2001年 斬りたい日本!
2005年07月15日
2001年10月 タバコの煙
合法殺人機械:煙草を斬る!
日本政府の本音と建前が事実を煙に巻く。
世界で最も効率的で合法的な殺人機械はタバコである。今回はタバコの害と、それを知らずに喫煙する問題点、そしてその背後にもうひとつ隠された日本人の問題を考えてみる。
秋葉原にて
「日本語はすらすら出てくるんだけどサー、まずDear sirだろ、それでセンキューベリイマッチだろ、これで“平素よりお世話になります”でいいんだよね。」
「“いつも”だからalwaysを使わなくちゃ!」
「違うよ、alwaysは副詞だから使わない方が・・・…」
真夏の太陽が照りつける午後の秋葉原。駅裏商店街の地下1階、薄暗い喫茶店ルノワールで交わされる会話。昔の自分を思い出す、ベリーがへそに聞こえるご愛嬌付きだ。喫茶店の大型クーラーが、店内に充満したタバコの煙を目が真っ赤になるくらい勢いよくかき回している。
「英語の勉強会」に目を向けると、みんなネクタイを少し緩めたサラリーマンだった。多分いつもの昼食の帰り、日本的なランチタイムの過ごし方だなと、自分の日本時代を思い出して懐かしくなった。
久しぶりの日本(そして地方出身の悲しさ)、生まれて初めて秋葉原を訪ねた時の情景である。アキバハラなのかアキハバラなのかよく分からないままに、電気製品が安くて外国用のものも沢山売っていると聞いて、新宿の宿泊先から足を伸ばしてきたのだ。
海外担当
さて、近くの電気屋で海外担当として働いてる雰囲気の彼らは、暑い夏を振り払うように首筋の汗を拭きながら、蒸気機関車のように煙草をふかしはじめた。
レントゲンで見るとタバコの煙が肺に送り込まれる様子がよく分かるのだろうが、最初の煙が送り込まれた瞬間に、胃袋がねじれるようにして収縮運動を始めるのだ。
まるで断末魔のあがきのようだが、胃袋のねじれによって食物の納まりが良くなり、それで「食後の一服」がうまく感じるのだそうだ。
サラリーマン諸君はまるで後ろから見えない手に押されるかのように、椅子に座るや否や競争のように煙草を取り出して、手の届く周囲に灰皿がないと、まるで鬼の首を掴んだように「こんなサービス、なってねーよ!おーい、灰皿、早く持ってきてよ!」と大声を出している。
そして手近にあるスポーツ紙を引っ張り出して、巨人はオーナーが駄目だよとかあいつが打たないのが敗因だとか、一流評論家顔負けの演説をぶっている。きっと毎日のストレスが溜まって、それがちょっとした事で彼らを怒らせ、昼間から酒を飲むわけにはいかないのでタバコに走らせるのだろう。
彼らの舌はヤニで麻痺して、味蕾には長年の喫煙でヤニがこびりついているから、すでに普通の食べ物の味を分からなくなっている。よくタバコをやめると急に太ると言うのは、食物をおいしく感じてついつい沢山食べてしまうからだ。
肺がん患者の肺を死亡後に切り取ると、内部にただれたニコチンが腐着している様子がよく分かる。
続く
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2001年10月 タバコの煙 続き
続き
国内事情
しかし、その喫茶店で何よりも驚いたのは、喫茶店の中ではタバコの煙が充満しているが、誰も気にする事さえなく、禁煙席さえ存在しないと言うことである。お店の茶髪ウェイトレスに確認したところ、「禁煙席ですかー、申し訳ございませんがー、うちでは置いておりませーん!」と、半分宙を見上げるように自分のセリフを思い出しながらの、いかにもマニュアル化された回答であった。
次に来た時はマニュアルにのってない質問をしてやろう、例えば「お宅の店で売ってないものを飲ませてもらえますか?」とでも。でも多分答は「そんな飲み物はございませーん!」なのだろうと思う。
閑話休題、日本の国際化?駅のホームの禁煙など、外国人が見える部分だけは国際化が進んでいるようだが、純喫茶店に昼間からたむろする純日本人の世界に入れば、そこはあいも変わらぬ日常である。
たばこ。本音と建前の使い分けに慣れている日本人は、なぜ禁煙が必要なのかを理解せぬまま、とりあえず建前では外国と同じようにしたいから「禁煙」し、外国人に見えない領域では本音でタバコを吸うのだろう。
タバコ殺人事件
ではここでタバコのいったい何が害なのか、考えてみよう。法律用語には「未必の故意」と言う言葉がある。「こんな事をしたら相手が死ぬかも知れない」と認識していながら故意に行動を起こす事を指す。そしてタバコが肺ガンを引き起こす要因である事は科学的に証明されている。
