2011年03月23日
大丈夫、ただちに健康に影響は出ないから
昨日のニュージーランドの夕方6時のTVONEで陸前高田の様子が映し出された。地震と津波が起こった時に、地元の小学生の子供たちは高台の学校にいて難を逃れたとの事。
しかしその直後に彼らが見たのは、今朝学校に来るまで自分たちの住んでいた街が泥に埋まりすべてのものが流された痕だけだった。
隣の家の何かと面倒見の良かったおじいちゃんも流された。「おお、お前のお母さん今出かけてるぞ、うちで焼きそばも食っておけや、おいばあさん、やきそば一人前!」
近所の、よく勉強を教えてくれたおにいちゃんも「ほら、ここはこうやれば簡単に解ける数式なんだよね」そのお兄さんの消息も分からない。
そして親も兄弟も親戚も・・・・ついさっきまでそこにいた人たちがすべてまぼろしのように消えてしまい、どこに行ったか分からないのだ。すべてが津波に巻き込まれた。すべてを亡くしたのだ・・・。
10歳くらいの女の子が救助隊に守られながら自宅の跡から何とか泥をかぶった自分のカバンと、カメラを見つめて真面目に映ってる家族の写真を見つけて避難所に持って帰ることが出来た。
その子供の友達は一緒に泣きながらも「写真、あってよかったね」と喜ぶ・・・・どうすりゃいいんだ・・・。
彼らはこれからバスで避難所から次の避難所に向かう事になるが、突然の事態をどこまで理解して対応出来るのだろうか。まさにこの天災の中でそれでも人々は助け合おうとする。
こんなニュースを毎日のようにニュージーランドのTVONEでやられるものだから日頃仕事帰りに寄るノースコートの韓国の食材店では日本語で「日本頑張れ!」と張り紙されてるし、お店の人に「君の家族は大丈夫だったかい?」と心配してくれる。アジアから遠く離れたオークランドでアジア人同士が思いやれるのはうれしいことだ。
ここまではすでに起こった天災の話だ。あとは人々がどうやって経済を復活させていくかの問題だ。ぼくらがやるべきことは出来るだけ早く経済復興するために一生懸命働くだけだ。下らん「不謹慎派」や「私ってなんて優しいんだろう症」の、何もせずに他人の足を引っ張るだけの連中は無視して前に進むのみだ。
しかし怒りはこれからだ。
新聞はいたずらに不安を煽らないようにという書き方で「放水再開」とか「電源再開」とか書くけど、今までに大気に放出した放射線はすでに東日本の空に立ち込めているのだ。それがまずは問題なのだ。
第四プールなんて底に亀裂が入って水漏れしているのは明らかである。全然データがないから正確な計算のしようもないが、少なくとも1時間数トンあたりの水を注入しているのだ、だったら例えば最初の1トンが水蒸気となったとすれば、それは放射能を含んだ水蒸気でありそれが大気中に放出されたって事だ。
更に次の数トンが100度以下になったプールに溜まったのならそのうち連続放水で水は溢れるはずだ。溢れた水も、もちろん放射能を含んでいる。
その水をいくら注入しても溢れないってのは、底が割れているからでしかない。割れた場所から大地に流れ込む放射能を含んだ水は大地に大きな影響を与える。割れた場所を特定して塞ぐしかないが、それまでは放射能が漏れ続ける。
そして今は東京の空に降る放射能が基準の10倍と言う。それを「東京からニューヨークに飛行機で飛ぶくらいの放射線より少ない」から「ただちに健康に影響が出る量ではない」と東電の学者に数字でいかにも何でもないような書き方をする。
じゃあ基準値って何だ?要するにその場その場で都合の良い基準と数字を並べておいて安全だ安全だといっても信じられないのが問題なのだ。なぜなら今まで政府は今までも危機の時に本当のことを言わなかったからだ。
