2016年07月16日
日本の少子化
東京の電車にベビーカーを載せて良いかどうかの議論がある。ニュージーランドでは考えられない話である。子供は社会の宝であり産んだ親だけでなく周囲が助け合うべき事である。
東京の雑踏の交差点でベビーカーを使わざるを得ない状況の母親が周囲から冷たい視線をぶつけられたら「ち、もう産まん」だろう。
いくら政府が少子化対策として片方では「産め」と言いつつ片方では「産めない」状況を変更する気が見えてこない。
要するに社会全体が子供に対して冷酷になっているのだからその原因を解決せねばならない。
ところがこれは一つの原因はサラリーマンのストレスであるから仕事の進め方を人に優しくしていくしかない、つまり社会構造を変えるしかないのだがそんなことが今の日本で出来るはずもない。
また待機児童問題も取り上げられたが施設を作ろうとしたら周辺住民が反対した。自分たちだけの静けさが欲しいのだろうが地域社会の大人としての義務としては如何であるか。
第一それ以前に現代の若者の賃金体系は「食って生きていくこと」だけが実現出来るようになっており若者の中にはそれ以上の層にあたる「結婚」などが実現性の薄いものになっている。だから子供など望むべくもない。
政府もそんな事はとうに分かっている。少子化問題に取り組みますというが昔から問題点は分かっており解決策はあるけどそれは今の日本社会では実現しないってことも分かっている。
少子化問題は早い時期から認識されていたのにそれが全部後回しになっているのは何故だろう?東大法学部卒の連中が分からないわけがない。では?
ここからはちょっと穿った見方になるが実は誰もがいたずらに子供を産んでも育てることの出来ない世の中になることを官僚が予測していたのではないか。
現在の若者の出産による貧困層へのおちいりで子供に対して政府が給付をしても低学歴のままその子が社会に出る頃にはインターネットとパソコンの普及によりもう日本にはそれほどたくさんの仕事は残ってない。
なので社会人になっても今度は失業保険に頼られる。ならばこの時代、彼らの層の子供は不要とすべきだと。
そう言えば恵比寿ガーデンプレイスはいつも小奇麗に飾った若い奥さんたちが赤ちゃんの乗ったベビーカーと歩ける子供と三人で仲良く一緒に歩いている。その笑顔は屈託がなく未来に不安もない。
つまり資産もありご主人も頑張って働く家庭では2人産むことに問題がない。てか産んで欲しい、であろう。日本政府としてもこういう層は自分たちに近いのだからそのうち慶応で会いましょうみたいな話かもしれない。
しかしそうでない層な人々は政府からすれば「お前で打止め」なのかもしれない。
こんなことを考えたのは官僚たちは少子化問題の原因も解決策も分かっているけどそもそも少子化の何が悪いのかという議論が官僚内にもあるのだろうと考えたからだ。いくら人口減と言っても所得が高い層の日本の8千万人は十分な経済大国である。
移住などでムリに人口を確保するかそれともいっそ少子化を受け入れて正しく少子化しようとするか。この問題を解決することは政治的に難しく、それならば当面はいっそ日本社会を層で切り分けて子供を産む層とそうでない層を作り上手いこと少子化にするって方法ではないか。
穿った見方であればと思う。