2014年07月27日
「信仰と理解の矛盾」
先日の宋文洲メールで興味あるテーマが表題である。但しこの「興味」は表題の意味における疑問という意味であり決して宋文洲の追っかけブログではない。つまり信仰と理解は矛盾するか、という点を考えてみたい。
宋文洲が日本に来たばかり、まだ英語のほうが得意だった頃に米国生れのキリスト教信者と宗教に関する議論をどれだけしても理解出来ないし納得も出来ない。反対にキリスト教信者は中国には信仰の自由がないという。
お互いどこまで話しても平行線であった時、米国の若者が「宋さん、信仰は信じるから理解できる。 理解できるから信じるものではない」と言った。それで宋文洲の疑問が解けた。そう、宗教を否定する共産主義でさえも実は信仰の対象なのだ。 全世界の人々は常に自分や家族の生命、自由、財産をどう守るか?と考えている。その手段として「こうすれば平和な生活と安全で秩序が保てる」と人々が信じる対象が宗教と呼ばれようが主義主張と呼ばれようが要するに名前は何でもよい、信じる事からすべてが始まるのだ。
ジョン・ロックが自由論の中で神からの自由を主張したがそれはあくまでも当時の世界がすべて宗教で決定され科学的事実も宗教により否定されあまりに強いバイアスがかかっていたから、宗教は個人の趣味でどうぞ、けど社会運営は教会ではなく政治が運営すべきでそれも民衆から選ばれた人がやるべきだと主張したのみである。
今の日本で言えば反原発派が「原発は悪である。けど証拠がない。東電と政府が隠しているからだ。では証拠など不要、魔女狩りしてしまえ」というのは信仰の域を出ておらず、まず「原発の何が悪でどう悪くてそれがどう日本国民に影響を与えてるのか」の問題点をきちんと整理して科学的に証明することで初めて近代化された議論になる。
しかし、だからと言って原発が科学的に他のエネルギーより安全であると証明されたところでそこから先は個人的価値観の問題である。この価値観は個人の信仰、考え方、理解度により異なる。
ちなみに何時も書くことだが僕は現在の原発政策は1980年代、つまり2011年以前から反対派であるが技術としての原子力を利用したエネルギー創生という考えに反対しているわけではない。
ぼくらは生きている限り進歩するし何かのエネルギーが必要だしいずれ水や空気からエネルギーを取れるようになるまで代替資源が必要なのも理解して、その一手段として原子力技術が存在するのも納得している。ただ納得することと実際に安全運転出来るかどうかは別問題ってだけだ。
これはおそらく僕が子供の頃から読んできたSF小説が原点にあるのかと思うが、ネヴィル・シュートの「渚にて」とか原子力関連の様々な本を読んだり映画を観たり70年代には軽水炉の構造上の問題点とか政府の言ってる安全神話が技術的に全然安全ではないって事を理解してた。
どうせ博打打つなら、もっとリスクの少ない博打を打とうぜ。石炭もやばいけどそれだって炭鉱一発吹っ飛んでも500名程度の死者だ、翌日から作業再開出来る。石油だって油外交が苦しくても原発一発の怖さよりはましだぜ、そう考えていた。原発は不可逆的、つまり後戻りできない、元の日本の自然を取り戻せなくなる状況を作るのだ。
政府ってのは原発が吹っ飛ぶその日まで安全神話を垂れ流すものだと当時から納得してたので高度の管理技術を要する原発管理が実は下請けの下請けの下請けのさらに下請けが全国のドヤ街から集めて来た身寄りのない中年オヤジに原発の炉を定期的に掃除させて彼らがそれから体調を崩して死んでいった記事を読んでも何の疑問も感じなかった、それが政府の信じる宗教を実行している証拠だったから。
その頃は上記のような記事はオカルト呼ばわりされ殆どの日本人が政府の言うことを真に受けて原発が安全だって言ってた、結局原発も多くの人にとっては一種の信仰なのだろう、政府教って名前の。
さて宋文洲は彼のブログの中でガザの問題を捉えている(他にもウクライナだがあれは宗教色は強くない)が今現在世界中で起こっている多くの紛争はまさに信じる者同士の戦いである。キリスト教対イスラム教みたいな切り口になったり、旧ユーゴスラビアでは宗教と民族が混在しつつコソボや冬季オリンピックが開催されたサラエボで虐殺が起こったり(この時は米系広告会社が戦争広告の代理店になったという話もある)した。
それまで同じ村で仲良く過ごしてた人々が有る日突然お互いに疑心暗鬼になり殺しあう、まさに浦沢直樹の「モンスター」を彷彿とさせる実話である。
それはイスラム帝国の中でさえシーア派とスンニ派の殺し合いになっている。自由の国米国でさえも時々キリスト教系の小さな宗教団体が立て籠もって警察相手に派手は銃撃戦やって爆弾ふっ飛ばしてみたりして多くの人びとが亡くなっている。
つまり同じ宗教内でも争いが起こるってのは最終的にすべての個人は隣人と何らかの違いを持っておりそれが完璧永遠に一致し続けることはないって事を証明している。だから宗派争いってのがある。
だからこそ宋文洲は最後に「すべての個人はそれなりに信仰を持っており目の前にいる人が自分の意見に従わなかったからと相手を傷つける前に相手にも自分と同様の、もしくはそれ以上に強い信仰があるのだと理解しましょう」とまとめている。
でも、それがどうしてタイトルの「信仰と理解の矛盾」になるのか?つまり自分の神様だけが唯一正しくて強い、だからそれ以外の信仰を持っている相手は間違っており結果的に相手の存在を認めて理解することで自分の信仰が毀損されるって理屈しか理解出来ない非常に脳みそが足の裏に付いてる連中だけを対象にして「信仰と理解の矛盾」と言ってるのだろうか?
