれから就職を目指すのに大手旅行会社を選ぶのはお勧めではない。かと言って中小旅行会社は更にきつい。なので既存の旅行業界をその知名度で判断するのは止めた方がいいって話である。
2018年04月28日
BNZクレジットカード
ニュージーランドには大きな銀行が3つある。ANZ、WestPac、BNZである。
ただ大きいと言っても所詮人口450万人の国でありオークランドも150万人の街である。北半球の日本のような規模がない。
その為に僕が一番困るのがクレジットカードである。例えば日本のホテルを予約する時に会社用VISAクレジットカード番号を伝えるのだけど、これが通らない事が時々ある。
VISAカードで前払いするのだからいいだろうと思いつつも現実にカードが使えないので個人的に使っているAmexの番号を提示するのだが、そういう時は大体において日本とNZの銀行の関係である。
例えばVISAと言えども実際にはこちらが予約をしている日本の会社の取引先銀行で決済をするわけで日本の銀行がNZのBNZと提携していない場合、日本の銀行は受け取りを拒否する。つまりビザカードといえど決済が出来ないのである。
日本の銀行からすればそんな南半球の田舎の銀行で発行されたカードなど怖くて決済出来ない。別にそんなとこと取引しなくても北半球だけでやってけるもんね、となる。
ところがNZのBNZは自分たちが大銀行と思っているから堂々とVISAカードの宣伝をする。世界どこでも使えます!みたいなものだ。だから実は自分たちの発行しているビザカードが北半球で使えない場所があるなんて信じられない。
当然だ、銀行の担当者は北半球に行ったことさえないから顧客から「使えなかった」と言われても「お前の使い方が悪い」で終わりである。
しかし現実は表面のVISAカードではなく発行している銀行同士の契約問題である。だから日本でもBNZビザカードが普通に使えるちっちゃな商店もあれば大きなRestaurantなのに使えないこともあるとなる。
ましてや最初から銀行がそのシステムに「海外発行のカードは利用不可」と設定されている場合があるが、これもお店の人には分からない話であるから何故使えないのか分からない。
こういうのは日本国内で日頃カードを使っている人からすれば「うっそ〜、ビザでしょ?使えないのは残高不足じゃないの?」と白い目で観られる。
日本人がいかにドメスティックかと言うべきかニュージーランドが如何に田舎と言うべきか、両方だなこりゃ。
2018年04月27日
黄砂の進撃
「黄砂の籠城」と対をなす松岡圭祐の歴史作品。
1900年の北京で起こった「義和団事件」を舞台にして、まずは日本側から観た義和団と約60日間の籠城戦を戦い抜く中で清朝側と欧米日露の公使団が様々な政治的駆け引きを行い、日本帝国陸軍中佐柴五郎が籠城戦の主役として活躍する。
しかしそれは決して単なる暴徒と公使団の戦いではなく中国人が自分を自覚するきっかけにもなった戦いでもある。
そして「黄砂の進撃」では義和団側から観た義和団の乱を描いている。義和団と言っても最初は各地方にある拳法団がバラバラに活動していた。それが次第にリーダーを作りそのリーダーが義和団と改名して一つの大きな組織にしたが、所詮は田舎の百姓の集まりでありまともな武器も食料もなく単なる大人数の集団だった。
当時は中國との戦争に勝って欧米から派遣されたキリスト教宣教師が各地方で横暴の限りを尽くし村人を改宗させ、改宗しない村人には薬を一切渡さない。宣教師が女性を犯し男を殺し村の土地などの権利を奪いそこに鉄道を敷いた。
それに対して何も出来ない清朝政府。そのような状況に怒った人々が集まり義和団を作ったのだ。
リーダーもバカではない、自分たちの兵力で欧米露日の軍隊とまともに戦っても勝ち目はない。ただ彼らは北京の公使たちに自分たちの窮状を伝えて何とかして欲しいだけだった。その為には死をも恐れない人々が自分たちの命を投げ出して戦った。
ところが途中から清朝政府は次第に義和団の力を認めて清朝政府の軍隊として銃を渡したのだ。これで義和団は反乱軍ではなくなり清朝政府と公使たちの国際戦争になった。
結果的に公使たちは約2ヶ月の籠城を戦い抜き天津の港からやって来た連合軍約5万人が公使たちを解放することに成功した。西太后等一部の幹部は服を着替えて逃れた。
こうやって義和団の乱を戦い抜いた人々はそれまでの義和団の反乱を思い起こしつつ、ある公使は「義和団が反乱を起こすのは当然だ。私が中国人なら義和団に参加しただろう」とも言った。
この2冊は2セットになっており最初にどちらを読んでも次の一冊を読むとその伏線が分かるようになっている。ただ流れからすれば最初に「黄砂の籠城」を読み、そして「黄砂の進撃」を読むほうが未来の広がりが感じられて良いと思う。
2018年04月26日
九州ヤクザ
麻生大臣の発言。
***
司会の羽鳥慎一が「エッ!?」と驚いたのは、「(福田前次官は)はめられて、訴えるんじゃないかと、いろいろご意見がいっぱいありますので」と、被害者を加害者扱いにしたような発言だ。また、記者から「裁判の結果が出ないと処分できないんでしょうか」と質問されると、「本人が裁判で争うとなれば、財務省として処分を判断するのは難しいでしょうね。俺に聞いたってダメだって言ってんだろ!」
さらに、「いったん官房付にして処分後に辞任を認めるという意見が出ていますが」と質問されると、「給料は誰が払うの? 野党は税金で払うべきだと言っているの? もう少し常識的なことを聞けば? 朝日新聞なら」
しかし、朝日新聞の記者から「さっき(質問した)のはNHKです」と訂正されると、「お前、NHK? 見かけない顔だな」と、もうヤクザのような口ぶりだ。
***
あのですね、全国区ではあまり知られてないかもしれないけど、麻生ってのは元々九州ヤクザの元締めです。
麻生ってのは元々北九州で炭鉱掘りの元締めをやってて、明治時代に日本中から自分の経歴を書けない様々な人々が集まり明日炭鉱爆発で死ぬかもしれない気持ちで働き、掘った石炭を港まで送り届け、それから沖仲仕が危険を顧みず大型船に乗せこむ、どこを取っても明日をも知れぬ地域で働いていた人々の元締めであった。
大正時代には嘉穂劇場など、大阪並みの(つまり東京以上の)演芸文化が栄えて明日をも知れぬ人々が一夜の演芸を楽しんだ。
地下深く、いつ崩落事故が起こるかも知れぬ、また崩落事故が起こればほぼ確実に自分は死ぬ、そういう炭鉱で今日も石炭掘って仕事が終わり地上に戻りやっと自宅に帰り子供の顔を観て、すすだらけの身体で子供と一緒に公衆浴場に行き汗と煤を流してやっと人間の気持ちに戻る。
風呂帰りには近くの居酒屋で一杯飲んで子供には「おい、何か好きなもん注文しろ」と何か美味しいものを食わせて、子供の喜ぶ顔を観る。
家に帰れば奥さんが、
「あ、あんたお帰り、何か作ろうか?」
「あ、さっき風呂帰りに少し食ったから、豆腐かなんかでいいよ」
と言うと奥さんが、
「あ、丁度良かった、今日はいつもの豆腐屋さんが美味しいの届けてくれたんだ、お酒はぬる燗にしとくかい?」
「あ、すまねーな、それとこの子の学校の成績、最近どうなのさ?」
などとたわいのない話が続く、明日の命の知れない男たち。
東京のあふぉでお上品なテレビ局の人々はご存知ないかもしれないが世の中には歴史とか殿様の責任とか組織のあり方とかがあり、麻生は間違いなく北九州という地域で絶対的な殿様であり責任を持って独裁主義を貫き流れ者を受け入れ組織を作り、そこでは徹底的な階級があり上意下達、殿様が全てであり、殿様から「お前、誰?」と声をかけるだけでかけられた方は「お目に配された」だけで喜ぶわけである。
何も九州が日本の歴史を2000年以上前に最初に作ったとか邪馬台国が九州だったとか、東京なんて所詮太田道灌が1600年頃に湿原に家建てただけのたった400年の成金じゃねーかとか言うつもりはない。
けれど間違いなく麻生はヤクザの元締めであり親分は子分を守り子分の家族に飯を食わせ、子分に何かあれば必ずその家族を守る、そうやって組織は維持されてきた。
その流れで麻生大臣は今も生きている。だから誰かが質問すれば「お前、誰?」となるのは当然である。その発言が気に食わないならそれなりの背景を持って反論しろって事である。
当意即妙な会話が出来ないバカ記者が他人の揚げ足取りばかりして自分は記事に対して何の責任も取らない。実直な農家の親父に突撃インタビューして責めて自殺に追い込んでも知らんぷり。
そんな連中に比べたら麻生の大きさが分かる。今のマスコミの連中、お前らは人を救えるか?人を助けることが出来るか?追い込まれた人を助けて一夜の宿と粥を与えることが出来るか?
