2011年03月21日
笑い
デイブスペクターのついったーで笑えたのがこれ。
「震災後に略奪が起こらないことが海外で称賛されています。日本で略奪があるのは愛だけですからね、山路さん。」
はは、さっきまでハイパーレスキューの活動や米軍ヘリの(どうやら上官の許可なし)食糧援助ニュースとかで重くなってた心が、ふっとこういう軽い冗談で救われた。
被災者に必要なのは「つながってる」って気持ちだってのを聞いたことがある。それと同時に、笑いが人間を元気付けてくれるのも分かる。
この際よしもとは「不謹慎」なんて無責任な批判を無視して被災者の集まる場所で東北巡業をすればどうだろうか?日頃は大嫌いなよしもとだが、それで皆が笑えるならよいと思う。
しかしデーブスペクターのついったーひとつにしても「不謹慎」発言が出ている。日本人はどこまで行っても非合理を愛して無理を押し通して結果的に不幸になる道を選びたがるのだろうか?
笑いは必要でしょ。許せる範囲内であればむしろ積極的に受け入れていくべきだと思うのだけどな、これだけは日本人、変わりようがないのかな。
週末は当社のスタッフと日本の家族が電話で話したようで月曜日の朝出社するとみな口々に「え?やっぱりあんたんとこも同じかい」となってた。
彼らは週末に日本の実家に電話して
「そこって一応危険な地域だから、しばらくの間でもこっちに来れば?」
「大丈夫よ、そんな事ないし、第一そんなことがあったら東京に行くわよ」
みたいな会話がだんだんエスカレートしてきて
「てゆ〜か、危ないんだしこっちきなよ、一時的なんだからさ!」
「何言ってんのよ、みんなが大変な時に外国に行くなんて出来るわけないでしょ!」
となる。
あるスタッフが父親に電話すると「お前は何もわかっとらん!」と怒られたそうだ。「今は日本全体が大変なことになっていることをわかっているのか!」
うんうん、そこはよく分かる。けどだからと言って一時避難するってのは別の次元の話ですよね、そういうと、「お前は外国かぶれだ!」となってしまう。
この非合理さは結局個人で徹底的に理論追求をするという学習をせずに、とにかく周囲と同じ事さえしていればそれで間違いないのだって生き方をしてきた日本人の持つ特色でもある。
日頃は「海外で生活しているんですか、おー、」みたいなことを言われるけど、腹の中では「この外国かぶれ」になってしまうんだろうな。
これは言葉を変えていえば、例えば在日韓国人が努力してビジネスを成長させて、日頃は皆が「社長、すごいっすね!」とか言いながら、裏に回って「あの在日野郎〜」ってのと同じだ。
日本人の美徳と言う考え方が語られるとき、それは何も考えずに滅私奉公みたいなところがあるが、それはとにかく右に倣えのステレオタイプの美徳であり、他人に気を遣ったら更に相手に気を遣われて、お互いに結局本音は何も言い出せなくなってきれいごとばかり言って最後はどぼんの美徳だ。
日本人が個人で、例えば倭寇で中国に攻め入った事や山田長政がシャムに日本人町を作る事は、表面はどのような事を言っても所詮は「外国かぶれ」にしか過ぎないのだろう。
個人がその力量だけで強く生きていこうとしても、それは日本人らしくないのだ。おらが村が一致団結した時だけ中国に攻め入って全員で口を揃えて「ちゃんころ」などと現地人をバカにして、それで自分たちの団結心を確認しあう。
そこには個人の思想も理屈もない、おいっちに、右へ倣え!であり、それもその場の空気で何となく醸成された結論でありそれが周囲と整合性があるかどうかなんて考えようともしない。
原発事故はまだ終わっていない。予断を許さない状況であるが、燃料棒が全部溶けてしまえばそれ以上の問題はない、それが30kmか80kmなのかは不明だが。
しかし今回の問題で浮き上がったように、問題は日本人の多くが何かあった時に「右へ倣え」をすることで、その方向性が正しければとてつもない力を生み出すが、その方向性が間違っていた場合、集団で崖に向かって前も見ずに突っ走っていくという事だ。
常に集団の中にいてその温かみを楽しんで、死ぬときは一緒よって人ならそのような村は住み心地が良いのだろうな。ただどうしてもぼくはそういう場所で何も考えずに生きていくなんて事が出来ない。
被災者を笑わす事で一息つかせてあげることを不謹慎と言い、自分の頭で考えることを外国かぶれと言い、外国人が日本で努力しても所詮は二級市民扱いでありながら、けれど自分の頭では何も考えようとしないし努力もしない人々には、ただ単純に息苦しさを感じるだけである。