2003年 移民昔物語
2005年07月21日
2003年2月 故郷と国家
棄民 国家を選ぶ民たち。
故郷と国家の違いって何だろう?日本人が海外で生活するって、どういうことなんだろう?
棄民
今日の日本が直面する大きな課題の一つに「移民」がある。貧しさを解消する為に日本へやってくる外国からの労働移民と、経済的に収入が低下してでも自分に合った生活のために出て行く日本人移民。少子化問題を抱えながら、政府や国家としての魅力が失われて、日本人から見捨てられていく国。
明治以降の日本移民で、経済的な減収があっても海外に住みたいと思う集団現象が発生したのは、今回が初めてである。その直接的原因はバブル以降の日本の制度疲労と社会構造の変革であるが、更にその背景には、集団思考の人種であった日本人の中に、「新日本人」が育ってきた事が大きい。
新日本人は、周囲の期待をも大事にしながら、それでも自分の気持ちを優先出来、生き生きとした個人思考が出来る人々である。政府や国家の決まりに縛られず、本当の人間らしい生活は、時にはお金よりも大事であると、人々が気づき始めた証拠と言える。
自分が生きる場所は自分で決める。国家に与えられた仕事をするのではなく、自分がやりたい仕事をする。働く場所がなければ国を変えればよい。これが21世紀の国家のあり方だろう。移民と貿易を完全に自由化した瞬間、国家は株式会社に変わり、採用と教育と労働条件の良い所に優秀な民は流れはじめる。
東洋の真珠、香港にて
皆さんがよく香港人という言葉を使うが、正確には香港人という民族は存在しない。また、香港に住む人の多くは、最近100年内に中国の各地方から戦乱を逃れてきた難民や仕事を求めて集まってきた移民達である。国内移動で「難民・移民」と言うと疑問を持つかもしれないが、彼らは話す言葉も書く文字も違うのだから、実態として移民といえるだろう。
見も知らぬ土地と言葉の世界に、何の知識もなく飛び込むのだ。そのような「よそ者」たちばかりが集まった土地で彼らの子供が生まれ、英国統治の中で中国全土の文化を足し引きしながら成立したのが現在の香港文化と香港人である。同じ小学校を出て同じ校区に通っている子供達も、それぞれに違った故郷を持っているのだ。
公屋
彼らの多くが住む住宅は公屋と呼ばれ、大きなアパートから物干し棒が真っ直ぐに突き出ている景色は、観光で香港を訪れた人も見た事があるだろう。特にダイヤモンドヒルと呼ばれる地区には、つい最近までバラック建ての小屋が密集して、そこにも1万人以上の人々が生活をしていた。
最近はかなり改善されたというものの、部屋はあいも変わらず狭い。ねずみ小屋と呼ばれる日本の小さなアパートと比較しても、信じられないくらいの狭さである。5人家族が日本の1DKに住む状態を想像して欲しい。家族で食事をしたテーブルを片付け、テレビを見ている居間が、夜はそのままマットを敷いた寝床になる。
そんなスラム街で生まれ育った子供達は、難民である彼らの親から国家の怖さを教えられながら大きくなり、アメリカのテレビを見ながら「あんな大きな家に、いつか住んでやる」と、小さい頃から心に決めていた。
1980年代から既に60万人以上の香港人が海外移民をした。人口の約10%である。英国が香港を中国に返還する事を決めた年から、人々が音を立てて移民をはじめた。彼らの殆どは大企業の優秀なマネジャークラスので、通常3ヶ国語を話す。4ヶ国語を話す人も珍しくない。
そして彼らの一番の特徴は、世界中どこに行っても怖くないという点である。彼らがたった一つ怖がるのは、中国共産党のみである。その中国共産党がやってくる・・・彼らの選択は「逃げる」しかない。
元々共産党の迫害や戦乱を逃れてきた人だから、中国の政治の怖さは知り尽くしている。今日言う事と明日言う事が違うなど日常茶飯事、約束は、力のある者が決める一方的なルールであり、弱いものは約束を破られてもただ笑って見過ごすしかない時代から逃げてきた人々が、また中国から逃げるのである。
世界が庭
中国で生まれ育ち、そして逃げてきた人々からすれば、言葉の通じる西洋諸国への移民などは、日本人が東京から大阪に行くようなものだし、移民先がどんなに大変と言っても、殺される事も約束を破られる事もないのをよく知っている。従って、どの国に行こうとも彼らに捨てるものはないのである。
移民先で殺されない安心、これがどれだけ素晴らしい事か、今の日本人移民に理解出来るだろうか?