麻生ヤクザのほうがマスコミより余程ましである。
2018年04月25日
岩崎宏美とエディット・ピアフの違い
夕食後ベッドに入りゆっくりしながら音楽番組を聴いてたら偶然だけど岩崎ひろみとよしみのコンサートがあった。
二人共本当に歌が上手いな、時代を越えて年齢を越えて。仕事をしながらBGMとして暫く聴いてたが一つの仕事を終わらせた時に手を止めてゆっくり聴くと、やはり上手い。
特に岩崎宏美の声量と制御の上手さはエディット・ピアフ並みだと感じた。けど唯一、そして決定的な違いを感じた。
岩崎宏美はどこまでいってもステージの上で綺麗な歌を符号どうりに完璧に歌う歌手であり、その詩に自分の人生は入ってない。
あくまでも舞台の上での演技であり、それは歌舞伎とかと同様である。歌舞伎は技術力勝負でもあるが、エディット・ピアフは詩に人生を賭けた。
生き方の違いと言うか、ふっくらとして賢くていつも米の飯が食えていっぺん歌詞を聴けば記憶できる素晴らしい女性が何のはずみか芸能界で歌を歌い始めたが、それはものすごく高い世界から降りてきた天女であり間違いなく下品な店の女中の娘ではない。
けどピアフは生まれた時から女中人生を歩き最低の人生の中で子供の頃から詩を歌い、今日の飯を食うことに一生懸命で今目の前にいる男を愛してその先なんて考えずに燃え上がり、その気持がそのまま詩に出て来てピアフの詩になった。
そこには音符も歌詞もなく、とにかくピアフがその時に感じた想いをそのまま言霊にした。幸せな時は本当に楽しそうに、苦しい時は本当に苦しそうに、神が降りてきたような時は愛の讃歌を歌い、
そこがピアフと岩崎宏美の違いかな、そんなことを思うアンザックデーだった。
2018年04月24日
アンザック・デー
明日はニュージーランドの祝日である。アンザック・デーと呼ばれるこの日は要するに第一次世界大戦で豪州軍とNZ軍の連合部隊がボロ負けに負けた戦いを記念する日である。
日本感覚からすればどうせなら勝利の戦いの日を祝日にすれば良いと思うだろうが、当時の両国の人々の気持ちは国のために死んでいった若者に毎年必ず「君たちのことは忘れないよ」と祈る事の方が大事だった。
アンザックとはANZAC “Australia New Zealand Allied Company”豪州NZ連合軍の略称である。
1914年に欧州で始まった大戦に豪州とNZの兵隊が参戦してガリポリの戦いは始まった。当初は連合軍の考えでイスタンブール占領作戦として始まった上陸作戦は海軍軍艦が次々と撃沈され各師団が上陸作戦を行った。ANZACの上陸作戦開始日が4月25日、つまり今から113年前の明日であった。
連合軍上陸部隊がなかなか上陸出来ない中オスマン軍19師団の激しい攻撃を受けつつもANZACは上陸を敢行、橋頭堡を確保するに至る。
しかしその後は連合軍の足並みの乱れ、作戦の拙さで戦線が膠着して結局12月には橋頭堡から撤退することになった。
この戦いでNZ軍の戦死者は2,709人、戦傷4,852人。多くの戦争未亡人だけでなく結婚できない女性が急増した時代でもある。
しかしこの戦いを恥と思う人はいない。人は自分の所属する地域や組織や国家のために働くのだ。
だから100年昔の負け戦でもしっかりと仲間を大事にして自分たちの住む街を大事にする、それが
自分の家族や所属する組織や更に国家の為に働くと言う崇高な行為なのである。その為に命を落とした
仲間のために一年に一回手を合わせようぜ、そういう祝日である。
日本くらいのものだろうな、戦霊を侮辱して墓参りのケチをつけて無防備都市とか中韓に金貰って日本を潰しにかかるのは。
それならCIAの方が余程ましである。
2018年04月23日
働き方改革 残業編
一番上が完全ブラック企業なのに、その下の会社が「残業しません」なんて言えるわけがない。
昭和の時代の日本株式会社の現場工場を下から辿って行けば、そこにはまず大田区あたりの町工場である第3次下請けがいた。その上にいるのが2次下請け。でもってちょっと偉そうなのが1次下請け。
その上にいるのが発注元である超偉そうな中小企業の発注担当者。けどその上には大手企業の最終組み立て工場と言うのがあって、車でも電化製品でもここらあたりの意向が3次下請けまで影響することは当然だ。
突然の増産、型番変更、如何なる理由があっても下請けが元請けの納品時期をずらすことは許されない。 それが日本なのだ。
そしてそんなメーカーにカネを貸しているのが銀行などの金融機関であり、ここまで来るともう威張り腐ってそのままそっくり返って倒れて後頭部打ち付けて、でもってお偉いさんは怪我ないとなる。
ところが日本株式会社の面白い点は、そんな一部上場の数万人が働く大企業の社長や頭取でも日本株式会社全体から観れば「部長クラス」にしか過ぎないのだ。
日本株式会社大蔵省銀行局民間銀行部の一部長にしか過ぎない人間が数万人の企業を運営して、そこから下に向けて日本株式会社が上手く回るように年功序列と終身雇用制度で縛った上でやりたい放題にやってた。
時代が平成になり民間企業は随分と自由を取り戻したがそれでも許認可企業である銀行等は自分の上司である財務省や金融庁には絶対に逆らえない。
そして今の時代も霞が関の役人は毎月100時間以上の残業をして仕事をこなしている、その內容が有用かどうかは別として。
そういう上司を上に持つ部下が「働き方改革」とか言われて残業制限とか何とかフライデーとかバカ事を実行出来ると思っているのだろうか?