それは飛行機が地上に激突すれば、乗客はほぼ確実に死亡すると言うのと同様の事実である。であれば、もしタバコが肺ガンを起こす事を知りながらその事実を伝えずに販売していれば、これは立派な未必の故意になる。
この理屈によって、現在の米国では多くのタバコ会社が集団訴訟裁判を起こされ、巨額の賠償金を支払わされている。
そして「俺は自分の責任でタバコを吸っているんだ、他人に迷惑をかけないんだ。」と言う個人でも、その人が肺ガンになった場合は当然国家の補償による医療サービスを受ける訳だから、結果的に社会に迷惑をかけているのである。
例えて言えば、個人の責任で壊した国の所有する街灯や信号機を国に修理させるようなものだ。
医療費用
ニュージーランドなど社会医療システムが整っている国では、肺がん患者の治療費用の多くは政府から支給されるのが現実だ。であれば、喫煙者はまずその喫煙自体において「他人に迷惑をかけて」いるのである。
健康なうちは「他人に迷惑をかけない」と言いながら、病気になると国の治療保険を使うのであれば、政府は本人に対して治療費用の還付を要求すべきであろう。そうしなければ、税金を払って健康を保っている人達に対して不公平である。
そして…
もっと大きな問題は副流煙である。これは、本人が喫煙しなくても周囲の喫煙により煙を吸い込んでしまい、これが原因で肺ガンになると言うことだ。タバコを吸う人間の横にいるだけで禁煙者が死んでしまう訳なので、禁煙者は喫煙者に殺されるようなものだ。
この治療費も国家負担になる。これなどは喫煙者による完璧な未必の故意である。そばにいなければいいじゃないかと喫煙者は言うかもしれないが、どこにいるかは誰でも自分で選ぶ権利がある訳で、タバコを吸う人に場所指定優先権があるのではない。
医療先進国家
ニュージーランド等の西洋諸国でタバコを禁止しようとする背景には、毎年増加する「国家による医療費負担」がある。
せっかく国が年間医療予算を準備しても、その金が自分勝手な喫煙者によって濫費された場合、本当に治療を受けたい人への手当てが出来なくなる。馬鹿げた自殺的行為である喫煙だけならまだしも、本当に治療を受けたい人が受けられなくなるのを防ぐ為に、NZ政府では毎年タバコ代金を値上げして、これを間接的に医療費用に充当しているのだ。
タバコの税金を高くして、それで喫煙率が低下すると国会で報告して、「ほうら、これでタバコを吸う人が減った、来年はもっと税金を上げよう」とあいなる。
また、喫煙を放置する事によって、日本で言えば河川管理法のように、事故が起こると予想されるのに放置した場合は国が訴えられるという問題もある。
つまりタバコに害があると分かっているのに民間業者を規制せずに販売をさせた場合である。米国では政府がタバコ会社を告訴しているが、その理由は「タバコの危険性を指摘せずに販売を続けた結果発生した<喫煙者の肺ガン患者の治療費用>は、政府が負担する必要はない。」と言う考え方である。
だから、タバコが悪いのは臭いからでもなく、空気が悪くなるからでもなく、人殺しの道具だからなのだ。
更に、続く。
2001年 タバコの煙3
本音と建前
さて、問題になるのはこれからである。このコラムの目的はタバコに関する善悪を問う事ではなく、ニュージーランドにおいては明確に理解されているタバコの害が、日本において正しく認識されていないその理由を問う事にある。
日本の喫煙率は世界のトップクラス
諸外国が日本を見る際に、その喫煙率の高さを問題にされることがある。まず男性成人喫煙率は、日本では59%、NZではたったの24%である。
1995年の世界保健機構の資料では、タバコによる死亡数が年間で300万人を超えている。特に日本人の働き盛りの男性の3人に1人は、タバコが原因で死亡しているのである。
この医療負担は各国政府によって賄われているが、1人が死亡するまでの医療費を単純に100万円としても、各国政府が年間に負担する金額は3兆円である。
タバコ対策の為に年間3兆円使っている金を発展途上国に回せば、多くの疫病対策や予防対策が行える。これだけあれば小さな国家ひとつくらいは十分に賄える金額だし、反対に言えば政府はタバコ対策の為に毎年多くの無駄がねをどぶにすてているようなものなのだ。
これはすべて世界保健機構(WHO)による公式調査資料で公表されている。もし興味のある方は検索ページで「たばこ」と入力すれば、すぐに結果は出る。
この冷厳な事実を目の前にすれば、タバコ販売業者の責任が如何に大きなものかが見えてくる。そしてもし日本で、一般国民が日本政府を、その専売公社時代に「タバコの危険性を告知せずに販売した」として告訴した場合、米国で行われているような裁判結果が予想されるのである。国家による国民への賠償が発生するのだ。
自己責任?