もしそうであるなら彼の捉えている宗教問題はバカテロリストのみを対象にした、つまり他人を理解できない馬鹿のみをテロリストとして非難して彼らが理解度が乏しいと言う理由でそれを宗教全体に広げて解釈してないか?
少し言い方が上手く書けないけど、どんな組織にもバカもいれば利口もいる。イスラムにもキリストにもテロリストというバカもいればテロリストに所属しているけど実は親の仇討ちが目的って人もいるだろう。けどもしここで「信仰と理解」って大きな切り口で語ってしまうと、例えば宗教信者すべてを理解度が低いとすることに繋がらないか?
本来の信仰とは自分の心を通じた神との一対一の対話であり他人がどのような宗教や政治を信じようが自分には全く関係のない話である。
他人が信じる宗教なんて他人が食ってるうどんやラーメンと同じである。それを美味しそうだなと思うのもこっちの自由だしありゃどうなんと思うのもこっちの自由、そして自分自身がかつ丼最高と思うのも自由、ただ唯一、自分の意見を他人に押し付けるな、つまり自分のカツ丼を相手に押し付けるな、相手のラーメンを非難するな比べるな、他人だって自分自身と同じだけの舌感覚を持っているのだからってことを理解しようよって簡単な話である。
例えばオークランドでも様々なキリスト教系団体が存在する。英国国教会、カソリック、プロテスタント、彼らは宗派は違うけど殺し合いをしてない。本国の英国では1980年代までアイルランドでカソリック対英国の殺し合い、IRA闘争が行われていたが、その争いがNZに持ち込まれることはなかった。
それはおそらくだが、ニュージーランドに移住して来た人々の知的レベルが高く相手を認めて尊敬して近づかずという考え方があったからではないかと思ってる。
ニュージーランドでは世界中からやって来た人が頭にターバン巻いたり線香焚いたり十字架の首飾りとかそれぞれ自由に自分の信仰を持って毎日を過ごしている。それぞれ民族ごとに分かれて仲良く生活をして他民族の宗教や生活を尊敬して遠ざけている。
この国の宗教的共存は現在非常に良いバランスである。もちろんこの国に来てカソリックがプロテスタントになることもあるだろう、しかしそれは激しい勧誘においてではなく、あくまでも開放的で本人の主体性を十分に尊重した上での話であり、どれかの宗教だけが良いって話にしない、相手に対する礼節を知った態度であるべきだろう。
それよりはジョン・ロックが自由論で主張したように、宗教は個人に任せて政治は人民に任せよう。どんな世の中にも一定数のバカがいるのでありそのバカだけを取り上げて「信仰と理解の矛盾」と、彼の信じる宗教そのものを否定するような行動に走ることだけはやめようと思う。
もちろん宋文洲の考えていることも僕の考えていることとそれほど違わないと思う。ただ彼のように子供の頃に宗教に触れる機会がなく共産思想で育った人間と、ぼくのように見かけ資本主義で育った人間だと同じものを観ても違う言葉で語ってしまうことがある。
宗教は簡単なものではなく人が生きる根源であることは十分承知している。だからこそ、信仰と理解の矛盾については僕からも少し違った切り口から説明してみたい、考えて欲しい、そんな事を考えた宋文洲ブログでした。
うーん、今日は、重くなった。おかげで中村天風の話を書く場所がなくなった。これは、次回ですな。