片方では「休んでね」と言いつつ「けどこの書類は今日中に提出してね、僕の上司が必要としているからね」となり、その上司は政治家が下らん質問する度に書類をまとめるために夜中まで働くわけで、そうなると民間企業も官僚に「忖度」して夜中まで働くとなるのは物の道理である。
日本が抱える問題は残業問題ではなく日本株式会社の無駄な仕組みそのものなのである。
官僚やその周辺の人々は(専業バカ国会議員は別として)優秀な大学を優秀な成績で卒業した人々であり正しい方向性さえしっかり指示すれば彼らは実に優秀である。
しかし年を取って偉くなった官僚は必ず「俺達が若い頃はな〜!」と部下に自慢して官僚組織や国会運営改革をしようとしない。何故なら自分たちが若い頃にやらされた事だから、何があっても後輩に同じことをさせようとする。
こんなのは別に大学教育の問題ではなく日本の組織に昔からある「苛めの申し送り」である。
先輩の命令は絶対、自分が高校1年で苛められたから自分が高校3年になったらまるで王様のように威張り年下にどうこう言う、自分の苛められた分の仕返しを後輩にするってだけの「苛めの申し送り」だけなのだ。
だから無駄な残業を生み出しそれが結果的には何も生産性に繋がらず、そのまま民間企業にも伝播して下に落ちてゆき日本社会全体が無駄な残業をしているだけだ。だから世界標準の労働生産性でも日本のホワイトカラーがどれだけ低いかが明確なのである。
働き方改革には様々な角度があるから切り口によって答は異なると思うが、間違いない事を言えば日本で働き方改革をするなら、まずは老害出て行け!である。
2018年04月22日
ストローが無くなる日
最近のニュージーランドの取り組みの一つに「ストローが無くなる日」がある。
何のことかと言えば毎年10万本以上のプラスチック製のストローが海や川に流されてそのままゴミになるだけでなく最近では死んだクジラを解剖したら胃袋に30kgのプラスチックごみが入ってたとかきれいな浜辺だった場所にプラスチック製品が打ち上げられていると言う現実だ。
つまり今まではマクドナルドやKFCでコーラを注文すると付いてきたストローはこれから順次廃止していきますよ、皆さんカップから直接飲むか、マイストロー持参で宜しくってことだ。
2年以内になくす。これが現在の各社の取り組みである。
これはストローに限らずスーパーマーケットのビニール袋の廃止も目指している。既にマイバッグでの買い物を様々な方法で導入するスーパーも出てきている。マイバッグ持参なら5セント割引とかビニール袋を有料にするとかだ。
なので僕も車のトランクにはショッピングバッグを常備しているし冷凍品用にはクーラーボックスも用意している。
20年前は海にモノを捨てる人などいなかったのだが、悪い意味での人口増加で道徳が低下した部分があるのが現在のニュージーランドだ。
水は低きに流れる。人の道は高きに上る。回りがどうであれ自分はゴミを捨てない、そういう気持ちで生きて行く必要がある。
2018年04月21日
人は失敗をする。
多くの日本人は変化を恐れて変化しようとしない。何故なら変化した後はまた一から仕組みを創り出す必要があるからだ。これが面倒臭い。更に変化しそこなって失敗するともっと怖い。
この「面倒」と「失敗」が問題で日本の組織はなかなか進化も変化もしない。そのうち他の国に追い抜かれてしまい日本が日の沈む国になってしまう。
けど日本人のまず第一の間違いが「人は失敗しない」と考える事だ。けど現実は、人は失敗する。問題はその失敗から何を学びどう改善するかを考えるべきである。
ところが現実は「人は失敗しない」筈だから失敗が起こった事そのものを責めて誰かに責任を取らせようとする、何故失敗が発生したかを考えずその原因を取り除こうとしないのでまた同じような失敗が起こってしまう。
結果として誰も失敗したくなくなり何の挑戦もしなくなる。そしてその組織は劣化していく。だから「人は失敗しない」と言う理屈を突き通すことで間違いを犯すことが最も愚かなのだ。
日本の役所や政府なんて観てみろ、年中失敗しているのが現実だ。そして失敗のケツ拭きをやってるのが日本国民と言うバカな話である。
人は失敗する。これを前提にすべての論理を組み立てて、失敗しても立ち直れる仕組みを内包した組織を作り、一つの失敗が起これば「誰が失敗したか?」ではなく「何故失敗が起きたか?」を考えて修正することで最終的に成長するのだ。
2018年04月20日
ねむねむ
先週からよく眠っている。何故か眠り病になったように夕食後にベッドに入ったらそのまま朝まで眠っているし週末などは昼過ぎまで寝ていた。余程脳みそから年休申請が出ているのだろう、こんな時はどうせ文字も頭に入らないのでそのまま眠ることにしている。
今の食生活をするようになってから昼過ぎに眠気を感じることはなくなった。以前だと昼過ぎに眠気を感じることが時々あったが現在はまったくない。
僕が香港にいた1990年代に、北は大連から北京、南は広州までが営業範囲
だった。一番面白かったのはどこの職場を訪問しても昼食時間は中国人スタッフの殆どが会議室や休憩室で男女混合で20分程度の雑魚寝をしていることだった。
普通会議室ってもっと重要な使い方があるよね、雑魚寝に使う場所じゃないよね、なんて思いながらも、それが大連から広州までどこの職場でも同様だったことが面白かったのだ。
現在でも中国人が昼寝をする習慣は変わっておらず今はどうやって休憩してるかは知らないが、当時は会議室で手足を伸ばしての雑魚寝は本当に面白い景色だった。
昼寝は仕事に好影響を与える。だからお昼ごはんを食べて20分でも寝れば身体は元気になり脳の働きも良くなる。なのでこれは良い事だと思う。
だから日本人も本当は昼食の後のコーヒーではなく20分程度の睡眠を取れば午後の仕事はずっと効果的になる。なのにコーヒー飲んで下らん話して午後はうつうつしながら仕事する。
何故か昼寝を良くないと思う人が多いが、そういう人に限って夜中まで残業すれば良いと思ってる。
仕事の効率と言う意味では全く無駄な仕組みなのだが、日本人の精神論は何時も何か取り違えてて、格好だけでものを考える。
だから仕事の質や內容や効率を考えずに会社に長くいることだけが評価の対象と思い込んでいる。それよりも昼寝して午後集中して働くほうがずっと良い。
2018年04月19日
女と首
すごいな、一日で県知事と財務次官の二人がセクハラで辞職。その前には国税庁長官辞任、そのちょっと前は前川次官が首!
次々と官僚が吹っ飛ばされていくわけだが、更に今度はテレビ朝日がセクハラ事件をもみ消したまま女性記者をずっと次官担当にしていたのだから、だったらテレビ朝日も社長から飛んでもらわないと話が合わない。
次官は飛ばすけど俺たちマスコミは社会の木鐸だから飛ばなくても良いと思っているのか?詳細は下記記事がよくまとまっている。セクハラと国会運営をごっちゃにするなって話である。
http://agora-web.jp/archives/2032208.html
それにしてもセクハラで事務次官の首が飛んだわけで、そうなると財務省に限らずキャリア公務員でセクハラ経験やエンコーやってた連中は首洗って待ってた方がいいぞってなる。
大体君らは子供の頃に女にモテなかったろ?勉強は出来ても同級生の女性に好かれず、何故好かれないか分からないまま悲しい女性経験を過ごしたから偉くなった今になって女性の気持ちも理解出来ないまま「俺は偉いんだー!がおー!」って感じで職権乱用して女にちょっかい出しているだろうな。
まだ遅くはない、仕事のことは少し忘れて女性に好かれる講座にでも参加した方が良いぞ。
ところで先日はバトルロワイヤルで青年将校と左翼って書いたが、どうも放送法でテレビ局を解体されそうなテレビ朝日が他局の意向を受けて特攻を仕掛けて来て参加して来たような感じもするぞ。
2018年04月18日
奥さん一人
僕がオークランドで地元弁護士にお客様の家族構成を説明する時によく使うジョークが「この方は日本でこのような仕事をしておられ〜家族構成は、奥さん一人、お子さん二人で」である。
これはかなりキーウィには効く。最初はびっくりした顔で次の瞬間に大笑いする。
キーウィの場合、国民が事務次官から県知事までセクハラやキャバクラ通い、挙句に女子大生相手に援交する国柄と違い、わりかし真面目である。
浮気と言うか他に好きな人が出来たら問題になる前にとっとと離婚するしセクハラはNZでは絶対にご法度。だから奥さんは一人と言うのが何も考えない常識なのである。
だから「奥さん一人」と真面目な顔でやるとツボにハマるのだ。
逆に彼らのジョークで僕らが全く笑えなかったのもある。随分古い話であるがクイーンズタウンで仕事をしてた頃何時もお願いしているリムジン会社の社長の自宅の新築パーティに呼ばれた時のことだ。
社長は60歳位のがっちりしたキーウィで自分で会社を起こして成功させたが、ほんとにキーウィファーマーって感じでよく笑うし人が良い。
その彼がビール片手に小高い丘の上にある広々としてベッドルームも4つくらいある自宅の部屋を順々に案内してくれた。ダブルガレージ、リビングから観えるワカティプ湖の素晴らしい眺望、そして反対側にならぶベッドルームに行くと「これが俺の部屋、奥さんは隣の部屋!」と言って大笑いしたのだ。
これには僕ら招待された日本人、誰も意味が分からずきょとんとした。すると彼のほうがびっくりして「おおい、笑わないのか?」
「う〜ん、日本では夫婦が別の布団に寝ることもあれば部屋が別の時もあるから、どこが笑いのツボか分からんのよ」と言うと、彼はそんな世の中があるんだってびっくりしてた。
香港でも同様のことがあった。香港でも日本から団体のご夫婦が来るとホテルの予約をする。ここまではどこの国からの予約も同じであるが、ある時フロントで部屋タイプの確認をしていたらところどころの部屋がキングサイズベッド一つになっている。
むむ、まずいな、けど僕の目の前にいる受付の若いお嬢さんは何が問題か分からない。すると後ろにいたベテラン男性上司が広東語ですかさず「日本人夫婦は同じ部屋でも別のベッドで寝るんだよ」と言われてお嬢さんびっくり。部屋タイプを変更していきながら上司に「こんな国もあるんですね〜」だって。
そんなこんなでジョークと言うのはその国の価値観が分からないとジョークにならない。下手なジョークを言ったら本気で怒って殴りかかってくるかもしれない。
そんな中で僕が「どこの国も同じだな〜」と思ったのは、相手のことをよくしらない限り絶対にネタにしてはいけないネタ。それは宗教とスポーツと政治である。
あ、勿論初対面でも一国の財務省事務次官の首が飛んだとか県知事が辞職したとかなら良い。これはほんとに世界の政治家共通の笑い話だから。
2018年04月17日
政局?泥沼?泥舟?
