2011年04月09日

日本人の諦観

 

良い意味でも悪い意味でも日本人は忘れやすい人種である。それは日本という土地や空気や水に関連するのだろうが、今回の地震も常に自然と共存する地元の多くの人にとっては「起こったことは仕方ないこと、前に進もう」と言う意識が出始めているのではないか。

 

このような前向きの姿勢が良い意味での忘れやすさであるとすれば、悪い意味での忘れやすさは原発であろう。毎日のマスコミ報道にも次第に慣れていき、「お、今日は放射線がこっちに降ってくるぞ、子供には傘を持たせなきゃ」と言うことになる。

 

ただ、同じ災害でも一発で終わってしまう自然災害である地震と、これから何年もつきあっていく必要のある放射線、その放射線が生み出す被曝した子供たちの将来における障害についてはどう考えているのだろうか?

 

Wrong time, Wrong place, 悪いときに悪い場所にいたもんだって英語があるが、人が自分の5分後の出来事を予測できないのだから、そこにその時間にいたって事がその人の責任であるってのは言えない。

 

ただ、そこにいればどうなるかってわかっていても「今、目の前に起こってないから」って理由だけで何の対応もしないってのはどういう事だろう。

 

そう考えていたらある人から「日本人の諦観」ってのを教えられた。

 

どうやらほとんどの日本人は一定の状況下になると蕭然とその状況を受け入れる要素があるって事だ。

 

そこでぼくは気づいた、あ、おれ、やっぱりかなり変わった日本人だわなって事を。子供のころからそうだったな、いつも人と違う事をしてそれを先生に指摘されても何が悪いか分からなかった。

 

おれの人生をどう生きるかはおれの決める事、先生はおれの人生の責任を取ってくれないわけだし他人についていってもレミングの集団自殺になるってわかっている時は絶対についていかない。

 

そういえば子供の頃からいつも危険と隣り合わせに生きて来たけど、いつも危険はぼくの両耳の横を物凄い勢いで通り過ぎて他の人を襲ってた。

 

1988年、バブルがはじける前に日本を飛び出した。あのまま日本にいたらどうなってただろう。

 

偶然ながら最初の滞在先で選んだクイーンズタウンでは、その頃は日本のハネムーンブームで大忙し、観光ビザで入国して2か月後には何の審査もなく永住権を取得した。今ならあり得ない話である。

 

1991年に奥さんの強い希望で香港に移住することになった時も、香港には誰も知り合いがいない状態でのまさに落下傘降下であったが当時の香港は返還前景気でハンセン指数はうなぎのぼり、街は盛り上がっており面白いほどに仕事が取れた。

 

香港に移住して1年後くらいかな、クイーンズタウンの知り合いに電話すると「日本からのハネムーナーが激減しだした」というのだ。バブルの崩壊である。

 

1996年にこれもまた奥さんの強い希望で香港を出る時も周りの連中からは「なんでこんな好景気の香港から離れるんですか?」「だって奥さんがそう言うんだもん」

 

オークランドも1996年当時はさびれた街で、土日となるとKロードからQuayストリートまでの約20ブロックをスケボーでノンストップで駆け下りられるくらい一台の車も走ってなかった。(あくまで比喩、“くらい”です、 実際には5分に1台くらいはクイーンストリートを横切ってました“笑”)

 

ところがその後ニュージーランド政府およびオークランドシティカウンシルの大幅な政策変更で街中にアパート建設が始まり、東南アジアから語学留学生を呼び寄せて一気に景気が上昇、不動産価格は急上昇して給料は毎年10%賃上げである。その後もオークランドは上がり下がりがあるものの、基本的に右肩上がりの上昇だ。

 

そんな中で会社を作って何とか運営して、ふと時間が出来た1998年に香港の昔の職場に電話すると、ぼくがいた時代のスタッフは半減されて仕事量は激減、利益は日本から出向した社長の生活費を賄うにも青息吐息であった。

 

毎回こうなんだよな、いつも滑り込みでセーフしているんだよね、振り返ってみてそう思う。虫の知らせと言う訳ではないだろうが、背後霊のおかげ(笑)でもないのだろうが、その場その場では苦労しているのだが、振り返ってみると常に正しい場所に正しい時にいることが出来た。

 

そんな人生なものだから、政府広報よりも自分の肌感覚を常に大事にして、「気の流れ」に常に注意を払っている。そして今の日本で感じるのが、まさにこの「気の流れ」である。

 

地震だけではない、戦後の日本が抱えてきたものが今まとめて噴き出し始めている。肌感覚で感じてたけど言葉にできなかった部分だが、偶然お客様から頂いた曽野綾子の本を読んで「あ、これか!」と気づいた。

 

それは「くれない病」である。日本人は常に「あの人はこうして“くれない”」とか「この人に言ったのにやって“くれない”」とか、さらに「次にその店に行くんだったら私を連れてって“くれない?”」から「あ、あの人に会うんだったらxxと言っといて“くれない?”」である。

 

同時に日本の戦後教育が作り上げた間違った平等だ。あの人がこうなのに何で私はダメなの?例えば被災地に100個のパンを届けると「うちは101人いるので不平等になります、受け取れません」となるのだ。

 

そんなもん、100個のパンを少しづつ分け合えばいいだけだろ、そんな機転も利かない戦後日本の間違った平等教育が今日本を支配している。

 

他人に無責任に甘えて間違った平等に乗っかって、その結果として出来上がるのは硬直化した、つまり1950年代のロシアや中国のような、皆が右を向いた時に一人だけ左を向いたらその場で殺される、そういう時代だ。

 

地震は一過性であるが教育と社会は毎日付き合っていく必要がある。戦後、中国とロシアが仕掛けた共産教育=日本を骨抜きにして自分たちの農場としようとした、その戦略が今成功している。

 

日本人の主体性を失わせる、その一点において日教組は成功して、その結果として日本人は恐ろしいほどバカになった。バカが子供を産むのだから家庭教育なんて出来るわけがない。結果的に子供は更に洗脳されたスーパーバカになる。

 

この地震復興を機会にいろんな連中が自分の仕掛けを用意している。その中には右翼も左翼も官僚も政治家もいる。この仕掛けに引っ掛るのは何も知らない国民である。

 

それでもたぶん、多くの日本人は諦観を持って「まあ、そんなもんかな」と諦めながら、明日も畑に出て、外国人に飯を食わせる仕事をするのだろう。

 

何だか知らないが、今香港にいるがここもどうも「むずむず」する。たぶんこれは昨日と今日の昼間シティを歩いてあまりの多くの大陸中国人を見たからだろう。出張の予定を切り上げて早くオークランドに戻ろうと思う。

 

 



tom_eastwind at 23:33│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本ニュース

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