1996年 僕の起業日誌
2005年08月16日
日本語電報配達します!
携帯電話事業がある程度動き始めた1998年、オーストラリアから突然電話があり、電報の配達をしてくれる人を探しているとの事。詳細を聞くと、日本のKDDI(当時)が行っている、日本から海外へ電報を送るサービスであった。
KDDIでは海外から国内へ、国内から海外への日本語電報サービスを行っており、主に日系企業や政府が、弔電や祝電を送るのに利用していたのだ。クライストチャーチで行われる日本人カップルの結婚式には、一回で10通程度まとめて配達した記憶もあるくらい、日本では伝統的なサービスの一つ(当時)であった。
オセアニアで電報の配達網をKDDIから一括で引き受けていた方が、NZで配達網を展開するのに必要な条件は、現地で日本語印刷が出来る事、週末も配達可能な事だった。
幸いな事に当社は365日営業であり、配達も携帯電話でノウハウがあるから、現在のインフラをそのまま転用してサービスを開始する事が出来た。最初は私も配達要員で、郵便を持って土曜の午後にオークランドから車で1時間ほど離れた郊外の牧場に配達に行った事もある。
このサービス、eメイルが普及すれば終了するだろうと思ってたら、何と今も息長く続いている。日本人のメンタリティなのか、お上が命令するまでは止めないのだろう。このビジネスがその後、全く違う展開をしていくのは、偶然というか運命を感じざるを得ない。
2005年08月15日
聞かれて不思議に思う事。
起業家としてよく聞かれる質問がある。
どうやって成功したのですか?
しかしこの質問は、どうも違和感を感じる。というのは、実はまだ僕はまだ成功していないからだ。何故ならゲームは終了していないからだ。
例えば、野球の3回裏で相手チームに5点差で勝っているからと、その時点で勝利と言えるだろうか?確かに前進はしている。でも結果は、終わった時点がすべてなのだ。価値もしていないのに勝利インタビューを受けるようなものだ。
徒手空拳で会社を立ち上げて、努力と幸運で何とかここまで成長させたが、まだゲームは終わっていない。始まったばかりだ。最後の最後に、失敗するかもしれない。失敗した後にはみんなから言われるだろう。「彼も一時期はよかったけどね」
だから起業家として現状を説明する事は出来るが、成功していかという質問に対してはNOと答えるしかない。ゲームは、終了した時に答が出る。まだゲームは終了していない。
最後に立っている男にならねばと、毎日緊張の連続である。僕の場合、この緊張感が、健全な危機感と努力を生み出す源になっている。
1997年 レンタル携帯電話開始!
ツアーガイドの仕事が順調に始まり、次のビジネスがないかと探した。
町を歩くと、当時ワーホリや留学生の間では、通信連絡と言えば公衆電話かホームステイの電話しかなく、異動の多い彼らは連絡を取るのに不自由している事に気付いた。
時代をもっと遡れば、日本の携帯電話も1980年代はNTTからのレンタルとなっていたのが、買取式になって爆発的に増え、写メールとフォーマの開発で国民のほぼ全員が持つようになった。
NZも同時期に買い取り式が発達したものの、ワーホリや留学生など、1年以内の滞在で仕事がない人は、後払い式の携帯を買う事が出来ない。また、買っても、帰国する歳には売らないといけないという事情の中で、携帯電話レンタルのビジネスを思いついた。
しかし、調べて見ると、既にクライストチャーチで日本人がこのビジネスを提供している。その人の場合は旅行会社ツアーへの有料レンタルが中心で、学生向けにも貸し出しをしていた。
そこで、彼が器材を準備して、オークランドでの貸し出しや回収は当社が行い、当社は配達、回収などの固定費で利益を出し、彼らは通話料金から利益を出すというビジネスモデルを構築した。
このモデルの良い点は「みんなが利益を得る」という事だ。テレコムからすれば利用客が増えるし、顧客からすれば個人で持てない最新携帯電話が使えるし通話料金も個人で契約するのと同じ金額、日本の親からすればいつでも子供に直接連絡出来る、そして当社も利益が出るという事だ。
このビジネスは、当初有料レンタルだった為、お金に余裕のあるツアー会社からが中心で、学生市場にはなかなか広がらなかった。
しかし、ビジネス開始から約2年後、クライストチャーチの会社がレンタルビジネスを停止する事になり、当社に無償で譲るという話が出てきた。そこでレンタル器材の仕入れから貸し出し、クライストチャーチオフィスを設立して、南島でもレンタルビジネスに対応出来る仕組を作った。
同時にその時点から、レンタル無料というビジネスモデルを構築した。それまで貸し出し費用が利益の中心であったものが、台数を大幅に増やす事でテレコムから通話料金の大幅割引をもらい、お客様が支払う通話料は個人が使用する金額と同じでありながら、無料で短期間からレンタルが出来るという事で、爆発的に利用が広がった。
同じ通話料金で、短期間から無料で最新機種レンタルが出来る!このキャッチで、当社独占だった市場を、更に拡大する事に成功した。
しかしどんなビジネスにも寿命はあり、最近は携帯電話も、滞在期間の短期化による日本からの電話持込や、現地でプリペイドを購入する状況に変化しており、またNZドル高によりワーホリ数も減少傾向で、今後はレンタルビジネスも大きく利益を生み出すとは考えにくい状況だ。
またまた次のビジネス商材を探さねば。経営者は、今の仕事よりも2年先の仕事を見つけるほうが重要だという事を認識させられる時だ。
2005年05月31日
1996年 白手起家
白手起家
私がオークランドで起業したのは1996年10月。とは言っても資金ゼロの状態で、手元にあるのはNZのタクシー運転免許証と永住権のみでした。
就職も一時は考えましたが、コネも資格もない状態で採用されても、生活するに足るだけの給料はもらえそうになく、それ以前に、就職先もなかったのが実情です。
今のNZ景気からすれば嘘のような話ですが、本当に仕事がありませんでした。
そこでまず最初に始めた仕事が、自分の得意分野である旅行=日本人向け観光タクシーだったのです。ガイド会社や旅行会社に見積もりを送り、急に発生した仕事や、誰もやりたがらない、安い半端仕事ばかりこなしてました。
そうこうするうちに、97年になってやっと本格的な仕事が入ってきました。送迎サービスです。
毎朝4時に起き、ホテルでお客を乗せて空港へ送る。そのまま日本から到着するお客を国際線で拾って、国内線に乗り継ぎさせる。そして国内線に到着したお客に市内観光をご案内しながらオークランドのホテルへ送り、チェックイン。その後ディナートランスファーという、レストランへの往復送迎をすれば、大体一日が終わりだ。終了は9時頃。
自宅に戻ってからパソコンで次の企画書作りだ。寝るのは毎晩12時過ぎ。土日が忙しいので、結果的に週7日働いた。平日の仕事の合間を縫っては、旅行会社等に企画書を提出したりして、少しずつスタッフを採用して、会社の規模を拡大していきました。