タバコを吸うのは自己責任だとも言える。しかし、だからと言ってその事実を知らせないままに販売する事は許されない。法的に言えばこれは「告知義務」と呼ばれる。商品を購入する人が事実上知る事の出来ない事柄は、販売する際に必ず伝えねばならない。これが法の大原則だ。
例えばお客がオーストリアの有名なチョコレート菓子であるザッハートルテを食べた後に、店員から「おいしさの秘密は砒素入りだからです」と言われたら、誰でも怒るだろう。そして店が「だって、おいしかったんでしょ、死んでないんだし、食べた人の自己責任ですよ。」などと言ったら、その場でぶち切れるのは間違いない。砒素が入っていると聞けば、普通の人はまず食べない。思わず「人殺し!」と怒鳴りたくなるのではないか。
タバコも、実は全く同じ「危険物」なのである。だからこそ世界ではタバコ会社が「告知をせずに事実を隠蔽した」ためにぶちきれているのである。
陰謀
このような世界のぶちきれ風潮の中で、日本のみはあいも変わらず雑誌等でタバコ広告を掲載しており、そこで禁煙を訴えると「何だよ、外国の言う事ばかり真似しやがって」と言われる。
実は喫煙問題で専売公社時代の責任を取らされるのが怖い日本政府は、なぜ禁煙が必要なのかと言う一番大事な啓蒙運動にはあえて金も時間もかけず、如何にも外国に押し付けられたような雰囲気で禁煙運動を進め、そして国民が何となく反感を抱くように仕向けているのだ。これこそは国民の目をそらさせるための陰謀である。
エイズ
エイズ問題を思い出して欲しい。日本政府はエイズに関しては啓蒙運動を進めて、病気の恐ろしさやその正確な情報を伝達する為にテレビ広告まで行っている。なぜならタバコと違いエイズ問題は医療負担が全額政府の負担になるし、エイズの場合はどのような形でも国家収入が発生しないからだ。
せいぜいコンドームが余分に売れて岡本理研が儲かるだけだし、だからこそ国として医療費を抑える為に啓蒙と予防にお金をかけるのだ。
タバコの元締め
さて、殺人事件の場合犯人探しの基本は、人を殺した時は誰が一番利益を得るのかを考えることである。ではタバコを売る事によって誰が一番儲かるのか?同時にタバコの害が明確になる事によって誰が一番困るか?それは政府である。
元々日本のタバコは専売公社、つまり現在のJTが独占販売をしており、その利益はすべて国家の収入となっていた。そして時の政府もタバコの危険性を理解していながら販売を続けた訳だ。なぜか?それは独占販売によって国家の収入が増えるからだ。
勿論、政府にとって医療費の増大は問題ではない。なぜなら国民に対しては医療費の増加を名目にすれば問題無く増税出来るからだ。タバコで儲けといて、医療費は国民に別途請求である。これが政府が良く使う言葉の「国民の理解を得られる」と言うものだ。だから日本政府はあまりタバコの問題を重視させなかった。隠蔽していたと言うべきだろう。
一番大事な問題
タバコの場合は国家収入に直結する。そしてエイズ対策での医療増税は「国民の理解を得にくい」が、癌による医療費増税は国民に受け入れられやすい。
これが政府の考え方であり、だからタバコ問題については政府が及び腰なのだが、今回の問題で一番大事なテーマは、実は政府によるタバコ陰謀だけではない。その背後に実は僕ら自身の大きな問題がある。
それは、日本国民は政府やお上の言う事を何の問題意識も疑問も持たずに従属すると言う事である。
政府はこの国民性を良く見抜き、それを増長させる事によって常に国民を操って来た。そして今回のタバコ禁煙問題も同様に、国民に違った情報を与える事によって国民を騙しにかかっているのだ。
人が人として生きていくならば、すべての現象に問題意識を持つ必要があるし、政府の行動を疑問視し、国民も自衛する必要がある。自分の頭で考える力を持つことが肝要なのである。
政府に馬鹿にされた挙句にタバコを吸わされ続けて、その結果ヤニ漬けになって最後は病院から墓場行き。そんな末路をいつのまにか政府によってインプットされた人生を、あなたは気づいているだろうか。
世界の雰囲気に合わせて建前だけの禁煙標語をばら撒く前に、なぜ禁煙が必要なのかを自分の頭で、本音で考えてみよう。
そしてそれでもタバコを吸うのなら「初志貫徹」してほしい。
個人の自由があるから自殺行為を止めはしない。タバコの害を理解した上で吸うなら、言う事はない。しかし山手線に飛び込んで関係ない人の通勤の足を止めるような事はやめてほしい。
他人のいるところでは吸わない、ポイ捨てはしない、肺ガンになっても絶対に公立病院には行かず、治療費は一切政府に請求しないと言うことを心がけてほしいものだ。それでこそ社会の一員であろう。
たばこの煙 続編
議論の後日談
マリファナより怖いタバコ、それでも日本政府はやはりタバコ漬け?