「あら、今はアメリカに住んでるの、あ、そ〜、で、パスポートはカナダ?そうそう、子供は今度オークランドの学校に通うのよね?お正月は中国に里帰りするの?」などという会話が、まるで近所の引越しや子供の通学並に平気で成立する中国人移民に、海外に住む恐怖など、全くない。
ホーウィックで生活をする65歳になるおばあさんは、全く英語が出来ない。でも楽しそうに毎日散歩している。「外国生活の心配?何を心配するの?食べるもの?言葉?住むところ?仕事?何言ってるの、中国大陸から逃げてくる時はもっと悲惨な思いをしたんだから、あれ以上ひどいところはないでしょう。見てよ、香港の家に比べれば、同じ値段で10倍の広さの家を買えるわよ。」
平和な環境に慣れた日本人には、これだけ守られた、安定した環境でさえ不安を感じる贅沢が出来る。贅沢だという事さえ分かってない。
2003年3月 漁船に乗ってきた移民たち
漁船に乗ってきた移民たち
1900年代初頭に、日露戦争で賑わう日本を背にして多くの漁民が北米大陸に渡ってきた。彼らの多くは太平洋側に住み着き、乾ききった土地を耕し、山地を開墾し、持ち前の一生懸命さと勤勉さで現地社会の発展に尽くした。
特にバンクーバー、ロサンゼルス等では当時から日系新聞も存在するほど多くの日本人が住み、白人からの差別を受けながらでも「郷に入らずんば郷に従え」と、積極的に外国人社会に溶け込んでいった。
そして荒れた畑を耕し野菜を作り、子供には片言でも英語で話しかけ、日の出前から日沈後までも働く日本人の働き振りと正直さは、ストレートを好む米国人社会にいつの日か溶け込んでいった。
その中でも米国に移住したフレッド和田は、戦前は日本人社会をまとめながら野菜店チェーンを広げ米国人や日本移民の間で信用を得て、戦時中は収容所に入れられながらも、戦後再度ビジネスに活躍し、戦後間もないロサンゼルスで開かれた水泳選手権で、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古川広之進をサポートした人としても有名である。
カナダに移民した人たちも、その悩みは、毎日いかに生活をしていくか、何を食べるかという事に集中しており、将来の事など考える余裕は到底無かった。「日本人同士の団結と地域への融和」という二つのテーマを持ちながら生活してきた彼らは、気づいた時には既に二世、三世の時代になっており、子供達は近くの道端で地元の子供たちとベースボールをする、完璧なカナダ人になっていた。
今バンクーバーで働く60歳台の日本人寿司シェフは、カナダ生まれのカナダ育ちだ。当然ネイティブの英語を操る。アルバータ州の郊外の農場で、アルコールランプしかない掘っ立て小屋に生まれた彼は、貧しくとも一生懸命働く両親の手伝いをしながら夜学を終え、バンクーバーに出てきて仕事を見つけ、最近やっと生活が安定してきた。日本語は、ご両親の方言だけを聞いて育った為に、どこか違和感を感じる。
彼のような人たちは今、カナディアンである自分のルーツを探している。二世や三世は親から日本の事を殆ど何も教えてもらっておらず、また教えてもらう余裕も無いまま生きてきた。自分の祖先がどこから来たのかも分からない。
徒手空拳でやってきた移民の生活に余裕が出てくるのは、通常二代目くらいからだ。20世紀も終わり頃になって、日系移民は初めて自分の過去に興味を持ち始めたのだ。移民が始まって約100年かけて、過去を振り返る時間が出来たのだ。
今カナダのテレビでも女優として活躍している日系三世の方は、おばあさんの言葉だけを頼りに日本で過去を探し、最近ついに家族を探し当てた。
永住=移住とは親だけの問題ではなく、その後生まれてくるすべての世代に影響する問題である。「郷に入らずんば」で溶け込む事は日本人の得意技だが、その子供達が将来根無し草になると感じた事はあるだろうか?英語を覚え、海外生活を覚えても、その根っこのところがどこかに定着していないと、子供は言葉にならない不安を感じるものだ。そしていつの日か、心の安定を求めてルーツを探しに旅に出る。
いずれは溶けるアイスクリームのような民族性。アイデンティティを守るという中国的発想はそこにはなく、子供に英語のみを教える日本人文化。今、バンクーバーの日系三世の多くは日本語を話せない。