何かここ数日霞が関がすごい事になっている。完全にバトル・ロワイアルだ。
霞が関の青年将校は自分の省庁をもっとよくしようとして組織を壊しているし、左翼や民進党あたりは中國やロシアの意を受けて反対側から組織崩壊を狙ってるし、何じゃこりゃ?な状況である。
しかし基本シモネタである。誰が辞めようが構わないがそれを国会で延々とやるのかって話であるし、一般庶民はシモネタ週刊誌買い込んで職場で仲間とぐちゃぐちゃ駄話をするんだろうけど、日頃の仕事の疲れの溜飲で政治家が公衆の場で叩かれる「魔女裁判」を観て楽しむ。
政治家は国民を体現し、国民が3流の場合政治家も3流になり国家としても3流となる。てか昔からそうだったもんな。
民主主義ではなく民衆主義が染み付いてる国民に多くを期待するのも無理な話だが,天に向かって吐いたツバはいつか自分の上に落ちてくるものだ。
2018年04月16日
国民の敵
自衛官が議員会館近くで遭遇した民進党議員に「お前は国民の敵だ!」と近くにいた警察官に止められるまで約15分罵倒した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201804/CK2018041802000121.html
罵倒された方は翌日の国会防衛委員会でこの事実を明らかにして問題とした。
おいおい、大の大人が罵倒されたらその場で言い返せよ。国会に持ち込んで問題にするとか、子供の喧嘩レベルだな、この議員。おそらくこの議員、即応体制能力がないから想定外の状況では身体が固まってしまう「大卒のお利口さん」なのだろう。
予め「ここが出るぞ」と言われたことを記憶して対応は出来るが突発状況に弱い。
それにしても民進党は何時までも下らんことで国会を空転させておいておまけに今度は自衛隊がどーのこーの、だったら民進党の立ち位置をまずはっきりさせろ。自衛隊は合憲なのか?
てか一般国民からすれば民進党の議員が非国民である。「武装しなければ誰も攻めてこない」と言う遥か昔に否定された「無防備都市」構想を今になっても日本に押し付けようとしている。それで攻め込まれたら誰が責任取るんだ?
自衛隊は戦後米国によって日本が二度と米国に牙を剥かないように牙を全て奪い今後も牙が生えないようにした。
その後占領政策が成功し日本人は進駐して来た米国人と仲良くなり、誰も天皇陛下万歳と叫びながら米国人を襲うことはなかった。
そして朝鮮戦争、中ロとのにらみ合いが始り日本を再武装させることにした。本来ならこの時に憲法を改正すべきであった。
米国としてはフル装備でいきたかったが日本側が憲法を盾に軽武装しか出来ない、だから残りは米軍が日本に駐留基地を作ってくれと言うことになり現在の米軍基地がある。本来なら軽武装をした時点で憲法改正することも出来た。
時代は流れ現在の自衛隊の形になったが上記の戦後のガタガタで自衛隊は憲法上は違憲である。しかし実態としては日本の戦後を守り国民の災害の際には積極的に救助活動を行い現在の名声を作った。
だから民進党が自衛隊についてどうこう言うなら、まず民進党が立場を明確にしろ。違憲と言うなら今すぐ自衛隊を解散するように国会で議論しろ。
現実的に自衛隊が必要と言うなら憲法改正を国会で議論しろ。
そういう政治家として基本的な活動はせず国民の税金で開催されている国会で下らない、何の生産性もないシモネタばかり一日中しゃべっているから「国民の敵」と言われるのだ。
2018年04月15日
ガラケー
2000年代初期に使われていたフューチャーフォンと呼ばれるパカパカやチョコバー電話、つまり日本語で言うガラパゴス電話が復活を始めている。
これは日本の現象ではなく米国の話である。
iPhoneを代表とするスマートフォンが市場を席巻して長いがその間にSNSの驚異的な発展が人々の人間関係を大きく変えた。そしてスマートフォンはSNS利用を前提にアプリを作り人々はフェイスブック、インスタグラム、LINEの利用者になった。
問題はここから先である。人間関係がどうあるべきかってのは中國の古人がいみじくも言った「君子淡交」である。
人は他人と付き合う時は淡い交わりで十分、もし相手が何かおかしなことをすれば一度は忠告するがそれ以降は離れるべき、その為にも最初から踏み込んだ付き合いにもっていくな、である。
ところが現代のSNSはこの教えを完璧に破壊したのである。会った事もない人々が「良いね」と言い、写真を交換しあいネット空間で毎分毎にやりとりをしてお互いがすごく親しくなった気になる。
実際は寂しい人間の勘違いである。寂しい人間が仲間欲しさにネット上を検索して友達を探す。相手に「良いね」を送り、こちらにも「良いね」をもらい、ネット上の友達同士でその数を競い出す。
それに輪をかけるようにスマートフォンは使いやすいアプリを次々と出してくる、そのうちに人々は朝から晩までスマートフォンを手放せない「電話中毒」になり、やばいサイトでは人殺し仲間を探して実行して、エロサイトでは違法ダウンロードをして、メジャーなサイトでは一旦入ったSNS仲間から抜けられなくなる。
最初は楽しいツールと思って使ってた人々は何年もやるうちにSNS疲れを感じ始め「これはどうなのか?」と思い始める。仲間と勘違いしていた事に気づくと「良いね」を押すのもいやになるが、今更抜けられない。
そんな時代に入り始めたのが米国のガラケーではないだろうか。
電話をガラケーにして暫くはSNSから離れて、朝の静かな空気を楽しみ電話を見ずに朝食をとり電車の中では窓の外を流れる景色を楽しみ、自分一人の時間を楽しみたい、だって一日は24時間しかないんだから。
2018年04月14日
決算時期
今週はオークランドにいくつもの案件と訪問客がありずっと各担当者から現状報告を聴き指示を出して過ごす。
普段なら自分から出ていって動くのだが今週は司令塔になった方が良いと思いじっとしている。
M&A案件、次の日本出張の準備、今年後半の戦術作り等所謂定型業務ではないのでどれも頭を使う。どれが正解かがないしやり方によっては50のものを100にも出来る、こういう時はギリギリまで考えるがそれは他の人から観たら即断即決に観えるようだ。おそらく時間の長さが違うのだろう。
そして今は決算時期でもあり会計士に提出する書類の件もあり、これも頭を使って作らねば後でとんでもない事になる。
日本とニュージーランドでは会計制度が違うために日本から来て初めての決算をする人に説明するのは大変である。例えばのれん代(Intangible assets)や減価償却の処理方法も違うので日本式にやると後で大変な事になる。
そして更にその会社を日本の親会社とどういう位置づけにするのかで両国での納税が大きく変化する。支店なのか子会社なのか、決算後の監査が必要かどうか。
このような仕組みは単純に右左ではなく、売上額、株主、取締役などの要素をすべて勘案して最終的にNZではIRD、日本では税務署に判断される。
両国の判断がずれることもある。その場合はどうすればよいのか?これも実際に起こり得る事で、日本人は保証が大好きだけどこれには何の保証もない事を覚悟して、どっちに転んでも良いような仕組みを最初から作っておく必要がある。
NZの会計は日本と比較すれば簡単かつ単純に作られているが、最近のマネーロンダリング、犯罪収益防止法など次々と厳しい法律が導入されて、現場ではややこしい事になっているのも事実である。
こういう会計制度など実際に現場に降りて自分でやってみないと分からない。これから数ヶ月は各社の決算の件も念頭に置いて置く必要がある。
2018年04月13日
日本国会と官僚
何だか日本の国会がすごい事になってる。財務省では税務長官の首が飛び次官もやばし。自衛隊の件もあるし文科省では既に前次官が首だし、関ヶ原の戦いですか?
