2011年04月25日
5・15
朝、目が覚める寸前にふと足元に5.15と言う数字が出て来た。5月15日。何の意味か分からない。小沢さんが政局を仕掛ける日か?それともまた地震か?
イースターの4日間は家族と自宅でゆっくり過ごし最終日も本を読み家族で映画を観て過ごした。「神々の指紋」は大体のストーリーは記憶にあったがきっちりと本で読むのは初めてだ。2012年12月23日に地球が滅びるってのはマヤの予言であるが、彼らがぼくらの住んでいる世界の事を示しているのか隣の世界の話をしているのかは分からない。
タイムトラベラーとして有名になったジョン・タイター(JohnTitor)はパラレルワールドと言う概念をインターネットで説明している。世界は同時並行にいくつものよく似た世界が並んで進行しているという考え方だ。
2012年12月まで正しい生き方をしている人々が多ければ12月23日に滅びるのは隣の世界の話かもしれないし、もしくは正しい生き方をしている人々が少なければその人たちが何も起こらなかった隣の世界に本人が気づかないうちに瞬間移動するのかもしれない。
そして警告を受けたにも関わらずあいも変わらず反省をしない生活を送っている人々は結局マヤの予言のまま来年のクリスマスを待たずにあの世に行くことになるのかもしれない。
りょうまくんが「OMEN」を観たいと言うのでイースターの間に1から3まで“一気見”した。これまた怖い映画でありながらも、今までに何度も観ているので細部に目が行くようになっている。
オーメン3は1981年に撮影されており、コンピューターもインターネットも携帯電話もない時代の米国東部のエスタブリッシュメントの仕事場、木目の壁に囲まれて広々とした木製の机の上に3つほど違う電話を置いてる。
ロンドンも古き良き時代の香りを残しており古い箱型のカラーテレビではニュースで「生まれたばかりの子供が次々と死んでいる」と報道がある。この世に生まれてきたキリストの再来を殺すためにダミアンが次々と仕掛けていく場面だが、事故そのものよりも当時使われていたベビーカーや病院の様子の方が面白かったりする。
映画ではアンチキリストと言う言葉が頻繁に出てくるが、アンチキリストって考え方はキリストだけが正しくてそれ以外はアンチになるってのが基本にあるのだろうが、じゃあぼくもアンチになるが別にキリスト教そのものを否定しているわけではないのでアンチと言う考え方そのものを認めるのが嫌だな。
アンチと言えば原発でもクジラでもそうだが、狂信的な連中ってのは科学的発想は全くないまま自分の主張と違っていれば「アンチ」のレッテルを貼りつけて言論と暴力で抑え込もうとしている。
捕鯨反対の連中はグリーンピースなんて名前を付けていかにも正義面しているが実際はアメリカの会社から金を貰って活動しているだけの能無しである。それに釣られて本気で捕鯨反対をやってる日本人を見ると情けない限りである。
原発についても同じで「原発絶対反対!」と髪を振り乱して騒ぐような連中は原発で作られた電気で自宅の風呂を沸かして電気を付けっぱなしで外出して原発で作られた電気を使って動いている電車に乗り原発の電気を使った工場で作られたウォークマンを聴きながらデモ会場に向かうのだ。その会場で使われているPAシステムも照明もすべては東電から来ているのだが、そういう事は問題にしようとしない。
どうもぼくが原発反対派だと思われているようだがぼくの立場としては「安全性が確保出来れば原発もありだ」の条件付き推進派である。科学は進歩するべきだしそれが人類の平和利用に貢献するのならば「安全なエネルギー」を開発するのは当然である。
ただ現状では原発の安全性が確保できているとは到底言えず、ましてや六ヶ所村から今現在溢れ出している放射能はどう考えても安全とは言えない。さらにここで「最悪の事態」が起きたら北半球に与える影響はチェルノブイリなど子供の火遊び程度に見えてしまうほどだ。
http://galasoku.livedoor.biz/archives/2968258.html
だから現状では原発は安全性を確保する為に技術研究を続けるべきであるがそこに政治が入り込む余地はないと考えている。ところがすでに原発は政治マターずぶずぶになっている。
http://twitter.com/#!/konotarogomame/status/51676469671374848
結局2兆円の金が流れる六ヶ所村をやめるって事は他の原発事業を停止することにもつながり、原子力村の政治補助金漬けで生活をしている人々や原発を今さら止めて「お上の無謬性」を否定されることが嫌な経産省の問題である。つまり最悪の事態が来ない限り誰も何も変えようとはしないのだ。
その最悪が2012年12月22日なのかもっと早く来るのかは分からない。人々の気持ちが地球を変えることが出来るというシャーリーマクレーンの話ではないが、今回の原発事故は予兆でありここで国民が踏みとどまって考えていけば最悪の事態は来ないかもしれない。
僕は安全性が確保出来ない原発が必要なほど日本人が電気を垂れ流しているその現実に問題を感じている。その意味で問題なのは「原発」ではなく自分の頭で考えようとしない「思考停止に陥ってる一般国民」の方ではないかと思ってる。
ぼくは現実的な選択として原発のないニュージーランドに住んでいる。このオークランドでは年に数回停電するが蝋燭を引っ張り出して「今日はキャンプだね」と楽しめる心の余裕のある生活を生活を送っている。今日も夕方から嵐になって、りょうまくんが嬉しそうに「お父さん、今日はろうそくの晩になりそうだね、あはは」と楽しそうに笑ってた。
日本ではほんの数分の停電でも住民が気が狂ったように怒り出して「どうしてくれるんだよ、おれは急ぎの仕事があるんだよ!」と東電に文句を言う。その生活自体をもう少し変えることで、もう少しゆっくりと考える事で国民全体が電力の垂れ流しよりも原発の方向転換を訴えることが出来ると思うのだ。
ニュージーランドで大停電が起こって市の中心部が一か月近く電気なしの生活になった時、人々は普通の顔で車を運転して先を譲り合い、パソコンが使えない時は「おお、今日は早くビールが飲めるぜ!」とけろって笑ってた。
考えてみればニュージーランドの住民はそれなりに「足るを知る」生活を送っている、心の余裕があるのではないかと思ったりするイースター最終日だった。