カナダ移民は、アイデンティティとは何か等を考える暇もなくカナダに溶け込んだ。彼らは祖先が日本出身というだけで、今は完全にカナディアンである。我々がここから学ぶべきは「歴史」だろう。
今、ニュージーランドの移民は多くが一世である。そして昔の移民に比べれば生活の余裕もある。移民は決して流行ではなく、生活の一大決心であるし、その影響は親だけではなく、子供に大きく現れる。日本語を教えずに日本文化を教えずに育てるのも一つの選択だろう。
しかし、子供の選択の可能性を出来るだけ多くして、子供の心に将来生まれるであろう「私は誰?」という質問にいつでも答えられるような環境作りも、親にとっては大事な問題ではないだろうか。よく「日本人と付き合うと〜」等と聞くが、その場限りの格好良さよりも子供の将来を考えた生活設計を考えるべきではないだろうか。
アイデンティティは、時には母国の為に祖国と戦う事を要求する。
2003年4月 ニューヨーク 人種の坩堝で
ニューヨーク 人種の坩堝にて
二世部隊物語
日系二世のみで編成された442部隊。第二次世界大戦で米国兵としてヨーロッパ戦線で戦った日系二世兵士は約16,000人いる。個人勲章1万8千143個、戦死傷率31.4%
一人最低一回は勲章を貰い、最初に配置された兵は勿論、交替の兵も合わせて、ほぼ全員が何度も傷を負い、そして多くの兵が戦死したが、脱走兵が唯一人としていなかった事でもよく知られている。
戦死傷率、個人勲章授与数は米国史上最も多く、時の大統領が「彼らこそ本当のアメリカ人だ、肌の色の問題は関係ない」と感激した事でも知られている。勿論これは米国内の事であり、殆どの日本人が知らない事実である。
少し長くなるが、逸話がある。戦争中、フランス戦線で敵の包囲に遭ったテキサス部隊211名を救助する為、442部隊は休暇を取る間もなくドイツ軍によって包囲された大隊の救出を命じられた。
テキサスからやってきたこの大隊は敵陣地に深入りしすぎたのだ。二世部隊は多大なる犠牲を払い作戦に成功する。それで師団長はじきじきにねぎらいとお褒めの言葉をかけようと、連隊長に命令した。一件も外出許可を出すな。全員足止めさせておけ。激戦の後でうっぷんを晴らしたいのはやまやまだろうが、と。
当日、各中隊の点呼結果が報告された。E中隊がその日連隊最大の中隊だった。整列した隊員42名。中隊の定員は197名だった。I中隊はわずか十数名しか残っておらず、たった一人の二等軍曹が指揮を執っていた。
将軍は連隊長を叱り、こうたしなめた。
「連隊全員を集めろと言ったはずだぞ。外出許可を出したようだな」
連隊長は答えた。
「連隊全員であります。残りは負傷、もしくは戦死しました」。
戦闘参加者800名。戦死187名、プレイベートライアンを思わず思い浮かべるが、第二次世界大戦中に日本人が命を賭けて、命を捨ててまでアメリカ人を救ったのだ。
ニューヨークに行くと、第二次世界大戦中に収容所に入れられた日系移民の話をよく聞く。アメリカに渡りアメリカ人として生活をし、差別にもめげずにアメリカを祖国として愛した移民。にも関わらず、祖国が起こした戦争の為に、たった一晩で敵性国民になったのだ。
「移民許可証を持ってても、あいつはジャップだ。見ろ、あいつの肌の色を!」二世は武器を取った。母国と、収容所で飢えている、愛する家族の為に。
二世部隊は、命を賭けて家族を守り、家族は命を賭けてアメリカ人になった。その中の一人に、部隊に参加し負傷し、パープルハートを授与された米国上院議員ダニエル井上氏(ハワイ選出)もいる。彼は移民社会の中で国家的地位を勝ち取った。
彼らにとっての日本は勿論祖国だ。しかし、その祖国日本が母国アメリカに戦争を仕掛けたら、あなたはどちらの立場を取るだろう?二つの国を持つ人の、生まれ持った葛藤がそこにある。
また、あなたの子供はどちらの立場を取るだろう?もし子供に、「何で日本人なんかに生んだんだよ!」と言われれば、どう答えるだろう。
歴史に「もし」はなく、そのような決定的な瞬間に出会わないまま移民として生きていく事の方が多いだろう。起こりもしない事に悩む必要はないだろう。でも、もし「決定的な歴史の転回点」に立たされたら?そして実際に、多くの日系移民が選択を迫られた。
由紀