こういう時って裏で動いてる連中がいる。戦前の日本で言えば青年将校、今で言えば霞が関の若手官僚だ。
日本社会の仕組みは結局一番てっぺんの霞が関をその下の民間超大手企業が学びその下の企業が請負い、最終的には働き方改革なんて言っても霞が関が変わらないんだからどうしょうもない。
霞が関の若手官僚は「一日24時間働けます!」で法案作ったり政治家へ根回ししたりだけど、基本的に「この日本を良くしよう」と考えて策略を練り上司を倒すけど結果としては誰も責任を取らないまま日本の弱体化を創り出すのみだ。
アッタマ良いんだか悪いんだか、結果から観れば悪いとしか言いようがない。
2018年04月12日
比べるな、自分を持て。
比較論、と言う言葉がある。つまり森羅万象を常に自分と誰かで比較してそれで比較優位を感じて幸せになる人々だ。
例えばあの人の学歴、例えばあの人の結婚相手、あの人の年収、あの人の容姿、とにかく他人と比較することでしか喜びを感じられない人々である。
この理由は簡単で、自分がないからだ。
自分がある人間は、他人が何かやっても、そんなもん目に入らん。自分の昨日と今日を比べて少しでも成長出来たかな、そこに自己満足を感じるから他人が持ってるものなんてどうでもよい。
だから逆に、他人に良いことがあれば素直に「良かったね〜」と言える。自分があり、自分と他人は関係ないと理解しているからだ。他人の幸せを素直に喜べるのは自分を持っている人だ。
比較論でしか物事を理解できない人は他人の良いことが自分の心臓に突き去り痛いから、何とかそういう人間を蹴落とそうと思って必ず余計な事を言ったりしたりする。
けれどそんなもんは実際は何の幸せも産まない。だって常に世界のどこかにはあなたより上の人がいるのだから考えてもしかたない。
なのに他人に対してすぐに「ねえ?あんた何ビザ?あたし永住権!」とか、ワーホリで来た子に対して「あんたがNZの何を知ってるのよ?私に聴きなさい、私は何でも知ってるんだから!」とか。
おまけに後から来た若い日本人がすでに永住権持ってて自宅持ってて仕事なんかしてた日にゃ、もう怒りカックラキン大放送、回りの仲間を集めて何とか弱みを見つけて集中攻撃。そうしないと自分の気持が収まらないから。
何故収まらないの?
自分がないから。他人と比較することでしか生きて来なかったから。
そういう人は学校の勉強は出来るかもしれない。けど教養がないから自分がない。
他人と競争する学校の受験の世界では他人がすべてである。隣の机の自分より頭の良い子が受験当日に病気になってくれればそれで良いのである。
それに対して教養は、学んだからと言って食えないし売れないし就職に役立たない。けれど社会に出てどんな立場であろうが自分があるから判断を誤ることがない。何が社会的に正しくて何が間違いかを分かるから常に冷静でいられるし怒ることもない。
自分を持つことは一日では無理である。しかし古書、歴史書、古典文学、西洋文学、そういうものを1年くらいかけて読めば、少なくとも入り口くらいは分かるはずだ。
折角NZにいるのだ、時間はあるのだし人生は長い。
自分を、持て。
2018年04月11日
「Gメン」 スティーブン・ハンター
スティーブン・ハンターの新作でボブの祖父チャールズの物語が中心となっている。Gメンとは現在のFBIの事でありチャールズは1934年に一時期FBIで働いた。
その時に米国歴史上でも有名な「ボニーとクライド」、「ジョン・デリンジャー」、「ベビー・フェイス」を背景にした事件が起こりそこにチャールズが関連していく。
勿論これはフィクションでありあくまでも楽しく読めば良いわけだが、話のかなりの部分が歴史的事実に基づいており、上下2巻を読みつつ横にパソコンを立ち上げて場所とか時間とか背景などの事実関係を検索しながら楽しく尚且つ歴史の勉強にもなった。
1934年と言えば大恐慌が起こって皆が仕事がない中で、ギャング達が銀行強盗をやり一般市民には怪我をさせず警察も出来るだけ撃たずまるで義賊のような評判を得ていた年である。
そこにチャールズ・スワガーがなんの弾みかやって来て、出来たばかりのFBIマンの射撃の訓練、局内のしがらみに対応しつつ、もちろん銃の描写が素晴らしく当時使われていたトンプソン、BAR、モニターなどがまるで手に取るように分かる。
スティーブン・ハンターの作品は銃に興味がない人は読まない方が良いと思う。ナイトスコープとか50連装とかコルト45、ブローニング、そんなのが1910年代の第一次世界大戦、戦後のギャングとの戦い、第2次世界大戦、そしてベトナム戦争と続くのだから、いい加減うんざりするだろう。
そんな、トンプソンを2発腹に食らったら絶対に生きられないとかコルト45が自分に向かって襲ってくる相手に対してどの程度のストッピングパワーがあるかとか、BARは非常に強力で優秀な火器で第二次世界大戦でも米軍部隊の後方支援として使われたとか、まさにどーでも良い話である。
しかし、好きな人にはどっぷりと漬かって楽しめる本であり、だからこそスティーブン・ハンターのスワガーシリーズはもう1993年から現在まで人気を誇っている。
その中には日本を舞台にした作品もあり清澄白河での戦いもある。
スティーブン・ハンターを読むとすれば下記3点があると楽しめる。そうでなければ楽しくない、そんな極端な本である。
1・銃が好き。
2・米国の歴史が好き。
3・米国の戦争の歴史が好き。
2018年04月10日
キャンドルナイト
夕方からものすごい土砂降りで夜の最低気温が9度まで下がり街のあちこちで停電が起きている。
この街はきれいな街ではあるが停電はよく起きる。強風が吹くと電柱が倒れたり倒木が電線を切ったりで、うちのあたりも一年に3〜4回は停電する。
なのでろうそくとライターはどの自宅でも必須の器具である。そして日が沈むと自宅はキャンドルナイトとお洒落な雰囲気になる、ははは。
困るのはオークランドの住宅は殆どがオール電化なので例えばお風呂に使うお湯は「シリンダー」と呼ばれる大型タンクで沸かして保温するのだが停電になるとお湯が水になる。つまりお風呂に入れなくなる。いや入っても良いのだが水風呂という事になる。
当社スタッフに聴くと3名の自宅で停電発生。キャンドルナイトを楽しんだそうだ。
それにしても日本だと信じられない都市インフラ設備であるが、元々雨水と暖炉とろうそく生活をしていた人々なので「いいじゃん時々電気が切れても」って発想なのだろう。
ニュージーランドに来る日本人ワーホリが必ず文句を言うのがホームステイ時のトイレとシャワーである。
トイレ。毎回流さないキーウィって意外にいる。何故か?それは元々彼らは英国や欧州からの移住者であり自分が買った土地は人里離れた山の中であり、1800年代や1900年代半ばまでは水も電気もなかった農場であった。
だからその家では空から降る雨水は貴重であり毎回トイレで3リットルとか6リットルとか流すのは「あり得ん」のだ。
シャワーも同様で、元々毎日泥だらけの牧場で仕事してて、それを毎日キレイに洗い流してたらいくら水があっても不足だ。だから一人のシャワー時間は5分までとか各家庭に決まりがある。
キーウィのジョークが一つある。
母「ねえ、ちゃんとシャワーした?」
子供「う、うん、したよ」
母「何時?」
子供「き、昨日」
そういう文化が背景にあるのだから、ワーホリで来るなら自分の標準ではなく相手の標準に合わせる必要がある。つまりNZで現地生活を学びに来たのだからトイレとシャワーで文句を言って自分の標準を素晴らしいと思い込むのではなく「なるほど、雨水文化ってあるんだ」と勉強した方がNZ生活を楽しめる。
そこでキャンドルナイトだが、これはそういうものだと思って予め懐中電灯、ろうそく、ガスコンロを幾つか用意しておけば楽しく過ごせるものだ。
旅先では相手の文化や背景を尊重して理解するようにすればより楽し良い生活が送れるものだ。
2018年04月09日
オークランドの不動産価格