はっきり言うが日本のエネルギー政策は当時の金儲けしたい連中と自分の技術を自慢したい科学者と役人の天下り先が欲しい談合の結果である。彼らの視点には日本国民や地域住民の健康は全くと言っていいほどない。
原子力が他の自然エネルギーよりも利用価値が高かったのではない、関係者一同にとって利用価値が高かっただけだ。彼らにとっては将来起こるかもしれない原発事故よりもとりあえずの出世が大事だったのだ。
所詮中央官庁にとって大事なのは自分たちエリートが作る国家であり、皇居のお濠から50km圏内が無事であれば、あとは放射能のために死ぬ田舎の連中などは捨石なのだ。
だから1990年代に風力や太陽電池などの自然利用エネルギーが出てきても経産省は何のサポートもなく一切無視、原子力だけを推進してきた経緯がある。
役人が地域住民の健康や生活など全く無視しているって歴史的事実がある。
多くの日本人は忘れているだろうが、九州熊本の水俣イタイタイ事件と言う公害が発生したのは40年近く前だ。チッソと言う会社の水俣工場が垂れ流した水銀を魚が食べて、その魚を食べた村人が水銀中毒に罹ったのだ。
体はやせ細り手足はまるで骨折したように歪み、歩くことも出来ずにうーうーとうなるだけで、最後は苦しみながら水銀の為に脳に異常を起こして死に至る病気である。
そしてそれまでは魚の宝庫として有名だった水俣は、水銀事件を契機に魚は売れない食えない野菜は食えない牛乳は飲めない、つまり死の街になったのだ。
水俣被害はチッソが水銀を垂れ流した時点でわかっており、それでも経産省(当時は名称は違う)幹部は「今はこの問題を表に出すな、日本全体が成長しているときに足踏みをするわけにはいかない」って事で事件は一年以上放置され人々は知らずに汚染された魚を食べて被害は拡大した。官僚の出世の為に多くの人々が悲惨な死に遭遇したのだ。
今回の原発も同じである。すでに放射線は空気に乗って周辺地域に広がり海は汚染された、だれがこれから野菜や肉を東北地方から買うだろうか?
ここではっきりさせておきたいのは、ぼくは単純な感情論としての原発反対主義者ではないって事だ。
他にエネルギーがなければ原発もありだ、きちんと制御出来れば原発もありだと思ってる。だから他の自然エネルギーと比較してもよい。発電コスト比較があっても良い。
けれど大草原の風力発電の塔が一本倒れても、だれも死なないよ。要するに原発推進派の言う発電コストは、100年に1回のメルトダウンが発生した場合に周辺住民が死亡するという人間のコストを計算していないのだ。
これからも東北や関東に放射線が降り続ける。いつ終わるか誰にも分からない。「ただちに健康に影響が出ることはない」ってのは、ただちでなければいつか健康に影響が出る、つまり原爆症に罹るってことだよね。
実際に広島や長崎で被曝した人が全員その場で発病したわけではない。原爆の放射線を浴びて数年後に発病した人もいるし子供が原爆症になったケースもある。
このように「ただちに健康に影響はない」と言うのが官僚、霞が関文学と言うやつだ。言葉のごまかしに引っかかった人々は何も知らずに「おいおい、不安を煽るなよ」とか「政府がそんな事をするわけがないだろう!」と言う。
けど、後日健康に影響が出てもその時は「この方は元々体の弱い方で今回の原発事故とは関係なく白血病でガンになり死にました」となるのだ。
「へ、大丈夫さ、あいつら下々の連中は事故から一年も経てば原発のことなんてすぐ忘れてしまうさ、無視無視」って笑ってる声が聞こえそうだ。
繰り返すがこれは人災であり、経産省と電力会社とそこで働く霞が関エリートが作り上げた、自分では絶対に放射能を浴びる事のない場所で作り上げた虚構である。こいつらだけは絶対に許せない、こいつらと家族を今放射線を振りまいている原発の前に連れ出して1時間くらい立たせたいと本気で思う。
そして言ってやる。「大丈夫、ただちに健康に影響は出ないから」