先月の常識非常識で取り上げたタバコ議論であるが、偶然の一致とは恐ろしいもので、当社新聞が発行された翌日に記事が出た。当社の記事をご愛読の方はお気づきだろうが、やはり金目当ての国民殺人事件は、日本政府によって操作されていた。
ある日の朝日新聞朝刊:
日本、「たばこ条約」に緩い規制を要望 大蔵・業界の抵抗根強く
世界保健機関(WHO)が2003年の採択を目指す「たばこ対策枠組み条約」について、政府は、各国の自主性を重んじる緩やかな内容にするよう求める方針を固めた。条約の必要性は支持するものの、大蔵省やたばこ産業の規制強化への抵抗が根強いことから、規制を「骨抜き」にする主張となりそうだ。10月16日からジュネーブで開かれる第1回政府間交渉会議で表明する。
日本のたばこ対策は世界的にみて大きく遅れており、男性喫煙率は52%(厚生省調べ)と先進国の中で突出して高い。 国内の年間たばこ販売量は約3400億本。税収は国税と地方税を合わせ年間約2兆4000億円に上る。条約への対応を話し合う関係省庁会議では、たばこ税率を上げて規制することについて、大蔵省などに「税率を条約で規制することは国の主権を侵す」との慎重論が強い。たばこ関連産業は警告表示、広告、自販機など新たな規制に反対している。
厚生省は規制強化を狙っているが、政府としては、国内のたばこ対策に手をつけずに済むよう、あまり厳しい規制を課さず、多くの国に受け入れられる条約の策定を求めることにした。すでに取り組んでいる未成年者の喫煙防止や分煙の推進、密輸防止などを重視する考えだ。
******
と、ここまでが記事の全文である。全くの偶然だが、タバコに関する常識非常識を掲載した翌日の朝日新聞にタイムリーな記事が掲載されたものだ。タバコを止めようとする世界の風潮に対して日本がやめないと明言したのだ。すなわち「そんなに禁煙を押しつけないでよ、私の国の勝手でしょ」である。
そして新聞の解説にもあるように、その本音はやはり税金不足だ。税収難に遭って困っている政府にとって税収2兆4千億円は大きい。これは特に最近、法人税の落ち込みが激しく財政不足に陥っている国にとって無視できない大きな収入だ。やっぱり政府の本音が出たかという感じである。
やはり政府にとってタバコとは利益を取り易い商品であり、これで儲かるからタバコに関する世界的なルールを作ろうとする風潮に対して、民間業者(JT)の利益確保と大蔵省の税収確保の為に、日本は独自にやるよ、世界の規制は不要ですと言ってるわけだ。そこには「国民の健康」と言う一番大事な問題は、一顧だにされていない。
また、密輸防止や分煙などは、タバコ規制をしないと言うだけでは子供の理屈以下だとわかっている政府が国民や世間の目をそらさせるために思いついた言い訳の最たるものである。
しかし、前回でも問題にしたとおり、一番大事なのは国民の健康である筈なのに、その問題に全く触れられていないのはなぜだろう。それはやはり政府にとって国民は上得意の客であり、金の卵だからなのだ。
元気な間は日本株式会社の為に朝から晩まで蟻のように働き、その上残業は無料。疲れを取るために夜遅くから酒を飲みタバコを吸って、更に疲れた体でタクシーに乗る。そして週末も会社の為に働き、「企業戦士」と言われる事のみに異常な誇りを持つしかない。家族はもう見向いてもくれないからだ。
そして所得税よりもたくさんのタバコ、酒税を払い、病気になれば自分で積み立てた健康保険で入院費を賄う。死んでしまえばその財産からは遺産相続税を搾りたてる。30年ローンを組んでやっと建てた、箱庭のように小さな一軒家。そんな苦労の結晶からも「税金が払えなければ家を売ってでも金を用意しろ?」とのたくる税務署。サラ金真っ青のアクドサだ。政府に比べれば商工ローンや日栄などは可愛いものである。
話はそれたが、要するに日本のサラリーマンとは、政府に金を落とし続け何の疑問も抱かない、まるで無垢な金の卵であると言う事だ。政府にとって国民とはブロイラーに過ぎないのである。元気な時は金の卵、死んでしまえば相続税。見事なまでの収奪システムを用意して「産めや増やせ」と卵を産ませ続け、遂に国民人口は1億2千万人にまで膨れ上がった。
しかし、前回も同じく指摘したとおり、そのシステムにのっかって生活をしているのも、楽しんでいるのも同じ日本国民なのである。毎日死ぬほど働き、休みもろくに取らず、働く事こそが生きがいと信じきっている人々。彼らは決してマゾヒストではないのだろう。普通に生きていると思ってるのだろう。しかしその実態は、自分の首を絞められて喜んでいるマゾヒストなのだ。
自分の生き方を正しいと思い、政府は個人の生活を守る為に存在していると言うたわごとを信じて、社会に対して何の危機感も持たず、トラブルに巻き込まれて初めて社会が政府の為に存在する事に気づいても、その時はもう遅い。
あなたの肺はタバコで蝕まれ、肝臓は酒でやられ、心は精神的抑圧で潰されているのだ。しかしそれもすべて自分の責任なのだ。
だが、若い皆さんならまだ間に合う。今ならば遅くはない。あなたの命を短くし、他人を殺す殺人機械であるタバコをやめて自分の為に生きてみてはどうだろうか?
日本に戻って政府を太らせる為だけのブロイラー生活をするよりも、もっと自由に生きる事が出来る海外で、本当の人間らしい生活を取り戻してみてはどうだろうか。
タバコから話が飛んだが、タバコの煙を通して世の中が見えてきた。
2001年11月 集団無責任体制
集団責任と個人無責任
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きる資格はない」とは、チャンドラーの小説中の主人公フィリップ・マーロウが語った名言だ。そして現在の法律社会では「強い」とは法律やルールを知る事である。ルールは知らねばならないし、守らねばならない。
知らなかったんだもん!