***
ニュージーランドの住宅価格に関して、急激な上昇はなくなったが、以前上昇傾向は続いています。国全体でこの1年間で7.3%の上昇が見られ、これはダニーデンやイーストコーストのオポティキの主要な地域でより顕著であり、それぞれ9.4%、16.1%と高い上昇率となっています。これは主要都市から少し離れた場所にある手ごろな価格の住宅や投資物件を探している人の需要によって引き起こされています。
一方でオークランドやクライストチャーチではこの一年間、動きが少なくなっており、去年3月の12.3%であったオークランドの上昇率は今年3月に1.0%、クライストチャーチは0.6%まで下がり、ウェリントンでは21.2%から8.2%まで下がりました。
上昇傾向つづいているなかで、初めて住居の購入をする人に対する貸出は去年の$591ミリオンから$727ミリオンに上がってはいますが、一般的に必要となるデポジットの20%を支払うために、平均的な給料をもらっているカップルは16年かかると最新のリサーチで分かっています。
***
オークランドの住宅は去年後半から一気に冷え込んだ感じがある。1%の値上がりどころか、政府が決める路線価(RV)の8割り程度の金額でしか売れないのだ。
これが一昨年ならRV以上に売れただろうが、今はどうも売る方もすくみ買う方もすくみの状態である。
政権が変わり不動産業法が変わり中国人の爆買いがやみ、不動産市場が「さあ、どうなるべ〜」と言うのが現状であろう。
しかし、だからと言ってオークランドの不動産価格の表面的なものは変わっていない。米国ではないのでわらしべ長者のように無理してローンして不動産を買ってるわけでもないので、売り手としては無理して安売りする積もりはない。
2008年のリーマンショックの時もそうだったが、あの時はシティのアパートに何軒も無理して投資をした人々は吹っ飛んだがノースショアでは一軒家の価格がそれほど下がらず、更に5年ほどして景気が良くなってRV以上で売れるようになって売り手が市場に戻ってきた。
だから今回も当面は不動産市場は冷えるだろうけど、だからと言ってバーゲン価格で売りに出るのはあまりないだろう。
もちろん、例えば2003年頃にノースショアで一軒家を買った人は今売れば確実に2倍の価格で売れるわけだが、誰も去年新しく通知の来たRVを観ているわけで、別に今日のカネに困っているわけではないので「じゃあ後3年くらい待ちましょうかね」という流れになる。
ほんとにこの街の不動産は元気がある。人口増加しているし北半球からの移民はお金持ちだから買おうと思えば何時でも現金で買える。ただ移民だって馬鹿ではない、後どれくらい相場が動くのかをじっと観ておこうって感じである。
2018年04月08日
変化の年
人に頼めない仕事が続いてて、何だ今年は?って感じである。
空から矢が降ってきたり地面が割れたりしながらこちらもトンプソンを腰だめにして撃ちまくり、相手に手榴弾投げ込んだりしているが、こんなの表面的に観えるわけがない。すべてが紙爆弾である。
それにしても「男の嫉妬は女より怖いです」と言われたが、ほんとにそうなんだな、彼は自分の失敗を認めたくない。子供に対して恥ずかしいからだ。けどなー、それでうちを巻き込むなって話である。
今は土曜日の夜遅くでエディット・ピアフやシャルル・アズナヴールを聴きつつ来週からやるべき仕事の整理をする。
事務仕事さえまだまだ手を付けられていないが、社会や会社が変化する時ってのは本当に業務が増えるし、それは誰かに頼める仕事ではない。これから5年の方向性を作るわけで一文字一句を考える必要があるから僕自身がやるのだ。
色んな経営者が言う事だけど、経営者に必要なのは情報収集、先見力、決定・実行力、そして組織を引っ張っていくリーダーシップである。
僕が幸運だったのは読書をするって事だった。本だけはよく読んだし今も読んでる。だから特に良かったのは歴史上の偉人から本を通じて色んなことを学ぶことが出来たってことだ。
だから例えば「勝って兜の緒を締めよ」である。
オークランドで20年間ビジネスをやっている間に多くの日本人ビジネスマンを観てきたが、殆どの場合最初のビジネスが当たるだけのビギナーズラックで、そこで勘違いして「このビジネスは10年上手くいく」くらいに思い込んで、何の情報収集もせず今の3年後の世界を読まず、結局何時の間にかこの街からいなくなっていった。
そして会社は民主主義ではないって事だ。
スタッフと常に会話することは必要だけど彼らの観えている景色と自分の観えている景色は違う。そんな時に民主主義で多数決をやれば、必ず間違う。常日頃スタッフと話をして情報を得るが最終決定は社長が自分一人でやるしかない。
それから5年後の未来を読めという事だ。
ニュージーランドのような小さな市場では何か一つのビジネスが10年も続くという事はない。どんなビジネスも5年以内に変化する。ましてやNZの日本市場なんて日本が象だとすればここは蟻以下であり変化が激しい。
とにかくどんなビジネスも最初のモデル作りから入り仮説を立てて検証してそれからやっと成長期に移る。ここまで最低1年はかかる。それから安定期に移るがこれはせいぜい2〜3年である。必ず競争相手が出てくるからだ。そうなると今度は衰退期、またはレッドオーシャンになる。
最後は「退き時を心得ろ」である。
最初から「このビジネスは5年だけ」と決めて台形の絵を書き成長期と安定期に得た収益で次の5年を予測してそこに力をかける。だからここで読み間違うと完璧OUTなので、絶対に乾坤一擲の勝負はしない。常に余裕を持ち幾つものビジネスを同時進行させる事でリスク回避を計る。
このリスク回避が何より大事であり失敗した場合の撤退基準を常に明確にしておく。多くのビジネスマンは攻撃は得意だが撤退は苦手であり結局それで逃げ遅れてしまう。そういう例をいくらも観てきた。
ビジネスにおいて何よりも必要なのは利益確保である。夢や未来も大事だが、それは食えん。食えんかったら社員も食えん。だから夢や未来とそこで利益確保が出来て他社と価格競争に陥ることがないブルーオーシャン戦略を作ることが何よりも経営者の仕事なのだ。
去年半ばから日本市場の変化に合わせてビジネスモデルを変化させている。日本が変化しているのだからこちらも変わらねばならない。
うちはニュージーランドに特化したビジネスを展開するけど逆に言えばNZに関係あることなら大体何でも出来る仕組みは作っている。
さあ今年は変化の年だ。すでに三分の一が経過した。残りの8ヶ月の予定を作らねば。これは僕にしか出来ないのだから。
2018年04月07日
野武士のグルメ
NETFLIXの記事を書いた後、ふと思って日本の番組がないかを調べたら「野武士のグルメ」があった。
主人公は竹中直人と鈴木保奈美の夫婦で、定年退職したばかりの竹中直人がそれまでのサラリーマン人生を振り返りつつ飛び込みのお店で食事を楽しむ。
但し料理の質がどうのこうのではなく退職して何の後ろ盾もない主人公が、今まで出来なかったこと、例えば昼間からビールを飲むとか商店街の肉屋でコロッケを買い食いするとか、イタリアンRestaurantでパスタを食べる時にお箸をお願いするとか、そんな自由な生活に一歩づつ踏み出していく物語だ。
遊び心を持てないサラリーマン根性も抜けない男が何とか自分を変えようとしながら、そこに食事と言うテーマを入れて「自由に食わせろ」とやる。
これはこれで大変面白いテーマである。勉強にもなる。
ただ思ったのは竹中直人のように自分を変えようとする60歳が決して多くはないという現実である。
実際は会社から離れて毎日何をしていいやら分からず誰も自分の存在を無視して自分で自分を確立していないからやけに周囲に当たりちらし文句を言い家族に嫌われ周囲に嫌われ、結局濡れ落ち葉となる。
本当に自立した男性なら会社にいようがいまいが自分は自分であり他人にどう観られようが観られまいが全く気にならない。そういう男性が会社から出ていけば更に自由に生きることが出来る。
野武士のグルメ、よく出来た作品であり何よりこの番組は最初から世界向けに作られており英語字幕なども整備されており面白い。