12月、人種の坩堝のマンハッタンは厳冬である。マイナス11度、道路に粉吹雪が舞う中、ゆきは風邪気味の体をコートとマフラーで包みながら、毎朝早くからダンス教室に通う。「早い時間の方がね、昨日ブロードウェイに出てた人とかが来てるんで、すごく勉強になるんです」
26歳、ニューヨーク在住3年目を迎える。元々日本ではプロダンサーで、生活も安定していた。でも、ブロードウェイの踊りを見る度に、子供の頃からモダンバレーを学んだ体が自然に踊りだすのを感じた。「今しかない」そう思った彼女は、親の支援もないままに、手元のお金をかき集めてニューヨークに渡った。
レストランのウェイトレスや皿洗い等、様々なアルバイトをしながらも明るく答える彼女。「ニューヨークのレストランで、あたし達みたいな学生がいなくなったら、半分がとこ潰れるんじゃあないですか、やる事多すぎだけど、今は最高に幸せですよ!」
多くの若者が夢を求めてやってくる街。中途半端に妥協せず、最高のものをここで手に入れる。「出来ない」とは絶対思わない。絶対出来る!そんな気持ちがなければ最初から来ていない。テロに遭遇したら「ちょっと不運だね」と笑って言えるくらい、毎日が充実している。
「私の夢はブロードウェイに立つ事。オーディションも何度も受けたけど、まだまだうまい人が多過ぎて、私まで順番が来ませんよ、でもね、ここで踊りを見てるだけで目が肥えます。日本の歌番組ビデオでバックで踊る知り合いとかを見てると、おっくれてるな!と感じますね。まだまだ人生は長い、もっと勉強しますよ!」
二世部隊には母国と家族を守るという目標があり、泥だらけの戦場で命がけで追いかけた。ゆきにはダンスという目標があり、粉雪の降る中で夢を追いかけている。一方は究極の選択であり、片方は飽食の時代の選択だが、お互いに目標は明確だ。
その国の国民になる事が目的の人もいれば、その国で学ぶ事が目的の人もいる。どちらも、目標があり、自分で選択した。ある意味、誰よりも幸せではないだろうか。なぜなら、目標に向って努力しているから。
ニューヨークは人種の坩堝だ。アメリカ人が日本人にビールを売り、日本人はメキシコ人にテレビを売る。中国人は道端で新聞やピーナッツを観光客に売り、韓国人はデリ(コンビニの一種)で黒人にコーラを売っている。
この街で生き抜こうとする人に肌の色の違いは関係ない。あるのは、目標を持って強く行きぬく人種と、競争に敗れて道端に座り込んでいる人種だけだ。
勝者と敗者の差は大きい。目標を持たない事の怖さを感じさせる街だった。
2003年5月 尾瀬は、時々訪れるから素晴らしいのだ。
尾瀬には素晴らしい自然が残されている。
山歩きが大好きな東京在住のビジネスマン一家が、ゴールデンウィークを利用して尾瀬を訪れた。久々に都会の喧騒を逃れたビジネスマンは、そこで尾瀬の管理をする若者に、うらやましそうにこう言った。
「こんな素晴らしい自然に毎日触れられて、本当にあなたは幸せでですね」
すると、腰を曲げて観光客が道路に捨てたごみを片付けながら若者が答えた。
「ほう、じゃああなた、コンビニも映画館もないこの村に住んで見ますか?たまに来るからいいんでしょ。平日は都会で便利な生活を送ってて、自分の都合のよい週末だけ、自然を見に来るんですよね、あなた達は」
このビジネスマン一家からすれば、たまの休みに「都会の喧騒を逃れて」自然に触れたという単純な喜びであるが、選択の自由がないまま子供の頃から田舎に住んでいる人からすれば、東京の便利さを片方で享受しながら、去り際にごみを捨てて都会の便利な生活に戻る都会人の、実に自分勝手な「プチ自然愛好家」のせりふにしか聞こえないのだ。
「本気でうらやましいと思うなら、いつでも代わってやるよ」それが若者の、正直な気持ちだ。
ニュージーランドでは毎年約5万人が海外に流出している。ほぼギズボーンの人口に匹敵する人々が毎年NZを離れて海外生活をするのだ。特に、やる気のある元気の良い人々、手に職を持った優秀な人材が流出している。
ニュージーランドでもオークランドの人口は毎年確実に増え続け、現在は120万人を越えているが、その多くは田舎から出てきた若者である。
そして今海外の都会であるシドニーに住むキーウィは、約30万人いる事をご存知だろうか。シドニーに住む人の実に一割がキーウィなのだ。
この事実が何を示すか?