先日のオリンピックでドーピング問題が発生した。金メダル獲得者が前日飲んだ風邪薬にドーピング剤が入っていたという事実だ。彼女の言い分は、「成分を知らずに飲んでしまったし、問題になっている成分は結果的にドーピング剤ではかった」と言う事らしい。つまり、「知らなかった」で済ませようと言う訳だ。
日本なら「温情で酌量」になるかもしれない。「可哀想」で通るかもしれない。しかし、知らなかったで済んだら警察は不要である。極端な例だが、人を殺しておいて「殺人が犯罪だとは知らなかった」では通らないのと同様だ。
今の世界で「だって知らなかったんだもん!」が通るのは日本くらいのものだ。
自分の不注意で間違った商品を買ってから平気で返品する、
詐欺まがいのセールスに勧誘され、購入した後で文句を言う、
そして海外でトラブルに巻き込まれるとすぐに「だって、聞いてないもん、知らないよ、サインしたけど、意味わかんなかったんだもん!」とサインが本来持つ意味を無視しようとする。
このような自己責任を否定して「知らない」だけで責任回避する姿勢がまかり通っていた現実が、日本が戦後築き上げた独自の集団責任、個人無責任スタイルである。
集団責任
元々日本政府は、敗戦後の日本が経済成長する為に加工貿易国家を作った。そして大量生産体制に合うように、小学生時代から国民を型にはめる「洗脳教育」を行ってきた。つまり誰でも同じ能力を持ち、組織で行動出来る人間を作り出す人間鋳型工場である。
その鋳型工場を日本では学校と呼ぶ。そしてその学校で教える事は、連帯責任・集団責任・修学旅行のグループ行動・協調性等等。こう言った体制を作る事で戦後の企業は奇跡の復活を果たしたのだ。
同時に洗脳にかけられた労働者が個人責任や自主性というものを持たないように、余計な事に気を使わないように、余計な勉強をしなくて済むように「知らなかった」が通る社会を作り上げた。
もし国民が自主性や個人責任を勉強して「知りすぎて」しまえば、日本社会の矛盾に気づき、自由を発見し、その結果政府が苦労して作り上げた洗脳ロボット社会が崩壊するからだ。
だから学校では、自主性はわがままの代名詞、個人責任は集団の和を乱す悪であるという風潮を作った。覚えていませんか、修学旅行の旅館で、友達のトラブルに巻き込まれて自分まで足止めを食らった事。何かあると「みんなと一緒に行動しなさい」と言われた事。
ロボット生産工場である「学校」では、義務教育の美名のもとに、子供を9年間かけてロボットにしてきたのだが、この仕掛け人は政府中枢官僚、実行者は文部省と学校の教師だ。
国際化
それでもそんな自己無責任のツケが回ったケースがある。例えばクレジットカード。これは日本ではつい最近まで1回払いしか出来なかった。諸外国ではリボルビング払い(自由分割払い)が常識なのに、である。これは大蔵省が「リボ払いは使いすぎてカード破産する可能性がある」からだそうだ。
冗談ではない、使いすぎるかどうかは本人の問題であり、使いすぎれば破産するのは当然だ。そんな事は自己責任であり、国が関知する事ではない。ところが日本では前述の理由から「自己責任」を学校で教えてない。リボ払いを導入すると「だって、カードを使いすぎると破産するなんて知らなかったんだもん、私の責任じゃないよー!」と言う事態が起こる事は、国は最初から想定していたのである。
だから本来1回かリボ払いかを利用者が自由選択出来るはずなのに、クレジットカード会社に対して、大蔵省通達によって1回払いしか出来ないようにしたのである。
しかし国際化が進む中、「知らないよー!」では通らない国際常識が日本国内でさえも通用するようになると、国家はその発想を大きく転換して、個人の自由を認めるようになった。
リボ払いもok、である。自己責任を認めるようになったのだ。そうしなければこれからの国際社会に適応出来ない事が認識出来たからだ。
では何故国際社会に適応しなければならないのか?何故今までのままではいけないのか?
それは、このコラムでも何度か触れているが、簡単に言えば今の日本が抱える外国からの莫大な借金のせいなのである。日本のバブル崩壊で、現在は700兆円の赤字が発生したと言われている日本だが、この借金は平たく言えば外国や個人からの借金で賄われているのである。
金を借りているのだから、貸主である外国の言い分も聞かねばならず、その結果として金融や保険等の分野で外国が乗り入れてきて、彼らが次に要求したのが国際社会の常識が通用する国にしろという事なのだから仕方ない。こうなってしまっては彼らの要望を受け入れて自由と個人責任を教え込むしかない。よし、それではいっその事一気に国際化を進めてしまおうと言う事になった。
取り残される人々
だからこれから学校や社会に入る子供たちは、昔より自由が認められるようになるだろう。学校で自由や個人責任を教え込まれ、米国等とは違った形だろうが、自由な世界になっていくだろう。これは基本的に歓迎だし、そうでなければ国家としての将来を見誤り、大変な結果を招いていただろう。
その部分においては日本政府の(いくら後ろ向きに行動したと言っても)努力を評価したい。しかまだ大きな問題が残る。それでは今までロボットとして育てられた人々はどうなるのだろうか?
