2015年10月15日
辺野古2015
http://www.asahi.com/articles/ASHBD6GKDHBDTIPE00K.html
数年前から沖縄について書いている。しかし書く前にやはりもう一度自分の目で見なくてはと思い数年前から沖縄出張を作ったり家族旅行で沖縄に行ってる。
ぼくと龍馬くんで普天間基地を丘の上から眺めて嘉手納基地を数十年ぶりに訪れて基地が見えるレストランでステーキを食べてお土産屋でジェット戦闘機の生写真見学。
昔は道路の反対側の嘉手納基地側の丘に上がって基地見学してそこで写真撮ったりしてた。今は嘉手納基地をネタにしてレストランとおみやげ屋さんビジネスになっている。嘉手納基地など米軍が接収した土地は戦前からの地主がいて彼らには「家賃」が払われている。
沖縄の基地問題は実際に基地を見て空にオスプレイが飛ぶのを見て街の人の顔を見てみないと分からない部分がある。
今日の記事はある意味で「やったね沖縄!もっと日本政府からぼったくれ!」である。今までの
歴史の中で沖縄と日本のバランスシートが沖縄にとってあまりに不公平であったからだ。
琉球王国が併合されて沖縄の人々は本土の人々により二級国民扱いされ沖縄の言葉をバカにされ戦前は同化政策が行われ標準語使用を強制された。彼らが話してる内容が支配者に分からないからだ。戦前の沖縄は日本の植民地のようなものであった。
第二次世界大戦が起こって本土決戦が近づくと沖縄は真っ先に弾除けに使われた。ここに軍隊を送り込み撤退禁止命令で最後の一兵まで戦え、とにかく本土決戦を長引かせるためだけに軍隊も民間人も不必要に殺された。
この時の記録は映画442部隊物語の中で観ることが出来る。沖縄出身のハワイ移民日系米軍兵士が沖縄のあちこちの洞窟で降伏勧告を沖縄の言葉で行う。
「もういいよ、十分戦った、米軍はあなたの命を守ります」ところが兵隊は民間を盾にしてみたり民間も米軍の話を信じないもんだから洞窟に火炎放射器を突っ込まれて全員焼き殺された。
助かった人々の中にはハワイ出身の若者と同じ小学校に通っていた人がいた。最初彼はハワイ出身の若者の顔が分からずポカーンとしてたら笑顔で「おい、俺だよ、もう忘れたのか?」。二人は涙を流しながら抱き合った。
ぼくは1980年代に平和記念資料館に行く度に涙が止まらなかった。当時まだ発掘が完了していなかった洞窟にも地元の戦争の悲惨さを伝えるガイドさんの案内で行き、滑りそうになる斜面を降りて洞窟の中に入ると、そこには沖縄戦当時洞窟で避難生活をしていた人たちの道具が残っていた、白骨と共に。
糸満市あたりには当時誰も住んでない家があった。何だろう?聴くと地元の人は「ああ、あそこね、戦争で一家全滅したのよ、親戚も死んで家の管理する人がいないのよー」
それほど沖縄戦は激しく多くの民間人が巻き込まれた。結局戦争は沖縄で終わり本土決戦などなかった。沖縄は捨て石だったのか?
沖縄の波上にジャッキーステーキハウスがある。ぼくが通ってた頃はまだボロ屋だけどとにかく本物の肉が安く食えるってんで沖縄の昼の仕事が終わるとよく食いにいったものだ。
お店の人は親切でにこにこしている。「美味しいです」素直にそう言うと「ありがとね」けど混みあった店内では地元の人々(うちなんちゅー)がヤマト民族(やまとんちゅー)と一線を引いてる。
ある時昼時に那覇市内を川沿いに歩いていると広い庭のある民家があった。民家?何となく違う。低い門を開けて庭の石畳を抜けるとそこは40畳位の広い部屋で全部で10台くらい、一つが6人くらい座れる座敷になっている。
あーそうか、ここはご飯を食べるところなんだ、そんな事を思っていると奥から少し腰の曲がったおばあさんが出てきて何か話しかけてくる。何て言われてるのか分からない。するとおばあさんはにこっと笑ってメニューを見せてくれた。よくわからないのでそばにした。
しばらくして出てきたのがソーキそば。これがぼくが生まれて初めてソーキソバを食べた瞬間である。うわ、美味しい、こんな美味しいものがあるんだ、感動した。おばあさんにありがとうを言いつつおばあさんにしわくちゃの笑顔で何か言われて民家のような店を出ると沖縄を大好きになっている自分に気づいた。