実は田舎に住む若者は、都会に、それも出来るだけ大きな都会に住んでみたいのだ。仕事の選択の幅があり、夜中でも買い物が出来て、素敵なバーやクラブがあり、エレベーターのある生活をしたいのだ。頑張ったらお金がたくさん貰えて、高級マンションに住んで見たいのだ。お洒落なレストランや気の利いた映画館もないような村で、父親の牧場を引き継ぐだけの生活は嫌なのだ。
金曜日の夜、シティに出ると、そこには改造車に乗った若者達が、朝まで騒ぐのを見ることが出来る。平日にエネルギーが滞留している田舎の若者にとっては、週末に200キロ走ってでもオークランドに来るのが、唯一の楽しみなのである。
田舎に住む自由。それは都会の生活を経験したから言えることであり、田舎に生まれ育った人たちからすれば、何故そのような素晴らしい生活を捨てて田舎に来るのか、なんとも理解不能なわがままにしか聞こえないのだ。
ニュージーランドへの移民が最近の人気だが、ともすれば「住む事」自体が目標になっているのではないだろうか。隣の芝生の良いところばかりに目が行き、「NZは最高だ、日本より良い国だ、住んで見れば何か良い事が待っている」と思い込んでいるだけなのではないだろうか?
現実はしかし、そう甘くはない。住み始めれば、田舎ならではの嫌な面も沢山出てくる。人付き合いも最低必要だし、アマチュアリズムで正確な仕事をしてくれない人々と一緒に働く事もあるだろう。家を買えば、現地の法律問題にも関わってくる必要がある。「プチ移民」程度の気持ちでは、到底現実の問題は乗り越えられない。
都会にないものを求めて田舎に行くという事は、都会の便利さをいくらかでも犠牲にせねばならないと言う現実にしっかり目を向けているだろうか?そして都会の便利さを犠牲にしても良いだけのものが、本当にニュージーランドにあるのだろうか?
そして忘れて欲しくないのが、子供である。お父さんとお母さんは都会の生活を十分楽しんだ上で田舎を選んだ。しかし田舎で生まれた子供は、選択の余地がないまま田舎で生活をするのだ。いつか彼らは言うだろう。「おとうさん、僕東京に行ってみたい。東京って凄い都会なんでしょ!」
尾瀬は、時々訪れるから素晴らしいのだ。
青い鳥を探しに日本を離れる事が本当にあなたの幸せだろうか?日本を離れ米国に移り住み、肌が合わずにニュージーランドに来てもやはりしっくりせず、そしてオーストラリアに行って見てトライするのも、一つの人生かもしれない。しかし思い出して見よう、隣の芝生は青く見えるという諺を。
勿論移民を否定するわけではない。むしろ積極的に勧めたい。しかし、実はいつの時代も青い鳥はあなたの心の中に住んでいるのだという事は、移民の最低の心構えとして理解して欲しい。そしてあなたの青い鳥が他の人、特に家族にも青いとは限らない事も。
2003年6月 真珠移民
真珠移民
木曜島
「血玉が出たぞ!腹を押さえろ!胸まで行っちゃあ、こいつは死ぬぞ!」
「刺せ、羽根を喉から突っ込むんだ、血玉を割るんだ!」
「駄目だ、めんたまが飛び出した、おい、絹のハンケチ、すぐ持ってこい、めんたまを押し戻すんだ!」
「サメだ!サメが来たぞ、引け、すぐ引き上げろ!あいつが食われちまうぞ!」
抜けるように青いオーストラリアの空の下では、毎日のように人と自然の死闘が繰り広げられていた。
木曜島。日本人のほぼ誰もが知らない小島。そしてそこには日本の、忘れられた移民の歴史がある。700名の墓碑と共に。
木曜島は、オーストラリア北東部、ヨーク岬の突端から35キロほど離れた場所にある。日本から行くには直行便でケアンズに入り、そこから33人乗りの小さなプロペラ機に乗り換えることになる。2時間ほどで木曜島の隣にあるホ−ン島に到着。ここからさらに船でおよそ15分。小さな丘を4つつなげたような島である。