もしNETFLIXが最初から日本の高品質のアニメ等をネタにして世界に放映する計画があるのならすでに既存の日本メディア業界を飛び越してしまうな。
2018年04月06日
ランドバンキング現地最終確認
今日はランドバンキング・シリーズ3第一期29軒の完工最終確認を行う。住宅引き渡しが来週から順々に始まるのでその為の最終確認である。
それにしても2年前に計画を開始して土地を仕入れた時は本当に何もない場所だったのに、今ではあちこちに住宅街が形作られている。すでに近くには中堅スーパーのカウントダウンも進出しており、これから更に街が広がっていき最終的には6千戸の住宅が立ち並ぶ事になる。
殆どの住宅は隣り合っており駐車場は無理くり場所を確保しているようなものだが、それでもオークランドのファーストホームバイヤーからすればここで政府の優遇政策を受けて自宅を購入すれば「普通のオークランダー」として今後は家族構成に合わせて住宅転売を繰り返すことが出来るので千載一遇の機会である。
住宅そのものは投資家が「素」で買えば2ベッドルームで75万ドルと高いので手を出さないが、政府から購入時の割引、住宅ローン補助、毎年の経費計上等で大きな補助を受けられるファーストホームバイヤーからすればまさに今が機会なのである。
つまり政府からすれば公平性を保つために「政府は誰にも平等に販売してますよ」と言いつつ裏で優遇制度を使っている、何時もの犬も倒れるワンパターンである。
今回の引き渡し物件はすでにフロアリングも終了、壁のペンキも塗られており汚したり傷付けたりするわけにはいかないので靴を脱いで掃除の終わってない床を歩いてあちこち見て回る。
やはり今までのNZの住宅を観てきた立場からすれば狭い。けどそれでも購入する人からすればまさにマイスイートホームなのである。
そんな時ふと50年以上前の記憶が頭の中をよぎった。当時うちの家族が住んでいたのは市役所などが作る「団地」である。どれもこれも四角いコンクリートを積み上げただけでエレベーターもない4階建ての建物だった。
当時の団地であるからとにかく急増する住民を受け入れるために粗製乱造である。第一部屋に風呂がない。冬も夏も銭湯通いである。狭い部屋で家族が肩を並べて寝るわけだが、あの時はとても嬉しかった記憶がある。
何故ならそれまで人口が急増する街ではアパートを借りることが難しく、見つかったとしても家賃が割に合わない。つまり払えない。
そこで広い敷地を持つ親戚の間借りや何やらをしていたが、普通に正規社員として働いていても普通のサラリーマンは結構大変な時代だった。
そこでふと「あれ?これって今のオークランドと似ているな」と感じた。あの時間借りから団地へ引っ越せた。引っ越して来た人は、どんなに狭くても賃貸でも一国一城の主と思ったのだろう、皆顔が生き生きとして後から引っ越してくる人の手伝いをやってたものだ。
この新しい街でもこれから次第に近隣住民が街の雰囲気を作っていくのだろう。さあどうなるのか、僕には分からない。
ただ僕に出来るのはこの街を作るのにほんの少しだけお手伝いをして、それで入居してきた若い家族のちっちゃな子供ににこっと笑ってもらうだけだ、50年前の僕がにこっと笑ったように。
さあ、来週からは第二期開発の開始である。
2018年04月05日
びゅんびゅうん!
イースター明けのオークランドの高速道路では誰もが飛ばしている。
特にここ数年で建設業界に参加した若者が工具を積んだユートをバンバン飛ばして信号無視、違法Uターンを繰り返して、10年前の交通事情を知っている者からすれば「何じゃこりゃ」であるが、若者からすれば折角得た仕事であり給料も良く、但し親方の言う事だけは絶対なので南に走っている最中に親方から「北に戻ってこい」と言われたら後続の車を無視してでもUターンするのだ。
一般的に車の運転が上手なのは白人キーウィである。子供の頃からスポーツやってるから動態視力が良いのか、飛ばすけどちゃんと前後左右を観ている。
だから片道4車線の高速道路で平気で2車線跨ぎ変更をする。観ているこちらからすれば「危ないけどそれなりに上手いな」とは思う。
運転に関して言えば中国人は大体自分の行先も分からないまま走り出し目的地に近づくと急停止したり急発進したり、ウィンカー(英語ではインディケーター)を出さずに曲がったりウインカーを左に付けたままひたすらゆっくりと目的地を探したりと、こっちの方が迷惑か。
インド人の運転はとにかく石部金吉のようで、目の前をぐっと見つめたまま一切左右を見ずにひたすらまっすぐ進む、法定速度で。これは法律以内なので文句を言うことはない、ただひたすら「法定速度とは周囲に合わせた速度だと分かって欲しい」と思うだけだ。
いずれにしてもイースター終了後クリスマスまでのNZの祝日は4月25日のアンザックデー、6月04日の女王誕生日、10月22日のレイバーデイと3日しかない。
この意味は「さあお前ら十分休んだろ、クリスマスまで働け!」である。クリスマスまでしっかり働いて稼いで家族にプレゼントを買って旅行に行けって事である。
道路を飛ばすキーウィの若者も含めて皆が分かっているから、特に今年はビジネスにとっては豊穣の年であるから誰もが飛ばしまくることになるぞ。
皆さんもしNZでレンタカーを運転することがあれば、オークランドだけは他の街と違って十分に注意して下さい。
2018年04月04日
好きなように食うから
博多長浜の24時間ラーメン店(元祖長浜ラーメン)は僕も30年前によく飲み終わった締めにタクシーで食べに行ってた。そこでは偏屈なおばあちゃんが若いお兄ちゃんたちをこき使いつつ、客にも平気で文句を言う。
夜1時過ぎにやって来てラーメン食べ終わった女性二人組が話し込んでると、つかつかとやってきて「あんたら、なんばしよーと?ここは喫茶店じゃなかとよ」と平気で言ってたものだ。
実際に僕も初めてこの店を仲間と行った時に丸いすに座って何を食べようかと思ってたらいきなりネギの入ったラーメンが出て来た。
「ま、まだ注文してないですけど」
「遅かとよ」
それ以来ぼくはこの店に入る前にメニューを決めて入店次第大声で「硬め!ネギなし!」と言うようにした、自分の胃袋を守るために。
そこで働いてたお兄さんがある日転職して天神のお洒落な喫茶店で店長になった。そこに二人の若い女性が入ってきてコーヒーとケーキを注文した。
食べつつ飲みつつ会話を楽しんでいる二人。手元のケーキは食べ終わりコーヒーも飲み終わったが会話は尽きない様子。すると店長がおもむろにカウンターから出て来ておしゃべりを楽しむ二人に向かって言った。
「あんたら、なんばしよーと?ここは喫茶店じゃなかとよ」
これはもちろん冗談であるがネットの発達のせいで最近は客と店の言い争いがどんどんネットで公表されて、その度に客と店の双方から様々な意見が出ている。
古くは身体障害者への対応が悪いと客が訴えて店としては「そりゃ無理だ」と言って結局は他の客からも「対応が悪いって、そりゃ言い過ぎじゃない?」ってとこで収まったり。
それとか最近は居酒屋の主人が宴会場に呼び出されて「サービスが悪い!」と殴るけるされて死亡。
勿論店に問題のある場合もあるだろうが、ニュージーランドのサービスを日頃身にしみている立場からすれば「その程度の事で問題提起したり怒って殴り殺すほうが異常じゃね?」である。
どうも日本と言う国は旅行に行くには良いが仕事をするには大変な国である。でもって単なる客に殴り殺されてはたまったものではない。
店は店で決まりを作り、客は客で自分の決まりを作る。勿論法的に店は私有地であるから客がおかしな事を言えば追い出せば良い。ところがそれが日本は客商売と言うことで何か店側が弱い。
本当は弱くも何もなくて、自分が自信のある料理を出していればちゃんとしたお客は再訪してくれる。
例え悪意のある書き込みをされてもその店の味が美味しければ客は必ず付いてくる。他店舗展開をするためにどうしても悪い評価は減らしたいと言っても、100人いれば1人は悪いことを言うものだ。
だから店側には言いたい、自分を信用して、お客様を信用しろと。
と、このあたりで客に押し付けを要求する店と店に文句をつける客と、何だかお互いに底辺同士のカス争いではないかと思うようになった。