個人無責任を常識として生きてきた今までの日本人は、これからもその常識で生きていく。しかし、国際常識の中では、これは非常識になる。今まで学んで正しいと思ってきた事が国際化の中でコペルニクス的転回をする訳だ。
ではその人たちはこれからどうやって生きていけばよいのだろう。その人達に対する国家の責任はどうなるのか?国が教えた事を忠実に守ってきた国民は、自分の人生を変更する力を持ってない(そういう力があれば元々ハチ公のような忠犬にはなってない)。しかし政府は何一つとして責任を取ろうとしない。それこそ「自己責任です」と突っぱねるであろう。
なぜか?それは、そのような国民はすでに社会にとって、つまり国家にとって不要だからだ。それでは政府の責任はどうなるのだ、俺たちはどうすればよいのだ?答は簡単、今からは誰にも頼らず自分で勉強をして、自分で生きていけるようになりなさいと言う事だ。
政府の言い分は、非常に分かり易い。ハチ公国民の言い分は、どう贔屓目に見ても勝ち目は、ない。
信じた相手が悪かった、騙された方が悪いのだ。悪い時に悪い場所にいたのも、罰の対象となるのだ。
なぜ?それは例えば親の遺伝子のおかげで自分が近視になったからと裁判で訴えても勝ち目はないだろうし、自己責任を教えてもらえずに育った子供が、私がこうなったのは親が悪い、親が自己責任を教えなかったと言って裁判をしても勝ち目はないのと同じだ。何故なら本人には大人になった時点で学ぶ機会があったのに学ばなかったのだから。
忠実な犬ハチ公
そして今、多くのハチ公国民は自分の常識が外国では通用しないと言う事実を知らないままにニュージーランドでもそのルールを平気で押し通そうとしている。例えば、自分でフラットを決めて手付金を払っておいて、入居寸前に「やっぱり嫌だから返金して頂戴」などというルールは通るはずがない。
相手は君のために部屋を空けて待っていた。ところが当日になって取り消しされても、待っていた時間は帰ってこない。それならば最初から他の人に貸していた筈だ。だから当然取り消し料を請求すると、ハチ公は支払いを拒否する。
泊まってもないのに、なんで払わなきゃいけないのよ!勿論そんなルールが通るわけはないが、本人は何故そのルールが通用しないのか分からない。日本では、今までは「気が変わった」らいつでも変更出来たし、取り消し料がかかるなんて「知らなかったし、聞いてない」と言えばまかり通っていた。
他の例を挙げよう。ニュージーランドに住む日本人ハチ公中高年でも、日本の常識感覚を思い切り引きずってきた人々がいる。何かあると「お客様は神様」と言う日本の常識を持ち出して、あちらこちらのスーパーマーケットのレジ、で自分が英語を出来ない等の責任を棚に上げて、相手の文句ばかり言う。
レジのサービスが遅いとか、金額を誤魔化したとか、態度が悪いとか、とにかく自分に金があるから言いたい事をまくしたてる。そして何を勘違いしているのか、自分が金持ちの国に住む偉い人と思い込み、異常なまで下らぬ事に執着して店員相手に議論し、「なによ、この野菜高いわね!安くしてよ、あたしはいつもいいモノ買ってんだから。安くならないなら買わないわよ!」などと訳のわからん話を吹きかける。
挙句の果てに新聞に投書して、自分の武勇談を語り、「だから日本人はもっと強くならなくちゃ、見てよこの私、スーパーで店員相手に一歩も引かなかったのよ!」と恥をさらす。
自分がどれだけ恥ずかしい事をしているか、何が抗議で、何がごね得なのか全く理解していない。この記事を読む人の中にも恥知らずの中年日本人がいるだろうし、恥知らずの日本人をスーパーマーケットで見かけた人も多くいることだろう。
しかし、彼らもある意味では政府の政策の被害者なのである。いちがいに馬鹿呼ばわりするのはやめて、暖かく見守る事も必要かもしれない。
これからはハチ公中年を代表に、時代に取り残されていく人々が多く発生するだろう。しかし、彼らは誰に対しても文句を言う事は出来ない。今まで学ばなかったのは、それこそ本人の「自己責任」である。
どんな事を言っても時の針は戻らないし、世界の常識をあなた一人で変える事は出来ない。ルールは知らねば負けるし、知らねば罰されると言う世界の現実は決して変わらない。日本国家の忠犬ハチ公は、新しいルールで生きるしかない。帰らぬ主人(助けてくれるはずの国家)を待って野垂れ死にする訳にはいかないのだ。
2005年07月14日
2001年11月 拉致
日本外交。
先日森首相が北朝鮮による日本国民誘拐事件について、「第三国発見」と言う解決策を英国首相に話をした。今問題になっているのは、外交の秘密を公表した事がよいかどうかである。しかし天下の大新聞までも基本的な問題を全く理解しないまま政府主導の議論に誘導されている。
基本的な問題とは、日本国民を拉致誘拐して何十年もしらを切り通している北朝鮮に、自国民を誘拐された日本国政府が誘拐の事実を無視して頭を下げるその外交手段である。
自国の国民が誘拐された事実を無視して、国家の主権も無視して目先の外交と保身に費やすのが日本外交なのであろうか。何の為の政府かと言いたい。国民の安全を守る事が国家の責任ではないか。どんな理由があれ、自国民が誘拐されてそれで黙っている、そんな事が許されるのだろうか。これが米国市民であれば即刻戦争になる。米国では自国の大使館を襲撃したテロリストに対して、国境を越えた反撃を行った。
だが日本政府の現実は、無理が通って道理が引っ込んでいる状況である。他国による自国民の誘拐がまかり通っている。民間人が誘拐した場合は新潟の少女誘拐・監禁のように大きな問題になる。ところが北朝鮮による誘拐は、政府が北朝鮮に頭を下げて「済みませんが、どこか他の国にいたと言う事にしてくれませんか」となる。なぜなのか?