この島は1800年代後半から、高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝など高級真珠貝の産地として世界に名をはせた。「真珠貝は儲かる」その噂を聞いた貧しい農家の若者は、一攫千金を夢見て、船賃を前借して移民業者の手配でこの島にやってきた。そして経験した事もないダイビングを行い、次々と真珠貝を採っていった。
当時(昭和前期)農村で働いたとして、1年の賃金が15円から20円程度。ところが移民の場合、3年間でおおよそ350円稼げたという。若い日本人が命を懸けてまで潜る理由は、金だった。1910年代にはダイバー160名のうち150名が日本人で占められていたという。島全体の人口のうち、実に約3割が日本人だった時代もある。
真珠貝のダイビングは、普通なら1日5回も潜れば疲労で動けなくなる重労働だが、日本人はその数倍、多い時は50回以上も潜りつづけてカネを作り続けた。ふるさとの親兄弟に送金する為に、言葉の通じない海外で朝から晩まで潜りつづけた。しかし同時に、それは命を賭けた移民でもあった。なぜか?
「関節に痛みが走ったら、潜水病の兆候だ。そんな時は再度重い銅製ヘルメットをかぶって海中に入り、船上のポンプから送られる空気を吸い、七、八メートルの深さのところに二、三時間待機する。夜だと冷たさで感覚がなくなってくる。見えるのは吐き出すアワと、時折光る夜光虫だけ。脳裏には家族と故郷のことが浮かんだ」。一九六〇年代まで木曜島で真珠貝採取をしていた平川京三さん(65)は回想する。(読売新聞より引用)
潜水病にかかると、腹から胸にかけて血の玉が上がってくる。実際には血液中の窒素なのだが、減圧に関する知識もなく、理由も分からぬまま上がってくる塊を、大の男が数人かけて押し戻す。
うまく腹に戻ればよいが、胸までいってしまうと、その場で血を吐いて死ぬのである。とんびの羽を喉から突っ込み、塊を突き刺す事もあった。そうすれば窒素は抜けてくれたのだ。絹のハンカチはいつも船に置かれていた。飛び出した目の玉を押し込むのに汚れた手で触ってはいけないからだ。ゆっくりもむように押し込んだそうだ。
減圧に関する知識もなく潜っていた彼らは、経験と勘だけで潜水病と闘った。もちろん、敵は潜水病だけではない。海上に戻る途中に食事のおかずにと思って捉まえた貝の肉を狙って、サメが襲ってくるのだ。明治から大正時代にかけて、オーストラリアの青空の下で、700名の若者が命を落とした。
歴史を振り返ってみよう。1878年(明治11年)、英国商船水夫として横浜を出帆した島根県広瀬町出身、野波小次郎はシドニーで下船し、木曜島に来て真珠貝採取船のポンプ係りとなる。やがてダイバーとして頭角を現し、ジャパニーズ・ノナとして知られる。彼の活躍を見た英国人ジョン・ミラーは、英国領事館を通して日本政府と交渉し、最初の正規契約労働者として、横浜の潜水業者、増田万吉配下の千葉県人鈴木与助以下37名を木曜島に呼び寄せる。これが真珠移民の始まりだ。
しかし、1940年代にプラスチックが発明され、真珠貝の需要は急激に落ち込む。それでも細々と真珠採りは行われていたが、1970年代初頭には、木曜島の真珠採取が完全に壊滅した。トレス海峡でオイルタンカーが座礁し、58000トンものオイルが流出してしまったのだ。海は汚染され、以後、木曜島の主力産業は真珠ではなくイセエビ漁に変わった。
移民の子孫である春美さんは、20年ほど前に一度日本に戻っている。 「日本はいいね。いいと思った。でも、私は店があるから。戻れないよね。ただ、交換留学生で日本に行った孫は『日本は凄い凄いって』。いつか日本の仕事に就きたいって、一生懸命、日本語とか勉強してるよ」
日本人はどれくらいいるんでしょうか?
