2018年07月04日
せんざい
あるブログで離島の田舎のレストラン、てか定食屋さんを紹介した際にキッチン側上部に短冊式メニューがありその写真を撮ってた。
地元で出してる珍しいラーメンやうどんを中心に、続いてカツカレー、カレー、白ごはん、せんざい、、、?せんざい300円って、ここは自分で食った皿を洗って洗剤も買えってことか?
なんじゃこりゃ?と思いもう一度メニューを写した写真をよく観ると、料理名の上の部分が切れてたりする。そこで考え直してみると、あ〜あれは「ぜんざい」だったことが分かる。
そう、日本語もひらがなを上に伸ばしたりクセ字があるからこのメニューを書いた人はぜんざいの「ぜ」の濁点をかなり上に付けていた、だからカメラで斜め撮りした写真だと全体が写り込まないのだ。
これから出てくるAI技術では器械に何度も同じものを観せて深く学習することで人間と同じような判断力を持てるようになる。
しかしそこに直感はなく「あれ?何かおかしいぞ?」と思うだけの「心の遊び」がないから、レストランに洗剤は付き物、だから洗剤は300円となるのだ。
人間は生まれ持った直感と本能がある。だから赤ちゃんは生まれてすぐに生き残る本能を発揮する。しかし器械には直感も本能もないので最終的におかしな判断をすることになる。
手塚治虫の「火の鳥」でロビタというロボットが出てくる。彼は旧式ロボットとも言われたが人間の感情をよく理解して、時にはオーナーに対して諫言さえした。
本来ロボットはアシモフのロボット三原則により人間に逆らうことが出来ない。
また人間を殺すことも出来ない。ところがこのロビタはある時人間を間接的に殺してしまうのだ。
そして言う「私は人間だ!」
これからロボットが増えて便利になることもあれば面倒臭いこともあるだろう。ただこれからAIやロボットと離れて生きていくことは現実的に難しい。
ならば今のうちにアイザック・アシモフのSF小説を読み(特にお勧めは「われはロボット」「ファウンデーション・シリーズ」)当時のSF作家がロボットをどう観ていたか、そして手塚治虫の火の鳥を読むことで神と不死と人間とロボットの何が違っててロボットに「何をやらせて何をやらせないか」を考える時の試金石にすればよいと思う。