誘拐された方の家族は、政府に対して税金を払っているのだろうか?税金を払い政府を維持すると言うのは、その代償として自分の身の安全を保護してもらう事である。安全な生活が出来る事を保障してもらう権利を保持する事である。
この義務を守るのは政府の仕事であり、彼らに国民を守るかどうかを選択する余地はない。
この場を借りて日本政府に伺いたい。北朝鮮による日本国民誘拐は、新潟の少女誘拐・監禁事件とどう違うのか?国が誘拐した場合は日本国の刑法に触れないのか?そんな政府に対して税金を払う必要があるのか?
2001年12月 取り得
これからは取り柄の時代。今、君はどんな取り柄があるのか?どんな資格を持っているのか?何もないままニュージーランドで1年過ごして、日本に帰って生きていけるのか?
何にも出来ない私
よく晴れてはいるが肌寒い空気のオークランドに到着した彼女は、ヒマワリのような笑顔をまき散らしたような、夢一杯の素敵な女の子だった。「自分探しに来たの!英語?大丈夫よ、今から勉強するんだから、どーにかなるわよ。私?何でも出来るわよ」。
しかし、1ヶ月の英語学校が終わり、仕事を探し始めた彼女の前には大きな現実がのしかかってきた。「君は何が出来るの?」担当者の質問に「何でもやります。」と応える彼女。担当者はまたかと言うような呆れた顔で「そーじゃなくて、何が出来るか聞いてるの。」と返す。
一瞬言葉に詰まりながら「え、な、何でも出来ます...」「じゃ、パソコンは?英語は、具体的に特技はあるの?資格はあるの?」と、次々に突っ込んでくる担当者の英語さえ、最後には聞き取れなくなっていた。彼女は、それまでの笑顔が、顔に凍りついたまま真っ青になっていく自分に気がついていた。
一般職が求められた時代
朝日新聞ウイークエンド経済より引用
40年も前の話になるが、当時の大学受験では願書にレントゲン写真を添付しなければならなかった。自分では全く自覚していなかったが、筆者のレントゲン撮影の結果は「クロ」であった。受験ができないショックは大きかったが、仕方なく近くの病院に入院した。
そのとき担当医になったのは美人の医者だった。彼女はよく雑談の相手をしてくれたものだが、彼女の口癖は「自分は何も取り柄(え)がなかったから仕方なく医者になった」ということだった。口癖が本音であったか、てらいだったかはわからない。しかし、世間を見渡すと「ほかに取り柄がなかったからサラリーマンになった」と言う人は結構多いのではないだろうか。
昔はこれで良かった。しかし、年功序列や終身雇用制度が崩れ始め、マーケットで通用する「プロ」が求められる時代になったいまは事情が違う。何となくサラリーマン生活を送っていては、どの道のプロにもなれないから、リストラにあったとたんに路頭に迷うことになる。
グローバルな商売をやっている会社では、社員が「何も取り柄がないからせめて英語で会議ができるようになろう」という時代になった。
日産自動車では、ルノーの資本が入り、フランス人幹部が増えたため、ほとんどの重要な会議が英語になったという。英語で会議に参加できない人は出世の見込みがないのだとも言う。日産の幹部候補生は死にものぐるいで英語の勉強を始めた。必死になってやろうという気持ちが出てきたのである。
フランス人幹部が使っている社用車の運転手は、待ち時間の間ずっと英語のテープを聴いて、ヒアリングの能力を身につけようと頑張っている。会社からお手当があるわけでもない。上から下まで「せめて英語くらいは」となっているのである。こういう状態になれば会社の雰囲気は大きく変わるし、将来の展望も開けてくる。
考えるまでもなく、グローバルなビジネスを展開している会社では、好き嫌いは別にして、英語で議論ができないのはもともと論外なのである。しかし、言うまでもないが、誰(だれ)でも英語を勉強しなければならないということではない。明確な取り柄のある人(プロ)は、英語は必ずしも必須(ひっす)ではない。将棋の名人や相撲取りが英語が苦手であっても何ら困らない。実力がすべてだからだ。
しかし、国際企業の社員ならせめて英語で会議ができるように日頃(ひごろ)から訓練しておくのは当然だろう。その上に、財務やマーケティングなど、それぞれの分野のプロとしての能力を磨くべきものなのである。「取り柄がないから仕方なくサラリーマンになる」という考え方はだんだん通用しなくなってきたことを私たちはもっと明確に認識する必要がある。日本の若者たちの多くもいまようやくそのことに気づき始めたのではないか。
以上が、全文の転用である。
Able Men
日本は高度成長を続けて、人々は歯車として働き続けた。どんどん大きくなっていく組織では、何でも出来る人間が求められた。その時代、企業の財産は結局人であった。会社の命令とあれば転勤や単身赴任をいとわず、どんな職種でもこなし、今日は総務課、明日は営業、その次は経理と、右肩上がりの企業が新規事業に乗り出し、その為に新規事業を管理できる優秀な経営者を必要とする状況が続いた。
そして終身雇用制度の中で、企業は社員に対して会社の中で学びながら成長していく事を求めた。成長とは脱皮であり、次々と新しい事業に進出する企業に合わせて、社員も脱皮を続けた。つまり、今現場で覚えた知識や仕事をそのままにして、次の仕事を覚えるわけである。当然、数年すれば以前覚えた現場の現状は把握出来なくなる。その為「以前はそんな事もやったなー」と、酒を飲む場では話に出るが、実際に現場に戻ったら役立たずになるわけである。
