2011年06月05日

若年性くれない病

「くれない病」というのをお客様から教えてもらった。もともとは曽野綾子が作った言葉だが、何かにつれて「あれ、やっといてくれない?」とか「誰それさんがしてくれない」とかとか。


老人が年を取るにつれて使い始める言葉、何かと他人を頼り自分で何もせず、他人が何もしてくれなければ文句を言う。見ていて決して気持ちの良いものではない。


今日見かけた記事でこんなのがあった。


★記事抜粋開始

「子供たちの生活は学校だけではない。1ミリシーベルトを目標としたからには、具体的に何をしてくれるのかを明確にしてほしい」。3日、年間20ミリシーベルトの上限値撤回を求める保護者らが東京・霞が関の文科省で担当職員と向き合った。1歳の長男を連れて参加した福島県須賀川市の主婦(31)は、1ミリシーベルトの目標設定を歓迎しながらも、学校外での低減策も訴えた。

★記事抜粋終了


政府を非難しながら政府に何かを求める。言葉を変えて言えばぐうたら亭主がまたもや競馬やパチンコで金使ってしまい奥さんは文句を言いながら「どうしてくれるのよ?」と言ってもどうしようもないだろう、そういうぐうたらを選んだ自己責任だ。


最近の女性は50年前と比較すればまさに雲泥の差、能力とやる気さえあれば子供を抱えてでも生きていける、だからまともな女性ならギャンブル狂いの旦那を見て「あ、こいつはあかん、病気や。やめとこ。ここで捨てましょ」となるはずだ。


「子供たちの生活が〜」と言う前に、自分たちが住んでいる街に原発があることを知っていたのだろうか?放射能が人間に与える影響と言うのを少しでも原発事故以前に勉強したのだろうか?


年間20ミリシーベルトがどれほど「危険」なのか、交通事故やいじめによる自殺や不登校、大人になっても引きこもり、などの健康被害と比較してどちらが重大なのか、考えてみた事があるだろうか。


放射能であろうがいじめによる自殺であろうが死ぬことに変わりはない。親は目先のお受験やお付き合いで子供たちの心をすりつぶしていると考えてみたことはないだろうか?


くれない病患者の特徴はとにかく自分では何もせずに他人に頼って文句を言ってそれで終わり、次にまた同じようなことが起きたら同じように自分ではなにもせずに他人に頼って文句を言って、はいそれで終わり。時に週刊誌に「赤ワインはぽりふぇどうのこうの〜が〜」と書いているとまるで自分が世界で最初に発明したように周囲に言いふらして買い込むがぽりふぇなんちゃらなんて3カ月もすれば忘れてしまう程度の親。


池田氏も指摘するように原発は石炭や石油と比較してずっと安全なエネルギーであり長期にわたり使用可能だという事実。その反対にある、石炭や石油は人間のDNAを変化させないが放射能は確実に人間の体の染色体を破壊してその影響は計り知れないという意見。


本来はこの原発合理主義と安全性をぶつけながら落としどころを考えていくべきなのに自分では考えようともせずにぐーたら政府に泣き言を言う。むだっちゅうの。彼らはあなたたち「使い捨て可能な材料」としてしか見ていない。経産省に行って何を話しても所詮はガス抜きの一発芸だ。


それよりも今大事なのは、この原発事故で東北がすべて変わったのに、これからも今までと同じような生活をしようとするのかって点だ。つまり原発が突きつけたのは「あなたの人生、どうリセットしますか?」ということだ。


復興と復旧は根本的に違う。壊れた建物を作り直すのが復旧だが町全体が崩壊した今必要なのは復興である。関東大震災では復興を旗印にそれまで入り乱れていた街の区分を整理し大都市としてのインフラ整備を行った。


ならば市民も自分の生活をリセットしてもう一度ゼロベースで見直すことが必要ではないか?住居とは?学校とは?勉強とは?家族とは?生活とは?人生とは?そういう事をゆっくりと考える時間が今あなた方の目の前にある、それをどう利用できるか。


★記事抜粋開始

 福島市内でも空間放射線量値が高い渡利地区の学校に3人の子を通わせる女性(38)は「長女が高校受験を控え、簡単には避難できない。1ミリシーベルトが目標になれば、学校や自治体に対策を求めやすくなるだろうが、既に浴びてしまった放射線量をどう考えればいいのか。国に説明してほしい」と不安を口にする。

★記事抜粋終了


これなどぼくからすれば全く意味不明である。危険なら逃げろ、幽霊に受験枠はないんだから生き残ってなんぼでしょ。反対にそれほど危険でないと思ってるなら「国に説明してほしい」などと言わずに黙って勉強していればよい。


だいたい今まで全く原子力や放射能の勉強をしてなかった人がいきなり国から「こうなってますから安全です」と言われてどう検証のしようがあるだろうか?説明を受けてどうしたいの?わたしを安心させて〜と言われても、そりゃ無理だ。安全の証明なら可能だが安心は本人の心の問題だ。


付け焼刃でしかない説明を聞くくらいなら「あのさ、悪いけどあたしと子供3人は大阪に引っ越してあっちで受験勉強するわ、費用は東電に請求しておいてね」とすればよっぽどさっぱりしている。


「この場所から動きたくない、受験はここで勉強したい、けど原発不安、話聞いても分からない、お願い私を安心させて頂戴」って、おいおい、それではくれない族以下ではないか。


人が前向きに生きている限り常に乗り越える壁は出てくる。その壁を超えるたびに人生の真実を一つづつ知って心が強くなっていく。けれどそういう準備をしていない人がある日突然現実を突きつけられると突然おたおたと「くれない病」になる。


この震災は多くの日本人に立ち止って考える時間を与えた。東北の母親は、今日と同じ明日が来ると思い子供に勉強をさせている。けれど本当に今日と同じ明日が来るのだろうか。その答えは2万数千名の尊い命が立証してくれた。だれも明日自分が死ぬとは思っていなかったのだ。

ならば母親も立ち止って自分はだれのために生きているのか、子供にとっての幸せが受験だけでないってのを今こそゆっくり考えてみたらどうだろうか。



tom_eastwind at 12:29│Comments(0)TrackBack(0) 諸行無常のビジネス日誌 | 日本

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