「今はいないねぇ。日本人はもうほとんど居ないしね。あそことここと……もう数家族しかいないでしょ」
今、木曜島に、真珠時代の栄華のかけらはひとつもない。大した産業もないわびしい南の島の一つ。そんな島で朝から晩まで懸命に頑張り続けるごく少ない日系人たち。(インタビューの章、探検ドットコムより引用)
地図で探すのも難しいこの小島で、700名の日本人移民の若者が命を落とした。殆どの日本人に忘れられた、明治から昭和にかけてのオーストラリア移民。これも移民の歴史である。
国家から地球へ 「廃国置球」 みゆきはニュージーランドで生まれた。
ニュージーランドから
みゆきは12歳。香港人の母親と日本人の父親を持ち、南島のクイーンズタウンで生まれ、現在の国籍はニュージーランドである。今は中国語の勉強の為に母親と一緒に香港に住んでいる。
彼女は自分の事をアジア人と呼ぶ。広東語では「亜州人」と書く。両親が教えたわけではなく、本人がいつのまにか、自然に学校で同級生に説明していたのだ。国籍や国境という概念を持たない彼女にとっては、日本人でもなく中国人でもなくニュージーランド人でもなく、アジア人である事が一番自然なようだ。
「ね、みゆきちゃん、日本語でみゆき{幸雪}ってどんな意味?」
「幸せな雪。冬に生まれたからね」
「12月?」
「ううん、7月。だってNZの冬に生まれたんだもん」
彼女が通う香港の中学校での会話である。雪を見たことがない同級生は不思議そうに「7月に雪が降るの?雪ってどんなの?」と聞いてくる。そして最後に出る質問がいつも同じ。
「みゆきちゃん、何人?」
「アジア人だよ。」
淡々と答える彼女の顔には、何の抵抗もてらいもない。
自意識の中では日本人でもない、中国人でもない、ましてやニュージーランド人でもない彼女は、ニュージーランドに生まれ、1歳の年に香港へ移住した。7歳でNZに戻ってオークランドの小学校に転校し、10歳の年にまた香港へ。勝手な親だなと思ったかもしれない。
たまに旧正月を利用して家族旅行で日本に行くと、箱根の露天温泉で5歳年下の弟と二人、夜空から落ちてくる雪を珍しそうに眺めていた。
浅草の商店街を歩きながら、英語で書かれたでんでん太鼓やキモノを見て「お父さん、日本っていろんなものがあるね〜」と、本当に楽しそうに笑っていた。
みゆきの通う香港の学校では、広東語で授業を受ける。英語の授業には苦労しないが、国語=中国語の勉強は大変そうだ。今でも何かあるととっさに出てくるのは英語だ。
父親と話すときは、片言ながら日本語を使う。聞き取りには問題ないが、話すのは苦手だ。だから「お父さん、おまえは今日どこ行くの?」となる。アニメで憶えた日本語だ。
父親に新しいデジモンのCDをおねだりする時は、面倒な電話はせずに、英語でeメイルを送るのが彼女の得意な手段である。女はいつの時代も、生き残るすべを知っている。母親や友達とは、勿論広東語で話す。
みゆきについて両親が一番考えたのは、子供のアイデンティティをどこに置くか、という問題であった。
私は誰?と悩むような根無し草にはしたくない。バナナにもしたくない。(バナナとは、外側が黄色で中身が白い、つまり西洋圏文化のみを理解するアジア人という意味である)どこかの地域にアイデンティティを持ってもらいたい。その結果選んだのが香港=中国である。
日本でも良かったのだろうが、父親の仕事の都合で日本に定住出来ない、また香港漢字を学べば日本漢字にすぐ馴染める、そういう事情もあり、母親が子供二人を連れて香港に戻ったのだ。
香港で彼女が使う広東語には、やはり不自然さがある。おそらく英語にしても、生粋のキーウィが使う英語とはどこか違うのだろう。日本語にいたっては、駅員さんとの会話が精一杯である。
「全くひどい両親だ、親の都合であっちこっち連れまわして、どこの言葉も満足に覚えられない。一体何を考えているんだろう?」とも思っただろう。そこで彼女は行く先々で自分の身を自分で守るすべを身に付けた。それは、国を国として考えないという事である。
「言語」を方言程度に考えておけば、少々変な方言でもいいだろう。元来博多弁の人が東京弁を話すようなものだ。「文化」については、自分さえしっかり持っていれば、どこの国でも自分の家のように過ごす事が出来ると言う「強さ」を身に付けた。
