2007年08月13日

江田五月参院議長

日曜も喉が痛くごほごほ状態、参加したかったパーティにも行けず、仕方なくNHK討論を見る。家族は「ダイハード4」を「家族全員で」見に行くとの事。

 

ほうほう、そうかい、俺は家族ではないのだな、人種差別かいな、全くも〜。そうは言いながらも、ごほごほしている状態で映画館に行くのも周囲の迷惑だから、自発性菌種差別だな。

 

民主党から選出された江田五月参院議長が番組前半に呼ばれてて、さらりとてらいなく、自分の意見を述べていた。この人、人前で喋り慣れてるなってのが第一印象。場数踏んでるって感じ。

 

「大きな問題を解決する知恵よりも、大きな問題になる前のちっちゃな知恵があるのではないか?」 全く同意だ。

 

何が問題かを理解していれば、ちっちゃな問題のうちに片付けることが出来る。危機感もなしに先送りをするから問題が大きくなる。バブル処理も第二次大戦の前の外交交渉も、すべては担当者の危機意識、「こうなったらどうなる」という先を読む目がなかった為に起った悲劇である。

 

番組を見ながらウィキペディアで経歴に目を通す。

 

江田五月は、戦前戦後と、親子二代続いた、叩き上げの社会主義者である。

 

社会主義者というと悪い奴!みたいに思う人も、いるかもしれない。しかし昨日も取り上げた「武器なき斗い」のように、当時の社会主義者とは、社会の底辺に生きる人々に光を当てて、すべての人々に機会の平等と平和を提供することにあったのだ。

 

彼の父親である江田三郎は、穏健で現実的な社会主義を目指した男だ。支配階級と労働者階級の無駄な戦いを行うよりも、現実的に外国に目を向けて、本当に国民の幸せを追求するために、1960年代から下記の「構造改革」をテーマに取り上げて政治活動を行って、国民から圧倒的な支持を得てきた。

 

1・アメリカの平均した生活水準の高さ

2・ソ連の徹底した生活保障

3・イギリス議会制民主主義

4・日本国憲法平和主義

 

今の時代から見れば、40年も前に提起されたこの「構造改革」の組み合わせの意味は理解不能かもしれない。でも、

 

1・当時のアメリカの生活水準の高さは理解できる。40年前に、日本の一般家庭では風呂もなかった時代に、アメリカでは自宅にプールがあり、一家に二台の車があった。

 

2・ソ連という言葉が死語になってはいるが、生活保障=現在のセーフティネットである。働きたくても働けない、そんな人を救うシステムこそ、年間3万人の自殺者を出す今の日本にこそ必要ではないか。

 

3・イギリスの議会制民主主義こそ、戦前の治安維持法で苦しめられた一般市民が最も必要とした政治的地位の確立である。

 

戦後も日本には本当の意味での民主主義が導入されず、従って国民が自分の人生や運命を決める「決定権者」となることは出来なかった。

 

大多数の国民が納得出来る社会を作る、その為に最も必要なものが英国式議会制民主主義なのだ。

 

4・日本が誇る平和憲法の成立経緯を知っていながら、その良い面に目を向けたのか、それとも中国での生活が影響を与えたのか、それとも両方なのか、いずれにしても当時の北東アジア情勢で下手に武器を持つよりは、持たないほうがましという選択もあったのだろう。

 

大体において、日本人は右か左かしか考えない。二者択一の判断しか出来ない。でも、そこには常に「中庸」とか、「コペルニクス的転回」とか、そして江田三郎のように「右も左も一つにまとめて」やってしまう、止揚的な思考が一つの頭の中で出来る発想がある。

 

江田父のような発想は、学問を積み、現場の現実を知り、そして再度学問に戻り、右も左も、その両方を理解した上で第三の道を国民に具体的に提案できるという強みを持つ。1960年以降、田中角栄が最も恐れた政治家とも言われている。

 

1945年以前の日本に、本当の意味での民主主義は存在しなかった。そんな事を言っても多くの人は理解出来ないだろうが、民衆の立場から見たら、昭和前期でさえも江戸時代の延長でしかなかった。そんな時代に、民主主義を導入しようと戦った父。

 

その息子、この番組に出てくる江田五月も、東大在学時代に自治会委員長として学生を率いて大学自治闘争のリーダーとして全学ストを打ち、責任を取って退学処分となる。その一年後に東大に復学、丸山真男の下で勉強を重ねて、在学中に司法試験に一発合格。

 

元北海道知事の横路、自民党の高村、公明党の神崎などが同期で司法研修を受ける。江田はその後オックスフォードに留学するも、父親の急逝で政治家の道に入る。

 

テロ対策特別法について語る。日米関係をどう捉えるか?という質問に対して、「安倍とブッシュ二人の関係だけが日米関係なのか?日米の長い歴史を見れば、何らかの答え、第三の道があるのではないか?」と、落ち着いて、丁寧に答える。

 

他にも、「参議院で最初に法案を持ち込んで議論を開始しても良いではないか」とか、一票の重さの格差について、持論を展開していく。

 

現在の民主党は、元々社会党が母体となっている。その社会党は、戦前から続く労農党と労働組合が中心となって構成され、戦前は非合法であった共産党のフロントみたいなところがある。

