2011年07月05日
コンビニの不幸
ニュージーランドにコンビニビジネスが入ってきたのはここ数年である。それもシティ中心地だけにしかないので日本のように日本中どこに行ってもベンリなコンビニってわけにはいかない。
その代わりにニュージーランドは古くからガソリンスタンド(こちらではぺトロールステーションと言う)が生活に必要な基本的な食料を売っている。パンも牛乳もバターも缶詰も入手出来る。これは車で移動する社会が構築されているからガソリンスタンドが有効活用されているのだが、働いているのはあくまでもガソリンスタンドのお兄ちゃん店員さんであり日本人コンビニ店員のような行き届いたサービスや充実した商品は期待できない。
そして今まで僕は東京の説明会や個人面談などでもニュージーランドの日本と比べて不便な点として「コンビニがないですよね」と話していた。
しかし最近ふと考えてみた。「コンビニがあることが実は不幸なのではないか?」
人間の体は本来太陽が昇ってから目を覚まして太陽が沈んでから寝る生活を送っている。
ニュージーランドはまさに太陽と共に過ごす生活であり1800年代からこの国の主要産業で働く農業従事者に限らず街で生活をする人々も含めて、朝5時ころには目を覚まして家族で揃って食事、子供は学校に行きお父さんは農場に出かけて夕方の5時過ぎには皆がまた家庭に戻って食卓でおかあさんの作った暖かい食事を食べて、夜の9時過ぎにはもう寝てた。
この生活は今も続いており多くのまともなキーウィ家庭では、小学生の子供は夕食が終わって夜8時ころには太陽が沈まなくてもベッドに入るしお父さんとお母さんも10時前には就寝している。
ニュージーランド人が日本に行ってびっくりするのは夜の9時過ぎて小学生が一人でランドセルに教科書を入れて電車に乗って勉強している光景であり(あれは塾通いで日本では普通ですよと言うとNZではこんな時間に子供を一人で外出させるなんて養育義務放棄で両親が即逮捕ですねと言われる)、香港に行ってびっくりするのは夜の11時過ぎてもちっちゃな子供が街を出歩き屋台で夜食を買い食いしてる景色であり、時にはその子がお父さんのやってる屋台で教科書を広げて勉強してたりお父さんの代わりにカバンを担いで物売りをしている姿だ。
結局香港のような競争社会では夜中も時間の一つであり利用価値がある。24時間開いている市場でビジネスをする方が利益が取れる。その結果として夜働く人が増え、彼らビジネスマンにサービスを提供する為に夜中に開店している美容室、レストラン、花屋、映画館が派生するのだ。そしてそのような派生産業で働いている人が仕事帰りの夜中に買い物が必要だからコンビニが必要になる。
ところがそのようなお店で売るパンやお弁当などの食品はビジネスの要請上どうしても添加物だらけになるしカップ麺やレジで売ってる置きっぱなしになっている鶏のから揚げが美味しいはずも栄養があるはずもない。
だいいち真夜中に食べる食事やジュースが体に良いわけでもない。ほんとうの人間の体に必要な栄養分は「競争社会の24時間稼働化」の波に押されて次々と摂取する機会を失っていく。
その結果としていつの間にか本物の味覚を忘れてしまい母親が作るごはんを食べる機会がなくなりコンビニと言う24時間稼働している「人間ロボット」維持装置が社会の中で働く人々の(不)健康管理をするようになった。
考えてみればニュージーランドはすんごい田舎でありサプライチェーンマネージメントなんて難しい話はなく「そこになけりゃ売り切れだよ、次の入荷を待ってね〜」である分、つまりサービスが徹底化されなかった分だけ健全でいられたのかもしれない。
それに輪をかけるように社会主義構造の中で誰もが競争をせずに社会を構築する仲間としてお互いに相手を平等として扱ってきたから、夜に働くなんてことが導入されなかった。だからコンビニの存在理由が存在しない社会構造になったのだ。
今だ社会全体が早朝型であり仕事は生活の中心ではなく、あくまでも家庭が生活の中心だ。夕方5時になればシティで働くビジネスパーソンが自宅に向けて大移動する。てか、午後3時ころになるとシティで働く両親が子供の迎えの為に退社するからラッシュが始まる。
このラッシュは午後6時ころになると終了してしまい、市街地に広がる住宅の暖かい光が街全体を包んでいく。子供たちは早い夕食を食べて少しテレビを見てすぐ寝る。ゲームで遊ぶ時間も少ないし遅くまでテレビを見ることも出来ないが、けれど家族がいつも一緒にいる。
夜中まで働くから人はだんだん不幸になる。
人工保存食やコンビニがあるから食品添加剤が必要になる。
料理を作る手間を捨てて便利に走るから結果的に味覚がおかしくなる。
(キーウィの味覚が良いとは言わないが・・・)
次回からはコンビニがない社会の方がもしかしたら幸せなのかもしれないと話してみよう。