基地反対運動が華々しく行われていた頃、本土から集まった各労働団体は昼間はデモ行動をして(沖縄の人々にとって)危険な基地は撤去せよ!と叫んだ。
団体はバスでホテルに戻り、夜は泡盛と琉球料理を食う。「何だよこの刺し身、生きが悪いな、沖縄の連中ってこんなもんくってんのか?だからとろいんじゃねーか笑」沖縄をバカにしたような響き。
最終日に団体が空港に行くとおみやげ屋さんが空港ターミナルの「外」で座り込み観光バスがやってくるとゆっくり立ち上がり各自がお土産屋さんで免税価格で買ったお酒と地元産パイナップルを受け渡す確認をしたり。
基地反対運動と言いつつ観光や食事や買物を楽しみ沖縄の文句は言いたいことを言い、お土産屋さんが空港の「中」に入れず炎天下の「外」で待つ理由には何故か気づかず。こういう団体の旅費はすべて組合費から出ていた。
当時北部の沖縄海洋博公園に行くと58号線沿いに朽ちたレストランや簡易宿舎がずらっと並んでいた。沖縄海洋博では本土から来た建設業者がすべての利益を取って東京に持って返った。その残骸を観ることが出来た。
本当に沖縄は矛盾の島だった。そして貧しい島だった。そしていつまで経っても本土から差別をされてきた。
基地反対運動をする労働組合が「基地返還!」とか「地元の安全を!」とか言っても、現地の人々を無視する姿を見れば基地反対運動の一面が見えてくる。
時代は遡り1960年台後半ベトナム戦争ではB52 が沖縄から飛び立ちベトナムを攻撃した。核爆弾を格納する倉庫は嘉手納基地に置いた。労働組合はベトナム戦争反対闘争で日本政府からカネをもらい米軍に対して「俺達は戦争に行かないぞ」と政府の代行をやっていた。
当時の日本政府は沖縄に基地を集中させることで非核三原則にもろに反する核爆弾の本土上陸などを避けた。
ベトナム戦争が終わり世の中が安定してくると米国側から沖縄駐留費用の問題が米国側の問題として出てきた。俺たち沖縄にいる必要あるのか?そのうち普天間基地問題とグアム移転の話が出てきた。
何度も書くことだが辺野古は単なる餌に過ぎない。日本政府としては一級国民である本土に県外移転は出来ず沖縄には辺野古で収めてもらいたいが、元々米軍としては自国領のグアムに戻りたいのだ、その移転のカネを負担してくれれば良いのだ。
辺野古が絶対必要なのは日本政府である。それが対米追従政策の根幹であるからだ。米軍が沖縄からいなくなると「米国の指示で〜」が言えなくなる。だから何としてでも食い止めたい。
沖縄が普天間を危険な基地として移転させろと主張して出来もしないが県外移転を主張して他の「日本国民」も基地問題を知って欲しいと主張した。これは正論である。
普天間は危険、県外移転、ダメなら辺野古、辺野古じゃ県内だから意味がない、だったらカネだすから話を聴いてくれ、ここからが沖縄と日本政府との駆け引きが始まった。沖縄が一つになってヤマトと戦い始めたのだ。
要するに県外移転は同じ国民のはずの本土の人々が反対するのは分かっている。しかしこちらには基地を負担していると言う強みがある。日本政府としては米国に対してみっともない事は出来ない。
だから日本政府としては沖縄の県予算は常に満額、更に沖縄振興予算を付けて毎年数千億円の大盤振る舞いをした。
その戦果は那覇国際通りの活性化、モノレール、軍港移動、空港拡張、58号線整備、リゾートホテル、国際線ターミナル、次々と投入される政府資金を有効に活用して沖縄の自立に向けて設備を整えてきた。其の結果としてアジアから多くの観光客が訪れる素晴らしい島になった。
沖縄はもらったカネを食い潰すのではなくそのカネでインフラ整備をして自立しようとした。同じように補助金をもらった北海道では補助金を食ってその結果は今はっきりと出てる。
辺野古では前知事がOKと言ったものを今回現知事がちゃぶ台返しする。またゼロからの交渉である。そして交渉が続く限り沖縄にヤマトの税金が流し込まれる。もちろんその資金の一部は中央政治家にも還元されるがそれでも多くのカネが沖縄に投入されて経済自立と活性化に使われる。
頑張れ沖縄、今までどれだけヤマトに苦しめられてきたか。ここで取り返せ。そしていつの日か独立出来るだけの体力を付けて欲しい。そしてヤマトンチューもいい加減に自分たちが沖縄に対して何をしてきたか、気づけ。