2011年03月26日
原子力の経済性
★抜粋開始
東京電力福島原発を造った大手重電の元技術者たちが事故発生以来、インターネット放送などで自己批判と原発政策の告発を続けている。
「もっと声を大にして言い続けるべきだった」。東芝で放射能を閉じこめる原子炉格納容器の耐性研究グループ長だった後藤政志さん(61)は話す。1979年の米国スリーマイル原発事故などで、格納容器内が異常に高圧になるとわかり、放射能物質ごと大気に放出する弁を付ける事になった。
「フランスは、内圧が上がりにくく、放射能物質が漏れにくい巨大なフィルター付き格納容器を造った。われわれも必要、と議論したが、会社は不採用。コストだなと思った」と後藤さんは言う。
「高台に建てたり、防水構造にしたりしていれば。想像力が足りなかった」。60年代、国内に技術がなく、津波を想定しない米国の設計図をコピーして第1原発を設計した元東芝社員小倉志郎さん(69)は悔やむ。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/280370.html
★北海道新聞より抜粋終了
池田ブログでは池田氏が過激な発言でコメントが盛り上がっている。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/280370.html
原子力の経済性について「“絶対に安全”ではない」と言う現実を口に出せない推進派と感情的に原爆は怖いからという反対派の妥協策が「原発は安全である」だった。
「命は何よりも尊いという反対派の論理に対して、推進派は「少しくらい死ぬリスクはしようがないとは口が裂けても言えないので議論がかみ合わない」池田ブログより。
どんな技術にも危険はつきまとう。ナイフを作れば手を切るだろう。ライフルを作れば鳥だけではなく人間を撃つかもしれない。
だからと言って何もしなければ文明は進歩しない。火を発明した人間はその時点から火傷するリスクと同居してきたのだ。その意味で池田氏は「原発の被害がこの程度であればトレードオフ」つまり経済性があると書いたのだ。
ぼくは彼の合理的な考え方が十分に理解出来る。ただ被害評価は彼と全く違う視点で計算する為に結果的に彼と違う答えが出てくる、つまり原子力はどう見ても不合理になるのだ。
彼の場合は日本の本流のど真ん中で、東大を卒業してNHKでプロデューサー、その後は大学教授を勤めながら経済的視点から見た時事ブログを書いている。
だから彼からすれば電力は必要だ、たくさん必要だ、経済は発展せねばならない事を前提に、経済視点から原子力を評価している。
工場が安定して第二次産業製品がどんどん海外に送り出されるから日本は豊かになった、その根本であるエネルギー政策の中心に原子力を据えているのだから、原子力を無くすという議論よりも原子力をどう安全に制御していくかを考えるべきだとなる。
そして、こう言っては失礼だが彼のような日本の本流を歩いてきた人々は、自分が放射能に遭う危険性を現実のものとは思えないだろうし実際に皇居の周辺で生活をしている限り、何かが起これば日本のどこよりも最初に政府が守ってくれる地域である。
そのような立場にいる人は、放射能の危険性よりも安定した電気の利便性の方に手が挙がるのだろう。
ぼくが住んでいるニュージーランドでは商都であるオークランドでも暴風雨の後の停電など普通であり、ぼくの住んでる地域では一年に3〜4回は停電する。だからどこの家でもキャンプをするような道具を一通り揃えており、電気が切れれば蝋燭とランタンを持ち出して家庭内キャンプである。
シティでも停電が起こる。1998年の停電の際には街全体の電機がすべて止まってしまい、完全復旧するまでに5週間かかった。
それでも人々は暴風雨の後の停電は「自然災害」だしシティの大停電だって「まあ仕方ないな、ありゃ1950年代に作った古い電線を使ってたもんな」くらいである。
街中の大停電で交通信号もすべて消えたが、交通整理の警察もいないのに交通渋滞も起こらずに互いに道を譲りあってた。
そういう環境で長いこと生活をしていると電気が時々止まる事を前提に生活を考えるから停電してもあまり気にならない。
つまり電気が安定しない事で不便さはあるものの、それでも生活が困るわけではない、安定した電気を得る為だけに核爆弾を抱えるって発想はどうしても出てこない。
ニュージーランドは非核三原則を貫いてる国であり原則を順守する為に米国の核爆弾搭載艦のオークランド寄港禁止を命令して米国と5年くらい実質的に国交断絶していたこともある。それほどに核に対する反発は強い。
生活を豊かにすることは大事だが、生活を豊かにする為に受け入れた核が結果的に生活を滅ぼしてしまうようでは主客転倒である。
これが津波や地震なら諦めもつく。自然災害は仕方ない。しかし核は危険だしその被害は甚大なものになると最初から分かっているのに、目先の電機の安定供給だけの為に受け入れる事は、ニュージーランドではあり得ない。
電力が安定しない事で発生する少々の不自由も、放射能が飛び散って人が住めなくなるよりはよほどましであると考える。
前置きがちょっと長くなったが、原発を選ぶかどうかは国民の判断である。選んだ結果として何が起こるかも事前に知らされている、てか知ることは出来る。
その結果としてニュージーランドは退屈な国ではあるが原発を選ばなかった。そして今、停電は時々起るけど原発の不安を考えずに自然を楽しみ生活を楽しむことが出来る。
ニュージーランドでキャンプをすれば携帯用コンロを間違って使って火傷するかもしれない。キャンプの料理で使うナイフで手を切るかもしれない。これはキーウィにとっては許容範囲内のリスクである。許容範囲外のリスクなのは原発である。
日本では工場の安定操業や24時間開店しているカラオケ、賑やかな電飾のパチンコ、いつでも買い物が出来るコンビニ、ほんの10秒でも停電すると「誰が責任取るんだ!」と発狂したように怒る市民がいる。
そのような社会で生活をするには安定した電気が必要であり1億2千万人が安心して乱用出来る電気を提供するには原子力と言う選択肢になってしまう。
そして1億2千万人いても自分がまさか原発の放射能被害になるとは確率的に考えられない人々が霞が関にたくさんいる。霞が関やその周辺で生きる人々からすれば原発は効率的であり「原子力の経済性」が存在するのである。