2011年04月11日

人はなぜ生きるのか? 老いの才覚

人はなぜ生きるか?

 

ここ一か月の東北大地震、原発事故が続く中でも地震の際はまさに名古屋にいたしその後はシンガポールや香港への急きょ出張が入ったりで忙しかった。

 

名古屋でお客様から「これ読んでみて」と勧められた一冊がある。それが曽野綾子の「老いの才覚」で、シンガポール出張の間は鞄に入ったまま読む機会がなく、香港で時間が取れたので一気に読み上げた。

 

あ、これだ。これでまた一歩上の段階に登れたって思った。

 

子供の頃から長く考えていたテーマの一つに「人はなぜ生きるか?」がある。もともとスウェーデンボルグの本で神との対話や天国と地獄、あっちとこっちの繋がりもある程度理解出来てた積りだし仏教に輪廻転生があるからこそ仏教はキリスト教よりも崇高な位置にいると捉えていた。

 

しかしそこから先、うむむと言うことがよくあった。とくに何かを判断するときの基準として何が普遍的であり何が刹那的なのか?どう使い分けるのか?

 

曽野綾子はそこに明確な指標、てか、明確具体的ではないのだが誰にでも理解出来る指標を持ち込んだのだ。

 

それが「良心」である。人は他人の前で嘘を付けるし泣くふりも笑うふりも出来る。けれど自分と対峙した時、そんな“ふり”は何の意味もなく自分の取った行動に対して心に強い鞭をあててくる。

 

キリスト教信者の純粋な気持ちは認めるが突き詰めていけばキリスト教は随分と傲慢で持続する社会を構築するにもっともふさわしくない宗教である。

 

その点において仏教から入るのは良いと思ったが、曽野綾子のような現場のクリスチャンから学ぶことは実に多い。その意味でキリスト教徒はまさに日本帝国陸軍、下に行けばいくほど優秀で上に行けばいくほどバカである。

 

人はなぜ生きるのか?それは人生そのものが試験会場であり、人が人として生まれて寿命を全うする時まで人でいられるかってことを試されているのだ。実は多くの人が人として生まれていながら老いが近づくに連れて動物に近くなったり人生の真ん中へんにいる政治家でも官僚でも人間性を失ってとんでもない事をやってしまい、自分たちの行った動物以下の行動を反省しなくなる。こうなると彼らを待っているのは次の世界に行った時の地獄の炎である。

 

今生きてる人生はあくまでも試験会場であり、本当の人生は死後にある。そしてその後の輪廻転生にあり、人はそうやって時には鳥になり時には樹木になりながら自分の寿命が尽きたらまたあの世に戻るのである。

 

だからこそ、この世で起こる様々なことはすべて試験であり、試験の度にあなたの点数が採点されていることに気づこう。

 

そして自分が今日何点だったかを知りたかったら、誰もいない場所で今日自分がやった事を振り返り考えてみれば良い。そうすれば良心が出てきて「はい、今日は30点、だめね」とか「今日は80点、よく頑張りました」とか語ってくれる。

 

だから自分の心の中にある良心に耳を傾けよう。この良心は最初に書いたように判断基準が明確でなく、普遍的な原理原則しか語らない。それを自分が今直面している状況でどう刹那的に判断するか、ここが難しい。

 

けれど答えがあるんだな、さすが曽野綾子って感じだ。自分も素人なりに子供の頃から本を読み様々な宗教や考え方にも触れているのだが、それをこれだけ簡単な言葉にまとめて、更に「だからさ、人生は甘くないけどさ、良心に従って生きてれば楽しいわよ」って語りかけてくれる曽野綾子を感じる。

 

原発の話は?って思うだろうけど、まさにこの「良心」こそが今の御用原発学者に一番欠けている要素ではないかと思った。けど同時にそんな彼らでもいつの日か自分がやった過ちに気付いて反省をする。

 

その時が彼らが死ぬ前に来るのを御用原発学者に望んでいる自分がいるのを見てちょっとびっくりして、更に曽野綾子の影響力の強さってか、生きる力の強さを感じさせてくれた。

 

この本はもちろん今回の東北大地震の前に発刊された本であるが、その中で「老人がむやみやたらと病院に行って薬を貰って高い医療費を使うようなことは自発的にやめなさい」とか「あの人がもらってるのに私がもらってない」などと言って不必要なものまでもらおうとする悪い不平等を自発的に「遠慮しましょう」と言ってる。これなどまさにそうだ。

 

この本、年を取る前にじっくりと読み、年を取ってからもう一度読み直す、そういう何度も読むことが出来る本である。



tom_eastwind at 17:46│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 最近読んだ本 

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