2011年06月23日
ネットリテラシー
★記事開始 2011年6月23日朝日新聞より
ブログに「保安院長の親族殺せ」 書き込み容疑で男逮捕2011年6月23日1時2分
. インターネット上で経済産業省原子力安全・保安院の寺坂信昭院長の親族に危害を加えるよう書き込みをしたとして、警視庁は22日、愛知県一宮市宮地2丁目、自称システムエンジニア木野村洋世(ようせい)容疑者(33)を脅迫容疑で逮捕し、発表した。
捜査1課によると、木野村容疑者は4月15日午後10時10分ごろ、自身のブログに、寺坂院長の名前を挙げ「親族一同を探して殺せ」などと170回以上にわたり書き込んだ疑いがある。同月19日には「殺すことがボランティアだと思う」とも記していた。調べに対し「冗談半分で書いた。非常に申し訳ない」と供述しているという。同課が詳しい動機を調べている。
.★記事終了
当然だろう、こういうのはしっかり逮捕して世間に公表して、ネットで意見表明をする事にも自己責任があるのだという事を周知徹底すべきだろう。(ぼくは体制側ではないのでこの文章の趣旨を読み違えないで欲しい、体制側がこのような逮捕と公表を行う事で逆説的にネット市民が強くなっていくことを期待しているから賛成しているのだ)
今回の事件は自分の意見を社会に向けて発信するということの重みを理解出来ていない幼い脳みそがネットと言う過激な爆弾を使って殺人テロを行ったようなものだ。実弾の入ってる銃を他人に向けて引き金に手をかけておいて33歳の大人が「冗談でした」では済まない。
社会の中で活動する以上、人間の行為は言動も含めて常に一定の制約がある。思想信条の自由は、考える事や信じることは自由だよって事であり結社の自由は同じような思想信条を持っている人が集まる事も認めるって事だ。
けれどそれはあくまでも釈迦?秩序の中で認められた権利であり「誰もが平等な権利を持てる社会」では自分の意見を発表し行動する自由を保有するという事は必然的に他人の意見を尊重し他人の行動を束縛する権利を持たない事だと分かるはずだ。
だからこそ自分の意見表明の場として一般市民にはネットが存在するし自治労や日教組にはリアルの場所としては街頭デモと言う手段があり政治家にはマスコミがある。
それぞれが自分の意見表明をする中で多くの意見を得た者が必然的に意見の代表者となりそれが市民の要求する政策として政治に反映されて社会に反映されるようになるのが正しい民主主義である。
それなのに自分の意見だけを善しとして他の意見を感情的に攻撃したりましてや他人の生命財産を脅かしてしまえばそれは同時に自分の意見を他人が感情的に攻撃して他人があなたの生命と財産を脅迫する権利を認めたことになる。
つまりネットと言えど人を殺すという書き込みはそれほどに他人の生命財産を脅かす行為になったのだ。
原発について自分の意見を持つ事は自由である。そして自分の脳内で誰をどう殺そうがそれは個人の自由であり制限することは出来ない。ただそれをネットを通じて社会に公表するという事は実弾の入った拳銃を振り回しているのと同じなのだ。
そうなれば当然社会の秩序を守るべき警察はあなたを「逮捕!」となる。そんなもん当然だろう、日曜の昼下がりの秋葉原の歩行者天国でダガーナイフ振り回しながら「ぼくは、じゆうでえ〜す、ぼくはきょうはくなんて、してませ〜ん」なんて言っても通用しない。何故なら他人が脅迫されたと思う事実を持って脅迫の要件の一つは成立するからなのだ。
自由と無責任をはき違えたバカネットユーザーが逮捕されたということは、ある意味ネット市民が成長することを意味する。書いて良い事と悪い事の区別がつき、社会と自分の間の違いが理解でき、自分が持っている武器がどれほど強力化を認識する事が出来る。
だからこれからはネット市民は無責任にバカなことは書かなくなる。書く前に考えるようになる。これが結果的に思考能力を高めて、思考能力を持たない“あちら側”の人々と確実に世間の認識能力に対して格差が付く。これが大きくボディブローとなって世の中を変える源泉になる。
「ペンは剣よりも強し」と言うことわざは古くからある。たった一枚の写真が世の中に大きな衝撃や感動を与えることがある。しかしそれはすべて媒体が存在するから可能でありここに20世紀のメディア=媒体には限界があった。
メディアに取材と印刷と配布と言う作業が存在する限りそこにはビジネスがなければ成立せずビジネスである限り上位のメディアやビジネスを凌駕する力を持つ政府に潰されるのは当然のこととなる。だからどこまで反体制が戦っても一定の限度を超えることは出来なかった。
ところが21世紀の媒体であるインターネットは現世利益を獲得する必要はなく誰に頭を下げる必要もない。自分らしく自分の意見をほぼゼロコストで堂々と発表出来るのだ。(勿論たとえネットがあっても社会的な立場があって意見を発表出来ない人はいるがそれはネット特性を否定するものではない)
実はこれから将来の政治的な意味でのネットの方向性のいくつかの選択肢は見えている。そのどれが現実化するか今は不明である、何故ならそれを決めるのはまさにその社会に生きている人々が決定することだからだ。
ただインターネットと言う不可逆的な技術革新を根っこから停止させて人々を18世紀の電気のなかった時代に逆行させるだけの政治的蛮勇もそのような政治の継続性も現実問題としてはあり得ないだろう。
そしてネットを使った社会全体の情報共有を前提とする限り、つまり言葉を変えて言えば今日の記事のような「ネットに社会性を持たせた」事件が増えていくたびに社会は進歩していくだろうしより一層本当の意味の民主主義=自己責任と自由の理解に近づくだろう。
その意味でこのニュースを「自由な言論の取り締まり」と評価してはならないのだ。ネットが社会的地位を得る為の必要な成長を警察が後押ししてくれたのだ、ありがとう警察よ!これからもよろしく!そういって歓迎しようではないか。
そしてネットで情報が共有される時代があと何年先に政治的に受け入れられるか分からないが、「その時」に社会のど真ん中で生きている40歳世代がでっぷり太った腹に煙草の灰をぽろぽろと落としながら「おれ、ネットってよくわかんねー」とか「自分の意見?あんまり考えたこともないなー」とか「え?何コレ?こんな事書いていいの〜?」なとどネットリテラシーのない状態でいれば確実に世間から取り残されて「歴史博物館送り」になることは覚悟しておいた方が良い。時代は手抜きの人生を見逃すほど甘くはないのだから。