2011年04月05日
Liar's Poker (嘘つきポーカー)
米国からもすでに何度も指摘されているのが「日本は危機感あるのか?」だが、ありますよ、ちゃんとある、どのように国家の仕組みを守ろうかと毎日危機感を持って対応している。
ただ対応策を考える時に常に「民間人の存在は無視している」ってだけで、それが米国からしたら「危機感あるのか?」って話になるだけだ。
何故なら米国からすれば民間人の命を守ることが何より優先するのに日本では民間人の命よりも政府の維持を最優先するから、彼ら単純な米国人からすれば「おいおい、国家は国民を守るために存在するんだろ!その国民の危機なのに何だこの対応は!」ってことになる。
確かに英国系の人々には非常に理解出来ない考えである。彼らは1600年代の権利の請願から始まり常に権力と戦いながら自分たちの権利を守ってきた。国民の権利や自由と財産は国民に相続されていると学んでいるからこそこの権利を守るために常に注意深く政府の行動を監視する。
国家は国民の集合体であり国民の間の調整機関であると考えている。権利は自分たちで勝ち取る事を理解しているし、それは国民の個人力を強くしている。常に堂々として周りがどんな格好をしてても気にしない、自由闊達な雰囲気を作る。
このあたりが日本人のいつも誰かに頼っているようなきょどきょどと踊った目つきや外出時に着るものさえも周りの視線を気にして彼らと同じような服を選ぶ文化と異なったものとなる。
日本では豊臣秀吉の時代あたりから牙を抜かれた百姓が領土の領民となり徳川に引き継がれて3百年の平和を貪った。その結果「こんな官僚独裁も悪くないじゃん、何かあれば大岡越前や水戸黄門に泣き付けばいいんでしょ」と言う文化になった。
自分で何も考えなくて良い、選挙に行かなくて良い、難しいことはお上がちゃんとやってくださる、時々お上が怒ることがあるが、そんな時は逆らわずにじっと下を向いてれば明日はまた晴れだ。
統治と言う意味では統治する側に置いては実に便利である。釣り師に釣られて死ぬるまで漁場に戻る習性を付けられた魚のようなものだ。
だから災害が起こっても一致団結、ではなく元々が自己判断をせずに常に集団で行動をすることを習性とする為に「いつも一緒=烏合の衆」になってしまうのだ。
日本政府が一番恐れるのはこの習慣が裏目に出てしまい、政府に向かって一致団結して攻撃を始めた場合である。こうなるともともと理屈なんてないから徹底的に政府を攻撃にかかる、自分の命を捨ててでも今自分が所属する組織の為に「カミカゼ」となって自殺攻撃をすることさえ厭わなくなるのだ。
だから日本政府が一番恐れるのは民衆のパニックによる無政府状態であり数千院が将来ガンで死亡する率が高まろうがどうでもよい、大事なのは、今全体のバランスを取って国民を政府に刃向わせない事なのだ。
放射能に関する記事は日本の記事を読んでいるだけで山ほどのミスリードやポイントを外した説明を見ることが出来る。ちょっと自分の頭で検証すれば分かるのだが、それをしようとしない。
何故ならお上が「大丈夫、直ちに健康被害は出ないから」と言ってるし周りが誰も動いてないからだ。
これが日本の国民性でありどれだけ経っても英国系の人々に理解出来ない理由である。片方は個を守るために武器を取って国王と戦って権利を勝ち取った。片方は政府を守るために普段はこえ担ぎと年貢納めをして武器の代わりにクワと鋤で田を耕してきた。
あるお客様から送られてきたメールによると大前研一の原発批評が政府にとって大きな問題になっており、何とかそれが一般国民に気付かれる前に消してしまおうと躍起である。
インターネット以前であれば情報統制は可能であったがネット社会ではすでに不可能な話である。問題は、日本人の多くは今だネットは騙しと思ってる人が多い事だろう。
どっちが騙されているかに気付いた方が勝ち、まるでLiar’sPoker(嘘つきポーカー)の様相になってきた。
嘘つきポーカーにおいては騙された方がかもられるがカモられてる最中はそれに気づかない。ゲームの最後にせーのどん!で全員が手札を見せて初めて「おれ、かもられてたんだ・・・」と分る仕組みだ。