 

だから、今の日本の社会構造=村社会の中で、人々の生活と社会的地位の向上を目指すのが社会党右派で、共産党が一番正しい、それ以外は全部駄目!って、すぐに「行動」に走るのが社会党左派。

 

更に社会党の急進左派が分裂して出来たのが民社党、つまり今のみずほ党首がいる社民党である。

 

江田三郎は元々左派だったのが、国民と一緒に行動しながら、次第に穏健な、誰も傷つかずに生きていける社会党右派に鞍替えし、江田五月も基本的には右派だ。理念だけではなく、現実を踏まえた上で、出来る事を、出来るだけ血を流さずにやっていく方針だろう。

 

ここまでざっくりと割ると、詳しい人からは「いやそれはちょいと」とか「理論的にはこの時代にこのような背景で〜」となるかもしれないが、あくまでもざっくりと割っただけなので、そこんとこ、よろしく。

 

ただ、僕自身、80年代には総評、共産党ともいくらか付き合いがあったし、三井三池炭鉱で腹に新聞紙を巻いてやくざと喧嘩をしたような組合員とも、直接ひざ突き合わせて、政治や思想の話をした事もある。付けウィキペディア焼刃でこの部分を書いているのではない事は知っていてもらいたい。

 

いずれにしても、江田三郎が40年前に訴えていた構造改革、どれもまだ実現できてない。

 

多くの人々はあいも変わらず狭い家に住み、セーフティネットは存在せず、民主主義は、肝心の民衆が自分が主役である事を理解せず、平和憲法は、小池防衛大臣になってどちらに流れるか、全く読めない状況だが、11月のイラク派兵延長をどうするかは、全く見えない。

 

国民大衆に訴えて、政党横断的な政治運営で国民を味方につけて戦った父親は、自党左派の理論闘争に負けて党を去った。晩年は菅直人と組んで政治運動を行っていた。

 

その父親に一番近い政治スタイルを取っていたのが、小泉前首相である。党を飛び越して、一つ一つの政策を国民に直接訴えることで横断的な国民支持を得た。

 

息子である江田五月がどこまでいけるか。民主党内側の議論に巻き込まれて潰されるのか、それとも民主党を割るのか?

 

いずれにしても次の国会で一番の問題は、イラク特措法の延長をするかしないか、争点の分かりやすい議案である。

 

今まで日本がイスラム圏からテロを受けなかったのは、日本の伝統的外交方針である「全方位外交」のおかげだと思う。

 

表面的に米国側の味方についたふりをして法案を通し、裏ではイスラム側に「本当は君らの事を理解しているのだが、僕らの立場も分かってくれ、ほら、このお土産持ってきたから、食べてよ」という、良く言えば全方位外交、悪く言えば弱者の外交であった。

 

米国に正面切って逆らえない日本としては、どうせ派兵するなら、防衛省にもなった事だし、海外派兵の道は開けたのだから、中途半端な事はせずに、これをチャンスとして、

 

1・どうせ組むなら、中国と共同でイラク派兵を行い、平和を維持するPKO活動として国連指揮下に入る。こうすれば日中関係の将来の布石になる。

 

2・11月に衆議院解散、総選挙を行い、その際のテーマを自国の本当の政治的独立である「イラク派兵」に持っていく。その結果、自民党が負ければ米国に対しても言い訳が立つし、もし自民党が勝てば、堂々と派兵すればよい。それが国民の審判なのだから。

 

他にもいくつかの道はあるだろう。しかし、やっとの政局で二大政党制の雰囲気が出てきたのだから、先送りやお茶を濁すことだけは、もうやめよう。

 

追伸:昨日は山本宣治の件で書き忘れた事があった。明治時代、「私はエタである」と、日本を見限って米国に移住したという島村藤村の有名な小説がある。

 

あまりにも大きなものを相手に、他人の為に自分の人生を擂り潰すのも選択だろうし、彼の場合は他に選択要素がなかったのだろう。浮き舟の二代目という彼の家族内での地位、大学教授から代議士という社会的地位、そして何よりも彼が訴えた回った民衆の期待などが、彼を追い込んでいったのだろう。というか、彼は納得して戦って死んだのだから、それは追い込まれたというより、自分で選んだ道であり、それなりに立派だと思う。

 

当時の人々の生産手段は農業であり、土地を持って海外にいくことは出来ない。しかし、今のような時代になれば、すべての商品は流動性があり、国境を越えて移動することが出来る。単純に言えば、日本の田んぼを売ってNZで牧場を買えば良いのだ。現金がなければ、NZの土地を担保に金を借りる、日本の投資家に牧場プランを提案してファンドを組んでもらう、方法はいくらでもある。

 

日本の政治に納得しなければ、一つの村が集団で移住するという手段も、これからはあっても良いのではないか。ヤマセンの時代には出来なかっただろう、農民の集団移住。新しい土地に若者が集団で移住し、そこで新しい村を作る、そんな運動があっても面白いのではないかと思う。

 

人気ブログランキングへ

 



tom_eastwind at 00:01│Comments(0)TrackBack(0) 日本ニュース 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