2017年12月16日
延命治療
「医療の8割は無駄である」と言う話がある。これは延命治療と喫茶室の話であろう。
喫茶室とは老人が昼間になると病院に集まりおしゃべりをして時間を過ごしておしゃべりの合間に不要な診断や治療をすることである。
ある笑い話。ある病院の待合室で。
「おい、あの人今日はいないな、どうしたんだろうね?」
「具合がわるいんだってさ」
笑い話で済まないのが延命治療である。現在の日本の医療制度では一旦チューブを付けるとその後に外せば殺人罪である。かと言って意識不明になったばかりの親を観ながら「延命不要」と言い出せるか。
ニュージーランドでは延命治療という発想はあまりない。10歳の女の子が交通事故で意識不明になって延命装置を付けるが、3日位で親は「もうこの子は十分頑張った。早く天国に行かせてあげたい」と言うことがよくある。
これは宗教観とか社会構成の問題なんだろうけど、日本でも昔は姥捨て山があったし三世代同居で介護は自宅で行っていた。
社会構成が変化を始めたのは戦後の高度経済成長期である。当時の田舎の若者は東京や大阪に働きに出てそのまま都会人になり結婚して子供を作り家を買い、都会に根を張った。
両親は田舎の自宅で過ごすけど近くに家族がいないので体が弱ったら病院通い、それから老人ホーム、こういう流れが当然の時代になってきて、サービス付き高齢者住宅が日本中あちこちに作られている。
冒頭にも書いたが医療の8割は無駄であるという意見が出始めているのは厚労省もいよいよ延命治療と言う今の考え方を見直すことで医療費抑制を図りたいのだろう。
医療費が国家予算の多くを占めておまけにこれは死にゆく人への費用であり回収出来ない。
けれどもし延命治療という考え方を変えて人はピンピンコロリでありいよいよ死期を迎えればホスピスで生活をして余命を楽しみある日命を失えばそのまま葬式を行う。
お医者さんの法律も変えて家族の依頼があれば延命治療を何時でも停止出来るようにして自由度を高める。だって実際に昭和の頃の看護婦やお医者さんに聴いてみればよい、「あの、人工呼吸器止めた事がありますか?」って。
現在の杓子定規な規制と親戚や周囲の眼を気にしすぎる人々も、そろそろ意識を変えていけば良いと思う。第一呼吸器付けられた親はそれで満足なのだろうか。
社会全体の意識を変えていき医療費抑制を行いそのお金を健全な社会投資である幼児向け教育に使うべきだろう。幼児に社会予算を投資すればその効果は治安維持、新しい社会作り、健全な国家作りに繋がる。投資効果は十分にあるのだ。