2006年03月28日

白夜行 3

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やっと終了。いやま、大作お疲れ様でした。しかしですね、何でハサミなの?全体的にも、最後に説明があるだろうと思って保留にしておいたとこ、殆ど答えてもらってないし。

 

 

 

何故質屋が殺されたか?何故母親が死んだか?その後も、何故が多いまま続く。話の筋書きがうまいから、ついつい読んでしまうけど、最後にアレでは、高村薫的だよ。

 

僕にとっての「高村薫」とは、都会育ちで理屈が先行して、筋書きはうまいのだが、結局筋書きだけに力が入り、全体的にバランスが取れてない状態の本を指す。

 

つまり、本当の体験=主体験が無いままに、インターネットやほにゃららや何やらで情報収集して、その場その場はOKなんだけど、全体を繋げてみると、結局何が言いたいのか、何故この本を書いたのか、意味が分からなくなる。一言で言えば、部分無謬全体誤謬作品。

 

だから、力強さや自分の主張、俺はこれが言いたいんだ!というのが感じられないから、福井晴敏などと比較すると、3クラスくらい下の位置付けになってしまう。

 

思うに、作家が本を書く目的は二つだと僕は考える。例えば野坂昭如等は自分を「売文家」と呼び、戦後一時、血液を売って生計を立てていた学生売血家(青春の門の伊吹さんですな)のように、自分の体の一部を切り取って売り、それで生計を立てるという考え方。

 

だから、「所詮売文よ」と開き直って、銀座で遊んでもあふぉ〜な事ばかりするけど、「売文」で出来上がった作品(例えば蛍の墓)は恐ろしいほどに研ぎ澄まされており、文章力だけで言えば三島由紀夫より上ではないかと思うくらいの実力だ。それでいながら人生を斜に見て「け、俺なんか所詮」と卑下するのが売文家。

 

または山本周五郎や司馬遼太郎のように、作品を通じて「どうだい、こんな人生、楽しくないかい?」という作家の声が、読者を優しく包み込むように、時には励ましながら語ってくれる、そういう本は作者の実体験に基づいた、主張のある、実によく書き込まれた風格がある。「裏の木戸は開いている」等は、これ以上の明確な主張を持った文学的傑作が存在するのかと思うくらいだ。

 

でも、その両方がない作家、つまり白夜を歩く若者をテーマにして本にした作家は、その目的が意味不明である。売文行為にしては文章が下手だし、主張をするにしては内容ゼロだし。

 

一時期は音楽でも、人の好きな音を集めてコンピューターで編集してじゃりタレに歌わせて、ジャリをはしゃがせる行為が発生していたが、どの歌も全く同じにしか聴こえなかったものだ。(どうせやるなら、松浦あややみたいに個性で勝負せい!)

 

昨今の作家も、子供の頃の実体験がないままに子供の気持ちを書き、人を殺した事もないまま人殺しの話を書き、本当の苦しみを知らないままに苦しさを書いているのではないか?

 

僕は本屋が好きである。忙しい中、すべての本に目を通すヒマがないからこそ、本屋には専門家として良い本を紹介して欲しい。その為に本屋を信用して、平積みを中心に購入するのだ。

 

その本屋が「売らんかな」的に商売に走り、本屋に対して本を提供する編集者が、良い作品よりも売れる作品を優先するようになったら、自分で商売の芽を摘むようなものだ。

 

じゃりがブームで買う本ばかり作っていたら、良質な客を失いますよ。作家、出版社、本屋、皆が本当に本を好きで、日本の文学を高めていこうとしない限り、時代に取り残されますよ。

 

そうそう、最近のお気に入りの本屋はじゅんくどう。それから本屋の店員が平積みの本に手書きで感想を書き込んで勧めてくれるのも、嬉しい心遣いですな。

 

たかが本の事で長くなったけど、正直、作家には誇りを持って欲しいと思う。

 

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tom_eastwind at 23:21│Comments(0)TrackBack(0) 最近読んだ本  

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