特にそれが総務や営業だと、将来経営者になる為には必須でも、現場で一生過ごそうとする人間には全く不要な知識である。そんな部門で働いてきた人間を専門家と呼ぶ事は出来ない。なぜなら、専門家とは少なくとも専門の学校を出て正式な知識を身に付け、就職の時に肩書きとして使えるものでなければならないからだ。
専門職が求められる時代
では、なぜ専門家が必要か?それは簡単に言えば企業が企業内教育をやめたからである。もう会社では仕事は教えません。自分で技術のある人だけ来て下さい。技術がなければ、学んでから来て下さいということだ。
インターネットが発達して、終身雇用制度を廃止し、リストラを進め、給料が高い不要な人材は切る。古い人間の知識はコンピューターに移し変えられ、古い人間は不要になった。新しい人間に、時間をかけ古い知識を教える必要はないし、そんな事をして折角教えた社員が、知識を覚えた瞬間に転職したら、企業としては全くの大損である。
だから企業は教育をしない。その代わり優秀な人材であれば中途でも採用する。極端に言えば、採用は随時行い、4月の新卒のみを採用すると言う事がなくなるのである。
つまり、日本におけるいわゆる「エリート」の定義が急速に変わってきたのである。エリートの「中身」が多様化してきたと言った方がよいかもしれない。
つい最近まで、日本社会におけるエリートコースは、幼少のころから「お受験」をし、一流の大学を出て、一流大企業に就職することだった。このコースに乗ることが世の中の大部分の母親の夢であり、若者にとってのゴールだった。組織への入り口はきわめて狭いが、いったん入ってしまえば、後は終身雇用が約束され、年功で地位も上がっていくから老後に至るまで生活が保障されることになる。
しかし、終身雇用が揺らぎ、いまではこういった従来型のエリートコースは自明のものではなくなった。多くの若者は従来型のエリートコースに希望を持っているとはいえない。むしろ、能力のある若者、意欲のある若者ほど、もっとおもしろい人生があるのでないかと真剣に考え始めている。
外資系の会社の方が自分の能力を生かせるのではないかとか、できれば自分でインターネットのベンチャービジネスを始めてみたいとか、MBAの資格を取ってコンサルティング会社で腕を磨きたいといった考え方が学生などの間ではむしろ一般的になってきた。
エリート像の変化は、「組織依存型の人生」から「自己責任型の人生」への変化だと言ってよいだろう。IT革命やグローバル化の波を受けて、企業の新たなビジネスモデルを作り上げるというきわめてクリエーティブな仕事の多くが、個人の発想力や構想力に依存するようになってきたという事情が変化を作り出す背景にある。
そうなると、時代遅れのビジネスモデルで何百人の人がこつこつと仕事をこなすことによって生み出される利益よりも、たった一人の才能ある個人が提案する新しいビジネスモデルの方が付加価値としてははるかに大きいということもしばしば起こりうるだろう。
最近欧米の経営者と話をすると、しばしば "War for the Talent"(人材獲得戦争)と言う言葉が飛び出してくる。このような言葉が日常的になっているのは、イノベーティブな人材を獲得できる企業だけが勝ち組企業として生き残れるという危機感が彼らには非常に強いためである。
このような労働市場の変化は、一流大企業に入りさえすれば組織の庇護(ひご)で安楽な一生を送れるというこれまでのエリートコースが崩壊したことを意味する。日本社会はようやく「自分の人生を支えてくれるのは大企業という名の組織ではなく、自分自身のスキル以外にはない」という考え方が通用する「正常な」時代を迎えたのである。
サラリーマンが、通勤電車の中できわどい漫画本を読みふけっていても、会社では立派にやっていけるという日本独特の光景が消える日もそう遠くはないのではないだろうか。
そんな時代に取り残されないようにするには、自分の専門知識を武器として、企業と対等に戦うしかないのである。企業が人を育てる時代は終わり、企業と社員が本当の意味で対等になる時代が来たのだ。
取り柄とは
英語が出来ずに苦労している日本人ワーホリを時々見かける。これは辛い言い方だが、あえてその人たちに聞きたい。今まで何をやってたの?学校でも学ぶチャンスはあった。社会人時代でも夜や休日に学ぶチャンスはあったはずだ。
忙しくてとか、難しくては、結局言い訳にしか過ぎない。彼らは現実を目の前にして、自分の考えの甘さに気づく。自分の能力欠如に気づく。何も出来ない。プライドだけで生きている。しかし、そんな自分に気づいて泣いてみても、誰も助ける事は出来ない。時間があったのに何もしなかった、そんなあなたに神様が当然のように与えた罰なのだから。
若者よ、自分の目の見えるままに歩め。自分の思うままに生きよ。しかしそのすべての終わりに、神はあなたに相応しい場所を用意している。
おそらく、おそらくだが、今ニュージーランドに来て生活している、これが最後のチャンスだろう、一般職が専門職として生まれ変わり、英語を覚えて仕事を覚えて日本に戻るための。
そんな最後のチャンスの1年を、君はどう生きていくのだろう。取り柄を身につけて帰るか、それともまた言い訳を見つけてこの国でも遊んで、もう一度、日本で現実を見せ付けられて泣くか。しかし、今度の涙には後はない。それからの一生を敗残者として社会にしがみついて、後悔の人生を送るしかないのだ。