2011年12月25日

ニュージーランドにおける格差拡大

ニュージーランドが今でも世界の中では平和で公正な国であるのは客観的に見ても事実だと言えるがそれが格差がないという事と同意義ではない事も事実である。とくにこの国の場合は隣に人口2千万人のオーストラリアを抱えており(NZ400万人、NZが常に20%経済と呼ばれる所以にもなっている)優秀な人間は常に高給を求めてオーストラリアに出ていく為にますます格差が広がる傾向にある。

 

最近の地元記事でも格差拡大についての問題提起があったが、以前の格差問題はマオリやアイランダーなどの親子二代から三代にわたる失業者と一生懸命働くキリスト教白人家族が何代にもわたって少しづつ蓄財した結果子供に住宅を2軒残せる(NZでは相続税がない)事で発生した格差であった。

 

ところが現在の格差は普通に学校を卒業して以前なら何らかの事務職で年収4万ドル程度を稼ぐことが出来た「一生懸命働く気がある若者」が仕事を得ることが出来なくなっているという点だ。

 

この事は先週街に飲みに出て帰りにキーウィのタクシー運転手でありいつも僕の帰路の安全(笑)を確保してくれるキースとも偶然だが同じ話題になった。70歳の彼は今でも毎日タクシーを運転して人生を楽しんでいるが、彼が中学を卒業した頃は働くということは自分の住む町にある工場やオフィスのドアをノックしては「何か僕が出来ることはありませんか?僕は何でも出来るしやる気があります」だった。

 

彼らの時代はそうやって仕事を見つけて地域に貢献して正当な報酬を受けとり税金を払っていた。しかし今の時代ではそのようなやり方が通用しなくなった。

 

とにかく世界は小さくなり国境の壁は低くなり今までの若者中産階級の仕事(雇用)は次々と中国やインドに逃げ出している。そうなると年収4万ドル程度の事務職の仕事は消失してしまい彼ら若者の次の職場はカフェやレストランなど移転の出来ないサービス産業に集中していく。

 

カフェ等の場合若者の時給は通常16ドル程度だから年間労働時間2千時間で年収で4万ドル確保するのはかなり苦労する。それでも仕事があれば良い方で、最近のNZのカフェは専門学校を卒業した若者バリスターがかなりがんがっているから、普通に生まれ育ってきました、NZの平均的なサービス(=人は良いが素人)は通用しなくなっている。つまりNZで50%を占める中卒では1970年代の社会主義時代のような平和な時代を過ごすことは出来なくなっているという事だ。

 

同時に世界のどこでも通用するようなレベルの高い仕事は世界どこの都市でも常に求められており、NZの大学で法律や会計や国際関係の勉強をして高得点を取ったような学生はオーストラリアに渡る。キーウィはオーストラリアでビザなしで働けるからだ。

 

その結果としてオークランドで同じような人材を募集するとなればオーストラリアの給料の少なくとも8割程度をを労働者に支払う必要があり彼らの年収は必然的に10万ドル前後になる。こうなると片や4万ドルを稼ぐことも出来ない若者と10万ドルを普通に稼ぐ若者が出て来てその格差は明確になる。

 

それでも1970年代であれば収入の出口である税金を累進課税にする事で実質受け取り収入を同等にすることも出来たがNZが1984年に自由経済に移行してからは機会は平等でも結果の不平等が出てくるようになった。1980年代から2000年代にかけてNZが急激に格差が広がってきているのが分かる。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4652.html

 

そしてこの流れはリーマンショック以降急激に広がっており、これはインドや中国の若者の賃金が先進諸国に追いつくまで止まらない。そして彼らの賃金が先進諸国に追いついた時に次の戦い、つまり知識を身に付けたアジア人と今だ知識が身に付いていないキーウィとの個人的な競争が始まる。これはキーウィに限った話ではなく先進国である日本も全く同じ状況である。多くの仕事が賃金の安い海外に流出しているしそれを止める事は出来ない。どうしても止めるならそれは鎖国しかないわけで国民が鎖国と言う道を選ぶならそれもありだろう。何せ日本は今だ人口1億人の国家であるから内需で食っていくことは出来る。

 

しかしNZのような人口400万人でおまけに英語圏である国にとっては国境の壁は低く優秀な人材が海外流出する事で残った人間はB級である為に国際競争力がない状態に陥り鎖国をしても結果的に経済が崩壊する事になる。だからこそ今のNZに必要なのは基礎教育だけではなく大学で資格を取る高等教育なのである。

 

もちろんこちらが教育を身に付けても相手が更に高度の教育を身に付けてしまえばまた競争が再開される。しかしこれが自由主義経済の行き着く道であり、つまり自由主義経済とは常に生き残りを賭けた戦いに参加するという事なのだ。

 

そこで社会の安定を維持する為に必要となるのが敗者復活戦の機会を常に用意する事と弱者に対する社会保障を構築する事だ。

 

今日は12月25日、香港のホテルでこのブログを書いている。ホテルでは小奇麗に着飾った人々が楽しそうに飲茶やコーヒーを楽しんでいる。しかしこの街でも確実に格差が広がっており目端の利く人間は皆中国でビジネスを展開し、そうでない人々は大家族の中で守られながら生きている。これが現実であり目をつぶったからと言って問題が消失するわけではない。昔のような「時代に乗ってれば流されて生活出来るところてん的生活」が出来なくなった以上自分の頭で考えるしかない。

 

子供たちには僕らが過ごした時代のようなのんびりした世界を提供出来ないから少し可哀想だけど仕方ない、世界の中で生き残る戦い方を学んでもらうしかない。きつい世の中になったものだ。



tom_eastwind at 20:23│Comments(0) 諸行無常のビジネス日誌 

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