つまり客も店も「カス同士の喧嘩」なのである。
店が自分に自信があればおかしな客には「お代はいりません、出てって下さい」でよい。ネットでどれだけ書き込みが入ろうが、料理にゴキブリが入ってたわけではないのだ、安心して客を追い出せば良い。
また客も店を訪問して不愉快な点があれば再訪しなければよいだけだ。
「味の分かる人、争いせず」なのだと思う。
客だって初めて行った寿司屋で寿司に醤油を付けるのかすでに塗っているのか、目の前に並んだ三種の調味料を、まさかクイズのように挑戦しろって話でもないわけで、そうなると当然お店のお勧めを聴く。それが美味しい。
何度か通ってそのうちに自分の好みが分かれば「大将、この前のあれ、下さい」と言えるようになり、そしたら店側の助言は不要である。
なのにそれ以降も店があーせーこーせーと言ってくると、これは流石にうざい。今日は帰ろうと思う。次は来るのは何時かな?ってなる。
これは店にとっても同様で、もし目の前の客が常連になったのなら余計な事は言わない。客の好きなものを好きな形で出す。けどもし客が「有名店で食事する自分はなんて素敵!」と思い、インスタとワインと店と個人的に付き合いしたいだけで無理を言ってくるなら断れば良い。
要するに店も客も底辺と付き合うなって事である。底辺客を相手にしたいならそういう店構えにすれば良いだけの事である。ここで言う底辺客とは遣う金額ではない。
2018年04月03日
走らなあかん、クリスマスまで
イースター明けのオークランドの高速道路では誰もが飛ばしている。
特にここ数年で建設業界に参加した若者が工具を積んだユートをバンバン飛ばして信号無視、違法Uターンを繰り返して、10年前の交通事情を知っている者からすれば「何じゃこりゃ」であるが、若者からすれば折角得た仕事であり給料も良く、但し親方の言う事だけは絶対なので南に走っている最中に親方から「北に戻ってこい」と言われたら後続の車を無視してでもUターンするのだ。
一般的に車の運転が上手なのは白人キーウィである。子供の頃からスポーツやってるから動態視力が良いのか、飛ばすけどちゃんと前後左右を観ている。
だから片道4車線の高速道路で平気で2車線跨ぎ変更をする。観ているこちらからすれば「危ないけどそれなりに上手いな」とは思う。
運転に関して言えば中国人は大体自分の行先も分からないまま走り出し目的地に近づくと急停止したり急発進したり、ウィンカー(英語ではインディケーター)を出さずに曲がったりウインカーを左に付けたままひたすらゆっくりと目的地を探したりと、こっちの方が迷惑か。
インド人の運転はとにかく石部金吉のようで、目の前をぐっと見つめたまま一切左右を見ずにひたすらまっすぐ進む、法定速度で。これは法律以内なので文句を言うことはない、ただひたすら「法定速度とは周囲に合わせた速度だと分かって欲しい」と思うだけだ。
いずれにしてもイースター終了後クリスマスまでのNZの祝日は4月25日のアンザックデー、6月04日の女王誕生日、10月22日のレイバーデイと3日しかない。
この意味は「さあお前ら十分休んだろ、クリスマスまで働け!」である。クリスマスまでしっかり働いて稼いで家族にプレゼントを買って旅行に行けって事である。
道路を飛ばすキーウィの若者も含めて皆が分かっているから、特に今年はビジネスにとっては豊穣の年であるから誰もが飛ばしまくることになるぞ。
皆さんもしNZでレンタカーを運転することがあれば、オークランドだけは他の街と違って十分に注意して下さい。
2018年04月02日
NETFLIX
イースターホリデイは今日で終了。けど結局自宅でずっと過ごしてたので普通に休日と同じだ。まあいいや、その分ネットフリックスを十分に楽しんだから。
それにしてもネットフリックスと言う仕組みは実に面白い。この会社は当初はDVDの配達サービスだった。確かに15年ほど昔は僕もそういうサービスを利用してDVDを送ってもらってた。
これをネット配信にする判断はインターネットが発達すればある意味常識の延長線だけど、それから自前で番組を作ると言う発想が面白い。映像の川下だけではなく源流にまで遡るわけだからこれは映像の流通革命でさえある。
日本では他の競合他社があるとの事だが、それは配信される番組の問題だろう。米国に本社を置くネットフリックスは英語圏の顧客を中心としており「1億人で日本語で」と言う特殊環境にはまだまだ力を注ぐ気にはならないのではないか。
これはネットフリックスに限らずだが日本は豊かな市場ではあるがその特殊性も存在する。
とにかく顧客が小うるさい。自分たちが神様と思ってる。世界の中心にいると思ってる。
でも実際問題からすれば英語記事に中國ネタが出ない日はなくても、日本が出ない日はしょっちゅうである。なのに多くの日本人はその事実に気付こうとしない。
そりゃそうだろう、新聞もテレビもネットでもすべては「自分から観た日本」がネタであり、今世界で何が起こっているかなんてあまり関心がない。
あ、正確に言えば日本にとって大事な北朝鮮ネタでもメディアが騒がなければ何もなかったのと同じでメディアが騒げば森友なんかでも国会止めてでも騒ぐ、要するに自分の頭で考えてない。そんな市場に無理してカネかけて入り込むよりも英語人口17億人を先に取りに行くのが当然である。
日本ではHULUとネットフリックスが競合で現在は日テレ系のHULUが優位であるが、HULUは一生懸命だろうが所詮コップの中の嵐でちょびっと勝ってるだけで、その気になれば資金力豊富なネットフリックスが攻め込めば市場はすぐに変わるだろう。
何故なら日本の消費者市場は現時点ではHULUが良いと言ってるが日本の有名俳優を使い潤沢な予算と既存の日本芸能界とは全く縁がないネットフリックスが本気で番組を作れば消費者はすぐ乗り換える。
そういう事実を無視して「観たいものだけを観る」のであれば日本の大手メディアに将来はない。
2018年04月01日
烏合の衆
日本人1人と中国人1人がビジネスなどの戦いをすればまず日本人は負ける。
理由はいくつもあるが主因の一つとしては日本人は自分の頭で考えることが出来ないから誰かに指示をしてもらわないと動けない。それに対して中国人は自分の頭で考えて自発的に行動するから日本人が勝つわけがない。中國カラスに突かれる田んぼのカカシみたいなものである。
しかしこれが団体戦となると日本人の勝率は非常に高くなる。それは日本人が組織を作れば必ず規則を作り細かい点まで明確にして誰もが自分の位置を分かっているから「言われたことを愚直にやる」だけで組織力が生きるからだ。
これに対して中国人は他人と共同で作業をすることを非常に苦手とする。何故なら彼らの感覚では戦友とか仲間がなくて、上か下かどちらしかないから、上の人間と働きたくないし下の人間はこき使うわけで同僚なんてあり得ない。
だから団体を組むことが非常に苦手なのであり結果的に組織力の日本に負けるわけである。だから日本人がアジアで勝てて来たのは常に団体戦だったからである。
ところが日本人がいくら団体になってもたった一人の中国人に負けることも1990年代の香港ではよくあった。日本から来た企業が組織を作っているのだけど、香港ではその「組織」そのものが一人の個人と見做され、香港のオーナー企業のたった一人のボスに食い尽くされた。
では何故団体なのに負けたのか?それは日系企業の香港支店は自分で決定する権限がなくましてや英語も出来ないから情報収集も出来ず何か案件があると必ず東京に稟議書を送りその內容も正確な分析ではない。そして曖昧な分析を基に作られた報告書を自分の派閥の利益の為に利用する。
だからあれは外敵に勝つための組織ではなく全員が鳥の巣の中でカーカーと鳴く烏合の衆だったのである。
これに対して香港企業のオーナーは自分で日頃から読書をして街では人脈を作り様々な情報収集を行いリスクを取って決断、実行した。
だから烏合の衆がどんなに数を集めてもリーダーシップを取れる人間がいなければ烏合の衆のままである。これはエイプリルフールではない。