廃藩置県という言葉がある。藩というものが国家レベルの権力を持っていた江戸時代には住んでいる藩の事を「私の国では」という言い方が存在した。例えば鹿児島で生まれた人は、「私の国は薩摩です」と言っていた。
しかし中央集権国家(法律の統一化)になりインターネットが発達し(情報伝達の迅速化)、飛行機が日本の空を縦横無尽に赤字を垂れ流しながら飛び回るようになった現代(移動速度の迅速化)、日本で「私の国」は死語になりつつある。
ならばいっその事「廃国置球」、国家を地域、地球を国家と置き換えてみたらどうだろう。すべての人々の移動の自由。実は1700年代にそんな事を考えた。ジャン・ジャック・ルソー。彼の書いた「社会契約論」は、その後のフランス革命の理論的基盤となった。
彼の教えをかなり簡単にざっくり説明すると下記のようになる。
「人は、生まれた社会に縛られる奴隷ではなく、社会に自発的に参加する人民である。その社会に不満があれば、社会を自分の住みやすいように変える(政治家となって世論を導く)か、自分の好きな、他の社会を選ぶ(移民)べきである。国家は、その魅力をもって国民を自国に留める努力をすべきであって、暴力と恐怖によって留めるものではない」
この理論、現実世界では当然のように見えて実行されてない。今もアジアのある国では恐怖と無知によって国民を移動させないようにしている。「嘘でしょう?」そうだろうか?例えば「親の面倒は子供が見る」という儒教的ルールを社会の仕組みに持ち込むことで、どれだけ多くの若者が自分の夢を捨てただろう。実態として移動しずらい社会制度そのものに疑問を持つ事はないのだろうか?
少なくともニュージーランドでは、年老いた親は社会が面倒を見ると言うルールがあり、リタイアメントビレッジという決まりが定着している。詳細は省く。リタイアメントを書き始めると、到底この紙面に収まらないからだ。
他にも日本にはたくさんの「見えない束縛」がある。年金制度は国民にとって「飴」であるが、その代償として若いうちから強制的に金を払わせるという「鞭」が並存する。
誰しも折角払ったものは取り戻したいから、移民する時に年金がどうなるのか心配する。ましてや支払った年金さえも受給出来なくなるかもしれない。
しかしニュージーランドの社会福祉制度では「受益者負担」という考えが無い為、一度も年金を払わなくても受け取る事が出来る。
何もニュージーランドの社会制度を絶賛するわけではないし、この国にも様々な問題がある事は当然理解している。しかし両国を「県」として比較してみると、あなたはどちらの県に住みたいだろう?
東京でも区によって税金や手当てが違うように、ニュージーランドと日本の税金や社会福祉が違うと思えば、どちらが住みやすいだろう。
勿論、新しい国の新しい文化を理解出来るだろうかという不安はある。そういう人は自分で自分の人生を選択すればよいと思う。馴染みのある日本がよいと思う人もいる。日本を良くしよう、そう思って政治家を目指す人もいるだろう。また、新しい文化に不安な人は移動する必要はない。
しかし少なくとも、移動の自由は転職の自由と同じであり、福岡で生まれ育った人間がよりよい条件を求めて東京で働くように、日本で生まれ育った人がニュージーランドに自由に移動して生活が出来る、そのような環境を整える事が社会の使命の一つではないだろうか?
「日本に生まれ育った恩義を忘れたのか?」そのような理屈で人の自由を縛る事はやめてほしい。「俺をこの国に住まわせたいなら俺の住みやすいように国の仕組みを変えてくれ。政府が国民を選ぶんじゃない、国民が政府を選ぶんだ」
国家は亡くなっても山や河は残る。そして僕らが愛してやまないのは、子供のころに毎朝眺めた緑の山であり、釣りをしたきらきらと光を跳ね返す美しい河であり、少なくとも今の政府やそのシステムではないと言う事実を、もう一度目を開いて見直して欲しい。
みゆきはアイデンティティとしての「国」は持っているが、拘束される意味での「国家」は持っていない。今、日本人は海外に住むかどうかの段階で議論している。彼我の差は大きい。
江戸時代末期に坂本竜馬と言う日本人が誕生した。そして今みゆきはアジア人として生活している。みゆきの子供が生まれる頃には、地球人が誕生するのかもしれない。
新日本人の誕生はこれで終了します。